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いつもより早めにこの日記を書こうとコンピューターに向ったら、途端に卓上の電話が鳴った。小説家の花輪莞爾さんだった。どうやら書斎からで、小説の執筆をしている最中らしい。絵画の一分野に関しての用語をお尋ねである。さいわい即答できる問題だった。しばらく話しをして、「それじゃあ、どうもどうも」と切り上げた。 さて、私はきょうの午後は所用で外出。私はたいがいは目的にむかってそそくさと足早に歩き、用がすむとまたそそくさと帰ってくるタイプだ。たまにぶらぶらと散歩がてら街をうろつくことはあっても、どこかに知らない古本屋がないかと、さして期待もせずに歩いている。 なんにでも好奇心をいだくくせに、60歳のこの年まで一度もやったことがないことがある。たとえばひとりで酒場に行ったことがない。赤提灯の屋台さえ知らない。若いころはウィスキー党で、酒を呑むにもかかわらず、酒場の扉には見向きもしなかったのだ。麻雀や囲碁も知らない。パチンコも知らない。コンピューター・ゲームは触ったこともない。関心がないことはお義理でもやらない。 「何をしているんですか?」と尋ねられることがあるが、そう、何をしているのだろう。 「楽しいのですか?」 それが楽しいんだなー。世の中がおもしろくてたまらん。 「不満はないんですか?」 いやいや不満だらけ。不満だらけだけれど、おもしろい。それに、時間がもったいなくて、退屈なんかしてられない。 というようなぐあいで、良い天気のなかを歩いていたら、ふらふらと引き寄せられるように一軒の古本屋に入ってしまった。これこそ私の悪癖かもしれない。 きょう買った古書。 マルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』 ビゴー『日本素描集』正続2巻 岩男淳一郎『絶版文庫発掘ノート』 杉本苑子『玉川兄弟』 乙川優三郎『五年の梅』 マルクスといえば青木書店が刊行していた『マルクス/エンゲルス全集』がとうとう先年絶版になったと聞いた。青木書店といえばこの全集。これよりほかに体系的にマルクス/エンゲルスを出版しているところはないので、なんともはやという感じだ。学生が読まなくなったからだそうだが、たしかに時代遅れの思想といえば言えないこともないけれど、教養としては大きな欠落のような気がするが如何なものか。 『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』はフランスの1848年革命が共和国大統領ルイ・ボナパルトがおこなった1851年12月2日のクーデタで崩壊するまでを分析的に描き、クーデタ直後の1852年に刊行したもの。 ブリュメールというのは1793年10月に制定された革命暦(共和暦)の霧月のことで、太陽暦11月にあたる。革命暦は9月を1年の始まりとする。12ヵ月はフリュクチドール(実月)・ヴァンデミエール(葡萄月)・ブリュメール(霧月)・フリメール(霜月)・ニヴォーズ(雪月)・プリュヴィオーズ(雨月)・ヴァントーズ(風月)・ジェルミナール(芽月)・フロレアール(花月)・プレリアール(牧月)・メシドール(収穫月)・テルミドール(熱月)と呼ばれた。この暦はナポレオンが太陽暦を採用することで廃された。 ビゴ-の日本素描集は岩波文庫で新しい装丁のものが刊行中であるが、購入したのは旧版。 『玉川兄弟』は、東京都民にとってはお馴染みの、玉川上水を開鑿した庄右衛門・清右衛門兄弟の物語。著者の「あとがき」にこんな一節がある。 「玉川兄弟はのち、万治元年にいたって二百石扶持を辞退し、水道使用料の徴集権を望んで許可されました。当時の水道料金が、現今と同じく、やはり大名旗本邸のような大口需要者に安く、小口消費者である一般民衆に割り高についているのは、算出方法に対する日本の公共事業の、姿勢の根本を示していて興味ふかいと思います。」------------------------------------------ 昨日のつづき。 日本の色 (2) (31)黄(き) 原料によって5種の黄がある。[一]イネ科の野草、刈安(こぶなぐさ、かいなぐさ)の葉と茎を煎じた汁で染めた色。深黄(こきき)と浅黄(うすき)の2種ある。渋みのある黄色。[二]ミカン科の黄蘗(きはだ)の樹皮を煮詰めた汁で染めた色。やや青みをおびた黄色。[三]タデ科の大黄(たいおう)の根を砕いて煎じた汁で染めた色。媒染に灰汁と鉄と2種あり、鉄媒染は鶸(ひわ)色の緑がかった美しい黄色になる。[四]梔子(くちなし)の果実を刻んで煎じた汁で染めた色。やや赤味をおびた黄色。[五]ショウガ科の欝金(うこん)で染めた色。いわゆる欝金色。 (32)桔梗(ききょう) 藍紫色。ただし色調はあまり一定していないようである。 (33)麹塵(きくじん) 前記の青白椽(あおしろつるばみ)と同じ。 (34)黄蘗(きはだ) 前記、黄の[二]。 (35)支子(くちなし) 前記、黄の[四]。『延喜式』には黄支子とある。 (36)朽葉(くちば) 黄色をおびた褐色。 (37)皀(くり) 黒色がやや淡く茶味をふくんだ色。江戸時代には憲法色といった。『日本書紀』に皀衣と出てくるが、それ以前の文献資料にはない色。ただし当時は黒を指していたらしい。 (38)紅(くれない) 紅花で染めた黄味がかった赤色。 (39)黒(くろ) 黒色であるが、紅または藍で下染めしてビンロウ樹を煎じた汁と鉄をかけてできる色。 (40)黒椽(くろつるばみ) 紺黒色。『衣服令』に椽(つるばみ)とあるのはこの色。『万葉集』にも「椽の衣」と出てくる。 (41)桑(くわ) 褐黄色。『衣服令』に見るが、『延喜式』以後は衣服の色として用いなかった。江戸時代になると復活したのか文献にはしばしば出てくる色である。桑の根と灰汁で染めた。 (42)群青(ぐんじょう) 藍銅鉱から採取した赤味の少ない淡い藍色。
Mar 31, 2006
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昨日の日記に対して常連客のlimeさんからコメントを頂戴した。そのなかに和の色名ということがあった。各国それぞれの文化に、色に対する固有のといってもよい感性が見受けられる。しかし油絵の具に関しては、近代以降、だいたい国際的に共通の色名が使われていて、違いといえばメーカーが造り出した製品名としての色名である。 ところが日本にはまったく独自な色の文化があり、とても豊かな色の和名が古代から伝わっている。それらの色名は絵画において発達したというより衣服の染色から発達したといってよい。ある色調などは法律で定められている。 こんな豊かな色文化を有していた日本であるが、私の観察によると、どうもカラーテレビの普及後、そのなかにどっぷり浸って育った子供たちは色感が狭くなっていると思えるのだ。色の微妙な差違に対して感覚が鈍っているのではあるまいか。もちろんこれは一般論である。私は昔、子供たちにアトリエを開放していたときに気が付いたのだけれど、24色の絵の具セットを持っていても、使うのは決まりきっているのだった。また、いわゆる曖昧な色を好まない、めりはりのはっきりした色使いをすることにも気付いた。 いや、これは子供たちばかりでもないかもしれない。日本文化のなかの豊かな色とはいっても、どれだけの色名が現在も使われているだろう。廃れてしまった色名は非常に多い。職業として毎日色を扱っている私自身、和の色名を知らない。印刷インクのかなり大部の見本帳に「和の色」というのがあって、それを身辺においているにもかかわらず、色調だけを見て、名前を見ていないのである。なにをかいわんやである。 そこで今日は自分の勉強のやり直しというわけで、日本の色を調べてみることにする。 (1)青 濃い萌黄のこと。 (2)青白椽(あおしろつるばみ) 『延喜式』に出て来る色。青緑がかった灰色。後の麹塵(きくじん)あるいは山鳩色と同じ。 (3)青鈍(あおにび) 青みの多い黒椽色よりさらに青みが強い色。 (4)赤 紅梅よりやや赤い色。 (5)赤白椽(あかしろつるばみ) 黄褐色に緋色を加えて赤味と灰色味をもたせて淡くした色。 (6)赤蘇芳(あかすおう) 蘇芳の明礬媒染で出てくる赤。法隆寺裂(ほうりゅうじぎれ)や天平裂(てんぴょうぎれ)にこの色がある。 (7)茜(あかね) 茜の根から抽出した赤黄色。 (8)緋(あけ) 黄味のない赤色。媒染に灰汁を使い、染めの度合いで深緋(こきあけ)、浅緋(うすあけ)、緋(ひ)、クン(糸ヘンに熏)とある。 (9)浅黄(あさぎ) 水色。『万葉集』では水縹(みずはなだ)、『延喜式』では浅縹(あさはなだ)と出てくるが、同じ色である。 (10)小豆(あずき) 赤小豆を煮たときの色。染色的には蘇芳染めと茶色染めをあわせてつくる。 (11)桃花染(あらぞめ) 紅の薄い色。桃花色(ときいろ)とも退紅色ともいう。 (12)鶯(うぐいす) 鶯の羽の色。鶸萌黄(ひわもえぎ)の淡色。 (13)欝金(うこん) 黄色。藤黄より赤味がすくない。 (14)薄色(うすいろ) 薄紫よりも、やや薄い紫。 (15)薄紅(うすくれない) 薄い紅色。 (16)薄縹(うすはなだ) 縹(はなだ、藍色)の薄い色。浅葱(あさぎ)といわれる色に近い。 (17)薄紫(うすむらさき) 紫のいくらか薄い色。 (18)薄萌黄(うすもえぎ) 薄い緑色。 (19)空五倍子色(うつぶしいろ) 空柴色とも書く。薄墨色あるいは鈍色(にびいろ)。 (20)葡萄(えび) 赤紫。 (21)葡萄茶(えびちゃ) 赤紫に茶色味をあわせた色。 (22)黄丹(おうだん、おうに) 紅緋よりさらに黄味がかっている色。有職故実によると、白のつぎに尊い色とされ、皇太子の衣服の色とされた。 (23)黄土(おうど) 渋い黄褐色。埴生色ともいう。 (24)柿(かき) いわゆる熟柿色。黄赤。 (25)カーキー 黄褐色。ヒンズー語の土の意。日本の旧陸軍が軍服に用いた色である。 (26)萱草(かぞう) 黄味の濃い蜜柑色。凶服の色である。 (27)褐色(かちいろ、かちんいろ) 藍の濃い、黒にちかい色。 (28)蒲(かば) 褐色。蒲の穂の色。 (29)韓紅花(からくれない) 唐紅とも書く。紅染めの濃い色。深紅(こきくれない)と同色。 (30)刈安(かりやす) 浅黄色のこと。欝金より赤味が少ない色。 まだまだあるが、退屈だろうからこのへんにしておく。 現在も使われている名前もあるが、すでにまったく忘れ去られてしまった色名もある。こうしてみると、これがたいてい染め物から来ているのだから、平安時代以降の日本の染色技術がいかに優れていて、また複雑な色合を享受していたかがしのばれる。もっとも、その多くは支配階級に独占されていたのであって、現代のように社会全体がファッショナブルだったと考えることはできない。 それはともかく、こうした色がさらにどのように配色されるかによって「重色目」(かさねいろめ)という、これまた日本特有の衣服と色調の文化を生んでいる。 たとえば男性には「柳重」(やなぎかさね)というのがある。冬から春にかけてのもので、表地が白、裏地が青のものを称した。「移菊」(うつろいぎく)というのは男女ともに晩秋に着た。表地が薄紫、裏地が青である。 こんな配色を現代に復活させてみては如何であろう。海外ブランドに血道をあげているより、よほどクリエイティヴではないかしら。
Mar 30, 2006
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私が画家だからというわけではない、と自分では思っているのだが、小説や映画のタイトルに色名が使われているとひどく気になる。内容がどうのこうのと言うのではない。ただ気になるのだ。 たくさん記憶してはいないけれど、たとえば推理小説に限ってみようか。 ガストン・ルルー『黄色い部屋の謎』 イーデン・フィルポッツ『灰色の部屋』 A・A・ミルン『赤い館の秘密』 カーター・ディクスン『白い僧院の殺人』 鮎川哲也『白い密室』 鮎川哲也『赤い密室』 マージェリー・アリンガム『白屋敷の謎』(邦訳無し;ペンギンブックス) お気付きかと思うが、ちょっとマニアックに「彩色された館」だけを列記してみた。もしそうでなければ、 渡辺啓助『白い拷問』 太田蘭三『白の処刑』 松本清張『黒い空』 松本清張『黒革の手帖』 楠田匡酢介『朱色(バーミリオン)』 高橋克彦『緋い記憶』 有栖川有栖『朱色の研究』 ディクスン・カー『緑のカプセルの謎』 カーターディクスン『赤後家の殺人』 アガサ・クリスティ『茶色の服を着た男』 アガサ・クリスティ『青列車の謎』 等々、色々思い浮かぶ。 「彩色された館」の部類にはいり、タイトルにはなっていないけれど有名なものにディクスン・カー『三つの棺』がある。こんなふうに描写されている。[----アーチ形の入口をくぐり抜け、建物の奥行きよりも、幅の方が大きい、広いホールに入った。樫の羽目板が天井まで張ってあり、階段の向いに当る、この長方形の長いほうの側に、カーテンを引いたままの三つの窓がある。厚い黒の絨緞が敷きつめてあるために、足音はまったく消されてしまう。] 何気なく読み過してしまいそうな館の内部の描写なのだが、じつは黒い絨緞が敷きつめてあるというのがミソで、ここにトリックが仕掛けられているのだ。 つまり小説のタイトルはその内容を適確に語っているので、そこに色名が入っているということは、作者の主張や、作中人物の感情や心理、推理小説だといま述べたようにトリックの在り処を暗示している。 推理小説を列記したので、次に映画を思い出してみよう。これもミステリーとホラーに限ってみる。 マルセル・レルビエ監督『黄色い部屋』(制作年不明) デルマー・デイヴィス監督『赤い家』(1948年日本公開、以下同) アルフレッド・ヒッチコック監督『白い恐怖』(1951) ジョージ・マーシャル監督『赤い戦慄』(1956) オーソン・ウェルズ監督『黒い罠』(1958) ゲルト・オズワルド監督『赤い崖』(1960) マイケル・ゴードン監督『黒い肖像』(1960) ブレーク・エドワーズ監督『ピンクの豹』(1964) フランソワ・トリュフォー監督『黒衣の花嫁』(1967) ドン・シーゲル監督『白い肌の異常な夜』(1971) ゴードン・バークス監督『黒いジャガー』(1972) ゴードン・バークス監督『黒いジャガー;シャフト旋風』(1972) ニコラス・ジェスネール監督『白い家の少女』(1977) ローレンス・カスダン監督『白いドレスの女』(1982) ニコラス・ローザ監督『赤い影』(1983) リチャード・マーカス監督『白と黒のナイフ』(1986) まあ、このぐらいにしておこう。洋画だけだが、ちょうど20年前の作品まで並べてみた。 このなかで私のもっとも好きな作品は、『白い恐怖』『黒衣の花嫁』『白い肌の異常な夜』『白いドレスの女』『白と黒のナイフ』。 クリント・イーストウッドが主演した『白い肌の異常な夜』はもう一度観たい1本。『白と黒のナイフ』はこのブログの別館「山田維史の画像倉庫」で連載している「映画の中の絵画」でとりあげた。 そうそう先日、古書店の特別セールで購入したDVD、ジョナサン・デミ監督、デンゼル・ワシントン主演『青いドレスの女』も「色名」ものだ。デンゼル・ワシントンとしてはちょっと変った役どころで、初めから終りまで痛めつけられていた。 というわけで、今日は色にこだわってアンソロジーを編んでみました。いかがでしたでしょうか。
Mar 29, 2006
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昨日ご紹介した尾崎俊介著『紙表紙の誘惑』には表紙絵についての言及もあり、たとえばロバート・ジョナスやジェイムズ・アヴァティについては比較的詳しくのべられている。尾崎氏はアヴァティがNAL社シグネット版のマイロン・S・コーフマン著『神様によろしく』に描いた表紙原画を愛蔵しているそうで、アヴァティに対する思い入れも伝わってくる。私にとってはやはりNAL社におけるミルトン・グレイザーの名前は懐かしかった。というのは、1980年代の私の仕事が国際的に高く評価され、画集形式の国際年鑑5册にミルトン・グレイザーと一緒にリプリントされているからである。私はデビューしてまだ10年そこそこの頃であったから、すでに歴史的評価がでていたグレイザーや、マーク・イングリッシュや、フレッド・オットネスや、バーナード・フックスや、ボブ・ピークや、ロバート・ギュスティや、ブラッド・ホランド等々、名前を挙げたらきりがないほど、錚々たるアーティストと同じ画集に掲載される喜びは大きかった。ミルトン・グレイザーの都会的なハイセンスに感心しながら、なんとかそれを学んで別のかたちにしたいと思ったりもした。 ところで尾崎氏は偶然の機会からアヴァティの原画オークションに参加できることとなり、幸運にも上記の作品を入手したという。 ニューヨークのソーホーにアメリカ人イラストレーターの雑誌挿画や表紙絵の原画を専門にあつかっている画廊がある。日本にはこのような画廊はない。私の手許に今ある資料は15年前のものしか残っていないが、いったい幾らくらいの相場か、御参考までに示してみよう。 エドウィン・オースティン・アビー(1852-1911)、“Much Ado About Nothing”(何の苦もなく)のための油彩画。125,000ドル。15年前の1ドル/150円のレートで18,750,000円だ!。 フランクリン・ブース(1874-1948)、“Harper's”誌に掲載のJ・オッペンハイムの小説‘The New Generation’(新しき世代)のためのペンとインクによる挿し絵。大きさ約38cm×24cm。3,500ドル。525,000円。 フランク・E・スクーノヴァー(1877-1972)、“Harper's”誌のための挿画、大きさ10cm×20cm、ペンとインク。1,800ドル。270,000円。 ハービー・ダン(1884-1952)、“Saturday Evening Post”のピーター・B・キーンの小説「地の塩」挿画、油彩、40cm×98cm。9,200ドル。1,380,000円。 フィリップ・R・グッドウィン(1882-1933)、「燃える足跡」という小説のための挿し絵、油彩、71cm×48cm。14,000ドル。2,100,000円。 ウォルト・ラウダーバック(1887-1941)、小説「燃えるガレオン船」の挿画、油彩、87cm×51cm。9,500ドル。1,425,000円。この作品は、ニューヨーク・イラストレーターズ協会主催の展覧会「イラストレーションの1世紀」に展示された。 みななかなかの高額で、エドウィン・アビーが18,750,000円というのには驚くが、比較的入手しやすい価格の作品もないわけではない。たとえば、 ヘンリー・ローリー(1880-1944)のインクと水彩の作品、大きさは29cm×22cmで450ドル、67,500円だ。あるいはサタデー・イブニング・ポスト紙の小説挿画、鉛筆に赤と黒の水彩、33cm×50cmが400ドル。60,000円。 こうして見てくると、いわゆるファインアートと一線を画すイラストレーションではあるが、アメリカ文化のなかで根強い人気のコレクター・アイテムとなっていることが分る。いやいやそればかりではない。挿し絵というと通俗的で一段低く見るひとたちがいるけれど、それは世界を知らずに暮している人達であって、たとえばアメリカ人イラストレーター、セイモワ・クワストは、現代のグラフィックアートのリーダーとして、ルーブル美術館が特別展覧会を開催して讃えるほどなのである。 イラストレーションというのは商業美術であるから常に時代を切り開き、最先端を走らなければならい宿命なのだ。それゆえ流行り廃れの波にのみこまれて消えてゆく運命もまたある。しかし私たちはいつのまにか知らないうちに、巷に氾濫するそうしたイラストレーションによって自分のものだと思っているイメージを操作され作り上げられていないとも限らない。アート系の専門学校等でマンガを描いている生徒たちの絵をご覧になれば一目瞭然、1000人いれば1000人がまるで区別がつかないような画風である。これがたとえ1万人になったところでたいした変りはしないだろう。気が付いていないのだろうが、それがエスタブリッシュした先人の絵の力なのだ。通俗(ポピュラリティー)というのはそういうことだ。ゆめゆめイラストレーションをみくびってはなるまい。アッハッハ!
Mar 28, 2006
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私が小学校に入学する以前のこと、4歳から6歳くらいまでだったから昭和24,5年前後、日本にはまだアメリカ軍が戦後処理のために駐留していた。私たちは進駐軍と言った。当時、私たち一家は北海道の羽幌町に住んでいた。小さな片田舎の町だったけれど近くに炭坑があったためであろうか、ときどき進駐軍列車がやってきてアメリカ兵が降り立つことがあった。私たち子供は物珍しさで駅に見物に行ったものだ。するとアメリカ兵は陽気な顔をして私たちに小さな薄い冊子をくれた。小型の手帖よりもっと小さく、赤い紙表紙がついていた。私は何冊も持っていた。何が書いてあるかもわからないまま、居間の茶箪笥の抽出に宝物のようにしまいこんでいた。それらは時の流れとともにいつのまにか失われてしまったのだが、後年、両親にあの冊子には何が書いてあったのかを尋ねたところ、そんな本は記憶にないというのだ。これにはビックリしてしまった。それ以後、私は狐につままれたように、私ひとりの記憶にしかない幻の本について思うことがあった。 このことを以前このブログ日記に書いたところ、愛知教育大学でアメリカ文学を講じておられる尾崎俊介教授からメッセージを頂戴した。私の記憶にある小型本は、第2次世界大戦中に海外派兵されていたアメリカ兵に無料で配布されていた「アームド・サーヴィス・エディション」、通称ASEという軍用文庫ではないかというのである。その御教示はかならずしも私の記憶とピタリと一致するものではないが、ひとつの重要な手がかりには違いなかった。 そしてまた、一層興味深かったのは、尾崎教授がその研究者だということだった。「ヘーッ、こういうephemeral(短命な)本を学術的にとらえようとしている人がいるのか」というのが私の率直な感想であり、驚きであった。 しばらくして尾崎俊介教授から一冊の著書がプレゼントされた。それが今日ご紹介する『紙表紙の誘惑;アメリカン・ペーパーバック・ラビリンス』(2002年、研究社刊)である。 書名が示すように、アメリカのペーパーバック出版をめぐる諸事情を歴史的、社会学的、そしてもちろん出版文化史的に考察している。とりあえず最初に目次をご覧いただこう。どのような構成で、どんなニュアンスかということがお分かりになろう。 序章「オコナーの扉」 第1章「アメリカン・ペーパーバック事始め」 第2章「[チープ・ライブラリー]と[小さな、青い本]」 第3章「新書判ペーパー・バックの確立」 第4章「ペンギンブックスの登場」 第5章「ロバート・ド・グラフの野望」 第6章「ライヴァルたちの饗宴」 第7章「戦場のペーパーバック」 第8章「ペンギンブックス大分裂」 第9章「横溢の修羅場」 第10章「1952年の分水嶺」 第11章「オコナーの扉、ふたたび」 第12章「そして魔界は続く」 あとがき 参考文献 索引。 あえて目次を書き連ねたのは、いわゆる学術論文の硬さよりむしろエッセーや読み物のニュアンスをもっていることを知ってもらいたいからだ。こういっても、著者を貶めることにはなるまい。むしろ私の賛辞である。私も読書家を自認し、そのうえ出版にいささかなりとも関わっているので、出版文化史に関する書物を数多く読んでいる。しかしこの『紙表紙の誘惑』のように研究対象と文体のうまい結婚をあまり知らない。筆が滑りすぎてヘタをすれば内容に深みが欠けかねないのを、巧みに節制して、探るべきこと言うべきことはきっちり押さえているのだから見事である。 内容を見て行こう。 著者尾崎氏がこの研究をはじめたきっかけはフラナリー・オコナー(1925-1964)の『賢い血』のペーパバックのイラストレーションを見たときの違和感からだという。カトリック信仰を精神的支柱として「真の信仰とはいかなるものか」を問いつづけたと理解されるべきオコナーの代表作が、なぜ通俗的な絵柄のカバーをつけて刊行されなければならなかったのか。尾崎氏の個人的な感性がとらえた疑問であるが、この感性こそ研究者のものである。すべからく研究のはじまりは日常の何気なさを装ったベールを捲ってみるこにある。 こうして著者はペパーバックの蒐集を始めるとともにその出版史の迷路にはいってゆく。それはここでくどくど述べるよりも是非読んでいただくとして、ちょっと私の仕事とのかかわりで「あっ、そうだったのか」と気づかされたことをついでに述べておこう。 遊卵画廊のカバー展示室にも載せてある東京創元社版ディクスン・カーに『死時計』という一冊がある。じつはこの裏表紙には小説の舞台となっているロンドンの市街地図が描かれている。もちろん私が描いたのだが、それを指示したのは同社の現・会長である戸川安宣氏だった。推理小説らしくてなかなかいいアイデアだと思ったものだ。いやすでにそういうアイデアはあって、私自身も見ていたのであったが、そのルーツを尾崎氏によってはっきり教えられたのだ。すなわちアメリカン・ペーパーバックの「デルブックス」がそれであると。尾崎氏は次のように書いている。 ‘初期デルブックスのもう一つの面白い工夫はその裏表紙にあった。1951年頃までのデルブックスの裏表紙には、当該の小説の舞台となる土地や建物の俯瞰図が掲載されていて、特にその本が推理小説である場合など、このデル・オリジナルの俯瞰図がなかなか役に立ったのである。(略)マニアの間では「マップバック」などと称され、マップバックだけを専門に集めているコレクターも少なくない。’(p116) ことほど左様に私自身の仕事と密接なかかわりのある分野だけに、一読置くあたわずというところなのだが、しかし本書でもっとも目新しい記述となれば、冒頭に述べたアメリカ「軍用文庫」の一節であろう。著者によれば、アメリカ人でさえ戦後の人であればこの文庫を見たことがない人も少なくないらしい。というのは帰還兵がこの本を国内に持ち帰ることが許されなかったからだという。なるほど、そうだとすれば日本にいた進駐軍兵士がそれらを気前よく子供たちにくれたことも頷ける。やはり私がもらったものもその「軍用文庫」であったのだろうか。 もうひとつ本書のすぐれている点をあげておく。それは190点におよぶ参考文献を丁寧にあげていることと索引をつけていることである。この種の研究書は索引がとても大切なのだ。ときには面倒くさがって省いてしまう編集者や出版社があるけれど、それは画龍点睛を欠くにひとしい。参考文献と索引があって初めて「研究書」の体裁がとれるのだから、これは尾崎教授の見識である。
Mar 27, 2006
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きょうの主な予定は庭の手入れ。蔓薔薇の花期前の土壌改良と施肥が中心の作業。まず根を切らないように慎重に土を堀返す。でてきたミミズは大切に除けておく。生れたばかりのような1cmほどの子供も母親のそばでくねくねとひっくり返っている。ミミズは土を柔らかく黒グロとつくってくれる。「ありがと、ありがと」と私はつぶやきながら、苦度石灰を1平方メートルあたり150g程度撒き、化学肥料も一株に50gほど入れた。 アーモンドの蕾が、まだ固いとはいえ白い花弁をしっかり巻き込んで、開花の準備をしている。 富貴草が細く短い毛玉のような白い花を咲かせている。これは花輪莞爾邸の庭から3年前にやってきた。夫妻が私の80年代の代表作である『夢の諸相』と『宇宙母』を購入してくださり、それをお届けがてら遊びに伺った。帰りしな夫妻の見送りを受けて玄関先を歩いていると、見慣れない植物がある。「これ、何でしょう」と尋ねると、奥さんが、「富貴草というの。おもちになる?」「移植してつきますか?」「だいじょうぶ、つくわよ。どんどん増えると思うわ」「ついでに、これは宇津木ですね、これもいただいていいですか?」「いいわよ、いいわよ。ちょっと待ってらして。用意してさしあげますわ」 と、こうして我家にやってきたのだが、その頃はまだ元気だった父が植え付けをしたのであった。 庭をすこしデザインしたいのだが、思うばかりでなかなか時間がとれない。先日、園芸店でエニシダを見てちょいと気にいった。それをどうにかしたいのだが、そうするためには今の雑草園さながらの状態をどうにかしなければなるまい。雑草が好きで、自然に生えるにまかせてきた。そればかりか自分で道端のタンポポの種子を採ってきてばらまいたりしているのだから、いまさらデザインなんて何をかいわんやなのだが---- 庭いじりが終わってから、家人たちの昼食にスパゲッティー・ペペロンチーノをつくってやる。大好評。私も満足。 母が「きょうはDVDを買いにいかないの?」という。昨日、セールで安く買ってきたことと、2日間の特売だと話したからだ。 「出かけるならついでに私の用も足してきて」 それならこれから行ってみようと、例の古書店に出かけた。そして映画のDVDを4本購入。 (1) ロジャー・コーマン監督『恐怖のロンドン塔』(1962年)、ヴィンセント・プライス主演。ロジャー・コーマンはホラー映画の歴史的傑作『恐怖の振子』(1961年)の監督。やはりヴィンセント・プライスが主演していた。『恐怖の振子』は日本でも1961年に公開されている。『恐怖のロンドン塔』 Tower of Rondonは、かつて1939年にローランド・リード監督、ボリス・カーロフ主演で、歴史的傑作といわれるものが作られている。はたしてこのロジャー・コーマンの作品はどうであろう。観るのが楽しみだ。 (2) ジョナサン・デミ監督『青いドレスの女』(1995年)、デンゼル・ワシントン主演。この作品を私はこれまでまったく観ていない。ジョナサン・デミは『羊たちの沈黙』の監督。この作品は私の気に入りの1本であるし、主演のデンゼル・ワシントンも好きな俳優だ。これも楽しみ。 (3) サム・メンデス監督『ロード・トゥ・パーディション』(2002年)。主演がトム・ハンクスとポール・ニューマン。ギャング映画だが、この二人が共演するとなれば何か見せてくれるだろう。パッケージのトム・ハンクスのキャラクター写真が、頬から顎下にかけて肉がついて太りぎみだ。これで役作りの意気込みが分る。この俳優は『フィラデルフィア』ではエイズに冒されてゲッソリ痩せ衰えたところを見せた。思い返せば作品によって面差しが違っていることに気がつく。ちょっとデ・ニーロの役づくりを思い出させる。こういうふうに体質改変から役にはいってゆく俳優が、私は決して嫌いじゃない。 (4) エドワード・ズウィック監督『ラスト サムライ』(2003年)、トム・クルーズ主演。これもまだ観ていなかった映画。 売場であれこれ選んでいると、隣では左手にショッピング・バスケット、右手に携帯電話を耳にあてて、何処かの誰かと連絡をとりながらDVDをさがしている男性。聞くともなく耳にはいる話は、どうやら電話の向こうではDVDのリストを見ているらしく、購入すべきものを指示しているのだ。 「○○はどうする? 1万円だけど、2割引きだから8000円だぞ。やめる? じゃあ○○は? 廉価版とそうじゃないのとある。高いほうにする? ----やっぱり昨日のほうが種類があったな。売れちゃったんだよ」 私は、「なるほどなー」と感心した。リストでチェックしながら買えば、同じものを二重に買うこともないだろうし、特売で数点まとめて買うとなれば予算の範囲でどれを選択するかを迷わずにすむだろう。私もリストを作成しよう。 こと映画に関しては、私は映画館派である。DVDは記憶の確認や、一時停止して画面の細部を見るときに使用してきた。いや、最近では映画館に足をはこぶ時間がとれないので、どうしてもDVDを頼ることが多くなってきたことは事実。昔あつめたヴィデオが300本くらいあり、専用のロッカーに隙間なくつめこんである。そしてこのブログに向う前に、さっそくDVDの所蔵リストを作成しようとタイトルをメモしはじめた。200本メモして飽きてしまった。一体何本あるのかとせめて数だけでもと数えてみると、全部で501本あった。たぶん300本くらいは持っているだろうとは思ったが、500本とは! いやはや私には「物欲」はあまりないと思っていたが、これでは間寛平さんじゃないが「誰がじゃー、どこがじゃー」と言いたくなる。いまに本とDVDやヴィデオや、自作の山に埋もれて寝る場所もなくなるにちがいない。われながら呆れたもんだ。やっぱり映画館派を押し通そうかな。
Mar 26, 2006
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散歩がてら猫の缶詰を買いに出た。近くに大型古書店があるのでぶらりと入ると、なんだか普段より混雑して中・高校生とおぼしき客も多い。春休みのさなかの土曜日、少年達はこんなところに来るのかと感心するやら淋しくなるやら。 何を探すという目的があるわけでないから、これはと思うものをとりあえず次々に5册取出す。それからDVDのコーナーに行く。古書店にDVDやヴィデオが置いてあることは知っていたが、いままで買ったことはなかった。映画にしか興味がないので、その品揃えの薄さが素通りする原因だったかもしれない。また、私は購入した古書は、可能なかぎりアルコール消毒するのだが----もちろんそんなことが出来るのは価格が比較的安価なものだ----、DVDを消毒するわけにはゆくまい。それはともかく、きょうは丁寧にタイトルを見て行くと、まだ見ていない昔昔の案外おもしろい映画がまじっていた。価格も安い。嬉しくなって4点選びだした。 〈本〉 河鰭実英『有職故実』(塙書房) 中尾真理『英国式庭園---自然は直線を好まない』(講談社) 大江健三郎『鎖国してはならない』(講談社) 永井路子『つわものの賦』(文藝春秋) 永井路子『北条政子』(講談社) 〈DVD〉 『ベンガルの槍騎兵』(1935年)ヘンリー・ハサウェイ監督、ゲーリー・クーパー主演。 『壮烈第七騎兵隊』(1941年)ラオール・ウォルシュ監督、エロール・フリン、オリヴィア・デ・ハヴィランド、アンソニー・クイン、アーサー・ケネディ出演。カスター将軍のインデアン討伐物語。 『毒薬と老嬢』(1944年)フランク・キャプラ監督、ケイリー・グラント、プリシラ・レイン、ジョセフィン・ハル、ジーン・アディア出演。この作品はすでに見ているが、手許に所蔵したい1作。二人の老嬢を演じたジョセフィン・ハルとジーン・アディアが可愛らしくてじつに良い。私がカバー絵を描いた文春文庫『大アンケートによるミステリー/サスペンス洋画ベスト150』では、堂々の第19位にはいっている。 『モガンボ』(1957年)ジョン・フォード監督、クラーク・ゲブル、エヴァ・ガードナー、グレイス・ケリー出演。 以上をレジに持って行く。 「1260円です」と店員が言う。 「エッ? 計算間違いでない? 全部で9点ありますよ」 「きょうは特別セールです。この9点で合計1260円です」 「あっそう」 「今日と明日、2日間だけです。すべての商品のセールですから明日もおいでください」 てなわけで、なんと今日の買い物は1260円也。どうりで普段より客が多いわけだ。明日は庭いじりをする予定だけれど、またこの古書店にいっちゃおうかな。
Mar 25, 2006
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母が見たいと願っていた映画『怒りの葡萄』のDVDがインターネット・ショップから届き、さっそく家族そろって鑑賞におよんだ。私は昔見ている映画なのだが、いっしょに観ることにした。 原作ジョン・スタインベック、製作ダリル・F・ザナック、監督ジョン・フォード(アカデミー監督賞受賞)、脚本ナナリー・ジョンスン、撮影グレッグ・トーランド。出演はヘンリーフォンダ、ジョン・キャラダイン、ジェーン・ダーウェル(アカデミー助演女優賞受賞)。 [あらすじ] オクラホマは毎年物凄い砂嵐にみまわれ凶作がつづき、貧しい小作人たちは食うや食わずの苦境にあえいでいた。殺人容疑で入獄していたトム・ジョードが4年ぶりに帰ってきた家には家族の姿はなかった。一家は新しい土地と仕事をもとめて故郷を立ち去ったのだ。トムはやがて家族に再会するが、一家はさらに2000マイル彼方のカリフォルニアめざしてオンボロ自動車に家財道具を山と積んで苦難の旅をつづける。 途中であいついで祖父母を亡くし、やっとありついた仕事も、浮浪者たちの襲撃のうわさに怯えて捨てた。次にありついた桃摘みの仕事に一家は安堵するが、農場にたちこめる異様な雰囲気にトムは気付く。農場主の詐欺まがいの搾取が横行していて、労働者たちの怒りが爆発、ストライキがおこなわれていたのだ。 トムは小作人たちのストライキということを初めて聞き、それを指導するケリーという男の「このまま言いなりになっていては飢え死にしてしまう。みんなで団結して現状を変えていかなければならない」という言葉に胸をうたれた。 しかしケリーは農場主に雇われた用心棒たちに襲撃され撲殺されてしまう。その場にいたトムも顔を殴られ、思わず相手を殴り殺してしまった。 追われる身となったトムは、ふたたび一家をつれて農場を立ち去る。 次にたどりついたのは日雇い労働者の自治にまかされている国営農場だった。衛生的で、明るく、開放的なそのキャンプにトムは目をみはる。しかしそれを心よく思わぬ周辺の農場主はアカ狩りと称して陰謀をめぐらせ、この農民自治組織を解体しようと機会をねらっていた。ある日、保安係が車の登録ナンバーを調べているのを見たトムは、自分が捜索されていると勘違いし、かばおうとする母に別れを告げて闇のなかへ逃走してゆく。 頼みの杖だった息子に去られ、しかし母親はなおも一家をひきいて強く生きなければならないと思うのだった。 この映画は出演俳優の顔がみなすばらしく、グレッド・トーランドの白黒の撮影もみごとだ。それぞれのカットの構図が引き締まっていて、貧しい「移動農業労働者(オーキー)」たちのボロ衣装、ボロ家財道具、なにをとっても惨めでないものはないのだが、深く美しい画面である。編集のテンポもいい。トムが母に別れを告げる場面は、ヘンリー・フォンダとジェーン・ダーウェルのそれぞれの眼にアイ・スポットライトを入れて撮影しているのか、眼にやどる光がふたりの真摯な心情をきわだたせる。フォンダの眼がすばらしい。ジェーン・ダーウェルの母親も繊細なリアリズム演技が冴えに冴えて、アカデミー助演女優賞受賞も当然と思えた。 ところで原作者スタインベック(1902-1968)は、1929年『黄金の杯』で小説家としてデビューしたがあまり注目されず、32年の短編集『天の牧場』で社会派の旗手と目されるようになった。アメリカ国内は1930年代に大不況にみまわれ、スタインベックはそういう社会的状況のなかで貧しく虐げられている者たちを書いたのだった。1937年『二十日鼠と人間』を経て、1939年に発表した『怒りの葡萄』はピューリツァー賞ならびに全米図書賞を受賞。翌1940年に映画化された。 ハワード・タイクマンが200時間におよぶインタビューをして書いた伝記『ヘンリー・フォンダ』によれば、スタインベックはヘンリー・フォンダの人生に影響を与えた重要な人物だという。フォンダは名前を忘れた誰かからこの作家の短編集『長い谷間』を贈られ、一読してすっかり魅了された。そして即座に本屋に車を走らせ、3册の本を購入。さらにベヴァリー・ヒルズとウェストウッドのすべての本屋をまわってスタインベックの著作本を集めた。その噂をききつけた彼のエイジェントが、ジョン・フォード監督が『怒りの葡萄』を撮る準備をしていて、トム・ジョードの役にヘンリー・フォンダを望んでいると電話をしてきた。「それはすごい!」とフォンダは言った。 しかしプロデューサーのザナックは辣腕で知られていた。フリーの俳優だったフォンダをこの役と引き換えに7年間拘束する条件をつきつけ、フォンダはそれを呑まざるをえなかったという。 このダリル・ザナックがプロデュースした映画だったからだろうか?---と私が思うのは、じつはこの映画が撮影された当時、アメリカは共産主義者追放(いわゆる赤狩り;Red purge)の真っ最中だった。1938年に非米活動委員会が創設され、各分野から共産主義者をあぶりだしていた。人間の基本的人権を一方的・恣意的に侵害してはばからない悪魔的な制度が公然と実施された。その魔手はハリウッドにもおよびはじめていたのだ。猛威をふるうのは47年4月以降だが、共産主義を信奉していなくともその言葉を口にすることさえできなくなっていた。 (註:同じころ日本でもアカ狩りがおこなわれていた。私が4,5歳ころで、父たちがそういう話をしていたのを覚えている。ちなみに映画『怒りの葡萄』が日本で初公開されたのは、製作されてから22年後の1962年である。) 『怒りの葡萄』はあきらかに「アカ」的な小説であり映画である。原題は‘The Grapes of Wrath’で、日本語の題名は直訳なのだが、英語のgrapeには「団結」という意味があるのだ。資本家の搾取に対する「怒りの団結」が題名の本意である。 前述の伝記『ヘンリー・フォンダ』には、ハリウッドを席巻したアカ狩りのことは語られていない。したがって映画『怒りの葡萄』製作をとりまくその側面についても一切書かれていない。そこが不思議である。 スタインベックはずっと社会派作家といういわばレッテルを貼られてきた。1952年に『エデンの東』を発表し、1962年にはノーベル文学賞を受賞している。しかし、アメリカ国内の批評家にはかなり冷たくあしらわれていたようだ。ノーベル賞受賞後から死までの6年間さえ、その境遇は決してめぐまれてはいなかったらしい。むしろこの偉大な作家の晩年は惨めだったといってよいだろう。 映画『怒りの葡萄』は思想狩りの不穏な状況下で1940年度のアカデミー監督賞と助演女優賞を獲得した。 ハリウッドの映画人たちにはまだ心意気があった。仲間を「密告」しあうように罠にはめられ、息の根をとめられるのは前述のとおり1947年4月以降。非米活動委員会は、現在「ハリウッド・テン」と呼ばれる10人の映画人に狙いをつけ、共産主義者を密告するように締め上げたのである。やはりスタインベック原作『エデンの東』を後に映画化(1955)したエリア・カザンはこの魔手に首根っこをつかまれ、仲間の監督ジョセフ・ロージを売ることでハリウッドで生き延びた。ジョセフ・ロージはヨーロッパへ脱出し、アメリカへ帰ることはなかった。エリア・カザンはこのときの密告と転向を生涯悔いて、ハリウッドの赤狩りについて頑に口をとざした。 一方で、原作者ジョン・スタインベックは敬して遠ざけられていたのか、根っからの冷酷な仕打ちにあっていたのか、いずれにしろ淋しい晩年をおくってニューヨークの寒い冬に心臓病で亡くなった。 家族といっしょにDVDを鑑賞しながら、私はひとりそんな思いにふけっていた。現在日本の教育現場では、愛国心をめぐって各自治体の条例による規制のもとに踏み絵をふませる、かつてのアメリカに似たキナ臭い状況が徐々に出現しているからである。
Mar 24, 2006
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戯曲家・小説家の岸田理生(りお)女史が亡くなったのは2003年6月28日。このことを私が知ったのは新聞によってであった。私は1977年から81年まで、岸田さんが『奇想天外』誌に発表した小説に挿し絵を描いていた。岸田さんが『奇想天外』に書いた小説は全部で13点だと思うが、そのうち11点が私の挿画である。 岸田理生が新鋭SF小説家として最初の小説「鏡世界」を『奇想天外』誌に発表したのは1977年3月号だった。 私はそれより以前、1974年4月号に故種村季弘氏のエッセイに絵をつけており、その後3年間に滝原満氏、川又千秋氏、堀晃氏、あるいは海外翻訳小説の挿画を描いていた。岸田理生とのコンビを組むのは女史の3作目、「洪水伝説」が最初である。 ちなみにリストを掲げてみよう。 洪水伝説 1977年10月号 不眠の街 1978年01月号 最後の子 1978年05月号 硝子窓 1978年09月号 子供の時間 1978年12月号 種の秘儀 1979年04月号 柔らかい卵 1979年07月号 脱出口 1980年01月号 記憶のまちがい 1980年05月号 父の血の--- 1980年11月号 化人花娘 1981年06月号 岸田理生は1974年に寺山修司が主宰していた劇団「天井桟敷」に入団した。そして小説を発表しはじめた77年には早稲田大学演劇研究会にも関わりながら、独自の活動を開始する。私が初めて挿画を担当した「洪水伝説」の発表と同時に、自らが主宰する劇団「哥以劇場」を創設した。そして「洪水伝説」を戯曲化し、11月に六本木の自由劇場で旗揚げ公演がおこなわれた。 小説「洪水伝説」を掲載した雑誌が発売されてすぐのころ、私は担当編集者からの電話を受取った。岸田さんが旗揚げ公演のポスターをつくってほしいと言っているが、どうしますかと言うのだ。「いいですよ」と私は返答した。すぐに劇団の制作担当者が私の自宅へやってきた。 打ち合わせがすむとその人は、「岸田が一度御挨拶したいと申しております。近いうちに岸田の家で演出家もまじえて会議をすることになっているのですが、御出席くださいませんか」といった。もちろん私に否やはなかった。じつは私たちはコンビを組んだとはいっても、まだお互いに面識がなかったのだ。 当時、岸田さんは早稲田大学の近くに住んでいた。指定された喫茶店で私が待っていると、例の制作担当者がやってきた。彼は私のテーブルのそばに歩みより、小腰を屈めて、右手を掌を上にむけて差出し、まるで仁侠映画で仁義をきるように「では、ご案内いたします」といった。私はこのいささか芝居がかった挨拶がおかしかったが、気にいってしまった。そこで私も芝居がかって、無言でゆっくり立ち上がった。 案内されたのは近年新築されたばかりのようなアパートの2DKの部屋だった。岸田理生女史はいまにも折れそうなほど痩せ細った手足をしていた。病人のよう----というのではない。何か強い意志と、こんなガリガリに痩せた躰のどこにあるのだろうというような不思議な活力が感じられた。後に知ったのだが、ほとんど物を食べないのだそうだ。たしか岸田さん自身が言ったのだと覚えているが、「血が足りないから、吸血鬼みたいに血を吸わなきゃならない」と。 世間に対して身の表わし方が私とはまるで正反対の人なのだと私は思った。つまり、私はつとめて平凡にして芝居っけは振払ってしまうことを信条としていたが、彼女は自分の造り出す小説や戯曲の世界のイメージをそのまま自らの身体で表現しようとしているようだった。 この日の話しあいで、私は旗揚げ公演の宣伝美術と舞台装置のデザインを引き受けることになった。私は70cm四方の黒い頑丈な箱をつくり、一面を開けて客席に向け、その中空に直径40cmほどの白い卵を浮かべた。俳優がその卵に触れると、卵が中空でくるくると回転するのである。簡単な仕掛けをしてあるのだが、もちろんそれは観客には見えない。一瞬、魔法のようなことが起るのだ。舞台上には白い靄が這うように立ち込めている。 ところでこの公演に、私は作者や演出かも唖然としたにちがいない半ば強引な提案をした。芝居のなかに舞踏家・田中泯(みん)氏の即興舞踏を組込んでは如何かというものだ。岸田さんは首是した。 田中泯氏はちょうどそのころ、「ハイパーダンス1800時間」と称すプロジェクトを進行中だった。1800時間、全国を股に掛けて踊りつづけるという企画である。私は、この企画のスパーバイザーだった松岡正剛氏の依頼で、図録『ハイパーダンス1800時間;身体気象図譜』に「観客席よりの視感」という一文を寄稿していた。そんな関係で、田中氏に「洪水伝説」への出演を打診したところ、進行中のプロジェクトの一環として出演を快諾してくれた。 この私の職権外の無謀ともいえる提案は、「洪水伝説」の出演俳優たちに衝撃を与えたようだった。というのは、田中泯氏は現在では国際的に知られた前衛舞踏家、また近年映画俳優として山田洋次監督の『たそがれ清兵衛』などですばらしい演技をみせて活躍しているが、当時すでに若い鋭敏な肉体芸術家たちの間では有名だったので、俳優たちが恐れながらも対抗意識を掻き立てられたのは当然であろう。 1977年11月30日と12月1日の2日間の公演は、劇場に入りきれない人たちが六本木の通りに列をなした。 平土間にしつらえた高さ20cmほどの舞台上で芝居が進行し、やがて背後の闇のなかからいつの間にか全裸の田中泯氏が登場し、舞台と側壁との間の溝のような場所に静かに横たわった。舞台を這う靄が田中氏の躰を埋め、氏はまるで放置された死体のようであった。観客はこの異様な光景に静まり返り、眼が離せないようだった。やがて田中氏は静かに起き上がりそのまま背後の闇に消えた。 「哥以劇場」の旗揚げ公演は大成功だった。 岸田理生女史はこのあとつぎつぎに自らの戯曲を発表し、1985年、「糸地獄」によって第29回岸田國士戯曲賞を受賞した。小説はほとんど書かなくなった。そのため私もまた彼女に会うことはなくなった。1979年4月に「哥以劇場」が「捨子物語」をもってパルコ・ドラマ・フェステバルに参加した。岸田さんから招待されてその会場に出かけたときが最後の対面であったと思う。 この会場で寺山修司氏とすれちがった。じつは岸田さんの話だと、寺山氏が私の挿画を見ていて「このイラストレーターに紹介してくれ」というのを、「寺山さんはそうやっていつも私の人材を奪ってしまう」と岸田さんは紹介を拒否したのだそうだ。このすれちがいから数年後に寺山氏は急死した。 ついでにお話しすると、旗揚げ公演終了後、私と田中氏は一緒のタクシーに乗って帰路についた。タクシーのなかで田中氏が言った。 「山田さんに殺されるかと思った」 「どうしてですか」 「ドライアイスの煙の下に横たわったから、呼吸困難になってしまって----。ほんとうに、ひどいことをするんだから」 「舞台から消えたあと、劇場からも姿をけしたでしょう?」 「しばらく劇場の裏に行って、ひとりで踊っていたんですよ」
Mar 23, 2006
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ヒッチコック監督の『海外特派員』をDVDで観ながら、この映画の撮影方法についてチェックしていた。オランダの風車小屋のシークエンスでの階段や巨大歯車や高い天窓の使い方、カメラのパンの仕方。主人公の着ているレインコートが歯車に絡みとられるサスペンス作りの巧さ。あるいは、終末近く飛行機が海中に墜落するシーンとその後につづく高波のなかで飛行機の翼を筏がわりにするシーンの撮影方法などなど。 すると母が覗いて、『怒りの葡萄』のDVDはまだ買っていないのかと言った。どうしても観たくて、待切れない様子である。 母は2年ほど前の一時期、ジョン・スタインベック(1902-1968)の小説をたてつづけに読んでいた。そして『怒りの葡萄』と『二十日鼠と人間』にもっとも感動したらしい。私が、『怒りの葡萄』はジョン・フォードが監督しヘンリー・フォンダが主演して映画化されていると言うと、是非それを観たいと言った。DVDを探して買ってあげると応えたが、それきりになっていたのだ。 先日、私が観たいと思っていたDVDを数点購入したのだが、そのなかに『怒りの葡萄』は含んでいなかった。母はおもしろくなかったらしい。何だか遠回しにブツブツ言っていた。その後、居間で顔をあわせるたびに、スタインベックはおもしろいと繰り返し言う。それは彼女にとって事実であるようで、黙って聞いているとあらすじまで話しはじめた。86歳の母の頭がよく細部まで記憶していると感心したが、スタインベック恐るべしだ。 ----それで、じつはさきほどインターネット・ショップで映画『怒りの葡萄』のDVDを注文した。母に報告すると、「いつ届くのかしら」と待ち遠しいが満足したらしい。 「『二十日鼠と人間』は映画化されてないのかしら」 「さあね、どうだろう----」 「あの小説もおもしろいんだけど」 「そうだね」 私は曖昧に応えたが、『二十日鼠と人間』も映画化されていることは、しばらく内緒にしておこうと思った。どうやらしばらくはスタインベック力にひきずられそうな気配だ。
Mar 22, 2006
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私の作品を見た方に「どこからイメージが出て来るのか」と言われることがある。なかなか応えに困る質問だ。思考の核があり、さまざまな過程を経て幻想的なイメージにたどりつくのだが、その思考というのはプロフェッショナルな画家である以上、人生と切り離すことはできない。私の人生が絵を生み、絵が人生をつくっている。 30年近く昔に舞踏家の田中泯氏が発行していたフリー・ペイパーに寄稿したエッセイがある。これを読んでくだされば、思考の核がやがて哲学的な幻想を生み出してゆく過程を理解していただけるかもしれない。そしてまた、私の幻想がどんな性質のものかおわかりいただけるだろう。長いですが、一挙に掲載いたします。《気の紋章》について 田中泯の舞態に立会って、常に私の想いに去来する問題の一つは、少しく冗談めかして言えば、その場におけるわれわれのエネルギーの絡み合いの態位とでもいうようなことだ。つまり私が夢想するのは、社会学とは別して、量子論の見地に立つ生物物理学としての人間関係の時空間模型である。これを私はひそかに《気の紋章》と名付けている。 隠秘哲学には、洋の東西を問わず、生命エネルギーの理解において、「エーテル」を媒質とする一連の霊妙な現象として把握するほぼ共通した伝統があるようだ。しかも、その形象化にも大いに努めていて、関係書物を繙くとほとんど必ずといってよいほど、「生命エネルギーの磁場」を解説する絵図を見る。人体より放射するエネルギーの華麗な軌道を描写する古拙な絵図は、なかなか捨てがたい魅力があって、われわれの眼を楽しませてくれる。 「エーテル」というイメージについては、人間を大宇宙である神の懐にいだかれた小宇宙とし、その物質的形態は同時に超感覚的な世界存在であるとする、かくなる思想の手繰り出し方に関与していると言ってよいかもしれない。たとえばヒンドゥイズムは、宇宙の本体であるブラフマン(宇宙魂)と個人の本質であるアートマン(個人魂)との一体となることを説く。これは宇宙エネルギーと宇宙意識とを等式で結び、そのうえで万物を宇宙エネルギーそのものであると認識するわけだが、この宇宙エネルギーがつまりエーテルであって、中国では「気」と呼称した。梵我一如、その相互に浸透しあっている状態は、物質から霊へ、霊から物質へと、漸次移り変ってゆく諸階梯によって説明される。それはすなわちエネルギーの諸界の模型図にほかならない。 わが《気の紋章》は、初めにしるしたように、神秘思想や宗教的な見地から探ってゆくべき消息ではないが、しばらくは隠秘哲学におけるエネルギーの模型図がどのようなものであるかを、あらましだけでも見ておくことにしたい。 ヒンドゥ・タントラでは、太陽光エネルギーは「プラーナ」と称され、生命力を意味するが、このプラーナはエーテル体を媒質として人間の物質的形態を生成しながら、かつ思想や感情を刻印し、人間としての生命を顕現するのである。プラーナはエネルギーの受容=供給器官「チャクラ」によって吸収され、「ナディ」と呼ばれる導管を通って骨体(インドでは肉体とはあまり言わないそうだ)のすみずみまで浸透してゆく。ナディは網の目のようにひろがっているが、イダ、ピンガラ、ススムナと称する3本は、最も重要なナディである。人体の左右両側に存在するイダとピンガラとは二重性の原理を現わす。太陰性と太陽性である。そしてススムナは、エーテル体の中枢ともいうべきナディである。修法をつんだヨガ行者は、それらの個々別々のはたらきを観想し、統御することによって、ススムナを貫通して蛇の力に象徴されるクンダリーニ・シャクティ(体内に潜在するエネルギー)をめざめさせ、梵我一如の窮極的自覚に到達するのである。また、ススムナより分岐して両腕にひろがる数本のナディは、いわゆる手かざし療法などに用いられる掌のチャクラと結ばれている。(図版1) チャクラというのはサンスクリット語で「輪」という意味だが、絵画的にはエネルギーの炎を内包する蓮の花として表現される。その数は6つとも7つとも言われ、その位置についての見解とともにまちまちであるようだ。それぞれの蓮の花弁はそれぞれの役割を担ったエネルギーを象徴している。最も華麗に表現されるのはサハスララと呼ばれる頭頂部に位置するチャクラで、霊的存在意志を形成するのである。(図版2) 図版1 図版2 ところでチャクラは、前にものべたように、プラーナの受容器官であるのみならず供給伝達の器官でもある。医療法としては最古のもののひとつであるという手かざしの療法などは、この供給伝達器官としてのチャクラを通して、施療者が魂の高次なエネルギーを患者の体内へ注ぐのだと言われている。 じつは私の伯父が、もう40年近く(註:1978年当時)、手かざし療法による施療院の看板を掲げ、現代医学がなんだかんだの理由で半ば見捨てたような病者を完治せしめて、たいそう喜ばれているのである。ありうべき誤解にそなえて伯父のために急いで言っておくが、この伯父に神秘家らしさや修験者らしさを期待しては、まったく当てがはずれるであろう。町の腕利きの「指圧師」くらいには思っているかもしれないが、こんにちのオカルトばやりなど一向に知らないだろうし、当年74の、どこから見ても田舎町の暢気なお爺ちゃんだ。 かつて私は、現代医学の外道である手かざし療法の施術者という伯父の職業がいかにも山師めいて嫌いであった。療法そのものを馬鹿にしていたのだ。ところが大学2年の夏休みに、自分の考えを些か修正しなければならなくなった。私自身が伯父の患者となるはめになったのである。 事情はこうだ。中学生のときに運動会の棒倒しで、敵の攻勢に肝をつぶした味方の守備兵が、一斉に棒の守りを放棄したのだ。棒は敵の一人と格闘中の私の背後を襲い、腰部をしたたかに強打した。以来たびたびの腰痛に苦しめられていた。そして5年後のある日、突然の激痛とともにまったく歩行できなくなった。現代医学に見捨てられたなどという大袈裟な状態ではなかったが、しかし医大病院での検査でもどこと言って手を施すべき「病巣」が発見されないまま、いよいよ仕方がなく伯父の手にかかる決心をした。そして呆気無いほど簡単に治ってしまったのである。 伯父の手かざしの療法は、掌を患部に直接触れる場合もあるし、文字どおりかざしているだけの場合もある。施療が始まると、手がかざされた患部が、ポーと熱くなってくる。熱いというよりも春の日溜まりでひなたぼっこしているような感じだ。伯父も眼をつむっていたりするので、当方もついうとうととしてくる。だんだんよい心地になってきて、やがて全身におよんでゆく。施療といってもただそれだけなのである。一日、ひとりの患者に対して十数分間の施療。患者の数は多くない。伯父自身がかなりの疲労に達するらしい。若い時分には、「念」を発しすぎて昏倒してしまったこともあるそうだ。 ヒンドゥイズムを概観しているうちに語らずもがなのことまで語ってしまった。ままよ。「念」とは一途な想い。想いとは「気」を結ぶことである。これも「気」の話なのだった。 さて、「気より生じ、気のなかに存し、気へ還る」という梵我一如の思想は、一個の人間を細胞から原子へ、原子から素粒子へと解体してゆくことによって成立した人間観であり宇宙観である。ここまでくると、われわれは、すぐにも量子論へと視線を転じることができよう。 生物のエネルギー変換の過程を生物学的にのべれば、今では小学生でも知っていることだが、大雑把には次のようである。すなわち、太陽光エネルギーが、緑色植物の葉緑体のグラナに含まれる活性クロロフィルによって吸収され、二酸化炭素と水とから炭水化物を合成されるのに利用される(光合成)。炭水化物その他の化学エネルギーは、動物および植物細胞の呼吸によって、アデノシン三燐酸(ATP)などの有効なエネルギーに変換される。ATPなどの化学エネルギーは、筋肉の収縮のような機械エネルギーとして、あるいは神経興奮のような発電エネルギーとして利用される。 こんどはもっと微視的な世界に入ってみる。 分子のエネルギー状態は、当然のことながら原子のエネルギー状態よりも複雑で、近似的に電子エネルギー、原子核間の振動エネルギー、分子全体の回転エネルギー、並進エネルギーに分割され、これら四つのエネルギーのおのおのに定常状態があって、光量子のエネルギー(E=hv)を吸収して励起状態に遷移する(hはプランク定数。vは振動数)。実験的には、電磁波を分子におくるとエネルギーを吸収して分子固有の吸収曲線を示す。 この吸収曲線こそは、無邪気な言い方をすれば、太陽の光とわれわれとの相互間の消息を抽象する、第一番目の模型といえるのではないだろうか。 いまさら断るまでもないことだが、《気の紋章》は直接見たり触れたりできるものではない。また、なんらかの像を、頭のなかに想い浮かべることすらできないものだ。われわれは分子のエネルギー状態を知ろうとし、次には原子内電子のエネルギー状態を探りに出かけるだろう。ちょうど梵我一如の思想が、一個の人間を素粒子まで解体したところに顕ったように。シュレディンガーの波動方程式を知り、ディラックの方程式にも出会うだろう。そして、それがまさに、原子内電子のエネルギーとその状態をあらわす模型なのだ。色即是空、空即是色である。蓮の花の形象を夢見るものは夢見るがよい。私は「入れ子の宇宙」を観じる。それも、「大宇宙」と「小宇宙」とがまるで手袋を裏返すようにたちまち入れ替わってしまうのを。 それだからこそと言おう。私はもう一度、素粒子から原子へ、原子から分子へ、そして細胞へ、人間へと、それぞれの模型を組み入れてゆく。一人から二人へ。二人から三人へと。---- さてそこで、わが《気の紋章》は、生物物理学とはいえ、エネルギーのベクトル場に関連したトポロジー的概念でのべられることになろう。 一般には「n次元多様体Mをベクトル・バンドルとするすべてのベクトルの時刻tを変数とする軌道の特定、ならびに複数個のMが付着する空間Xの性質」と、設題されるのではないかと思う。「気」を結び、「質(かたち)」にするのである。 いかがなものであろう。想像できぬ消息ながら、なにやら葡萄状の気配として感じられはしないだろうか---- しかし、頭脳などの複雑な生物系のように、数多くのフィードバックをもつ存在の時空間模型をつくることは、じつは極めて困難な問題なのである。トポロジーではカタストロフィー理論あたりが、現在、最も近いところにあると言えようか。 解は出ていない。が、われわれはその存在を直感しているのだ。ほら、シャボン玉の輝きにも似た虹色の光芒が、一瞬、ひらりと横切った! 初出:『ドライヴ・オン』1978年5月17日、田中泯ダンス・ジム発行。 著作権は山田維史に属します。
Mar 21, 2006
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「アリャリャ!?」ということが起った。 40年以上にわたって、機会をみては古書店を探していたにもかかわらず見つけることができなかったジュール・ヴェルヌ『悪魔の発明』、----というより、チェコスロバキアの天才的アニメーション作家カレル・ゼマンの映画のスチル写真を口絵に入れた、その映画の原作本といったほうがよい、それが見つかったのだ。中学生のときに買い、大学1,2年のころ金に窮して売った、その本である。 どこで見つかったかって? 私の書庫で! いま私は唖然としている。 深夜だというのに、どうしても必要な資料本を探して、書庫の棚をここでもない、あそこでもないとやっていた。床には大型の金属ケースが置いてあり、その中にも本が詰まっている。そこかもしれないと思ったが、ケースの上には別のケースが積み重ねてあるので、それらを開けるとなったら厄介だ。いいかげん苛立ちながら、ふと見ると棚の隅に平積みにしてある本のなかほどに、見覚えのある表紙の小口がのぞいている。私はそれが探している資料かもしれないと、積み重なった本の間にゆびをつっこみ引っぱりだした。 「ウン? これは?」 なんとそれこそが『悪魔の発明』だったのだ。売ったはずなのに、何故? あのとき、あとから買い戻そうと思ったが時すでに遅く、再びその古書店に行ったものの見つからず、それ以来40年間さがしていたというのに、何故この書庫にあるのだろう。 いくら考えても思いあたるふしがない。----たぶん、----たぶんだ、売りに行ったその場で惜しくなって持ち帰ったのかもしれない。私が蔵書を売ったのはこのときただ1度だけ。その1度の行為に後悔がはなはだしく、以後、2度と蔵書を売りはしなかった。そんな気持だったから、自分の心の宝物としている映画のスティル写真が入っている本に未練が出てきたに違いない。持ち帰って、大切にしまいこんで、その後ずっと「売ってしまった」と自分を責めていたのだ。 ジュール・ヴェルヌ『悪魔の発明』(1896年作)。現在、東京創元社文庫でもそのようなタイトルになっているが、じつは原題は『国旗にむかって』Face au Drapeau といい、『悪魔の発明』というのはカレル・ゼマンが自作映画につけたタイトル、チェコ語の‘Vynalez Zkazy’(1958年作)の日本語訳なのだ。 きょう発見した私の蔵書は江口清による原典からの全訳である。三笠書房刊、B6版「若草文庫」のなかの1册。 このティーン・エイジャー向け文庫はおもしろいことに映画化された原作を集めて全訳し、その映画のスティル写真を口絵にしている。ハドスン『緑の館』、ジャック・タチ『ぼくの伯父さん』、レーマン『別れの曲』、ミッチェル『風と共に去りぬ』、ペーター・メンデルスゾーン『わが青春のマリアンヌ』、アルベルタ・ロメル『涙の学芸会』、そして『悪魔の発明』と、全7巻。 全訳『悪魔の発明』が三笠書房から刊行されたのは1959年(昭和34)。DVDのライナー・ノートによるとカレル・ゼマンの映画の日本公開(東宝)も同年である。制作された翌年だ。つまり私は映画公開時にそれを観て、その感激が醒めないまますぐに本を買ったというわけである。 ちなみに、東宝が提供したと分ったので私が観た映画館も判明した。会津若松で東宝系洋画を掛けていたのはグランド銀星である。いままで記憶ではその映画館だと想っていたが、確信がなかった。これで、チラチラとまたたくように浮かんでくるチケット売場の窓口の光景が、グランド銀星であることがはっきりした。 映画についてはまた後日述べることにして、きょうはその本をご覧いただこう。(1)表紙(2)口絵;カレル・ゼマンの映画スティル写真--------------------------------------------
Mar 20, 2006
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きょうは家族行事でみな外出。雨を心配したが、晴れあがった青い空がまぶしい。春先の薄着にした。それでも車のなかは射し込む日射しにたちまち暑くなった。相模原の山あいをめざす。我家から八王子バイパスを走れば1時間弱。おそらく昔は現在よりも往来があったのかもしれない。創業250年という割烹料理屋があるのだ。 東京から相模原市に入ると、パラパラと雨が降り出した。傘は準備してきたが、黒い雨雲は遠くの山頂をおおっているだけで、その端っこのあたりを私の車は走っている。雨雲の周囲はあいかわらずの青空だ。ものの5分もしないうちに雨を通り過ぎてしまった。 いたるところ紅白の梅が満開だ。ひときわ濃い紅色の八重咲きの梅もあり、蓮翹の黄も鮮やかだ。桃も辛夷(こぶし)も咲いている。なんと桜もさいているではないか! テレビも新聞もまだ桜情報を伝えていないはず。気象庁が出す桜情報は、同庁が設定した場所での定点観測だから、その地点をはずれた場所での開花は情報にのらないらしい。それにしても、もう7,8分咲きだ。 我家のチューリップも早いものは15cmくらいに伸びて葉をひろげている。蔓薔薇の新芽も5cmほどになっていた。数日中に第1回目の施肥をし、土壌中和のための苦度石灰を施さなければならない。ことしも何百という花をつけてくれるかどうか。 車を走らせながらちらりちらりと横目に見れば、菜の花も咲き、野草のなかにも小さな花々が咲いていた。ハコベだろうかタチイヌノフグリだろうか。
Mar 19, 2006
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日本人は握手をする習慣がないので、私はさまざまな分野の著明芸術家にお目にかかってきたけれど御多分にもれず握手の記憶がない。ただひとり音楽家の故芥川也寸志氏が握手をしてくださったその優しく柔らかい手の感触は覚えている。いうまでもなかろうが、芥川也寸志氏は文学者龍之介の次男である。 私が中学1年のときだった。新日本フィルを率いて、ベートベンの交響曲第6番「田園」や父ヨハン・シュトラウスの「ラデッキー行進曲」などを演奏された。終演後、私はひとりで楽屋を訪問した。芥川氏はたったひとりで机にもたれて休息していらした。誰に案内されるでもなくいきなり詰襟の黒い学生服を着た中学生がやってきたのだから、氏はちょっと驚いた様子だった。しかしすぐ「フフフ」というような微笑をして私を迎えてくださった。いまはもう何を話したか忘れてしまったが、「夜のコンサートにいらっしゃい」とおっしゃって、私の持っていた手帖に3小節ほどの楽譜を書き、日付けと署名をしてくださった。そして握手をした。私はなんとなく、「あっ、これが音楽家の手なんだ」と思った。 ピアノの国際コンクール「ショパン・コンクール」の正賞は、ショパンの右手のブロンズ像ではなかったか。それはショパンの手から取った石膏型をもとにしたものだ。ショパンコンクール初の日本人入賞者、中村紘子氏の名エッセイ『ピアニストという蛮族がいる』にその写真が載っていた。とても美しい手である。 ピアニストは手が命。重い荷物は絶対持たないという話を聞いたことがある。お湯に漬けてマッサージをし、やわらかさを維持することに務めているのだと。 もう15,6年も前のことになるが、パリ国立音学院を首席で卒業し、天才的ピアニストと注目されていたエリック・エヌカウア氏が来日して演奏会を開いた。しばらく日本に滞在していたある日、我家に遊びがてらディナーに来てくれた。彼の手というのが、驚くべきものだった。自由自在というよりも、ふにゃふにゃと柔らかい。しかしその指の力たるや並の強さではないのだった。 私はもちろん彼の演奏会にゆき、彼がつくりだす音楽の心地よさに陶然となってしまったのだが、ピアニッシッシモの微弱音からフォルテッシモの強打音まで、優雅でめりはりのきいた力強い音がつむぎだされるのだった。上体はほとんど真直ぐ立てたままである。 「山田さんは一番前の席に陣取っているのだもの----」といって笑ったが、私はその指の超絶技巧をできるだけまぢかで見たかったのだ。 エリック氏の手を思い出すとフランツ・リスト(1811-1886)の手を連想してしまう。リストの『超絶技巧練習曲』は特異な運指をする難曲だが、物の本によるとリストの手は極めて希な生来の「病気」だったらしい。病気というと語弊があるが、常人とは異なる柔らかい関節をしていたらしい。そのため普通ではできない指の動きがいとも容易にできたのだという。『超絶技巧練習曲』は作曲者当人にとっては超絶でもなんでもなかったわけだ。 音楽家の手の話をしたので、次に文豪トルストイ(1828-1910)の右手について。 1966年の暮ちかく、東京都立近代文学館と大阪市立美術館において『トルストイ展』が開催された。ソ連文化省が同国8つの博物館等に秘蔵するトルストイの遺品を日本に貸出してくれたのである。その展示品のなかにトルストイの死後、遺骸から石膏型をとって鋳造したデスマスクと右手のブロンズ像があった。 トルストイは82歳で亡くなった。その手は手首のあたりにはさすがに幾つもの皺が寄っているが、甲はすべすべとして、がっしりした大きな手だ。太い指は長い。若いときに砲兵隊将校にまでなり、農事改革に身を投じたり、飢饉の救援活動に奔走したり、12人の子供の父親であったトルストイの人生がその手にはあらわれていた。書斎に閉じこもって空想を紡ぎ出しているような文豪ではなかったのだ。たくましい手というより、なんと存在感のある手であろうと私は思った。この手だからこそ、あの骨太の巨大な小説を生むことができたのだと。 さて、私はいま資料ファイルのケースをひとつ開けて、一枚の写真を取出し見ている。ピカソの右手の石膏像をジルベルト・ブラッサイが撮影したものだ。お見せしたいが、著作権所有者が二人いてここに掲載することができない。 ピカソの手もすばらしい。美しいといってよいしっかりした男の掌に、よく稔った莢豆のような短い指が並んでいる。ふっくらした太くまるまっちい指だ。関節に区切られた三つの部分が、じっさい豆のようにまるくふくらんでいる。親指の付根からひろがる丘は豊かで、ありあまって褶曲している。それがなんともいえない美しい景観となって掌の造詣を豊かにしているのだ。分厚い手だ。この手をとおしてピカソの情熱は迸り、数万点に及ぶ彼の日記のような作品が生み出された。 ピカソの手、それはいくら見つづけても飽きることがない素晴らしい手である。
Mar 18, 2006
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「画家の目」というタイトルにしたが、これは芸術的な視点のことではない。生理的な目、もしくは眼病の意である。 私の目は左右ともに強度の近視だ。中学1年のときから眼鏡をはずせなくなっている。学校で視力を検査するときは、視力表の一番大きな記号が見える地点までちかづいてゆき、その距離によって保険医は数値を出すのだった。現在ではそれに老眼が加わった。老眼というのは実に不自由なもので、極度の近視のほうが画家にとってはまだしもずっとましなのだ。つまり見る対象をどのくらいの距離に設定するかによって、遠景用、中景用、近景用、極近景用と、四つの眼鏡が必要になる。映画を見るときの眼鏡と読書用の眼鏡を替えなければならない。----と、本来ならそうしたほうが良いと眼科医は言う。 しかし、考えてみてください、画家の場合、モデルを見るときとキャンバスに筆を揮うときにいちいち眼鏡を取り替えていては仕事にならないでしょう。なるわけがない。----しかたがない、私は眼科医にいろいろ注文を出して、「これ以上どうしようもありません!」といわれ、不満このうえない妥協をした1個の眼鏡ですませている。 バカげたことに、細密な仕事は眼鏡をはずして裸眼でやっている。40年以上、眼鏡なしでは何事もできなかったのに、今になって裸眼のほうがましだというのだから、眼科というのは医学的には未発達分野なのかもしれない。 のっけから私の近眼老眼の話をしてしまった。近眼でありながら自分でも意外なのは、じつに細部まで良く見えるのである。私の写実的静物画の原画を見た人にしばしば言われるのだが、モデルを前にして目の良い人と物の見え方を比較してみたとすると、むしろ私のほうが見えているかもしれない。 これは修練した画家の目であって、「見る」ということは面白いもので、対象を見ているからといって必ずしも見えているわけではないのである。見ていたはずなのに何も見ていなかったということは日常的に経験することであろう。 ところで気を付けて書物を読んでいると、画家の目についての記述にぶつかることがある。 たとえば横山大観の右目は、50万人に1人ではないかと思われる異常な大きい瞳孔をしていたと、眼科医の伊藤弥恵治博士の言。これは戸板康二氏の本にあった。 おなじく戸板氏は堀口大学の記述にあったと伝えているのはマリー・ローランサンの目のこと。 堀口大学が若いころパリに遊学していたおり、友人の画家のお茶のパーティに招かれ、隣に住むというマリー・ローランサンという女性画家の作品を見せられた。堀口は友人の画家の絵にはまったく興味がなかったが、見せられたその絵に衝撃を受け、ぜひ紹介の労をとってくれと頼む。 堀口大学がマリー・ローランサンを初めて訪問したとき、彼女はやはり画家であるドイツ人の夫と一緒にジプシー女のモデルを描いていた。同じモデルを描きながら、二人の絵はまるで違っていた。 「夢のような、幻のような、また夕暮の物影のような、ありとしもない絵。----じっと見つめているうちに消えもや失せると危ぶまれるまでに、あえかにやさしい絵」と堀口大学は書いている。 そしてマリー・ローランサンはこう言う。「私は強度の近眼で、私にはこのようにしか見えないのです。モデルは単に記憶の不足を補うためのものです」と。 おもしろい話ではないか。彼女の朦朧としてやさしい画風が、強度の近眼のためであったとは。 レンブラントの絵が褐色系なのは彼が褐色系白内障だったからではないかと言う眼科医がいる。褐色白内障という病気は茶系統の色彩をもっとも明るく感じるのだそうだ。 この説はいかにも面白いのだが、しかし私は画家として、絵画技法の点から疑問を呈さなければならない。 レンブラントが用いたグラッシー、もしくはカマイユという技法は、シルバーホワイト(鉛白)とパインブラックによる灰色階調でモデリングした上に、「褐色系」であるバーントシエナのおつゆを掛けてゆくものだ。私はレンブラントの原画を実際に見ているけれど、豊かな色彩感があるように見える絵がじつはたった2色でできあがっている。この技法の場合、「褐色系」というのがポイントなのだ。そういう絵画技法を考慮せずに、絵のみかけだけからレンブラントの眼病を指摘するのはいかがなものであろう。 同様の疑問はテレビで紹介されたゴッホの色彩感と彼の目のことだ。抗精神病薬としてジギタリスが使用され、ジギタリスは目に作用して物を黄色に見せる。ゴッホの絵が黄色系なのはジギタリスの服用のためだというのがそのテレビ番組の説である。 ここで私が疑問とするのは、ジギタリスが精神病の薬として使用されていたという説明に対してだ。その出典は何だろう。 というのは、ジギタリスがヨーロッパで薬用に使われてきた歴史は古いのだが、1650年の『英国薬局方』には「利尿薬」として公式に収載され、さらに1775年にはイギリスの医師ウイリアム・ウィザリングによって強心作用があることが明らかにされている。ゴッホはその薬学の定説よりまるまる1世紀も後の人だ(1853-1890)。フランスの医者達が、強心利尿薬を精神病の薬として使用するなどとは考えられない。強心利尿薬としてゴッホに施薬したというなら話はべつだ。ただしその場合でも、当時のカルテが残っていればだけれど。 ジギタリスの作用でゴッホは物が黄色に見えた、だから彼の絵は黄色っぽいというのは、話としては面白い。しかしその話をつくるための牽引付会は面白くない。ゴッホだっていい迷惑だろう。 病理学者の根拠の薄いお話よりも、堀口大学が伝えるマリー・ローランサンの気取らない告白のほうに、私は一層絵画のおもしろさを感じる。
Mar 17, 2006
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風雨ともに強し。執筆がつづいたので右肩から半身に鈍痛がある。今夜はマッサージをしながら、購入したまま未だ観ていなかったDVD映画でも朝方まで見よう。このところ話に出ているカレル・ゼマンの『悪魔の発明』もいいな。『エイリアン』のアルティメト・エディションもまだ全部は観ていない。北野版『座頭市』もDVDでは観ていない。 それにしても『エイリアン』がもう27年前の作品か。 このポスターは、暗い中空に無気味な巨大な卵が緑色の怪光を発しているというもの。私はそのころ卵形のイコノロジーを研究していたので、図版資料として蒐集した雑誌広告のA4大のものを所持している。卵の象徴は、宇宙卵のように生命誕生と希望をはらんだ未来像とを重ねる意味合いがおおよそ世界共通してみられることなのだ。しかしこの『エイリアン』のポスターのイメージは、そのまったく逆の世界像を造り出していることで、象徴学的にはとても興味深い。卵を腐敗のイメージとして表現した画家に、遠くはボッシュがいるけれども、それは人間悪の象徴であった。ところが『エイリアン』は人間に敵対する宇宙的な絶対悪として出現するわけで、これは哲学的にもまったく新しい観念といえる。宇宙卵の象徴が、同等の力をもって互いに価値が逆転した二つのイメージが20世紀の終わりに出てきたと言ってもいいだろう。ついでながらちょっと指摘しておこう。 では、ちょっと失礼して、別の部屋に移ります。
Mar 16, 2006
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きょう3月15日は国税の確定申告最終日。画家ももちろん一般と同じ書類を提出するのだが、ひとつだけ「美術家用」という特別書式の書類がある。手持ち作品(在庫)のリストである。一般商店の棚卸のようなことを画家もやるのだ。そして未販売全作品のリストを作成しなければならない。記入項目は、「制作年月日」「題名等」「号数等」「摘要」となっている。「摘要」という項目には、たとえば画廊に販売依託中であるとか、代金未収であるとか、贈与したとか、破棄したとか、あるいは盗難にあって所在不明であるとか、----まあ、そのようなことを書く。 この在庫作品リストは毎年提出しなければならず、これがなかなかシンドイ。作品が右から左に売れるわけではないから、毎年新作が追加されてゆく。売れた作品を除外して、あとは前年のリストを書き写せばよいのだが、その書き写す作業にうんざりしてしまうのだ。毎年提出期限がちかづいてくると憂鬱になるのである。 「アマチュアとプロフェッショナルなんて、少なくとも芸術に関するかぎり、いったいどこで線引きするんだ!」という人に出会うことがある。 「お説ごもっとも」と返答はするけれど、まさかプロフェッショナル美術家が自作の手持ちを税務署に申告しなければならないとは御存知ないかもしれない。やはり線引きがなくもないのだ。プロフェッショナルというのは自分の作品とはいえ「商品」なのであって、税務署側からみれば準商品生産者ということになる。「準」というのは、未販売の在庫品について課税されるわけではないからだ。しかし画家の収入の元を税務署はしっかり把握しておきたいのである。つまり我々は尻尾を掴まれているのですな。
Mar 15, 2006
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2日間にわたって私の小・中学生時代に観た映画のタイトルを思い出して書き出してみた。以後、高校・大学とお小遣いがふえるに比例して、観た映画の数もふえ、近年ではヴィデオやDVDでの鑑賞もそれに加えなければならない。書籍同様にお気に入りの映画作品は自分の手許に置いておきたく、いつのまにかヴィデオやDVDが両者あわせて600本くらい、あるいはそれ以上所持するまでに集めてしまった。本のために大型物置を2棟建て、ヴィデオのために事務用ロッカーを用意した。しかし今やそれからもあふれだしている。 昨日、私の映画的記憶の宝物だと述べたカレル・ゼマンの『悪魔の発明』。この原作本を所持していた。作者は言うまでもないだろうがジュール・ベルヌ。フランス装のようなソフト・カバーだったが、口絵が入っていた。それがカレル・ゼマンの映画『悪魔の発明』からとった数カットのスチール写真だった。 しかしその本をいまは所持していない。大学1,2年のころ、金に窮して10册ばかりの本を売った。そのなかに『悪魔の発明』がふくまれていた。あとで買い戻そうと思ったのが迂闊だった。買い戻せなかったのだ。 その後、私は古書市などでその本を探したが、40年間、見かけていない。 ところで映画的記憶というのは私の場合、劇場で観た映画ばかりではない。街で見かけた映画ポスターもいまだにあざやかに思い出すのである。いうならば映画の周辺的記憶である。 場所の名前を言ってもお読みくださる方にはお分かりにならないにきまっているが、ちょっと御勘弁ください。ほんの2,3点にとどめます。 ----会津若松女子高等学校角の十字路、第3中学校寄りの店先、戸袋が掲示板になっていてそこに『狂った果実』のポスター。そしてそのはす向かい(齋藤米店の真ん前)にあった『飼育』の2畳ほどもある大きなポスター。会津女子高等学校前の路地の突き当たりにあった『私は貝になりたい』のポスター。南町入口の橋際の右側にあった『ベン・ハー』のポスター。等々。 47,8年前の街路の光景だ。どうしてそんなありふれた日常の一齣が色褪せず記憶に残っているのだろう。私には映画の力としか思えないのだ。 私が描いた映画のワン・シーンをカバーに使った文春文庫『ミステリー/サスペンス洋画ベスト150』
Mar 14, 2006
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きょうは小・中学生時代の外国映画について思い出してみよう。といっても私が外国映画をさかんに見るようになったのは大学生になってからだ。小中学生時代は合計しても20本に満たないだろう。タイトルをまるで覚えていないものもあるにはあるが、それでもその程度だ。 のっけからタイトルを忘れた作品。原始時代の物語で、火山が爆発して溶岩が流れたり、恐竜が出てきたりした。小学2,3年のころに見た。 次も。カウボーイがたくさんの牛を移動させる物語。川を渡るときに一頭をピラニアの犠牲にし、それが喰われているあいだに渡りきろうというのだ。牛に無数のピラニアが襲いかかり、川は血にそまり、やがて牛は白骨化してしまう。もちろん実写、カラー作品である。このタイトルが分らない。父が亡くなるまえ、病床のそばでこの話をすると、「ああ、そうだそうだ、ピラニアに喰われるところは覚えている」と言っていた。もしかしたら劇映画ではなく記録映画かもしれない。長年気になっていて調べてはいるのだが、いまだに分らない。ハワード・ホークス監督の『赤い河』かもしれないと思い、DVDを購入してチェックしてみたが、モノクロ作品であるし、違っていた。 タイトルを記憶している最初の作品は何だろう。ジョン・フォード監督『黄色いリボン』だろうか。「イエローリー、イエローリー(もちろんイエロー・リボンと唄っているのだが)」という主題歌が耳に残っている。 アニメーションで『やぶにらみの王様』『せむしの子馬』。色彩の美しさに圧倒された。 しかし私のアニメーション経験は絶対的に貧しい。この2本以外に思い出せない。それは今にいたるまで変らない。現在、日本製のアニメーションが高い質を誇り世界的に注目されていることは承知しているが、だからといってそれを見ようとは思わない。子供のころからアニメーションにはまったく興味がなかったのだ。もちろん当時は映画館で観るのだったが、中学生になって我家にテレビがはいっても、「鉄腕アトム」や「鉄人28号」などのテレビ・アニメには関心がなかった。漫画そのものを10歳で卒業してしまった感がある。 いや、忘れてはならない例外がある。厳密に言うとアニメーションではないかもしれないが、チェコスロヴァキア製のカレル・ゼマン監督『悪魔の発明』があった。この作品は、背景を銅版画で仕上げていて、実写やクレーアニメと合成している。中学生のときに見た。この作品は私の映画的記憶の宝物だ。私のペン画の技法的なモデルといってもよい。 デイズニーの記録映画『砂漠は生きている』。デイズニー・アニメは見向きもしなかったが、この記録映画はすばらしかった。 おなじようなタイトルで『禁断の砂漠』というのがある。これを見るについてはちょっとしたイワクがある。このころウィーン少年合唱団が出演した『野バラ』とか『菩提樹』という作品がつづけざまに公開された。私は映画教室でそれらを観た。たしかヴォルフガンク・リーベンアイナー監督『菩提樹』だったと記憶するが、もう一度観たいと思い、ある日曜日に学校へ保護者なしに映画館へ行くむねの許可をもらいに行った。私は家族と別居していたので、いつも保護者はなく、学校もそれを承知していた。一度観た『菩提樹』をもう一度ひとりで見にゆくと言うと、宿直の先生は感心してすぐに許可してくれた。私は勇んで映画館(会津若松のグランド銀星)に向ったが、途中でふいに「ついこのあいだ観たばかりの同じ映画を2度みるなんて、お小遣いの無駄使いだ」と思った。 思うが早いか、私の足は別の映画館に向っていた。『禁断の砂漠』を見ることにしたのだ。しかも2本立だった。もう1本は『ビルの冒険』という。 私は『禁断の砂漠』よりも『ビルの冒険』に驚いてしまった。〈俳優〉がすべて鳥。もちろん劇映画だからストーリーがある。主役はビルという名の鸚鵡(インコだったかもしれない)。にぎやかな街路を行くのも鳥たち。車を牽いたり、かしましく会話をしたり。まったく、よくぞ訓練したものだ。 しかしこの映画、後年いくら調べても制作に関する詳細がわからない。輸入映画のリストにも載っていないのである。なるほど日本では映画の公開記録は杜撰なんだな、個人の記憶が最大の頼りなんだな、と私は思った。このことは外国映画に限らず邦画についても言えることがだんだん分ってくる。 さて次だ。『五つの銅貨』『グレン・ミラー物語』『黄色い老犬』。 イタリヤ映画、ピエトロ・ジェルミ監督『鉄道員』。後に知ったことだが、主人公の酔いどれ父親アンドレアを演じていたのは監督のピエトロ・ジェルミ自身。 フランスのアルベール・ラモリス監督作品『白い馬』。 ジョン・スタージェス監督『老人と海』。スペンサー・トレイシーの存在感が圧倒的だった。老人が見るアフリカのライオンの夢のシーンがゆらめくように展開して、それが現在でも不思議な印象で記憶に残っている。そういえば老人がしとめた巨大な魚----サメに喰われて骸になってしまったが----の話を信用してくれたただ一人の少年、そのモデルとなった人が昨年亡くなったと新聞に出ていた。 マイケル・アンダースン監督『八十日間世界一周』。 『13階段ヘの道』。このタイトルによって、絞首刑のための死刑台への階段が13段であることを知った。 『誇りと情熱』。これは1957年のイタリヤ映画。たしかCCことクラウデア・カルディナーレが出ていた。 オーディ・マーフィの自伝的映画『地獄の戦線』。 セシル・B・デミル監督『十戒』。ハワード・ホークス監督『リオ・ブラボー』。西ドイツ映画、ハンス・グリム監督『黒い稲妻』。主演のスキーヤー、トニー・ザイラーが大人気だった。 ウイリアム・ワイラー監督『ベン・ハー』。 こんなところが小・中学生時代に観たものだ。最後にあげた『ベン・ハー』は1960年日本公開だそうだから、高校1年になっていたか。だとすると同じ年にジョン・ウエインが監督・主演した『アラモ』も観ている。高校生になると次第に外国映画も多くなってくる。しかし今日はここまでにしよう。
Mar 13, 2006
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私の最も早い映画の記憶は美空ひばり主演の2作品であることは以前に書いた。昭和24年の家城巳代治監督『悲しき口笛』と昭和27年の『牛若丸』だ。 昨日の日記に大衆娯楽映画の楽しみを書いた。私の記憶には子供のころや少年時代に見た映画がいまでも比較的あざやかに残っている。もちろんタイトルを思い出せず映像だけを記憶しているものもあるし、すっかり忘れてしまったものも多い。そこで即座にどのくらい記憶しているか、タイトルを挙げられるか、ちょっと試してみたくなった。全部は書き切れないが、思い出すまま高校生時代までをずらずらと書き出してみよう。 美空ひばり作品と同じ頃に、小津安二郎監督『お茶漬の味』や島耕二監督『馬喰一代』、新藤兼人監督『原爆の子』、今井正監督『ひめゆりの塔』を観ている。三益愛子と白鳥みずえの〈母もの〉を何本か見ているが、タイトルは忘れた。 嵐寛十郎主演の『鞍馬天狗』シリーズや、主演者を忘れた『白狐仮面』シリーズ。白狐仮面が敵の屋敷で床に仕掛けられた落とし穴に墜落してしまう。次回のお楽しみとなるのだが、このつづきはとうとう上映されなかった。 なぜか『鍋島猫騒動』や『有馬猫騒動』など、化け猫映画をつづけざまに見た。入江たか子が主演していた。奥女中が猫に操られて逆立ちしたり、鴨居に跳びのったり、行灯(あんどん)の油を舐める女の影が猫だったり、碁盤の上に斬られた坊主の首が出て来るシーンを覚えている。 梅若正二主演『赤胴鈴之助』シリーズ、市川右太衛門『旗本退屈男』シリーズ、片岡千恵蔵『七つの顔をもつ男』の多羅尾伴内シリーズ。中村錦之助や東千代之助や大友柳太郎の『笛吹童子』『オテナの塔』『紅孔雀』。 花ノ本寿主演の高丸・菊丸の物語は何というタイトルだったか。私は会津若松の葵祭りにやってきた花ノ本寿を神明通りで見ている。それから40年近く経って、染織家の故久保田一竹氏の御自宅を訪問したさい、一竹氏が見せてくださった衣装パフォーマンスの記録ヴィデオに花ノ本寿が主演していた。そこでこの人の名前を聞くとは思わなかったので懐かしく、子供のころに夢中になった高丸・菊丸を思い出したのだった。 『宇都宮釣天井』はマキノ雅弘監督ではなかったか。あるいは『透明人間』や『明智小五郎と少年探偵団』。 『ゴジラ』やその2作目の小田基義監督『ゴジラの逆襲』、翌年の本多猪四郎監督『空の大怪獣ラドン』、おなじく2年後の『大怪獣バラン』。東宝怪獣映画はほかに『モスラ』や『マタンゴ』もあるし、岡本太郎がデザインしたヒトデのような宇宙人が登場する『宇宙人来襲』も観ている。 制作年度は順不同ながら、衣笠貞之助監督『地獄門』。大友柳太郎主演『鳳城の花嫁』。木下恵介監督、高峰秀子主演『二十四の瞳』、同じく高橋貞二・田中絹代主演、舞台劇のセットのような特異な美術だった『楢山節考』、会津若松ロケの『惜春鳥』、しばらく後の『笛吹川』。 市川昆監督、安井章二主演『ビルマの竪琴』。北林谷枝の物売り婆さんの鸚鵡が「ミズシマ、ミズシマ、イッショニ、ニッポンヘ、カエロウヨ」と言う、その声がいまでもはっきり耳に残っている。そして日本兵たちが合唱する「埴生の宿」----。 市川昆作品では市川雷蔵・京マチ子主演の『ぼんち』や、モノクロのスタイリッシュな映像が美しかった『雪之丞変化』。 市川雷蔵主演作は『眠狂四郎無頼控』シリーズの初期のものを何作か観ている。また『忍びの者』は名作といってもよいだろう。共演の伊藤雄之助がすばらしい。あっそうだ『陸軍中野学校』も雷蔵だ。 大映映画は勝新太郎と田宮二郎の『兵隊やくざ』がある。田宮作品は後に『黒の試走車』も観た。『第五福竜丸』も大映の作品。 今井正監督『米』『キクとイサム』。豊田四郎監督『夫婦善哉』、同じく山口淑子主演で『白夫人の妖恋』。五所平之助監督の4作品『黄色いからす』『挽歌』『蟻の街のマリア』『猟銃』。内田吐夢監督、中村錦之助主演『宮本武蔵』。そうだ、中村錦之助といえば織田信長を演じた作品はなんというタイトルだったろう。 日活映画は石原裕次郎主演作品の数々。『乳母車』『鷲と鷹』『嵐を呼ぶ男』『風速40メートル』『陽のあたる坂道』『赤い翼』。そして小林旭の『渡り鳥』シリーズ。赤木圭一郎主演、松尾昭典監督の『打倒(ノックアダウン)』。 黒澤明監督の『蜘蛛巣城』は、私の映画に対する視点を一変させたといってよいかもしれない。この映画は各シーンがあざやかに記憶に残っている。黒澤作品は欠かさず見た。『隠し砦の三悪人』(58年)、『悪い奴ほどよく眠る』(60)、三船敏郎が口笛を吹いていた曲を、いま私は吹くことができる。『用心棒』(61)、『椿三十郎』(62)、『天国と地獄』(63)。私は宮川一夫氏のカメラがつくりだすモノクロ画面の美しさに陶然とした。『用心棒』を見てきて、上級生に一部始終を語って聞かせながら、大樽の積まれた倉庫でのチャンバラ・シーンの光の扱いや、モノクロの黒味のかがやかしい深さを事細かに説明した。上級生たちはみな、目にみえるようだと感心してくれた。私は嬉しくなって一層映画に夢中になった。 森繁久弥主演の喜劇『駅前旅館』シリーズや『社長漫遊記』シリーズ。同じ東宝映画の加山雄三主演『若大将』シリーズ。加山雄三宅も、父親役の有島一郎宅もかつての我家からさほど遠くない所にあった。ある夜更けに私が花輪莞爾夫妻宅に遊びに行っての帰り、有島宅の前を通りかかると、なんと有島一郎氏がお亡くなりになって玄関先があわただしかった。それから数カ月後だったと覚えているが、有島邸がなくなっていることに気がついた。 堀川弘通監督も東宝の方だが、『猫と鰹節』や『白と黒』を見ている。『白と黒』には衝撃的なシーンがあり、それだけでも私の好きな作品だ。堀川監督の御自宅も我家のごくごく近所だった。文字どおり目と鼻のさきだったのだが、残念ながら一度もお姿をおみかけしたことはなかった。 稲垣浩監督、三船敏郎・高峰秀子主演『無法松の一生』。人力車の車が回るデザイン処理された画面で時の流れを表現していた。三船敏郎が小倉祇園太鼓を叩くシーンは吹き替えなしのように見えたが----。同じく稲垣監督『日本誕生』。原節子が天照大神に扮していた。こんなバカゲタ役をやらせたためか、この映画が原節子の最後の作品のはず。 すでに思い出した作品のなかにも、子供が見るにしてはマセタものが混じっているが、今東光原作の2作もその部類だろう。妖艶な筑波久子主演、阿部豊監督『春泥尼』と嵯峨美智子主演、酒井辰雄監督の『こつまなんきん』。 まだまだ思い出してきたが、もうそろそろおしまいにしよう。 高倉健・香川京子主演、植草圭之助監督『森と湖のまつり』。小林恒夫監督『点と線』および『月光仮面』。成瀬巳喜男監督『鰯雲』や『コタンの口笛』。宇野重吉が監督した菊村到原作の『硫黄島』。 新東宝の『明治天皇と日清戦争』『明治天皇と日露戦争』。嵐寛十郎が明治天皇によくにていた。 倉田文人監督、原節子・鰐淵春子主演『ノンちゃん雲にのる』。『ノンちゃん---』は映画教室だったと思う。鰐淵春子のヴァイオリン演奏に感心した。たしか私と同じ年齢だった。5,6年後のことだが、彼女が会津若松に映画のロケーション撮影にやって来た。弟が見物に行き、サイン帳にサインしてもらった。帰ってきて「万年筆のペン先が割れるほどガリガリ書いた」と怒っていた。何というタイトルの映画だったかは忘れてしまった。 清水宏監督『しいのみ学園』。この主題歌は、映画を観ているあいだに覚えてしまった。今でも忘れていない。唄うことができる。「ぼくらは椎の実、まーるい椎の実。お屋根に落ちて唄おうよ。お池に落ちて泳ごうよ。子豚に落ちて跳ねようよ、跳ねようよ」----。そして同監督、望月優子主演の『次郎物語』。 八千草薫主演の総天然色(そういう言葉があった)ミュージカル映画『蝶々夫人』。八千草薫が可憐だった。私は映画の終了後、映写室に行って、この映画のフィルムの切れ端をもらった。まだ少し熱をもったフィルムの匂いが、こうして書いていると蘇ってくる。 当時は日本的ミュージカル映画ともいうべき歌入りの作品がたくさんあった。股旅ものでも、道中をのんきに唄いながら歩いたり、くるりと回って笑顔をみせたりするのである。高田浩吉や美空ひばりの主演作がそうだった。『ジャンケン娘』は美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみが主演。『月がとっても青いから』とか『愛ちゃんはお嫁に』とか、歌謡曲をもとにした作品もあった。----あれは何というタイトルだったろうか、デビューしたてのまだあか抜けない島倉千代子がほんの少し出演し、「りんりん竜胆は濃紫」と唄っていたけれど---。 数日前に書いたけれど、『力道山物語』や『若ノ花勝治物語』も観た。 岡本喜八監督『暗黒街の顔役』や『独立愚連隊』『独立愚連隊西へ』『顔役暁に死す』。主演俳優佐藤允の特異な容貌にはびっくりし、感心したものだ。岡本監督の作品はもっと後に、『日本のいちばん長い日』や『肉弾』も観ている。じつは岡本喜八監督に映画を撮っていただきたくて、あるプロデューサーに頼んで連絡をとってもらっていた。監督は「いま新作を準備中」という御返事だったが、それがどんな作品か不明のまま昨年鬼籍にはいられてしまった。まことに残念というほかはない。 さて本当にこのへんで止めにしよう。まだ外国映画もあるが、これらが私の小・中学校時代の映画の記憶である。
Mar 12, 2006
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昼食後しばらくテレビで昔の時代劇映画を観ていた。1953年の大映作品、森一生監督、長谷川一夫主演『銭形平次捕物控 からくり屋敷』。原作はいうまでもないが、野村胡堂。私が8歳のころの映画。しかし観てはいない。 長谷川一夫の銭形平次はシリーズで何作もあるけれど、本作品が第一作なのかもしれない。このような大衆娯楽と蔑称される映画は、映画評論家と称する人たちは取り上げないし、上映記録などもあるのかないのか、入手することが難しい。私は戦前戦後のこのような映画がテレビ放映されるときはなるべく観て、記憶しようとしている。ストーリーは他愛なくとも、カメラ・ワークやセットや小道具、あるいは衣装の着付けなど、見るべきことはたくさんあるのだ。長谷川一夫はフレーム感覚が優れていたといわれているが、そういうことは実際に作品で見てみるしかない。別にそんなにしかつめらしく意識しているわけでもないが、言ってみればそのようなことを私は楽しんでいる。 『からくり屋敷』は題名からして私は見ないではいられない。なにしろヘンナ機械仕掛けやバカラシイ物の創案に目がないのだ。自分自身を合理性の勝った人間だと思っているが、エセ合理というか、合理性を目指しながら実はとても非合理なことというのがたまらなく好きだ。たった一杯のお茶をカップに注ぐために、ドミノ倒しのようにややこしい仕掛けを操作しなければならないような、マッド・テクニック。----私も中学生のころ、目覚まし時計が鳴ると自分の部屋の窓のカーテンが開き、ドアのフックがはずれる仕掛けを作って喜んでいたものだ。 昨年8月30日の日記にすでに書いたけれど、かつてテレビ用に作られた大川橋蔵主演の銭形平次シリーズのなかに、釣天井のからくり屋敷が出てくる一作がある。大きな木製の歯車が天井裏でガラガラ回るセットはじつに見事にできていた。その作品のいわば祖型がこの長谷川一夫作品にあるのではないかと思ったのである。 『からくり屋敷』の「からくり」は釣天井ではなく、床が沈むのだった。やはり大きな歯車やシャフトがガラガラと回転して、なかなかよく出来ている。私の好みからいうと大川橋蔵版に軍配をあげるが、それはカラー作品のため歯車に油が染み込んだ質感がすばらしく、また画面の構図も「大人」ぽかった。こういうバカバカシサは、照れて作ってはだめなのだ。日本の映画人は根が大人なのだろう、バカバカシサにとことん付き合えないのかもしれない。金がかかることだから金の問題だといえばそうとも言えなくはないが、見ている側からはマニアックな執着心が映像に感じられないことが多い。 大川版は天井裏というシチュエイションのためもあるが、歯車の回転をクローズド・アップで見せた。 長谷川版も直径30cmもあるような縦と横のシャフトが回転する装置を美術スタッフは作っているのだから、監督もカメラもそれを愛でてクロース・アップのワン・ショットがあってもよかったのではあるまいか。タイトルに絡むいいショットになったであろうに。 「おや?」と思うシーンがあった。銭形平次といえば一文銭をつぶてのように敵をめがけて投げ付ける。それがひとつの見せ場だ。ところがこの『からくり屋敷』にはその場面がない。シリーズの第一作目ではないかと前述した所以だ。しかしお金を投げないわけではない。投げるのだ。ただしそれが一両小判。 敵の巣窟に潜入して相対した平次は、切羽詰まって足許にちらばった小判を拾い投げ付ける。どうもあの名物投げ銭はここから発展したような気がする。野村胡堂の原作を読んでいないのではっきりしたことは言えないが、映像としてのルーツはこの『からくり屋敷』での小判投げのような気がする。 もうひとつ「ホーッ」と感心したことがある。幕府の老中に扮した俳優の顔が、現在では見かけない「殿様顔」だった。俳優の名前はわからない。殿様顔というのは、面長で耳が大きく耳たぶがふっくらして長い。鼻がおおきくややのぺらっとした鷲鼻にちかい。----私はこの映画で初めて見る俳優だった。大映と新歌舞伎が提携して制作した映画なので、おそらく歌舞伎からきた役者なのだろう。今ではこういう顔の俳優はもういないのではないか。 そうそう入江たか子もほんのワン・シーン出ていたけれど、この女優のような顔も最近の女優のなかにはいなくなってしまった。この人はたしか公家の出だったと記憶する。私は子供のころ彼女の化け猫映画をよく見たが、セリフ廻しに独特なものがあった。 どうでもいいことを一人で面白がっている。「大衆娯楽映画」の楽しみである。
Mar 11, 2006
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朝から降りつづいている雨は夜になっても止まない。気温も昨日よりは低く、寒い日温かい日が行きつ戻りつしている。 朝方、寝床のなかにいる私の腹の上から足許まで、大中小の猫たちがずらりと並んでのっかっていた。寒かったのだろう。可哀想だからそのまま寝返りもうたずじっとしていたが、腹の上にいるのは牡のロンで、さすがに体格もよいし体重もある。薄目をあけて「ロン、重いよ、降りなさい」といってみるが、ピクリと耳を動かしただけで眠っている。 両腿の上には一番下のフクが、ロンの尻に顔をくっつけるようにして寝ている。足首の上にはマリがいた。床の中の右脇腹のところにはマスクがいる。私はまったく身動きがとれない。磔(はりつけ)台にくくりつけられているようなものだ。 腰のところの背骨の彎曲部がロンの重みで押し下げられて、のしたスルメのように真直ぐになっている。いささか苦痛になってきたので自由になる左手を腰の下にいれ、背骨に彎曲をつくった。 そのうち眠ってしまったのだけれど、次に目覚めたときには左手が痺れていた。 郵便を取りに外へでて、鉢植えの白梅をみると雨にうたれて咲いていた。小さな鉢に盆栽のように矮小仕立てにしている。冬のあいだ鉢を地面のうえに置いて、丈のある常緑樹で寒さ除けをしておいたので、場所を移してやろうと鉢を手にとった。 アリャ? 動かないのだ。なんと鉢底の小穴から根をのばして、まるで直植えのように土中に張っているのである。これはしまった。冬のあいだじゅう、梅は狭い鉢から出ようとして、ばかな人間の考えを尻目に、土の匂いのするほうへと根をのばし、とうとう小穴をみつけて土中にもぐりこんだのに違いない。 梅の生命力を愛でるべきであろうが、このままパンツを穿いたように鉢を幹にぶらさげておくわけにもゆくまい。花期がおわったらなんとかしなければ。 ここで大きい鉢に植かえたなら、盆栽仕立てはどうなってしまうのだろう。梅はどんどん巨木になってゆくのだろうか。 閑話休題 10日付の朝刊に、作家の村上春樹氏が自筆原稿が本人に無断で出版社から流出しインターネットや古書店で売りに出ていることについて、「生原稿の所有権は基本的に作者本人にある」と、某誌に問題提起したことが出ていた。村上氏のような人気作家の直筆原稿ともなれば欲しいと思う人は大勢いるはずで、世評高い小説の完全原稿などは高値で売買されるのはまちがいない。 出版社から生原稿が戻らなかったり明らかに紛失してしまうことは、小説家ばかりではない。私のような画家・イラストレーターでもそのような事例は30件を下らない。こちらから内容証明便を出して、紛失してしまった(らしい)ことを確認したものもある。絵の場合、原画そのものでなくとも、印刷に適する精度で撮影された写真も管理の対象にしなければならない。事実、私はA社で刊行した作品を数年後にB社で出版したいという申し出があり、「その原画は紛失してしまった」と応えると、「ポジフィルムを持っている」と言うので驚いたことがある。この事例ではB社は、ポジフィルムを手に入れた経緯はともかくも、良心的だったわけで、ちゃんと使用料も支払われた。小説家と画家との違いを生原稿にみるなら、原画は後に独立した作品として売却することができるということである。前述の内容証明の一件も、小説の挿画なのだが、コレクターから一括購入の打診があったのだ。 すべての出版社が原画に対してズボラというわけではない。むしろそんなほうが少なく、たいていの出版社は丁寧に扱うし、金庫に保存したり保険まで掛ける社もある。しかしそれでも私の場合、30件の行方不明があるのだ。これをどう考えるとよいのか。----村上氏の問題を新聞で読みながら思ったことだ。
Mar 10, 2006
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買い置きしてあったはずのちょっと特殊な画材が底をついていた。これがなければ仕事が進まないので、買いに行くことにした。 遠出になるが自転車で行くことにした。というのは途中にいつも気になっている古本屋があり、これまで車で通り過ぎるばかりで、立ち寄ったことがなかった。きょうは是非覗いて、どんな種類の本を置いているか調べてみようというわけだ。 鼻歌まじりにペタルを踏む。このところ外出もすくなかったので、背中が凝ってきている。このままだとやがて腰に来てしまうので、ここでいっぺんに解きほぐそう。一種の荒治療だが、私にはこれが一番良い。 昔、30代のころにギックリ腰のひどいのをやったとき、股関節がかたくなり背筋力が衰えると腰にくるのだと言われた。その後もいつも重苦しさを抱えていたのだが、ひょんなことで軽快になってしまった。友人の家に招かれて、江戸神輿を担ぐはめになった。肉体労働の経験ひとつないのに、いきなりドカンとものすごい重量を担ったのだ。どうなることかと思ったが、負けずぎらいなうえに責任感が強いから、引き受けた持ち場を離れることはできない。鳶の親方に「上手い上手い」とおだてられ、身体を揉まれ揉まれて、終わったときにはまるで別人のような軽快な肉体を自覚した。筋肉が目覚めてしまったという感じだ。まさに荒治療だった。 あまり筋肉が目覚めると、絵など描く気がしなくなることも分ったので、ほどほどを学んだが、仕事疲れで背中が凝ってくると自転車で35,6kmも走ることにしている。 さいわい必要な画材はそろい、自転車を駐輪場にあずけて目指す古本屋に向った。 これが意外な穴場だった。品数が豊富というのではないが、人文科学関係から西洋古典文学までなかなかの本を揃えている。近頃の大型古本店は、いわば新刊本のセカンド・ハンド・ブックで、そういうものは安いし便利にしているけれど、古書を探す楽しみからは遠い。厳密にいうなら私の言うのも「古書籍」ではない、たかだか戦前から戦後の昭和30年くらいまで。しかしそんな程度でも、町の古本屋には置かなくなってしまった。 初めて覗いたこの古本屋は、30年代40年代を揃えているのだった。私は所持しているので買いはしなかったが、三島由紀夫の『鏡子の家』上下巻揃いや『三熊野詣』があったのも懐かしいが、高橋鐵の雑誌『あるすあまとりあ』なんて並んでいるのだから、「オッ、やるじゃないか」と嬉しくなった。隣あって昔私がやった雑誌もあるので手にとってみると、中の2册に私の絵が入っていた。「フフフ、この古本屋、これから贔屓にしようかな」 今日の買い物。 長澤規矩也『古書のはなし』富山房刊 金平聖之助『世界のペーパーバック』出版同人刊 前者は和漢籍の書誌学の本。著者の故長澤規矩也氏については三省堂『明解漢和辞典』の編著者だと言えばお分かりになるだろう。50年以上の長きにわたって静嘉堂文庫をはじめ内閣文庫、輪王寺天海蔵、足利学校所蔵古書の目録を編纂し、また富山房刊『漢文大系』22巻の解題補を執筆しておられる。 後者はペーパーバックについての研究書。近く御紹介しようと思っている尾崎俊介著『紙表紙の誘惑』においても、参考文献としてあげられている。 他に、猛烈なスピードで読書三昧の母用に次の2点、3册。晴耕雨読というけれど、彼女の場合は晴読雨読。 宮尾登美子『朱夏』上下巻 泡坂妻夫『迷蝶の島』 「お買い物は自転車に乗って」という昔の流行歌があった。誰がうたっていたかも、どんな歌詞だったかも忘れてしまったが、夕方になって少し冷たくなってきた風を切って私は買い物帰りの自転車を走らせた。
Mar 9, 2006
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ドラクロワの日記のなかには購入した画材の値段などがことこまかに記録されている。ヌード・モデルへの支払いも書かれていて、それもかなり頻繁に出てくる。どのような勉強をしていたか、あるいは何について苦悩していたか、ひとりの画家の生活と内面をなまなましく語っていて、私は若い時に座右に置いていた本である。 そのころ私も裸体を一生懸命勉強していたので、19世紀フランスですでに確立していた、割と気軽に依頼できる美術用ヌードモデルの存在をうらやましく思った。日本では練習用はともかくも、本画用のヌードモデルをさがすのはなかなか大変なのだ。練習用ならばどのような人であろうと、どんな体型をしていようと---ものすごく太っていようと、ガリガリに痩せていようと、極端なことを言えば、すべてが「人体」として勉強できる。むしろいろいろな身体を見たほうがいい。 しかし、作品(本画)となると必ずしもそうではなく、モデルに対する欲もでてくる。 「この絵はモデルがあるのですか?」と、これはしばしば受ける質問なのだ。とくにその質問が男性観客から発せられる場合、言外に「いいなぁ、こんな若くて綺麗な女性のヌードをみられて」という気持があるかもしれない。いや、確実にそうで、そのうらやまし気な気持は隠しようもない。 私はいつも曖昧な返事をするけれど、正直に言えばモデルがないわけではない。とくに私の画風は、幻想画といわれるけれどいわば写実的幻想である。しかも挿画でないかぎり、登場人物は男女ともほとんど裸体である。これには理由があって、現在のように衣服がみなブランド化していてはデザイナーが判明してしまうからである。私は作品にファッション性を与えたくないのだ。そのため人体から衣服をはぎとってしまうことにした。自分でも実に困難な道を選んでしまったと思うときがあるけれど、そんなわけで、裸体は私にとって「抽象的人間」ではない。かといってモデルの個性を描こうとしているのでもない。「モデルがあるのか」と尋ねられて、私の返事が曖昧になるのはそのためだ。なにもそこまで正直にならなくとも、イエス、ノーで応えれば済むのだが。私はモデルの裸体に、私の思想を託しているのである。 画家とヌードモデルの関係は、ピカソがそれを主題にして大きな系列を成しているように、石部金吉でもないし朴念仁でもない。しかし男性観客がうらやましがるようなセクシャルな匂いはまず無いといってよいかもしれない。医者のように科学標本を観察する目なのだが、同時に感動もしているのだから、画家は画家なのだ。 練習用のヌードモデルのなかにも、自分の個性をよく知っていて、裸の自分を効果的に見せることができる人がいる。演技をするわけではないが、脚の位置や、腰のおろしかた、あるいはちょっとした横顔と眼差し。そうした何気ないことでも、「私はここに居ます。さあ、描いてください」と身体が言っているのである。こういうモデルに出会うと、こちらもト胸を突かれたように気合いがはいる。「いいね、いいね」と内心で呟いているのだ。こういう時が、画家とヌードモデルの「いい関係」なのである。 私は自分の場合しか知らないが、「のせ上手」という画家はいるであろう。画家ではないが、私はかつて著名写真家の某氏の撮影現場を拝見したことがあるけれど、彼は「のせ上手」で、ひっきりなしに「いいね、いいね、ウーン、すごいすごい」などとモデルに声をかけていた。そう言われるとモデルも悪い気がしないのだろう、動きが自発的になって、たしかにのびのびしてくるのである。 写真家はそんな励ましの声をかけながらモデルに近づいたり離れたり、回り込んだり、カメラを取り替えたり、傍で見ているとマァ良く動き回っていた。そんなところは画家とはまったく異なるわけだ。 しかし、画家も離れた固定位置から見るだけでもない。嘘か本当か知らないが、藤島武二(1867―1943)はモデルを舐めたという。藤島武二の真意はわからない。が、私は納得できなくもない。私自身、まさか舐めはしないけれど、掌で撫でさせてもらったことがある。目でとらえきれない感覚があるのだ。柔らかさだとか、逆に固さだとか、滑らかさだとかザラつきだとかだ。掌でとらえたことが、絵の具という物質に代替して表現せられる。つまり、この程度でいいやということを掌の記憶が拒否するので、表現の追求の度合いが深くなるのである。 もっともそんなことを、しょっちゅうお願いするわけにはゆかない。「いいかげんにしてよ、このエロ親爺!」と殴られないとも限らない。モデルは宝物、大切に扱わないといけない。 ダリのところには美青年がヌードモデルに使ってほしいとやって来たらしい。ダリ自身が言っていることではないので真相は分らないが、それを見ていた人が書いているのだから事実なのだろう。 かつてエコール・ド・パリの時代、モンマルトルの画家たちに愛されたキキというモデルがいた。藤田嗣治やキスリングがたくさん彼女を描いている。キキがなぜ大勢の画家たちに気に入られたのだろう。「なぜ?」そこに私は興味を惹かれる。
Mar 8, 2006
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しばらくぶりでミステリ作家の折原一さんとメールでお話をした。折原さんは絵画のコレクターでもある。仕事場の一室を絵画展示室にし、それ以外にもあっちの部屋、こっちの部屋と絵を飾っている。飾れない所蔵品は函にいれて収蔵庫に積んである。 折原さんのコレクションの仕方は純粋で、御自分の感性に忠実なのだ。主体はいわゆる幻想絵画なのだが、好みが明確である。しかし展示会やオークション会場にはまめに出かけて、下見や調査は怠らない。そういうところが本来の感性をますます磨くのかもしれない。たとえば額の選定が玄人はだしなのだ。額というのは、いわば絵画の最後の仕上げ。「馬子にも衣装」というのは、本体をみくびった言い方で、画家の私が言うのも癪だが、実際、「馬子にも衣装」という要素はある。いや、それだけ難しいということでもあるが、私が拝見した折原さんの額の付け方には感心した。 折原さんが私の初期作品の画像を探しだして下さったことは、このブログでも書いた。私はその作品の記録写真を所持していなかったのだ。現在の所蔵者は不明だが、折原さんのお蔭で画像だけは手に入れることができた。 きょうのメールの末尾にこんなことをおっしゃっている。 「山田さんの例の初期の絵にしても、いろいろな人の手をめぐって、今はどこにあるのでしょうか。人間の運命にも似て、おもしろいものですね。」 まさにその通りで、それが自作ともなればその感慨は作者にしかわからないことかもしれない。折原さんが所蔵してくださっている作品や花輪さんが所蔵している作品を別にして、拙作の所蔵先が不明なものは多く、どこかで生き長らえているのか、それとも破壊されてしまって存在しないのか----。画家は1作に人生をかけているだけに、作品への思いはひとしおなのである。 拙作の行方の話などおこがましい。 美術史上の名宝の運命についてお話ししてみよう。 ちょうど20年前、文藝春秋から翻訳が刊行されたトマス・ホーヴィング著『謎の十字架』という本がある。副題に「メトロポリタン美術館はいかにして世紀の秘宝を得たか」とあるように、現在、同美術館附属クロイスターズ中世美術館が所蔵する‘King of the Confessors(懺悔する者たちの王)’と称される象牙彫の十字架をめぐるまことにスリリングな回想記だ。 著者はメトロポリタン美術館館長だった人で、下級キューレーター時代に、かつて美術史に現われたことがない謎の銘文を刻んだ十字架に出会った。学問的裏付けが取れないこと、また所蔵来歴のきわめて怪しいこと、真作か偽作かも不明ながら売り値がばか高いこと等ありとある負の要因がまといついた品物を、ついに同美術館に収蔵したその張本人である。 やがて明らかになるユダヤ人虐殺を秘めた中世の闇。怪し気な所有者がスパイとして辿った複雑怪奇な現代史の暗部。美術館関係者や美術商たちが繰り広げる権謀術数。いやはや世に名宝といわれる美術品の運命は、まさに事実は小説より奇なりなのである。 表と裏に聖書にもとづくごく小さな彫刻をほどこした五つの部分を寄せ集めた、丈60cmのややゆがんだ十字架。私はこの十字架をクロイスターズの宝物室でみている。 この十字架について解説する余裕はない。なにしろ1册の本が書けたのだから。世界の大美術館の美術品獲得の熾烈な舞台裏とともに、興味のある方は『謎の十字架』を読んでいただきたい。 上記の十字架が「懺悔する者たちの王」と称されるなら、「彩飾写本の王」といわれるリンブルク兄弟がベリー公爵のために制作した写本がある。彩飾写本は中世美術を語るうえで欠かすことができない。リンブルク兄弟によって制作された写本は2册現存し、そのうちの1册はクロイスターズの宝物室のケースの中にも展示されていた。 「彩飾写本の王」といわれるフランスのコンデ美術館が所蔵する『ベリー公の豪華時祷書』は、おそらくその一部くらいは皆さん写真でご覧になっていると思う。しかし、コンデ美術館に収蔵されるまでの来歴についてはあまり一般に知られてはいないかもしれない。私は影印本をニューヨークの美術書店でみつけて所持している。そのなかに解説として短い論文が収められていて、それによって私は初めて詳細な履歴を知った。それを部分的に抜いて、ここに翻訳してお目にかけよう。こんな世界の至宝がまったく行方が分らなかった長い時期があったという。美術品の運命の不思議が、『ベリー公の豪華時祷書』にも言えるのである。『ベリー公の豪華時祷書』について ジャン・ロンノン、レイモン・カゼユ 14世紀後期から15世紀前期にかけてのフランスは、不安と紛争の混乱した時代だった。しかしながら美術史においては、ひとりの偉大なパトロンが生きていた。彼の気前よさと想像力に富んだ援助は、今日、『美麗時祷書』Les Belles Heures(ニューヨーク、メトロポリタン美術館 付属クロイスターズ所蔵)、および『豪華時祷書』Les Tres Riches Heures (シャンテリー、コンデ美術館所蔵)として知られ、三人のリンブルク兄弟がそれらのミニアチュアを描いたこの上なく美しい二册の装飾写本の制作を可能にした。 ベリー公爵ジャンは、1340年11月30日に、男爵にして後のフランス王(在位1350―64)ジャン2世の第三子として、ヴァンセンヌ城に生まれた。兄弟にシャルル5世王(在位1364―80)、アンジュー公爵ルイ1世、ブルゴーニュ公爵フィリップ豪胆公がいる。また、シャルル6世王(在位1380年―1422年)とオルレアン公爵ルイはかれの甥である。彼は1360年に特権としてベリーとオーヴェルニューの公爵領を受領した。加えて1369年にシャルル5世は、最近ジャンによってイギリスから所有権を取り戻したポワトーを彼に与えた。 彼は二度結婚した。最初は1360年にアルマニャクのジャンヌと。そして彼女の死後、1389年にブーローニュのジャンヌと。 ベリー公はフランス王たちの息子として兄弟として伯父としての立場によって、その生涯の晩年になってむりやり政治に関らせられることになった。特にシャルル6世の狂気で持ち上がった紛争の時期に、彼は実質的に調停者の役割を果たしたのだった。彼は自らの影響力を行使して三つの主要な目的に集中した。すなわちイギリスとの交渉、ヨーロッパのキリスト教国を分割する大宗教分裂の終結、そしてバーガンディ家とオルレアン家との対抗により恒常的に紊乱された平和の再建であった。 オルレアンのルイが1407年に殺害されると、ブルゴーニュ公爵ジャン大胆公の険悪な野心は、ベリー公に対しむりやり政治的責任をとらせた。彼は即座に〈武装狂〉の頭のことを考えさせられた。 反バーガンディー派(オルレアン家側)はパリの人々にひどく憎まれていた。1411年、彼のパリの邸宅オテル・ド・ネスルが掠奪された。また首都郊外の彼のビセートル城が掠奪され放火された。翌年、彼はベリーの首都ブールジュにおいてバーガンディー派に包囲攻撃された。そして1413年、カボシアン運動によって結成された過激派が、強制的に彼をノートルダ修道院に避難させた。そして1415年、フランス軍はふたたびイギリスと交戦し、アギンコートで悲惨な敗北を喫したこと知ったのだった。多くのフランスの貴族が殺されたり、虜囚となった。そのなかには、公爵が可愛がっていた孫や、オルレアンのシャルル、それにユー伯爵が含まれていた。致命的な戦いによって、深い悲しみにつつまれた。これらのドラマチックな事件からようやく回復した公爵は、その後まもなく、1416年1月15日にオテル・ド・ネスルで逝去した。 (略) 『豪華時祷書』は常に「彩飾写本の王」と言われて引き合いに出される。しかし絵画全史の頂点に立っている以上のものなのである。 ベリー公爵とリンブルク兄弟の死によって、『豪華時祷書』は未完成のまま残された。後に別の美術家によってまったく異なったスタイルで完成された。悲しみの男の図 (no.75) は、この写本の第二番目のパトロンであるサヴォア公シャルル1世と妻のブランシュ・ド・モンフェラートを示している。シャルル1世は1485年にブランシュと結婚し、四年後の1489年に死んだ。『豪華時祷書』はこれら二つの日付の間に完成されたに違いない。この写本がサヴォア公爵夫妻の手に渡ったことは、驚くにあたらない。ベリー公爵の二人の娘のうちの一人ボンヌは、サヴォアのアムデエ2世と結婚していた。そのためアムデエ2世の直系世襲者であるシャルル1世公爵が、『豪華時祷書』を相続したのである。 (略) サヴォア公爵の運命は、『豪華時祷書』を長いあいだ楽しむことはできなかった。彼は子供がなく、全財産を彼の第一等の従弟フィリベルト・ル・ボー公爵に遺贈して、1491年に死んだ。フィリベルトもまた子孫を残さず死に、この写本は彼の未亡人オーストリアのマルガレーテに遺された。彼女はマキシミリアン皇帝の娘だった。当時、皇帝はオランダを統治していた。研究者ポール・デュリューは、王女がオランダに運んだサヴォア家に属していた写本類の中に『豪華時祷書』が含まれていた可能性を論証した。1523年のメクリンの王女の礼拝堂に「手書きの大きな時祷書」と記載された物と『豪華時祷書』とは同じ物であり、1530年にマルガレーテの死によりこの時祷書は、ドイツのカルル5世の出納長にして主計長官、またマルガレーテ王女の遺言執行者の一人でもあったジャン・リュフォーの所有に帰した、と彼は論じたのである。 この写本はその後三世紀のあいだ消息を断ち、もし18世紀に、スピノラ家の武具紋章で装飾された赤いモロッコ革で装幀されていなかったなら、まったく知られることはなかったかもしれない。ジェノアのこの名門一族がどのようにしてこの写本を取得したかは謎のままである。しかしこの一族の軍事的活躍によって、それを説明することは的外れではない。特に17世紀にスペイン領オランダのアンブロシオ・スピノラの存在である。 『豪華時祷書』は結局、スピノラ家から次の所蔵者セラ家一族の手中に渡った。スピノラ家の紋章をおおった前表紙にセラ家の楯形紋章が付けられた。その後さらに、トリノに住んでいたフェリックス・ド・マルゲリータ男爵に渡った。 19世紀の半ばに、フランスのオーマル公爵はこの写本の価値を調べた。1855年にジェノアに旅行した折にそれを見たのだった。1月図の中の公爵の肖像、多数の熊、傷ついた白鳥、謎めいた " VE " という大文字 (no. 14)、そして赤色のぎざぎざ模様を付けた百合の花の紋章によって、オーマル公爵は即座にそれがベリー公爵のために制作された作品であると認識した。 しかし依然として、それがジャン・ド・ベリーの膨大な時祷書の中の写本と同じものであるかは分からなかった。 1881年2月14日、著名な学者レオポルド・デリスルは公爵に宛てて次のような手紙を書いた。 「閣下、あなたのベリー公爵の時祷書が以下の記事、すなわち聖ジュネヴィエヴ図書館に保存されていた〔ポールと彼の兄弟が美しい挿画と装飾を制作して開始された非常に立派な時祷書の折丁数点入りの箱―500リーブル〕という、公爵の死後に評価が作成された財産目録の中の公式記録に照応するものであることに、私は疑念を抱くものではございません。」 デリスルの意見は三つの事実に基づいていた。未完成の写本に関する財産目録の高い評価。ベリー公爵の財産目録には他に未完成の時祷書がまったく存在しない。そして、三人の美術家の共同制作についてはこの本の始めの部分の中にある「陛下によって認められた異なった手」という記述が説明しているであろうこと。 サヴォア、オランダ、そしてイタリヤと巡った後、ついにフランスに帰還した『豪華時祷書』は、その正しい帰属を発見したレオポルド・デリスルに感謝している。そして『豪華時祷書』は、オーマル公爵がフランス学士院に気前よく寄贈した全コレクションとシャンテリーの地所の中に含まれている。それは1897年以降、この学術機構に所属し、コンデ美術館の最も貴重な宝物の一つを構成しているのである。 (翻訳:山田維史)
Mar 7, 2006
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午後所用で外出するとき、玄関を出掛けにふと見れば、鉢植えの矮小仕立ての白梅がいまにも咲きそうになっている。もう2,3日かと思いながら住宅街を歩くと、他家の塀越しに紅梅白梅が咲きこぼれていた。連翹(レンギョウ)の鮮やかな黄色もあった。空気のなかにほのかに甘い香りがある。それはまちがいなく早春の香だった。 いまこのタイトルを「梅咲き春生れ」とした。作家の梅崎春生(うめざきはるお)氏のもじりである。梅崎春生というのはペンネームで、「梅が咲き春が生れるということから思いついた」と、作家自身が昔なにかに書いていた。だから私は、もじりをもじった訳だ。陽気がいいと、ついこんなことを思い浮かべながら歩いている。 昼食後のコーヒーを飲みながら母が、買い置きの本がもう最後の1冊になったと言う。広瀬仁紀『河原町三条下ル 龍馬暗殺』がそれ。この小説、冒頭で龍馬は殺害されてしまうのだが、一緒にいた中岡慎太郎の行動が史実として伝えられていることと違うらしい。私は読んでいないから詳しい内容は知らないが、母の説明だとそういうことになる。で、しばらくの時間、私が知っている「史実」を話して聞かせた。 その後の外出だったので、用事がすんでから、例によって母のための本を買込んだ。 高橋治『春朧』上下巻 横山秀夫『半落ち』 池波正太郎『真田騒動』 安部龍太郎『黄金海流』 菊池・伊東・横田編著『写真集土方歳三の生涯』 写真集をパラパラ繰ってみたら、歳三が会津若松に行った関係から、同市栄町の興徳寺や、古い七日町、あるいは大町の清水屋旅館跡の現・大東銀行、東山町の天寧寺、追手町の鶴ガ城遠望など、私にとって懐かしい写真が10数枚入っていた。 私自身のための本も2册購入。 瀬島龍三回想録『幾山河』 今村昌平『ええじゃないかエッセイ』 今村昌平氏の本は、映画『ええじゃないか』のシナリオ決定稿が収録されていて、これがお目当てだったが、帰宅して扉をあけてビックリした。なんと今村監督の直筆署名が入っていたのだ。某氏に贈呈したもので、1982年7月5日の日付けもある。思わぬ掘り出し物だった。 嬉しい日は嬉しいことが重なるもの。 ミステリ作家の折原一氏が新刊の『天井男の奇想』(文春文庫)を贈ってくださった。ありがとうございます。読み終わったらこのブログで御紹介させていただきます。 さらにもう一つ、花輪莞爾氏が國學院大学紀要第44巻に発表した『夢日記事始17』の抜刷を贈ってくださった。ありがとうございます。 さらにさらに、作曲家の新実徳英氏からはお葉書。氏のシンフォニック・オペラ『白鳥(しらとり)』が3月10日および11日にNHK、BS2「クラシック・ロイヤル・シート」で放映されるとのこと。Oh! これは楽しみだ。 放映日時:3月10日(金) 24:30~25:53 3月11日(土) 午前0:30~1:53 忙しさにかまけて贈呈された本の御紹介を書こうと思いながらなかなか果せないでいる。尾崎俊介氏に頂戴した『紙表紙の誘惑』もその1冊だ。読了しているにもかかわらずだんだん机の上にたまってゆくので、今週末には仕事を休んで、御紹介の約束を果そうと思っている。せっかく御著書を贈ってくださった著者のみなさん、どうもすみません。そして本当にありがとうございます。 梅咲き春生れ、友人知人はみな大活躍だ。私もせっせと仕事をしなくちゃ!
Mar 6, 2006
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1970年代、新宿駅南口下のパチンコ店やポルノ・ヴィデオ・ショップなどが並ぶ通りのはずれに、1軒の古本屋があった。しもた屋ふうのガラス引き戸の店構え、ゾッキ本(二足三文のたいした価値のない本)が主な商いで、ときどき見かける客は風俗本をながめていることが多かった。 しかしじつはこの古本屋、意外な穴場で、店内右手の棚1間半ほどをよく見ると、ゴシックロマンや暗黒文学の珍しい本が挟まっていることがあった。値段も、もし同じ本を神田の専門店ならばこれでは買えないだろうという、かなり安目に付けてあった。私は学生時代、そういう本を探しに、この一見二の足を踏みそうな古本屋を訪ねたものである。 しばらく足が遠のいていた77,8年頃、私はどうにかイラストレーターとして仕事ができるようになっていた。財布の中身は学生時代よりはましになっていたとはいえ、とりあえず必要がない高価な本は買えるはずもなかった。ある日、その古本屋の前を通った。日に褪せた埃っぽい小さなショーウインドウをなにげなく見やって、私はいきなり心臓の鼓動が早くなり唇が乾いてしまった。目を疑うような和書が立てかけてあったのだ。私はガラスに額をくっつけるほど近づいて目をこらした。 『機巧図彙(からくりずい)』 まぎれもない。「土佐のからくり半蔵」といわれた細川半蔵頼直が寛政8年(1796)に著した珍本中の珍本。いわゆる「茶運人形」などの仕組みを図解した、いうならば江戸時代のロボット工学の秘伝書である。 科学史の研究者さえ、実物を見たひとはほとんどいまい。そんな本が、こんな所に! 私は汗をかくというより悪寒が走り、頭のなかが真っ白になっていた。そこに墨書きされた値段は、とても私の手におえるようなものではなかった。くだらないことを何でも記憶している私だが、その値段がいまでは幾らであったか全然記憶にないのだから、余程舞い上がっていたのだろう。 私はたびたび、財布の中身と相談してもどうにもならない思いをしているが、この『機巧図彙』もそのひとつだ。 細川半蔵著『機巧図彙』は、長らく幻の書として、研究者はその存在を探索していた。60年代半ば(昭和40年頃)になって、さるところで実物が発見され、愛知県春日井市に在住のからくり人形師・故7代目玉屋庄兵衛氏が、その図解をもとに「茶運人形」を復元製作した。 「茶運人形」というのは、童子が茶碗をささげてやってくる、その茶碗を取り上げて一服し、空になった茶碗をもとに戻すと、童子はくるりと向きをかえて去って行くというもの。鯨の鬚がゼンマイの材料として使用されていたことが判明し、玉屋庄兵衛氏もそれと同じ物をつくり、人形はみごとに動いたのである。ヨーロッパにオートマタと称す自動人形があるが、それとまったく同じ純日本製ということになる。 7代目玉屋庄兵衛氏が参考にした『機巧図彙』と思われるが、1972年、科学史を研究していた立川昭二氏が法政大学出版局刊「ものと人間の文化史叢書」の1冊として『からくり』を上梓し、そのなかに図版として掲載した。おそらくこれによって広く一般に『機巧図彙』が知られるようになったのではあるまいか。 じつは私は、例の古本屋で見た『機巧図彙』について、いささかの疑念をもっている。いや、真っ赤な偽物というのではない。寛政8年刊行のものではないのではないか、ということだ。 それはどういう意味か。 1976年、東京の恒和出版というあまり知られていない出版社から、青木国夫ほか編『江戸科学古典叢書』が刊行された。その第3輯というのが『訓蒙鑑草』3巻と『機巧図彙』3巻とを1冊に合本したいわゆる復刻版なのである。しかも復刻版とはいっても現代活字によるのではなく、江戸時代の原本をそのまま複写し、写真製版したものだ。影印本という。ここがミソで、研究者や好事家にはまことにありがたい。少部数の限定出版、大学図書館や数人の好事家の手中に納まったのであろう。 私が見たのはこの影印本だったのではないか。その可能性はきわめて高い。まず間違いないだろう。 ただひとつ気掛りなのは、もしその影印本ならば私が見たのは刊行後間もない頃だったが、あの古さは何事だろう。しかも函に入っているのでもない剥き出しの和書だった。影印本古典叢書が、函にも収められず、剥き出しのまま発売されるということはまずない。----逃がした魚は大きいというが----。 ところで、どうやら大阪に住んでいた井原西鶴(1642―1693)は「茶運人形」を見たらしい。彼の著作のなかにその記述がある。が、彼の見たものが土佐のからくり半蔵こと細川半蔵が製作した「茶運人形」ではないことは確かだ。西鶴は半蔵より100年も前の人である。 私はとてもおもしろく思っているけれど、江戸時代の庶民はロボット工学に夢中だったのではあるまいか。愛知県や三重県や和歌山県のいわゆる東海3県、また岐阜県などにも、江戸時代のからくり人形の山車が現在に引き継がれている。先の玉屋庄兵衛家も尾陽木偶師として現在9代目が活躍している。幕末のからくり人形師田中久重の『弓曵き童子』は確かテレヴィでも紹介されたことがあったが、この人物が後の東芝の創業者であるというのがなんとも嬉しい。現代日本の最先端科学技術が「からくり人形」に直結しているのだ。 アメリカのマサチューセッツ工科大学(MIT)の学生が始めたロボット・コンテスト(ロボコン)は、いまや日本でも高校生をまじえて行われているが、江戸時代の祭りに繰り出す山車の「からくり人形」の数々は、まさにロボコンの感がある。こういうものに浮かれて、気もそぞろになってしまう私なのだが、一昨日、昨日と人形をめぐって書き、連想的に『機巧図彙』を取り逃がしたことを思い出した。 そうそうこういう記事のときの恒例で、人形が登場する小説をあげておきましょうか。 大坪砂男『髯の美について』 中井英夫『人形たちの夜』 高木彬光『人形はなぜ殺される』『大東京四谷怪談』『蛇神様』 泡坂妻夫『乱れからくり』 S・A・ステノマン『マネキン人形殺害事件』 コナン・ドイル『踊る人形』(『シャーロック・ホームズの生還』所収) ディクスン・カー『曲った蝶番』 アンリ・ド・レニエ『フォントフレード館の秘密』 オーギュスト・ド・ヴィリエ・ド・リラダン『未来のイヴ』 ロレンス・ダレル『トゥンク』『ヌンクァム』(『アフロディテの反逆』第2部)
Mar 5, 2006
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東京世田谷区の北烏山に寺町といってよい静穏な一画がある。私はかつてこの近辺に住んでいたころ、しばしば散歩コースにしていた。関東大震災後に、壊滅状態の寺院をそれに附属していた墓地ごとこの北烏山に移転したのである。したがって大寺院もあるのだが、いずれも古刹というわけではない。が、興味深いのはその墓地で、江戸の著名人の墓が数多く移されているのだ。墓石は江戸以来のものである。 全部あわせると広大な面積になるから、そのすべてを隈無く探索したわけではないが、私が訪ねたものだけでも、浮世絵師喜多川歌麿、『江戸名所図会』の插絵師長谷川雪旦、赤穂浪士の大高源吾と橋の別れをする俳人宝井其角、『春色梅児誉美(しゅんしょくうめごよみ)』の人情本作者為永春水がある。いずれもそれと気付かぬほどのつつましい墓石である。 それももっともで、歌磨は文化元年(1804)に『太閤記』に材をとった風俗画が咎められて手鎖50日の刑に処せられ、失意のうちに文化3年に没している。享年54歳。また為永春水も天保の改革で、全作品が風俗壊乱の書という汚名を着せられて絶版にされ、手鎖に処せられた。天保13年(1842;天保14年説もある)没。享年54(55)歳。----処刑された者の墓をおおっぴらに建立することはできなかったであろう。しかも著名人とはいえ「たかが」町人の分際で。----私は参詣した折に、彼らの墓を頭を撫でるように撫でたのだった。先輩画家という敬意も込めて。 ところでこんなことから書き始めたのは、昨日、雛祭りにかこつけて人形のことを話し、長谷川雪旦の墓がある同じ寺院の墓地に、幕末から明治にかけて庶民の人気を博して活躍した活人形師安本亀八の墓があることを思い出したのだ。安本亀八の墓は大層立派だ。墓石は丈2mを超えるかもしれない。幅も90cmくらい。同寺院の墓石群のなかでも抜きん出ている。 私は「なるほど」と一人合点した。安本亀八は人形師ではあるが、当時の世上としては大道芸人とは言わないまでも見世物興行師だったので、遺族たちはその生前の人気を誇ると同時に芸人らしい「見栄」もあったのではあるまいか。 活人形というのは、等身大のまるで生きているがごとき人形のことである。記録によれば嘉永5年(1852)、大江新兵衛という興行師が大阪の難波新地で型抜きして作った等身大の役者似顔人形なるものを披露して驚かせたとある。しかし「活人形」という名称をもちいたのは大江新兵衛の名声を聞いて「興行」を学ぶべく弟子入りした熊本出身の人形師松本喜三郎(1825―1891)である。新兵衛に遅れること2年、安政元年(1854)に同じ難波新地で、松本喜三郎は「活人形元祖肥後熊本産松本喜三郎一座」の看板を立てて、「鎮西八郎嶋廻り」という人形興行をした。この看板に書かれた「活人形」というのが初めであるという。 ところで先の安本亀八は松本喜三郎より1歳年下で、郷里も同じ熊本であった。松本は熊本井出ノ口(現、迎町)、安本は熊本迎宝町。ふたりは終生の競争相手だった。 熊本のこの地から、同時期に、ふたりの異才の人形師が出たというのは面白い。どうやらこの地が肥後象嵌や山鹿灯籠の手作り工芸の生産地であることと無関係ではないようだ。また、物の本によると7月に行われる地蔵祭りというのが、人形などの見世物をならべるらしい。おそらくそのような環境が生んだ異才なのであろう。 松本喜三郎は難波新地の興行が大成功だったので、翌年2月に同じ出し物をもって東京の浅草へ進出する。東京でも大喝采をあび、さらに明治4年(1871)にやはり浅草で公開した登場人物130体にのぼる『西国三十三所観音霊験記』で名声は不動のものになった。翌5年(1872)には大学東校(現、東京大学医学部)から解剖を実見したうえで人体模型の製作を依頼されている。また日本で初めて義足を製作したことでも名を残している。現在熊本県指定重要文化財になっている同市浄国寺所蔵の『谷汲観音像』は、いまに伝えられた代表作である。明治の彫刻家高村光雲は松本喜三郎を近代彫刻美術の祖とみなしている。 かたや安本亀八は、現在ではいささかライヴァル松本の陰にかくれてしまったかもしれない。松本が浅草で『西国三十三所観音霊験記』を出していたとき、安本は難波新地で「一世一代生人形細工人安本亀八」の看板を立てて『日本名所』を興行した。「活人形」ではなく「生人形」となっているところが、なかなか含みがあって面白い。 その後、松本を追い掛けるように東京浅草に進出してくる。明治半ばには彼も「活人形」という名称を使うようになっていたらしい。「浅草公園花やしき細工人安本亀八」と名のっていた。「珍しき物無数陳列」と宣伝し、歌舞伎に題材をとった『阿古屋琴責』や、源平合戦から『一之谷組討』、あるいは時局をふまえた『旅順大海戦』、あるいは象や虎や孔雀などたくさんの動物をつくって陳列した。 安本亀八の名声が松本喜三郎の陰にかくれてしまったことについては、一つに、彼の作品がごく最近まで存在が確認されていなかったからかもしれない。近年、桐生市の織姫神社にある等身大の織姫像を修理のため調査したところ安本亀八の名前が出て来た。今後、あるいはこのような発見がないとも限らない。近代彫刻史にあらたな記述が増えるかもしれない。 とはいえ、じつは安本亀八の名跡は子孫に受け継がれていて、またその技術も立派に伝承されているのである。 人形作家として初めて人間国宝になった平田郷陽氏は、3代目亀八の孫弟子なのだ。平田氏は郷陽と陽光、ふたりの兄弟がともに人形作家である。私は小学生のころに陽光氏の製作した『娘道成寺』の活人形の写真を見ている。赤烏帽子に赤錦の振袖、胸に羯鼓(かっこ)を下げた姿が、いまでもはっきり目に浮かぶ。私の記憶にまちがいがなければ、郷陽氏は市松人形や創作人形を得意とし、陽光氏が等身大活人形を得意としていたのではあるまいか。 私の母が人形製作をしていたころ、母は平田郷陽氏の人形の写真をたくさん所持していた。それは安本亀八の活人形よりいわばずっと「芸術的」で洗練されているにちがいないが、亀八の技術は平田兄弟の手のなかに生きていたのだ。 安本亀八の墓があるのは世田谷区北烏山の幸竜寺という。大きな寺である。墓は、寺門を入って真すぐ50mほど進み、会堂を右手に見てのすぐ左側の区画にある。ひときわ大きいのですぐに分るだろう。ちなみに長谷川雪旦の墓はそのずっと手前、鐘楼の裏側10mくらいのところにある。少し欠けたごく普通の小さな墓石だから、刻まれた文字で確認するしかない。 また、喜多川歌磨の墓は専光寺、宝井其角は称往寺、為永春水は妙善寺である。ほとんど隣あっているようなものだ。為永春水の墓は少し奥まったところにある。といっても墓地が奥まった本堂の左奥にあるだけで、春水の墓自体はその入口正面、一番先頭にある。 墓地はみな明るく、すこしも陰気ではないので、興味をもたれたかたは参詣してはいかがですか。静かにお詣りするぶんには、特別ことわらずともよいと思います。住職を訪ねれば、何かお話しを伺えるかもしれませんよ。
Mar 5, 2006
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3月3日、ひな祭り。 以前のブログ日記で川上村の思い出を書いた。私が小学校1年生のころである。回想記には光男さんのことを書いたが、ひな祭りというと思い出すのが光男さんの家伝来の古色をおびたみごとな雛人形だ。衣装の色彩は枯れ色にくすみ、錦糸があえかな輝きをはなって、私はそのとき初めて骨董の美にめざめた。いま記憶にのこっている影像を見つめると、どうも享保雛ではなかったかと思う。一体のおおきさが1尺(30cm)ばかり。他家の持物で、子供心に「欲しい」と思ったのは初めてだった。まして雛人形とはいえ、光男さんの家のそれは、もはや子供の喜ぶようなものではなかったのだから。 子供のころ、我家は私が長男で、ほかに二人の弟、男兄弟ばかりだったので、雛人形はさすがになかった。それでも年中行事を楽しむ家風だったから、雛祭りになると人形の虫干しのように家中のものをあつめて机のうえにならべて飾った。その前で私たち3人は、台所から飯しゃもじを持出して、内裏雛の笏(しゃく)のように胸前に持って、父や母に写真を撮るようにせがんだものだ。 人形といえば、私が家族と別居して会津若松の中学にはいり、夏休みなどの長期休暇に帰宅したおりに、近所の子供達のために人形劇を上演した。台本も人形製作も上演もひとりでやった。人形は、顔を紙粘土で成形してラッカーで描いた。丈30cmほど。衣装は母にもらった端切れでつくった。 45年以上昔のその人形たちの写真が残っている。 私が大学生だったころ母が人形製作を始めた。師は小松康城氏だった。「さくら人形」の創始者である。 母は丁寧で几帳面な仕上げをする人なので、すぐに腕を上げ、北海道新聞社賞などを受賞し、ポストカードになったりした。現在そのカードが2点、私の手許にある。東京にいる私に母が送ってきたものだ。昭和42年3月25日の消印が押されている。 私と一緒に暮すようになってからも、しばらく製作をつづけていた。しばしば浅草橋の問屋街に、衣装の生地をさがしに出かけていた。従姉の家の段飾りの雛人形は母がつくったものである。 その後、目を患い、ほとんど失明寸前の状態までに至ったため、髪の植え付けや顔つくりなど、微妙な手仕事ができなくなったので止めてしまった。いつかは出来る日がくるかもしれないと思ったのか、買込んだ生地やさまざまな材料をダンボール箱に詰めて所持していた。もうダメだと分っても捨てられないのだろう、現在でも我家の押入は、決して日の目をみることがないその材料に占領されてしまっている。 いま我家には一体の人形もない。
Mar 3, 2006
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思い出せば少年のころから、様々な偉人達にお目にかかってきた。すでにこのブログ日記でお話しした方、そして記念の御署名を頂戴した方はほかにも音楽家の芥川也寸志氏、名優瀧澤修氏、劇作家木下順二氏がいる。 また昨年お亡くなりになった哲学者湯浅泰雄博士には晩年の数年間、かなり頻繁にお目にかかり、ついに博士の300点に及ぶ論文を読破した。このことから全20数巻になるはずの『湯浅泰雄全集』を企画、私の単独編集によって実際に第1期全18巻の刊行が開始されたのだった。今日はそのことに少し触れてみよう。 湯浅泰雄博士の学問的業績は初期の経済学に始まり、和辻哲郎博士の最後の門下生としての日本学、倫理学を経て、宗教心理学、宗教哲学、西洋精神史、東洋精神史、日本哲学、日本思想史、心身論そして最終的にいわゆるニューサイエンス論にまでいたっている。 これらの論文はある場合には同時期に発表されていて、ある分野の学説は欧米の大学において研究対象になっていたにもかかわらず、ほとんどの研究者は湯浅学の全貌を知ってはいなかったと思われる。湯浅博士に直接師事し、現在は独立した研究者として立派な業績をあげている方々さえも、おそらく湯浅博士の断片的文章を含むすべてに目を通した人はいないであろう。 学問分野があまりにも多岐にわたっているので、私が仄聞していたのは、湯浅泰雄の業績を筋の通った1本にまとめることは困難ではないか、ということだった。 しかし、私にはそのような意味での困難はまったく感じなかった。ひとりの人間として、学びの道を、当然あるべきままにお歩きになってきたことが良く見えたからだ。幸い私が日頃関心をもっていた分野でもあり、論文も理解がとどかないものはなかったし、論文中の参考文献等も私が読んでいたものも多かったのだ。博士の学究的好奇心の網の目を1本に縒りあわせてみせることは、さほど難しい作業ではなさそうだった。 私は試みに全論文をならべて、トランプ・ゲームのようにプログラミングしてみた。国会図書館に通い、論文の洩れがないかをしらべつつ、1ヵ月ほどで完成した。 一介の画家のプログラミングをご覧になって、即座に「これでよろしいでしょう。手を加えるところは1ケ所もありません」と、湯浅博士は私におっしゃった。 A5判、平均500ページという全集の編集----その恐るべき作業が無理解な環境でたった独りで始まった。いま考えるとそれは狂気に近かった。1册終了すると私の全身がいわゆる肩凝り状態で、10日間くらいかけてマッサージしてもらい、ようやく元の身体にもどり、次の巻にとりかかるのだった。 しかし全部で9巻まで私がつくったところで、外部から浅ましいような横やりが入った。それらは、よもや私がひとりで身銭をきりながら取材をし、本をつくっているとは思っていなかっただろう。論文収集----そのなかには出版権所持者との交渉も含んでいる----から、校訂表、解題執筆、論文中の引用文献の再調査、外国語表記(ドイツ語、英語、フランス語、ギリシャ語、中国語、サンスクリット語)の再調査、参考図版の収集と製図、最低5回の校正、造本(版組デザイン、本体装幀、貼り箱装幀)、帯の広告文製作、その他もろもろの仕事をたった一人のコンピューター・オペレイターを横に置いてやっているなどとは。しかも当初、出版社が私に貸してくれた作業スペースは、パートタイムの婦人の机のわずか50cm四方だった。 私は、「どなたか一人でやれるものなら、やってごらんなさい」という気持で手をひくことにした。全集としての設計図も、全巻の目次も、全論文の初出記録も、収集も、完了している。あとは私の名前と存在を消せばよいのだから、できる人物は見つかるでしょう。 この『湯浅泰雄全集』は博士の全集として初めてのものである。私は学術的な全集として私が理想とする完璧なものをつくろうとした。たとえば、初出稿をもとに博士に手を入れていただき決定稿とし、その校訂表を巻末に明示した。初出誌の何ページ何行目の言葉ないし文節を、全集では何ページ何行目にどのように改訂されたかを、ことこまかに記した。これによって後世の学徒は、博士の思想的変遷や学究の深まりをまのあたりに辿ることができるであろう。私は私の編集した巻の上をゆくものはないだろうと自負している。 世の中はまことに浅ましいもので、自らは考えもしない実行もできないその能力もないのに、困難な道が開いたと見るや陰険な工作を始める。そういうことだけはまことに長けているのだ。私は笑いながら、湯浅博士の全集完成を願って、自分の絵画追求にもどることにした。 全集の編集が始まった一等最初の頃だった。もっとも有名な著書『心身論』のなかの不明確な点を研究者から指摘された博士が、ある夜、私の自宅に電話をかけてきて「よわっちゃっている」とおっしゃった。「じつは私自身が内心で確信がもてなかった部分なんだ」 私は「1週間、時間をください」と申しあげ、報告のつもりで『「さゝめごと」に現われた「十識」について』という論文を書いた。博士は「ありがとう、山田さんの説で間違いないでしょう。これで長年の疑問が氷解しました。この論文を全集のなかに附論として収録させてください。私はこの問題の経緯を執筆します。ふたつを併載するよう編集してください」 私の論文は全集第14巻に収録されている。私はこの博士の率直さと、学者としての高潔さに感服した。 湯浅泰雄博士から頂戴した書簡が何通も手許にのこっている。いつの日にか、この狂気の日々についてあらためて回想することがあるかもしれない。今はほんの数年ではあったが、偉大な哲学者の馨咳に接することができたことをありがたく思うのである。
Mar 2, 2006
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