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平賀敬氏は、桜舞い散るなかで繰り広げられる淫らな光景を、華やかな色彩で戯画的に描く特異な作品で国際的に評価されていた画家である。1936年東京に生れ、2000年に没した。私は絵の本格的勉強を始めた25,6歳の頃、平賀氏に2度お目にかかり、絵描きとしてのアドヴァイスを頂戴している。私がいわゆる「本当の」画家に会った初めての人であり、私の作品を見ながら具体的なアドヴァイスをしてくれた唯一の画家だ。2回の対面は、たぶん合計しても1時間程度のものだったと思う。しかしこの時の平賀氏の言葉がなければ、もしかしたら私はプロの画家にはなっていなかったかもしれない。 それはある小さなコンクール展の会場でのことだった。私のB3大の作品が選外佳作ということで、隅のほうに展示されていた。私にとって一般公開された初めての展覧会だった。私は会場へ出かけた。ちょうど観客が引いて一段落したような時間だった。ひとりの男性が手持ち無沙汰のようにたたずんでいた。 私は自分の作品を見つめた。それは『POE』という題名のペンと水彩で描いたものだった。Poeとは勿論エドガー・アラン・ポーのこと。『アッシャー家の崩壊』を題材にしていた。画面の下、暗い地面のなかに大きな目が二つ並び、眉間から上に崩壊する洋館が樹木のなかに廃墟のように建っていた。樹木は画面の両側から大きく枝をのばし、それは巨大な翼をひろげるフクロウになっていた。上部中央に白抜きでPOEという文字。 「あなたの作品ですか?」 例の男性が声を掛けてきた。 「はい」 「私は平賀敬といいます。あなたの絵を気になって見ていました。やろうとしていることは分るが、描写が中途半端です。途中で息切れしています。こんどあなたの作品をもって私のところへいらっしゃい」 いきなりこんなことを見知らぬ人から言われたら、普通はどういう返答をするのだろう。 私は何の疑念も抱かなかった。この人の批評は正鵠を射ていると思ったのだ。たとえば、崩壊する洋館をどのように描写すればよいのか、私はいくら考えても想い浮かばず、適当にやっつけていた。そのくせ最初に描きたかったフクロウの翼は、ペンで丹念に描写していた。私はB3という画面のおおきさに四苦八苦していたのである。 「ありがとうございます。すぐにでもお伺いします」 あとで調べて分ったことだが、平賀敬氏はそのころパリに在住していて、たまたま帰国していたらしいのだ。1964年の第3回国際青年美術家展で大賞を受賞し、それがパリ留学賞だったので、翌年渡仏する。完全に帰国したのは10年後の1974年だそうだから、私がお目にかかったのは在仏期間のことだった(私の記録を調べたところ1969年の7月頃である)。 数日後、私は描き溜めた作品を平賀氏のもとへ抱えて行った。平賀氏は1点1点見てから、 「あなたは何かを持っていると思いますよ。だけど今はまだ未熟で、先日も言ったように、みな途中で息切れしている。----絵に体力がない。描き始めたら終わるまで、体力を持続する。その訓練をしたほうがいい」 平賀敬氏のアドヴァイスはほぼこれで全てである。しかし私にはこれで十分だった。 私の「描く持続力」の訓練が始まった。私が採った方法はペンによる点描画を描くことだった。A3の紙に丸ペンとインクで描いてゆく。点と点は互いに重ならないように、注意深くペン先を立てて点を置く。点を打つのではなく、まさに置くのである。 その頃のペン画がこの遊卵画廊にも展示してある。私の右中指はいつも血だらけだった。ペンを持ちつづけているため肉が裂けてしまうのだ。痛みに耐えられなくなるとバンソーコを巻いたけれど、傷は癒えるひまもなかった。現在でもその部分はタコになって残っており、ほんの少し指が歪んでいる。 こうして訓練として開始されたペン画は、1974年度の『日本のイラストレーション』(講談社刊)に選定掲載された。 雑誌等では、駆け出しのイラストレーターは、コスト高なカラーページは持たせてもらえないことが多い。その点私のペン画はモノクロページの需要があったのである。体力養成のために始めたことが、プロフェッショナルな仕事の場に直結したというわけだ。 平賀氏にはその後お会いする機会はなかったが、私はことあるごとに平賀氏のアドヴァイスを思いだすのである。
Feb 28, 2006
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私が長年使用している油絵の具は、某国製の輸入品なのだが、近年こまった問題がでてきている。製造元が、ある色やブランドの製造を止めてしまったり、輸入元が売れ筋の色の輸入に限定しているのだ。これは我々画家にとって見過ごしにできない問題である。私に限っても、そのメーカーや色に到着するまでに、数年の試行錯誤や、場合によっては10年に及ぶ実験を経て来ている。色味ばかりではなく、原料や展色具合、乾燥速度など、表現に適するかどうかということはもちろんだが、と同時に自分の生理に合うかどうかということも重要なのだ。絵の具ばかりでなく、筆やペインティング・ナイフや溶き油や各種樹脂など、道具類すべてが入念な吟味を経て、ようやく自分の手沢の道具となりおおせた物ばかりなのである。したがって特に絵の具や油や樹脂はほとんど掛替えのないものと言ってよく、製造中止や輸入中止は重大事件である。 私は、製造中止になるかもしれないという情報を得た絵の具は、大量に買い込んでおいたけれども、職業画家として毎日々々大きな作品を制作しているのであるから、50本100本買っておいたところでどうにかなるわけでもない。情報は事実となり、いまやその絵の具は市販されていない。 商売とはいえ、製造元の恣意的な判断はおおいに迷惑で、私は生理的不快感をかかえて途方にくれているのである。 ついでだから私が不快に感じていることを、製造者を名指しにして問うておこう。ヤマハの演奏会用ピアノについてである。その何が不快かというと、ピアノの胴体に書かれている「YAMAHA」というロゴである。演奏中にその「ことば」が、観客の耳に鳴り続けていることに気がつかないのかしら。実に鈍感な楽器製造者だ。下品だ。 なにも観客に見えるようにことさらロゴを書かずとも、良い楽器ならば心ある聴衆はその製造者を記憶するものだ。鈍感な製造者には、そもそも「ことば」には音がそなわっていることが分らないのだろう。分らないなら、おしえてあげます。ヤマハの演奏会用ピアノは、「YAMAHA」という雑音を常に聴衆の耳に発しているのだということを。
Feb 27, 2006
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終日雨が降りつづいていた。雨が嫌いなわけではないが、今日の雨は憂鬱だ。何にもせず、ただボーッと過している。まだ読んでいない本が机のうえに10数冊。それを手にとる気もおこらない。 窓を眺めながら、サッと日がささないものかと想っていると、ふと英語の4行詩の押韻が頭に浮かんだ。3行目は不完全韻だが、とりあえずここにメモしておこう。The Rain Dropsby Tadami YamadaThe rain drops fallShining endlesslyLike the holy pearlTwinkling newly(訳)雨垂れ雨垂れが落ちるいつまでも光りながら聖なる真珠のように新しく新しくキラキラと 午前1時過ぎ、気をとりなおして作品制作を始める。BGMはモーツァルトの交響曲40番、41番。40番の第1楽章も41番の第1楽章も、ともに不安をかかえて何かに駆り立てられるように走るところが良い。
Feb 26, 2006
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きょうは家人たちがみな遊びに出かけてしまったので、家には私と猫たちだけ。庭掃除をし、庭木の剪定をした。 チューリップやフリージアが、いかにも強い芽をグイと出している。昨日午後から降り始めた雨と、今日の暖房もいらない温かさが、いっそう芽だしをよくしたのだろう。蔓バラも、うねる枝のあちこちに葉の芽をつけている。2,3mmほどの濃い赤い芽だ。これがやがて鮮やかな浅緑の若葉になる。芽だしが始まっていては、剪定の時期を過ぎているのだが、放っておくと薮になってしまうので、可哀想だが少し枝を払うことにした。 紫式部やグミや柿や千両。白桃はもうかなり大きな芽になっているので、これは止めにした。 玄関先に置いている鉢植のシュロは、常緑植物なのだろう、年がら年中、枯れもしなければ大きくなるのでもなく、愛想のない植物だと思っていたら、どうやら私はずっと間違いをしていたらしい。今日はいやに葉の威勢がいいのだ。まるで子供が朝のラジオ体操をするように両手をあげ、背伸びをしている。「おや、お前さんも春を感じているんだね。これは失敬した、長年ちっとも気がつかなかった」 そんな思いで、葉先が傷ついて枯色になっている1本の葉枝を斬ると、日射しのなかですっきりした緑色になった。 昨年の晩春、綿毛になったタンポポを野原から摘んで来て、塀際にばらまいてみた。はたして芽をだし黄色い花を咲かせるかどうか。いまのところ識別もできないので、雑草は引き抜かないことにした。 小1時間、そんなことをやっていたが、春はもうそこまで来ているのだった。
Feb 25, 2006
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画集『現代のアート』のための私のやるべき仕事は本日すべて完了。あとは5月末の刊行をまつのみ。新作『アダムとイヴの婚姻』をこの画集で初公表することになる。 私としてはさまざまな試みをした作品で、一見するとキッチュすれすれのことをやっている。バカげたものになってしまうか、現代絵画として成立するか。 この作品の後、現在制作している作品は、さらに発展させた新たなことをやっているので、自分自身のこころのなかで確信がないわけではない。しかし作者の確信などは、作品が世間の目にさらされたときには、まったく関係がなくなっているものだ。 いまこの瞬間のいささか不安定な精神状態を、自ら楽しむしかないな。 閑話休題。 調べもののため1800年代の‘SCIENTIFIC AMERICAN’の復刻版を繰っていたら、自由の女神像の建設の記事が3ページにわたって出ていた。なんの脈絡もないのだが、ちょっとご覧にいれよう。ついでに昔私がこの像の内部を撮影した写真も2,3見てください。‘SCIENTIFIC AMERICAN’1885年6月13日号私が撮影した自由の女神像の内部(1)女神の衣服の裏側。部分を鋳造し接合していることが良く分る。(2)台座内部はエレベーターが通じ、像の中は螺旋階段が頭部まで。(3)同上。‘サイエンテフィック・アメリカン’の図を参照。(4)頭部の冠の内部。展望台になっていて、頭のてっぺんに電球が1個。(5)外部の真下から自由憲章をかかえる左腕を見上げる。(6)台座の内部の展示室廊下、鋳造模型の女神の鼻穴に頭をつっこんで、子供たちが遊んでいた。
Feb 24, 2006
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今日の夕刊に日韓合作映画、ソン・ヘソン監督・脚本『力道山』の1ページ広告が掲載されていた。力道山を演じるのはソル・ギョング。藤竜也、中谷美紀、萩原聖人も出演しているという。 力道山はいまさら言うまでもない、私が子供のころはテレビのプロレスのヒーローだった。私の家にテレビが入ったのは昭和33年の終わりか34年の初め。そのころ私は中学1,2年で、すでに両親家族とは別居して単身で会津若松の学校に行っていた。そのためテレビを観る機会はめったになかったのだけれど、たまに帰宅すると力道山の空手チョップをテレビで観たものだ。力道山は大相撲から転身した人だが、同じく相撲から転身した豊登というレスラーもテレビの人気者だった。両の腋の下を拳でたたいて音を出しながら、まあ、気合をいれるのが見せ所なのだった。 ところで力道山は、我家ではプロレスラーになる以前の力士時代から、なじみというほどではないが、なんとなく親しみをもっていた。それは初代(実際は2代目)若ノ花にもまつわることだった。 すでにこのブログ日記で述べたが、私たち家族は昭和22年6月から26年6月まで北海道の羽幌町に住んでいた。その間の、たぶん昭和23年のことではないかと推測するのだけれど、羽幌町で大相撲の巡業があった。二所ノ関部屋と高砂部屋の合同巡業であったと思われる。その頃、この二つの部屋がしばしば合同で巡業していた記録が残っている。 羽幌町の巡業で、我家に使者がやってきて、所蔵する弓を弓取式のために貸してほしいというのであった。もちろん断る理由もないので、父は即座に応諾し、弓を貸した。現在は相撲協会が自前の弓を所持しているのであろう。戦後間もなくのその当時、そうした式用の弓はどうなっていたのかは知らないが、それはともかく、そのとき我家の弓で弓取式をおこなったのが若き日の若ノ花だった。 弓取式は元々は千秋楽のみの行事で、現在のように毎日行うようになったのは昭和25年5月場所からだと物の本にはある。そしてそれを行う力士は幕下ときまっているらしい。 さきほど羽幌町の巡業は昭和23年ではないかと推測したのは、弓取式を幕下の力士が行うということからである。 若ノ花幹士(本名;勝治)は昭和21年(1946)11月に初土俵を踏んでいる。そしてわずか3年半後の24年5月場所で十両に昇進している。ということは、我家が羽幌町に転居したのが22年6月で、私は2歳、この年は除かなければならないので、残るは23年だけということになる。 父が亡くなる前にこのことも聞いておけばよかったが、今となっては明確な年月を記すことはできない。私のおぼろげな記憶にあるのは、弓取式の若ノ花のこととともに、その若ノ花に厳しい稽古をつけているという力道山という相撲取りのことだ。後年、その力士がプロレスラーに転向して国民的なスターになるとは誰も想像できなかったのは当然であるにしろ、なにかしらの異なる気配が立ちのぼっていたのではないかという気がしてくる。 力道山の初土俵は昭和15年5月だそうだ。新入幕は戦争をまたいで昭和21年11月。彼は在日朝鮮人だから、戦中の境遇はいかがなものであっただろうと思いやられる。25年9月の関脇を最後に突然引退した。そして翌26年秋にプロレスラーになった。日本中を沸せ、12年後の38年12月に暴力団員に刺殺された。39歳だったという。 力道山も若ノ花も、私が子供の頃に映画になっていて、私はそれを観ている。昭和30年(1955)日活、森永健次郎監督『力道山物語 怒濤の男』、昭和31年(1956)日活、同じく森永健次郎監督『若ノ花物語 土俵の鬼』。このたび力道山を演じているソル・ギョングの前評判は高い。忙しい合間を縫って観に行こうかと思っている。
Feb 23, 2006
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Kissed This Worldby Tadami YamadaI kissed this world, touched the moldSmashed my immature history with holdI make a secret of this fruit of romanceSweet tongue, small tooth, sensational saliva that I've noticeThey're of my love, of this worldI nestled my head on love's shoulderBoth our hands and legs tangled togetherNothing shall part our nooseWhisper's waterfall, breath's flame, the pulsaition that I've rejoiceThey're of my love, forevermore.O I'll stop to perish myself in the fold.As I kissed the heart of this gold.(訳)この世にキスをしたこの世にキスをした。大地に触れた。執着している私の未熟な歴史を粉砕した。私はこの恋の果実を秘密にする甘き舌、小さな歯、私は知る刺激的な唾液を私の愛人のもの、この世のもの私は恋人の肩に頭をうずめるたがいの手と脚を絡めて。なにも私たちを引き離せはしない。ささやきの滝、燃える呼吸、私は歓ぶその脈拍を私の愛人のもの、いつまでも永遠におお、私は止めよう、囲いのなかで死ぬことなどこの黄金の心にキスをしたのだから
Feb 22, 2006
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午後、新橋の写真スタジオに行く。撮影は昨日終了していたのだが、あいにく終日降り続いた雨。大きな作品を車のルーフラックに乗せなければならないので、出かける予定を今日に変更した。天気は曇りだったけれど、雨の心配はいらなそうなので、2時に家を出た。しかし道路は往復渋滞気味。四谷と新宿の間のわずか800mほどの新宿御苑トンネルを、20分くらいもかけて抜けるしまつ。帰宅したのは6時40分。いささか疲れてしまった。 ノロノロ運転で、銀座通りを走りながら眺めると、近年、銀座の顔がずいぶん変ったことに気がつく。海外のファッション・ブランド店が軒並み進出しているし、画廊の老舗「サエグサ」は、新しいビルになったのはいいが、地上階がアップル社のデスプレイ・ショップになっていたのには驚いた。ここの地階にあった喫茶室は何の飾り気もないけれど、静かで落着いていて、私はよく利用していたのだが、今はどうなってしまったのだろう。マツモトキヨシには失礼だが、4丁目の近藤書店の近くに店を出しているのにも驚いてしまう。銀座で数百円の安売りのビラや幟が風にはためいている光景など、昔は考えられなかったことではないかしら。 ニューヨークの5番街は高級ショップがならぶ通りとして有名だが、じつは詐欺商法の店も堂々と営業していて、観光客に乾電池1個を1万円で売り付けたりすることを平気でやる。店の方針というより、店員の質が悪いのだが、そうかと思えば、年から年中「閉店大安売り」をやっている店もある。金を持っていそうだと踏むと、まがい物の「ガレ」などを売り付けてくるのだ。私は、さすがにこんな店は「我が」銀座にはないなと思ったものだ。 高級店街から安売り店もならぶ街になっても、それは商売上手で成功の証だろうから、とやかく言う筋合いのことでもない。しかし老舗があつまって『銀座百点』という小誌を出していたころが懐かしくもある。今、あの小誌はどうなっているのだろう。私はさっぱり見かけていない。名士のなかなかいい随筆などが載っていたのだが。 そんなことを考えながら新宿の街を通ると、ふと学生時代から20代のころに通った今はないレストランのことなどが思いだされた。 先日書いた新甫八朗氏が内装をデザインしたビアホールが伊勢丹の向いにあった。ビルは建て直して現在でもある。三和セゾンプラザがそうでないかと思う。この上階に巨大な洞窟を模したビアホールがあり、それが新甫氏のアイデアになるものだった。入口も店内も岩を刳りぬいて、荒々しい岩肌がむきだしになっていた。もちろん作り物の岩肌なのだが、テクスチャーをうまく拵えていた。私は新甫氏に連れられて何度もでかけたものだ。 じつはそれよりずっと早い時期から、私は同じビルのなかにあったローマ家庭料理のレストラン「カラカラ」がお気に入りでよく通っていたのだった。貧乏学生のくせにヘンに贅沢で、ひとりで出かけては小さなコースのディナーをとる。サラダに始まり、スープ、メイン料理にワインを1本つけ、シャーベットなどのデザートでしめくくるのである。分りもしないのにワインはテイスティングをした。それは私にとっての勉強だった。 この「カラカラ」は70年代の終わりに、隣のビルに移るか内装を変えるかしたのだが、なぜかその途端に料理が私の口には合わなくなってしまった。 三越の裏にあったドイツ料理のレストランもよかった。名前をど忘れしたが、「ケルン」だったかな。それから西武新宿駅の近くのロシア料理の「スンガリー」もおいしかった。この店は現在も同じ場所にある。壷焼きビーフシチュー「ガルショーク」とか「ボルシチ」「ビーフストロガノフ」など、きっちり作って出してくれる。 料理が特別すぐれていたわけではないが、伊勢丹会館のスペイン料理のレストラン「エル・フラメンコ」にもよく行った。本場のフラメンコ・ショーを見せるのである。ワインの壜の首におおきなパンが突き刺してあり、それを千切りながら料理を食べ、カスタネットやギターにあわせて客も一緒に手拍子を叩いて遊ぶのだ。私はそのころ新しい肉体芸術をさがしていろいろな舞踊を見て歩いていた。レストラン「エル・フラメンコ」はそんなふうにして見つけたのだった。この店は新しくなって現在も同じところにあるらしいが、私は行かなくなってからもう30年にもなるので、いまの料理の批評はできない。 新宿でもう一軒の店。これはレストランではない。串カツを食べさせるところ。靖国通りに面した歌舞伎町の入口にあった「船越」。カウンターだけで、10人も入ればいっぱいになるような小さな店だった。たしか俳優の船越英二氏が経営していたはずだ。現在活躍している船越英一郎氏の父君である。ここの串カツが滅法うまかった。70年代の半ばのことである。 新宿の思い出ばかりを書いたけれど、若い頃に味わった忘れられない料理というのは他にも沢山ある。たとえば赤坂東急プラザのレストランの「シーザー・サラダ」とか、名古屋キャッスルホテルのレストランの「タートル・スープ」などもそうだ。 いや、一杯のお茶漬けだってとてもおいしい。小説家の故池波正太郎氏が「あと何日の食事」と言って食事を大切にしたらしい。私は「グルメ」では決してない。人気店に行こうなどとはまったく思わないし、いわんや列にならんで順番を待って食べようなどと思わない。そんな食べ物は、私の身に合わない。ただ、「生きる基本」だと考えているので、せっせと自分で料理するのである。まず、自分の口にいれるものは、何が使われているか、何が入っているか、きっちり把握しておきたいのだ。そうなると、次第に自分で作ったものしか食べなくなる。 あるとき新甫八朗氏と食事をしていて、氏が味噌汁にまったく手をつけないのに気がついた。訳を尋ねると、塩分を摂り過ぎないように節制しているのだとおっしゃった。 なるほどと私は思った。若き日の冒険と命をかけた偉大な行動の陰に、そのような自制があったかと。 私は味噌汁を吸いたいので、すべての料理の塩加減を調整し、糖分調整しようと、そのとき思ったのであった。私の舌は、現在では、握り寿司のタレにも反応しすぎるくらいに反応し、ネタの端にほんの少しチョイと付けるだけにしないとショッパサに痺れてしまうのである。 昔のレストランを回想しているうちに、話の方向が変って来た。今日はこのへんでおしまいにしよう。
Feb 21, 2006
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家人が、ズワイガニの正肉のほぐしたものを買ってきたから何か作れ、という御達し。ひとつまみ口に入れてみると、ほのかな味付けをしてある。邪魔になるほどではないが、さてどのように料理したものか。何品か思い浮かんだが、私としてはあまり時間を掛けたくない。で、創作することにした。以下にレシピを述べますので、どなたか作って試食してみてください。とても簡単です。題して「蟹の揚げボール」。(1) ボールにズワイガニのほぐした身をいれる。今日は300gあった。(2) 花椒塩(ホァジョーエン:中華調味料です)を3振りくらい。塩ほんのひとつまみ。酒少々(料理酒を使うときは、塩分を含んでいますから、先の塩をひかえても良いでしょう)。(3) 全卵1個。(4) 長葱1/2本のみじんぎり。(5) 以上を混ぜあわせ、材料をまとめるために片栗粉を加減をみながら加える。(6) 大きいスプーンに材料をすくって、軽くまとめて揚げ油に落とし入れて、明るい狐色に揚げる(火を通しすぎないこと。ふんわり軽く揚げてください)。 以上で「蟹の揚げボール」の完成。そのまま召し上がれ。もう少し手間をかけてほんのり甘酢あんかけにしても良いでしょう。 さて、これが簡単にできたので、もう2品、これも簡単にできるものを冷蔵庫にあった買い置きの材料でつくった。 一つは、水煮筍で「筍のおかか煮」。5ミリほどの厚さに切った筍をたっぷりの鰹節の出し汁に醤油を大匙2杯程度と味醂を加えて煮る。 二つは「春菊の白和え」。春菊を茎のほうから茹でて、笊に取り、そのまま冷ましておく(水をかけないほうが、香りが豊かです)。白胡麻を空炒りして擂り鉢で香りが立つまで良く擂り、そこに水切りした豆腐1/2(適宜)を入れて潰し、白味噌と砂糖ほんの少々を加えて、なめらかになるまで擂る。茹でた春菊を1cm長さくらいに切り、和える。 我家の今日の夕食の献立: 蟹の揚げボール 筍のおかか煮 春菊の白和え ジャガイモと若布の味噌汁 苺のデザート 料理の所用時間は45分でした。
Feb 20, 2006
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市議会議員選挙の投票後、風が冷たく,すこし遠いのだがそのまま高幡不動尊まで出かけた。月の第3日曜日は「ござれ市」と称す恒例の骨董市が境内で開かれているのだ。年に3,4度くらいは覗きに行く。ずらり40店ばかり。しかし並べた物はいかにも品が下る。ここ数年、毎度同じ店が、同じ場所で商いをしている。品物も1年前から同じだったりするので、私は特別期待して出かけているのではない。山内の小道を散策しながら季節の花々を見るついでに、素早くざっと品物を見渡す程度なのである。 きょうはさすがに山の植物はまだ莟さえつけていないので、すこしゆっくり腰をおろして、ダンボール箱の中に雑然とほうりこまれている昭和初期や明治大正の頃の質屋の台帳などを、一冊一冊見ていった。なにか1行でも資料になりそうな記述があれば買っておこうかとおもったのだ。しかしどれもさほどのこともなく、同じ家の者が年がら年中質屋通いをして小銭を借りているなどは、興味がないでもなかったけれど、買ってどうなるものでもあるまいと考えて止めた。 中に明治22年版行の『三體千字文』が、表紙の題索がほとんど千切れて失われているものの、本文は良い状態だったのですこし気が惹かれた。が、これも買うほどのものでもないと思った。我ながら「きょうは財布の紐が固いな」と苦笑。 『三體千字文』は、私は幕末三筆のひとり巻菱湖の版本を所持している。中学生の時に会津若松の七日町にあった小さな古書店でみつけた。古書店兼古道具屋。3坪ほどの店先に雁胴がひとつ並べてあったのを今でも覚えている。 ちなみに幕末三筆とは、ほかに貫名海屋と市河米庵である。 私はダンボール箱の探索を止め、次の店へ向った。なにも興味を惹くものはない。いつも鼈甲の櫛や簪などをならべている店で唐金(からかね)の器が目に入った。15cm丈、10cm径の姿のいい壷だ。茶落しの網が失われたものかもしれない。主人が中年の女客に帯留かなにかを熱心に説明しているので、うるさく付きまとわれることはないだろうと踏んで、その器を手にとって姿を良くながめた。裏を返すと値札がついている。このような市で値札がついているのは珍しい。高くもなく安くもなく、まあ手ごろな値段だ。頭のなかで我家のどこに、どのように置こうか考えてみる。私がすでに所持している小さな真鍮の蓋付きの壷と並べてもよさそうな気もする。女客と話している親爺さんは、どうやらもう店をしまいたいらしい。 値切れるかな?、と私は内心に問う。しかし不思議なもので、そう自問した途端に少し熱が冷めた。私は店を離れた。来月また来てみよう。親爺さんはそれまで他所で商売をしてくるだろうが、この唐金の壷をまた持ってきたら、その時は買うことにしよう。 境内をほぼ一巡りして、もう帰ろうと山門のそばにやって来た。すると5m先、店じまいを始めた女主人の横に無造作にかかっているものが、パッと目に飛び込んで来た。安物の祭半纏のなかに、2枚の火消し半纏。それも江戸刺し子の本物である。私は何気ないふりをしてその刺し子を手にした。1枚は背に進士鐘旭像の縫取り、もう1枚は雲紋繋ぎの縫取りが背中のみならず前身頃、奥身頃ともに全面に隙間なくほどこしてある。後者のほうが断然すばらしい。傷みもほとんどない。わずかに襟の内側が擦れているだけである。手にずしりとして、その意匠といい間違いなく江戸の町火消しの物である。 私は布(キレ)を蒐集する趣味はないのだが、この半纏はじつにみごとだった。「欲しいなーっ」と胸騒ぎがして、裏をひっくり返すと、値札がついていた。なんと鐘旭のほうが25万円、雲紋繋ぎのほうは35万円である! この骨董市で初めて見る逸品だが、この値段ではとても今私の手にはおえない。手におえるものなら、ブログ日記には書きはしないが、手におえないのだから逸品の在り処をおしえてしまうわけだ。飾る場所を選ぶ品物で、そんじょそこらの壁掛けにはならない。あまり和様式の部屋でも付すぎておもしろくないが、キリリとした洋室で床(ゆか)に部屋の間尺いっぱいに、丈10cmばかり幅20cm、本黒漆もしくは銹朱のモダンな床の間があったら如何であろう。「イナセ」をどのように取り込むかがポイントだ。 自分の手に入らない物についてあれこれ想像をめぐらしても仕方がない。 いいものを見つけたという思いと、がっかりした思いのふたつを抱えて帰宅したのだった。
Feb 19, 2006
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Stray in the Spring by Tadami YamadaPlod earnestly along a narrow pathSorrowful; wiping tears but they burst forthJust evening, things are lost in the gray shadowThen gold suddenly fly asunder aroundIn a broad expanse of mustard flowers by meadowGetting a scattered gold in my handThrowing it, throwing it into the sky, I walk Although the impression of a moment is mostIt may be as well as the spring of my youth,Now vanishes like a very ghostPlod earnestly along a narrow pathSorrowful; wiping tears but they burst forth(訳)春のさまよいひたぶるに細き道をたどれ悲しみよ、拭いても涙あふれてものみな灰色の影に沈む夕べたちまちに黄金とびちる牧のかたえの菜の花のひろがりのなかとびちる黄金ひとつ手に採り空に投げ上げ、投げ上げて私は歩く一瞬の印象は強けれどわが青春のごとく幻にもにて今はそも消えぬひたぶるに細き道をたどれ悲しみよ、拭いても涙あふれて
Feb 18, 2006
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昨日一昨日とミュージックホールやレビューの思い出を書いたが、1972,3年から1975,6年にかけて、新宿歌舞伎町のコマ劇場近くにあったキャバレーに私を連れてゆき、遊ばせてくれた方がいる。日本設計工務株式会社会長で、当時、芝浦工業大学校友会の会長だった新甫八朗氏である。 私は同校友会の会報をつくる仕事を引き受けていた。取材から原稿書き、編集、割付け、印刷用版下までたったひとりでやった。新年号などに会長の年頭挨拶を掲載するような場合は、私が代筆もした。タブロイド判4ページの新聞だったが、一回分の原稿量はリライトを含めると400字詰めの用紙で積み上げると5,6cmになった。ギャランティーは一回につき20万円。普通の広告会社のデザイナーの月給が6万円くらいだったと思うから、結構いい収入だったのである。イラストレーターとしてデビューする直前のころで、そういう仕事で生活していたのだ。 新甫氏はなぜか私を気にいってくれ、プライベートの夜の時間に御自分が運転する車に私を乗せ、新宿のキャバレーやそのほかに連れ回った。氏はそのころすでに夫人をなくされていて、そのキャバレーの女支配人がときどき身の回りの世話をしているらしかった。「私の彼女だよ」と氏は私に言った。 新甫氏のうしろにくっついて店内に入ると、彼女は最上の席に案内し、私にもとびきりの美人を呼んでくれた。もちろん私より少し年上である。 私はいつもウィスキー一本槍だった。「山田君は酔っているのかいないのか、まったくわからん人だなァ」と会長は言う。ころあいを見て美人の彼女が「ね、踊りましょうよ」と私をフロアに誘い出す。周囲はみなチークダンスなのだが、私はまるでワルツを踊るように彼女の右手をとり、壊れ物をあつかうように背に手をまわすので、彼女はそんな「ウブ」な感じがおもしろいらしかった。上等な和服の衣擦れの音をサヤサヤとさせながら微笑していた。新甫氏もにこにこしながら私たち二人を見ているのだった。 新甫八朗と言っても、おそらくほとんどの人は知るまい。じつはこの人は終戦直後の裏面史で八面六臂の活躍をし、満州に取残されていた約170万人を救出した立て役者なのである。 太平洋戦争終結直前の昭和20年8月9日、100万を越すソ連軍が満州へ侵攻し、たちまちにして広大な満州平原を占領した。当時、満州には170万人の日本人が居留していたが、彼らは祖国との連絡を断たれ、ソ連軍と中国八路軍との板挟みになり、脱出不可能になってしまった。これら在満邦人の引き上げに立ち上がり、苦難のすえに見事やりとげた3人の青年がいた。丸山邦雄、新甫八朗、武蔵正道の3氏である。 丸山氏は当時満州製鉄社員で、戦後、明治大学および帝京大学教授を勤められた。武蔵氏は後の富士建設株式会社社長である。 3人は鞍山からソ連軍と八路軍が押さえている奉天に侵入し国府の地下組織と連絡をとり、在満日本人会会長であり満鉄総裁だった高橋達之氏に面会する。そして高橋氏に幣原喜重郎首相に宛てた『引揚げに関する懇請状』を書いてもらい、日本に向けて出発する。といっても中国からの脱出は困難をきわめ、ようようにして3人は昭和21年3月13日に山口県の仙崎港に上陸する。 彼らは首相に高橋氏の書状をもって建白し、JHQに掛け合い、NHKの全国放送を使って在満同胞救済を訴えた。そして新甫氏と武蔵氏が国内のとりまとめを担っている間、丸山氏はふたたび彼の地に渡り、ついにコロ島を開くことに成功。新甫氏は「在満同胞救済」代表として私財を投げうって活動、170万人の日本人は祖国の土を踏むことができたのである。 こういう事実は正規の歴史の裏面にあって、救済された方々さえ知らないものである。後年、丸山邦雄氏は『なぜコロ島を開いたか ― 在満邦人の引揚げ秘録』を著し、また武蔵正道氏は『アジアの曙 ― 死線を越えて』を著して、この事実を明らかにしている。また、新甫八朗氏については、帝銀事件の死刑囚『平沢貞通氏を救う会』の事務局長だった森川哲郎氏が、『満州の風雲児』という伝記を著している。 ガッシリしているがいつもニコニコしている好々爺然とした新甫氏だったが、身近にいると、いかにも胆の太い、腹のすわった男を感じた。新宿を歩いていると、ちょいとイワクありげな男がサット走り寄ってきて仁義を切る。氏は「ヤッ、ハッハ」と笑いながら片手をヒョイとあげて挨拶を返していた。「山田君も度胸がいいねェ」と氏はいうのだったが、とてもとても、私の場合は世間知らずの坊ちゃんみたいなもの。 私が銀座の画廊で初めて個展を開いたとき、オープニング・パーティに出席してくださり、作品を買ってくださった。『守護鳥人のいる劇場』である。文字通り、私の一番最初のコレクターだった。 私が『少年マガジン』の見開きのグラビヤで作品が掲載されたとき、それは子供向けの怪獣画だったけれど、掲載誌を喫茶店のテーブルにひろげて一緒に見てくれもした。 そうして私はイラストレーターとしてデビュー後、次第に出版社からの依頼も多くなり、校友会の仕事からしりぞき新甫会長ともお会いする機会がほとんどなくなった。それから2,3年後にたまたま新宿の街でバッタリお会いした。例の「彼女」と一緒だった。「知ってるだろ?」と、彼女のほうを目でさした。「はい。しばらくでございます」私は女支配人に挨拶した。 これから買い物に出かけるところだとおっしゃった。新甫氏は矍鑠としておられた。
Feb 17, 2006
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私が日劇ミュージックホールの最後のファンのひとりだったと書いたが、日劇ダンシングチーム(NDT)にも記憶するダンサーはいる。当時、西川純代さんは大御所的存在だったし、立川真利さんや鹿島とも子さんがトップダンサーだった。男性では、いまやマツケン・サンバの生みの親として人気があるらしい真島茂樹さんは、たしか茂夫という名前で、やはりトップダンサーだった。 このブログをご覧の若い方々は御存知ないかもしれないが、オヒョイこと藤村俊二氏や白石冬美さんもNDTの出身である。NDTのメンバーのなかでは大先輩格になるのではないかと思うが、山口滋氏については、私は三島由紀夫の戯曲『アラビアンナイト』の出演者として拝見している。日生劇場での公演だった。北大路欣也が主演した。現在新派を背負って立つ、2代目水谷八重子氏がまだ水谷良枝として助演していたが、彼女もたしか日劇のレビュー出身ではなかったか。 日劇レビューのテーマソングのようになっている『ビギンザビギン』は、越路吹雪のショーで歌われたのが最初だそうだが、越路吹雪は私のただ一人のスターだ。日生劇場のリサイタルやミュージカルで彼女のナマの歌声を聴いている。 越路吹雪のリサイタルのチケットは、発売初日に完売となったというのは、決して誇張された伝説ではない。私が学生の身でチケットを入手できたのは、なんと、越路さんのマネージャーだった岩谷時子氏の招待客用の取り置きを、つてを介して譲ってもらったのである。もちろん最上の席であった。 学生の分際で、私はこの日は、日生劇場内のレストラン『アクトレス』に幕あいの時間を予約し、上等なワインとフランス料理のデイナーをとることにしていた。仕立てたばかりのピーコックブルーのスーツを着たりして。 日劇レビューは見ていないのに、松竹歌劇団(SKD)のレビューは見ている。浅草国際劇場がその本拠地だった。私はSKDの大看板だった川路竜子や春日野八千代を実際に見ているのだから、われながら天晴れと言いたい。ふたりのキリリとした容姿のみならず、圧倒的な舞踊はいまでも目蓋によみがえる。 SKDの呼び物のひとつに屋台崩しというのがあった。時代劇のなかで貴人の邸宅などが炎上し、舞台に組まれたセットがガラガラと崩れるスペクタクル・シーンである。私はすこしばかり演劇の舞台裏を知っているが、このようなセットの仕掛けが如何に大変かを思い、圧倒されたものだ。 またもうひとつの呼び物はラインダンスで、そのチームはアトミック・ガールズと称した。30人ほどのダンサーが一列にならび互いの腕をからませて、「アトミック・ガールズ!」と合唱する。その迫力たるや、ゾクゾクとさせれるほどで、次には高々と脚をあげるのだったから、私はもうそれだけで嬉しくなった。 パリにはシャンゼリゼ通りのリドやフォンテーヌ街のレフィーユドゥヴなど、有名なキャバレーがあって、質の高い大人のレビューを見ることができる。どうせなら少し張り込んでシャンパンをもってこさせて、美しいフルートグラスを傾けながら、お色気たっぷりのレビューを楽しむわけだ。しかし、東京では日劇レビューもSKDも消えていまや4半世紀になる。子供っぽいディスコティクはあっても、すぐれた技術力で圧倒するかつてのレビューのようなショーを見せるところはなくなってしまった。私がそれを楽しんだのは、大人になってからではなく、まだ少年気を残していたころだったのだから、妙なもんだ。「大人」がいなくなったのかもしれないな。つまり、私たちの世代が大人になりきれなかったということか。 ウ~ン、吐いたつもりの唾が自分にふりかかってきたぞ。
Feb 16, 2006
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午後、新橋の写真スタジオに撮影のための作品を搬入。作業日程は2日を予定していたが、カメラマンと撮影方法を打ち合わせた結果、スタジオを変えることになった。もっと大型スタジオが必要だという。 問題は『アダムとイヴの婚姻』で、複雑な技法を使っているのでライティングを工夫しなければならないらしい。私もそうなるだろうとは思っていたので納得。特に、部分的に画肌が浅彫りの上に銀箔を貼っているところがあり、通常の油絵撮影のライティングだと、あがりが黒くなってしまう。いわゆる「銀出し」をする必要があるのだ。また作品のサイズが大きいので、照明の設置等をふくめて、引きのきく広いスタジオに変えようというわけだ。 来週頭のできあがりということにして、あとはおまかせにして帰路についた。 銀座中央通りを4丁目交差点で左折し、数寄屋橋から祝田橋方向に抜けた。数寄屋橋の右斜前方にマリオンがある。昔、朝日新聞東京本社や日劇があったところだ。その前を通ったときはまったく気がつかなかったのだが、午後6時半ちょうどに帰宅して夕刊を見ると、25年前の今日2月15日に日劇が幕を閉じたのだということを知った。「ああ、もう25年になるのか。あの日は2月15日だったのか」 私はその日のことをまざまざと思い出した。その日、私は日劇にいたのである。 長い間、つまりそれは25年間ということになるが、誰にも言わずに封印してきたことがある。もう時効だろう。----恥ずかしいけれど、打明けてしまおうかな。 私は日劇の正面玄関のガラス扉越しにロビーをみやった。最後の最後であるサヨナラ公演の幕がおりてもうだいぶ時間もたつであろうに、感激と別れがたさに招待客や往年のスターたちがにぎやかにロビーを行き交っていた。時刻は夜の10時を過ぎていたかもしれない。私はそれまで友人達と銀座の安酒場で飲んだくれていたのだ。私たち一団はアッチへふらふら、コッチへふらふらしながら日劇前までやってきた。そしてここで解散することになった。有楽町駅がすぐ近くだし、地下鉄もここからもぐり込める。私たち一団も、飲み疲れて沈没しかかっているのもあれば、まだこれから新宿あたりで飲み直しを相談している者もいて、なかなか別れられないでいた。日劇のガラス扉をへだてて内と外で、ウジャラウジャラやっていたわけである。「山田さんはどうする?」と聞くので、「いや、ここで帰らせてもらうよ」「なんだ、来ないの? 行こうよ、新宿へ」 私は一刻も早くその場を立ち去りたかったのだ。私の頭の中は「ある所」をさがして、火花が散っていた。じつは急に腹痛が起きていたのである。さがしていたのはトイレであった。「それじゃァ、さよなら」 みんなを送ってから、私は日劇の地下に駆け込んだ。そこは小さな酒場などが店をつらねているのだが、もう数カ月以上前に店じまいしていて、無人の地下街と化していた。すでにどこかで解体工事が始まっていたのか、それとも日劇の舞台の解体の音なのか、ドスンドスンという音が遠くから響いてきこえた。それでも明かりはついていたし、私自身が入れたので、まだ完全には閉鎖されていなかったのだろう。とにかく目指すところにかけこむことができた。そして無事目的を完了した。 そこまではよかった。 私は水を流した。その途端だった、ゴーッというものすごい音とともに水が流れ、私はあわてて飛び退いた。「なんだ!」 水が止らないのだ。ハンドルをガタガタ動かしてみたが、水は流れつづけている。その音が無人の地下街にひびきわたった。私は茫然としてその流れを見ていた。出るものも引っ込む驚き、と云っても、すでに出してしまったからそれはいいとして、出てる水が引っ込まない驚き。 酔いもなにもすっかり醒めてしまい、ここは逃げるにしくはないと、あわててベルトを絞め直して外にでた。横目でロビーを見ると、先程のにぎわいはもうなくて、明かりを落したなかに花輪などを片付ける人の姿だけであった。 その後、その水はどうなったか!? ----知らない知らない。このトイレ事件は日劇の終わりとともに、私の胸に、私だけの秘密としてしまいこまれたのだ。 25年目にたまたま昔の日劇のそばを通り、そして今日の記念日を知った。 こんな話でしめくくっては日劇に申し訳ないので、私のほんとうの日劇の思い出も語っておこう。 私の世代は、日劇レビューよりも「ウエスタン・カーニバル」の時代だ。それも平尾昌章や山下敬二郎やミッキー・カーティスではなく、西郷輝彦がデビュー曲の「君だけを」を歌って、場違いだなどと言われた頃。----ではあるが、私が見にいったのは「ウエスタン・カーニバル」ではない。 この日劇の上の階に日劇ミュージックホールというのがあった。日劇と入口が別で、左手にあった狭い入口で「ガクセイ」と小声でチケットを買って入る。なぜ小声かって? ここはヌード・ダンス・ショーの小屋なのだ。谷崎潤一郎もお気に入りだったらしく、文豪は常に奥様同伴で外出するけれども日劇ミュージックホールへは同伴したことがなかったそうだ。まあ、そういう所ですよ。 春川ますみ嬢もこのホールの踊子だった。私のお目当てはアンジェラ・浅丘嬢。妖艶な彼女のヌード・ダンスを見たくて、小さくなって行ったものだ。このブログを見てくださる方で、アンジェラ・浅丘を御存知の方はいるだろうか。私が学生のころ引退してしまったので、たぶん私は彼女の最後のファンのひとりではないだろうか。私はその頃、ブリジット・バルドオが好きで、映画『私生活』のなかで彼女がマストロヤンニの首に両手を巻き付けるその指に慄然としたり、『血と薔薇』のハイヒールを履いた後ろからみた足首にうっとりしていたのだが、アンジェラ・浅丘嬢の唇はちょっとブリジット・バルドオに似ていたのだ。 日劇ミュージックホールは小さな小屋で、谷崎潤一郎は最前列から3列目くらいを定席にしていたらしいが、全部で10列くらいしかなかったので、たとえ最後部の席でも踊子の一部始終が良く見えるのである。誤解のないように言うけれど、ヌード劇場といってもいわゆるストリップ小屋とはちがい「上品」なもの。外国人客が夫婦連れで来ていたりした。 ウエスタン・カーニバルへ行かないで、その上の階に行っていたのだから、マセていたのかもしれない。いわゆるストリップ小屋にも行ったことがあるけれど、こっちはつまらなかったな。やっぱりアンジェラ・浅丘のヌードを見ていたほうが良かった。 忙しいのだから、こんな話をしている場合じゃないが、ちょいと口がすべってしまいました。では、きょうはこれまで。
Feb 15, 2006
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このところ就寝時刻がすこしづつズレて来ている。私は完全に夜型人間で、朝6時に床に就くパターンがもう40年近くつづいている。11時半、ないし正午まで眠り、1時過ぎから仕事の打ち合わせで人にあったり外出したり、資料調べや事務処理をする。あるいは手間のかからない制作やデッサンに費やすることもある。それが午後6時までの時間割りだ。ときには外出先で何ケ所も駆け回ることもある。本格的な制作は夜に入って、10時頃からだ。 仕事上で長年おつきあいしている方々は、この私のタイムテーブルを了解していてくださる。午前中に電話をかけてくることは、よほどの緊急な用件以外にはない。事情を知らない人からの電話には、家人は「就寝中」の対応をしている。 ところで今朝、いつもより遅れて6時を過ぎてから就寝し、ようやく深い眠りに入ろうという8時頃、いきなり起されたのだ。このとき私は、かつて経験したことがない脳神経の異常な事態におちいった。脳がズズズズと痺れるように震動したと思った。不快感がこみあげてきて、うつぶせになったまま起きるのをやめてしまった。しばらくして脳の奇妙な震動はおさまったが、これは何だったのかと、私はうつぶせに再び眠りにおちながら考えた。 急に起されたとき、おそらく私は逆説睡眠(レム睡眠)に入るところだったにちがいない。逆説睡眠というのは、外見的には起きているかのように眼球がピクピク痙攣状態のように激しく動いたり、身体そのものがピクピク動くのだが、じつは眠りは急速に深くなる状態をいう。夢をみるのもこの時である。健康体の眠りというのは、深くなったり浅くなったり波のような揺れを周期的に繰り返している。だいたい3時間ごとに深浅を繰り返しているらしい。昔、東京大学の時実利彦教授がこの逆説睡眠の研究をされていた。 ナポレオンの逸話に、3時間しか睡眠をとらなかったという。もし事実だとしたら彼はこの3時間周期の逆説睡眠を非常にうまく使っていたわけで、理にかなった睡眠をしていたことになる。実際これを私も真似をすることがあり、忙しさのために睡眠時間を削らなければならないときは、3時間ということを目安にしている。2時間眠るよりは3時間。4時間眠るよりは3時間。という具合である。光を遮断して、ゆったりと横になるのだ。 自分の睡眠だけでなく、睡眠中の人を揺り起こす場合があるだろう。そういうときは、眠ってから3時間ということを目安にすると、相手は気持良く目覚める。寝ぼけ状態というのは、よくよく観察してみると、この3時間をはずしていることが多い。 今朝、私はその逆説睡眠に入り、眠りが一気に深くなろうとした瞬間、家人が起したのだ。眠りはまるで急ブレーキをかけられたようなもの。脳神経はズズズズズと震動しながら目覚めた。パニックだったのかもしれない。私の生理は不快のために悲鳴をあげた。嘔吐感さえあった。私はそのまま枕につっぷしてしまったのだった。 私はかつて19歳のときに、文字通り3日3晩、不眠不休で書き物をしていて、突然、左脳が痺れて硬直したようになり、同時に右半身が麻痺して倒れこんだことがあった。独り暮しのアパートで1日2日ひっくりかえっていたら、何の後遺症もなく回復した。そんな経験はあるのだが、眠りをさまたげられて脳神経が震動したというのは初めてだった。 「なんだか気分が良くない」といって、起きずに寝てしまったが、この経験は家人には話さないことにした。妙に心配されても鬱陶しい。また、脳がズズズズズと震動したことをどう説明したらよいか。----いまになって、あの感覚を表現するさまざまな比喩を考えているのである。
Feb 14, 2006
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1966年の20世紀フォックス作品で、ジョン・ヒューストンが監督した『天地創造』という映画がある。最近でもたまにテレビ放映される。3時間近い上映時間で、私はこれをテレビでみると大抵途中で居眠りをしてしまう。1966年の劇場初公開のときは70mmシネマスコープという、今では懐かしい響きのする大型スクリーンに写し出されて観客を圧倒した。 しかし、私の批評は「つまらない映画」の一言。どうしてこんなものをジョン・ヒューストンが撮ったのか頭をかしげてしまう。旧約聖書の創世記のイラストレーションで、「天と地の創造」に始まり、「アダムとイヴの誕生」「ノアの箱舟」「バベルの塔」「ソドムとゴモラ」「アブラハムの物語」とつづく。全編を旧約をナレーションすることで通し、セリフがない。音楽を黛敏郎が担当したというので、当時日本では話題になったのであった。 私が少しばかり身をのりだしたのは「ノアの箱舟」の章。ノアを監督のジョン・ヒューストン自身が演じていた。箱舟の内部のセットがよかった。現在ならCGでやってしまうだろうが、ちゃんと大掛かりなセットを作り、ほんものの動物のつがいを使っている。ビルの高さほどに数段に重なった檻が、敷き詰められた藁や、荒削りの生木の骨組みなどとともに、目を凝らせる画面になっていた。ヒューストン監督、自分の出演する部分はしっかり作ったか。しつこいようだが、おもしろいと言ってもセットだけ。聖書の表面をなぞって何がおもしろいんだ? 聖書って、もうれつに異常な物語なのに。日本のキリスト教徒じゃあるまいし、少女趣味のお伽話をいまさら作っても仕方ないだろう。 ここで『天地創造』の映画評を述べるつもりはない。じつはもう一ケ所、「ホー」と思ったシーンがある。今日のタイトルに示したように、イヴが楽園で蛇にそそのかされて林檎を採る。その林檎に、私は注目したのだ。 それは銀色の葉叢のなかにたわわに稔る銀色の丸い実であった。特別美しい感動的な絵ではないが、銀色の実ということに惹かれた。 私がコレクションした約30点の西洋美術史のなかの「イヴの林檎」は、彫刻以外の絵画はどれも赤い実として描かれている。その実の大きさはだいたいが現在私たちが知っている林檎と同じである。まれに直径4cmくらいだな、と思える大きさの絵もあるが、いずれにしろ、林檎とみなせるものだ。 ところで、このイヴが採った木の実は、聖書のなかではどこにも「林檎」とは書いていないのである。旧約を読んだかたは気がついていることだろう。 ギリシャ語でmelon、蜂蜜のように甘い林檎をmelimelonという。ラテン語でmalom、あるいはマルスパメラと言うのかもしれない。ギリシャ語のmelimelonから派生して、お菓子のマルメロ(marmelo)になる。日本でもいまではマルメロと言っているが、日本へはポルトガル語として輸入された。英語だとquince。おもしろいことに英語のマーマレイド(marmalade)は、御存知オレンジやレモンでつくるジャムのことだが、語源的にはmarmeloと同じらしい。ポルトガル語ではマルメロ(marmelo)をmarmeladeともいう。 イヴの林檎は智恵の木の実であるが、ラテン語のmalomには「悪」という意味もある。イヴは蛇にそそのかされて智恵の実を採り、アダムを誘惑してそれを食べさせる。なかなか複雑で怪しい、またエロティックな想像を育む物語が始まる。非宗教的な私は、人間に智恵がつくことを禁じた神に陰険さしか感じないが、女を悪とみなすための口実、深慮遠謀なのか。蛇は神の怒りにあって手足をもぎ取られ、地を這うものとされる。アダムとイヴは楽園を追放され、アダムは労働によって妻子を養わなければならなくなる。 美術史を眺めると、アダムとイヴの図像が頻繁に現われるのはルネッサンス以前のイタリア美術である。それらの図像のなかでも、「アダムの労働」は数は少ないのだが、じつはアダムが何を象徴しているかという点からは大変重要なモチーフなのである。すくなくともキリスト教神学においては、イエスを第2のアダムとしなければならなかった。つまり原アダムは労働し、苦しみ、やがて死ぬ。「運命」という言葉の真の意味はそのことである。原アダムの死後、イエスは第2のアダムとして「不死」として世界に現われるというわけだ。この2者の関係は、イエスがゴルゴダの丘で十字架に掛けられる場面を表わした絵画彫刻に別なかたちで象徴されている。もし神学的に正しい描き方をされているイエス磔刑図(たっけいず)ならば、十字架の足許に髑髏がころがっていなければならない。この髑髏は表面的にはゴルゴダの丘が処刑場であることを示しているのだが、神学的にはアダムの死と対比されるイエスの復活、すなわち永遠の生命を意味しているのである。 ちなみにユダヤ教の聖典『タルムード』には、健康に効能あるものとして林檎があげられ、永遠不滅の象徴とされている。またアラブ世界でも同様の観念があるらしく、『アラビアンナイト』のなかで、たしか万病に効くとあった。「アーメッド王子の林檎」だったかな? 私は昨日の日替りコラージュ『Composition 3;イヴの林檎』で、樹木に白い球体を散らしたが、映画『天地創造』のイヴの林檎が心のなかにあったことに、今日になって気がついた。先日『アダムとイヴの婚姻』を完成し、いま制作している作品は『イヴの林檎』というタイトルにしようと思っている。林檎も登場するが、それは赤い林檎である。
Feb 13, 2006
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今週はどうやら雑事多忙になりそうだ。(1)朝日新聞から依頼のあった個人情報の書替え書類作成(年に一度)。締めきりを忘れていた。返事が必要な通信事項を机の前に張り出してあるが、見落としていたのだ。これでは何のために張り出しているか分らない。同様の依頼がほかにも来ていたはずだと調べる。こちらはみなすでに送ってあった。近頃、物忘れするようになったのか? あぶない、あぶない。脳神経をフル回転させて、サビを落さなければ。(2)画集『現代アート』のためのプロフィール等の書類作成。(3)作品撮影。スタジオ搬入。作業日程は2日間。(4)某所にヤボ用で外出。これは2時間くらいで済むだろう。(5)プリンターの廃液タンクが満杯になって、作動しなくなってしまった。メーカーのサービス所にメンテナンスに出さなければならない。こんなこと自分でできないのかしら。小銭稼ぎの物作りか。(6)市議会議員選挙。 そのほかにもやっておきたいことは山ほどある。別館『山田維史の画像倉庫』の「映画の中の絵画」執筆も長らくとどこうたままだ。先日DVDを購入した『白いドレスの女』にしようかしら。この映画に、いまや人気のミッキー・ロークがちょい役(でもないか)で出演している。そうか、もう25年も前の作品なのか。ウ~ン、時のたつのが早い! 唸ってばかりだ。 尾崎俊介氏著『紙表紙の誘惑』も紹介したいな。著者に約束してあるけれど、なかなか果たせないでいる。まことに申し訳ない。 忙しいのは大好き。時間をかいくぐる快感というのは確かにある。でも、バタバタは厭だな。今週はそのバタバタ多忙だ。
Feb 12, 2006
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私は寝付きがよいほうで、しかもコンコンと眠る。目覚めもよいし、目覚まし時計の世話にもならない。スケジュールによって起床の時間はかならずしも同時刻ではないが、その時刻になるとパッと目がさめる。また緊急の用事で途中で起されても、寝ぼけるという経験がない。 夢はたぶん毎日見ている。起きるとすぐに忘れてしまう。学生の頃、一時、夢を日記に書きとめていたことがあった。フロイトの夢分析の影響である。書きとめたことをたよりに自由連想をしてゆくと、なるほどフロイトの言うように、夢の核心に触れるときがあった。その頃の日記は、数日前にもふれたが、自己解剖を目的としていたので、自分を飾り立てようという意識は捨てていた。もともと自己鍛練的な性格なので、こうと方針を打ち出すと意外に素直に自らを解剖台にのせてしまえる。夢を分析して、思いもよらない事態に直面しても、たじろぐことはなかったのである。必ずしもフロイト理論通りとは思わないにしろ、自分の夢の秘密は理解できたようだ。 と、仰々しく書き始めたけれど、じつは今朝方の夢のことを書こうと思った。たいしたことではない。自分で面白かっただけのこと。 夢の中で、私は誰か見知らぬ人と握手をするために手をさしのべた。相手の顔は見えているようで、見えていない。男か女かもはっきりしない。何かやわらかい壁のようなものの向こうにいるようにも思えた。壁のなかから小さな(?)手がさしだされ、私の人差指と中指をまとめて握った。私は握りかえそうとしたが、指がヘンな具合に握られているので、相手の掌を握れない。すると相手の手がなんだか黄色っぽくなったと思ったらものすごい力で私の指を握り、グイと引っぱったのである。何だこの人は!? 相手はなおも力をこめて私をグイグイ引っぱる。これはただ事ではない。身体が柔らかい壁のなかに引き込まれて行く。「オイ! 離せ! なんだこの握手は!」 ハッと目が醒めた。仰向けに寝た格好で、両脇に腕をのばしている。左の指に妙に柔らかい感触がある。私は腕をのばしたままで、指をほんの少し動かして、その柔らかい感触のものを押してみた。弾力があるのだ。すると私の指をその柔らかいものがチクリと刺した。「ウン?」 上掛けを少しもちあげて寝床のなかを覗いた。なんと猫のマスクが寝ているではないか。しかも私の指に握手でもするように前脚を掛けている。柔らかい肉球と肉球の間に、私の指先がはさまっていた。指を移動しようとすると、マスクは掌をキュッとまるめ、爪がチクリと私の指を刺した。 「なんだ、マスクだったのかい」 「ゴロゴロ」 「おかげで奇怪な夢を見たよ」 「ゴロゴロ」 さて悪夢と現実の関係はこんなことだったが、この日記をお読みくださった皆さんは、私の夢をどのように分析されますやら。
Feb 11, 2006
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本日、午前4時に少し前、この『山田維史の遊卵画廊』を訪ねてくださったお客様が10,000人に達した。開設したのは昨年7月2日。その経緯はすでに述べてあるが、大阪在住のシルフ氏の慫慂による。シルフ氏とは一面識もないのだったが、その誠実な対応に惹かれて、ホームページを立ち上げる御協力をお願いした。お送りした沢山の資料にはさぞかし呆れたことであろう。それにもかかわらず、夏の暑い盛りに、骨身を惜しまずデザインして下さった。感謝のほかはない。最近ようやく、当初の計画に近いものが出来上りつつある。ブログという形式そのものが、流動性があるものだということが分ったので、今後はそれに見合うデザインを模索して行こうと思っている。 さて10,000人目のお客様のnotoshun様には、お礼と記念を兼ねて、ささやかな拙作の絵葉書セットをプレゼントさせていただいた。今後ともお暇な折にはどうぞ「遊卵画廊」にお立ち寄りください。お願いいたします。 同時に、たくさんの常連のお客様にも、心から御礼申しあげます。
Feb 10, 2006
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先日、etukoさんから電話を頂戴した。私が受話器を取り上げるや否や「ごめんなさい、まちがってしまいました。私、てっきり維史さんだと思って、いきなりetukoですと言ってしまったのよ。間違いじゃないですかとおっしゃるから、山田さんのお宅ではありませんかって----」 最初に電話に出たのは弟である。その日は母を病院に連れて行くデイ・ケアの日だったので、その役目を担っている弟がいたのだ。 「あれは弟です」 「弟さんなの、私ったらまったく恥ずかしい。いきなりetukoで~すなんて言っちゃったのよ」 「良く似た声をしているでしょう? 父が生きていたときは、3人が似た声だったから、電話での間違いの喜劇はたびたびでした」 そうなのだ。昔から、電話での声の間違いは、あとで家中で大笑いの種だった。家族の者たちは私たち3人の声が似ているとは思っていないし、第一、話し方が三者三様でまるで違う。他人から指摘されて分った共通点といえば、「ございます」調くらいだろう。家族がみなそのような言葉使いなので気がつかなかったが、私がイラストレーターとしてデビューしたころ、あるデザイン新聞から電話インタヴューされたことがあった。ところがインタヴューの最中に編集長が、是非直に会ってお話ししたいと言うのである。別に否やはないので、お会いした。やがて少しうちとけたころ編集長が言った。 「じつは電話でお話を伺っていて、山田さんの言葉使いに興味をもちました。いまどき20代の人が山田さんのようなゴザイマス調をごく自然に話すのを聞いたことがありません。こちらの言葉が一瞬詰まってしまいました。これは是非直接お目にかからなければと思いました」 後にも先にも、こんな理由で私に会いに来た方はいない。しかしそう言われて、はじめて自分の家の言葉というものを自覚した。 ところでこの言葉使いと声が似ていることで、間違いは喜劇になる。まだ弟も学生のころで、みな両親とともに住んでいた。携帯電話などない時代だから、電話は一台を居間に置いて家族全員で使っていた。ある日、家族はみな外出していて、家にいたのは私ひとり。電話がかかってきた。出ると、いきなり、 「オレ。いま何してる?」 「はッ? こちら山田でございますが----」 「知ってるよ。オレだってーの」 「どなたさまですか」 「何言ってンだよ。気取るなよ。おまえ、いま、何してんだよ?」 「弟に御用でしょうか」 「弟?----シ、シツレイしました! お兄さんですか? オレ、間違えました。声がそっくりなので!」 同様のことは父への電話でも起る。私が出ると、相手は名のると同時に会社の報告をはじめた。面くらいながら話の腰を折ると、 「山田さんでしょう?」 「はい、山田でございます」 「私、○○です。例の話ですが----」 「ちょっとお待ち下さい。私は山田の息子でして、父はただいま外出しております」 「エーッ! 山田さんじゃないのー? 声がそっくりなんだもの、てっきり山田さんかと思っちゃった!」 こんなことが3人それぞれに起っていたのである。父がニヤニヤ笑いながら受話器をのべてよこし、「お父さんのことを、このひと、おにいちゃんだと勘違いしているよ」 先日のetukoさんの間違いは、父がいなくなって久しぶりに起ったことだった。たまたま弟が家にいたから起ったことだが、年を重ねても声の質は変らないのだろうか。それぞれ異なる人生を歩んでいるのだけれど。
Feb 9, 2006
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閉じこもりがちなので、午後、運動を兼ねていつものように自転車で遠出。風は冷たいがくっきりした青空。見上げると昼の月である。ついつい「笛に浮かれて逆立ちすれば~♪」とくちずさむ。 絵描きとしての我が日常は、笛に浮かれなくとも逆立ち歩きしているようなものだ。角兵衛獅子----うん、まあそんなところ。ストリップティーズとかわりない。一脱ぎ一踊りして、幾らだもの。「泣いているよな、昼の月~♪ってか!?」 冗談じゃないよ、泣いていては、涙がいくらあっても足りない。泣きはしないぜ昼の月だ。 途中で古書店Bに立ち寄る。母のための本の買い出し。深夜に母の部屋に煌々と明かりがともっているので、どうしたのかと声をかけると、一旦寝たのだがまた起き出して本を読んでいるという。いま、平岩弓枝『御宿かわせみ』の上巻を読んでいるが、もう少しでおしまいなのだと。 母の読書については以前も書いたが、あいかわらず読書三昧の日々をおくっている。テレビもほとんど見ない。小説のほうが面白いのだそうだ。暮に買いだめしておいた本はもうほとんど読破してしまい、残り少なくなっているのだそうだ。「悪いわね、暇ができたら、また買い出しに行ってきてちょうだい」 というわけで、古書店の棚をじっくり見てゆく。しかし、めぼしいものはない。有吉佐和子『真砂屋お峰』と高階秀爾氏の美術論的な読み物『世紀末の美神たち』の2册を求めた。 後者の装幀は故田中一光氏。淡い藤色を基本にして、アールヌーボーや北欧象徴主義の雰囲気をつくりだしている。ジャケットの装画はガブリエル・ロセッティの『プロセルピーナ』。あとで母から借りて私も読んでみよう。 ついでにDVDの映画コーナーをのぞくと、レンタル落ちというのがある。さして期待もしなかったのだが、これがどっこい『地獄に墜ちた勇者ども』『白いドレスの女』『ハリー・ポッターと秘密の部屋』『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』があった。1本、580円だって! これは買わずばなるまい。と、その4本を購入。 東から西に向って帰る私の目に、赫奕(かくやく)として夕陽が落ちていった。
Feb 9, 2006
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制作のため多忙である。そこで先日のようにふたたび私の短篇ミステリーをお読みいただこうと思う。2回に分けますが、一挙に掲載しますので、そのまま繰って行って下さい。------------------------------------------ 赤い爪 作・山田維史 18日午後1時40分ごろ、東京・世田谷区代沢2丁目の郵便局前の通りを、若い女が手を血だらけにして放心状態で歩いているのを、通りがかった警察官が不審に思い尋ねたところ、女は今朝がた、自分の部屋で男を殺したと答えた。 世田谷署で調べたところ、女は近くのアパート若月荘内ウエイトレス小林素子(21)で、殺されたのは素子の恋人で杉並区堀ノ内2951画家加納光昭さん(34)と判明。 加納さんの首には深い爪による傷と鬱血の跡がみられたが、同署は頚部圧迫による殺人と断定した。 日曜日の朝。 といってもすでに九時を少し過ぎていたが、女はベッドのなかで目を醒ますと、かたわらに寝ている男のほうにくるりと寝返った。 男は背中を向けて眠っている。 脚を曲げて膝頭を男の躰につけて、そのうなじを指先でそっと愛撫しながら、 「ね、もう9時よ」 男は聞こえたのか聞こえなかったのか、返事をしない。 「ねえ・・・」 と、女はもう一度言って、愛撫の指に少し力をこめた。 爪に濃い赤いエナメルが塗ってある。初めて使ってみる色で、昨日買ったばかりのをさっそく塗ってみた。しかし、その色がいまこうして朝の光のなかで見ると、男のうなじの褐色にはむしろ黒っぽく沈んでしまい、似合わないような気がする。なんとなく薄汚れた感じだ。 「いやな色。千円損したわ・・・」 男の耳のうしろから肩先まで、文字を書くように指を滑らせながら呟いた。〈場末の女〉という観念は持ち合わせていなかったが、自分の指先を見つめながらそのとき女が抱いた印象は、まさにそれであった。 女はこの男の、少年のようにほっそりしているが引き締まった、形のよい褐色のうなじが好きだった。ぼんのくぼに余計な肉がついていず、はっきりしているのがいい。デートがちょうど床屋に行って二三日後に当ったときなど、ベッドのなかで男の首にまわした掌に襟足のもうわずかに伸びた剃り跡が触れると、それだけで躰が震えた。 このひとのように清潔で綺麗な、それでいて男らしいうなじの男は、そう見かけはしない・・・周囲の男たちを、女は自分の恋人のうなじと比較して見てしまうのだった。電車や街の人混みのなかで、目の前にある男のうなじから、ときには恋人の肉体を思い出すこともあった。 もっとも、長い間に少しづつ新鮮さが失われてきたことは事実だった。男の肉体の特徴はすっかり憶えてしまい、腿の付根の内側に発見したほくろにはしゃぎ、愛しくキスすることもなくなって、無論そうした一つ一つの特徴を忘れてしまうことはできないにしても、新たに胸をときめかすようなことは何もない。 男のうなじを愛撫しながら、女はそう思った。女のこころに、馴らされて躰にしみこんでしまった安心感も確かにあって。 その指をうるさそうに払いのけるように、男は頭を振った。 「もう少し寝かせておいてくれよ」 口の中にこもった呟きをして、頭が隠れるまで毛布を引き上げた。 「いつまで寝ているつもりなのよ。お腹空かないの?」 と、女は不満そうに拗ねた声で言った。いつまで床に就いていようとかまわなかったが、自分に応えてくれないのが不満だった。 男は土曜日の夕方になると女の部屋にやって来た。最初のうちこそ不定期で、一週間に二度三度とやって来ることもあったのだが、いつの頃よりか土曜日の夕方から日曜にかけての一夜だけが、ふたりの時間となった。女の勤めは日曜日が非番にあたるとは限らない。だから都合よく日曜非番のときは、その日いっぱい男といっしょに過ごすことができたけれども、そうでない他の週日の休日は、たったひとりで過ごした。男の仕事はアトリエ兼用の自分の部屋で絵を描いているのだったから、都合さえつければいつでも会えるはずなのに、土曜日にしかやって来なくなった。それが習慣となった。そして、男は判で捺したように、その習慣を変えようとはしなかった。 「なぜなの?」 女が訊くと、 「仕事だよ」 と、男は言った。 「決められた時間のなかで暮らすのは俺も勤人と同じだ。そうなってはいけないこともあるが、そうしなければいけないこともある。そこが難しい。電話はするな。乱されたくないんだ」 が、土曜日の夕方に来なかったということもなかった。そういう点はすこぶる几帳面である。女は言われたとうりに電話をかけなかった。電話番号を控えた赤い手帖は、恋人の番号だけが一度も手を触れられたことがない。・・・なぜあのひとは、かけてはいけない電話の番号をおしえてくれたのだろう。この番号のボタンを私が押すのは、どんなことが起こったときなのか。そんなことがあるのだろうか。それはいつなのだろうか・・・。そう思うことがあった。女はただ黙って男のやって来るのを待っていた。 しかし、デートはほとんど部屋のなかに限られてしまった。女にとって、それが不満と言えないこともなかったが、不誠実というのでもなかったから安心していた。自分のそばにいない間の男が、どこで何をしているのかということを、考えてみたことはない。男が自分を騙そうと思えばいくらでも騙せるのだとは思っていた。現に騙されているのかもしれない。判で捺したようなデートが、そもそもその証拠かもしれなかった。 そう思いながら、ドアをあけて入って来る男の顔を、じっと見ていたこともある。しかし本気で疑っているのではなかったから、男の顔はいつもと変りなく見えた。入って来るなり、台所でじゃぶじゃぶ顔を洗いはじめたのを、その荒っぽい動作のあまりな爽快さに思わず声をたてて笑ってしまい、逆に不審がられた。 「なにを莫迦みたいに笑っているんだ」 女はそれには一言も答えなかった。自分がどんな気持で男を見守っていたかを、ついに言わなかった。 一瞬のうちに温かいものがしたたる。他愛無い妄想だったか。 ・・・変りないものと見ようとし、そして口に出すまいとして言わなかったのかもしれなかった。わからない。ひとたび口に出せば、ふたりの関係が毀れてしまうことは確かのような気もした。それが恐かったのだろうか。毀れてもいいではないかとも思うのだが。・・・毀れないという保証は始めからないのだし、自分達ばかりではない、誰にもないことなのだから。 それでは恐いと思うのは自分の躰なのか、それとも精神のつながりによることからなのか。 それもわからなかった。ただ、その両方がうまく平衡を保っているとだけは、どうしても思えないのだった。 頭に毛布をすっぽり引きかぶり背を向けて眠る男を見つめながら、女はいつになく様々のことを思いめぐらしていた。そして不意に、男の頭から毛布をひきはがして、その裸の躰を背後から抱き締めたい衝動にかられた。渇望が鋭く胸を突いた。 しかし、そうすることはしなかった。 やがて女は躰をすべらせるようにして、そっとベッドを離れた。 部屋着を着ると、ほつれ髪をかきあげながら、新聞を取りに行った。 キッチンでコーヒーを沸かした。 その間に新聞にざっと目を通した。一面はあまり読んだことはない。スポーツ記事は、好きな巨人軍が勝ったときだけ見る。きのうは巨人軍の試合はなかった。漫画と三面記事の殺人事件だけは全部読んだ。そして犯人は殺された女の恋人に違いないと、勝手に想像した。 コーヒーが沸いたので、大きなカップにたっぷりカフェ・オ・レをつくり、ひとくち飲んだ。それから化粧鏡の前に座った。 髪をブラッシングしながら、日曜日の朝の顔はほかの日よりもずっと艶があることを、あからさまな表情にこそ出さなかったが、おかしく微笑った。化粧ののりもいい。これも自分の女としての生理のうちか。微妙な肌の変化は、両手でそっと触れてみるとそれが良くわかった。 女は男と知りあって、辛いみじめな気持を味わったことはなかった。それでもしみじみと満ち足りた気分にひたることができるのは、抱かれているときよりも、朝、こうして鏡のなかの自分をながめている時のことだった。 この一夜の変化を、あのひとは気がついているのだろうか。・・・鏡のなかから、ベッドの毛布に芋虫のようにくるまった男を見やった。 男は寝相の悪いほうではなかったが、ふたりが躰を離すとたちまち背を向け、目が醒めるまでほとんどそのまま右側を下にして眠る。そういう男を長年連れ添った夫婦のようだと思うことがある。おだやかな愛情と、一抹の虚しさ淋しさとを感じるために。男は女にとってすべてを許した、いわば初めての恋人だったのだ。眠ってしまえばどうでもいいようなことかもしれないが、軽い鼾を聞きながら自分の方はなんとなく寝付かれないでいるときなどは、よく唇を噛んだ。愛の行為のあとのけだるさが、女のこころの突き放されたような悲しみと分ちがたくなってゆく。男が自分によって満ちたりて眠る。しかし、それとこれとは別のことのような気がした。男の満足の返照がこのとき、ない。いや、くすぶりつづけていて、男の眠りの彼方にとり残されている感じが切実である。そのときはつっ突いてでも起こしたかった。何か話しかけようかとも思う。けれども現実にはついぞそうしたことがない。 女が自分の位置――男にとっての自分の位置を考えるのはこのときだ。とりとめもない少女の頃の思い出が蘇ってくるのもこのときだ。男の背中を見つめる。その背中のひろがりが、普段は心強く思っているにもかかわらず、何とも言えないほど不安に感じられるのも、このときだった。 いつであったか、女は明るい声でこう言ってみた。 「あなたって、いつでも右向きに眠るのね。寝相はいいけど、見ていると、ちょっとつまんないわ。腹が立つことだってあるわよ」 「子供の頃からの癖だよ。左側を下にすると心臓を圧迫されるようで、悪い夢を見るんだ」 と、男は答えた。 それは子供っぽいほどの答えだった。おんなの言葉から何かを汲み取ったようには思えなかった。悪い夢見を恐れるそんな無邪気さがあるのかと、却ってはぐらかされたような気がした。 自分の真意を知ってもらおうと思って言ったのではない。土曜の夜毎に漠然と感じる淋しさが、そう言わせたのだった。男の答えに、女は無言で微笑しつづけた。微笑が決してこころのなかまで沁み通ってゆかず、女にとっては無意味なまでに、顔の表面にいつまでも漂いつづけるのを感じながら。 ふたりは最初から結婚を前提にしてはいなかった。とは言えはっきりした納得があったのでもなかった。そのことを男の方からも、また女の方からも、かつて一度も口にしたことがなかったのだ。男と女の関係について、捌けた自覚を女が持っていたのでもない。 ・・・いつの日にか、ふたりが別れなければならない時が来るだろうと、女は思っている。それは一概に結婚というかたちの問題からばかりではなく、勿論、結婚に憧れ、それを大切にしたい気持はあったが、愛は変ることなく、気がついたらすっかりいい老人になっていたなどということは、少なくとも自分たちには絶対ありえないという認識であった。 男の下着類が女の部屋の箪笥にととのえられて来たころだから、もう二年も前のことだが、その日も勤め帰りに男物のブリーフを買って、 (ああそうだ、サンダルも買っておかなくては) と思いながら、商店街を歩いていた。 すると玩具屋の店頭に、硬貨を入れると動きだす兎の恰好をした木馬が一台だけ置かれてあるのが目にとまった。野原を駈けている姿を写したのであろうか、前後の肢がピンと張って空中を飛行しているようだった。いかにも幼児が喜びそうな明るいピンク色に塗ってある。
Feb 7, 2006
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「あら、こんなところに木馬なんか置いてあったかしら」 毎日往来している通りで良く知っているはずなのに、いままで気がつかなかったのだ。今日設置されたばかりだと考えられなくはなかったが、女はそれが不意に目の前に現われたような気がした。 「驚いたわ。これ、売り物なのかしら」 ハンドバッグから小銭入れを出して、100円玉を投入してみた。 うさぎ うさぎ なに見て はねる わらべうたが鳴って、兎の格好をした木馬はひとりでコトコト動いた。 女の目に涙がうかんできた。 ・・・愛は終る。それは時を同じくして男は女を、女は男を愛せなくなるか、あるいはどちらかが一方的にその時を告げるか。 いずれにしろ、女が初めて男のからだを受け入れ、無我夢中のうちに果て、男がいたわるように自分の肩にその手をかけた時に、(私はこの男の妻にはなれないだろう)と女は漠然と思ったのだった。そしてそう思ったためにか、無意識のうちに自己の主張を抑圧してしまうかのような、男に対する気弱さ遠慮深さがうまれた。それは時に男には一種の押しつけがましさと映るようではあっても、結局のところ一歩も二歩も引いているのであった。別れの時の幻影が大きく立ちはだかっていた。また、それ以来だった、男の背中が気になりだしたのは。 女は髪をブラッシングしつづける。 鏡のなかの男の寝姿を見つめつづける。 男の呼吸が毛布をゆるやかに上下させている。 引き被った毛布の端からのぞいている額のはえぎわが懐かしい。カーテンの隙間から射し込むひときわ強い午前の陽の光に、その額はうっすらと汗ばみ、若い健康な肉体をその一点にさえ露に示している。 (別れたくない。別れたくないわ) と、不意に女は激しく思った。 乳のあたりが痛んだ。 両手で顔をおおった。 別れたくない! その気持がこんなに強くあからさまに女を揺さぶったことはなかった。けれどもそれは今まで地下の岩漿のように流動していたのだ。 しばらくして顔をあげたとき、女の頭のなかには、男の持物を探ったり電話帳をひっくり返したりしている、探偵としての自分の姿がうかんでいた。猜疑の心になっていた。 男を永久に自分のものにする手段はないか? 女は思った。・・・土曜日の夕方から日曜日にかけて、その時間の男は自分のものだ。しかしそれ以外の、それより多くの時間の男は、はたして自分のものと確信をもって言えるか。 言えない。 どうしても言えない。 いや、一週間に一度のデートさえ、男が自分のものだと言い切れるかどうかは疑問だ。男の頭を断ち割って見たのでもない。その時に男が何を考えているか、わかろうはずはないのだった。なぜ肉の欲望が直截に自分への愛情のゆえだと断言できるだろう。また、いかにも愛情に満ちた男のことばが、裏も表もない真情の告白と言えるのだろうか。たとえその時はそれが真情だとしても、決して裏切りにつながらないと言い切れるだろうか。 愛情のまぎれもない証しとは、いったい何だろう。愛情を永遠不易とするには、どうすればよいのだろう。そんな方法はないのだろうか。いつか終ってしまうものだと、その終局まで手を拱いて諦め顔で見ているだけなのか。それが男と女の――人間の宿命なのだと、この闘争をむしろ楽しまなければならないのだろうか。 (おそらく、そうに違いないわ) と、女は思った。 しかしなぜ自分の愛情のありようから、そのような人間の普遍性を引出さなければならないのか。身上相談の回答ではないのだ。自分自身の心理状態や運命を、まるでチェスの駒を動かすように、掌の上にのせて見ていられるものでない。 (私はこのひとを、しんから愛しているのだわ) それは強い確信だった。かつて愛していないと思ってはいなかったが、それは〈愛〉ということばで表わすことができる愛だった。誰かに「お前はあの男を愛しているのか」と問われれば「はい」と答えられる程度の愛だった。愛してはいたが、いわば人並みであるための愛である。 それでは、今は―― 今ではかつての幸福という幸福をしらみつぶしに検証してみなければ、居ても立ってもいられないかった。不安だった。本物の幸福をしっかり手に入れるためには、幸福の真偽を確認する必要があった。 そして次に彼女がこころに呟いたのは、やや唐突の感は免れないにしても、女としては当然のことだった。彼女はこう呟いた。 (私、長生きしなければ) 女はむしろ彼女自身であることが苦しかったのだが、男のために自分を虚しくするためには、生き続けなければならないと考えた。このとき女の利己心はただほんの少し顔をのぞかせていたに過ぎない。幸福は自分で確かめたい、と。生きていて、確かめたいと。 女は鏡の前で何かに縋ろうとするかのように、また、目に見えてこない本物の幸福をしっかり掴まえるかのように、胸に手をあててその手を固く握り締めた。 それからこぶしを解いて、ぼんやり見やった。 涙がこみあげてきた。 鏡のなかに、涙に滲んだ赤い爪が、血のように凝っている。 (まあ!) と、女は胸に叫んだ。血のように見えたことが強く迫って来た。 そして昨夜の男のぎょっとした顔を思い出した。 それはこうだ。 男が左の乳首をきつく唇ではさみ転がしたので、女が声をあげると、次ぎには舌を回しながら首筋に這い上がって来た。のけぞるようにして思わず男の首にしがみついた指先に力が入った。男は「あっ」と叫んだ。女の鋭い爪が傷をつけた。男は首を捩るようにして女の指先を見た。赤い爪を見た。それが血のように見えた。男はぎょっとしたように目をみはった。しかしそれが赤いエナメルだと気づくと、 「殺されるかと思った」 と言いながら、躰を離して首をさすった。 女は気がつかず、のぼりつめていたところで突然躰を離されたので、不満げに、 「え?」 と、目をあけ、手をさしのべた。 男はその手を払いのけて、 「お前の爪だよ。痛てえな、びっくりするじゃないか」 「まあ、ごめんなさい。刺さったの? ・・・痛かった・・・だいじょうぶ?」 「殺されるかと思ったよ」 「まさか。・・・ひどいわ」 「男はこんな時でも不安にさらされているんだからな」 「そんな・・・。嫌なひと。今度から気をつけるわ。ごめんなさいって、言ったじゃないの」 「冗談だよ。しかし中世のイタリヤには、女が膣のなかに毒を入れておき、男を殺したという話しだってあるんだぞ」 「いじわる・・・」 それで聞き流して忘れていたのだったが、ひとたび血のようだと思ったエナメルを二度と使う気がしない。 涙をぬぐいながら、抽斗からエナメル・リムーバーを取り出した。 (だけど・・・) なぜ男は咄嗟に、殺されるなどと思ったのだろう。 (なぜかしら) 首に傷がつくほどだから、確かに痛かったに違いない。が、殺されると思うほど激烈なものではあるまい。 咄嗟にそう思ったからには、そう思うだけの何か理由があるのではないだろうか? ふたたび鏡のなかの男を見やった。 急に心臓が奇妙な動悸をうった。頭から血が引いて行くような感じがした。男の姿が目の前から遠ざかって行く。 (いやよ、別れるのはいや!) リムーバーの小壜が足許にころがり落ちた。 女は立ちあがった。 急いでベッドのところまで行った。 涙がまたあふれてきた。 毛布を剥いだ。 「もう十分だけ寝かしておいてくれよう」 と、男はもぞもぞ言った。 その額の髪を女はそっと掻きあげた。 男はうるさそうに邪険に首を振った。 その時、女はいきなり男の首に手をかけた。そして渾身の力を込めて締め付けた。 「あ、あう」 男は奇妙な声をたて、驚いてカッと目をあけた。 「何をするんだ」 そのことばが「アイヲスウンラ」と聞こえた。女の手を振り解こうともがくのを、女はおおいかぶさるようにしてベッドに這い上がり、股間を蹴った。男は重くうめいた。女はさらに右膝で押し付けるようにして、男の鳩尾のあたりを蹴った。 「別れるのはいや。いやよ、いやよ」 爪が男の喉に食込んで血が滲み出した。男は舌を痙攣させて、声にならない音を発した。目が大きくみひらかれたまま釣り上がり、顔が真っ赤になった。 女はさらにありうる総ての力で締め付けた。男の頭がヘッドボードにぶつかった。そのはずみで女の左右の親指が男の顎の下に深く食込んだ。女の手首を握っていた男の手が力無くずり落ち、頭がガクリと落ちた。 女の手は硬直したまま、しばらく男の首にまきついていた。 「あなた」 と、女は生きている者に囁くように言った。 肩を揺さぶってみたが何の反応もなく、男の躰はされるがままに無意味に揺れた。 女はふらふらと立ち上がり、箪笥の抽斗をあけて新しいブリーフを取り出した。 男の穿いているのを脱がせ、それと取り替えた。が、新しいブリーフも女の指についている血で汚れた。女の目にそれは映らなかった。
Feb 7, 2006
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先日注文しておいた画材が入荷したというので、弟に運転をしてもらい車で出かけた。日射しが強く、しばらく家のなかに閉じこもりがちだったので、太陽エネルギーにくらくらしてしまう。吸血鬼の気持がよくわかるなどと、奇妙な想像をしてしまう。花屋の店先にはチューリップの鉢がならんでいた。春がちかいのだ。街ゆく人も、まだ冬のコートをはおっているが、マフラーや手袋はとれて、なんとなく浮き浮きしている感じがする。 帰宅するや、母が「リコが仕事場にいるか見てちょいだい」と言った。リコというのは我家の飼い猫。私たちが外出するときに、一緒に行きたがって、あとを追って走ったのだそうだ。まるで人間の幼児のように鳴きながら、飛出たという。 画材を車から降ろし、仕事場に運んだ。ふと書棚の上に気配を感じて見上げると、リコがこちらを見ていた。「リコ、お留守番していたかい?」というと、アクビをしてみせた。 しばらくして居間にいた私のそばにリコがやってきた。「リコ」と呼ぶと、鼻をピンクにしてチョロリと舌をだしながら頭を私にすりつける。留守番をしていたのだとでも言いたげだ。「おりこうだったね」と抱き上げると、ゴロゴロ喉をならし、それから満足気にどこかへ遊びに行ってしまった。 猫も家族と外出したいときがあるのか、しばしば駐車場まで先に走ったりすることがある。家族以外の他人に慣れることが少ない動物だが、まれにとても気にいる人があるのか、編集者のA氏の場合がそうだった。A氏が帰るときになると、彼の足にまといつくようにしながら、一緒に車に乗せてくれとせがむのだった。A氏は猫を飼ったことがないらしいが、よほど人柄が動物に好かれるのであろう。車に乗り込めないで当惑しているので、私が猫を呼び戻さなければならない。 また、同じく編集者のB氏は猫に好きがられるのだけれども、じつは猫の毛に対してアレルギーがあるとのことだった。彼は昔、ミステリー作家の仁木悦子氏の担当だったそうだが、仁木氏は知る人ぞ知る大の猫好き。デビュー作が名作『猫は知っていた』なのだから、もちろん御自宅で猫を飼っていらした。B氏がお宅へ伺うと、その猫が寄ってくるのだそうだが、彼はとたんに鼻水がではじめる騒ぎとなる。私の家に来たときもそうで、「失礼します」といいながらティッシュ・ペイパーを鼻に当てる。私もこれにはおおいに気の毒して、猫を部屋から追い出したり、仕事の相談の前にひとしきり大騒ぎするのだった。猫は部屋の外で、中に入りたがって鳴いている。 我家の猫に気に入られてしまった家族以外の人はA氏とB氏だけだ。ときどき遊びに来る従姉は、大の猫好きなのだが、彼女がやってくるとサッと何処かに身をひそめてしまう。彼女にはまことに気の毒なことだが、こればかりは、猫に言いきかせることもできない。 今も二階と階下を二匹が追いかけっこをして、バタバタ、ドドドドっと廊下を走りまわっている。寒い朝方など、気がつくと私の蒲団のうえに5匹ものっかっていることがある。かなりの重量なのだが、私は意外に平気だ。胸の上にどっかりと居坐られても、悪夢をみることもない。25年以上にわたって、猫どもは我家を占領しているのである。ときには留守番役をおおせつけなくては、家族としての示しがつくまい。
Feb 6, 2006
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きのう節分の日に鬼の話がでたので、今日は以前書いた短篇ミステリーをお読みいただこうと思います。鬼つながりです。日記としては長いので、3回に分けますが一挙に掲載します。そのまま繰って下さい。あらかじめお断りいたします。------------------------------------------- 鬼の袖 作・山田維史 契りきなかたみに袖をしぼりつつすえの松山浪越さじとは 後拾遺集 清原元輔 序之章 四十歳の男と、十六歳の少女とが、海に臨んだ暗い断崖に立っている。 少女は男より少しうしろにいて、ふたりは、もうかれこれ二時間近く海を見ている。その間、ひとことも口をきかない。また、海を眺める場所を変えるために、歩き回りさえしない。じっと同じ所に立ちつくしていた。 風が変って背後から吹きはじめていた。 乱れかぶさる額の髪を、男はしきりに掻揚げた。掻揚げると乱れ、乱れると掻揚げる。額のはえぎわは髪油に汚れて、粘つく汗のように鈍く光った。 しかし、少女には男の顔は見えない。その目は海を見てもいなかった。ただ男の背中の広がりと、肩越しにわずかにのぞく顎から項にかけての急速に深まる翳を見ていた。一瞬、想いの中を、男の髪油の匂いが流れたような気がして。 「死のう……一緒に……」 やがて男が、ほとんど独り言のように、感情のない声で言った。 「はい」 と、少女がこたえた。 その声は細く、波の音や風の声に飛ばされそうだったが、男の耳には強く、はっきり聞こえた。 思いのほかの応えではなかったが、しかし男は、ちょっと驚いたように振り返った。少女が真っ直ぐに見返した。素直な涼しい瞳である。赤ん坊のようにみずみずしく穢れないというのではない。が、深い森蔭の泉のようで、これまで幾度も、はっとさせられてきた。感情を澡われもし、また自分を失わせられもした。 男を惑わせるような眼をもった女はいる。が、素直さをたたえた涼しい瞳が、いつまでもそのまま変らないでいるのは少ない。心が変れば、瞳の色も変る。変化の末に妖しい底光りをたたえて新たな魅力となることはあっても、逢うたびに感情を澡われるようなことは、男のかつての恋愛にはなかった。 関り方にもよるだろう。妻の眼はきつく、血を吸いたがっている剣のようだ。他人と笑い興じている時でも、その瞳の光はあらぬ方に輝きを向けている。 しかし、この少女の眼の色は、いつまでも変らなかった。その眼を見たいがために、少女と逢うかのようだった。まるでうぶな中学生の恋のようだが、実際のところ、逢って、変っていない眼の色を見ると安心するのだった。けれども、そうして安心するということは、逆に自分の傷をつきつけられるようなもので、男は、たったいま逃れてきたばかりの妻の瞳の光を、思い出さずにはいられなかった。 …少女の眼を、つむった瞼の上から指や舌で愛撫する。瞼の薄い肉の下に、眼球の弾力と丸みとを探る。舌の先に少女のあえかなおののきが伝わってくる。男は欲情し、自分の無骨な指で、こいつを抉り取ってしまいたいと思う。噛みしだくと、しこしこして、さぞかし美味かろう。それは冷たくほの白い肉。舌の上で甘く震えながら溶けてゆく、煮こごりのような肉。そうだ、愉しむのだ。なるべく長い時間をかえて、舌の上でころがすのだ。と、そういう想像で頭が痺れ、じっとこらえる抑えた声がもれるほど物狂わしく爪をたてたり、ぐりぐり擦ったりするのだった。 いま、少女の素直な眼差しは、男にはあまりにも強すぎた。とんだ木乃伊盗りと、いまはただ自嘲めく。 男はふたたび海の彼方へと目をやった。 また長い沈黙がきた。 日暮れどきである。 空は凄い夕焼けだった。水平線の上にひろがる美しい茜色が、ここと境を見定めぬうちにどこからともなくやがて古代紫に、あるいは瑠璃色に、そして上空にゆくほど次第に薄墨色に変り、ところどころに幾筋もの黄金の光芒が、炎のように燃えていた。まるで幻の鳳凰が一千の翼を重ねあわせて一斉に飛びたったかのような、燦然としてこの世ならぬ光輝にみちていた。しかもそういう美しさの内には、何かしら不吉なものが包まれていることを暗示するかのように、おちこちに散らばる雲の血飛沫のような真紅の色あいは、刻々と朱殷に変ってゆくのだった。 その空の色模様を、海はあますところなく映していた。遥かな波がうねり閃く。するとそれが、小競合う甲冑武者の兜の鍬形の閃きとも、赤絲威の大袖、色々威の射向の草摺、また刃の閃きとも思えた。人をして遠い時代に夢を馳せさせるような深い趣があった。夕焼ける海は絵巻物である。 …けれども、ひとたび足下に目を転じれば、断崖の下の波は、人のすべての夢を無残に叩きつけ、打ち砕くかのように、激しく逆巻いていた。 男は大きく肩を動かし、溜息を吐いた。 「そうするしかないんだ、そうするしか」 と、呟いた。 そして、少女を顧みて、招くようにその華奢なからだを抱いた。 少女は京友禅の振袖を着ていた。少しく蒼褪めた透き徹るような顔に、振袖が一層幼びて、生きている人形のように見えた。男が自分の娘に買ってやるような気持で特別に染めさせ、仕立てさせたものである。男女のふたり連れしか泊めないホテルの一室で、男がこの贈り物をさし出すと、少女は困惑した顔で男をあおぎ見た。それは決して高価な贈り物だからというのではない。 「わたし、どこにしまっておいたらいいの。見つかってしまうわ。箪笥だって、鍵なんて掛けたことないのよ」 それには応えず男は畳紙をひろげ、抱えてきたボストンバッグの中から、つぎつぎと帯や帯留、足袋やら肌着やらを取り出した。 「さあ、着てごらん」 男はどっかり胡座をかいたなり、顎で着物を示して言った。 「着れない。ひとりで帯を結べないもの」 「手伝ってあげるよ。さ、ここへおいで。今日中に覚えてしまいなさい」 ベッドを囲む三方の壁は大きな鏡でおおわれていた。天井を黒い天鵞絨で張り、十数個の小さな照明器具が奇妙な配置で取り付けられている。クリスマスの装飾電球のように点滅しながら、真紅の光を投げかけていた。そのベッドの上に立って男は、少女を裸にし、振袖を着せてやった。帯を結び、結んでは解き、少女がひとりでできるようになるまで、同じ作業が幾度も繰り返された。 ようやく最後のおさらいがすんだとき、ふたりはすっかり汗みずくになっていた。少女の髪は乱れて頬にはりついていた。少女は深い瞳をまばたきもせず、疲れたように男を見あげた。男の背筋は妖しくさんざめいた。 「ああ、良く似合う。綺麗だよ。可愛いよ」 男は少女の頭をきつく胸に抱きよせ、髪に顔をうずめて言った。 「苦しい。苦しいわ、だめ、だめ……」少女の喘ぎが男の胸にかかり、男はふと、小鳥を追い詰めるように少女を追い詰めてゆく自分を想った。…… いま、その振袖は潮風にしっとり濡れていた。 男のからだの中に、少女の哀しさがつたわってきた。この振袖は少女の持物のなかでおそらく最も豪華な着物であったろう。けれども男の知らぬ、男と逢っていないときの少女の生活のなかで、それを着ることはできなかった。どんなに晴がましい場所へも着て行くことのできない〈晴着〉であった。きょう、少女は、死を覚悟して来たのだ。 「僕たちの恋は、僕たちの死によって、永遠になるんだよ」 父親が娘を諭すような口調で、男は言った。 「はい」 少女は真直ぐ男を見つめた。夕陽に右の耳朶ばかり橙黄に光って、蒼褪めて陰になっている顔から際立った。 少女にとって、初めての恋人だった。男と知りあったのは二年前、十四歳のときである。十四歳にふさわしい恋を経験しないうちに、四十近い男と結ばれてしまった。その男は少女の恋の夢のなかに降りてきたのだ。夢を見ながら、激しい苦痛に襲われた。出血が二日つゞいた。 男には妻もあり、八歳になる男児もある。そのことを知ったのは、しかしずっと後になってからのこと。男の不用意な言葉に傷つくよりも、ただびっくりして、男の腕のなかで大きく目をみはり、その頃には、もう、少女の愛は、引き返せそうにないところにあった。 引き返せそうにないというのは、引き返せるかも知れないということを含んでいる。 が、そうした場合のことを考えると、少女は自分の歩いて行く方向が分らなくなってしまうのだった。こちら側と向う側とがあって、その境目の窪んだ水溜りのような所に自分のからだが漂っているかのようだった。自分はつぎつぎと別の男と恋ができるような女ではない、と思った。 少女の部屋の鴨居に紺色のセーラー服が掛けられてある。少女が通っている女子高校の制服である。机に向かって椅子に腰をおろし、ぼんやり窓の外に目をやっている少女の視界の片隅に、そのセーラー服が入ってくる。背中や、スカートの襞の山になったところの布地が、擦れたようにてかてか光っている。少女は無意識に目をそらす。制服を視界から追い払う。しかし、厭らしい光は消えない。それどころか、一層強く迫ってくる。腥い臭いさえする。生き物の目のように、ぎらぎら輝きだす。少女は危うく叫びそうになって、はっと我にかえる。 考えることは多くあった。きれぎれにではあるが、男の家庭の修羅も耳にはいってきた。しかし、男の妻となる願いはことさら、問題はあまりにも少女には荷が重すぎて、現実にどうしたらよいのか分らなかった。何の力もなかった。男との逢瀬のたびに愛はつのり、同時に哀しみもつのった。 「死にます。あなたと一緒に」 涙が頬を静かにつたった。常には決して涙を見せたことのない少女の、男に見せる二度目の涙であった。初めは男と結ばれた時に……。 その時のように、男は心のなかに落ちてくる涙に胸をしめつけられ、そっと指で拭ってやった。その手をとって、冷えきった頬に押しあてながら少女は、海の彼方、空の彼方を見やった。 とうとうここまで追い詰めてしまった、と男は思った。 ふたりはこの世の最後の接吻をして、手と手を振袖の扱き帯で結んだ。そしてたちまち断崖から逆巻く海の波に身をおどらせた。 少女の振袖は天人の羽衣のように、夕焼の空に舞いあがり、また、掻き抱くかのように恋人の背をおおった。きちんと揃えた両脚の足袋の白さが一点の光と化した。ふたりの髪は赤く染って、炎のように空中で絡みあった。断崖の上に残された少女の薄桃色の草履は闇にのまれた。 が、その時である。どうしたわけか手と手を結んだ帯が、ぷつりときれてしまったのは。……………
Feb 4, 2006
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破之章 「あっ」 と、叫んだような、叫ばなかったような。 叫んだにしても、ふたりのうちどちらの声であったか。すべてが一瞬のこととて分らない……… 少女と離ればなれになって、男は黄泉の国への道を歩いていた。 幽明境の天は天とも思えず、山川草木なにひとつない野が、しかし忽然として隘路険路にさしかかり、苦労して漸く超えて顧みれば、いましの隘路険路が何処にもない。平坦な道があるばかりだ。風景は人それぞれの心の中にあるかのようで、とすれば、この暗闇もまた人の心にあるのであったか。 そこには無数の螢火のような小さな火がうごめいている。それは皆、黄泉の国へむかう、いまの一っ時、生死の間をさまよう人間たちであった。彼らは互いに知ることわない。また、自分が堕ちるか、堕ちざるかが見えない。赴くところを知らない。 ある者は老いていた。ある者は背中にナイフが突き刺さっていた。またある者は病みさらばえていた。太い首をがっくり落している、腹の突き出た素っ裸の男。上腕から切断されてぐしゃぐしゃに潰れた片腕を、まるで毀れた茶碗を継ぎ合わせようとするかのように、もう一方の傷口に押し当て、狂気の試みをしつゞける若者。内臓がとび出て繿縷のように垂れ下っている者。全身火だるまの老人。スカートが千切れている血まみれの幼女。つぶし島田に黒綸子の裾模様、紅白粉を薄く刷いて、舌を噛切っている十七、八の少年。そしてまた、形さえ曖昧な者。………縺合い、折り重なり、倒れたり、躄ったり、独楽のようにきりきり回ったりしながら、泥海のように流れて行く。泣いたり、笑ったり、怒ったり、憎んだり、恨んだり、諦めたり、怖れ戦いたり、そうした様々な顔が、うたかたのように浮かんでは没する。彼らに声はない。彼らの口はただいたずらにあいている。 男は、やがて、と或る橋の袂にたどりついた。 それは丹塗りが半ば剥げおちた、淋しい反橋であった。とはいえ、撓曲する勾欄の太さ、親柱の太さ、その上の擬宝珠の不気味なほどの巨大さが、不壊不動の凄まじいばかりの印象を突きつけていた。対岸は闇にのまれて距離さえ知れない。 男は自分が何処へ行くのか分らなかった。が、気持がふらりとして、押し流されるように橋を渡ろうとした。すると遠く近く、何処からともなく耳を擘くような、重く厳しい声が聞こえてきた。 「やよ、汝、待てい。この橋を渡ることならぬぞ。汝、しいて渡らんとすれば、自然の道理は破れ、橋を渡せる河は橋を埋め、逆しまに流れるであろう。見るがいい」 見ると、滔々たる河面はたちまち怪しくさんざめいた。上より下へ流れる自然の力と下より上へ流れんとする反自然の力とが、恐ろしい唸りをあげて鬩ぎあっているのだった。と同時に、男の立っている反橋が、凸に撓めた発条を両端を固定したまま凹にする時のように、グイーン、グイーンと奇妙な唸りを発しながら中央が陥り、橋杭は震え、水はその回りで泡立ち沸騰しはじめた。のみならず、天と地とが入れ代ろうとするのであろうか、男のからだに凄まじい圧力がかかってきた。おちこちに空中放電のごとく、鞭打つような音を発して、青白い火花が飛んだ。 「見よ!」 「畏れよ!」 声は荒らかに、殷々と轟いた。 男は恐ろしさのあまり、金縛りにあったように立ち竦んでしまった。 天地の鳴動はいよいよ激しく、 「さあ、どうするのだ。俺の言うことを聞くのか。それとも、汝、しいて渡ると言うのか」 と、姿の見えない主は叫んだ。 男は声もなく、急いで橋をおりた。そして今来た道を引き返した。 一方、少女もたったひとりで黄泉路をたどっていた。 どれほど遠く来たか、もう何時間歩きつゞけたのか分らない。四辺晦冥、同じ所で苦渋の足踏みをしているかのようだ。左の手首には、あのとき途中でぷっつり切れた、扱き帯の端が、きつく食い込んでいた。まるで生き物のように絡みついて、蛭のように血を吸い、帯なのか肉なのか見当がつきかねた。断崖から身を投げると、男のからだにぐいぐい引っ張られて、手首の痛みがますにつれて、少女はしかし、気が遠くなる一瞬に甘い喜びさえ感じた。初めての甘い喜びだった。行末に一切の不安がない、それゆえにずっと続くはずの喜びと・・・。少女は解くに解けないその帯を、ずるずる引き摺りながら歩いていた。 すると行手に、ぼうと小さな明かりがともった。 明かりは次第にこちらへやって来る。 それが何であるかも分らないまま、淋しさに沈んだ心に、はっと滴るものを感じて、少女は歩みを速めた。 黄泉路の半ばで、ふたりの恋人たちはふたたび出会ったのである。 少女は、離ればなれになった時からの淋しかったこと、不安だったことを訴えた。いまふたたびめぐり会えた喜びと懐かしさとで、美しい瞳いっぱいに涙を浮かべた。 「ああ、死んでよかったわ。わたしたちの恋は永遠になったのね」 と、男の胸にしっかり頬を埋めて言った。そして幼びてはしゃぎながら、男の首にとびつき、その涼しい瞳をあげて微笑み、小さな唇をつき出して目をとじるのだった。 (わたしは新しく生まれるのだわ。そうよ、生まれる、生まれる) 少女は、男と一緒にいて初めて自由に羽ばたく自分を感じた。 「いや、僕は死ねないのだ」 と、男がこたえた。 「君と死ぬわけにはいかないのだ」 少女の肩に手をかけ、突き放すように押しやった。 「僕にはどうすることもできないんだ。死ぬに死ねないのだ。あの逆しまに流れようとする河を見、天と地とが空中で入れ代ろうとする様を見て、押して橋を渡ることが、僕にはできない」 男は、たったいま自分が見てきたことを語った。 「しかし、信じてほしい。僕があの断崖から、死を決して、君とともに身を投げたということだけは」 少女は言葉を失い、呆然として男の顔を見つめた。いやいやする子供のように、小刻みに頭を左右に振りつヾける。 男は目をそらした。 「嘘だったのね・・・みんな嘘だったのね」 少女の深い瞳に翳がさした。それは透明な水晶球をだいなしにする瑕瑾のように、少女の瞳の焦点を狂わせた。 「嘘じゃない………」 男は目をそらしたまま言った。 「嘘じゃない」 その声は力なく途中でくずおれた。男は自分の言うことに疚しさを感じた。 (俺はいつもそうだった。いつも自分に疚しさをかんじてきた) と、男は思った。永遠の恋のなんのと言ってみたところで、四十男がそんなことを信じているはずもなかった。狃れきった肉と、狃れきった心とを駆り立てるために、男は各種の調味料が並んだ棚から、十四歳の少女にふさわしい〈永遠の恋〉と書かれた、古い小壜を選んだにすぎなかった。埃を払って使用してみると、意外にも効力があったのだ。「おやおや」と、男は思ったものだ。しかし放縦な快楽には御膳立が必要なのである。永遠の恋など信じていないから、信じているふりをする。ありえないから、追求する。不可能事なればこそ、可能ならしめんとするのだ。その時こそ肉は精神の従僕、精神また肉の従僕となっての巴どり、めくるめく天の深淵に堕ちていくはずだった。しかし少女は、永遠の恋というやつを信じてしまった。信じてはいけないことを信じたのである。その深く涼しい瞳にとじこめてしまったかのように。ありえないことをあるとするのは、逆説的に不毛を意味する。堕ちるべき深淵は闔じ、道は平坦になった。男は少女のからだを組み敷きながら、仕事の手筈を工面することさえできる。もはやふたりの関係は、男にとって女がなびいたというにすぎない。男の心のなかに、確かにそういう思いもあったのだった。そういうことなら、男の恋の誠実などは、女がなびくなびかぬその間の限りで、なびかせてしまえば女の一途さなどは、べとついてうるさいだけ。そのうちに逢瀬の経緯にも嘘と真ないまぜの枝葉がついて、嘘の枝葉は育ちが早かった。男の言葉は嘘の上塗り。たとえそうでなくとも、真実も真実でなくなるのだった。 「嘘じゃない」 と、男は低声で繰り返した。 「僕は、君と死ぬつもりで身を投げたんだ。ね、信じてくれ。そんなに強い眼を向けないで、ね、信じてくれよ」 少女は扱き帯が喰い込んだ左手をさし出した。手首から先は紫色に腫れあがって、ほとんど腐りかけていた。 男は恐れたようにまた顔をそむけた。 「ああ、ああ」 少女は悲嘆のあまり、着ていた振袖の袂をきりきり引き千切って泣いた。めぐり逢えた喜び、恋の喜びはつかの間であった。 「女よ、幼き者よ、怨みの心を掻きいだきて、かの橋を渡れ!」 何処からともなく轟き渡る声とともに、少女の目の前に橋が顕われた。 少女はもう一度たしかめるように、男の顔を見つめた。男の目のなかに、引き返せない自分の姿が映っていた。かつては男への愛から、そしていまは虚しくなった愛のために死から。 少女は引き千切った涙に濡れた袖を男にあたえた。 「あなたが買って下さったこの振袖、とうとう何処へも着てゆくことができなかったわ。辛かったけれど嬉しくて、ときどき夜中にこっそり起きだして、帯がきゅっきゅっと鳴る音にもはっとしながら、ひとりで着てみたこともあったわ。誰かにおしえたくて友達におしえたくて、口のところまで出かかっているのに黙っているの。いつか言ってしまいそうで恐いの。学校に行っている間に、箪笥をあけられないかと心配で、頭がぼうとしてくるし、あなたのことが思い出されて、からだが熱くなるの。わたし、教科書を読んでいるふりをして、頭のなかで振袖を着るの。きちんと着てあなたの前に立つと、あなたは一枚一枚脱がしていくの。あなたがホテルですることを、そっくりなぞってみるの。ああ、わたし、あなたがこれを下さった意味が分ったような気がしたわ。・・・みんな辛い思い出になるんだわ。・・・でも、これを着ているほかないのね。わたしの死に装束。もう、二度と逢えない。これを着てお目にかかることはないのですから、この片袖だけでもお返しします。それとも・・・この袖をわたしと思って下さいますか」 そう言い残して、少女の姿は、手首に喰い込んだ扱きの帯を鞭のように、はっしはっしと虚空に打ち振りながら、橋を渡って闇の彼方へと消えていった。 そのあとに風渡る音のように聞えている遥かな声々は、うごめく死者たちの跫音であろうか生者の声であろうか・・・あるいはまた、身を投げた海の潮騒であったろうか・・・ 『………… 人在世間 愛欲之中 独生独死 独去独来 当行至趣 苦楽之地 身自当之 無有代者 善悪変化 殃福異処 宿予厳待 当独趣入 遠到他所 莫能見者 善悪自然 追行所生 窈窈冥冥 別離久長 道路不同 会見無期………』
Feb 4, 2006
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急之章 気がついたとき、男は荒磯の岩の上に横たわっていた。耳の奥に、飛び交う蠅の羽音のような唸りがして、頭を振るとずきずき痛んだ。右手には少女の振袖の袂が、海藻のように絡み付いていた。しばらくの間、その袂をぼんやり見つめ、それから横たわったまま首を捩って、海の方を見やった。 あさぼらけの海は、いままさに陽がのぼり黄金の光球がすっと水平線を離れた。 まぶしい輝きが男の目を射た。男は両手で顔をおおい、瞼をさすった。 (生きている、俺は生きている。たすかったのだ!) 心のなかで叫んだ。 起きようとしたが、からだの節々が痛んで、またそのまま横たわった。濡れた片袖を額にのせて、そのうち深い眠りに陥ってしまった。 眠りから醒めると、からだの調子はずっと良くなっていた。額にのせていたはずの片袖を、いつの間にか、またしっかり握っていた。 男は、あらためてその片袖を見て、ぞっとした。 (わたしと思って下さいますかだと?) 少女の声が聞えるかのようだ。 (妙に大人ぶった言い方をしやがって。ばかな、こんな物を持っていては、せっかく命拾いしたのに、今後の身の安全がないでわないか) 毛蟲でも払いのけるように、あわてて捨てた。 が、ふと思い直して、今度はそれに石を包み、自分のシャツの裾を細く裂いて、それでぎりぎり巻いた。 「これで、そう容易く浮き上ってはこないだろう。俺の方から形見をくれてやらあ」 と言いざま、できるだけ海の遠くへ放り投げた。 投げてしまうと、ほっとした気持になった。それから、衣服がすっかり乾くのを待った。上着を脱ぎ、ズボンを脱ぎ、下着も脱いで素っ裸になって脱いだ物を岩の上に 並べて干した。断崖から身を投げるときに靴を履いたままだったのは、まったく予想もしなかった幸いだった。それも脱いで干した。 なるべく平らな岩をさがして、裸のまま横になった。太陽が皮膚を快く刺激した。肌が岩肌に吸い付くようだった。からだの芯に官能のほてりを感じた。男は、胸をさすってみた。腕の筋肉をさすってみた。筋肉は充分に若さが漲り、衰えを感じさせない。皮膚はつややかに輝いていた。 「はは」 と、男は声に出して笑った。 やがて衣服が乾いた。男は手早く身繕いをすませた。塩がざしざしして、あまり気持ち良くはなかった。しかし男は、何喰わぬ顔をして、妻と子のもとへ帰って行った。 さらに数日経って、別な海岸にひとつの女の水死体が発見された。 腐爛がはげしく、あまつさえ魚に喰い千切られた痕跡もあり、こういう現場には慣れている警察官や検屍官さえ、思わず顔をそむけたほどである。特に顔の部分は、膨脹した肉が頭蓋より剥離しかかり、まるで仮面をかむっているかのようだった。しかも、両眼が失われているためもあろうが、世にも恐ろしい鬼の顔をしていた。鬼の顔に不似合いな振袖を着てい、その左の袖はなかった。いづれ何かに引っ掛かって千切れたのだろうと判断された。 また、そこから二キロメートルほど離れた断崖の上に、きちんと揃えられた女物の薄桃色の草履も発見され、さらに調査の結果、その断崖から身を投げた場合、潮流の関係で、死体発見現場付近に流れつくことも判明した。 もっとも、この時の調査で、死体が漂着する可能性のある場所は、二か所あることが分った。すなわち、このあたりは、ぶつかりあう二つの潮流のいわゆる潮目であった。近くの大河の影響が河口付近二キロないし三キロメートルに及んでい、ヨットマンには良く知られた場所だった。ヨットがこの潮目に入ると、遠くからはそのヨットがまったく停止しているかのような不思議な、また、ちょっと異様な印象を受けるのだという。断崖から身を投げた死体が、どちらの潮流に乗るかによって、正反対の方角に漂着する可能性もあるというわけだった。 念のため他の方角も捜索された。何も発見されなかった。 警察はこの事件を〈自殺〉であると断定した。 しかし、一箇月後の現在、あらゆる手段をつくしての捜査にもかかわらず、いまだ身許は不明のままである。
Feb 4, 2006
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2月3日、節分会。用意してあった煎り豆を食べる。年の数より一つ多く食べるのが昔からの習わし。私は61粒ということか。掌にすくってポリポリやっていたから、数えはしなかったが、たぶん61以上食べたような気がする。 我家の隣近所は子供がいないせいか、「福は内、鬼は外」の掛け声は聞こえてこないが、節分の豆まきの習慣がなくなったのかもしれない。私のように、家のなかにいて背をまるめながらただ黙々と豆を食っているのも、その姿を想像するとなかなか凄まじい。孤鬼になったような感じがして、悪くはない。なんだか芝居をしてみたくなる。部屋の電気をみな消して、ちびた蝋燭一本を灯し、ポリッ、---ポリッ、と豆を食う。家人が来たら、やおら振りむいて「見たなーッ」と低く言う。ナ~ンテね。 「何バカなことをやっているんですか!」 怒られるのがオチだな。おおコワ。鬼ハー外! 私が子供のころ、我家では豆まきに殻付きのピーナッツを使っていた。大豆だと後から拾うのが大変だし、撒いた豆を口にいれるのを嫌ったためだと思う。父の発案か母の考えかは分らないが、ずいぶん合理的な豆まきをしていたものだ。当時の我家のようにピーナッツを代用していた方はおありだろうか。 ちなみに手持ちの風俗資料で節分をしらべてみると、いろいろな風習があるようだ。「福は内、鬼は外」と唱えて豆を撒いて悪鬼を払い、先の煎り豆を年の数より一粒多く食べることのほかに、その数を紙に包んで身体を撫でた後、三つ角の辻に捨てるのだそうだ。あるいは門口に豆がら鰯やヒイラギを挿す。あるいはこの日、痰が出るのを根絶するため、呪文をとなえ、長蕪の葉に自分の姓名誕生日を書いたものを懐に入れて寝、翌朝水に流す。これを毎年行い、3年間つづければ病根を断つことができる、と。 昼は太神楽が各家々の門口を訪ね、夜は厄払呼ばいが歩く。---別の資料によると、この「厄払呼ばい」というのは一種の門付芸人らしい。手拭いをかぶり、張りぼての籠をかつぎ「厄払いましょう、厄払いましょう」と町々を流して歩く。これを呼びとめて豆・お金を与えると、「アーラめでたいな、めでたいな。めでたいことで祓おうなら、鶴は千年亀万年、東方朔は九千歳、三浦の大助百六つ、いかなる悪魔が来るとも、この厄払いがひっとらえ、ちくらが沖へ真っ逆様にさらり」というふうに唱えて去って行くのだそうだ。 声よきも頼もしきなり厄払い 太祇 美声でうたう厄払呼ばいがいたのであろう。寺院の僧侶でも、美声で経を読む僧はありがたみも違うようで、人気がでるのだと聞いたことがある。まあ、そんなものであろう。 厄落しは現在でもまだすたれていない風習だろう。私はその風習については詳しく知らないのだけれど、男は42歳、女は33歳が大厄というらしい。この厄年にあたる人が節分の夜に厄落しの禁厭をする。地域によってもいろいろなことが行われるのかもしれないが、昭和15年頃まで最も広く行われていたのが「ふぐりおとし」だそうだ。聞いたことがあるだろうか。男性にかぎることと思われるけれども、氏神様に参詣して、人に見つからないように褌(ふんどし)を落してくるのだ。氏神様の境内はその日は褌があちらこちらに点々と落ちているというわけか。これまた異様な光景だ。現在でもこの風習が伝わっているところがあるのだろうか。褌をしている人も少なくなったことだろうし、ブリーフではな~ッ。神社にブリーフの山なんて、想像したくないな。 というわけで節分にまつわる話でした。週末にはいってさすがに仕事疲れがでてきた。今夜はこれでお休みなさい。
Feb 3, 2006
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3日、午前4時。いま仕事をおわった。ココアを飲みながらモーツァルトの交響曲第41番〈ジュピター〉を聴いている。彼の最後の交響曲。演奏はヤープ・テル・リンデン指揮のアムステルダム・モーツァルト・アカデミー。特に名演奏というわけではないが、私の好きな交響曲なのだ。何か不安をかかえて疾走するような開始部の曲想が胸をしめつける。夜の荒野をひとり走っているような気にさせられ、その想いに少年時代のゆえしれぬ不安に苦悩していた思い出が重なる。闇夜の空を見上げれば、凍てついた電線がピーンと張りつめて針のように光っていたものだ。 ここ1週間ほど、こうして就寝前のひとときモーツァルトの曲ばかり聴いてきた。そして仕事をしながら、ふと気がつけばそれらを口ずさんでいる。モーツァルトの曲って、交響曲でも口ずさめるのである。もちろん全楽章ではないが、たとえば第41番だと最初の10小節くらいはいける。ピアノ・ソナタ第11番だとトルコ行進曲の部分ならもしかしたら全部いけるかもしれない。譜面を見ているわけでもないのに、いつのまにか頭に入っているのである。 私は現代音楽も聴くけれど、たとえばクセナキスの作品など一度たりとも口ずさんだことはない。知人であり、私がもっとも尊敬する作曲家・新実徳英氏の曲は、その才能のほとばしりと壮大な世界観にほとほと感服するのだが、専門の音楽教育を受けていない私にはとても口ずさめるようなものではない。『創造神の眼』にしろ『火焔樹』にしろ、『横竪(おうじゅ)』や『風神・雷神』や『アニマ ソニート』にしろ、私が好きな曲はたくさんあるのに、口ずさみたくても口ずさめない。音が重層的でとても複雑なのである。 モーツァルトの曲だって、演奏家にとっては一筋縄ではいかない難しいものなのであろう。しかし一つの音の固まりとして捉えてしまえば、音楽教育のない私でも口ずさめないこともない。私はいま、あらためてそのことに気がついて、これは大変なことにちがいないと思ったのだ。250年間すたれることなく演奏されてきて、いま尚、おそらく一番の人気作曲家なのではあるまいか。この音楽的生命力は、美術館に古典絵画を見に行くのとはちがう。現代の嗜好のなかにそのまま生きているのである。 音楽演奏家は古典音楽をまったく抵抗なく演奏しているように、少なくとも端からはそう思える。「クラシック」と称しているけれども、ポピュラー音楽に対してそのように言っているだけで、むしろ得意や気取りさえ感じる言い方で、古い音楽を演奏することに苦悩しているのではあるまい。 これが美術だとそうは行かない。たとえばレオナルド・ダ・ヴィンチの画風に互すような絵を今の画家が描いても、一般受けはしても、美術界のなかでは相手にされないだろう。印象主義的な作品を描くひとは現代の日本にたくさんいるけれども、これもまた「お絵かき」に過ぎないといっても、さほど間違いではない。つまり、美術においては常に時間が流れていて、過去に足留めされていることは許されないのだ。かならず新しい美意識を発見し、付け加えなければならない。そういう宿命なのだ。そういう点では、じつはレオナルドにしろアングルにしろ、セザンヌにしろ、ピカソにしろ、ダリにしろ、みな生きていて現代画家に呪をかけているのだが、彼等は音楽家のように優しくはない。 モーツァルトよ、貴方は後世の作曲家に呪いをかけるまでもなく、貴方をまねしようと考える作曲家はいず、いまなお軽快に歌っている。私は貴方に一目なりとも会いたかった。貴方を演じたトム・ハルスのように、かん高い、けたたましい声でケタケタと笑っていたのだろうか。
Feb 2, 2006
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今朝がた日記のことに触れ、最後に私の書棚にある日記を紹介した。日本文学史においては平安鎌倉時代の女性による日記文学が重要であることは衆知である。紀貫之が「男もすなる日記(にき)というものを女もしてみんとてすなり」と、あたかも女性が書いたかのように始める『土佐日記』は、高校の古文の授業で初めて読んだ。その後、岩波の日本古典文学大系で読み直した。現在でも比較的手軽に入手できる本だ。日本絵画史を勉強すると、大和絵と称されるものの主題として『土佐日記』に由っているものが出て来るのである。ほかにも拾い読みていどのものをいれると、当時の代表的なもの、すなわち『蜻蛉日記』『紫式部日記』『十六夜日記』などには一応目をとおした。また、論文『夢幻能の劇構造と白山信仰私考』を書いたときに、藤原定家『明月記』や『満済准后日記』を読んでいる。 日本文化のおおきな特徴であるにもかかわらず、あまり話題にのぼることがないのだが、庶民が旅日記などの紀行文をよく書き残している文化はほかの国には意外に少ないようである。日記を書くという伝統があるのであろう。年末近くになると、文房具店や書店の店頭にはさまざまな種類の日記帳がならぶ。ブランドになっているものもある。1年間用ばかりでなく、3年,五年用などもある。もちろん日記をつける習慣は外国にもあるので、輸入文房具店に行けば、これまた美しい装幀のダイアリーがそろっている。ガーデニング用のダイアリーというのもある。 私はこのような市販の日記帳を一度も使ったことがない。ビジネス手帖もほとんど使わない。出版社やその他の会社からもらうことがあり、それで済ませているというよりも、かなり煩雑なスケジュールでもかつて間違ったこともなく記憶してしまうからだ。時にメモ用紙に覚書をすることはあっても、あまりそれらの手帖を1年間きっちりと使いこなしたことがない。根がズボラなのかもしれない。 小学校1年から3年くらいまで、絵日記をつけていた。そのノートブックが何冊も保存してあった。ところが大学生になって両親のいる家に帰ってみると、私の大きな保存箱は空になっていた。邪魔になるからとすっかり捨てられてしまったのである。世間では「趣味一代」といって、生涯をかけ、家財を投げ売って蒐集したような趣味の品々も、その当人が亡くなると、まァほとんどの場合が次世代に受け継がれることはない。私の子供時代の作品がすべて捨てられてしまったとき、私が感じたのはまさにそのようなことだった。自分の物は、親や肉親ほど預けるに不適当な人物はないかもしれないと思ったものだ。 高校・大学時代の日記2,30册はいまだに残っている。これは日記形式にはちがいないが、いわゆるその日の出来事を書いたというのではない。自分の思想がほしくて、そのための観察記録であり自己解剖記録である。 絵を描くようになってから、プツリと日記をやめてしまった。と云うのも、どうも言葉にして消化してしまうと、イメージとして発酵してこないような気がしたからである。現在ならそんなこともないのだが、初心のころは、自分の心のなかから絵をつかみだすさえ覚束なかったのだ。そう思った私は日記で自己表白してしまうことをやめたのであった。 ところで日記文学といわれるけれども、いったいどれくらい読んでいるだろう。 樋口一葉『青春日記』『恋愛日記』、永井荷風『断腸亭日乗』、森鴎外『うた日記』、夏目漱石『日記』、大岡昇平『疎開日記』、三島由紀夫『日記』。 伊丹十三『「お葬式」日記』『「マルサの女」日記』などというのもある。 現代史の重要な証言となっている政府高官の日記も最近では随分刊行されている。明治時代の乃木希典(1849-1912)の日記は、眼光紙背に徹す読み方をすれば、軍神といわれたこの人物の隠された一面が、暗号のような特異な言葉使いで、意外にあからさまに記述されている。 私がおもしろかったのは、幕末遣欧使節に随行した従者の日記。文久元年12月23日(1862年1月22日)から翌年12月10日(1863年1月29日)まで、ちょうど1年をかけて、竹内下野守保徳を正使とする一行はヨーロッパ諸国歴訪の旅をした。一行のなかに明治維新後に活躍する俊英たちがいた。すなわち福沢諭吉、福地源一郎(桜痴)、立広作、松本弘安(寺島宗則)、箕作秋坪などである。 副使であった松平石見守康直の従者に市川渡(清流)という人がいた。この人物が道中日記『尾蝿欧行漫録』を書き残した。これがめっぽう面白い。 見たこともないヨーロッパ文化に直接触れて、その驚きを好奇心いっぱいに書いている。これは日本で云うとさしずめ××のようなものだろうとか、いろいろな物をいちいち尺貫法で長さをしるしている。船内の水洗トイレの仕組みを書いたかと思えば、食堂のことも忘れない。「この会食所からすこし離れた戸外の中央には螺旋階段がある。ここから上甲板にのぼり、下甲板に下るのである。それより4,5間の所に貯水槽を置いている。つぎに幅2間、長さ8間の機関所がある。この上の階に2間の台所がある。つぎに2間四方の蒸溜ガマが1ケ所ある。云々」と、乗船した船の様子さえこのようにえんえんと詳細に記述している。可愛いのは、従者であるから主人が特別な招待にあずかった時にはホテルでじっと待機していなければならない。その間の「行きたいな」「見たいな」のうらやましい気持があふれでているのである。 これがもし上級武士が書いた日記であれば、もっと気取っていたかもしれない。あるいは儀礼的な配慮によって文物の詳細な描写を欠くことになったかもしれない。下級武士なればこそ書けた、そんな思いさえする日記である。ちなみに原題の『尾蠅欧行漫録』の尾蠅とは、馬の尻尾にくっついてうるさく右往左往するという意味。従者としてのへりくだった意識である。現代語に訳されて『幕末欧州見聞録』という書名で新人物往来社から1992年に刊行されている。まだ入手可能かもしれない。興味あるかたは問い合わせてみてください。 日記でなければ知ることができない事柄というのがある。文学者の日記というのは多かれ少なかれどこかで公表を意識している。それはそれで、作品以外の文学的味わいがあってよい。が、まったく公表を意識していないものに重大な事実が秘められていて、人間研究のみならず社会の将来の指針となるものもある。 ちなみにもう20年近く昔の本だが、紀田順一郎著『日記の虚実』(新潮選書)は、日記のなかの真実と嘘を検証し、書き手の心理を分析したユニークな人間論、日記論である。たとえ公表を意識しなくとも、日記の行間には嘘が塗り込められているのだ。いや、エクリチュール(ecriture)そのものの「形式性」ないし「文体」ということに論理的一貫性をもとめるなら、矛盾する存在としての人間性から排除されてゆく言葉は自ずとあるはずなのだ。エクリチュールを言葉の磁力とみるなら、相互に反撥しあう言葉はあるあずで、その反撥のなかにむしろ人間性があるとも言えるのだから。 ブログという形式は、おそらく古来の日本人の日記好きを刺激したところがあるかもしれない。数にしてどれだけのブログ日記が書かれているのか知らないが、誰もが自己表白し、それが見知らぬ者同士を結び付けて、将来の希望を確信するものになってゆくのだとしたら、メディアとしては真に新しいものに違いない。
Feb 1, 2006
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