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きょうは連休中に読むための古書を探しにでかけた。軽めのものばかり10册購入。 渡瀬信之『マヌ法典----ヒンドゥー教世界の原型』 多木浩二『ヌード写真』 諸江辰男『香りの風物詩』 水上勉『精進百撰』 嶋岡晨『坂本龍馬の生涯』 宮尾登美子『菊亭八百善の人びと』 皆川博子『会津恋い鷹』 阿井景子『龍馬のもう一人の妻』 阿井景子『築山殿無残』 小林章夫『イギリス精神----紳士の国のダンディズム』 本日の我家の夕食。 えんどう豆の御飯 精進揚げ うどの酢味噌和え スモークドサーモン 建長寺汁
Apr 30, 2006
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ゴルデンウィークの第1日目、家人たちは朝からみな出かけてしまった。私はひとり残って、家のペンキ塗りをする。 先日、裏の小屋根を野地板から剥がして、すっかり修理してもらった。丁寧な仕事ぶりで、4人がかりで結局一日仕事だった。専門家は専門家らしい仕事をしてもらわなくては困ると厳命してあるので、怖い親爺だと思っているかもしれない。普段、猫達がその屋根のうえで遊んでいる。私の二階の部屋の真下なので、錠をはずしておくと勝手に窓を開け、そこから飛び降りるのである。修理が終わって職人さんたちが帰ると、さっそくやって来て窓をあけた。しかしいつもと様子が変ったと思ったのだろう、飛び降りずに、首だけのばしてあっちを見たり、こっちを見たり警戒している。いままでは茶色っぽい色だったのが、黒っぽいダークブルーになった。色調の変化を不思議がっているのかもしれない。私は黙って、その様子を見ていたが、やがて意を決してヒョイと飛び降りて出ていった。 屋根がきれいになってみると、戸袋や廂下の木部を塗り直したくなった。たしか物置に油性塗料の買い置きがあったはずだったので見てみると、手付かずの外回り用のオイルステインが一缶あった。それで、前日、家人たちにDIY(Do it yourselfではなく、DIM;Do it myselfだな)を宣言したのだった。家人たちは「やめておきなさい」とは言わない。というのも、なにしろ4,5年前、この家の内装をすっかり私がやってしまった実績がある。先日の屋根職人の親方はじめ不動産屋をおどろかせ、畳屋さんの「うちの会社に入ってもらいたいくらいだ」というお世辞を真に受け、気をよくしていた。 実のところ、体力の消耗は相当なもので、これが最初で最後だと内心でおもっていた。けれども、4,5年も経つと、大変だったなという思い出はあるが、とにかく何でも自分でやってしまいたい私の性分だ。家人たちを追い出して、玄関回りや、家の前面の塗り替えに着手したのだった。 高いところは、落ちたら助けてくれる者が家にいないから、そこは慎重に作業をすすめ、3時間くらいで予定の部分は塗り終えた。われながら見事な手際だと自画自賛した。こういう仕事は自画自賛が大切だ。自分を操縦する技術なのである。 さて、前面がきれいに出来上ったので、今度は裏面もやりたくなった。それはこの連休中にでもまたやることにしよう。
Apr 29, 2006
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18世紀、----バロックのロココ時代とみなされるこの一見華やかな世紀。泡立つ波頭のように渦巻く過剰な曲線。春のように軽やかな淡い色彩と対比して置かれる、黄金の輝きを放つ花飾りや唐草模様。とろとろと甘やかに流れるラモーやクープランに代表される音楽の調べ。 そしてまた、「光の世紀」と称される知性と合理主義の時代。ルソーやディドロやヴォルテエル、そしてゲーテ、『百科全書』の序説を執筆したダランベール、『精神について』のエルペシウス、『自然の体系』のドルバック、『博物誌』のビュフォンや『回想記』のカザノヴァの時代であった。 同時に、マルセル・ブリヨンに言わせれば、「魔術と似而非(えせ)神秘思想、異様なほどの超自然主義などがアクティヴに横行した時代」でもあった。すなわち、夜の闇を透かして人間意識の深淵を見つめたピラネージやゴヤの時代である。 17世紀バロックの骸骨図像には激しい生死の格闘のドラマはなかった。静物画としての骸骨図は、いささかの憂鬱はあるにしても、「死を想え」という教訓性はない。それは18世紀のロココ様式の時代にも引き継がれたかにみえる。心の重荷を解き放ち、死の瞑想のかわりに生を謳歌せよとでも言うように。 しかし、本当にそうなのだろうか? 私がたまたま例示したかに思えるかもしれないが、「夜の闇を透かして人間意識の深淵を見つめた」のは、何故、画家たちだったのだろう。 いや、ここにサド公爵の名前を付け加えてもよい。サドの小説の残酷至上主義の登場人物が女の肉体を傷付け、引き裂くことによってそこに露呈したもの。それはゴヤや、ピラネージや、奇妙な解剖図を描いたゴーティエ・ダゴティや、ヤコブ・ショイクザーの作品の独自性として指摘できることとまったく同じであると言ってよかろう。 18世紀の学問的な解剖図、したがって骸骨図には、科学的な精密な観察によりそって奇妙な幻想がたちあらわれる。合理主義のなかに突如出現する超自然主義。 絵を見てみよう。 ベルンハルト・ジークフリート・アルビヌス著『人体の筋肉と骨格の構造』に付けられたヤン・ワンデラール(1690-1759)の銅版画。表皮を剥がされて骸骨が、まるで生きている者のようにポーズをとるのはいいとしても(何故いいのか、言った私も無責任だが)、後ろのカバはいったいどういうことだろう。骸骨にはまだ靱帯や腱や横隔膜が残っている。貴族的と言いたい、誇り高い姿。カバを調教するかのように、余裕たっぷりに差し出された左手。分厚くザラザラしたカバの皮膚とは対照的な、そのツルリとした筋肉。しかし両者の関係を説明するものは何もない。ただ妙におさまりのいい一枚の「絵」だ。 ベルンハルト・ジークフリート・アルビヌス著『人体の筋肉と骨格の構造』に付されたヤン・ワンデラールの銅版画。 ゴーティエ・ダゴティの『解剖学図解』の骸骨もやはり優雅に右腕を差し出している。ひとり超然として壁に向って。左後方から射し込む光が、骸骨の黒い影を壁に投げかけている。この影。 あるいはヤコブ・ショイクザーの『フィジカ・サクラ』においては、海辺の岩の上にたたずむ三体の骸骨たちに、天空より光が射している。この光。(左)ゴーティエ・ダゴティ『解剖学図解』(1759年)より「骸骨とその影」。(右)ヤコブ・ショイクザー『フィジカ・サクラ』(1723年)より。 これら異常なアイデア。悲劇的な滑稽。ここに描かれているのはもはや単なる死ではない。死イコール無ではなく、死してなお何等かの行為がつづき、感覚を保持しているというグロテスクな幻想である。学問的に、科学的に、人体解剖をすればするほど、これら特別な才能をもった創造力のある画家は、生命の神秘に遭遇した。彼らの描いたのは、強圧的な説教とは無縁の、現象としての死ではなく、生命とは何かを探究するために描いた一枚の絵。 サドの主人公とゴーティエ・ダゴティの解剖図を比較してその類縁を研究したエレンスキーは、ゴーティエ・ダゴティの絵について次のように述べている。 「それらはひとり自分達の影のみを友として、あるかなしかの何気ない背景の前に僧侶のようにたたずみ、皮を剥がれた人間の感覚を露呈しながら孤独と恐怖と絶望の雰囲気を無意識に伝えている。しかし、この種の感情が文学・芸術に登板するのは実は二世紀も後のことなのである。」(“Sous l'eccorce de l'home”より、坂崎乙郎訳による) サドの主人公の残酷至上主義は病的なものであろうが、ゴーティエ・ダゴティには少しも病的なところはない。医学書であるという点からはなんとも理解しにくいけれども、この無気味さがまことに静謐なたたずまいを現出していることは、ほとんど驚嘆にあたいする。これを幻想画というなら、その幻想は図らずも立ち表われたと言うべきなのかも知れない。このダコティのような精神こそ、光の世紀のただなかで闇を透かして人間意識の深淵を見ようとした精神なのである。
Apr 29, 2006
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学問的性格をそなえた解剖図というのは、言うまでもないが、宗教性や倫理性からは切り離されている。つまり解剖図の骸骨には、心霊修行にみられるような生と死との激しいせめぎあいはない。観察を主としたその理知的な感性は、17世紀初頭から18世紀半ばに流行したバロック様式の性格に引き継がれる。ことに17世紀の一方の流行であったマニエリスム様式の奇想性に対しては、バロック様式は一層現実感が強調されて出てくる。昨日見たロボットのような人体表現の奇想性に比較すれば、その現実感は一目瞭然であろう。 骸骨図に関して言えば、「ヴァニタス(はかなさ、虚栄)」の主題が一種の隆盛をきわめるのだが、しかしそれは瞑想のためでもなく、いわんや生死の問題を厳しく問うものでもなかった。バロックにおいては死(骸骨)は一つの美的な対象だったのである。骸骨は静物画の格好のモデルであり、儚さや虚栄を象徴する物たちと何等変ることはなかった。静物画として描かれた骸骨は、生と死に関する教訓を導きだす役目を負わされてはいないと言ってよい。 では、いったい何がそこにはあるのだろう? 死という現象があるのだ。消えてなくなる、壊れてなくなる----そういう現象があるのだ。そのことを冷静に観察し、美としてとらえている。その現象に順応する死生観。 前世紀の心霊修行における死の瞑想は、現世否定、来世肯定の、再生をかけた極めて深刻なものであった。頭蓋骨を見つめ、触れることはそれなりの効用があった。聖人たちの死の瞑想図は、死の勝利を唱い上げ、この世における罪の悔悛に実際的な効果があったのである。 しかし17世紀の静物画としての骸骨は、そういう瞑想の実際性どころではない、むしろ実際性を否定しているのだ。ニヒリズム、----そう、この「ヴァニタス」は世紀のニヒリズムを証明しているのである。 ピーテル・クラースゾーン『ヴァニタス』油彩、1625年作。 クリスペイン・デ・パス(子)の原画による『ヴァニタス』17世紀。 レンブラント(1606-1669)『ヴァニタス』油彩。(左)ヤン・ゴサールト(生没年不明)『頭蓋骨』油彩。(右)ホルツィウス(不祥)『ヴァニタス』銅版画。17世紀。
Apr 27, 2006
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ヴェサリウスの解剖学によって医学は心身分離の方向へ決定的な歩みを始めた。そしてこの心身の二元論的関係は、哲学的にはデカルトによる前提のない哲学を受け入れた新時代を迎える。それが17世紀である。 デカルトの心身二元論を簡単に述べれば次のように言えよう。〈物質の本質は拡がりであり、精神の本質は思考である。この両者に共通点が少しもないならば、心身の結合は機械的なものでしかない。人間は神によって土から作られた精巧な自動機械とみなすべきものなのだ。心はこのような肉体の内に住み、肉体と密接ではあるが、両者は内面的に結びついているのではない。心と肉体は互いに独立した存在なのである。肉体は、それそのものが一つの完全な機械なのであって、ただ心によってその機械にある種の動きが引き起こされるにすぎない。心が肉体に接触しているのはただ一点、脳髄の中央にある松果腺である。なぜならば、脳は左右対になっているので脳全体に心の座を置くと、心は対象を二重に知覚してしまうことになり、それではぐあいが悪い。脳髄の中央にある松果腺こそが心の座なのである。〉 なんだか笑いたくなってしまうが、これが人類の考えた偉大な成果のひとつなのだ。人間というのはまことに哀れな生き物で、他のあらゆる生物のように本能にまかせて生きられない。本能が壊れた生物。つまり他のあらゆる生物は自分達の種を保存するべく生きていて、それが本能というものなのだが、人間はこれが壊れているため、本能に代る行動原理の概念や思考原理の概念をいちいち組み立てて行かなければならない。そうでなければ人間の生命はにっちもさっちも行かない。ということは、その概念の組み立てかたによっては、人類が破滅するという結果にもなりかねないだろう。人間というのはいつもいつもそういう破滅の瀬戸際をかろうじていきている生物なのだ。 まあ、ちょっと他の生物になったつもりで考えてご覧なさい、哲学者なんて他の生物からみるとほんとにバカです。生き方が分らなくて四苦八苦しているのですから。考えれば考えるほどド壷にはまって、幻想に幻想を重ね、こんぐらかった網の目に首をつっこんで窒息しそうになっている。このバカ者の姿----これが人間なんですね。エッケ・ホモ(この人を見よ)です。 それはともかく、デカルトは前世紀からの思潮を受けて、しかしその思潮を哲学として言語化したという点では、まったく新しい概念を創成したのだった。こうして17世紀は幕をあけた。 グスタフ・ルネ・ホッケは、マニエリスム美術論『迷宮としての世界』のなかで、「17世紀には〈畸形〉が流行になる。」と書いている。「正常な形体の否定と視覚的不条理におけるその歪曲。表現的マニエリスムでのように幻想に規定されるのではなくて、いまやひたすら物理学的計算に規定される。その限りでは、むろん、それは依然として〈抽象的〉である。ひとびとは、このような実験の中で幾何学的抽象のポエジーを体験する。」と。そしてこの流行がその後、数世紀にわたって現代までつづくヨーロッパのひとつの伝統を形成してきたと述べる。「称揚されるのは〈神秘的な遠近法〉と〈畸形の魔術〉である。〈自動人形〉もまた、反自然主義的遠近法から生れてきた。すなわち、デューラー、エハルト・シェーン、とりわけブラチェルリのロボット、20世紀初頭にあれほど人気を集めたあの〈活人形〉。ヨーロッパの反自然主義的古典的伝統は----その光輝と悲惨のうちに----数世紀にわたって営々とひとつの反擬古典的人文主義的集団を形成しつづける。」 ルネ・ホッケは指摘していないけれど、彼が例示したエハルト・シェーンやブラチェルリが描いたロボットのような人体は、あきらかに人間機械論の哲学の影響下にあるとみてさしつかえなかろう。そしてそれが20世紀のジョルジュ・デ・キリコやフェルナン・レジェの遺伝子であるばかりではなく、今まさに我々現代のロボット人気や医学的なサイボーグの問題までつながっているのである。 私たちは骸骨図について考察しているけれども、17世紀の骸骨図を見るまえに、これら人間機械論の影響下にあるロボット状の人体図にも留意しておこう。ルネ・ホッケが17世紀には〈畸形〉が流行したというのは、骸骨図においては一つの知的な遊びとなって表われている。そのことについては回をあらためて検証する。エハルト・シェーン『人体図式』17世紀ブラチェルリ『兵士』および『舞踏家たち』17世紀
Apr 26, 2006
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ここ数日、私の骸骨図聚成から典型的な図像をピックアップして、その成立の背景を見てきました。この後、17世紀から現代まで検証する予定でしたが、きょうは私は所用があるのでそれはまたの機会にいたします。ということで、我家の猫たちの素描をごらんください。 チャコ;撮影は私です。
Apr 25, 2006
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アンドレアス・ヴェサリウスがスイスのバーゼルで『人体構造』を刊行し(1543年)、ヨーロッパのカトリック教国ではメメント・モリ(死を想え)の図像がさかんに描かれ、またトランジ墓が出現した頃、ドイツでは宗教改革が叫ばれ、それに抵抗して巻き返しをはかるローマ・カトリックの反宗教改革が、同時に進行していた。そしてそれは15世紀初頭頃から起ったイタリア・ルネサンスともピタリと重なっている。宗教・科学・芸術----ヨーロッパの精神史はまさに「花も嵐も」の世紀だった。 宗教改革については述べるまでもないと思う。ドイツから使者としてローマに赴いたマルティン・ルーテル(ルター;1483-1546)は、権威主義の教皇制度の不合理に直面した。1517年、教皇が贖宥状(免罪符)を販売していることに抗議する95カ条からなる意見書を提出。ルーテルの主張は、ただ信仰だけが神の国におもむける道であること、その道を示すのはただ聖書のみで、教皇の権威は必要がないというものであった。 改革の要点をもうすこし述べてみよう。 その当時のカトリック教会と教皇政治の根幹にあったのはスコラ哲学の神秘主義であった。宗教改革とは、まずそのような教会と教皇政治からの解放を意味した。すなわち国家と市民社会を獲得し、自然と現実に目をむけること。信仰は教会権威による強制ではなく、あくまでも一人一人に自律と思考する自己意識をもとめ、自分の良心、自分の確信のうえに成り立つ純粋に人間的な権利を主張したのだった。このことは、救済もまた自己の心の内でおこなわれなければならず、罪の贖(あがな)いも浄化も自らがおこなうということだった。これまで教会の権威のもとに祭司がおこなってきたことを排したのである。 ルーテルはカトリック教会に対抗するプロテスタント教会を設立し、改革の灯はまたたくまにヨーロッパ全土に拡がった。決着がついたのは、ドイツにおいては1559年のアウグスブルグ宗教和議によって、またフランスでは1598年のナントの勅令によってであった。 ところで骸骨の図像について検証している私たちにとっては、むしろ反宗教改革のほうを見ておく必要がある。 ローマ・カトリック教会は失われた権威の基盤を回復するために、1545年から1563年の間に数回にわたってトリエント公会議と称される宗教会議を開いた。主な議題はカトリック神学の明確化だった。これと平行して、イグナティウス・デ・ロヨラ(Ignatius de Loyola;1491-1556)は教皇を首長に戴く「イエズス会」を設立、学問僧を養成するとともに峻烈な宣教活動にのりだした。ロヨラがめざしたのは厳しい修行による神との合一であった。それは日常から離脱して自らを浄化し、鮮烈な魂となって神と一体になるというもので、彼はそれを心霊修行といっている。『心霊修行』という書も著し、1548年に教皇パウルス三世は教会の神聖な書物として認可した。 この書物に、日常離脱の修行法として「死の瞑想」というのがあった。修道僧たちは実際に頭蓋骨をそばにおき「死の瞑想」をした。また、カプチン派の修道院では、修道僧が亡くなるとその遺骨を地下礼拝堂に積み重ね、あるいは骨のシャンデリアなどをつくって礼拝堂を装飾した。ローマには「骸骨寺」と称される寺院があるが、数千体の骸骨が山積みされている。いまでは観光客に見物をさせてくれる。 メメント・モリの図像とは別に、髑髏を見つめながら瞑想する聖人の画像がさかんに描かれるのは、したがってロヨラが提唱した心霊修行以後のことなのである。 アルブレヒト・デューラー(1471-1528)(左)『屋内の聖ヒエロニムス』銅版画、1514年作。(右)『瞑想する聖ヒエロニムス』 (左)カラヴァッジョ(1571-1610)『瞑想の聖フランチェスコ』(右)フセペ・デ・リベラ(1591-1652)『聖オヌフリウス』(左)バルテロメ・シュプランガー(生没年不明、16世紀)『マグダラのマリア』(右)ローマのカプチン会修道院の骨で作られた装飾。
Apr 25, 2006
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中世から15世紀頃までの医学はギリシアから起りイスラム文化圏で発達した。これは宗教が科学的な思考を疎外しなかったことを意味する。もっと端的に言えば、人間の肉体を霊魂の仮の容器と考え、霊魂により高い価値をあたえるキリスト教文化のもとでは、科学的であるべきはずの医学も多分に幻想に支配されていたのだ。 1500年代初期以前のヨーロッパ諸国で使用されていた医学テキストは、大部分を中世のイスラム医学およびその解説書に負っていた。これらのテキストは、ギリシア語からシリア語に翻訳され、次にシリア語からアラビア語に翻訳され、そこからようやく不明瞭なラテン語に翻訳されるというぐあいで、イスラム医学もほとんど破壊されたような状態であった。ギリシアの医学者ガレノス(Galen;129頃-200頃)の著作集がニコロ・レオニセノ(Nicolo Leoniceno;1428-1524)によってギリシア語から直接ラテン語に翻訳されたのは1514年のことである。 16世紀に2,3世紀頃の医学書が最良の書であったというのは驚く。ちなみにガレノスはローマに行き、マルクス・アウレリウスの侍医になった人である。 いや、2,3世紀の書物ばかりではない。医学の祖といわれる紀元前のヒポクラテス(Hippokrates;B.C.460頃-375頃)の書も、当時、実際の治療に使われていたのだ。人間の生死に関わる医学といえど、社会を覆い尽している宗教が幻想を追うばかりで生命に無頓着だと、発達を阻止されてしまうということだろう。 これらの書物に書かれていて、当時、もっとも頻繁におこなわれていた治療法は「瀉血(しゃけつ)」だった。患者の静脈から「悪血」を体外に除去する方法である。もちろん現代医学の観点からも認められるところはあるのだが、しかし当時は瀉血による死亡が続出したらしい。じつはこのような事態が頻繁に起ったことによって、いよいよ人体観察という科学の目が生れる。それは解剖学であった。 16世紀初頭の医学生はガレノス法解剖学を自然に受け入れていた。いまでは解剖学の祖と称されるアンドレアス・ヴェサリウス(Andreas Vesalius;1514-1564)もまた例外ではなかった。ヴェサリウスはこう書いている。「ガレノスに対する深い愛情と崇敬にかわるものは何もない私だ。彼を讃えることが私の喜びだ」 アンドレアス・ヴェサリウスはベルギー中部ブラバントのブリュッセルに生れた。17歳のときにオランダのルーベンに移り、そのころジェローム・ビュースレイデン(Jerome Busleiden;1470-1517)の新ヒューマニズの影響著しく最も進歩的だった「三カ国語高等学校(Collegium Trilingue)」で学問的出発をした。三カ国語というのはラテン語、ギリシア語、ヘブライ語である。21歳のときに、北方ヨーロッパで最も偉大な名声と影響力をもっていたパリ大学に行くが、その後、ライデン大学、パドゥーア大学と移り、新しい医学や哲学を修めて行った。医学博士の学位を授与されたのはパドウーア大学においてであった。 ヴェサリウスはガレノス法に対立する立場はとらなかったが、ガレノスの解剖に関する記述がヴェサリウスの観察と異なる場合は、ガレノスが正しいのか自分の観察が正しいのかを見極めたうえで、ガレノスの間違いを訂正した。「私は、私に対する敵意を耳にしている。医学の王子にしてあらゆる事柄の教師ガレノスの権威を、私が軽蔑していると。あるいは、私がガレノスのすべての見解を無差別に受け入れることをしなかったと。そして、要するに、彼の書物にある誤謬を、私が実証したと。このような風評はまったくもって公正に欠けている。私に対して。私たちの学問に対して。そして実際のところ、私たちの世代に対して!」 1000年以上の長きにわたって医学の理論的権威であったガレノスへの社会評は、信仰にちかいものであったろう。そればかりではなく解剖実習は、死の安息を冒涜するものと宗教者たちは非難したのであった。ヴェサリウスや彼の医学生たちは、深夜、刑場の死体置場に忍び込んで、解剖実習用の屍体を盗まなければならなかった。 ルネサンス時代の偉大な宝物であるヴェサリウスの著書『人体構造』(“De Humani Corporis Fabrica”、1543)および『典型』(“Epitome”1543)は、このような苦労のすえに生れた。この本の素晴らしい木版挿図のアーティストは、フラマン人のヤン・ステファン・ヴァン・カルカルである。ヴェサリウス医学書のイラストレーターが誰であるかという問題ははやくから議論があった。それらの優れた挿図は、マルカントニオ・デッラ・トッレの解剖学全集のためにレオナルド・ダ・ヴィンチが準備した素描からの、あからさまで猛烈な剽窃だという意見だった。カルカルがヴェサリウスのためにそれらの挿図をすべて制作したということが判明したのは20世紀になってからである。ヴェサリウスとカルカルの出会いはカルカルが28歳のときであった。ヴェサリウスはこの若き芸術家の仕事をこころから信頼し、尊敬していたのだった。ヴェサリウスが1538年に出版した『図解六種(Tabulae Sex)』について、彼は最初の3点の挿図がカルカルの製作であることを明言している。ヴェサリウスは解剖学実習生に講義するにあたり、実習生があまり理解ができない様子(つまり、実際に解剖をしながら説明しても、訓練が行き届いていないと、見えるものも見えないらしいのだ)なので、彼は図解を出版することにした。そうして日頃尊敬していた芸術家ヤン・ヴァン・カルカルを雇い、ふたりの共同作業がはじまったのだった。ヴェサリウス『人体構造』より。木版画。1543年。 ヴェサリウスの活躍した場所が広くヨーロッパ諸国にまたがっていることは留意される。それとともにヴェサリウスが開いた近代医学に通じる道は、やはり大きな時代思潮の波にのっていたのだということも述べておかなければならない。 たとえば昨日例示した図版、ツヴォルの版画家の『メメント・モリ』に描かれた腐敗して骸骨のようになった死体は、実際の死体を観察して描いたと断定できる。腕や手が内側に彎曲しているのは実際に観察しないでは得られない「情報」だからである。画家の目が幻想によって曇らされていないのだ。それは科学する目である。 あるいはヴェサリウス『人体構造』より91年早く刊行されているブルーノ・パヴィア著『外科』(1452)は、いまだ観察に観念の残滓をくっつけた図像を載せているが、それでもなお書名が示すように医学が旧態から一歩踏み出ようという気概はうかがえるのではあるまいか。 そして私たちはレオナルド・ダ・ヴィンチの広範な解剖所見を忘れることはできない。ヴェサリウスの著書のイラストレーターが、ダ・ヴィンチから剽窃したのではないかという議論があったことは前述したとおりだ。ダ・ヴィンチの解剖図は、たとえば性交図や子宮内胎児図のように必ずしも正確でないものもあるが、すくなくとも実見した人体構造については近代科学者の目をもった正確さで描かれている。ここに掲げる頭蓋図は1489年に描かれた。 さらにシャルル・エスティエンヌ著『人体各部の解剖』もあげておこう。(左)ブルーノ・パヴィア『外科』より。1452年。(中)レオナルド・ダ・ヴィンチ『頭蓋の前面図』1489年。(右)シャルル・エスチエンヌ『人体各部の解剖』より「末梢神経組織」。木版画。1530-39年。 肉体を霊魂の仮の容器として肉体に価値を与えなかったキリスト教の教義の中世ヨーロッパ社会では、真に科学的な医学は発展を阻まれていたが、一旦風穴が開くと、むしろ心身分離論を発展させた「科学的」医学には都合がよかったいえる。16世紀に入り登場するデカルトは、この心身分離論を決定的なものにした。そこからは人間機械論が派生し、それは医学的には現代に通じる道であった。 このデカルトの哲学に対して、現在、特に宗教哲学や宗教心理学の分野にある学者から否定論が出てきている。現代の最先端医学、特に臓器移植やサイボーグに対する杞憂から、その哲学的根源をデカルトの心身分離論と指摘して、デカルトを無効にしようという考えである。私はあえて言うが、それはあまりにも時代の思潮というものを閑却しすぎるというものだ。デカルトを否定するならそれ以前のヴェサリウスも否定しなければなるまい。レオナルド・ダ・ヴィンチも否定しなければなるまい。馬鹿馬鹿しい。歴史を否定できるものではあるまい。400年以上前の歴然としてあった時代思潮(哲学)をやっきになって否定するより、あたらしい哲学をつくったほうがよほど有効であろう。真に新しい思想というのは必ずしも学統につながるものでもないことは、少し頭を働かせれば分ることだ。
Apr 23, 2006
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15~16世紀のヨーロッパの骸骨図は、おおまかに言って二つの流れをもっている。 一つは、「メメント・モリ」(死を想え;Memento mori)や、「ヴァニタス」(空虚;Vanitas)、あるいは「トランジ」(移ろいゆくもの;Transit)や、「ダンス・マカーブル」(死の舞踏;Danse macabre)と称される、キリスト教の直接的な影響下にある図像。 もう一つは医学の発達にともなって出版された解剖学書に付された図像である。 昨日述べたように、神はアダム(人間)を塵から創り、死ぬべき運命を与えた。キリスト教徒にとって肉体は塵にすぎず、この世は「涙の谷」。やがてその肉体は再びただの塵として土に還り、神が吹き込んだ息である霊魂は、肉体の牢獄をのがれてやすらかに神の御元へと天を昇ってゆく。----これが、ごく普通の信念であった。死こそが安息。 したがって「メメント・モリ」や「ヴァニタス」の図像は、死の恐怖を観想しているのではなく、霊魂の救済を願い、祈っているのである。そもそも墓というものが、中世では、死を悼むというよりもむしろ救済の願いを表わしていたと、E・パノフスキーなどは言っている(『墳墓彫刻』)。 ツヴォルの版画家『メメント・モリ』銅版画(部分)、15世紀後半。 ハンス・ヴェヒトリン『ヴァニタス』木版画、15世紀初頭。「トランジ」については少し説明が必要かもしれない。 これは1400年前後に出てきた特異な墓の図像学上の名称で、移ろいゆくものという意味であるが、墓碑に腐敗屍体像が彫刻されている。この形式の最も初期の例は、元来フランスのサン・マルシャル聖堂にあったもので、現在アヴィニョンのカルヴェ美術館が所蔵する『ラグランジュ枢機卿の墓碑』である。全体は三つの部分からなっている。柩状の台のうえに聖母子や大天使ミカエルや他に聖人の彫刻がならび、その下に衣をつけたラグランジュ枢機卿の横たわった彫像、さらにその下に枢機卿の腐敗像が横たわっている。 この墓碑にはおおよそ次のような銘文が刻まれている。すなわち「私は世の中のために見世物をつくらせた。老若男女、よくよく私の姿を見るがよい。そして自らの行く末に想いをいたせ。どんな人でも死を逃れることはできないのだ。哀れな者たちよ、なにゆえ驕慢なるか。あなたがたは塵灰なのだ。私と同じ汚い屍体だ。蛆虫の餌だ。塵に還る者たちなのだ。」 この碑文を見れば、墓が死者への哀悼として存在するのではなく、倫理的教訓を説く絶好の機関としてとらえていることがよく分る。善き死は、最後の審判において天上の王国へ導かれる通行手形なのだった。死は新しい生(再生)の始まりという強烈な信念が、トランジ墓にはこめられているのである。 『ラグランジュ枢機卿の墓碑(部分)』1402年没。カルヴェ美術館蔵。「ダンス・マカーブル、死の舞踏」図の発生については非常に明確である。そういう意味では図像学のなかでは極めて珍しい例なのだ。小池寿子氏によれば1424年、パリのサン・ジノサン墓地に始まるという。1424年8月から約半年かけて壁画が制作された(17世紀に道路拡張工事のため破壊された)。その後ロンドンやバーゼルでも制作されたが、いずれも後世に破壊されて残っていない。 ダンス・マカーブルは美術上の図像の問題としてばかり捉えることはできないようだ。死者の罪と赦しを請い、復活を願いながら、手をつなぎ行列をなして墓地まで踊りながら行進したらしい。墓地につくと説教者が、前述したラグランジュ枢機卿の墓碑銘とほとんど同じようなことを語った。 ダンス・マカーブルの図像が広く伝播し、また図像の形態をよくとどめることになったのは、1485年にギュイヨ・マルシャン刊の『死の舞踏』がベストセラーになったことが大きく寄与していると、小池氏は述べている。 ハルマン・シエーデル著『ニュルンベルク年代記』より「骸骨の舞踏」。木版画。15世紀後期。医学書のなかの骸骨図については次回にまわします。
Apr 23, 2006
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アダムとイヴについては何の説明もいるまい。旧約聖書創世記の第2章4節の後半から第3章23節までがその物語である。 ヤハウェ神がイヴを創造する次第はこんなふうに書かれている。 「ヤハウェ神はその人(アダム)を深く眠らせた。そしてその肋骨の一つを取って、その場所を肉でふさいだ。ヤハウェ神は人から取った肋骨を一人の女に造り上げ、彼女をその人のところに連れてこられた。人は叫んだ。『これこそわが骨から取られた骨、わが肉から取られた肉だ。これに女という名をつけよう、このものは男から取られたのだから』 それゆえ男はその父母を離れて、妻に結びつき、一つの肉となるのである。人とその妻とは二人とも裸で、たがいに羞じなかった。」 ヨーロッパ美術史におけるアダムとイヴの図像は大方におなじみであろう。12世紀初期から中期にかけて活躍した彫刻家ギスレベルタス(Gisulebertus)は、1130年に教会の建築装飾として『イヴ』を制作していて、それは智慧の木の実のそばに横たわるイヴの姿である。しかしながら、おそらくこの彫像はアダムとイヴの図像としては最も早い時代に属すかもしれない。 ギスレベルタス『イヴ』1130年 西洋にしろ東洋にしろ、美術というのは宗教の教義のイラストレーションとして発展した。したがって聖書の物語の図解がヨーロッパ美術史の初期から始まるのは当然なのだが、創世記についてはかならずしも一般的モチーフではなかったようだ。それがかなり頻繁に登場するようになるのはイタリア・ルネサンス期、15世紀から16世紀にかけてである。代表的なものは、誰でもすぐに想いうかべることができるミケランジェロのシスティナ礼拝堂の壁画(1508-12)であろう。それより約80年早い、マザッチョによるフィレンツェの聖マリア・デル・カルミネ教会ブランカッチ礼拝堂の壁画を想い出す方もあるかもしれない。 いずれにしろ数多くのアダムとイヴの像が制作されている。ルネサンス期に創世記に題材をとった作品が登場するのは、新訳聖書のキリストの生涯を図解する際に、その予兆ともいうべき旧約のいわば掘り起こしがおこなわれたのだった。そしてカトリック神学においては、キリストの十字架磔刑(たっけい)とその後の復活の前提として、アダムとイヴの楽園追放後の「運命」が重要だったからである。 カトリックの信仰の核心は何かと尋ねられて、こたえられる人はどのくらいいるだろう。随分失礼な言い方で申し訳ないが、ローマ教皇は千数百年の間こんにちまで、血みどろになっていったい何を護っておいでか、おわかりだろうか。「イエス・キリストが諸人の身替わりとなって十字架にはりつけにされて罪のあがないをして死に、復活した」----このことがカトリックの信仰の核心である。「エッ?」と思われるかもしれない。そうなんですよ。ローマ教皇のお役目はその「事実」を護ることなのです。 では、それを認めない人もいるのか? いるのです。それがプロテスタンティズム(新教)です。プロテスタンティズムというのは、イエス・キリストの救済は受け入れるが、十字架で磔刑にされたということを認めないのです。 それぞれは、信仰の前提がまったく異なるのである。つまりローマ・カトリックとしては、イエス・キリストの十字架磔刑を否定されるということは、バチカンを頂点とするカトリック教会そのものの存在理由がなくなることを意味している。 ところで「キリストの十字架磔刑」と「アダム・イヴ」との神学上の関係について述べれば、こういうことが言えよう。 アダムとイヴは楽園を追放された「人間」として、労働に汗し、子を生み、そして死ななければならい。これが「運命」ということである。死ななければならないという人間の定め(運命)は、楽園追放とともに付加された人間の属性なのだ。英語のmortalという語は「死を免れない運命」を意味し、「人間」ということである。fatalとも同義語だ。この言葉の中にアダムとイヴの物語がある。 これに対してイエス・キリストは一旦死んで復活し、永遠の生命を証明している。immortal(不死の人、神)という言葉の真意はそういうことだ。 キリストの磔刑図では、正統的にはこれらは対になって一緒に描かれている。キリストが磔にされた場所はゴルゴダの丘といわれ、ここはもともとローマ政府の処刑場である。また、アダムが埋葬された場所という伝説がある。そのため図像学的には十字架の足許に髑髏がころがっているのが正しい。そしてじつはその髑髏にはアダムとイヴの「運命」が反映しているのである。これによってキリストの十字架磔刑図は神学的な要諦をみたすことになる。 ジョヴァンニ・ベリーニ『十字架のキリスト』15世紀末頃。 私はここに興味深いイヴの図像をお見せしよう。『死の不安の影響下にある原初の両性具有の女性的側面としてのイヴの状態』という、やけに長いタイトルがついている。“Miscellanea d'alchimla”より。14世紀。メディツェオ・ラウレンツィアーナ図書館蔵。 じつはアダムとイヴがどんな姿をしていたかは創世記には述べられていない。そのため芸術家のみならず、哲学者や神学者も想像をたくましくしたらしい。たとえば、臍はなかったのではないかとか、いろいろ考えたわけだ。それも当然で、なにしろアダムは塵から創られたというのだから、われわれとはどこか違っていただろう。ここに、「原初アダム」というイメージが発生することになる。アダムとイヴが一体化した球体としての姿は、プラトンの「その昔、愛する者同士は一体であった」という考えに影響されているのではないかと思われるのだが、さらにプラトン哲学を引き継ぐ新プラトン主義の哲学においては、球体といわないまでも両性具有としてのアダム像がいよいよはっきり姿を現わす。ここに掲げた図像はまさに新プラトン主義の哲学の影響下にあり、同時に、台の上の髑髏が、前述した「運命」を表わしている。普通、われわれがなじんでいるアダムとイヴの絵のなかには髑髏が描かれているものはない。例示した絵はそういう意味では、旧約の図解というより新プラトン主義哲学の図解なのである。
Apr 21, 2006
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これはあまり言われていないことだが、宗教というものはどんな宗教であれ、根本のところに人間を選別する思想がある。これが宗派ないし教派という分裂発展をしてくると、その根本に眠っていた思想が、区別や差別というあからさまな形をとる。信仰の核心部分というのはいずれの宗教にしろ善的なものと言ってよかろう。が、人間選別思想が激しくでてくると、グローバルな視点からはもはや収拾不可能な混乱をもたらす宗教悪というべき側面をもつようになる。これは世界の歴史を閲すれば一目瞭然で、その不幸な事態をもったいをつけて糊塗するなら、それは人間存在そのものを侮蔑するにひとしい。 私はかつてある高名な宗教学者に問うたことがある。「宗教学ではいわゆる宗教悪の側面を研究している方はいますか?」と。博士の答えは、「それはいませんねェ。少なくとも日本ではそういう学者はいません」。 つまり乱暴な言い方をすれば、宗教学というのは、かなりナルシスティックな学問で、信じる人が信じたいためにやっているということか? 恐ろしいのは、宗教批判をした学者が殺害されたり、殺人者につきまとわれるという事態が起っていることだ。その殺人者が一人の不埒な人間の行為というなら、凡百の犯罪と同列に考えてもよいだろう。しかしその行為を容認するような声明を当該宗教の権威筋が出すとなれば、これはもう何をかいわんやである。 人間精神とは、ついに狂気の牢獄でしかないのだろうか。 1517年から始まったスペインの南米征服をみるとき、なぜキリスト教徒が、残虐きわまりない所業を半世紀余にわたって、ただひとかけらの悔悟もなく営々とやってこれたのかという疑問がわく。ラス・カサス司教の告発の書『インディアスの破壊についての簡潔な報告』は、翻訳文庫本にして172ページ。なんとそのほぼ全ページが残虐行為の具体的な記述なのだ。その征服を非道と断じ、残虐行為の正しい規模を報告したのは、ラス・カサス司教ただ一人だったということは、スペインのキリスト教徒の心を曇らせていたのは彼等が信じたキリスト教そのものだったと言えるかもしれない。 私の疑問に対する答、もしくは答のヒントになることを司教は次のように書いている。 「スペイン人たちは、インディオたちに多くの醜行や暴虐や償いえない大罪を犯し、そのうえさらに、彼らに戦さをしかけたが、その時に彼らが用いる大義名分がまったく不正で邪悪きわまりなく、あらゆる法に背馳していることも判っていない。それどころか、彼らは罪のないインディオたちを破滅させて手に入れた勝利を神から授かったものと考え、実際にそのように言い、報告している。つまり、予言者ザカリアが第11章で『屠られると定まった羊たちを牧せよ。それらを買うものは殺しても罰せられることはない。それらを売るものは“主は祝されますように。私は金をためた”』(ザカリアの書11・4-5)と語るあの無法者の盗賊たちと同様、彼らもその暴虐を楽しみ、誇りとし、神に感謝を捧げているのであるから、彼らの行なう邪悪な戦いは正しいのだというのである。」(染田秀藤訳、岩波文庫) つまりインディオは、スペインのキリスト教徒にとっては「殺されると決まった羊」だったのである。人間とは思っていなかった。「糞だと思っていた」と司教は述べている。 自分たちは絶対的に善であり、それ以外は改悛させなければならない悪、もしくはそれさえ必要ない「糞」だという傲慢は、冒頭に述べたように、じつは宗教の根本にあるところの人間選別の思想から発しているのである。 原始キリスト教の信仰の核であった「最後の審判」というのは、神による人間選別を明確に言い表わしている。イエスが再臨して千年間の支配(千年王国)の後、全人類が裁かれて善人は祝福されて天国へ、悪人は永劫の罰として煉獄へ落とされるという思想である。審判はイエスの手にゆだねられているとはいえ、常に我こそは神の代理人と思う賢しらには事欠かない。人を悪ときめつけるのは、とても快感らしいのだ。ここにある支配原理は、はっきり言って「恐怖」のイメージを植え付けることである。「最後の審判」思想は、親鸞の『嘆異抄』の悪人正機を説く有名な一節と比較すると、その本質が一層はっきりする。「善人名をもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」(善人はその名のとおりに極楽に行くのだもの、まして悪人ならば改心する余地は十分あるのだから極楽に行けないはずはないではないか) もちろん仏教にも「極楽・地獄」の選別思想はある。しかし親鸞のように悪をそのまま掬いとってしまう考えも出て来る。それに、異端者をかならずしも悪とは考えない。その点はキリスト教とはずいぶん異なるところではあるまいか。 さて、骸骨図を例示する。12世紀から13世紀頃にかけて描かれた「最後の審判」図である。煉獄に落とされた者たちの最終的な姿としての頭蓋骨。うつろな目に蛆か蛇かが巣食っている。キリスト教美術のなかの骸骨は時代によって意味が変ってゆくが、図版のように、天国との対比で死がこのようなイメージで表わされることは後世にはない。したがってこの図は時代思潮の代表図であるといってもよいかもしれない。『最後の審判』モザイク壁画部分。c.12~13。聖マリア大聖堂、イタリア。
Apr 20, 2006
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私の骸骨図聚成のなかで最も古い図像は、1000年頃のアステカ(メキシコ)の彫像『生の王ケツァルコアトル』と『死の王ケツァルコアトル』である。じつは両者は一体の彫像で、表が「生の王」、裏が「死の王」となっている。「死の王」の顔は髑髏である。注意して見ると、表裏一体の像とはいえ、単に生の裏を死に変えたというのではない。冠りものを付けた頭部の大きさは同じなのだが、死の王の身長は小さくて、生の王の股間のあたりまでしかない。どうやら生の王は、まるで赤ん坊を背負うように、髑髏顔の死の王を背負っているらしい。 (表) (裏) メキシコ・ブルックリン博物館蔵 現在のメキシコ中部から東部のユカタン半島を含んで南はグアテマラとホンジュラスにまたがる地方は、文化的にはメソアメリカと呼ばれている。ここには16世紀初頭から始まったスペインによる征服以前は、オルメカ文化やサポテカ文化、あるいはミシュテカ文化等々の栄枯盛衰があった。東海大学文明研究所の小池佑二氏によれば、メソアメリカの人々は他部族の神々に対して寛容であったようで、多くの習合が推測され、神話の神々の素性も複雑にからみあっているらしい。 ケツァルコアトル神はメソアメリカの住民にトウモロコシ栽培を教え、文明をもたらしたとされるが、また伝説上の同名の部族指導者と混同もされた時代もあったと考えられている。もともとは羽をつけた蛇神であったらしい。アステカ族の創世神話では、第2番目の「風の太陽」の時代はこのケツァルコアトル神が創った。676年後に激しい嵐が起り人類が滅亡してしまい、生き残ったものは猿になった。こうして第3、第4の時代が別の神によって創られては滅んだ。現在は第5番目の時代で、再びケツァルコアトル神がたちあがり、前の時代の人間の骨を回収し、自らの血をふりかけて人類を再生したのである。 アステカ文化の人身供儀(人間のいけにえ)は、こうした神々の自己犠牲にたいする報いなのである。しかしアステカ族にとっての不幸は、16世紀初頭にスペイン人を率いてやって来たエルナン・コルテスの甲冑姿が、アステカ人が信仰するケツァルコアトル神のイメージにそっくりだったことだ。コルテスの残虐性を知らない純朴な人々は、彼をケツアルコアトル神が到来したのだと信じて歓呼で迎えたのだ。その結果が、つづく40年間に1,500万人のインディアスが虐殺されて、完全に滅亡してしまったのである。アステカの人々の目に『生の王ケツアルコアトル』と映った男は、まさに背中に『死の王ケツアルコアトル』を背負っていたのだった。 さて、のっけから歴史の重さを感じさせる彫像を見た。あまり馴染みのない古代メキシコのアステカ神話だったので、ほんのさわりだけだが知っておいてもよかろう。あえて口に出すが、この文化を滅ぼしたのはスペインのキリスト教徒である。私は、先日のこのブログで、散歩の途路、古本屋でラス・カサス著『インディアスの破壊についての簡潔な報告』(原本は1542年の執筆、1552年に印刷された)という本を買ったことを書いた。スペインが南米を侵略しはじめるのは1517年。著者はキリスト教の司教として同地に派遣され、実際にその目でキリスト教徒の凄惨きわまる残虐行為を見た。上記の1,500万人が虐殺されたという数字は、ラス・カサス司教が同書でのべているのだ。この本は題名が示すとおり、非道をやめさせるようにスペイン皇太子へ提出した進言の書なのである。司教はそれ以前に、直接国王に手紙を書いたのだが完全に無視され、それで考えたすえ、印刷に付したうえで皇太子に献呈したのだった。 そのなかに次のような一節がある。 「インディオたちがキリスト教徒たちに対して行なった戦争はいつもきわめて正当なものであった。一方、キリスト教徒たちがしかけた戦争で正当なものは、なにひとつなく、むしろ、その戦争はことごとく極悪非道で、不正きわまりなく、かつてこの世のどんな暴君でも行なったことのないような酷いものであった。私は間違いなくそう確信している。」 なぜ当時のスペイン人キリスト教徒たちは、ひとかけらの悔悟もなくそのようなことができたのであろうか。次に述べる図像を検討することで、幾分でもその疑問へのヒントが得られるかもしれない。それはまた明日に。
Apr 19, 2006
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私は研究のために、幾つかに分類した古今東西の図像を蒐集している。先日述べた約400点の卵形図像集もそのひとつだ。きょうはその中の骸骨図について少し述べてみよう。約250点ほどある。 その前にミステリー作家の折原一氏の頭蓋骨コレクションをご紹介しておく。 折原一氏その人についてはご紹介するまでもない、1995年に『沈黙の教室』で第48回日本推理作家協会賞を受賞し、いまや倒叙ミステリーの第一人者として不動の地位を保っている人気作家である。私は氏のデヴュー作『五つの棺』(88年)を後に改作して『七つの棺』とした、その東京創元社文庫のカバー画と、ほかにもう一冊、光文社刊『模倣密室』のカバー画を描かせていただいた。 一昨年の晩秋に、私は、氏の多忙な時間を割いていただいて東京の衛星タウンにある仕事場にお邪魔した。氏はわざわざ玄関に御所蔵くださっている拙作『皇帝のデスマスク』を飾って迎えてくださった。私がお邪魔したのは、じつは氏の頭蓋骨コレクションと御自慢の絵画コレクションを見せていただくためであった。 頭蓋骨コレクションは75点から80点ほど、工芸品もあるが、宗教儀式に使用したのであろうチベットの本物の人骨も数点あった。また表面にケルト文様を彫刻した頭蓋骨は、やはり宗教儀礼かもしくは魔術の道具であったのかもしれない。 折原氏はマスコミに肖像写真を公表しているけれど、時に椅子に坐った全身骨格の標本模型をご自身として紹介することもある。私が訪問したときは、その全身の骸骨は、仕事机に向う折原氏の横におとなしく立っていた。 私は氏へのお土産に、蒐集した図像200点を収めたアルバムを贈った。私のコレクションは写真であるし、折原氏のコレクションは立体である。そのあたりに二人の感性と関心の異同があるわけだが、私はそういう微妙な差に特別な感興をおぼえるのだ。言葉をあやつる人である氏は、しかし、こと頭蓋骨コレクションについては今のところ記述的な態度をとっていない。一方、私は視覚の人で、ことばより形体に対してセンシブルなのだが、蒐集した図像については記述をしないではいられないのだ。 というわけで私は氏のコレクションを見て、あらたにケルト文様の頭蓋骨や、チベットの容れ物として加工された頭蓋骨について研究したい気持がおこったのだった。 私がなぜ頭蓋骨の図像に関心をもったかといえば、「そこに図像があったから」と、身も蓋もない言い方しかできない。昔、1973年に、国立科学博物館人類研究室が創設された記念に、『日本人類史展----骨からみた移りかわり』という展覧会が、国立科学博物館と朝日新聞との共催で、東京の小田急百貨店で開かれた。デパートの展覧会としてはなかなか面白い展覧会だった。何しろ人骨の化石や、寺院の墓地や工事現場から発掘された各時代の特徴をしめす頭蓋骨がずらりと展示されたのである。 私たちは、たとえば一口に「縄文時代」といっているけれど、じつはおよそ6000年という大変長い期間なのである。したがってその間に、頭蓋骨で見ると、日本人の顔は随分変化している。縄文早期の栃原人、前期の彦崎人、中期の千鳥窪人、後期の蝦島人、晩期の三貫地人----というように、各時代の特徴をそなえた人骨をならべてみることができるが、これらの実物を見るのはまことに興味深い。 まあ、私の関心は、古資料のなかにある人物像の裏付け調査のようなことに端を発しているのかもしれないが、そればかりではなく、谷崎潤一郎の『武州公秘話』やその元となった史料『信長公記』に記されている髑髏杯についてや、同じく谷崎の『蘆刈』にある仏教的修行の「屍体観想」や、それに関わる絵巻などからも触発されたのだった。 しかし、図像学的には次の本にあった一節が、私にとっては最も重要であった。高津春繁・齋藤忍随著『ギリシア / ローマ古典文学案内』(岩波文庫別冊4、昭和38年刊)。その151ページ。 「プルータルコスの『七賢人の饗宴』によると、エジプト人は饗宴の席におよそ場違いな骸骨を持ちこんだ。しかし、いずれ我々もこうなるのだということを肝に銘じると、かえって客の間に「友情と愛情」がたかまるという効果もあって、人骨も満更ではないということになっている。このグロテスクな風習がローマの貴族達に迎えられたためか、ここにあげたようなモザイク画が彼等の間に流行した。骸骨の下にはギリシア語で「グノーティ・サウトン」(gunoti sauton)とある。しかしこの箴言も骸骨と同盟して貴族の食堂の装飾になると、意味は一変する。やがては死ぬ身、息のあるうちに飲んで、食べて、歓楽をという次第になる。」 やや長い引用になったが、ここで私の注意を引いたのは、エジプトの食卓に飾られた骸骨図が、ローマに入ると意味が違って来たという事実である。ここには図像学の必要性が端的に説かれている、と私は見たのだ。 私の骸骨図蒐集が始まったわけだが、やがて骸骨の図にはかなり明確に時代思潮があらわれていることに気がつくようになる。しかし、それはまた明日の話としよう。
Apr 18, 2006
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咲く花、散る花、小庭の景色が変りつつある。華やかだった白桃やアーモンドが散り、このところ2,3日毎に落ち葉掃きならぬ落花を掃きあつめている。 それらの花に代って茱萸(グミ)が満開だ。表面は緑色、裏は銀色をした葉叢のなかに白黄色のラッパ状の花がたれさがっている。たくさん咲くのだが、ひそやかと形容したいほど、あまり目立たない花だ。しかし晩夏には熟した赤い実がなる。 茱萸の隣に紫式部がある。この植物は晩秋も冬にちかくなると、すっかり葉を落し、白っぽい枝がまるで壊れた籐籠のように鬱蒼として、枯死してしまったような状態になる。私はそれがあまりに鬱蒼としているので、剪定の時期を過ぎていたのだけれども思いきって刈りこんでしまった。全体にすっきりしたものの、なんだかこのまま死んでしまうのでないかと心配していた。ところが4月に入ると、枯死したような枝に美しい若緑の芽が出、きょうあたりは若葉の気配がいちじるしくなっていた。家人は私が刈り込みすぎて殺してしまったと思っていたので、「強いのねー、また生き返った」などと言う。「また生き返った」という言葉の裏には、やはり「一度は死んだ」というニュアンスがある。私を暗に批判しているわけだ。 柿も若葉を出している。鉢植えの苺が白い花をさかせている。この苺は食べるためではなく、鑑賞用にそだてているのだ。そだてているというより、放ったらかしにしてある。冬季には蔓さえも枯れて、鉢には影も形もなくなってしまうのだが、春になるとちゃんと芽を出し、こうして花を咲かせる。もちろん実もなる。隣家の夫人が、「お宅の庭は実がなるものが多いですね」と言っていたが、たしかにそのとうり。桃といいアーモンドといい、茱萸、千両、紫式部、柿、そして苺。----特に意識して植えたわけではないのに、言われればほとんどが実のなるものだ。夫人もよく気がついたこと。私は夫人の言葉に思わず笑い、「どうも楽しみ方が欲張りなんでしょうね」 庭のデザインをやり直すことを家人に相談したら、設計図をつくってからやるようにと言われた。しっかりしとるわい。 いま考えているのは、アフリカン・クローバーを敷きつめようかということ。それからアザミをところどころに配そうかと。あまり花壇らしいのは好まない。しかししばらくは頭のなかで考えるだけだ。というのは今日、家のメンテナンスを頼んでいる職人さんが定期点検に来て、裏の小屋根を一番基礎にある野地板から全部修繕することにした。前から気になっていたのを放っておいた。さっそく木曜日に朝から工事をするという。費用はサーヴィスすると言うけれど、予定外の出費になる。庭改造はお預けにしなければなるまい。
Apr 17, 2006
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この遊卵画廊の論文室に私の『卵形の象徴と図像について』という一文を掲載している。私自身が卵形をモチーフにした作品を描いていることもあるが、世界の多くの民族が卵の神話をもっていることを知り、資料として蒐集した図像が約400点になった、その概説をしたのだった。 ところが、私が蒐集したなかには古代の図像がはいっていない。厳密な証言にはならないけれど、はいっていないと言うより、初めから存在しないらしいのだ。 卵のかたちをとる世界創造神話や、国造主が卵から生れたという神話が、じつにたくさんあるにもかかわらず、歴史以前の洞窟絵画のような図像が存在しない。あるいは発見されない。それは何を意味しているのであろうか。 考えられることは、ミルチャ・エリアーデも指摘するように、神話というのは「寓話」でも「創作」でもなければ、ましてや「虚構(フィクション)」でもないということだろう。人間の観念や思想を象徴化したものではないのだ。 議論がややっこしいが、私のいう意味は要するに、卵によって世界の起源が象徴されたのではなく、世界は卵であったということだ。この微妙なニュアンスある差異は、おおきな差異である。 人間がなぜ図像を描くようになったか、その発生の起源を探ることは困難であろうが、私の考えでは、象徴として捉え得ない対象は、図像に成りえなかったのではないかということだ。このことは、人間がぴたりと身にそうて生きた神話社会と、そこから乖離して次第に神話を対象化しはじめる人間社会との有り様を透かしている。神話は、世界や人間や動植物の存在を確認した結果の「物語」ではなく、神話の結果として世界や人間や動植物が実存するのである。神話学というのは認知論の問題なのだ。 今日のブログをお読みのお客様には唐突な日記だったことだろうが、私の頭をふとよぎった想念をメモしておきたくなり、ここに書きとめておくことにした。あしからず。
Apr 16, 2006
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散歩をしていたら鯉幟をあげている家があった。おや、気が早いことだと思ったものの、もうことしも4月半ばだ。そして15日は謡曲『墨田川』にちなむ梅若忌。旧暦の時代には3月15日だったようだが、墨田川のほとりにある木母寺では大念仏が修せられる。 謡曲『墨田川』は、世阿弥の息子である観世十郎元雅の作。父をして天才と言わしめた人だが、足利教義将軍に疎んぜられて、世阿弥の跡を継ぐこともなく失意のうちに世を去った。作品には他に『盛久(もりきゅう)』や『弱法師(よろぼし)』があり、いずれも現在かなり頻繁に上演されている。 『墨田川』が材に取ったのはひとつの伝説である。京の都の公卿・吉田少将惟房の一人息子梅若丸は、陸奥の国の藤太という人買いに誘拐された。はるばる東国の墨田川までやって来たところで、梅若丸は重篤の病におちいってしまう。都育ちの御曹子には言語に絶する苦難の旅であったことだろう。ところが人買いは病の梅若丸をその場に遺棄してしまったのだった。梅若丸はそのまま息を引取った。天延4年(976)3月15日、そのとき梅若丸は12歳だったという。 隅田川のほとりに梅若塚という小さい御堂がある。30年くらい前のことになるが、由来を書いた看板が立っているとはいえ、半ば崩れかけたような御堂だった。現在はどうなのだろう、行っていないので分らない。近くに木母寺という寺があるが、伝説の梅若塚のあった場所はそこらしい。木母寺の創建がいつの頃であるか私は不明だけれど、江戸時代にはすでに建っていた。宝井其角(1661-1707)の俳句にこんなのがある。 木母寺に歌の会ありけふの月 其角 観世元雅の『墨田川』は、じつは伝説のその後につづく物語である。 梅若丸が亡くなった翌年のやはり3月、墨田川のほとりに都からやってきたという狂女の姿があった。これからまた蹌踉として何処かへ旅しようというのか、渡し船にのせてくれという。初めは拒否した船頭も、狂っているとはいえ女の優しい心根にほだされて、舟にのせてやる。そのとき風にのって対岸から念仏の声が聞こえてくる。「あれは何か」と尋ねる狂女に、船頭は人買いに捨てられて亡くなった少年の物語を聞かせる。哀れに思った村人が、塚をつくり、ひともとの柳を植えて回向した。「今日はその命日、念仏法要が営まれているのだ」と。 「その子の名はなんという? 年はいくつ?」 たたみかけるように聞くその女こそ、梅若丸の母であった。かどわかされて行方知れずとなったわが子を探し、悲しみのあまり狂ってしまった母の目に、いま、幼いわが子が駆け寄ってくる。抱きとめようと手を差し出せば、その母のからだを幼子は通り抜けて消えてしまうのだった。---- 謡曲『墨田川』は、近年なぜか反戦思想と相俟って上演されることもある。現代の能の番組としては人気曲といってもよい。今私が最後に書いた部分は実際には、幻の子が「見えつ隠れつするうちに、しののめの空明けそめて、わが子と見えしは、塚の上のしるしなるこそあわれなり」とあるだけである。 能という演劇はおもしろいもので、一応の修練をした能楽師であればそれなりの歌舞劇として成立してしまうものだ。失敗ということはまずほとんどない。何事も起らぬだけにすぎない。しかし何度もつづけて観ている間には、優れた能楽師のとんでもない芸を目撃することがある。ただ立ち尽くしているかのような削ぎに削いだ姿なのにもかかわらず、たとえば上に述べたような、幻の子が駆け寄り、狂える母のからだを通り抜けて消えてしまうようなことが舞台上に現出するのである。めったにおこることではないが、それこそ舞台芸術の極地である。芸の真髄である。私はそれを観たいがために能楽堂にでかけてゆく。 さて、ついつい4月15日の梅若忌にちなんだ話しを長々としてしまった。散歩の途中で八百屋の前を通りかかると、店頭に「朝掘り筍」とあるのが目に入った。急に筍飯を食べたくなった。夕食はこれにしよう。すぐさま筍飯を中心にしたメニューを考え、木の芽を買い、独活(うど)を買った。良いアスパラガスがあったのでそれも買った。 我家の本日の夕食。 筍飯(木の芽添え) 網焼き筍 刺身盛り合わせ(鮪中トロ、かんぱち、サーモン) 独活の酢味噌あえ アスパラガスの黄身時雨れソース 味噌汁(豆腐と若布)
Apr 16, 2006
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ヨーロッパ古典美術におけるキリスト教聖人のアトリビュートは、洗礼者ヨハネのように結びつきが分かりやすいのはむしろ少ない。またどんな聖人がいるのかもほとんど知識がない。しかし一般の私たちが聖人を知るてがかりとして、もっとも役立つのは『黄金伝説』という本である。かなりの大部の本なので読破するのはなかなか大変だが、通読しなくとも、知りたいと思う聖人の項だけ読むぶんにはさほど時間もかからないし、意外におもしろい。 『黄金伝説』は、しかし美術鑑賞用ではないので、ことさらアトリビュートの解説をしてはいない。私は実際にたくさんのキリスト教美術を見て、ちょいちょいとメモをしていたのが、いつのまにか便利な辞典になってしまった。私が自分のために作ったデータで、未整理な部分もあるけれど、今日はそれを抜き書きしてお見せしよう。----------------------------------------聖ウルスラ 矢を持つ。また処女の保護者としてのマントを着ている。 イギリスの王デオノトゥスの娘。この聖女伝は10世紀以降の文献に残されている。ケルンで殉教。 ◆聖ウルスラ伝の画家『聖ウルスラの洗礼』1495-1500年。 ◆『家庭内祭壇の両翼』;右翼内面下段;ニュルンベルク、1483年。聖セバルドゥス(ゼーバルト) 巡礼者の衣を纏い、巡礼杖を持ち、帽子を首に掛けている。長い鬚と髪。ニュルンベルクのザンクト・ゼーバルト聖堂の雛形を持つ。 ニュルンベルク市の二人の守護聖人のひとり。伝説中の人物であるが、ニュルンベルク市の強い希望により、1425年に列聖。聖ラウレンティウス(ローレンツ) 祭服を着た無鬚の若い姿。彼がその上で焼き殺された火格子を持つ。 ローマの助祭で初期キリスト教時代の殉教者。ニュルンベルク市の守護聖人のひとり。 ◆ティツィアーノ・ヴェチェッリオ『聖ラウレンティウスの殉教』1948-59年頃。ヴェネツィア・ジェズィーテ教会蔵。 ◆ヴォールゲムート工房『聖セバルドゥスと聖ラウレンティウス(祭壇の両翼)』1480年頃。ドイツ民俗博物館蔵。聖アグネス 幼児キリストが彼女の指に指輪を嵌めようとしている。彼女の純潔を象徴する小羊を伴う。 『黄金伝説』によると、ローマの富裕な家の出であるアグネスは、高官の息子の求婚を、聖母マリアの息子と婚約していると言ってしりぞけた。この比喩的な話には、彼女の信仰告白がこめられている。 ◆バルトロメウス祭壇画の画家『聖アグネスの婚約』1495-1500年頃。ドイツ民俗博物館蔵。聖ステファヌス 本を持ち、本の上には投石によって殺されたことを示す石がのせられている。若者の姿。 初期キリスト教時代の殉教者。 ◆ヴィットーレ・カルパッチオ『聖ステファヌスの論争』1514年。 ◆ルドヴィコ・チゴーリ『聖ステファヌスの殉教』1597年。フィレンツェ・ピッティ蔵。聖エリーザベト 果物をのせた皿と水差しを持つ。 エリーザベトは1207年にハンガリー王の娘として生れ、1221年にチューリンゲン辺境伯の息子ルートヴィヒと結婚したことが、歴史的に確認されている。1227年、ルートヴィヒ歿後、アッシジの聖フランチェスコ修道会に入り、貧者と病者への慈善により有名になった。その死の4年後の1235年にはすでに列聖されている。 ◆イスラエル・ヴァン・メッケネム『チューリンゲンの聖エリーザベト』(銅版画)、15世紀末。フィラデルフィア美術館。 ◆ヤン・ファン・エイク『聖者と伴う聖母子』聖ヴィトウス 煮え立つ油で釜茹でされて殉教。 シチリアの聖人。伝説によれば4世紀に12歳で殉教した。特に中世末期には人気があり、17世紀に至ってもまだ絶大な崇拝を集めていた。彼は、民衆的信仰において、それぞれ苦しい時に頼りにした14人の救難聖人のひとりに数えられ、癲癇(てんかん)や狂水症など、様々な病気から人をまもる聖人とされた。 ◆ファイト・シュトース『油の釜の中の聖ヴィトウス』(彫刻)、1520年、ドイツ民俗博物館蔵。聖ドロテア 花の枝、あるいは花籠を持つ。また、純潔の象徴として一角獣を伴うことがある。高貴な家柄の出であることを示す冠(あるいは花瓶の冠)を頭上に頂くこともある。 カッパドキアのカエサリアに生れた。生涯については伝説的な物語しか伝わっていない。それによれば、ディオクレティアヌス帝の時、彼女は両親や姉妹と共に、キリスト教徒の迫害が行われたローマから逃げたが、カエサリアで捕らえられ、斬首された。彼女の処刑の際、厳冬にもかかわらず、ひとりの少年が籠一杯の薔薇の花と林檎を彼女にさしだした。それは、彼女の元の花婿----すなわちキリスト----の園の果実と花であったという。 ◆アンブロージオ・ロレンツェッティ『聖ドロテアの像』1530年。シエナ絵画館像。聖カテリーナ(アレキサンドリアの) 車輪に磔(はりつけ)されて殉教したので、その刑具の車を伴う。 【註】英語で回転花火を a Catherine wheel(カテリーナの車)という。 ◆レリオ・オルシ『聖女カテリーナの殉教』、モデナ・エステ絵画館蔵。 ◆ボッテチェリ『聖会話』1470年頃。ウフィッツィ美術館蔵。聖フロリアヌス 建物に水を注ぐ姿。 聖フロリアヌスはディオクレティアヌス帝時代のローマ軍団の軍人であったが、キリスト教を信奉して迫害にあい、ドナウ河支流のエンス河に沈められ殉教した。中世末期以来、彼は、上部オーストリア及びポーランドなどで、火災の危険に対する守護聖人として崇められた。 ◆上部オーストリア派『聖フロリアヌス』(彫刻)、1520年頃。ベルリン国立美術館蔵。 ◆ショイフェライン『火事を消す聖フロリアヌス』(木版画)、1516年頃。ドレスデン国立美術館蔵。------------------------------------ ちょうど10人の聖人を記述したところで、そろそろ終わりにしよう。 こんなふうに、私はメモをあつめた便利帳をつくってみた。簡単な記述だけれど、聖人のアトリビュートを知るには、これで結構役にたってきたのである。
Apr 14, 2006
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絵を見て「ああ、いいなァ」と感じたとしよう。しばらく立ち止まって眺めてみる。そのうちにだんだん「これは何が主題なのだろう? ここに描かれている人物は、いったい誰なのだろう?」という思いが頭を横切る。もしそれが分れば、もっと絵の世界に入ってゆけるかも知れない。 ----たぶんそんなふうに思ったことがあるでしょう。 絵というのは、太古の時代の洞窟壁画のように呪術的な目的で描かれたと推測できるものもあるが、ヨーロッパでもアジアでも、発展の起因となったのは宗教上の教えを文字が読めない人にも理解できるようにするためであった。聖書の図解、つまりイラストレーションだった。芸術家の個人的な思想や感覚を問題にするようになったのは、美術の歴史としてはつい最近のことである。 聖書(日本だと仏教教典ということだが)の物語を描いている以上、絵を「読める」ということになる。信仰心から聖書になじんでいれば、その読解は比較的容易であろう。そうでなかったとしても、ある程度の知識があれば、そこから入ってゆくことはできよう。画家は絵のなかに、かならず読むためのヒントを描いているものである。 さて今日は、絵のなかのヒントについて、図版を参考にしながら見てみようと思う。手始めに誰でもが知っているだろう「洗礼者ヨハネ」を取り上げる。それほど深い知識がなくとも、「ああ、これは洗礼者ヨハネだ」と気がついていたことだろうから、私は聖書を説明せずにすぐ画家が描きこんだ洗礼者ヨハネのアトリビュートを示すことにする。 アトリビュート(attribute)という言葉は、図像学ではかならず出てくるので、もし御存知でなければちょっと御記憶いただきたい。「附属物」とか「象徴」という意味で、つまりそこに描かれている物語の人物を特定するための、その人物だけに属している物を言う。宗教聖人の場合、そのアトリビュートは神学的に公式に決められている。したがって画家の勝手な想像で、神学上で決められた以外のものを付け加えることはできない。これが絵を読むときの最初のヒントになるわけだ。アトリビュート意外にもヒントはいろいろあるが、それは作品個々の問題ともなるので、ここではそれを説明することを除外する。 まず図版を用意したのでそれをご覧いただく。 3点の絵はいずれも洗礼者ヨハネの像である。しかしこれらはまだイエスに洗礼を施す前のヨハネである。聖書によれば、ヘロデ王の幼児狩りの魔手から逃れるため幼子イエスはエジプトへ脱出した。ちょうどその頃、洗礼者ヨハネは「天国は近づいた、悔い改めよ!」と言いながら、ユダヤの原野を歩いていた。ヨハネという人は、予言者イザヤが「主がやって来る道を準備し、人々にその道筋を真直ぐにするように呼び掛ける人」と言った、その人だった。ヨハネはヨルダン河のほとりでユダヤの全国からやってくる人々、あるいはエルサレムの人々に悔い改めの洗礼をほどこしていた。この人の様子をマタイ伝第3章5節は次のように記す。 「このヨハネは身に駱駝(ラクダ)の毛衣を着て、腰に皮の帯を巻き、イナゴと野蜜を食物としていた」 洗礼者ヨハネのアトリビュートは、この句にもとづき、まず第一に駱駝の毛皮である。そしてユダヤの原野を歩くための杖である。しかしその杖は、主の道を準備することを意味するとともに、やがてイエスが架けられることになる十字架である。ただし言っておかなければならないが、十字架というのは、キリスト教以前からある「生命の樹」の象徴でもあり、その土着の古い信仰のシンボルに後にイエスが磔(はりつけ)にされた十字架のシンボルが合わされて、キリスト教のシンボルとして洗練されていったのである。 洗礼者ヨハネのアトリビュートは、ほかにもう一つ、小羊がある。羊そのものが、「迷える羊」という言葉があるように、放っておくと何処へゆくかわからない民衆の象徴である。ヨハネには羊飼い(牧人)のイメージが重ねられているのだ。カトリックでは神父というが、プロテスタントではその名称は使わない。牧師という。迷える羊を導く人という意味である。 先の図版とこの図版のヨハネは、赤い衣を着ているが、よく見るとその下に毛皮がのぞいている。また下の絵には羊が描かれていて、この人物が洗礼者ヨハネであることを示している。 右の絵は、聖書の物語ではなく、ある信仰会が聖母子を称えるために画家に描かせたものであるから、聖書時代の歴史考証に関しては不忠実である。そういう場合でも、左の人物が洗礼者ヨハネであることはそのアトリビュートがきっちり描かれているからである。そういうことがデタラメであったり、画家が空想に走るようなことがあると、教会はその絵を受け取らないか、破棄するのが常であった。 次に掲げる図版は、12,3世紀の古い時代のもの。修道院内で修道僧画家によって制作されたと思われる。洗礼者ヨハネが川岸から水の中のイエスに洗礼をほどこしいるところをモチーフにしている。モチーフは時代の好みを反映していることが多く、どんな場面を描いているかで、制作年代や制作された国が特定できる場合もある。それは描かれる聖人についても言えることで、洗礼者ヨハネはだいたいどの時代でも描かれていたが、教会キリスト教の時代に入ってからの聖人は、いちじるしく時代の人気を反映している。 上の洗礼図にくらべると、下の右の2点の洗礼者ヨハネ像は時代も下って非常に洗練されてきている。デッサンの裸体像が洗礼者ヨハネであると分るのは、右手に聖水を注ぐための容れ物をもっているからである。このように、右手を差し出して掲げるようにしたポーズも、洗礼者ヨハネのきめてとなる。 中央の絵は、二人の幼子であるが、イエスと洗礼者ヨハネである。ヨハネはイエスに何か花の茎をさしだしている。この植物が何であるかは確証がないが、頭をたれた様子からヒナゲシかもしれない。ヒナゲシはルネサンス美術では受難のシンボルとして使われてきた。 ヨハネの足許には桜草の花がふたつ咲いている。イエスとヨハネを表わしている。またヨハネの足の間にムギの穂が見える。ムギは信仰と布教のシンボルだ。 ここに示した作品はレオナルド・ダ・ヴィンチの影響を受けたものであるが、レオナルドにも同じモチーフの作品がある。またラファエロも幼子としての二人を描いている。ラファエロは幼児ヨハネに十字架の杖をもたせている。 このような絵が描かれたのは、じつはイエスとヨハネは幼児のころに出会ったことがあるという伝説があり、聖書には書かれていないのだが、それだけに画家が想像をふくらませるモチーフだったらしい。ルネサンス時代には特に好まれたのである。 この時代はネオ・プラトニズムの哲学が復活し、完全な球体の二分されて互いに引き合うものというイメージが浸透していた。田中英道氏の研究では、レオナルド・ダ・ヴィンチは自己のホモセクシャリティーを哲学的にはネオ・プラトニズムで、イメージはその二重像に託して表現したと言っている。 9,10世紀から13世紀頃のいわゆる中世のイコン(聖画像)は、聖書の物語をそのままシンプルに描いてい。しかし、その後は次第に多くのシンボリックな表現がなされるようになり、絵が複雑になってゆく。特にイタリア・ルネサンス美術は他の諸国にくらべてその傾向が著しい。それはそのまま文化の爛熟を示していると言ってもよいかもしれない。 洗礼者ヨハネ像のアトリビュートを足早に見てきた。ヨーロッパの宗教美術のなかから洗礼者ヨハネを指摘することは、以上のアトリヴュートをふまえることで、おおむね過誤なく可能であろう。この後は、時代思潮や、厳しい神学上の制限のなかで画家がどこまで自由裁量をしたかなどを研究することで、より深く絵を読むことができるわけだ。たとえば、12,3世紀の洗礼図の風景に注目していただきたい。ヨルダン河のほとりの草木のない荒涼とした岩と砂漠の様子がうかがえよう。ところがブリュッセルの絵を見ると、ヨハネの背後にヨルダン河の流れが望見できるけれど、そこは緑の草木がはえる優しい丘陵地帯である。実際のヨルダンの景色とはかけはなれている。なぜだろう。----じつは、画家は自分の故郷の景色にすりかえているのであった。ヨルダンに旅行したことがなくとも、昔から伝えられて来たイメージはあったはずだ。しかし画家はそういうイメージを空想で描くよりも、自分が親しんだ生れ故郷の風景を描くことにしたのだ。しかもその風景は、彼が活躍した後期ゴシックのアーヘン(オランダ、ベルギー、ドイツ3国の中間に位置する都市)の嗜好に一致していたのである。----こういうことは、聖人のアトリビュートについての知識とは別な知識が必要である。そういう知識を積むためには時間と根気がいる。けれども、たくさんの絵をみて比較すると、いま述べたような違いが見えてくる。それを語ってみるだけでも良いではないか。 絵は読める。読むためのヒントがちゃんと描かれているのである。
Apr 13, 2006
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外国人と話しをしていて、「私は絵がわかりません」と言う人はめったにいない。少なくとも私は、そのように言った人に遭ったことがない。ところが日本人の場合は8割くらいはその言葉を口にする。謙遜のつもりか、本心でそう思っているのかは分らない。ただ顔色を見ていると、自分の無知をさとられる前に、いち早く牽制しておいたほうが無難だという内心の思いが、当人の意志に反してこちらに伝わってくる。あわよくば、「そんなことはないでしょう、ご謙遜な」という周囲の言葉を期待していることさえ顔に出ている。 そのような方にはまことにお気の毒ながら、私にはそういう駆け引きの習性がまったくない。「わからない」と言われれば、「そうですか」と受け取るし、もし謙遜だとすると、そんなことを謙遜してどうなるのだと思うだろう。自分とは異なった他人の熟慮された意見や思想を虚心に聞き、私とあなたはどう違っているかを知って初めてその存在を認める、私はそういうタイプの人間だ。私は自己の世界をきわめて明確にもっているので、他人との感情のつきあいはまったくしない。だから感情で私に対応しようとする人には、たぶん冷淡な人間に映っているだろう。率直であること、それが私の好むところだ。 ところで、絵というのは感覚すればいいのであって、分るとか分らないとかを云々する必要はまったくないのだ。人の感覚は千差万別だから、全く感じない絵だってあるだろうし、とても不快に感じる絵だってあるだろう。それが当然だ。画家である私だって、他人の作品に対してはそうなのだ。たとえば何かの展覧会に行き、たくさんの作品を一点一点丁寧に見ているかというと、全然そうではない。作品の前をざーっと通りすぎて、「はっ」と感じたものだけをじっくり見る。まあ、「見る」修練を相当積んでいるし、ざーっと見ながらも、実は一瞬のうちに作品の全体と細部を見てとっている。作者に無礼でない程度に真剣に立ち向かってはいる。こちらも二六時中作品のことを考え、人生がそれしかないのだから、たんなる美術愛好家とは違う。餅は餅屋で、相手のことを初めからある深さで見ているわけだ。しかし、それにしても、自分の感覚に訴えてこない作品はある。そういう作品にいちいち遠慮することなどない、通り過ぎてしまえばいいのである。 外国人はなぜ「絵がわからない」と言わないかというと、たとえばフランスでは初等教育の段階から自分の思想を表明する訓練をもっとも大切にしているし、ドイツの美術学校などでは自作のみならず他人の作品を徹底的に「語る」時間をつくっていると聞く。どんなことにも、とにかく「一家言」持つ、それが人間だ、と、極端な言い方に思われるかもしれないが、そのように考えている。アメリカでも同じで、自分の言葉をもたない人間を「バカ」だと思っている。アメリカ人と接していると、そういう場面にかなり日常的にでくわす。行き過ぎではないかと感じることさえあるのは、移民の国であるにもかかわらず、新規の移民が英語を話せず無言でいると、それだけで「バカ」でないかと疑ってしまう。そんなわけだから、感じて、感じたままを言葉にすればいい絵ごときに、「わからない」などとは言わないのだ。 以上のことをふまえて、つまり自分というものをしっかり置いて、そこから絵を「わかる」ための勉強をするのは無駄ではないかもしれない。 私は先日、絵画のエクリチュールということを書いたが、誰でもがフロマンタンのように絵を語れるはずはない。絵は文学ではないので、言葉で表せないところもあるけれど、ある程度は「読める」ものでもある。画家はでたらめをやっているわけではないから、すくなくとも画家が知識で処理しているところは、鑑賞者の知識で対応できるのだ。具象画において、林檎が描かれているのを「林檎」だと指摘しても絵を語ったことにはならないが、しかしそれに類する指摘でもまったく役にたたないわけでもない。 たとえばヨーロッパの宗教画の聖人像などは、多くの日本人には誰が誰やらさっぱりわからないだろう。いったいどうして、そこに描かれている聖人の名前が特定できるのだろう。もしそのヒントが、絵のなかに描かれているのだとしたら、それはどれだろう。----こんなことが少しでも解明できれば、その絵の意味することも分かってくるにちがいない。そういう知識は絵の芸術的価値とは無関係だけれど、ひとつの謎の解明は、あらたな意味の発見につながるかもしれない。たとえば空にかかる雲が、なぜ嵐をふくんだように黒ずんでいるかとか、なぜこの男は子供を肩車しているのかとか、----そういうことが、絵のなかにヒントとして描かれていることを手がかりに、次第に全体が明らかになって行くとしたら、私たちの絵を語る言葉は、「感覚」プラス「知識」となって、より豊かになるだろう。 きょうはここまでにして、明日は、少しそういうヒントについて述べてみよう。
Apr 12, 2006
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一昨日のガングロ・メーキャップの記事のなかで、私は「刺青」という言葉をつかった。ものの例えとして使ったに過ぎないが、あらためて刺青について述べてみたくなった。「刺青」「文身」「入墨」「彫り物」「がまん」、あるいは「黥(イレズミ、ゲイ)」とも書く。中国の古い文学のなかでは「花繍(カシュウ)」とか、「繍身(シュウシン)」とか、「剳青(トウセイ)」という言葉で書かれている。 30年くらい前だと、東京・浅草の三社祭の神輿の担ぎ手のなかには、褌一本の勇み肌に唐獅子牡丹や登り龍を勇躍させている男たちの姿を見ることが希ではなかった。現在は、暴力団がまぎれこんで騒動をおこすことを怖れ、また商店街も町のイメージダウンにつながると、こぞって刺青を施した人達を排除してしまったようだ。伝統の江戸神輿の粋な風情は捨て去り、東京神輿になったのであろう。 入墨の起源は古く、呪術的なものであったろうと言われている。世界各地に民俗としてみられ、北極圏のエスキモーにも南方海洋民族にも、例示にはことかかない。成年式のようなイニュシエイションとしておこなわれたり、死後の霊界への通行証という意味合いがあるものもある。部族や家系の特別な目印である。あるいは交換魔術(sympathetic magic)として入れ墨をすることもある。つまりトーテム(totem)、---その集団のお守りと信じられている動物や植物の姿を身体に刻み、霊力を得るのである。このような交換魔術としての入墨は、なにも古代人や未開民族の民俗というわけではない。記憶しておられる方があるかどうか、1998年のサッカー・ワルド・カップでクロアチア・チームの8番、プロシネチキ選手の右臑にはライオンの入墨があった。彼は右脚にライオンの霊力をのりうつらせようとしていたのだ。 日本では紀元前3000年頃の縄文中期の土器のなかに、顔に入墨をした土器が見られる。「黥面土器(ゲイメンドキ)」と称している。これらはやはり呪術的なものだったのであろう。 このような呪術的な入墨が遥か下って、江戸時代に入ると、遊里において誓いあった男と遊女が互いの身体の一部、たとえば腕とか腿とか秘部とかを毀損する、いわゆる起請文の入墨に進展した。さらに危険な仕事が多い町火消や鳶職人たちは、水に縁の深い龍や不動尊像を背中一面にほどこした。これも交換魔術の効果を期待したのである。当時の消火活動は、火を消すというより類焼を防ぐ方に力点があった。龍吐水と称す手動式放水ポンプはあったものの、放水量も放水距離もさほど効果は期待できなかったであろう。火消人足たちは刺し子の分厚い半纏に水を含ませ、鳶口を持って果敢に火のなかに飛込み、燃える建物を破壊した。彼らは命知らずと男伊達をほこるために全身に派手な彫り物をした。もとはといえば武士の陣羽織や火事装束をいろどっていた勇壮な文様に起因し、庶民としてはそのような文様を我身にほどこしたわけである。 幕府はしかしその風俗を野放しにしていたわけではなく、たびたび禁止令を出している。これは武士階級の精神的なバックボーンであった儒教の影響である。すなわち「身体髪膚これを父母に受く。敢えて毀傷せざるは孝の始めなり」という『孔子』のおしえである。刺青に対して罪悪感がおこるのは、このおしえが如何に民衆の心に深く浸透しているかということだが、加えて、幕府は刑罰として入墨を採用したことも、悪のイメージをつくりだすのに大きく影響した。 とはいえ取り締まればまたそれだけ別の力を呼び込むのが庶民文化というもの。世の中からドロップアウトした者や、世を拗ねた者たちが、反抗の象徴として刺青をした。武士階級においてさえ旗本御家人の次男三男の冷や飯食いは、生涯に何の希望もないまま背中に桜吹雪を舞わせるしまつだった。幕末の官軍兵士のなかにはそういう御家人崩れがたくさんいたという。後の明治政府で爵位を授与された榎本武揚も全身に刺青をしていた。 小説家の橋本治氏が東京大学の学生時代に制作した駒場祭のポスターは、うつむき加減の若者がもろ肌脱ぎ、その背中には東大の徽章である銀杏の刺青。「とめてくれるな、おっかさん。背中のいちょうが泣いている。男東大どこへ行く」というコピーが、1960年代半ば頃の学生の気分をみごとに表わして一世を風靡した。当時、マスコミはキャラメル・ママといっていたように記憶するが、有名大学の受験場や入学式に、まるで小学1年生のように母親が息子につきそった姿があふれていた。子離れできずに蜜のようにベタベタとまといつく母親に対する息子からの引導渡しを、橋本氏は鋭く、それが浪花節的な仁侠映画の世界と同じだと見破り、たかが知れた反抗と、自己戯画化したのだった。 私は橋本氏とほぼ同世代、昔の仕事で一冊の本の挿画を分担したこともあったが、その頃の橋本氏は浮世絵の歌川国芳あたりを研究していたらしい節がうかがえた。国芳の描いた『通俗水滸伝豪傑百八人之一個』シリーズを初めとする数々の「水滸伝」に材をとった絵は、爆発的な人気にのって刺青の絵柄として取り入れられ、「生きた浮世絵」として伊達男たちの肌を飾った。おそらく国芳の水滸伝を抜きにしては刺青を語れまい。 ところで私は、かつて法政大学で開催された文化講演会で、デモンストレーションとして、さる刺青同好会の方々がステージで褌裸になって刺青を披露してくれたのを見た。それまでにも先に述べた三社祭などで見かけたことはあるが、この文化講演会に出演してくださった方々の刺青は、刺青師の快心の作ともいうべきものであったから、煌々とした照明のなかで見るそれはじつに見事であった。まさに究極のイラストレーションといってよかろう。技術的にみれば、人間の身体という複雑な凹凸と曲面をもつカンヴァスに、見た目には画像の歪みがないように描かなければならず、また失敗は絶対に許されない。 東京大学の博物館に刺青の人体標本が所蔵されている。特別の契約のもとに、死後、遺体の皮膚を剥ぎ取ったのである。この標本も私は実際に見ている。いわば鞣し皮であるから、経年変色して飴色をしていた。が、刺青同好会の方々の生きた肌にあったような「美」はない。標本としては大変貴重なものだ。それも当然で、たとえ特別な契約を結んだからといって、必ず入手できるとは限らないだろう。不慮の事故に遭って身体を損傷するかもしれない。火災で焼死してしまうかもしれない。人生、一寸先は闇なのだ。刺青というのは、それを背負っている人が生きている間だけの花、その人の死とともに永遠にこの世から消えてゆく。一般的な絵画も常に消滅の危機を運命としてもっているが、それでも幸運にみまわれると、作者の死後も長く生き続ける。刺青にはそれがない。人間の命に寄り添う、まことにはかない「芸術」である。このあたりの機微を描いたミステリーがある。高木彬光『刺青殺人事件』である。東京大学が所蔵する標本についての言及もあったように覚えている。 さて、そろそろおしまいにしないと、読んで下さる方がたいへんだろう。小説が出たところで、刺青小説をならべてみようか。 谷崎潤一郎『刺青』 飯沢匡『飯沢匡 刺青小説集』(1972、立風書房刊)。これは収録する全9編がすべて刺青に関する小説で、けだし現代の奇書といえるかもしれない。山藤章二氏の装丁が凝っている。 高木彬光『刺青殺人事件』(前出)『羽衣の女』『脅迫』『花の賭』『悪魔の火祭』『刺青物語』 横溝正史『刺青された男』『スペードの女王』『毒の矢』 ピエール・ロチ『お菊さん』自伝的小説。最終章、長崎で胸に牡丹の刺青を彫らせる。 レイ・ブラッドベリ『刺青の男』 テネシー・ウィリアムズ『バラの刺青』(戯曲) ハドリー・チェイス『プレイボーイ・スパイ2』 ついでに映画も3作品だけあげておこう。 仁侠映画は刺青のオンパレードだが、そんな作品をあげていてはきりがない。そこで、 鈴木清順監督・高橋英樹主演『刺青一代』この映画は先述の法政大学文化講演会でも上映された。 川島透監督・金子正次主演『竜二』金子正次自身が脚本を書いている。金子はこれ一本に出演しただけで、癌のため早世した。ただ一本の本作がすばらしい。いわゆるヤクザ映画としては特筆にあたいする。刺青の場面----セックスを俯瞰で撮っている。男(竜二)の背中いっぱいに黒い鯉の刺青。男のうねりが鯉の動きとなる。日本映画のセックスシーンとしては記憶してよい映像である。 東陽一監督・若山富三郎主演『雪華葬刺し』原作は赤江曝の同名小説。名人刺青師のいわゆる芸道物。小説はすばらしいが、映画は失敗作、と私は思っている。 ところでこの遊卵画廊に展示している『花の変容』と『花甲冑』は刺青がモチーフになっている。『花の変容』は、植物の花と人体に咲く花がいずれがいずれとも分かちがたくなる----という概念のもと、女性の変容を描いてみようとした。『花の甲冑』はポーラ文化研究所発行『化粧文化』の刺青特集号の口絵として描いた。
Apr 11, 2006
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我家の玄関の飾り棚には、ボヘミヤン・クリスタルの花瓶が、白いレースの敷物のうえに置いてある。このレースの敷物はピアニストの山岡優子女史に頂戴したもので、とても繊細で美しい。山岡さんの艶やかで優雅なステージ姿をしのばせてくれる、家族で大切にしているレースである。 ニューヨークの五番街にレースの専門店があり、かつて私はその前を通るたびにガラス窓越しに中を覗くのだったが、ちらりと見える価格はとても高価でおどろいたものだ。ベルギー産のレースのようだった。そのとき私の思いのなかには、ルーブル美術館が所蔵するフェルメールの『レースを編む女』が去来していた。私はルーブルを訪ねているにもかかわらず、そのフェルメールを見ていなかった。帰国してからその存在に気がつきひどく残念に思ったのだ。 その後、なにかとレースにまつわることが私の記憶のなかに蓄積されて行った。たとえば松本清張のミステリーに『葡萄草文様の刺繍』という一篇があり、ベルギーへ旅行した夫婦がベルギー・レースのテーブル掛けを購入したことから物語が転回してゆく。なんともいえない味わいがあり、私が好きなミステリー小説だ。あるいは、長年パリに住み、たしか彼の地で亡くなった物理学者の湯浅年子女史に『パリ随想』という著書がある。この本は異文化が遭遇するとは如何なることかを考えるときに、私にとっては重要な書物だった。その続巻で、タイトルも『続・パリ随想』(みすず書房刊)に「手工芸考」という独立したエッセーが収録されていて、なかに「レース編み女工」という文章がある。湯浅女史が、たしかフランスのアランソンだったと記憶するが、ポアン・ド・フランス(フランス製ニードルポイント・レース)の旧王立製作所を訪問した見聞記。これを読んで私は、レース編みというものがただならぬ背景をもっているのだと気がついたのである。 さいわいなことに、1987年に京都と東京の両国立近代美術館が『ブリュッセル王立美術歴史博物館所蔵ヨーロッパのレース展』という珍しい企画の展覧会を開催した。それは大層充実した展覧会だった。私は初めてヨーロッパのレース編み工芸の全貌を知った。レースの実物を見ることができたと同時に、ヨーロッパ絵画のなかに如何におおくのレース編みが登場していたかに、あらためて気がつかせられたのだった。あすこにもあった、ここにもあった、という具合である。 そもそもレースは、16世紀の中頃に、イタリヤならびにフランドル(ベルギーとフランスとの間の北海沿岸地域)に生れ、後にヨーロッパ全土にひろがったらしい。技法的には二つの発達があった。一つは古来の刺繍から発達したもので、布を用いず糸だけで模様を作ってゆくニードルポイント・レース。もう一つは飾り紐に源を発するボビンを使用した組み紐(パスマン)が複雑に発展したボビン・レースである。この二つの技法それぞれが時代様式のなかで、ピコ飾りのあるモチーフ繋ぎ(ブリット)や、模様の立体化というふうに発展し、そこに技術の粋をみるようになるのである。しかも女性の手によって確立された。この点は、強調しておかなければならないだろう。 各国のレースの発展史はそれはそれで実に面白い。何の技術でもそうだろうが、ここでも、ある一つの技術的解決がさらなる高度な技術を生み、またイメージだけが先行していたものを現実化してゆくのを知る。それらをここで追ってみることはできないが、ひとつだけ画家ヴァン・ダイク(Anthony Van Dyck;1599-1641)の名前が冠せられた様式について簡単に述べておこう。 1650年代に、それまで隆盛をきわめていた「ひだ襟(幾重にも折畳んで首回りを飾る襟)」に代って、平襟が流行するようになった。平襟は次第に広く大きくなり、肩をおおうまでになった。目がぎっしりと詰んで厚みをもった帆立貝のようなレースが好まれ、高級とされた。この進化でボビン・レースは技術的には完成したといわれる。当時、最も優れていると評判だったのはフランドル製のボビン・レースで、男も女もこのレースを愛用し、長靴の縁飾りにさえ使用した。これを「ルイ13世スタイル」とか「ヴァン・ダイク・スタイル」という。画家の名前がつけられているのは、ヴァン・ダイクがこのレースを非常に巧みに描いたことに由来する。 ちなみに、フェルメールの『レースを編む女』は、ボビン・レースを編んでいるのである。17世紀末 フランス製のニードルポイント・レース 僧衣の裾飾り18世紀前期 ベルギー製のボビン・レース 教会祭具用ヴェール(部分)
Apr 11, 2006
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ほんとうに気持の良い天気にさそわれて、そそくさと身繕いして散歩にでた。 そういえばもうどのくらい前になるか。音楽指揮者の小林研一郎氏が、読売交響楽団の常任首席指揮者を退任することになって、その最後の指揮となる演奏会が、東京世田谷にある昭和女子大学の人見記念ホールで開催された。たしか春の、ちょうど今頃の時期だったように覚えている。それはとても素晴らしいコンサートだった。すくなくとも私にとっては、私がかつて聴いたオーケストラ・コンサートのなかでも指折りのものだった。演奏会が終わって、私は気持のよい春の夜の街を、まだ耳にのこっている音楽をかみしめるかのように、ゆっくりゆっくり歩いていた。躰のなかがなんとも言えないおだやかな温かさにつつまれ、それでいて自分も何かしないではいられないようなエネルギーが、まるで花の芽のように躰の深いところに萌えているのだった。そして同時に意外な想念にとらわれたのだ。このまま何処かに蒸発してしまおうかな----このまま知らない街から街を歩きつづけて、誰も知らないところへ身を隠してしまおうかな----と。私の躰は軽く、足にも重さがなかった。音楽が渦を巻き、花の香りがした------ 昔のことをふと思い出しながら、私は住宅街のさまざまな花々を目でいつくしみながら駅にむかった。電車に乗り、隣町の八王子に行った。花屋の前で立ち止まり、あれこれ眺める。我家の庭のデザインをしたいと、ずっと考えているので、どんな花を植えようかと頭に描いてみているのだ。家人とも相談してみよう。思い立ったときに手をつけないと、また1年2年と過ぎていってしまうだろう。 知人が、気になる記事が載っていると、情報をファックスで送ってくれた雑誌をさがすため、本屋にはいる。しかしその雑誌はあいにくみつからなかった。大判の『奇想天外』という雑誌が創刊号として並んでいるので、「おや?」と思い、手にとってみる。昔私が執筆していたSF雑誌とまるで同じ誌名だ。しかし中味の編集方針はまったくことなり、昔の関係者が発行しているのかと奥付を見てみたが、それも無関係のようだった。 商店街を急ぎ足で歩いてくる「ガングロ」メーキャップの若い女性とすれちがう。「おや、まだこのメーキャップは生きつづけているわい」 私は顰蹙もしないけれど、せっかくの若さに輝く顔をもったいないことだと、内心では思う。 女性の化粧は、ファッションとしてばかりではなく、文化的心理学的な複雑な背景があるようだ。性的誘因としての自己美化はとりあえず措いても、社会のなかで女性が自立してゆくための仮面というふうにとらえると、それは歴史的社会制度をめぐる非常におおきな議論になってゆくだろう。昔、ある有名化粧品メイカーの研究員が私に言ったことがある。「私たちは時代にそった女性の美を追求しているのですが、実のところ、女性に対して常に、あなたは美しくないと言っているわけです」と。つまり女性が自信喪失の不安神経症をつくりだし、それを刺激することがメーキャップ・ファッションの原理ということだろう。女性に聞いてみると、化粧をすると精神的に落着くとこたえるひとがいるから、それだけでは判断材料には足りないけれど、しかし化粧品メイカーの術中に幾分かははまっているとみえる。 ガングロさんは、いわばメーカーのつくりだすイメージへの反抗があるのかもしれない。そしておそらく、「美」の追求というより、カーニバル的な仮面性のうえにたった自己主張なのだろう。初めてこのメーキャップをして街頭を闊歩したひとには拍手をおくるが、これがある種のグループ内のファッションとなってしまったからには、グループに属するためのメンバーズ・カードか、もしくは足抜けできないように無理矢理にさせられたヤクザの刺青のようなものだと言ったら、少々酷だが、私にはどうもそんな部分もあるような気がしてならない。このガングロ・メーキャップをペルソナ(仮面)論とのからみで検証してみたい好奇心がわく。オオ、わが好奇心よ! ガングロさん、ありがとう! さて、散歩の仕上げはまたぞろ古書店だ。 ところがこれが思いがけない掘り出し物をしてしまった。掘り出し物といってもいいんじゃないかなー。 岩波文庫でとうの昔に絶版になってしまっている『リイルアダン短編集』である。リラダンと言った方がわかる方がおおいかもしれない。残念ながら上下巻のうちの上巻だけだが、昭和27年の初版。本文紙が経年変色しているものの、まるで出版者の倉庫でそのまま眠っていたような完全な状態である。辰野隆編で、ヴェリエ・ド・リラダン『残酷物語』からの選集だ。翻訳をしているのは辰野隆のほかに、鈴木信太郎、伊吹武彦、渡邊一夫である。リラダン『残酷物語』は齋藤磯雄が翻訳したものがやはり昔の新潮文庫にあるが、私は四六判の齋藤磯雄訳を所蔵している。 ほかに、ラス・カサス『インディアスの破壊についての簡潔な報告』の岩波文庫1976年初版の完全な美本。これは映画『ミッション』の脚本の下敷きになった歴史資料。15世紀末から16世紀にかけて、スペインは「征服;コンキスタ」の名のもとに南米インディオを暴虐的に破壊し、キリスト教の宣教活動をおこなった。その言語に絶する残虐な手口について、当時現地に50年間滞在し事実を目撃した司教バルトロメー・デ・ラス・カサスが、その非道をやめるように、スペイン皇太子フェリーペに対して進言のために著したものである。最初の章に目をとおすと、キリスト教徒は入植以来40年間に1500万人のインディオを虐殺したとある。目を疑うような数字だが、司教は1200万人という数字を次ぎの行で1500万と訂正しているのだ。300万の人口だったある大きな島では、虐殺後に生き残っていたのは200人だった。また別の島では50万人の住人を絶滅に追い込み、その後、3年がかりで生存者がいないか探索したところわずか11人が発見されただけだと司教は書いている。キリスト教徒は、これらインディオを動物と思うならまだしも救いがあったかもしれないが、「糞」と思っていたと。意を決して告発に踏み切った司教が、こういう言葉を使用しなければならなかったほど、すさまじい悪行だったということだ。本書『インディオスの破壊についての簡潔な報告』の母体となった、スペイン国王へ提出された書簡は、1542年に執筆された。 次も美本。シュヴェーグラーの『西洋哲学史』上下巻。この本はすでに読んでいるが、あまりにも完璧な美本だったので買ってしまった。 というわけで2時間ほどの散歩、掘り出し物をしたと、ひとりでにこにこしながら帰宅したのだった。 眼つむれば若き我あり春の宵 高浜虚子
Apr 9, 2006
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英語で「鏡」を意味するミラーmirrorの語源は、ラテン語のミラリmirari(驚嘆する;wonder at)、もしくはミルスmirus(驚くべき、不思議な;wonderful)から変化したミラレmirare(見る;look at)であるという。ミラクルmiracle(奇蹟、おどろくべきこと)も同じ語源である。また、アドマイアーadmire(感嘆する)、マーヴェルmarvel(驚異)、ミラージュmirage(幻影、妄想)も同じである。 こうして語源や派生語を書き出してみると、そこに、鏡の物としての実体以外の「精神的要素」というべき事態が浮かび上がってくる。 プラトンは、磨きあげられた鏡の「輝き」と、たぶんに精神的意味合いをふくんだ「澄明さ」とを同一文脈でとらえている。これは古代ギリシア文明においてのみならず、わが日本においても同様な認識だ。日本では、古くは赫見(かがみ)という文字を当てていたが、これは太陽を表わしている。円鏡というのはまさにその形状表現にほかならない。私見によれば、古代の日本の鏡は、映すために使われたのではなく、光りを反射して輝くものとして神の依代(よりしろ)として用いられたのである。 ところで、鏡に映った映像の非実体ということに思想の焦点をあわせれば、中世キリスト教世界は、鏡を媒介にした極めて重要な真理を獲得した。聖パウロが伝えるイエスの次の言葉がそれである。 「われら今鏡をもて見るごとく、見るところ昏然(おぼろ)なり。されど、かの時には、面(かお)を対(あわ)せて相見ん。我いま知ること全(まった)からず。されど、かの時には我が知らるるごとく我しらん。」(『コリント前書』第13章-12) もうすこし分かりやすく言い直してみよう。 「私たちは、いま、鏡で見ているように、見るものはみなぼんやりとして明確でない。しかし、神の国が到来したときには、神の栄光にまともに向いあうことになるのだ。私がいま知っていることはほんの一部で、完全ではない。しかし、その時がくれば、私の姿が誰の目にも明らかなように、私は神の栄光のいかなるかを知るだろう。」 ホイジンガは『中世の秋』のなかで、この聖パウロの伝える言葉は、「中世の精神が信じた最高の真理である」と述べている。つまり、天国の神の本質的存在に対して、この地上の人間は鏡の映像のごとき仮象(みせかけ)にすぎないというわけである。この神学的真理はやがてネオ・プラトニズムのなかにひきつがれ、ルネッサンスを通過し、マニエリスムとして魔術的な花を咲かせることになる。マニエリスムの鏡の隠喩はさらに400年の時を経て、現代のシュルレアリスムに隔世遺伝している。 レオナルド・ダ・ヴィンチは、「画家は鏡のようでなければならない」と言った。観察と科学の人レオナルドのこの言葉を、聖パオロの章句と比較検討してみるのは面白い。しかし、ここでヨーロッパ精神史を詳しく述べる余裕はない。とりあえず、鏡の隠喩がヨーロッパ精神史の重要なキー・ワードであることを言い、次に絵画史上に有名な鏡の絵をあげることにしよう。それらはもちろん単に鏡が描かれているのではなく、ヨーロッパ精神史そのものの例証にほかならない。そして、そのあとに文学作品を、さらに一番最後にはぐっとくだけて例のごとく鏡が登場するミステリー小説を思い出すままに並べてみることにする。 まず絵画から。 ヤン・ヴァン・アイク『ジョヴァンニ・アルノルフィニの結婚』(1434) ペートルス・クリストゥス『仕事場の聖エリギウス』(1449) ハンス・バルドゥンク・グリーン『愛と死(虚栄)』(1510) クェンティン・マッシース『両替商とその妻』(1514) パルミジャニーノ(フランチェスコ・マッツオーラ)『凸面鏡の自画像』(1523) ディエゴ・ヴェラスケス『鏡の前のヴィーナス』(1610頃) ディエゴ・ヴェラスケス『ラス・メニナス(宮廷の侍女たち)』(1656) ハンス・B・グリーンの『愛と死』が、長い時を隔てて現代に蘇っている例として次の2点を例示する。 ジョージ・トゥーカー『鏡』(1975) オードリー・フラック『運命の輪』(1977-8) 次は文学。 スペンサー(1552頃-1599)『仙女王』 ミルトン(1608-1674)『失楽園』。第4巻のアダムとイヴの物語。 ホフマン(1805-1878)『影を売った男』 ワイルド(1854-1900)『ドリアン・グレイの肖像』 トルストイ(1882-1945)『戦争と平和』 サマセット・モーム(1874-1965)『ホノルル』 ピエール・ド・マンディアルグ『曇った鏡』 次はミステリー小説 ドロシー・L・セイヤーズ『鏡の映像』 アガサ・クリスティー『鏡は横にひび割れて』 アガサ・クリスティー『死人の鏡』 スタンリイ・エリン『鏡よ、鏡』 ヘレン・マクロイ『暗い鏡の中に』 エラリイ・クイーン『キ印ぞろいのお茶の会の冒険』 江戸川乱歩『鏡地獄』 筒井康隆『ミラーマンの時間』 藤原審爾『鏡の間』 そして最後に事物を映さない鏡が登場する、笹沢左保『霧に溶ける』。 「直接手を加えた、すなわち他殺とは言いきれないでしょう」 「だが、やはり何かがあるはずです」 巨大な闇に対峙するように、倉田警部補は細い眼を見開いて宙を睨んだ。 「例えば、これです」 差し出した警部補の手の先には、ピースの箱ぐらいの大きさの錦織りの袋があった。 「楕円形の鏡の袋です。小河内エミのベッドの傍に落ちていました。だが袋だけで、中味の鏡はないのです」 この作品に登場する鏡は、事物を映しているわけではない。何事も映さないまま、犯人追求を困難にするため三つの殺人事件とそれをめぐる人物関係を乱反射しているのである。その意味では、鏡を使ったミステリー小説として「異色」といえるかもしれない。 ついでに、もうひとつ鏡の話。「魔鏡」というのを御存知のかたもおいでだろう。「隠れ切支丹鏡」とも言われ、光を反射させると鏡の内部に隠されたキリスト像を浮き上がる。鋳造過程で鏡の裏側の厚みをかえて作るらしい。実物は福岡の西南学院大学神学部に所蔵されている。もう一枚、神奈川県大磯町のエリザベス・サンダース・ホームも所蔵している。じつはこの2枚の「魔鏡」はぴったり重なり同型鏡であることが確認されている。それにしても、聖パウロの伝えたイエスの言葉では、鏡は非実体の象徴だったはず。この魔鏡に我が像が浮かび上がるとはイエス様も御存知あるまい。隠れ切支丹たちは、日本の「神の依代としての鏡」という考えをとりいれてしまったために、鏡の映像の非実体性に現実否定の重要な宗旨を象徴した聖パウロ以来のキリスト教の真理は、混神的な様相(syncretism)を呈しているのだということを私は指摘しておこう。
Apr 9, 2006
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我家の玄関の下駄箱の下に、長径15cm、短径7cmほどの、四隅がまるまった長方形の石が置いてある。なんの変哲もない石で、私が散歩していたさる小山で見つけて持ち帰った。どこからみても泥だらけの石ころだ。なぜそんなものを拾ってきたかというと、不意にその石ころが歩いている私の目にとまったのだ。まるで石に呼びかけれれたかのように、私は目を吸い寄せられた。拾いあげて泥を払ってみた。そうしてつくずく眺めると、どうもその形は自然に摩滅したもののようでもあるし、何か人の手が加えられたもののようでもあった。 「これは、石斧ではないかしらん?」 石斧というのは有史以前の石器である。時代によって製法の発達がみられるものだが、私の拾ったものがもし石器だとしたなら、考古学では先縄文時代と称す時代の局部磨製石斧ではないか、と私は思った。局部磨製というのは、ほぼ自然形態のままの石に刃器としてのいくらかの加工をほどこしたものを言う。代表的な遺物は、昭和33年に長野県の神子柴遺跡から出土した石器がそれである。日本の考古学上で、「旧石器時代」と言わないで「先縄文時代」と言っているのは、この神子柴遺跡発掘石器群あるいは青森県長者久保遺跡石器群について、シベリア・バイカル地方で発掘されている「新石器時代」の石器と系統的連関を指摘する学者がいるためである。 私の拾った石が局部磨製石斧となれば、それがあった一帯の大発掘調査がおこなわれなければならないだろう。それは私にとってはなんともロマンチックな夢であるが、私の石は確証もないまま、捨てられもせず、下駄箱の下に置かれているのだ。 そんな石ころに目をとめて拾いはしたが、私は別に石の蒐集家ではない。世間には「石マニア」というべき人達が非常に多い。廃坑などを探索して鉱物岩石を蒐集する人もいれば、貴石を集めている人、珍石奇岩を好む人、嗜好はさまざまだが、いずれも石に魅せられている。山梨あたりの観光地に行けば、土産物店には必ずと言ってよいほど研摩して台座に据えた石が並べられている。土産物店で売られるくらいだから、蒐集家の間での売買は盛んで、オークションも開催されているようだ。価格も数百円単位から、ちょっと信じられないほどの高価格(億単位)で取引されていると聞く。 そういえば竹中直人氏の第1回監督作品の『無能の人』は、石マニアの「生態」をおかしくも哀しく描いた、なかなか捨てがたい映画だった。原作は、つげ義春氏の同名の漫画。丸内敏治氏が脚本を書いている。 竹中直人自身が主演もしていて、時代から取残されて売れなくなってしまった漫画家を演じている。この男は生活力はまったくなく、多摩川の川原に住んで石を売ることを思いつく。石のオークションなるものが存在することを知って、一獲千金を狙って山梨へ石探しに行き、発見した石を出品するがまったく相手にされない。なけなしの金を交通費に使い、重い思いをしただけだった。そして----。 マニアと呼ばれるような人たちの人生は、それが何にとらわれているにせよ、悲喜こごももであろうことは、おおよその察しはつく。傍から見るとただのガラクタ以外のなにものでもないのだが、何かしらの「魔」が彼らをとらえて離さないのであろう。画家だって、そんな曰く言いがたい魔にとっつかまった人間なのかもしれないけれど----。 私の亡父が鉱山関係者だったことは、以前このブログに書いた。いわば石の専門家だったわけである。そんな環境だったから、私の子供時代の机の抽き出しには、半透明の緑色をした方解石やら石榴石(ガーネット)やら方鉛鉱やら黄鉄鉱やら黄銅鉱やら、銀色に油膜の虹色のような輝きをしている磁鉄鉱やら、たくさんの小さな鉱物が入っていた。 また、川原遊びをしていて石英の白い硬質な小石などをみつけると、拾ってポケットに入れて家に持ち帰った。そして、父にその石の名前を尋ねるのである。父は「どれどれ」と言いながら手にとってから、その石を舌先でペロリと舐める。それから「これは石英閃緑岩だね。どこで見つけたの。土木用石材になる岩石ですね、これは」などと答えるのだ。 どんな石を拾ってきても、まず舌先で舐めてみる。それがおもしろくて、私はつぎつぎと石を拾ってきた。本を開いて調べることなど一度もなかったので、この舌先のペロリが子供の私には魔法のように思えたものだ。 岩石特有の味覚、あるいは微妙な感触を調べるのかと思っていたが、どうもそうではなく、湿りをあたえて色彩をあざやかにしていたらしい。つまり日なたでしろっぽくなっている石に水をかけると、本来の色があらわれてくる、それと同じことを舌先のほんの少しの唾を利用してやっていたのだ。 私の父は、たまに家族でどこかへ出かけることはあっても、子供と遊ぶような人ではなかった。しかしこうして石の名前のペロリをやってくれたり、あるいは旅行の途路、私が車窓から見たことがない植物を発見すると飛び下りて採集してきてくれた。私は13歳になると、家族と別居して学校に通うようになった。めったに家族に会えなかったためか、こういう思い出はなんとなく懐かしいのである。 さて、ここで例によって「石」が登場する小説を思い出してみよう。その前に小説ではない2册をあげておく。よもや真似する人はいないと思うが、わが父のペロリを真似することはくれぐれも止めていただきたく、 杉山二郎・山崎幹夫共著『毒の文化史』。本書中に石の毒についての言及がある。 つぎは、江戸時代の百科全書派ともいうべき人物の大部の著書である。 木内石亭『石譜』 そのほかに民俗学関係にもあるが、それは措いて、小説に行こう。まずは、今日の日記のタイトルに借用した本から。 アルベルト・モラヴィア『石の声』 マンディアルグ『石の女』 三島由紀夫『英霊の声』。この小説をあげると意外に思われるかもしれない。降霊術で、さ庭が石笛を使用することが書かれている。 松本清張『万葉翡翠』 木下宇陀児(うだる)『石の下の記録』 高木彬光『ミイラ志願』。これも意外におもわれるだろう一編。即身成仏の方法として石子詰めというのがある。 エラリー・クイーン『盤面の敵』 エラリー・クイーン『がらんどう竜の冒険』 つづいて少しマニアックに、「水晶」が登場する小説の特集。 モーリス・ルブラン『水晶の栓』 モーリス・ルブラン『金三角』 ジャック・フットレル『水晶占い師』 H・G・ウェルズ『卵形の水晶球』 マーガレット・ミラー『狙った獣』 エラリー・クイーン『ガラスの丸天井付き時計の冒険』 私の部屋の飾り棚には、パリの魔術的な骨董品を扱っている店から買ってきた直径8cmほどの水晶球が鎮座ましましている。それをモデルにした絵も数点ある。この遊卵画廊に展示している早川書房「イギリス・ミステリ傑作選」シリーズの一冊『ある魔術師の物語』のカバーに使用した絵もそのひとつである。どうやら私もしらずしらずのうちに「石の声」に魅せられていたのかもしれない。
Apr 7, 2006
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鉢植えのアイリスが素晴らしいブルーベルベットの大きな莟をつけている。我家の庭の花々は、意図してそうしたのではないが、どれもみな白とかピンク、または薄紫の淡い色だ。チューリップとユリは開花にはまだ一月ほど早いが、それも白と薄い黄色。少し鮮やかな原色があってもいいと思っているけれど、どうも思うだけ。このアイリスは昨年晩秋に東京薬科大学の学園祭で、薬草園からもらってきたものだ。あんまり素晴らしい色をしているので、開花がたのしみである。母も、日に三度も四度も見にいっていると、笑っていた。 白桃やアーモンドが咲いているこの時期になると、従姉がたくさんの土産を抱えて、母の話し相手をするため遊びに来てくれる。今日は、従姉を迎えてのティーパーティ。母は目が不自由なことと、一人歩きをするには足許がおぼつかなくなっているので、こうして親戚の者たちがやって来る。ありがたいことだ。母は自分のきょうだい達のなかでは末っ子なのだが、いまはもう誰もいないので、家族のなかでは長老になってしまった。従姉は、母にとっての甥からも土産をあずかっていた。韓国高麗紅蔘茶「正官庄」だった。 お茶うけのお菓子は、クッキーやらDELAVIUDAのチョコレート・トリュフ、愛知県の坂角のえびせん、弟がどこやらで見つけてきた奥会津のゆべし(胡桃餅)、そして苺。パーティは午後4時半までつづいた。
Apr 6, 2006
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過日さる映画関係者と酒を酌み交わしながら談笑し、話がキャスティングの苦労話になった。そして、武士の体つきは、実際はどんな格好をしていたのだろうという。日頃から武術の鍛練をしていれば、筋骨は引き締まって逞しかったであろう。剣術なら、肩や腕は相当発達していたにちがいない。それでは下半身はどうであろう。 そこで私は、マラソンランナーの脚がヒントになりはすまいかと思った。現在のように移動手段として車があったわけではない。どこへ行くにもほとんどの場合、脚を使った。江戸から京・大阪へ、あるいは長崎へ。日本国中を徒歩で旅したのだ。健脚という以上のものだったのではあるまいか。 私の家がある所はいわゆる新撰組の里である。土方歳三の生家はそれほど遠くない。昔の言い方だと武州多摩郡石田村(現・東京都日野市石田)。近藤勇の生家も近いとは言えないが遠くもない。土方歳三は剣術の稽古のため、早朝に家を出発して、途中、高幡不動尊境内の山中で一度稽古をしてから甲州街道を歩いて、現在の新宿区市ヶ谷甲良町の天然理心流剣術近藤道場に通った。近藤勇が道場主の養子になっていたからである。その距離、片道およそ27km。毎日通ったのではないだろうが、現代の我々の脚など到底およびではない。彼の身長は5尺5寸(約165cm)だったという記録があるから、現代人男性にくらべると小柄である。また、同じ頃の坂本龍馬の旅の足跡をさぐってみると、どうしてそんなことが可能だったのだろうと思うほど、短期間に江戸・京・大阪・長州(山口県)・熊本等々をめまぐるしく往来している。私がとりあえずは健脚・強脚というしかない彼らの脚を想い、マラソンランナーを連想したとしても、現代ならこれよりほかの人は思いつかないのだ。 幕末期のこれらの人物は写真ものこっているけれど、その写真から裸体を知ることはできない。 日本の美術史には裸体像の項目がない。裸体像がまったくないかというとそうではない。鎌倉室町時代の絵草紙には、庶民風俗のなかに、裸を晒しているすがたが見られる。あるいは江戸時代の浮世絵春画(枕絵)に。しかしそれらはリアリズムの目で観察され描写された裸体ではない。いうならば裸体という概念で抽象化された裸体である。 浮世絵春画はポルノグラフィーであるから当然裸体像が主体になるのだが、それはいわば性戯の技術論であって、恋愛の精神性にはほとんど関心を示さず、モデルの個性に目をむけられているのでもない。 私は常々不思議に思っていることのひとつは、葛飾北斎などが女性器の構造を解剖学的に精細に描写したり、歌磨などが、あまりに巨大なので西洋人を瞠目させた男性器のリアルといってよい描写をしているにもかかわらず、なぜ肉体の全体的な美には意識がおよばなかったのかということだ。 このことに気がついたのはずいぶん昔だが、それ以来、さまざまな書物でさぐってきたが、ついぞ言及に出会わなかった。ところが海外には、その日本的特徴に気がついている人がいた。マルグリット・ユルスナルが『三島あるいは空虚のヴィジョン』のなかで次のように書いている。 「日本美術はエロティックな版画においてさえ、西欧におけるような裸体の讃美というものをついぞ知らなかったのだ。」 それでは、エロティックな春画のなかの日本人の肉体はどのように表現されているのだろう。 歌磨が描く性戯のさなかの男の背中は、西洋裸体画では明確に描出されている背骨さえ示されず、鍛練された様子もシェイプアップされた様子もない。それは躰の輪郭だけを描いた一つの抽象で、はみでた脇毛だけが奇妙に具象的だ。あるいは、北斎や國芳に代表されるアクメ(オルガスムス)にある女の吊り上がった目、ひっくり返った眼球、硬直して内側に曲げられた足の指。 これらは確かに裸体の讃美としての表現ではなく、男女性器の末端的関係を暗示するものだ。究極の目的がそこにあるところの、いわゆるポルノグラフィーである。しかも使用済みティッシュペイパーの散乱を描くなどは、西欧のポルノグラフィーにはまったく見られない表現だ。つまり、おどろくべきことに、春画は達成された性交回数や時間の経過を表現するという特徴をそなえているのである。私が先に「技術論」と言ったのは、そういうことだ。裸体美はまったく問題外なのである。 日本においては古来、農耕神(豊饒神)との関係から性器崇拝を含む男性の肉体を神聖視する伝統があった。今日なお各地に残る裸祭に見られるとおりである。しかしそのことが古代ギリシアのようにある美的規範にのっとって肉体を鍛練し、形成するということとはつながらなかった。裸祭に参集する肉体は、日常性を露にした農夫の肉体であり、漁夫の肉体であり。商人の肉体であった。ここで神聖視された男性の裸体は、西欧の裸体美とはまったく異質のものである。 先日私が古書店で購入したビゴーの『日本素描集』(清水勲編、岩波文庫)には、かなりの点数で日本人の裸像が載っている。入浴風景であったり、温泉場の混浴風景である。フランス人のビゴーには素裸で、しかも男女が一緒に温泉につかる風景は衝撃的だったにちがいない。 ジョルジュ・ビゴー(1860-1927)は浮世絵に魅せられて明治15年(1882)に来日、日本婦人と結婚し(離日時に離婚している)、1899年に帰国するまで17年間滞在し、日本人が目をむけなかったさまざまな風俗に取材した数多くの風刺画を描いた。 ビゴーの目には体毛のない日本人の裸体が美しく映ったのかもしれない。しかし、彼の目が西欧のリアリズムに培われていることは、春画ではないけれど、「不倫の喜び」というタイトルのまさに床入り寸前の男女ふたりは、モデルの個性が醜くもはっきり表現されているのである。 彼は自分のアトリエで日本の着物をきて、日本人女性をモデルに裸体画を制作することもあったらしい。西欧と違い、当時の日本には美術のためのヌードモデルという職業はなかったので、ビゴーが特別に懇請してモデルになってもらったのだろう。彼女はおそらく、裸なんかを描くヘンな外国人と思ったことだろう。裸体に関する文化的な意識の違いを、ビゴーは明確に意識していて、ヌードを描く自分自身を戯画的に描いている作品もある。 ビゴーは、明治28年、京都で開催された第4回内国勧業博覧会に出品された黒田清輝の『朝妝(ちょうしょう)』と題された絵画をめぐるスキャンダル事件の風刺画も描いている。その黒田の絵は、鏡に向って長い黒髪を梳く、全裸の日本女性の全身立像だった。日本の公衆の前に発表された初めての裸婦像である。 黒田清輝(1866-1924)は、法律の勉強をするためにフランスへ行ったのだが、帰国したときには画家になっていた。フランスの美術アカデミーで熱心に裸体画を勉強して西洋美術における裸体画の重要性を認識し、日本美術のなかに新しい一歩を築こうとしたのだった。私の手許には彼がフランス滞在中に描いた『裸婦』というタイトルのフランス人女性像の複製がある。リアリズムの目で丹念に描きみずみずしい裸婦像となっている。とはいえそれは上半身だけで、下半身の処理には相当苦労したらしい様子がうかがわれ、なんとなくまとまりが悪い。----このことは私にはとても興味深いことに思われるのだが、自国の文化のなかに裸体を讃美する伝統がないということは、いざ実際のモデルに対しても、どのように捉えどのように処理してよいか当惑するだけなのだろう。どうも個人の意識だけの問題ではなそうなのだ。 しかし、黒田の『朝妝』スキャンダル事件から12年後の明治40年、日本美術の裸体像は、ひとつの傑作をもつことになる。第1回文展に出品された新海竹太郎の石膏像『ゆあみ』がそれである。明治の女の全身裸体像。新海竹太郎は古代ギリシャ彫刻や、それを模倣した古代ローマ彫刻を研究したらしい。『ゆあみ』もあきらかにカピトリーノ美術館の『ヴィーナス』をヒントにしていることが窺える。しかしながら、それはまぎれもない日本女性の裸体である。日本人の裸体が美として誕生したのだ。 ところで冒頭に述べた武士の肉体、もしくは概して日本人の肉体のリアルな様子について、私は『ビゴー日本素描集』のなかで編者の清水勲氏が意外なことを書いているのを知った。 幕末に日本にやってきたペリー提督の著書『日本遠征記』のなかに、ハイネが描いた絵が挿入されている。その絵に日本人の裸体像があり、それによると男女ともにみな裸体が若々しく、女は豊満で、男は筋肉隆々なのだという。ハイネはそうした日本人の裸体の美しさにいたく感動したらしいのである。さらにもうひとつ資料があり、同じく幕末に来日したスイス人エメェ・アンベールの『絵で見る日本』に、クレポンという画家が「江戸の風呂屋」という挿画を描いていて、それは非常にリアルな日本人の裸体画像なのだそうだ。 どうやら浮世絵春画に見られるのっぺりした日本人の裸体像は、西欧人のリアルリズムで描いた絵によって、印象を訂正されそうである。日本人の裸体の美を発見したのは西欧文化というのは早計だろうか。⚫️ 本稿の英訳を別ブログに参考画像をつけて掲載しました。(2025年7月8日)山田維史の青空日記・遊卵画廊
Apr 5, 2006
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昼前に家人たちは外出してしまい、昼食はタモリさんのテレビ番組を見ながら一人ですます。 それから会津若松の清水先生に久しぶりの電話をした。昨日頂戴したお葉書のお礼を兼ねてお声を聞く。お葉書にあった先生が夜間だけ宿泊するケアハウスというのは、最近新しく御自宅の向いにできたのだそうだ。「家から250歩。ちょっと贅沢なんだが---」とおっしゃる。「いやいや、それはおよろしいですね、じつは私、夜間のケアをどうなさっているかと心配していました。これで、先生も安心、私も安心」「そうそう、そうなんだ。そこで朝の食事をして10時半ころに家にもどるわけ。そして新聞を読んだりしていると、お客さんがやってくるんだ」 来年の公演用の戯曲は構想がほぼまとまったとのこと。「それでは、私も表紙絵の準備をしなければなりませんね」「表紙、表紙。----先日、テレビで藤田嗣治のことをやっているのを見ながら、あの人、ロイド眼鏡に----」「オカッパ頭----」「そうそう、それでついつい山田クンの顔を思い出して、元気かなーって思ったんだ」 中学生のころ、私はまさに丸い黒縁のロイド眼鏡をかけ、オカッパ頭ではないがいわゆる坊ちゃん刈りだった。「元気です元気です。5月の末に『現代アート』という画集が出ます。私の作品も収載されていますから、お送りします」「そりゃあ楽しみだ」「先生もお元気で。また電話いたしますから----」 電話をおわったところへ、町内自治会の役員が今年度の自治会費を集めにきた。我家のグループは16軒。今年の担当は一番古くからお住まいのKさんなので、16年かかってちょうど一巡したわけだ。その年生れた赤ん坊が2巡目には32歳になっているのか!----なんだかゾッとするなー。自治会役員を5回担当するまでにはもう鬼籍にはいっているだろうから、こういう括り方をしてみると、なんと人生は短いのだろう。 ということで、閑話休題。----------------------------------------------「絵画のエクリチュール」というタイトルをつけてみた。フランス語のecriture、文章術とか書法、あるいは書かれた物という意味である。つまり絵画というものを文字で表わすとしたら、どのような書き方をしたらよいのだろうというわけだ。いったい絵画を記述することが可能なのだろうか。文字によって伝達することができるのだろうか。 音楽が純粋芸術といわれるのは、一瞬一瞬に消えてゆき、再現が絶対的に不可能だからである。ここで「再現」といったのは、録音盤(レコード、磁気テープ、CDやDVD等のメディア)を再生することを意味してはいない。たとえ録音にしろ、その音は非回帰性の時間と同質なのであって、私たちの聴覚は音をとどめておくことはできない。もし聴覚が一瞬一瞬の音をまるで扇子をおりたたむように記憶し、とどめるのであったとしたらどういうことになるだろう。楽譜にある音符ひとつひとつを鎖を断つように切り離し、一斉に発音すれば、感じはつかめるだろう。ただし限りなく時間を細分した極点時間にしなければならない。実験は不可能ではないだろう。しかし、いわずもがな、そこにはもはや「音楽」はないだろう。 音楽のエクリチュールはしたがって不可能なはずであるが、それでもなお挑戦してみようという人はいるのだ。たとえば、楽曲を文字で記述しているのではないが、作曲家武満徹氏のエッセー『沈黙と測りあえるほどに』を読むと、私はそこに音楽家の文章を「聴き取る」。武満氏の耳が聴いている音が、その文章から聴こえてくるような気がする。あるいは、私は音楽評論家吉田秀和氏の文章を、日本語による論理的文章として最上なもののひとつだと思っているのだが、氏の楽曲分析のエクリチュールからは私には音が聴こえてくる。とても硬質な音ではあるが、たしかにそこに音楽があるのである。 さて、そのような意味で、はたして絵画についてのエクリチュールはどうなのであろう。 絵画芸術論としてはもちろん古今東西の万巻の書物がある。現代の名著といわれるものでも、たとえばエルヴィン・パノフスキー『イコノロジー研究』や、ケネス・クラーク『裸体画論』『風景画論』、グスタフ・ルネ・ホッケ『迷宮としての世界』、マルセル・ブリヨン『幻想芸術』、ルネ・ユイグ『イメージの力』、あるいは田中英道の『フォルモロジー研究』、あるいはまたジャック・デリダ『盲者の記憶』等々、私の書棚にさえどのくらいあるか分らない。 しかしそれらの書物が、1点の絵がどんな「姿」をしているかを語っているわけではない。私がしばしば繙く本に、フロマンタン著『オランダ・ベルギー絵画紀行』がある(上下巻;岩波文庫、1992年初版)。 フロマンタン(1820-76)はフランスの文豪であり、画家でもあった人物。この紀行文はルーベンスとレンブラント、そしてオランダ絵画をその生れ故郷で見ようという目的の、美術館めぐりの旅の記録である。フロマンタン自身の「まえがき」に、次のような一節がある。 「----絵画芸術とは、目に見えるものによって目に見えないものを表現する術にほかならないのだから、その道には、広い道であれ狭い道であれ、さまざまな難問が立ちはだかっているものだ。これらの難問を明らかにしうるものと見て自分なりに探究しても、別に不都合ではないだろうが、謎のまま暗がりの中にそっとしておくのもよろしかろうというわけである。私はただ、いくつかの絵の前に立ち止まり、私の驚き、喜び、賛嘆を語るだけにしたい。」(高橋裕子訳;以下の引用はすべて高橋訳) ここにフロマンタンの絵画のエクリチュールの枠組が集約されているのであるが、冒頭に述べた私の設問も同じ主旨である。 『オランダ・ベルギー絵画紀行』は、絵画見分録としては最上のものではないかと私は思っている。「見る」ということは、まさに彼のように見ることなのだと思い知らされる。「眼光紙背に徹す」というが、彼は一点の絵の前にたたずみ隅から隅まで穴があくほど見つめ、その視線の移動に言葉をからみつけて行く。私はこのような眼力をもった人をひそかに「眼鬼」と称している。視覚というのは不思議なもので、しっかり見ているようで、実のところ何も見ていないということは非常におおい。常に幻想に邪魔されているのが人間の視覚なのだ。 それでは、眼鬼フロマンタンはどのように絵を見て、言葉にしているのだろう。リュベンス(ルーベンス)の『キリスト降架』についての記述を見てみる。ほぼ7ページにわたる長いものなので、ごく一部だけであるが---- 「大仰な身振り、叫び声、恐怖、たくさんの涙----この絵はこうしたものとは無縁である。わずかに聖母が不意に心の底からの嗚咽をあふれさせるだけ、悲嘆にくれる母親の身振りと涙に濡れた顔、赤く泣きはらした眼が、この悲劇の哀しみの深さを示すだけである。キリストの姿は、リュベンスが神を描くにあたって構想した中でも最も優美なものに数えてよい。このキリスト像にはいわく言いがたい優雅さ、細長くしなやかで、華奢といってもいいぐらいの優雅さがあり、そのために自然の人体の精妙さと、アカデミズムの理想化された裸体習作の品位とを、そっくりそなえるに至っている。(略)やや傾いたこの大きな遺骸の印象は忘れがたいものである。繊細な目鼻立ちのやつれた小さな頭部は一方にがっくりとかしいでおり、血の気を失って透き通るほど青白くなっている。痙攣も歪みもなく、すべての苦悩を脱した顔。遺骸は至福のうちに十字架から降りてくるところだ。不思議な美しさに包まれた義人の死のうちに、しばしば安らぐためである。この遺骸がどれほど重いか、どれほど大切に支えられているかを、思い浮かべていただきたい。----」 いつまでも書き写していたいほどだ。こうしてフロマンタンは巨大な『キリスト降架』をあますところなく語ってゆくのである。 絵画芸術とはフロマンタンの言う通り、眼に見えるものによって眼に見えないものを表現する術」であるが、こうして言葉で記述することで、なんと多くの見えないものを見ることができるのだろう。エクリチュール(書法)というのは技術である。技術は習練によって獲得可能なものである。私たちは絵画や音楽についての自分自身のエクリチュールを獲得することによって、芸術が挑戦している眼に見えないものの世界に到達することができるのではあるまいか。
Apr 4, 2006
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きょう、東京の西部方面は強い風が吹き荒れていた。そんな風のなかで我家の庭の白桃とアーモンドと木瓜(ボケ)が一斉に開花した。強風にせっかくの花弁がちぎられてしまうのでないかと思うのだが、なんのその、明日を待ちはしないものらしい。機が熟して、開花の時をむかえれば、ためらうことなくパッと咲くのかもしれない。妙な感心をしながらしばらく花をながめた。 春が好きだ。空気のなかに植物や昆虫や動物のエネルギーの放射が感じられる。はじけるような子供たちの笑い声がする。 会津若松の清水和彦先生(中学時代の先生)からお葉書を頂戴した。3月31日まで雪がふりつづいていたのだという。先生が夜間だけお泊りになるケアハウス6階の自室から撮影した写真の裏にしたためておいでだが、その写真は遠く雪を頂く磐梯山や猫魔岳が甍の上にのぞめた。 来年は先生が創立者のひとりである劇団「童劇プーポ」の50周年目にあたる。そのための作品をタイピングしているところだとある。記念パンフレットの表紙絵は私が描くことを約束してある。そろそろお前も準備を始めろというご注意かもしれない。劇団の現会長は私の中学高校の後輩である関孝一氏。彼と連絡をとってスケジュールを聞かなければなるまい。------------------------------------------- さて話題を変えよう。きょうは「食う」映画をわが記憶の頭陀袋(ずだぶくろ)から引っぱりだしてみる。いろいろ思い出すが、何から行こうか。 直接「食う」という行為を示してはいないのだが、ヴィスコンティ監督の『家族の肖像』(1974)の中にキッチンがでてきて、その天井から大きなハムの塊やソーセージがぶらさがっていたのではなかったか。時代の変化に取残されて宏壮な邸のなかでカンバセーションピース(家族団欒を描いた18世紀絵画)の蒐集を唯一の慰めに生きているような大学教授(バート・ランカスター)の食生活が想像され、意外に生臭い精気が感じられるシーンであった。このシーンはあまり見過ごしにはできないのではあるまいか。 まるで侵入者のごとくこの邸の二階を借りた富豪夫人と、その若き愛人の左翼青年コンラッド(ヘルムート・バーガー)。誰かが突然コンラッドを襲い、半殺しにして逃走する。教授は秘密部屋に彼をかくまい、細やかな看護をする。朝、教授はオートミルかパン粥のようなものをコンラッドの枕許にはこんでゆく。このお粥を媒介にしてのホモセクシャルな愛情の暗示と、キッチンの天井にぶらさがったハムの塊は、映像的に対になっていると私は思う。「食」の表現のなかにセクシャルな匂いがする映画だ。 フォルカー・シュレーンドルフ監督『ブリキの太鼓』(1979)。原作はギュンター・グラスの同名の小説。小説がすばらしい。3歳の誕生日に自ら決意して肉体的成長を止めてしまったオスカル。このへんてこ少年の醜悪な大人世界を遍歴する物語だ。オスカルは3歳の誕生日プレゼントとしてブリキの太鼓を母(アンゲラ・ヴィンクラー)からもらった。そのとき彼は意を決したのだ。これ以上大きくならないと。そして地下倉庫に転落して成長を止める。同時に奇妙な能力がそなわる。太鼓を叩きながら大声で叫ぶと、そこらじゅうのガラスが粉微塵になってしまうのだ。あるいはナチ党員の行進曲をとつぜんワルツにかえてしまう。抱き合ってワルツを踊り出すナチ党員たち。 オスカル少年は母親の不倫の結果だった。その母がまた同じ男の胤をやどす。そして湖のほとりで水中に沈んだ馬の死骸にもぐりこむ巨大ウナギを見たのち、狂ったように生の魚を喰らいだす。魚をまるごと口につっこみ食いちぎるのである。----やがて彼女は自殺する。 このシーンが何を意味するか、判断は観客の思いにまかされている。ただ狂気のすえか。それとも淫乱の象徴か。性交の代理的行為か。精神分析学では、馬は父権の象徴、ウナギは男性器、魚は女性の象徴とされるが、はたしてこの映画の場合はどう解釈されるだろう。私自身はひとつの解答を用意しているが、それはここに書くまい。 しかし、思い返せば、映画の中でこれほど凄まじい「食う」という行為を見たことがない。 『ブリキの太鼓』の生魚食いにくらべると、リリアーナ・カヴァーニ監督の『愛の嵐』(1973)での「食」はいささか幼稚な表現だ。女性監督が描く女の心理と肉体の条理(アヤ)というわけだが。 マックス(ダーク・ボガード)は元ナチ親衛隊将校。当時は権力をほしいままにして振舞っていたが、いまはホテルのナイト・ポーターとして隠れるように暮している。しかし彼は昔の仲間とナチ復活の夢をみて秘密結社を組織していた。ある日、ホテルにやってきた有名なアメリカ人音楽指揮者の夫人(シャーロット・ランプリング)を見たとたん、時間はいっきに20年前にさかのぼってしまう。彼女こそ、かつてユダヤ人強制収容所の囚人として、マックスの暴力的な異常セックスの餌食となっていた女だったのだ。マックスは過去の素性が暴かれるのではないかと恐怖におののく。 ふたりは20年をへだてて向いあう。マックスはパニックにおちいり、無我夢中で彼女を怒鳴りつけ、殴りかかる。ふたりは揉み合いになり、そこにあった苺ジャムの瓶が割れてとびちる。ガラスの破片のうえにマックスは彼女の掌を押さえ付ける。苦痛にゆがむ女の顔。そのとき女の肉体と心理は意外な方向に変化したのだ。かつて囚人として培われたマゾヒスティックな性の欲望が「愛の嵐」となって彼女を襲ったのである。彼女は手にべっとり付いたジャムを飢えたように舐めた。マックスもかつてのように激しい性衝動に我をわすれてゆく。「すべてが失われたと感じた時に、思いがけぬことが起った」と彼はつぶやく。 ジャムを舐めるシーン、設定としては幼稚と私は思うけれども、映像に「触感」がある。「食」ではない、「触」である。その点は感心して観た。 こうなると伊丹十三監督の『タンポポ』(1985)について述べないわけには行かない。この作品は日本の映画史のなかでは、「食のエロティシズム」を描いて特別な地位にあるかもしれない。伊丹十三映画で私の好みは第一作の『お葬式』と第二作のこの『タンポポ』につきる。 物語はまことに単純。未亡人のタンポポ(宮本信子)がトラック野郎のゴロー(山崎努)・ガン(渡辺謙)・ビスケン(安岡力也)・ショーヘイ(桜金造)の協力を得てラーメン屋の開店にこぎつけるというもの。ラーメンについての蘊蓄とラーメン屋のいわばバックステージが分り、「なるほど」「ヘー」という映画。 ----なのではあるが、そこは才人伊丹十三、このストーリーを芯にさまざまな「食」のエピソードを挿入している。それらのエピソードはお互いに絡み合っているわけでもないし、ラーメン話に関わっているのでもない。ここには映画表現の独特な一面が、まるで学校の講義案のように示されている。このバラバラなモンタージュが、なぜ一本の作品として成立してしまうのかということである。私はいまその映画文法について考察しないけれど、なかなかおもしろい問題だと思っている。 さて私がもっとも興味をもったのは、役所広司が演じている白服の男のエピソードの中の映像だ。 この男の素性ははっきりしないが、ギャングかなんかだろう。どうやら付け狙われていて、明日をもしれぬ命。開高健氏の言い分ではないが、美食家のギャングなのだ。 「今年最後の夏牡蠣、来年の夏には俺は殺されて、もう食えないかもしれねー」と、磯辺で牡蠣を採っている海女の少女に殻を開いてもらう。そして少女の掌からじかに牡蠣の身を啜る。 黒田福美が演じる情婦とのベッドシーンでは、生卵の黄味を壊さないようにお互いの口から口へと何度もやりとりする。女の乳首にテーブル・ソルトを振りかけて舐めとる。女はくすぐったそうに笑う。 これらのシーンを私はじつに見事だと感心して観たのだ。『愛の嵐』で触感という表現をしたが、『タンポポ』の白服の男のシークエンスは「食感」「触感」ともに映像として捉えられていて、画面から官能が匂いたっている。こういう表現はかつて日本の映画にはまったくなかったものだと思う。 小津安二郎の作品のなかには、『お茶漬けの味』のように佐分利信と木暮美千代の夫婦が倦怠気味のちょっとした危機をのりこえる暗示として、夜中にふたりで台所でお茶漬けをサラサラとかき込むシーンがある。日常の平凡さへの回帰をこのお茶漬けで表現しているのだ。 あるいは、原節子がひとり卓袱台の前に坐り、沢庵をポリポリと食べるシーンがあったりする。私はすこしばかりゾクッとする。やはりエロティックといってよいシーンだろう。 小津映画にはラーメンとかトンカツとか饅頭とか、食べ物が意外に頻出する。いずれも高級食品ではないが、たとえば『東京物語』で杉村春子と中村伸郎夫婦のところへ両親がやってきたとき、夫の中村がおやつにと饅頭を買ってくると、女房の杉村が「いいわよ、もったいないわよ」と言う。髪結いの亭主である中村は「そうかい」と言いながら後ろをむいて饅頭をひとつ口にいれる。----饅頭の使い方ひとつで、この夫婦の機微と心根をみごとに表現してしまっている。 小津映画のなかの食事は、概して食の情味というような消息を映像化しているのである。 森田芳光監督『家族ゲーム』(1983)のなかの家庭の食卓シーンも特筆にあたいするが、しかし家庭教師(松田優作)をまじえた家族(伊丹十三、由紀さおり、宮川一朗太)が横一列にならんだ食卓風景の特異についてはすでに多くの言及がなされている。私は「イエスの最後の晩餐図」に拠ったイメージだろうと思っている。 この映画で「食う」ということに関して言えば、伊丹十三が扮する父親が目玉焼きの黄味をチューと啜り込むシーンを述べなければなるまい。といっても、ここに何かの象徴があるとは思えない。目玉焼きのこのあまり品のよくない食べ方は、伊丹十三がじぶんのエッセーで夙に述べていることだ。勘ぐれば、このシーンを撮影するときに、伊丹がアイデアとして提出し、それを実践したのだろう。「おもしろい、おもしろい」と仲間内ではやし立てながら出来上ったような気がする。奇妙な家族の奇妙な父親像として成立している「黄味啜り」だと思う。 そろそろおしまいにしよう。 最後はゴダール監督の『ゴダールのマリア』。現代劇。キリスト教学の見地から論じられるべき映画だと考えるが、前述の卵から思い出した。食という問題から離れるけれども、この作品の卵は非常にシンボリックだ。マリアという少女の朝の食卓にエッグスタンドにのった卵がひとつ置かれている。マリアがスプーンを持って両手をひろげる。ただこれだけのシーンだ。この後、少女マリアはどうやら妊娠していることがわかる。私の見解では、卵のシーンのときに処女懐胎したのである。少女マリアに神秘が起ったのだ。卵は懐胎のシンボルである。
Apr 3, 2006
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奇想天外なミステリー小説『料理長殿、ご用心』を同名の映画(1978年)に仕立てたのはテッド・コッチェフ監督。同名と書いたが、原題は少々異なっている。小説は“Someone is Killing the Great Chefs of Europe”で、映画のほうは“Who is Killing the Great Chefs of Europe?”である。 グルメ雑誌を主宰し美食家を自認するマックス(ロバート・モーリー)は主治医から「減食しなければ、半年の命」と宣告されショックをうける。減食するくらいなら死んだほうがましとばかり、バッキンガム宮殿における女王主賓の一大晩餐会を企画する。料理をするのは世界のベスト4といわれるシェフたち4人。オードブル「鳩の包み焼き」のルイ(ジャン=ピエール・カッセル)、魚料理は「ロブスター・カルチオフィ風」のゾッピ(ステファノ・サタ・フロレス)、肉料理は「プレスド・ダック」のムリノー(フィリップ・ノワレ)、そして最後を飾るデザートはニューヨークのパテシェ、ナターシャ(ジャックリーン・ビセット)の70ポンドもあるアイスクリーム「ボム・グラッセ」。爆弾という名前のとおり食卓で花火をつける趣向である。 ところがなんとも無惨な連続殺人がおこる。シェフたちがつぎつぎに殺害されたのだ。「鳩の包み焼き」のルイはオーブンで真っ黒焦げに焼き殺され、「プレスド・ダック」のゾッピは鴨のようにダック・プレス器で頭を粉々に砕かれて---- 映画はもちろんこれら最高の料理のオンパレード。しかし私がこの映画で初めて目にしたのが、ダック・プレス器である。銀色に輝く禍々しき器械。つまり一羽の鴨をまるまんまこの器具に押し込んで粉砕し、血の一滴まであますことなく絞りとってしまう。まさに狩猟民族の食文化のなかで考案された器具だ。合理的構造で、なおかつ器具としての美しさがある。私はこれを見ただけでこの映画を観たかいがあったと思ったものだ。 料理器具に陶然としたといえばマルコ・フェレッリ監督の怪作『最後の晩餐』(原題、大食い:1973年)を思い出す。美食に飽きた4人の仲間たちが、食って食って死のうと相談し、ある館に大量の食材を運び込み、女たちを引き連れて閉じこもる。仲間のひとりは腕利きの料理人。彼がアタッシュケースのような黒革の大きな鞄を開けると、そこには様々な種類の料理用ナイフが整然と並んで燦然ときらめくのだ。私は映画館の座席から思わず身をのりだして賛嘆の吐息をもらしたものである。 館にトラックで運び込まれる猪やら鹿やら鶏やらホロホロ鳥やら牛の頭やら羊肉やらの厖大な量。連日、絢爛たる晩餐会がくりひろげらる。食事のあいまには女達とのセックス三昧。酒池肉林とはまさにこのこと。いやいや、映画の上映中に客席から何度悲鳴があがったことか。というのも食えば排泄もあるのは理の当然で、消化不良をおこした男の尻から異様な音ともに糞便がとびちり、画面は汚物の川となる。飲んで食ってセックスして、ついに男達はのぞみどおり死をむかえるのである。 映画館内はブーイングだった。しかし私は、絶望的頽廃と虚無をこれほど見事に映像化した作品もないのではないか、と喝采をおくったのである。 この『最後の晩餐』にくらべるとフェリーニ監督『サテリコン』(1969年)のトマルキオの宴会場面などはむしろ可愛らしく思えてくる。 古代ローマ貴族たちのベッドに横になりながら食っては吐き、吐いてはまた食うという大宴会風景。碩学バーナード・ルドフスキーは横になって食べるということを図像学的に研究した。ヨーロッパ文化に通底する重要な意義をさぐりだして興味深い。まあ、それはともかく、私がこのトマルキオの宴会場面で嬉しかったのは、やはり料理である。四方をベッドに囲まれたその中央の大理石の大テーブルに、奴隷たちに担がれて、大皿にもられた豚の丸焼きが運びこまれる。腹を切裂くと中から詰め物があふれるようにころがりでる。ツグミやソーセージや数々の木の実や野菜や根菜や、こんがり琥珀色に焼けた豚肉のなかでそれらが湯気を立てていた。貴族たちはベッドからまるで槍のように長いフォークをあやつって詰め物を口に運ぶのである。 さて、記憶にのこっている「料理」映画もしくは「食事」場面のある映画はまだ幾つもあるが、私が好きな作品といえばやはり『バベットの晩餐会』(1987年)にとどめをさす。原作者はデンマークの女性作家アイザック・ディネーセン。映画『愛と哀しみの果て』の原作『アフリカの日々』の作者でもある。監督はガブリエル・アクセル。 物語は、----デンマークのとある海辺の貧しい村に、素性の知れないフランス人の女が老嬢姉妹の住まいする小さな牧師館にやってくる。女はバベットと名のり、料理女として置いてほしいと。老嬢姉妹はフランス人をあまり信用していなかった。そして「私たちはとても貧乏だし、贅沢なものを食べることは罪だ」と言う。バベットはうなずく。彼女のひそやかな暮しと村人とのつつましい交流がはじまる。そうして12年が過ぎた。ある日、パリから1通の手紙がバベットにもたらされた。それはフランスで買った宝くじの1万フランが当ったという知らせだった。その話を聞かされた老嬢姉妹は口もきけないほど驚いた。ささやかな年金暮しの身には、1万フランという巨額は見当もつきかねたのだ。 バベットは、老嬢の亡父である牧師様生誕百年の記念晩餐会の料理を私につくらせてください、と申し出る。正式なフランス料理のディナーにしたいのだと。バベットの懇請に根負けした老嬢が渋々ながらそれを許すと、バベットは食材や食器や器具や、必要なものすべてを整えるためにパリに旅立った。 やがてバベットは村びとが見たこともない目を剥くような品物を山と買込んで帰ってきた。バベットの料理が開始される。牧師館へは村の長老たちがつぎつぎと訪れ、主賓の将軍も母堂を伴って到着した。 この映画はここから延々と晩餐会の様子を映し出してゆく。生れて初めて目にする豪華な食事。村の老人たちは悪魔の誘惑にはのるまいと、ただおどおどと見つめるだけだ。将軍は注がれたワインを胡散臭そうにながめていた。それから香りをかぎ、明かりに色を透かしてみ、「これは妙なことがあるものだ」。つぶやきながらひとくち口に運んで驚く。「まちがいない、アモンティヤードだ! しかも極上の!」 将軍にならうかのように村びとたちもおそるおそる料理を口にする。そして、----みな次第に愉快になり、饒舌になってゆく。 私が絶賛してやまないのは、老人たちの顔が次第に紅潮し、輝いてくることだ。この表情と顔色の変化はまさに映像だから可能な表現で、刻々と流れてゆく時間とともにある素晴らしい映像なのだった。宗教にがんじがらみにされた貧相で惨めったらしい顔が、生命にみちあふれた幸福な表情にかわってゆくのを私たちは目の当たりにする。贅沢な美食だけを「食」というつもりはまったくないけれど、この映画を観ると、文化としての「食」のみならず人間の根源に据えられている「食」ということをおのずと知らされるのである。 映画の中の「食」については、またあらためて考察することにしよう。
Apr 2, 2006
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私は早川書房の『ワインの王様』の装丁をやったときは、随分贅沢なことをした。この翻訳本はフランス・ブルゴーニュ産のワインについて様々な角度から蘊蓄を述べたものである。ワイン通ならブルゴーニュというひびきに特別なニュアンスをいだくことだろう。一方にボルドーという一大産地があり、そこでも素晴らしいワインを産出する。それにくらべるとブルゴーニュのそれぞれのシャートー(醸造所)は、規模こそ小さいが、名酒揃いの産地として別格。北に位置するシャブリの白ワインはさっぱりとした凛々しさがあって、日本人好みといえるかもしれない。私も好きな白である。シャブリから南へ、コート・ド・ニュイ、コート・ド・ボーヌ、シャロネー、マコネー、ボジョレーと産地がつづく。ロマネ・コンティや、ナポレオンのワインとして知られるシャンベルタンや、クロ・ド・ブジョー、ニュイ・サンジョルジュや、素晴らしい白のコルトン・シャルマーニュやモンラッシェ。このようにつぎつぎにあげれば、『ワインの王様』という書名もうなずけようというもの。 私が描いた表紙絵は、ワイン樽の上に数本のワイン・ボトルとグラスを配している。この画廊の「カバー」と「静物画」の部にその絵を掲載してある。よくみるとラベルが読み取れるだろう。シャンベルタンもあり、ボトルにはワインが入っている。じつは1本が10万円以上する本物である。ワイン輸入業者に協力してもらい実物を貸してもらった。かたわらのワイングラスは口径15cmもあるが、これもこの業者が苦心を重ねて特別につくった大きなブルゴーニュ・ワイン用を借りた。 ----どうしてこれが贅沢なのか。どうせ返すものではないか、とお思いになられるかもしれない。 私は仕事場にセットを組んでこれらのワインやグラスをならべ、照明をあてて描いた。お察しのとうり、こんなことをやっては、絵が完成するまでに繊細なワインは変質してしまう。変質とまでゆかなくとも、一旦眠りを醒ましてしまったからには少なくとも売り物にはならない。輸入業者はもちろんそれを承知で、厭な顔ひとつせずに絵の主旨に見合うワインを用意してくれたのだった。あまつさえ、「絵が完成しましたらそれを祝ってどうぞこのワインを開けてお飲みになってください」というのである。この輸入業者はワイン業界では有名であったから、----なにしろ「協力者として本にお名前をいれさせてもらいます」と申し出たら、「そんなことをしていただかなくとも結構です。絵のなかのワインを見れば、どこの誰が輸入しているかは分りますから」というのだった。そういう業者なのでプライドもあっただろう。売り物にはならないが、家庭で飲むぶんには問題がない。 私も随分心臓が強い。この仕事を引き受けたときから、ワインを良く知っている人に一目でバレるようなごまかしはやりたくないと思ったのであった。 しかし贅沢はこれで済まなかった。絵が完成したので、ワインはありがたく頂戴したが、グラスは返さなければならない。注意深く持参すると、直営のワイン・バーに案内された。そうしてとんでもない酒盛りが始まったのだ。これを飲んでくれ、あれも飲んでくれ、こっちも試してみましょう。次から次ぎとボトルが開けられ、この夜、私はどれほど飲んだことか。素晴らしい芳香のなかですっかり良いコンコロモチになってしまった。 お礼を述べて店を出、誰の姿も見えなくなったとたんに足がふらふらとよろめいた。 小説家の吉行淳之介と開高健との対談集に『美酒について』という本がある。サントリーが「サントリー博物館文庫」の一冊として刊行した。じつにおもしろく蘊蓄が深い本だ。このサントリー博物館文庫という叢書はなかなか素敵で、他にも坂口謹一郎・安岡章太郎他の『対談集文明論の旅』とか、常盤新平『酒場の時代;1920年代のアメリカ風俗』とか、上野晴朗『日本ワイン文化の源流』とか、ヒュー・ジョンソン他による『比較文化の眼』などがある。 『美酒について』の中でお二人がジャン・ギャバン主演の映画『現金(げんなま)に手を出すな』の一場面について語っているところがある。 吉行---老いたるギャングのギャバンが友達と屋根裏部屋にきて----。 開高---ホモ関係かかっているような弟子とね。 吉行---瀬戸物のいれものに入ったフォアグラかフォア・ドワ(鵞鳥のレバーペースト)かをクラッカーに塗りつけて酒をギューッとあけて、あれはワインかな。 開高---なで肩の瓶のやつでしょう。 吉行---なで肩ならブルゴーニュか。フォアグラなら甘い酒だね、ソーテルヌなら、ボルドーか。でもギャングのやることだから、なにかわからない。 開高---ギャングは世界中どこでも美食家や。マフィアも。 吉行---なるほど。(以下略) ブルゴーニュはなで肩。ボルドーはいかり肩。ワインボトルで産地がわかるのは先刻ご承知だろう。私が描いたような瓶を吉行淳之介はなで肩といっているのである。 ところで小説を書くうえで食事の場面がとても技術的にはむずかしいのだと聞いたことがある。さもありなん。文字面だけで料理を読者にイメージさせ、食欲を刺激するとなれば----つまり、それだけが食事場面をあえて描写する「芸術」的な感興だから----ちょっとやそっとの筆力でできる技ではないだろう。私はそういう場面がでてくると夢中になってしまうが、メニューが書かれているだけで嬉しくなってしまう。 小説ではなくても、料理に関するエッセーを私は好んで読む。なんど読んでも飽きることがない。そして読みながら口中に唾をためている。 いつものように私の書棚にあるそれら料理に関する本(いわゆるクッキングブックではない)を、思い出すままに並べてみよう。 ナン&アイヴァン・ライアンズ『料理長殿、ご用心』。これはミステリー小説。メニューというよりレシピがずらずらと出てくる。 アイザック・ディネーセン『バベットの晩餐会』。上記の『料理長殿---』とともに映画化されている。それについてはまた改めて書こう。 吉行淳之介『食卓の光景』。短篇小説。炒飯と拉麺について。こういう小説が私は好きなのだ。 開高健『最後の晩餐』。これは素晴らしい本。ぜひ御一読を。 開高健『ロマネコンティ1935年』。短篇集。 池波正太郎『食卓の情景』 北大路魯山人『魯山人味道』 辻静雄『パリの料亭』 辻静雄『フランス料理の手帖』 辻静雄『ワインの本』 締木信太郎『パンの百科』 師岡幸夫『神田鶴八 鮨ばなし』 伊丹十三『フランス料理を私と』。伊丹氏らしい工夫にみちたクッキングブック。レシピが載っているのでこの本を見ながらつくれる。私はいくつか作ってみた。「週刊文春」でトリュフを描いてほしいと依頼され、このときも輸入業者からその日フランスから空輸されたばかりの最高の黒トリュフを特別にわけてもらった。市価1個2万円也。描いたあとで、これを使い、伊丹本にある料理を再現してみた。トリュフの香りに酔っぱらってしまった。旨かったのなんのって! あっ、そうだ思い出した。エラリー・クイーン『トロイヤの馬』に、クリスマス料理としてヴァーモント・ターキーとブランデー入りプラム・プディングというのが出てくる。ヴァーモント・ターキーというのはチェスナッツを詰めて、クランベリー・ソースをかけたもの。 最後にもうひとつ、エドガー・アラン・ポーの『アモンティラードの樽』。アモンティラード----フランス語の発音だとアモンティヤード。辛口のシェリー酒フィノをさらに10年以上熟成させたもの。濃い色と芳醇な香りがすばらしい。ポーの小説は、この酒の高い香りで相手を地下蔵におびきよせ、殺害してしまうという話。映画『バベットの晩餐会』にもこれが登場した。
Apr 2, 2006
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