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昼前、家人たちはみな出かけてしまった。玄関の鍵をかけておきましょうかと言うので、そうしてもらった。私は仕事場に閉じこもりきりである。 表紙絵のほうは、まだ着手したばかりだが、予定どおり進んでいる。 が、2時頃、予想外の連絡が入った。集合画集用の新作を10月15日までに準備してほしいと言うのだ。エッ、15日? というわけで、15日の同日〆切が3件重なってしまった。 画集用の新作はほとんど完成まぎわまで来ているのだが、部分的にまだ迷っている。この作品は画集に発表しておきたいけれど、出してしまうと、あとで直すわけにゆかない。それでグズグズしていた。しかし、もう時間を見ながら決断の筆をはしらさなければならない。タイヘンダー、尻に火がついた!
Sep 30, 2006
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夜9時から10時50分までNHK・HVで「漆聖 松田権六の夢みた世界」を見ていた。昭和30年に最初の人間国宝になった漆芸家である。私は漆器が好きなので、ずいぶん若い頃から松田権六氏の作品に憧憬の念をいだいてきた。 私の漆器好きは、中学・高校生時代を過した会津若松が漆器の産地だったことも影響しているかもしれない。私が住んでいた近所には、木地師の自宅兼仕事場があった。荒削りした椀木地を塔のように積み上げて陰干しする光景が、今でも目裏によみがえってくる。昨年会津若松を訪ねたおりに、そのあたりに行ってみた。が、もう木地師の仕事場はなくなっていた。中学の級友には塗師の子供もいた。 ちなみに「小椋」という姓は、木地師をルーツとしている。級友のなかにも数人の「小椋」姓がいた。一人は材木商の息子だった。私は中学1年のとき、彼といっしょに山下清氏に会ったのだった。48年前のことだが、小椋君は憶えてはいまい。 その当時、我家では漆器を贈答品にすることがあった。両親とは離れて住んでいたので、母が手紙で私にそれを選ぶようにと言ってきた。私は白木屋の展示室にゆき、一通りながめてから、予算にみあう美しい漆器をもとめ、遠く離れた両親のもとへ送るように手配したものである。両親は中学生ながら私の漆器を見分ける「センス」に一目置いてくれたのだろう。 そんなわけで、人間国宝・松田権六氏のお名前も、いつのまにか私の知識になっていた。作品の実物を見たのは、大学生になってから。東京の三越百貨店で毎年開催されていた「日本伝統工芸展」においてである。私は小さな棗(なつめ:抹茶入れ)を忘れることができない。その美しく凛としたたたずまい。まさに気品である。他を拒んでいるのではあるまい。おのずと他を寄せつけない孤高の品格なのだ。このような「物」を造り出す人に、私は憧れた。 私がこれぞと胸打たれた漆芸作品をあげてみようか。 松波保真・作 乾漆千段巻中次(東京国立近代美術館蔵) 乾漆十八弁菊形中棗(文化庁蔵) 山本光甫・作 乾漆喰籠(石川県立美術館蔵) 乾漆菊花鉢 増村益城・作 乾漆菓子器(東京国立近代美術館蔵) 乾漆溜塗喰籠「亀甲」 田所芳哉・作 乾漆八稜盛器 佐藤阡朗・作 ぼかし塗大鉢 角偉三郎・作 練金文合鹿椀 角氏のこの合鹿椀はまるで戦国武将の趣きのある男性的豪放さがあり、上述の作家のなかではいささか特異な存在。私はその鎌倉時代を彷佛とさせるような作行きが好きだ。 松田権六氏は亡くなられて20年になるという。しかしテレビの映像を見るうちに、私の内心は昂揚してきて、細胞がムクムクと新しい芽をふくようだった。それはエロティックなと言ってもよいような、何かを生み出さずにはおれない、・・・そのような作用をおよぼす、松田氏の美の力だった。
Sep 29, 2006
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予定通りきょうから彩色に入る・・・はずだったが、そうは問屋が卸さない。入ったは入ったのだが、技法的に水と油を併用しようとしている。それで水の部分の下地に仕掛けを施さなければならない。そこのところがちょいと時間がかかる。自然乾燥を待たなければならないので、さきほど見たところ、まだ濡れていた。これが乾燥すると、部分的にある媒材を塗り、その後にいよいよ描写になる。これはいわゆる水の部分。描き終わったところで、次に油彩に入るのだが、その前に、三たび油彩の下地を水の部分を除けながら施す。この下地は、最終層の色に深さを出すための準備である。 こんどのシリーズの絵のコンセプトとして、現代的な「軽快感」とJ・D・カーの本質的な「重厚感」との共存を考えている。これもまた水と油のような関係だ。その共存のための解決策が、見た目の新しさとなれば、私としては成功なのだ。 絵のコンセプトと技法とが、「水と油」をキー・ワードにして、重層する。つまり観念と現象とが、互いに目配せしながら抱擁する画面・・・それこそが、私の作品。フフフ、作者がワクワクするわけがお分かりいただけるだろうか。
Sep 28, 2006
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午前1時を回ったところ。仕事の手を休めて、コーヒーを入れた。私は一日3,4杯も飲むコーヒー好き。3種類くらいは常備している。モカとキリマンジャロとブルー・マウウンテンがあったので、キリマンジャロにした。 さて、J・D・カーの『盲目の理髪師』は、ようやく下絵ができた。これは、シリーズのデザイン・コンセプトを決定するものだけに、時間をかけてあれこれ考えていた。読者が一目見て、「新しくなった」と思ってもらわなければならない。さらに、年々歳々の時間を越えて行くものでなければならない。旧版は24年間持った。よくぞという感慨がある。いや、これはもう、読者のおかげ以外のなにものでもない。ありがたいことだ。 下絵を描きながら、キャンヴァスの下地をつくっていた。紙ヤスリをかけてから水溶きしたジェッソを塗り、乾いたらヤスリをかけ、再びジェッソを塗る。それを繰り返しながら徐々にジェッソの濃度をあげてゆく。 明日からはいよいよ彩色にとりかかる。その作業をしながら日本の作家たちのアンソロジーのための下絵をかためてゆく。こちらは文庫ではない。一般単行本のいわゆる四六判である。 この2作をやっている間は、ほかの仕事は少しお休み。 銀座のある有名文房具店で明日から来年用のカレンダー・フェアが始まるという。おいおい止してくれよ、という感じだが、私も描きかけの作品数点、年内には仕上げなければ。時の過ぎるのが早い早い。
Sep 27, 2006
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午前10時、修理が終わったプリンターが届いた。送り状を見ると、あれ? 「正しくインストールされました」とあり、ドライバが使う追加ファイルとしてWindowsのファイル名がずらずら30も並んでいる。これはどういうことかいな。私のコンピューターのOSはMacなんじゃが。 メイカーの専門家がやったことだから、大丈夫なんじゃろう。と、接続し、テスト・プリントをしてみようとした。ところが「接続していない」だの「セレクターを選択せよ」だのの表示がでる。そこで一度電源を切り、最初から丁寧に確認しながら接続をやり直してみた。そしてMacドライバ・インストラーで再インストール。・・・テスト・プリントを行なうが、印刷ページのスプールまではうまくゆくけれど、いざ印刷にかかろうとすると「実行不可」。 そのうちにCDドライバの挿入口が作動しなくなってしまった。使用したインストーラーを取出そうとすると、使用中のアプリケーションを閉じてくれときた。そんなものは使っていないのに。 わがコンピューターは、すっかり調子が狂ってしまったのだ。イヤー、よわりました。 しばらく取っ組み合いをしてから、ハタと思いついた。OSそのものを再インストールしてみては、と。CDドライバは使えないので、ハードディスクを開き、そこからOSファイルを見つけ、OSのインストールをやり直した。25分ほどで完了。そして設定のやり直し。再起動。セレクターでプリンターポートに設定し、再起動。 プリンターを試行。印刷開始アイコンをクリック。さあ、どうだ。 ページをスプール。プリンターの中でインク・カートリッジが移動している。オオー!用紙が入ってゆく! というわけで、ようやく正調に復しました。いやはや、どのくらい時間を食ったことか。いま、コーヒーをいれてひと休みしているところである。
Sep 26, 2006
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快調に作動していたプリンターが突然警告音を発して止ってしまった。「排インクが満杯になったので修理をせよ」という表示。その後は如何に再操作しようとも、「ピッピッピッー」のみ。二進も三進も行かなくなった。クソーッ、この忙しい時に! 仕方がないので修理に出すことにして、午後、メイカー直営のQRセンターに運び込んだ。明日午前中に、完成品を自宅まで届けてくれるとのこと。ちょうどサーヴィス週間なので、送料は無料だそうだ。 スピード修理に一安心したものの、しかし、排インクの清掃くらい自分でメインテナンスできないものだろうか。それほど特殊技能でもないと思うのだが。 私は装丁の印刷所入稿用の完全版下データを自分で製作する。それは出版業界の製作システムが、あるときを境に大きく変ったからだ。生き残って行く為には、従来の絵筆一本から、プラス、コンピューターの製作に切り替えなければならなかった。グズグズしている暇はなっかった。条件によっては中間業者を抜いて、すべて私自身が一貫して引き受けてしまうというシステムである。60歳を目前にひかえてのこの変革。それまでコンピューターのキーボードにすら触れたことがなかった。しかし、専門学校に通う事もなく、完全独習で、たちまち何の苦もなく新しい技術を身につけた。のみならず、その後は、仕事をしやすい動作環境を構築するため、メモリを交換したりCPUドーター・カードを増設したり、ポートを増設したり、その他諸々すべて自分ひとりでやってしまった。 そんなわけだから、いま、排インクが満杯になったくらいで、何時間もかけてQRセンターなどに修理を依頼することに疑問をいだいてしまう。購入時の構造説明パンフレットにでも、「ここをこうして、あすこをどうこうすれば、排インクの掃除ができます」と記述しておけば済みそうでかないか。 どっちみち、ここでささやかな修理費を稼ごうというのだろうが、コンピュターとその周辺器機のメーカーって実にセコイよね。そう思いませんか、みなさん。 そんなこんなで時間を使ってしまったが、ついでだから新宿の紀伊国屋書店に立ち寄った。今月28日まで、絶版文庫をあつめてきて売っているのだ。どんな品があつめられているか、覗くだけでも覗いてみようというわけ。 しかし、私が覗くだけで満足するはずがない。そんなこと自分でも最初からわかっている。悪癖だと思っているので、騙しているわけですね、自分を。 手当りしだい価格を見てみると、一律1280円。なぜ一律なのだろう。古書価格の付け方としてはいささか不自然。書名から判断して、割高と思えるもの、適正と思えるもの、安いかもしれないと思えるもの、・・・当然ありました。 私が選んだのは次の2册。 エルンスト・トレルチ『ルネサンスと宗教改革』(岩波文庫、1959初刊、1977年版) これはトレルチの最重要論文。とかくルネサンスと宗教改革が同根のように説かれるけれども、トレルチは、それが互に別のルーツをもちながら「出会った」のだということを論証している。この文庫は他に『近代のルネサンス概念の発展』と『啓蒙主義』を収める。 武田祐吉編『神樂歌・催馬樂 (附 東遊・風俗)』(岩波文庫、昭和15年版) 本書は、奈良時代から平安時代中期にかけて現れた数多くの民謡のうち、宮廷を中心とする当時の都人士の手により、おもに一つの儀式を機縁として後世に残された少数のものを、なるべく遺漏なく書き集めたいわば1册のノートである。 神楽歌として最初にこんな歌を置く。 深山(みやま)には霰(あられ)降るらし 外山(とやま)なる正木(まさき)の葛 色著(いろづ)きにけり 催馬楽にはこんな歌も・・・ 角総(あげまき)や とうゝゝ 尋(ひろ)ばかりや とうゝゝ 離(さか)りて寝たれども 轉(まろ)び合ひけり とうゝゝ か寄り合ひけり とうゝゝ 新宿もしばらく歩き回っていなかった。昔の東映会館が、何か新しい映画館ビルにでもなるのか、来年のオープンをめざしてすでに外装はできあがっている。新宿駅南口のサザンテラスにJRの新しい出入り口ができあがっていた。といっても、これはオープンしてもうだいぶ経っているのだろう。南口駅前通りが随分以前から大きな工事をしていた。それで私はそこを通らず、迂回していたので、オープンを知らなかった。 帰りに寿司屋に寄り、家人にお土産の折詰を買った。 秋の日は釣瓶落しと言う。帰宅したときにはすでに薄墨色に暮れていた。
Sep 25, 2006
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長年ミステリー小説の装丁をやってきたので、それなりに数多くのミステリーを内外問わず読んで来た。ミステリー.ファンと自称するのはおこがましい。なぜなら、仕事上で出会うミステリー専門の編集者のその方面の知識たるや、時にこちらが呆気にとられるほど、微に入り細に入るたぐいのもの。とてもファンだなどと言って互角に張り合えるものではない。彼等・彼女等はもちろん少年時代からの読書家ではあるのだが、各大学のミステリー・クラブの中でもとびきり「お宅族」の集まっている有名クラブで一層鍛えられて、その挙句の編集者稼業。あるいは作家になり、評論家になっている。この分野、そういう「お宅族」でなければ勤まらないのかもしれない。 ミステリー小説とひとくちに言うが、これが成立するには、じつはその国の政治的社会体制がおおきく関わっている。まず、かつての共産主義国や社会主義国では発生しなかった。現在では表向きそのような主義をとっている国も、よほど締め付けがゆるやかになり、警察が国民の信頼をかちえているところではミステリー小説も生まれているようだ。つまり、ミステリー小説、その分野でも特に本格ミステリーというのは純粋に遊びの世界、ゲームの世界であるから、まず社会体制が安定し、作者・読者ともに精神的にも経済的にも余裕がなければならない。そしてそのゲームは犯罪追求を目的にしているので、警察が基本的には国民に支持されていなければならない。たとえ悪徳警察官が登場しようとも、警察組織そのものは自浄システムがはたらくものであり、いわば勧善懲悪の実現が約束されていること。かつての共産主義国や社会主義国は、陰謀や国民相互監視を強制されていたため、社会正義を見定めることが不可能にちかく、それでは勧善懲悪のゲームは成立しないのである。 「精神的にも経済的にも余裕がなければならない」と述べたけれど、甲南大学経済学部教授・高橋哲雄氏がその著『ミステリーの社会学』(中公新書、1989年刊)でこんなことを言っている。少し長くなるが引用させていただこう。 「・・・同じミステリー属といっても、犯罪小説や犯罪実録、サスペンス、冒険小説、ホラーなどのジャンルには、多分に近代以前の、たとえば17,8世紀のゴシック・ロマンやピカレスク・ロマン(悪漢小説)の再現の匂いをつよく感じさせられる。本格派ミステリーはこれらの眷族の間に生まれ落ちながら、血を分けた同胞たちとはあきらかに異質の時代精神を養分として育った。ミステリー仲間のように、かたちは変っても歴史のある段階で繰り返し現われるというタイプの文学ではなく、また詩や物語のように、どんな時代、どんな場所、どんな階級の間にも普遍的に存在するメジャー芸術(アート)でもない。近代になってはじめて生まれ、アングロサクソン文化圏に偏在し、作り手(作家)も受け手(読者)も中産階級のなかで賄ってきたという特徴をもつ。いわばすみかをえらぶ、というか、気むずかしい棲息条件をもつ文学ジャンルなのだ。(略)それを楽しむことができるのは、経済的・時間的・精神的に多少なりとゆとりがあり、いくらかは教育ある人たちなのであって、近代社会に属しているすべての人たちがそうした条件をクリアできるわけではない。少なくとも大衆化時代が本格的に到来するまでは。」 なかなか簡にして要をえた分析である。いわゆる本格ミステリーがイギリスで発達したということの説明にもなっているが、日本の場合はこの説明は少し薄めたほうが適切であろう。少なくとも、イギリスのような階級格差が明確ではないので、高橋氏の説明に従えば「大衆化時代」に属するとみればよいだろう。 それにしても上の文章につづく、「ミステリー王国のイギリスでも、一般小説の分野ではロレンスをはじめアラン・シリトー、ジョン・ブレイン、デイヴィッド・ストーリー、アーノルド・ウェスカーと、多くの労働者階級出身の作家を出しているのに、ミステリーの分野では、少なくとも名前の通った労働者作家がまったく生まれていないのは、そうした事情を抜きにしては語れないだろう」という指摘は、私にはずいぶん衝撃的であった。 私は7,8年前にイギリスの犯罪史と裁判制度を調べたことがある。そして、ビクトリア朝後期から20世紀初めにかけての犯罪実録は、ディクスン・カーなみの奇々怪々な事件の連続であることに驚いた。切裂きジャックやクリッペン医師の殺人は日本でもよく知られているとおりだ。 私はいまディクスン・カーの表紙絵を手掛けながら、カーの小説はイギリスの読者にとっては私が感じるよりずっとリアリティーがあったのかも知れないと、ふと思うのである。
Sep 24, 2006
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J・D・カーの改訳新装版の第一弾は『盲目の理髪師』である。現在、私が思案しているのがこの作品。 ディクスン・カーといっても御存知ないかたもあろう。『盲目の理髪師』旧版の最終ページに作者紹介があるので、ここに引用させていただこう。 「ジョン・ディクスン・カーは1906年にアメリカに生まれた。しかしその後イギリスに居住した期間が長く、このため人名辞典などでは米―英作家と呼ばれている。推理小説に手を染めたのは1930年、25歳のときの『夜歩く』からで、これの成功が契機となって、推理小説家として創作に専念することになった。平均1年に2册半のスピードで発表し、その数は現在(1962)までに約60册、大部分が長篇で短篇は2册にすぎない。カーは純粋の謎とき作家で、数多くのトリックを創案したが、特に密室トリックの独創性においては質量ともに他の追随を許さない大家である。そしてこの密室トリックと並ぶカーの特色は怪奇趣味にある。カーは小説の背景に、しばしば魔術、怪談、残虐恐怖等のオカルティズムを使用するが、そうした超自然的背景と科学的犯罪の結合が生む異様な効果がカーの魅力ともいえよう。カーは本名のほかにカーター・ディクスン名儀のペンネームを用い、作中の名探偵もカーの場合はギディオン・フェル博士、ディクスンの場合はヘンリ・メリヴェル卿(通称H・M)を登場させているが、作風にも探偵の性格にも本質的な差異はない。このほか初期の作品に、パリの探偵バンコランが活躍する。代表作は『皇帝のかぎタバコ入れ』『帽子収集狂事件』など。」(東京創元社『盲目の理髪師』より引用) ところでこのブログを始めた頃に、私が表紙絵を製作するときの心覚えと取材のために、各々の小説の中にでてくる事項について「事典」のようなノートをつくっていると書いた。『盲目の理髪師』の項目もある。どんな事項を私が調査し、資料を収集しているか、お客様の参考のために書き抜いてみよう。ただし、項目だけですが。 『盲目の理髪師』1934年初刊。 1)定期豪華客船クィーン・ヴィクトリア号(英・サザンプトン、シェルブルグ ― ニュー・ヨーク) 2)あやつり人形 3)エメラルドの象 4)背の高い窓の朝顔口 p.10 embrasure:参Anchor p.298。 5)アダム式暖炉 6)仏詩『ローランの唄』(五脚折揚調無韻詩;ブランク・ヴァース) 7)シャルマーニュ大帝(金色鎧、緋色マント、片手に各々剣と戦斧) 8)リンカーンのゲッティスバーグ宣言、1863.11.19、p.30:参ブリタニカ14、p.51。 9)TNT爆薬、p.33 10)管弦楽曲『学生王子』 11)ラック・ネスの怪物、p.54。 12)レゲンシス・ブリブス(病名) 13)P・G・ドレ(19c、仏)の銅版彫刻、p.128。 14)タマシャンター(スコットランド人の用いる頭巾)、p.155。 15)「この一刻をのがすまじ」D・H・ローレンスがジェイムス・ジョイスに言ったことば。p.157。 16)バビロニヤのどんちゃん騒ぎ(イシュタル神の祭り)p.157。 17)喜劇映画のスタンリー・ローレル、p.161。 18)ウエストミンスター塔の時計、p.202。 19)キャザリンの車(紋章)、p.216。 20)たばこ‘ゴールド・フレイグ’ 21)ジェラルド・デリヴァル卿(紳士夜盗‘鬼火’) 22)サーディニア・トリローニー 23)ウィスキー‘オールド・ロブ・ロイ’ 24)ブラッドショウ鉄道案内 25)海事裁判所 26)ハーリー街の外科医たち、p.225。 27)ウィスキー‘ポル・ロジャー’の1915年もの。 28)W・E・グラッドストーン(William Ewant Gladstone,1809-98):参ブリタニカ8、p.460、肖像。p.518。 29)ベイカー街での名探偵コレクション、p.288。 以上の項目について私なりの調査をし、小説の細部を理解しようとしている。必ずしも絵に直接関係があるわけでない。むしろほとんどが制作時には捨てられることになる。随分無駄なことのようであるが、こういう事柄を頭にいれておくことによって、読者の想像を超えた、しかし決して小説を逸脱しない絵を描くことができるのである。ディクスン・カーは非常に考証に長けている。それに少しでも応えようというのが、私の方針なのである。
Sep 22, 2006
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仕事場の窓を開けると、サーっと風が入ってきた。馥郁と花の香りがする。何の花だろうと、しばらく風に顔をなぶらせていた。口梔子の香りににているけれど、花期はとうに過ぎて、いまは長楕円形の実をつけているはずだ。 そんなこともすっかり忘れて、午後少し遅くに2時間ほど外出した。街が、幽かとは言えないほど明らかに、あの花の香につつまれている。それとなく花の在り処をさがしたが、あちらに一樹、こちらに一樹、百日紅の濃い桃紅色の花が目につく。しかしそれらが、街全体を香りでつつんでいる存在とは思えなかった。甘い、絡み付くような香りである。 買い物をし、帰りに和菓子屋で「おはぎ」を買った。今日は彼岸の入り。亡父の仏前に供えるためだ。 昔は、我家では「おはぎ」は自家製だった。おそらく大方の家庭がそうだったであろう。小豆を焚き、糯米を蒸かして、朝から忙しく立ち働く母の姿を見ていたものである。いつの頃からか、その慣習もすっかり排してしまった。そういえば、昨日、昼食をしながら何気なくTVを見ていたところ、歌手の氷川きよしさんが、自分で「おはぎ」を作ることがあるのだと言っていた。「ホーッ!」と、私はあらためてTVに向き直ったが、「おはぎ」を食べたくなった。その後の今日である。 牡丹餅に夕飯遅き彼岸かな 高浜虚子
Sep 21, 2006
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午後いっぱい、ゲラ(校正刷り)を読んで過した。 ディクスン・カーの改訳稿はすでに読み終わったが、ところどころ確認しながら、頭のなかに生まれてくる絵を動かしている。まだ決定したわけではない。課せられた様々な条件をこなす必要十分な、いわば着地点も探さなければならない。装丁および表紙画というのは、沢山な制約のなかで成り立っているものである。その制約を喜んで引き受けることができるからこそ装絵画家。自分の気ままにしか描けないという人は、装絵画家には向かないだろう。 J・D・カーのゲラの次は、「J・D・カー生誕百年記念アンソロジー」の日本の8人の推理作家のゲラを読みはじめる。 こちらはもちろん初読である。読者諸氏にはまことに申し訳ないが、編集者と私が、まずイの一番の読者というわけ。私の方針として、どんなに時間が短く限られていても、必ずゲラを読ませてもらう。絵のイメージをつかまえるためではあるが、そのイメージを私自身がどれだけ自由裁量できるかを知ることが、私にとっては最も大切なのだ。言い換えれば、沢山な制約のなかで私が「遊ぶ」範囲を見つけるためには、絶対的に小説の中身を完全に把握していなくてはならない。私は説明的な絵を描くつもりはないので・・・(それは読者の楽しみを奪うようなもの。読者に対して失礼だと考えている。)・・・それ以上やると小説を逸脱してしまうだろうギリギリのラインを、頭のなかと気持に叩きこむ作業である。 8人の作家とは誰? このブログのお客様だけにお教えしましょう。(アイウエオ順) 芦辺拓氏 『ジョン・ディクスン・カー氏、ギデオン・フェル博士に会う』 柄刀一氏 『ジョン・D・カーの最終定理』 加賀美雅之氏『幽霊列車の殺人』 小林泰三氏『ロイス殺し』 桜庭一樹氏『少年バンコラン! 夜歩く犬』 田中啓文氏『忠臣蔵の密室』 鳥飼否宇氏『幽霊トンネルの怪』 二階堂黎人氏『亡霊館の殺人』 Oh! マニアック! いずれもD・カー・マニアならニンマリしてしまう趣向がそろっている。おもしろいですよ。是非お楽しみに。
Sep 20, 2006
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今年がディクスン・カーの生誕100年にあたることは、先日も書いた。そしてこれを機会に東京創元社は、カー作品集成を改訳し、装丁もあらためて、順次刊行してゆくことになった。旧版25册は私が表紙絵を担当している。一番最初に手掛けたのは『テニスコートの謎』だった。それからすでに24年が経過した。今回、新装版も私が描かせていただく。 ところで東京創元社は、ディクスン・カー生誕100年を記念して、もうひとつの企画を用意している。わが日本の推理小説界の名うてのカー読み作家8人が、ディクスン・カーへのオマージュとして執筆した短篇を、アンソロジーとして1巻にまとめ、誕生日の11月に刊行するのである。ディクスン・カー・マニアは大勢いるが、彼等のみならず、ミステリー・ファンとしては嬉しい企画だ。担当編集者は古市女史。 さらに嬉しいことは、この記念アンソロジーの装画家として、私を招いてくれたことだ。 2册同時〆切りなので、いまや私の頭のなかは、あっちにスイッチング、こっちにスイッチングしながら、どんな絵を描こうかと想像をひろげているところである。
Sep 19, 2006
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台風の影響であろうか、蒸し暑い一日だった。夜、幻想小説家の花輪莞爾氏から電話。避暑地から東京に戻ったとのこと。ひさしぶりだったので、何だかんだと1時間40分話し込む。 われわれは幻想小説家と幻想画家であるが、お互いの話ぶりは曖昧さを残さないように話題を詰めていく傾向がある。だから話がはずむと長いのだ。ハハハハ。互の仕事のこととか、出版界の様子だとか、ほんの少し芸術的なこととか---。私はめったに自分の作品説明などしないのだが、長いつきあいで気心が知れている花輪氏には、作品の底に秘めたことなどを話すこともある。花輪氏もまた、小説の意図が読者に意外な解釈をされていることなどを、花輪氏本人に寄せられたコメントを引き合いに出して話される。 二人とも幻想作家と言われるけれども、見つめている世界はまったく異なる。発想方法も作品構築方法も異なる。それは、小説と絵画という分野がちがうためというより、もっと何か根本的な問題のような気がする。つまり、こうすれば芸術になるのだという、その見極めのための道筋が、お互いに全然違うのだ。ただ共通するのは、作品構築の過程がきわめて論理的だという点である。そして、細部に対してノンシャランス(nonchalance;無頓着)ではいられないタチなのだ。 花輪氏が所蔵する私の作品が避暑地の別荘に掛けてあるのだそうだ。その部屋に入るたびにハッとする、と言ってらしたが、私としては何より嬉しいことを聞かせていただいた。
Sep 18, 2006
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一寸延ばしにしてきたわけではないが、どうやら三島由紀夫の自作自演映画『憂国』について、私の覚書を記すときがきた。もったいぶっているのではない。昨日書いたように、1966年4月の劇場公開時に見て、その後40年間、記憶を確認する手立てが一切なかったからである。現在のようにヴィデオ・テープやDVDがあればまだしも、パンフレットさえなかった。 三島由紀夫の自死後、夫人はあたかもその予行演習のような感があるこの作品を封印してしまい、巷間にはフィルムがすべて焼却されたという噂まで出回った。私自身はこの流説にはまったく懐疑的だったが、少なくとも夫人の強い意志で、映画『憂国』を一般人が見る機会は失われた。英語版やフランス語版が製作されていたので、それらから無断複製したと思われる画質の劣化したものを、秘密裏に所持したり、アンダーグラウンドの映写会が開催されることもあったと聞いた。私が焼却説を納得しなかったのは、夫人の聡明さを信じて疑わなかったからだ。 私がかつて三島氏にお目にかかったとき、そばに夫人もいらした。夫人は他の客の相手をしており、私とは背中合わせのような位置においでだったので、言葉を交したわけではない。このときの夫妻は揃ってブルーグレイの同系色の服装だった。夫人のほうがややグレイが強いテーラード・スーツで、頭の先から爪先まで寸分のスキもない装いだった。私はといえば忘れもしない、白地に薄いベージュの大柄な格子の入ったモヘアのジャケットを着ていた。私はちらちらと背後に目をやり夫人を見ていた。何か固さのある頬をして、昂然と頭を掲げている風だった。 私はそのときの夫人の姿をいつまでも忘れなかった。仲の悪い夫婦だったという野坂昭如氏の指摘がある。後に多くの風説と戦い、また三島のプライベートな部分へ言及した刊行物に対して、一切の遺漏を許すまいと自ら誓ったごとく、訴訟にもちこんで戦っている報道に接するたびに、私は自分の目で見た夫人の姿を思い出した。思い出したからと言って何か分るわけでもなかった。が、ただひとつ、作家三島由紀夫が創作したものだけはそれが如何なる物であろうと、この人は決して滅却しはしないだろうと、ほとんど確信のように私は思ったのだ。この夫人のプライドは、自分への裏切りにさへ裏切りという言葉を噤ませてしまう態のものだ、と。 じつは昨年の8月、サンケイ・スポーツ紙が、『憂国』のネガ・フィルムが三島家で発見されたと報じた。その後新潮社版全集の付録としてDVD化された。私はそのDVDを所持していないし、見たこともないのだけれど、「やはり夫人は焼却などしなかったのだ」と、かつての私の確信に似た思いをふりかえったのだった。 長い前説となった。そういうわけで、40年前の記憶をもとに映画『憂国』について述べようとしている。 監督・製作・原作・脚本・美術;三島由紀夫。演出;堂本正樹。撮影;渡辺公夫。出演;三島由紀夫(武山信二中尉)、鶴岡淑子(妻麗子)。 三島由紀夫は八面六臂の活躍である。どうしても撮りたくて、ポケット・マネーで製作したのかもしれない。白黒フィルム、上映時間30分弱の短篇。 【あらすじ】 近衛聯隊の武山中尉は新婚だからという友の情けで、2.26事件の決起からはずされた。しかしその反乱軍を処罰せよとの命令が下ったのである。国と友情との板挟みになった武山中尉は切腹によって自決し、それを見届けた後に妻麗子も自死することを決意する。二人は死を前にした最後の性愛を営み、このうえない悦楽の高みに昇る。やがて軍装を整えた中尉は、白衣に着替えて端座する妻の前で軍服をはだけ、切腹して果てる。そして妻もまた血みどろの夫の屍体のうえに折り重なるように倒れるのだった。 映画は冒頭で、巻物がひろげられ武山中尉が切腹を決意するまでの経緯が毛筆でつづられる。この作品はセリフが一切ない無言劇である。バックミュージックとして、終始、ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』が流れている。セットはほとんど何もない。能舞台のようである。事実、堂本正樹の演出は能を意識しているのだ。武山中尉が登場する帰宅シーンは、軍帽を目深にかぶり、ただ口許と顎だけがのぞくだけで表情がまったく見えない(表わさない)。その姿は、能面で素の表情を殺いだシテが橋掛をしずしずと歩む姿に重ねられている。演出としては非常に巧みである。この登場場面で、この映画の様式を完璧に提示してしまっている。 そのような抽象的な舞台で、武山中尉と妻麗子の全裸の性愛がくりひろげられてゆく。カメラは演じる三島の鍛えられた肉体を嘗め、愛撫する麗子の表情がしだいに昂揚してゆく。とはいえ、三島はやはりアマチュア、性愛の情感をその肉体に表現することは無理というもの。裸体すなわちエロティシズムではない。 そして切腹のシーン。「誠」という掛け軸の前に武山中尉は坐す。その右斜、向かい合うような位置に妻麗子が坐る。これもまた能の形である。麗子はツレである。 このシーンは凄絶である。武山中尉は軍衣をくつろげ、作法に則り、左の脇腹に刀を突き刺す。真一文字に引いて腸を切断し、右の脇腹までもってきて刃先を上に向ける。ものすごい血が迸り、臓物がとびだす。(観客席は固唾を呑むというより、辟易してグェと声が洩れたものだ。) 日本映画の時代劇のなかで、私はいくたびも切腹シーンを見てきた。たとえば『切腹』という小林正樹監督作品(1962)。世の中が安定して戦もなく、仕官の道もなく、困窮した浪人侍が武家屋敷の玄関で切腹させてくれと申し出る。金を貰う魂胆なのだ。切腹といっても、刀身はとうに売りはらって竹光(たけみつ)である。ある屋敷でいつものように切腹を申し出ると、「どうぞ」という返事。竹光であることを見抜かれていた。引くに引かれなくなった浪人は、その竹光を腹に突き刺して悶絶する。---そんな作品もあったが、いまだかつて臓物が飛び出る映像は見たことがなかった。映画史にもないのではなかろうか。その点では特筆に値する。 三島は渾身の演技である。このシーンが撮りたかったことは誰の目にもあきらかで、それしかない映画といってもよい。 三島の自死後、11年経て、母堂が『週刊宝石』(昭和56.12.5)で「あの子がしたかったのは、この事だった」と述べた。母堂は、自死直後にも、親しい弔問者に同様の言葉を述べていることは、それらの客が書いたもので早くから一般に知られていた。この、母堂の「この事」というのが、どの事なのかは、厳密に問うと曖昧だ。自衛隊司令部において決起を呼びかける事なのか、呼びかけた後に自決する事なのか、それとも切腹して果てる事なのか。 世に切腹マニアという人達がいる。それをとやかく言うつもりは私には全然ないが、彼等(彼女等)は兎に角切腹ゴッコが大好きで自らの腹に突き刺すまねをしては「アアアー」「ウウウ」とやっているのだとか。三島もそうだったといわれている。映画『憂国』の演出をした堂本氏もそのような証言者のひとりである。私は、私が目を通した様々な文書から総合的に判断して、「この事」とは「切腹」であると解釈している。 それはともかく、彼の情念がつくり出したこの切腹シーンによって、じつはこの『憂国』、見られる映画になっていると言っても過言ではあるまい。30分という長さにしてはカット割りが多すぎるという欠点はあるが、それはアマチュアが演じているのだから、長回しなどできるはずがない。そのため情感の盛り上がりが殺がれるという怨みはあるのだ。しかし、この映画は、何かを撮ってしまっている。人間の何かとんでもない真実を。それは物語とは全く関係がない。映画芸術としての表現の過剰(やり過ぎ)が、ストーリーを超えて、人間の常ならぬ情念を捉えてしまった。三島由紀夫の小説は、『憂国』以後は、物語はお膳立てにすぎなくなったというのが私の見方なのだが、その小説を映画化した本作品は、そのことが一層あらわになっていると思える。だから、私がこの作品が映画表現として見るべきものがあると言うのは、むしろドキュメンタリー映画が捕捉する「真実」、曰く言いがたい人間の一面を映像として捉えることができたというに等しい。 40年ぶりに記憶の映像を掘り起こしながら述べた。三島由紀夫のつくった映像はいまだ色褪せずに蘇ってきた。そのことだけでも、端倪すべからざる短篇映画だと言えるかもしれない。DVDで再び見ることがあれば、また別な考えが生まれるかもしれないけれども。
Sep 17, 2006
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いつも同じ品揃えなので期待もせずに入ったDVD店で、思いがけずブニュエルの『小間使の日記』を見つけて購入した。主演はジャンヌ・モロー。ジャンヌ・モローとこの映画については、5月17日のブログでふれた。そのときは彼女の舞台劇『ゼルリンヌの物語』について述べたので、『小間使の日記』については文字どおりただ触れたにすぎなかった。 私はこの映画を初公開時に映画館で見ている。1966年4月、今はない東京・新宿のアート・シアター・ギルド(ATG)蠍座で、三島由紀夫監督・主演の『憂国』と併映された。プロフェッショナル中のプロフェッショナルな映画作家ルイス・ブニュエルの作品と、アマチュア監督三島由紀夫の作品との併映というプログラムは凄まじい。ATGは三島にゴリ押しされたのか。三島は、この『憂国』を演出した堂本正樹氏ともども、ATGとは深い関わりがあった。映画『憂国』については、ついでなので、後に述べることにする。 フランス世紀末の作家オクターブ・ミルボー(1850-1917)の同名の小説を映画化した『小間使の日記』は、先にジャン・ルノワール作品もあるのだが、残念ながら日本では公開されていない。しかし、『自由の幻想』や『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』、あるいは『昼顔』のルイス・ブニュエルにこそふさわしい題材と言えよう。 物語はこうだ。 セレスティーヌ(ジャンヌ・モロー)は、とあるブルジョワの邸に小間使いとして雇われる。主人は精力絶倫、召使女を妊娠させては裁判沙汰になり慰謝料をはらわされてきた。その奥様は金のことしか頭にない吝嗇家。一週間に二度も夫に求められるのにはほとほと嫌気がさしている。夫が召使女に手を出すのは意にかいさないが、その後始末の出費が腹立たしい。この夫妻の父親も同居していて、怪し気な趣味にふけっている。靴フェティストなのである。この邸の住人は、ほかに召使女二人と馭者兼庭師、そしてどうやら主人の落し胤らしい少女が召使部屋にいる。 隣家は退役軍人。両家は犬猿の仲。退役軍人は日課のように嫌がらせをしている。 そんな人間たちのなかで、セレスティーヌは利口に抜け目なく立ち働く。邸に到着し、お仕着せに着替えるや、奥様に家事の説明を受けた。大切に取り扱うように注意されたイギリス製のランプを、その日のうちに割ってしまう。叱責する奥様に、セレスティーヌは昂然と、「私が壊したのではない」と言い放つ。手を出そうとする主人を、引き付けながら拒み、老人のためには女靴をはいて部屋を歩き回ってやる。馭者兼庭師の性格に潜むサディズムも見抜く。 ある日のこと、老人がベッドのなかで死んでいた。女のブーツを握りしめながら。ひとり秘かな愉しみにふけり、興奮のあまり心臓がやられたのであろう。 セレスティーヌは老人の死を機会に、小間使を辞める決心をする。そして葬儀費用を計算する奥様を尻目に邸を去る。 ところが老人が死亡したその日、森のなかで殺人事件が起っていた。木苺摘みに森に行った例の少女が惨殺されたのだ。屍体となった少女の裸の脚のうえを蝸牛が這う。 セレスティーヌは道すがらその事件を耳にする。彼女は日頃から少女を可愛がっていたのだ。セレスティーヌは道を引き返す。彼女には犯人が誰であるか見当がついていた。庭師の仕業にちがいないと。 ふたたび邸に戻ったセレスティーヌに、庭師が言う。俺と結婚してくれ。お前と俺とは、同じ気質なんだよ。シェルブールに行って、カフェを経営しよう。結婚するまでは、俺はお前を求めはしない・・・。しかし、セレスティーヌはあの退役軍人と結婚した。 ・・・時は過ぎた。プロレタリア社会改革を訴えるデモ隊が街を行く。それを見つめるあの庭師。そばには店の女主人。彼は別な女と結婚していた。 このまさにヨーロッパ的な奇々怪々な人間像を語るブニュエルの手腕には舌を巻く。冒頭から掉尾まで、各シーンとも一切のケレン味ない映像の積み重ねが、しかし一筋縄ではいかない複雑な人間像を語りつくしてしまうのだ。いや、我々が彼等を分りきってしまうと言うのではまったくない。むしろ謎めいている。だが、それこそが、人間の厚みというもの。映画を見て、人間がすべて明確にわかってしまうようでは、映画の面白さなどはたかが知れていよう。人間存在とは不透明なものだ。不透明ながら、そこに何か本質を垣間見させるイメージの表出がある。それを捉えることができたとき、映画は偉大な一つの作品を生んだことになる。・・・『小間使の日記』を見て私がまず感じたのはそういうことだった。 殺された少女の脚に蝸牛が這うシーンは、ブニュエルがサルバドール・ダリと共同制作した『アンダルシアの犬』を想起させる。イメージもさることながら、非常に「触覚的」な映像として特筆すべきだろう。この感覚は、靴フェティストの老人が、ストッキングを穿いたセレスティーヌの脚のふくらはぎの筋肉の具合を、手でさわって確かめるところにもある。ストッキングの編み目がほつれて伝染している。じつに繊細な映像感覚といってよい。・・・私は、この映画の2年後に制作されたピエール・モリニエのプライヴェート・フィルム『MES JAMBES(私の脚)』を思い出す。この異色画家こそ、ナルシスティックな真正の靴フェティストだった。彼は『小間使の日記』を見てはいないだろうか。 私が好きな女優のひとりであるジャンヌ・モローは、セレスティーヌをひとつの典型として造形することに成功しているだろう。肉体であり精神であり女であるところの、明確なイメージを。 そうそう、この映画の技法的特長といってもよいだろうが、私はフェイド・アウト(溶暗)に注目した。画面が暗転するときに、影が射すように一隅から急速に闇が深まり、日の名残りのようにわずかな物の形を見せ、たちまち全面が闇にのみこまれてしまうのだった。それは、画面が一度に暗転するのとは違い、何か曰く言いがたい余韻をのこすのである。単なる場面転換というより、もっと心理的な効果があると思えた。 40年ぶりに見た『小間使の日記』であったが、すぐれた映像の力、特に劇場のスクリーンで見たその力は大きい。私の記憶に残っていた映像とピタリと重なった。とはいえ記憶からすっかり抜け落ちていたシーンもあった。まさに開始早々、セレスティーヌを乗せたパリからの列車が走る。車窓からの景色がかなり長い時間映し出され、物語の舞台へと運んで行く。このシークエンスが、私の記憶からそっくり失われていたのだった。 さて、三島由紀夫の『憂国』についても述べようと思ったが、それはまた明日ということにしよう。
Sep 16, 2006
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東京は雨が降りつづいていたが、ここにきて一気に気温がさがり、秋にすべりこんだようだ。夜、あたりの物音が静まると、代って虫の声がいっせいに喧しい。キリギリスもいるようだし、スズムシの声も聞こえる。 会津若松のEさんが、地元の葡萄園で収穫した巨峰を贈ってくださった。姿形の美しい、すばらしい葡萄だ。まさに秋の稔りたわわという感じがする。さっそく夕食後のデザートとして頂いた。 秋旻(しゅうびん)高し 緑水に 血潮の色をただよわし 巨塁に纏う 蔦かずら ああ 如何にせん 我友よ これは私の母校、会津高等学校の学而会歌(2番)である。学而会というのは、他校ならば生徒会というところ。秋旻とは秋の空。----秋空は高い。鶴が城の濠の緑の水面に、石垣に纏う蔦かずらが、まるで血潮の色のようだ。友よ、君は、いまどうしているのだ。 ----Eさんを懐かしく思い出しながら食べた会津の葡萄であった。 閑話休題 ガラリと話は変わるが、「カバヤ文庫」を御存知だろうか。若い方は御存知あるまい。これを知っているのはどうしたって私と同年代であろう。 昭和30年前後にカバヤ・キャラメルというのがあった。岡山に本社があった製菓会社である。このカバヤ・キャラメルが、たしか昭和27年に開始されたと記憶するが、景品としてB5判ほどの大きさの本を子供達にプレゼントした。詳しいシステムは忘れたが、キャラメルの箱のなかに入っているカードか何かをまとめて送ると、代りに本が送られて来た。それはかなりの数のシリーズで、「カバヤ文庫」という名称だった。 私の読書遍歴は、以前にもこのブログで書いたが、父のなじみの芸者京子に講談社の絵本『虫のいろいろ』をもらったことに始まる。私は4歳か5歳くらいだった。そして同じ頃、すなわち昭和24年に創刊された『おもしろブック』を購読するようになる。雑誌が発売になると、本屋が自宅に届けてくれた。連載ものの山川惣治「少年王者」や「少年ケニヤ」その他に夢中になった。いまでも「少年王者」の登場人物のひとり、エジプト王アメンホテップなどという名前をおぼえている。小学校入学前後に『子供の科学』も購読するようになった。ちょうど「カバヤ文庫」が創刊された頃と重なる。 私はその「カバヤ文庫」を10册ほど持っていた。それらの書名はすべて記憶している。ちょっと列記してみよう。 ◆アミーチス『母をたずねて三千里』 カバヤ文庫第1巻3号(以下同じ) 昭和27年8月10日刊 ◆オルコット『若草物語 ― 四人の少女 ―』 第1巻11号 昭和27年10月12日刊 ◆トルストイ『イワンのばか』 第3巻2号 昭和28年1月25日刊 ◆デュマ『謎の鉄仮面』 第3巻4号 昭和28年3月8日刊 ◆ハウフ『はなの小人』 第3巻9号 昭和28年3月15日刊 ◆ストウ夫人『アンクル・トム』 第3巻11号 昭和28年3月29日刊 ◆ゴーゴリ『隊長ブーリバ』 第3巻12号 昭和28年4月5日刊 ◆セルマ・ラーゲレフ『ニルスのふしぎな旅』 第4巻2号 昭和28年4月12日刊 ◆ピョートル・イェルショク『せむしの子馬』 第4巻10号 昭和28年6月14日刊 ◆フランク・バーム『オズの魔法つかい』 第7巻1号 昭和28年7月12日刊 このほかにも2,3持っていたように思うが、明確なのは以上だ。これを見ると、「カバヤ文庫」が全部で何巻刊行されたかがおおよそ推測できる。1巻が12册のようだから、もしそうだとすると70册以上ということになる。子供の文学集成としては立派なものだ。私が所持していたのは昭和28年に集中しているが、私は長野県南佐久郡川上村立第二小学校の2年生だった。教室には学級文庫が備え付けてあって講談社の絵本が全巻揃っていた。私は友達とグラウンドに出て遊ぶこともなく、ひとり教室に残って黙々とこの学級文庫を読破した。『百合若大臣』などいまでも憶えているが、当時の講談社絵本の刊行目録がわかれば、私が読んだ本はすべて判明する。 ところで「カバヤ文庫」の収集が昭和28年で終わっているのは、この年の9月に父が福島県南会津の住友八総鉱山に転勤となり環境が変わったことによる。いや、カバヤ・キャラメルのカードは集めていたのだが、送ったところ希望する本がなくて、代りに、まるで興味がない漫画か何かを送ってきたのだ。私は子供心に、もうこれは無駄が出ると思い、カードの収集そのものを止めてしまったのだった。「カバヤ文庫」を集めるかわりに、近くの町まで汽車に乗って出かけ、保育社の蝶類図鑑や昆虫図鑑、あるいは植物図鑑を自分で本屋から買い求めるようになった。そのほうがずっと楽しかったのである。 しかし「カバヤ文庫」は私にとっては大切な「蔵書」だった。私が家を出て上級学校に通うようになって、いつのまにかそれらは失われてしまったが、後年、ときどき大きな古書市に出かけると、ふと、「カバヤ文庫」はないかしらと探したものだ。が、今のいままで古書店で見かけたことは一度もない。製菓会社の景品として発刊した文庫なぞ、市場にでまわることはないのだろうか。 昔昔の、「カバヤ文庫」を御存知ですか?(追記;9/16) お客様の良次さんが「カバヤ文庫」のWebサイトをみつけてコメントを寄せてくださった。さっそくアクセスしてみたところ、岡山県立図書館がかなりの点数の「カバヤ文庫」を所蔵し、インターネット閲覧ができるようだ(ただしWindowsのみ可)。 同図書館の情報によると、「カバヤ文庫」は全241巻におよび、そのほか「カバヤ・マンガブック」全50巻と「カバヤえほん」があったようだ。同図書館が所蔵する「カバヤ文庫」は213巻で、サイトにはそのすべての書名が掲載されている。また、カードの収集等についても解説している。当り券があり、大当りが10点、カバの券が8点で、50点になったら本と引き替えるシステムだった、と。この「カバヤ文庫」は2000万部も発行されたのだそうだ。 この情報により、私の記憶も確かだったことがわかった。そして私がカード収集をやめるきっかけとなった、希望した本のかわりにマンガが送られてきたという記憶も確かだったことが判明した。「カバヤ・マンガブック」というシリーズがあったのだった。 それにしても、昭和27,8年といえば、戦後のまだまだ物が豊であったとは言えない時代だった。児童書に関して言えば、創元社から分離独立した現在の東京創元社が「少年少女世界文学全集」を刊行開始し、偕成社もまた低学年向けの児童文学全集を発刊した。講談社も「少年世界文学全集」を刊行したはずだ。ようやく児童書もみるべきものが出て来たのだが、カバヤ食品による「カバヤ文庫」の企画は、その2000万部という数字からも分るように、まさに児童文学全集の発刊に先鞭をつけたと言ってもよいだろう。ただ、後発の出版社企画がしだいに「カバヤ文庫」を追い詰めたかもしれないとも推察できる。というのは、私自身が「カバヤ文庫」の収集をやめ、図鑑類を買うようになったのだが、じつは今述べた東京創元社の全集を予約購読しはじめ、弟たちは偕成社の全集をやはり予約購読するようになったのである。偕成社の全集はその昔、親戚の子供たちにプレゼントしてしまって1册も残っていないが、東京創元社の「少年少女世界文学全集」は先年蔵書の整理をしていたら10册ほど見つかった。 私の個人的な思い出ではあるが、昭和30年前後の児童書出版史のようなものが透けて重なっているのである。
Sep 15, 2006
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きょうの朝日新聞は文化・科学情報に興味深い記事がずらり4件もならんだ。 まずは高松塚古墳の東壁に新たに黴が発生し、劣化がいよいよ進んでいるという記事。 かつてこの古墳が発見されたときは、その飛鳥人たちの豊麗な美しさに、おおげさでなく日本中がどよめいたものだった。管理する文化庁は、いつもながらの下品な官僚主義を発揮し、特別な人物だけが特別な許可によってのみ見ることができるというシステムをつくりあげ、国有財産を国民に公開するというきわめて当り前の考えかたを棄ててしまった。文化庁は国民から管理をまかされてはいるが、国有財産の独占などまかされていないはずだし、まかせるべきではない。つまり、省庁の管理は常に「公開」の原則のもとに運営されなければならない。その原則以外は必要ない。この原則を踏まえたうえで、さて如何にしたら最良の保存ができるかの精細な見取り図を作らなければならなかったはずだ。 文化庁がそれなりの対策を講じて来たことは認める。だが、無い知恵をふりしぼっていただけではないか。というのは、中国では現在敦煌窟壁画を剥がして一般公開にこぎつけたのだが、ある日本のジャーナリズムの取材に対して、「日本の文化庁は高松塚古墳壁画の保存に関して、われわれ(中国)の保存研究を調査しにきたことは一度もない」と答えていた。この答えの裏には、中国当局は国際的な調査網を張って研究したという事情がうかがえるのだ。私が文化庁の人間なら、顔から火が出るほど恥ずかしい思いがしただろう。いや、文化庁の人間でなくとも、恥ずかしい。 私は高松塚古墳壁画の劣化に関する報道に接するたびに、フェデリコ・フェリーニの映画『フェリーニのローマ』の1シーンを思い出す。ローマ市内の地下鉄工事現場は、少し掘削するたびに数千年前の遺跡にぶつかりほとんど二進も三進も行かない。そして映画取材班が訪れた折も折り、また新たな遺跡にぶつかった。土壁に穴をうがちもぐり込んでみると、いままさに描きあげたばかりのような素晴らしい巨大壁画があらわれた。ところが土壁の穴から外気が流れこみ、数千年間静かに眠りつづけていた空気を掻き回した。見る間に壁画が消えて行く----。 映画のなかの1シーンというなかれ。そんなところにも、遺跡保存や古代絵画・美術品保存のための思考の扉口はひらけているのだ。管理官の傲慢など一陣の風さえ防ぐことはできないのだということだ。 次の記事も古代遺跡出土品について。青森市の三内丸山遺跡に隣接する近野遺跡から、線刻人物像のある石器が発見されたというもの。 出土時には気づかれなかったが、洗浄したところ家族を描いたとみられる大人の男女2体と子供1人の鮮明な図像が現われたのだという。高さ6.1cm、幅7.4cmの、おにぎりのような形をした石冠と呼ばれる石器。およそ3500年前、縄文時代後期の中頃のものらしい。 この石器が注目されるのは、群像表現にあり、縄文時代のひとつの遺物に群像が描かれているものは、かつて発見されていない。縄文時代ほどの古代には、図像はいわゆる絵画という概念ではとらえられなく、祭祀的な、もしくはきわめて呪術的な目的があっただろうと考えられている。したがってこのたび、家族とみられる3体の人物像がきざまれた石冠の発見されたことは、いまのところ意味は不明ながら、縄文人の生活を考察するうえで非常に貴重な資料となることはまちがいないだろう。ただし、想像力を刺激する遺物なので、想像に流された歴史像をつくりださないように研究者は慎重であらねばなるまい。三内丸山遺跡の発掘が、従来の縄文時代像をおおきく訂正しなければならなかったように。 さて、三つ目のニュースは、国立天文台や東京大学等の合同研究チームが、最も遠く離れた銀河宇宙を発見したということ。ハワイにある「すばる望遠鏡」で観測し、約128億8千万光年のかなたにある。これはすなはち約137億年前のビックバンで誕生して間もない宇宙の様子をとらえたことになるのだそうだ。これまで最も遠い銀河は、昨年(2005)やはり「すばる望遠鏡」がとらえた約128億2500万光年のものだった。このたび発見されたのは、それよりさらに6千万光年ほど遠い。「かみのけ座」の一角にあるのだとか。 128億8千万光年の彼方などといってもピンとこないけれども、こんな広大な宇宙の点にもみたない微細な星のうえで、毎日毎日ドンパチやっているのですよ、われわれ人間は。救われないバカだね。 最後にとりあげたいのは、富士通が見えないバーコードを開発したという情報。 これは従来のバーコードとはことなり、カラー印刷した写真等のうえに淡黄色の情報コードをかぶせ、肉眼では見えなくしたもの。 私がこの技術に注目したのは、これによってブックデザインが変わる可能性がでてきたと思うからだ。私のようにブックデザインに関わる仕事をしている人間は、日頃、かならずやバーコードの存在に溜息をついてきたはずだ。 私は、単行本などの装丁をするときはもちろん、愛書家としても、本をひとつの美術的オブジェととらえている。つまり彫刻作品のようなものと考えているわけだ。表紙・裏表紙・小口は言うにおよばず、それを開いたときの色彩の関連性(流れ)。そして私は、本の手触りということも考える。しっとりした風合いの紙を選ぶか、それとも荒々しいゴツゴツした感じの紙にするか等々。 しかし、そのような全体的なデザインも、裏表紙に入れなければならないバーコードによって「キズもの」になってしまうのである。「キズもの」を作ることを初めから余儀無くされているのだ。つまり、バーコードの読み取りを可能にするため、どうしてもある大きさの白い窓をあけなければならない。カバーをはずして広げてみるとお分かりのように、いかにもみっともない、ぶざまな姿。「どうして、こんなキズものを商品としてプロダクトしなければならないのだろう!」----こんな感慨をいだくのは、私ひとりではないはずだ。 このたびの富士通が開発した見えないバーコードというものが、実際にはどのようなものか、私のイメージはまだ明確ではない。それでも、なんだか期待がもてそうな気がするのだ。どんなものだろう。
Sep 14, 2006
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昭和20年生まれの私が小学校に入学したのは昭和27年4月で、その日のことは61歳の現在でもまるで動態視力検査の実験映像のように素早く通過する映像として蘇ってくる。それは時にあざやかな断片を脳裡にうかべることもある。たとえば新しい教科書を何冊ももらったとき。音楽の教科書だけがほぼ正方形にちかい変形判だったことも…。私は自分がすわっていた机の位置さえおぼえている。樋口カエ子先生のお顔もうかんでくる。 ところで、私の時代の「こくご」の教科書の最初のページは「さいた さいた さくらが さいた」であった。これは戦後最初の「こくご」教科書から始まったのだと思う。それ以前の世代だと「國語讀本」の「ハナ ハト マメ マス」であろうか。この「ハナ ハト マメ マス」教科書が使われるようになったのは明治36年4月からだ。それではそれ以前に子供教育、特に国語としての日本語教育に使用されていたものが、何かあったのだろうか? 幕末のいわゆる寺子屋時代にも、どうやらそのような教材があったらしいのである。俗に「ちんわん」と称されていたらしい。国語教育というより、子供の口の回りをなめらかにする訓練と言った方がよいのかもしれない。要するに言葉遊びである。 資料があるので、その「ちんわん」とやらを書き出してみよう。 〈ちん わん 猫にゃん ちゅう 金魚に 放しかめ 牛もうもう こま狗に 鈴がらりん 蛙が三つでみひょこひょこ 鳩ぽっぽっに 立石 石燈籠 小僧がこけている かいつくつく 布袋の土仏に つんぼ戎 がんが三羽で 鳥居に おかめに 般若に ひゅうどん ちゃん 天神 西行 子守に 角力取どっこい わいわい天王 五重の塔 お馬が三びきひんひんひん〉 「ちん」は狆である。「ちゅう」は鼠。「放しかめ」は、放し亀。「こま狗」は狛犬(こまいぬ)。「立石(たていし)」は墓石や道標のことである。次の「かいつくつく」は、貝突く突くのことだが、どうも貝掘りのことらしい。「布袋の土仏」とは焼物の布袋の置き物、土人形のこと。「つんぼ戎(えびす)」は、悪口を言われているのも知らず幸福そうにしていること。あるいは、それから転じて、聞こえないふりをしていることが福の神、ということか。「ひゅうどん」は笛に太鼓。「ちゃん」は鉦(かね)。「わいわい天王」は不明。 何か一連の通じる意味があるわけではなそうだ。リズムをつけて口に出して言ってみることが愉快。語呂合わせである。口のすべりを良くするという教育の本質は何であったのか。「立て板に水」で捲し立てるとか、江戸っ子のベランメェな啖呵とか、そんな気質の背景にこの「ちんわん」言葉教育があったかもしれない。そう考えるとなかなか面白い。 もうひとつ言葉遊びの資料がある。やはり幕末の江戸の町で木版印刷されて売られていたらしい。1864年頃のものといわれる『流行(はやり)しりとり子ども文句』である。たぶん2枚か3枚の組物だったのだろう。そのうちの「ろ」から始まる一枚。 〈ろんどん、いこくの大みなと とざんするのは、おふじさん さんべんまわって、たばこにしょ しょうじきしょう太夫、いせのこと ことやしゃみせんふえたいこ たいこうさまは、かんぱくじゃ はくじゃのでるのは、やなぎしま しまのさいふの五十両 五郎十郎そがきょうだい きょうだい、はりばこ、たばこぼん ぼうやはいい子だねんねしな しな川女ろしゅうは十もんめ 十もんめのてっぽだま 玉やははなびの大がんそ そうしゃのすむのは、ばしょうあん あんかえどうふに、よたかそば そうばのおう手がどんちゃん〉 原文のまま写したが、漢字まじりに改めると一層わかりやすいだろう。 〈ロンドン異国の大港、登山するのは御富士さん、三べん廻ってタバコにしょ、正直正太夫は伊勢の事、琴三味線笛太鼓、太閤様は関白じゃ、白蛇の出るのは柳島、縞の財布の五十両、五郎十郎曽我兄弟、鏡台針箱たばこ盆、坊やはいい子だ寝んねしな、品川女郎は十匁、十匁の鉄砲玉、玉屋は花火の大元祖、相者の住むのは芭蕉庵、餡掛け豆腐に夜鷹蕎麦、相場の王手はどんちゃん〉 「正直正太夫」とは、伊勢大神宮の太々神楽の御払師という説がある。「白蛇の出る云々」は、江戸の柳島の妙見菩薩堂のことで白蛇を使いとする。江戸時代には境内に白蛇が棲んでいたといわれる。 次の「縞の財布の五十両」は、歌舞伎に詳しい方ならピンとくるであろう。のちに出る「十匁の鉄砲玉」と掛けている。すなわち歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』の五段目、定九郎が鉄砲で撃たれる、その鉄砲玉の目方が十匁。死んだ定九郎の懐から五十両の大金が入った縞の財布がでてくる、そして…となるわけだ。 「品川女郎は十匁」とは、子供のしりとり遊びにケシカラン、東海道品川宿の女郎の値段が十匁だというのだ。これは現在の貨幣価値でいくらかというと…。そんなこと考証しなくてもいいか。考証する? じゃぁ、ちょっと待ってくださいよ、計算してみます。元治元年(1864)の米相場は1石(10斗=150kg)246両。1両は約60匁。現在の平均的な米の価格を5kgで2500円としますか。そうすると、えーと、10匁というのは約133円。……これが品川女郎さんの一夜の遊び代。ちなみに安政2年(1855)頃の職人の一日の手間賃が3匁という資料がある。お女郎の値段はこのくらいにして、次に行こう。なにしろ子供のしりとり遊びなのだから。 で、「玉屋」はいまでも言う。ただし「鍵屋」とならぶこの花火屋、製造中の失火がもとで取り潰しになった。その後は江戸の人たち、「たまやー!」「かぎやー!」とは掛け声をかけていない。 「相者」というのは手相見のことだ。最後の「相場の王手はどんちゃん」というのは、現在の手締めであろう、鉦を叩いたらしい。 このしりとり遊びは、随分調子がいい。こういう印刷物を売っていたというのだから、現在のようなゲーム性よりも、歌うようにリズミックに口に出してあそんだのであろう。 調べものをしていたら、たまたま見つけた江戸時代の子供のあそびである。ずいぶんマセタ子供だったようだ。 私の子供時代にはこんな語呂合わせのような言葉あそびはあっただろうか。どうも覚えがない。音楽の教科書のなかに「乗ってた乗ってたラクダの背中に大人が乗ってた。大人の背中に子供が乗ってた。子供の背中にお猿が乗ってた。お猿の上にお月さんが乗ってた」という歌があった。題名は忘れた。歌詞も少し違っているかもしれない。この歌は、この教科書以外で見たことも聞いたこともない。奇妙な歌だと思ったが、イメージのしりとりのようで記憶に残っている。 冒頭に返ると、現在の小学校1年生の国語の教科書、最初のページはどんな始まりなのだろう。身辺に幼い子供がいないので、私のまったく知らない事情だ。
Sep 13, 2006
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ミステリー作家の折原一氏から新刊のハヤカワ文庫『被告A』をプレゼントされた。 『被告A』は2003年に書き下ろし単行本として刊行され、すでに世評も高い。誘拐犯罪ミステリーと法廷ミステリーとをあわせもつ趣向は、奇想のトリックによって「アッ!」と驚くような結末が用意されている。 誘拐犯罪とはいえ、その親子関係はきわめて現代的な問題を照射している。事件は登場人物それぞれの視点から語られるが、同一場面の叙述をいささかの澱みなくスピーディーにストーリー展開する折原氏の手練は、見事と言うしかない。 是非、ご一読を!
Sep 12, 2006
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『地球の眺め』 9.11追悼コラージュ 2006.9.11作
Sep 11, 2006
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きょうの東京の気温は真夏へ逆戻りしたようで、32℃を超えたそうだ。日曜日だというのに外出もせず、家のなかにとじこもりきり。おかげで我家の上下階の2基のエア・コンデショナーは、終日フル稼動だった。しかし明日からは、一転して、秋の長雨に入るのだとか。新聞の来週の天気予報は、北海道以外は全国的に雨となっている。 さて、それはよいとして、間もなく11日になる。ここ数日来、私は5年前の9月11日のニューヨークのテロ事件について思いめぐらせていた。 じつはあの2001年の3月、ニューヨークのウエスト・ブロードウェイのリムナー画廊の企画展覧会に招かれて出品した。テロ事件はそれからちょうど6ヶ月後のことだったので、直後に電話をしてみた。しかし画廊主も混乱のなかにあったのか、電話は通じなかった。 あの日の朝のことを思い出すと、私はひとつ意外に思うことがある。私はちょうどTVで朝の海外便りのような番組を見ていた。ニューヨーク支局員が坐っている背後には、大きな窓がひらけ、その中央部に、ワールド・トレイディング・センターのツイン・タワーが遠くのぞめた。支局員は何か軽いニュースを報告していたが、その時だった、その男性支局員の背後に、飛来した一機の飛行機がワールド・トレイディング・センターに突っ込むのが見えたのだ。支局員は気がついていない。TVを見ていた私は、隣に坐っていた父に、「アレ? 何だろう。飛行機がビルに追突したみたいだけど----」と言った。その時点で、何が起ったのか、私には分らなかった。とんでもない事故を目撃したかもしれないとは思ったが。 それからしばらくしてからである、それが未曾有のテロだと各TV局が報じ始めたのは。 私が見た映像は何処のTV局だったのか、その後の動転のなかで忘れてしまったが、その映像こそ、偶然に映り込んだものとはいえ、世界最初の報道ではなかっただろうか。ところが不思議なことに、そのTV局はそのことに気が付いていないのではないかと思われるふしがある。少なくとも私は、そのTV局が、自局の番組がとらえた映像について言及しているのを知らない。朝の海外支局報告などはヴィデオに残しておかないのだろうか。もし5年後の現在、確認できるものなら確認してみられるとよい。あのツイン・タワーをのぞむ大きな窓のあるニューヨーク支局。関係者ならすぐにおわかりになるだろう。 そんなわけで、私はニュースとして報道される以前に、まさにリアル・タイムであの事件を目撃してしまったのだが、私は自分の絵画作品のなかでこれを考えてみなければなるまいと思った。世界の希望を何に託すことができるか、それを探しもとめなければならない、と。 というのは、この事件の前年、つまり21世紀をむかえるために世界中がお祭りさわぎをしていた2000年に、私は何か胸騒ぎのような不安にかられ、その想いを『泡立つアダム』という作品にした。そして、いささか禍々しいその絵を絵葉書に仕立てて2001年の年賀状として知人や関係者に送ったのだった。年賀状としてはあまりふさわしいとも言えない絵だったので、受け取った方々は辟易されたかもしれない。だが、それは、その絵を出発点とする以後の創作活動についての私のメッセージだった。私自身の心準備のためにも、年頭に宣言しておきたいことだった。 私の胸騒ぎは現実のものとなった。宗教戦争と経済戦争とが不可分に絡み合い、それは世界共存のための根幹をなす異民族・異文化間の相互信頼を破壊してしまった。無知な国家主導者たちは、これ幸いと不安感をあおり、堂々とファシズムへの道をひらいてしまった。こうなると最も頼りにしなければならないのは、各国の一般国民、----民衆の健全な識見だけである。ファシズムがまずやることは、人間不信を育て上げて個人個人を分断することである。そうして、愚にもつかない空虚なシンボルを掲げて、感情に支配された非知性的な蒙昧な国民を統合するのである。この統合はしかし、後に悔恨だけを残し何ものも生まないたぐいのものであることは、人類史がおしえるところだ。 人類は、もはや古典的ではない。地球は小さな脆いかたまりでしかない。我々の隣人は、1メートル四方にいるのではなく、この小さなかたまりを覆っているのだ。つまり異民族・異文化とはいへ、分断され、孤立化してはいきてゆけないということだ。一国のファシズム体制などいまや「時代遅れ」。そんなところに国民を導こうなどと考える者(政治家)は、その無知を糾弾されなければならない。 9.11事件は、人類の古典的病巣を指し示した。そして、その業病をふたたび抱えるのも、その病から脱却して新しい人類共存の哲学を模索するのも、「今だ!」ということを我々におしえている。 私は『泡立つアダム』にひきつづき、政治的プロパガンダとしてではなく、その新しい哲学をさがすために作品を描いた。それらの作品の一部はすでにこの遊卵画廊に展示してあるが、きょうは、あらためて以下に掲出して、2001年9月11日以降の世界を考えるよすがにしようと思う。『泡立つアダム』 2000年『様々な地平に生まれるアダム』 2002年『石を握るダヴィデ』 ― ミケランジェロに拠る ― 2003年『花と礫(つぶて)のなかのアダム』 2004年
Sep 10, 2006
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そろそろ夏物をしまいたいのだが、私は暑がりなので、合いの季節にはちょっと困っている。家のなかでは年柄年中ほとんど薄着にちかい。冬に薄いシャツ一枚というのは、若者ならまだしも、年をとった私ではみすぼらしいだろう。セーターなどを着ることにしてはいるが、アンダーウエアは夏と変わらない。外見からは分らないので、それでよい。秋が困りものなのだ。 昨夜の雨は明方にはあがってしまったので、家のなかの中掃除をした。大掃除とまではゆかないから、中掃除。新装版ディクスン・カーのコンセプトを考える前に、気分を変えたいと思った。編集の宮澤氏から手紙がとどいた。氏とはこの度が初めての仕事になる。宮澤氏は、編集者になる前の学生時代、ディクスン・カーには私の表紙絵で接していたので、今、新装版を担当して私の絵を使えることが嬉しいと書いていた。私にとっても嬉しい。絵描き冥利につきることだ。 そんなわけで、乗せられ上手な私は、少し身辺をかたづけようという気になったのである。 そして昼食は、ことし最後になりそうな、名残りの冷やし中華。 家人が、スパー・マーケットに初栗が出ていたので買ったきたという。 「夕食は栗御飯にする?」「そうしよう」 そこでたちまち献立を考えて、私が料理を引き受ける。 栗炊き込み御飯 高野豆腐と干椎茸の煮〆 茶碗蒸し(鶏肉、小海老、椎茸、三つ葉) 菊膾(きくなます) 菠薐草のお浸し 浅蜊の味噌汁(分葱ちらし) 菊膾は重陽の節句にちなんだ。食用菊をサッと湯がいて三杯酢で。 茶碗蒸しの溶き卵を肌理こまかく漉すこと以外、手間のかかるものは一つもないけれど、季節感のある良い献立になったと自画自賛。 それではこれから料理にとりかかりますゾ!
Sep 9, 2006
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陰暦9月9日は重陽(ちょうよう)の節句。易学上で男性原理を表わす陽数(九)がふたつ重なる意で、重九とも書く。菊の節句ともいう。五節句のひとつ。この日、菊の花弁を浮かべた酒を飲むと長寿になると信じられていた。菊酒という。陽暦になってからは廃れてしまった。陽暦の9月は、陰暦だとまだ8月。菊の開花にもまだ早い。 上田秋成の『雨月物語』のなかの一篇「菊花の約(ちぎり)」は、兄弟の契りをむすんだふたりが、この日の再会を約束して別れるが、一方は殺されてしまい、魂魄となって約束の日にまいもどるという物語。儒教的精神の表明ではあるが、作者上田秋成はそこにホモセクシャルなエロティシズムを加味した。重陽ということばが、俄然、物語のトポロジー(地勢学)を異化する。言葉が喚起するイメージがきわめて濃密にただならぬ気配をたたせる。これはまた、江戸文学の諧謔的な言葉遊びを想起させ、おそらくその通り、ダジャレの味わいも忍ばせていたにちがいない。主人公の二人の名前からして、ケシカラヌ。丈部左門(はせべさもん)と赤穴宗右衛門(あかなそえもん)ですゼ。江戸時代の読者はいったいどんな顔をして読んだやら。----この短篇、ことほど左様にじつに良くできているのである。しかし『雨月物語』の九篇のなかで私が好きなのは、一番最初に置かれた「白峰(しらみね)」だ。私はこれを劇化するアイデアがあるのだが、まだ実現はしていない。溝口健二の映画『雨月物語』は、巻之二の「浅茅が宿」と巻之四「蛇性の婬」とを合わせた翻案物語。 高浜虚子が編集した『季寄せ』(昭和15年刊)に次の句。 酒買いにやる慈童あり今日の菊 也有 この句は、「菊慈童」の故事を踏まえているのは無論ながら、僧房の戸をあけて出てゆく童の姿を想像すると、秋成的な気配がたつ。 同じくこの日、浅草観音堂では菊供養という仏事がある。やはり虚子の『季寄せ』に載っている素十という俳人の句は美しい。 菊の香の夜の扉に合掌す 素十 きょうの午後、自転車で遠出をした。ときどきポツリと小さな雨滴が顔にかかり、低く雨雲がたれ込めていた。風はそよともなく、蒸し暑かった。それでも私は小声で鼻歌をうたいながら、路傍の草木に目をとめ楽しんだ。 百日紅がもっとも目立つ。そして気がついたのだが、どうやらこの花木は二種類あるらしく、ある家の庭に紅白そろって咲いているのを見つけた。自転車を止めて、見比べてみたが、葉の形状といい実のつき具合といい、まったく同じなのだ。花の色だけがはっきり二色にわかれている。 また、もうひとつ気がついたことは、園芸花卉にも年によって良く咲くときと、そうでもないときがあるらしい。昨年、このブログに書いた近所の家の曼珠沙華、塀際に鉢をならべているのは去年と同じだが、ほとんど花をつけていないのだ。この家の御主人は沢山の種類の花々を一年中丹精して育てている。曼珠沙華の世話もおさおさ怠りなかったであろうに、今年はみるかげもない。 そういえば、我家の柿も今年はさっぱりだ。数えるばかり成った実も、ポトリポトリと落ちてしまい、今はもう一つも付いていない。苺もだめだった。薔薇も5,6月はよかったが、例年だと11月まで咲きつづけるのに、今年はまったくだめだ。 そんな感慨をいだきながら、見知った家の菊の籬を見やったが、重陽の菊の宴には間に合わなかったようだ。
Sep 8, 2006
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ことしはディクスン・カーの生誕100年にあたる。これを機会に東京創元社では既刊完結したディクスン・カー及びカーター・ディクスン名義のシリーズを、順次、改訳新装版に改めてゆことになった。既刊21册の表紙絵は私が担当した。それも当時は新装版として着手された。古い版から需要に応じて改めていったので、私がすべてやり終えるまでにおよそ20年余の年月を要した。 さて今回、同社はふたたび私が担当することを決めた。私もまたこの仕事を快諾した。担当編集者の宮沢氏は、同じ小説の表紙絵を過去とは違った視点で描く困難を口にされたが、なんのなんの、私はたいへん嬉しい限りだ。愛読者の間に、ディクスン・カー作品と私の名がひとつのイメージをつくっているということらしいが、それは私個人が受け取ってきた読者のメッセージからも薄々感じていたことである。それだけに一層、ふたたび一から描きなおすこの大仕事に、いささか興奮している。こんどは何年かかるだろう。とぎれとぎれの発注になるだろうが、内的緊張をどのように持続させようか。----とにかく、創作力をいつもフレッシュに保つことが肝心。まもなく最初の執筆の準備にとりかかり、10月半ばころには仕上げなければならない。
Sep 8, 2006
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常連のお客様である良次さんが、トップに掲載したこの画廊のバナーをつくってくださった。先日の3万人アクセスの祝いの贈物だという。ありがたく頂戴した。 息子のような若い人が、私のサイトを気にかけて、こうした提示をしてくれるのはありがたく、また楽しいことだ。私自身のスタイルというものはあるけれど、考え方が硬直しないためにも、若い人がこのブログを見て何かをやってみたいと浮んだアイデアを受け入れる用意はある。良次さんは私のバナーをつくってみたくなったわけである。 もっとも、良次さんから第一案を提示されると、たちまち私のプロ意識に火がついてしまい、その贈物に対して希望をのべたのだった。小さなバナーとはいえ、お客様に向う顔である。 良次さんも、そこは御自分も絵を描くので、私のコンセプトを理解し、たちまち手直ししてくださった。それがトップの画像である。 リンク用のHTMLタグもついていますので、皆様どうぞお持ち帰りください。宜しくお願い申しあげます。
Sep 6, 2006
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途中から見たことでもあり、特別熱心に見たのでもないが、さきほど午後10時半過ぎにNHK・TVでサプリメント(栄養補助食品)についてやっていた。大変なブームなのだそうだ。 このブーム、もとはといえばアメリカにおいて高額医療費の問題に端を発しているという。同国の場合、国が負担する医療保険は高齢者と低所得者だけなのだが、その額が近い将来ゆゆしき割合となって国家財政にのしかかってくることが予想される。そこで予防医療という意味あいで栄養補助食品の研究に力をそそぎ、多種多様なサプリメントが販売されるようになった。つまり医薬品と食品の中間に位置するのがサプリメントというわけである。古来東洋医学には医食同源という言葉があるが、病気予防に食事の栄養バランスが必須という考えの実践をアメリカは国家的に推進し、法制度を改革したのだった。 たしかにアメリカの医療費は高額なようで、先端医療になると低所得者には受けたくとも受けられない情況になっていると聞く。医療格差が甚だしくひろがっているのだという。このことについては、もう十数年も前から私はかなり専門筋の研究者から情報を得ていた。どういう話だったかというと、アメリカにおいて民間療法(alternative medicine;オールタネイティヴ・メディシンという言葉が使われている)が急増しており、漢方や鍼灸等のいわゆる東洋医学ならまだしも、魔術や心霊治療などと称するものに人々がすがっているというのだった。先端医療を受けたくとも受けられない人達が、藁にもすがる思いで魔術師を訪ねるらしい。 さすがにNHKは魔術の復権までは言及しなかったが、アメリカが1994年にサプリメントの販売を認可した背景には、そういうアンダー・グラウンド的な事情もあったと推測できる。 ただし急いで付け加えなければならないが、東洋医学や怪し気といわれるような民間療法は、ただ単に医療費が安上がりだからというだけではない、医学的にはもっと重要な注目すべきことがあったのである。それはホリスティック医学といわれる医療の先駆的な一面である。ホリスティック医学とは、病気というものを単に病巣部のみに注目するのではなく、その病者の全体から診てゆくという考え方である。病者の全体とは、生活環境や家族関係等々、できるだけ一人の人間の存在をまるごと観察することで、病気の原因ばかりではなく治癒への意欲を励起するのである。つまり従来の医療の患者に対する医者の一方通行を、相互通行にするといえば良いだろうか。高額医療を受けられないアメリカの低所得病者は、病気を直したいのはもちろんながら、同時に親身になって心の内を聞いてくれる施療者をもとめていたとも言えるのである。 さて、サプリメントとやらであるが、私はそのようなものをかつて一度も摂取したことがないので、大ブームなどと聞いてただただ驚いている。ブームの陰にはある種の危険性もあり、サプリメントを一般食品の代替品と勘違いして摂取することによるホルモン・バランス失調症が指摘できるケースがでてきているという。 私は病気らしい病気をしたことがない。医者知らずで、61歳の現在までやってきた。特に健康健康と神経質になって気をつけていたわけでもない。が、私の健康は、やはり食事の栄養バランスだったように思う。そして究極のところにある楽観主義か。ストレスをうまい具合に発散させているのだろう。 子供の頃、父親に「あんたは野生児だね」とか「自然児だね」などと、呆れているのだか感心しているのだか分らない批評をされていたが、たしかに制作に忙しくて昼夜ひっくりかえった生活がつづくと、ある日、ふいに太陽が恋しくなり、素っ裸になって日光浴するのだから家人が唖然とするのも無理はない。 身体が自然に要求することをする。30歳前は一日40本もタバコを吸っていたのに、ある日、全然吸いたくなくなったので、それっきり完全にやめてしまった。酒もウイスキー党だったけれども、それも飲みたくなくなった。到来ものの酒がたまって、弟が片付けているようだ。最近では脂っこいものは口にあわなくなっているので、我家の食事のメニューが少しづつ油抜きになってきている。トースト・パンにたっぷりバタをつけていたのに、何もつけづに香ばしい焼き加減だけを旨いなぁと食べている。年をとってきた証拠なのだろうが、自然になめらかに移りかわっていて、変わった時点で一層の食べ物の旨さを発見しているのだ。とてもとても、サプリメントの世話になるつもりはない。 ちなみに今日の夕食の献立は次のようなものだった。 秋刀魚の塩焼き、大根おろし添え(塩はごく少量) 南瓜の煮付け ひじき・人参・油揚の炒め煮 黒豆もやしのシャッキリお浸し 茗荷の味噌汁 デザート(葡萄) はたして栄養学的にどういうものなのだろう。どなたか御教示くださればありがたい。
Sep 5, 2006
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まだまだ残暑の日々とはいえ、空を見上げればやはり初秋の雲。 東京の小・中学校はきょうから2学期なのだろうか。さきほど市内全域放送で、下校時間になったので保護者の注意を呼び掛けていた。この放送は今年にはいってから我市で警察署がおこなっているものだ。 なんとも味気なく殺伐としたことだが、子供達が安穏に生きて行けないような社会だということか。 殺伐とした大人たちに育てられているので、子供達も無邪気さというものがあまり感じられないし、小生意気を全身にただよわせている。 私は、子供は子供らしくなどと内容のないお題目は唱えるつもりはない。そうではなくて、社会を円滑にしてゆくための極々基本的な社会的マナーというものは、人間を信頼するところにしか生れはしない。あえて「道徳」とも私は言わない。なぜなら少なくとも「道徳観」というのは歴史的に変遷するもので、人間性を抑圧したある種の御都合主義もまた道徳とみなされることがあるからだ。私の言う基本的な社会的マナーとは、要するに人間は独りでは生きてゆけないし、一人で生きているのではないということの認識に依拠するものにほかならない。 新聞等の記事や、TV討論のような番組で、しばしば耳にする。子供たちから「なぜ人を殺してはいけないのか」と問われて、答えられないというのだ。この問いは哲学的な大問題ではないかと。 開いた口がふさがらないとはこのことだ。こんなことに返答を窮している輩が、低年齢教育にたずさわっているのだと知って暗然となる。 いくらでも答えられるだろう。それ、その討論の場で、その発言者を殺し、隣に坐っているやつをちょいと殺し、殺したと思っていたら後ろに坐っていた人に背中を刺されて殺された。「人を殺してはいけない」という大前提をとりはずすと、人間は絶滅するのだということを、なぜ大の大人が言えない。人間の長い長い歴史は、そういう野獣性を時間をかけて克服してきたのだということを、何故説明できない。哲学的な大問題をつきつけられているなどと、事大的なことを言ってはいけないよ。 こういう愚劣な討論がTV番組として成立したり、日本を代表するような大新聞やその他のメディアが、さも哲学的なとりくみをしているように見せることが、そもそもこの国の教育が如何に貧困であるかを示唆しているだろう。 低年齢教育というのは、その場をとりつくろうようなデタラメな答えかたをしてはいけないのだ。どうでもいいクイズのような問題を出して、○×で当った当ったなどと教室をにぎわしている場合ではなかろう。子供に対しては大人の全存在と全知識を総動員して、「注意深い」分かりやすい言葉で、ズバリと真相を説明しなければいけない。「大人になれば分る」などと言って答えをはぐらかすべきではない。大人になれば分るのではない。大人になったって分らないものは分らないからだ。知識というものは、「何故だ?」と疑問をいだかないと獲得できないものである。大人の真剣で悠揚迫らぬ説明は、その場で子供は理解しなくとも理解への道をひらく、そのことへの期待、----私は教師ではないけれども、教育とはそのような「期待」にほかならないであろう。 いま、二度目の警察署の放送があった。高学年の下校時間なのだ。 子供の安全は確保しなければならない。だが何もかにもをこの放送を始めとする警察の管理下において次第に感覚が鈍ると、いまにもっと大変なことにならないとも限らない。私はそちらのほうも心配である。
Sep 4, 2006
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山田維史の遊卵画廊へお立ち寄りくださったお客様が本日、のべ3万名に達しました。かわらぬ御愛顧まことにありがとうございます。ひきつづきお遊びにおいでくださることをお待ちもうしあげます。 (4日追記) ご訪問くださったお客様のお名前を御礼をかねて3ページにわたって掲載させていただきましたが、24時間にて終わりといたしました。ご覧いただけなかった皆様、申しわけございませんでした。ありがとうございました。
Sep 3, 2006
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メンテナンスに引っ掛かり記事が消えてしまったので初めから書き直しだ。 昨日書くつもりだったが新聞記事につられて話題を変えた。きのう見た溝口映画『残菊物語』について述べるつもりだったのだ。 『残菊物語』は1939年の作品。前年1938年、国家総動員法が布かれ、いよいよ軍事色濃厚になるなか、映画制作も国策に則るべく強制される。これを嫌った溝口健二は芸道物に活路を見い出す。『残菊物語』はその最初の作品である。その後、『浪花女』(1940)、『芸道一代男』(1941)とつづき、世に芸道三部作といわれることとなる。 『残菊物語』は明治初期の歌舞伎界に材をとった村松梢風の小説を原作としている。脚本は川口松太郎と依田義賢。 物語はこうだ。 歌舞伎の名門尾上家の芸養子として周囲から甘やかされている菊之助(花柳章太郎)は、子守娘のお徳(森赫子)に芸の未熟を指摘される。それは初めて耳にした真実の声であった。菊之助はお徳をなにかと頼りにするが、尾上家は二人の関係を許さず、執着する菊之助を破門する。彼は旅回りの役者に身をおとし、それも芸道修行といつの日にか返り咲くことを胸に秘める。やがてお徳とめぐりあい夫婦になる。しかし生活苦は次第に菊之助のこころを荒ませるのである。名古屋在の小屋に出ているとき、東京から尾上一座がやってきた。お徳はひそかに訪ねて、自分が身を引くかわりに菊之助の破門を解いてほしいと請う。菊之助を舞台に立たせてみて、評判がよければ考えないでもないという返答。急遽呼ばれた菊之助は『墨染櫻』を見事に演じて、名題役者として返り咲く。が、お徳はふたたび姿をくらましてしまった。大阪南座に出演がきまり、恒例の舟乗込みの最中、侘びしい宿の一室で病の床にあったお徳は息をひきとったのだった。 『残菊物語』は溝口映画のスタイルが確定した作品であるといわれている。ワンシーン・ワンカットのスタイルである。 『残菊物語』にはその必然性が内在しているのであるが、主演に新派の花柳章太郎を迎えることができて初めて、溝口は、「絵巻物を繰るような」スタイルが実現できると考えたたようだ。映画のなかで舞踊劇『墨染櫻』が10分以上、ほぼ切れ目なく演じられるのである。ときどき舞台袖で固唾をのむお徳の姿などがインサートされるけれども、歌舞伎芝居の流れが澱むことはない。私たち映画の観客は花柳章太郎の芸をまるで菊之助の芸を見つめる歌舞伎の観客として堪能するのである。これは不思議な感覚で、私たち観客は二重の楽しみをもつのだ。 なるほどこの特殊なシークエンスは、カットつなぎでは起こり得なかった興趣であろう。花柳章太郎にしても、カットつなぎではこのような流麗な持続感を演じることは不可能だったであろう。10分間のワンシーン・ワンカットは、花柳章太郎にして初めてできたことで、他の俳優では不可能だったのかもしれない。すくなくとも歌舞伎を演じるということは。 お徳の役は溝口の腹案では田中絹代だったらしい。田中が所属していた松竹が貸出すことを断ったのである。しかたなく別の女優で撮影を開始したが、溝口は気に入らず、3日ほどでその女優を降ろしてしまった。そこで花柳章太郎が自分の新派の女優だった森赫子を推薦した。彼女は映画出演は初めてだったが、溝口の過酷な演出に怖じることなく見事にお徳を演じきったのである。 ところで先日、溝口映画のなかの団扇について述べた。『残菊物語』でも団扇の地域性がきっちり描かれていた。冒頭部、東京の歌舞伎小屋の観客席に団扇が揺れている。江戸団扇である。そしておちぶれた菊之助が田舎の芝居小屋でイライラしながら使っている団扇は、平竹割りの大和団扇。そのヤボったい感じが菊之助の境涯をみごとに映し出していた。 TV放映されたのはあまり状態のよくないフィルムだった。それしか残っていないのだろうが、ぜひデジタル・リマスター版がつくられることを望む。
Sep 2, 2006
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きょうの朝日新聞は芸術関係の二つの「発見」を伝えて、小さな記事だったが私の注意を惹いた。ひとつは大バッハ最古の直筆楽譜の発見。もうひとつは、2年前にオスロのムンク美術館から強奪されて行方不明になっていた『叫び』と『マドンナ』が発見されたというもの。 ヨハン・セバスチャン・バッハ(1685-1750)の楽譜が発見されたのは、ワイマールのアンナ・マリア図書館の蔵書のなかからだという。正確に言うと、この世界遺産に認定されている図書館は2004年に火災にあい、焼け残った蔵書を整理していて発見したのである。ライプチッヒのバッハ財団が筆蹟やインクの年代を鑑定したところ、その楽譜はまちがいなくバッハの直筆であった。楽譜は2種類あったようだ。ひとつはバッハ13歳ごろのもので、当時北ドイツで活躍していたブクステフーデのオルガン曲を筆写したもの。他は、15歳のときに書き写したラインケンのオルガン曲であった。 新聞記事には13歳の写譜が写真で掲載されていた。下部がちぎれていて完全ではないものの、非常に几帳面な筆蹟であることが窺える。新聞によれば、少年時代のバッハは両親を亡くして雑役夫をして生計を立てていたが、貧しさのなかで懸命に勉強していた様子がわかるという。 いまこのブログを書くにあたり、私の蔵書のなかにバッハの伝記資料として最も基本である妻アンナ=マグダレーナが執筆した『バッハの思い出』があったはずなので探してみたが出てこなかった。で、記憶ちがいがあるかもしれないが、たしかその本にも、少年時代、父親がまだ存命であったころから、父の大切にしていた楽譜を夜中に乏しい蝋燭のあかりで筆写したと書いてあった。私はその部分を読みながら想像がふくらんで、まるで映画を見ているように少年バッハの写譜する姿が目の前にうかんできたことを思い出すのだが、いま、その私の想像に新聞の写真の楽譜が重なってくるような、いささかの興奮をおぼえるのである。 さて、もうひとつの盗まれた『叫び』が発見されたという記事。損傷もほとんどないらしいので、ムンクについて二つの論文を発表している私としても、まずは御同慶の至り。 オスロのムンク美術館というのは、ムンクの死後、アトリエに遺されていた作品や彼のメモなどすべてがノルウェー国家に寄贈され、それを基礎にして設立された。ムンクの晩年はまさに功成り名を遂げた大芸術家として遇されていたけれども、そこに至るまでは自国においてはほとんど認められなかったのだった。ムンク芸術には「故郷喪失者」の一面があるのである。 ついでながら、彼の芸術を積極的に認めたのはドイツ表現派の画家たちであった。したがってムンクの作品はドイツにかなり存在していたのだが、ナチスの時代になってヒットラーはそれらの作品に「頽廃芸術」の烙印を押し(82点が押収された)、外貨を稼ぐために国外美術館等に売却したのである。ここに一つの興味深い事実がある。この頽廃美術の選定を指揮したのはナチ宣伝相ゲッペルスであるが、彼は実はドイツ表現派の作品、特にエミール・ノルデの絵を好み、ナショナル・ギャラリーが所蔵していた作品を持出して自宅の部屋に飾ったいた。そしてまた、ムンクもお気に入りの画家であった。1933年、ムンクの70歳の誕生日に祝電を打ち、そのなかで最大限の讃辞をのべている。ムンクに頽廃芸術家の烙印を押すのはそれから4年後のことである。 『叫び』発見の記事とは直接関わりないことを述べたが、その話題に立ち返ると、私はこの盗難事件を2年前に何だか釈然としない思いで聞いたことを思い出す。というのは、ムンク美術館の強奪事件は2度目でなかっただろうか。私の記憶ちがいだろうか。もう20年くらい前になるが、やはり『叫び』が盗難にあい、後に発見されたという事件。……2年前の事件は白昼のことだったので、私はこの美術館の防犯システムに疑問をいだいたのだ。『叫び』という作品はカルトン(ボール紙)に描かれているので、キャンヴァスのように巻くことができないのだ。しかも91cm×73.5cmという大きさ。額縁を加えると丈1mを超えるのである。それを白昼、どのように持出したというのであろう。美術館盗難事件というのは、有名なルーブルのモナリザ盗難事件を持出すまでもなく、例が無いわけではまったくない。しかし、いくらなんでも白昼の盗難となると、美術館側の防犯システムを根本から疑うべきではなかろうか。私の記憶には「怪事件」として刻まれたムンク盗難であった。
Sep 1, 2006
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