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連日溝口健二映画について覚書のようなものを書いている。きょうは小道具について気がついたことを記しておこう。団扇(うちわ)についてである。団扇のような持ち道具は、あるいは衣装が担当しているのかもしれない。それはともかく、溝口作品には夏の屋内の持ち道具として、かなり頻繁に団扇や扇子が登場する。『祇園の姉妹』にも『祇園囃子』にも、そして今日の午後に見た『歌麿をめぐる五人の女』にも団扇がでてきた。 その団扇、「さすが!」と感心したのは、上記の作品は前の2作はもちろん京都が舞台、後者は江戸である。その地域文化の違いを、団扇の造作の違いにきっちり見せていた。 最近では団扇を使う人もめったにいないかもしれない。昔はスポーツの応援に観客席でおそろいの団扇がふられていたものだ。現在ではときどき見かけなくもないが、たいていは騒々しい音を出すバット状のものに変わってしまった。あるいは電子メディア商品の夏のボーナスどきのキャンペーンに路上でくばられるプラスチック製の小型団扇がおなじみかもしれない。私が子供のころ、我家には夏になると来客用に用意される雅た京団扇の揃いがあった。淡彩で桔梗が小さく描かれていた。夏がおわるとそれらは箱におさめられ、納戸にしまわれるのだった。 いま私ははからずも京団扇と言ったが、団扇には地域性があるのである。京団扇というのは檜の柄が別についている造作。江戸団扇というのは丸竹を使い、割り竹の一部を扇子のように紙を貼らずに窓をあけ、骨が見えている造り。形も真ん丸だったり楕円形だったりで、丸竹の細柄がやや長くして小粋な感じにしている。京団扇の雅、江戸団扇の粋というところか。 出雲団扇というのもある。江戸団扇のように窓をあける造作をしている。また、丸竹ではなく板状にした割り竹をもちいているのが大和団扇と四国の丸亀団扇である。この造作に丈夫な渋紙を貼ったものを渋団扇という。映画でもよくみかけるもので、台所の竈(へっつい)のそばでパタパタ火をあおいでいる光景が記憶にあるであろう。この形式のものは現在でも竈神の祀りや火伏祀りが遺っているところでは、縁起物の団扇として売られているかもしれない。私が住んでいる東京西部の高尾山薬王院の火伏祀りでも、鴉を描いた黒い渋団扇が売られている。火の用心の祈願に台所などに飾るのである。鴉は鴉天狗、すなわち秋葉大明神のこと(電機街・秋葉原はこの神の社があったところ)、火除けの神とされる。 そんなふうに団扇には地域性があるのであるが、その文化を溝口映画はきっちり見せていた。団扇というのは現在ではあまり使われなくなったとはいえ、まだ「普通の物」という感覚はあるだろう。それだけに、映画のなかに登場しても普通の物として見過ごしてしまうかもしれない。で、ちょっとここに気に留めておく。 さて、きょうは1955年の『新・平家物語』も放映した(午前0時53分から遺作『赤線地帯』を放映)。溝口健二は約90本の映画を撮っているが、そのうちカラー作品はわずか2本だけ。この『新・平家物語』と同年の次作『楊貴妃』である。そして翌56年に『赤線地帯』を撮って、生涯を閉じる。享年58。 『新・平家物語』はスペクタクル性と長い移動撮影で有名な作品であるが、それについては今述べない。が、この作品にも蝶の意匠が登場するシーンがあったので、それを指摘しておこうと思う。 平清盛(市川雷蔵)の父忠盛が満座のなかで足蹴の侮辱を受け自害する。その葬儀の席。清盛をはじめとする子供たちの着ている直垂(ひたたれ)は、麻の白生地、長袴の裾に薄藍のぼかし染め。上着に蝶の文様が散っている。居並ぶ家臣のなかにも蝶の文様のある直垂を着ている者がいる。 それらの衣装は、平氏の家紋である蝶紋を染め抜いているのではある。しかしながら私は、蝶が霊魂の象徴であることを端的に示していると指摘する。平氏蝶紋が登場するのは、この葬儀のシーンだけである。同監督『雨月物語』の幽霊屋敷の几帳に張られた生絹(すずし)に染められていた蝶の模様とおなじ霊魂の象徴と言えるであろう。先日来述べてきたことだが、溝口映画の美術スタッフの考えは明らかである。この葬儀のシーンは比較的長いので、私たちはその蝶の舞う衣装をたっぷり見ることができる。考証の勝利は映画そのものの勝利に通じるのだ。
Aug 31, 2006
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東京八王子市近郊に午後5時18分、とつぜんの強震。デスクトップ型のコンピューターが大きく揺れた。いまのところその一度のドカンと一発だけ。体感余震なし。
Aug 31, 2006
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NHKBS2の「没後50年溝口健二特集」は、まことに嬉しい企画。私が未見の作品もこの企画によって見ることができた。いま午前2時半を過ぎたところだが、さきほどまでその未見の『噂の女』(1954)を見ていた。 京都・島原遊廓を舞台に、遊廓の女将(田中絹代)とその娘(久我美子)が、母娘で青年医師(大谷友右衛門)を張り合うという話。遊廓という特殊な環境に生きる女たちの哀感や、したたかさ、そして愚劣で腑甲斐無い男たちの姿が見事な厚い演技で活写されている。遊女たちの過酷な「労働」から上がった金で東京の大学を出た一人娘は、恋人に裏切られて自殺未遂をし、生家に帰ってくる。身を売る女たちへ向ける冷たい目をもち、また、家業に対する疚しさを胸にいだきながら。それは、島原という古くからの花街とそのなかで生きる母に対する批判的な新しい意識なのである。 溝口健二は社会の底辺にいきる女たちを描くことをひとつのテーマとしてもっていた映画作家であるが、どうやら溝口自身の経験と密接なかかわりがあるようだ。このことは新藤兼人監督の『ある映画監督の生涯』においても述べられていて、溝口健二の父親は甲斐性がなく家族を養うことができず、姉が芸者に身売りをしたという。そして芸者時代にさる子爵の手がついて妾となり、後に4人の子を生して正妻におさまった。溝口は妾宅に囲われている姉を訪ねて小遣銭をもらっていた(新藤兼人氏に拠る)。花街の女たちを描く溝口の胸のなかには、この姉に対する思いがあったらしいのだが、しかし事はもっと複雑で、溝口は20代は放蕩三昧、27歳のときに別れ話から情婦に背中を剃刀で斬られるという事件がおきている。女は警察から釈放後に行方不明。また、結婚した妻は、その15,6年後に発狂している。妻が発狂した日、溝口は妻を精神病院に入れ、そのまま撮影所にやってきて撮影をつづけた。 映画にかぎらず作品というものは必ずしも作者の実体験と重なるものではないが、溝口映画の女や男たちには、分散されたかたちで、あるいは人間像の追求の深さにおいて、作者自身の体験が反映されていると見るのはあながち間違いではなさそうだ。新藤監督のドキュメンタリー映画のなかでも、溝口健二と長らく一緒に仕事をしていた人達は、たとえば晩年の作品『楊貴妃』などは監督自身がまったく知らない世界であったから失敗するのは分りきっていたというようなことを言っている。この発言は、裏返せば、溝口健二という映画作家の資質がどのあたりにあったかということを指し示しているだろう。 しかし、一筋縄でゆかないのはもちろんだ。 たとえば昨日述べた『雪夫人絵図』は船橋聖一の小説の映画化。この映画には、『噂の女』の久我美子演じる娘のように、古いモラルを批判するような役目を負わされたアプレゲールが登場する。しかし男に従属的な情況に身を置く雪夫人は、彼女の内部にくすぶる情炎にもかかわらず解放されることなく湖水に投身自殺してしまう(そのシーンはないけれども)。この作品は1950年の作品である。つまり戦争が終わって民主主義の世の中になり、古い封建的なモラルは捨て去られ、女性たちもあたらしい生き方をはじめていたはず。しかし溝口は時代思潮とはそぐわないようなこの『雪夫人絵図』を撮った。GHQの厳しい統制下でこのような作品が制作された経緯については、詳しく検証しなければならないであろうが、それはともかくとしてである。アプレゲールの存在が制作認可の要因になったとも考えられる。ちなみに映画等に対するGHQの統制は、1952年4月28日の対日平和条約の発行による占領終了までつづいた。 ところが戦前1936年の『祇園の姉妹』はどうだろう。祇園の芸者姉妹(梅村蓉子、山田五十鈴)は、まったく生き方が違い、姉は金づるにもならない腑甲斐無い男に愛情をもって尽くし、妹は男は金づる以外の何者でもないと割り切っている。手玉にとって捨てた男に復讐され大怪我を負わされるが、病院から担ぎだされながら、「このままで済むと思うな」と男をやっつける宣言をする。この妹もまた、『噂の女』の娘や『雪夫人絵図』のアプレゲールの女と同列にある挑戦的な意識の女である。しかし制作された時代背景を考慮すると、映画作家としての溝口健二のモチヴェーションは、どうやら同質ではなかったようなのだ。 私はこのことを新藤兼人の『小説田中絹代』を読んでいて気がついた。つまり溝口健二という映画作家は、ある種の反抗的精神が旺盛であったらしいということ。民主主義の時代からは遠い抑圧された1936年だったので、『祇園の姉妹』のような底辺に生きながらも活力ある女を描いた。一方、戦後、なにもかにも解放されてしまい抵抗する壁がなくなってしまったので、『雪夫人絵図』のような男に従属して遂には自殺しなければならなかった女を描いた。----このような分析を私はするのだ。 女性の新しい意識とはいっても、溝口健二がそのことを現実的に自らの思想として確固として受容していたかどうかはきわめて怪しい。それは、1940年の『浪花の女』以来溝口映画を深めるために貢献してきた田中絹代との関係が、『噂の女』を最後に、二度と再び戻ることがない亀裂が生じてしまったその原因に象徴されていると思う。田中絹代が映画を監督するという情報が溝口の耳に入ったのである。日本映画史上二人目の女性監督の誕生だった(第1号は坂根田鶴子)。しかし、溝口は、「田中絹代に映画監督などできるはずがない。田中絹代は女優をしていればいいんです」と言ったのである。この言葉には二重の意味があると私は思う。ひとつは名女優田中絹代が脇目もふらずに女優人生をまっとうしてほしいという切なる願いである。もうひとつは、女などに監督としての采配が振れるはずがない、という一種女性蔑視の思想である。それは愛憎半ばする態のものであっただろう。だが、あきらかに溝口健二の意識はいわゆるフェミニズムからは遠かったのだと私は思う。田中絹代が監督として自分と対等の位置にたつことを嫌ったのだろうか。二人は二度と一緒に仕事をすることはなかった。 新藤監督のインタヴューに答えて田中絹代がこういっている。映画のインタヴューは先述の『小説田中絹代』のなかに採録されているのだが、次の田中絹代の言葉は採録されていない。 「溝口さんと私が恋愛関係にあるという言われかたはいたしました。映画のなかではたしかに私たちは夫婦でした。しかし溝口さんが惚れていたのは、映画の主人公であって、田中絹代という個人ではありません」 これは見事な返答である。女優としての最高度のプライドをたもちながら、溝口健二という映画作家の本質を言い当てている、と私は思う。田中絹代というひとりの女性の全人格を愛し、受け入れるなら、彼女が映画を監督するという新しき門出も祝福してしかるべきであっただろう。芸術的に成功しようがしまいが、あるいは興行的に成功しようがしまいが、全人肯定したものにとってそれがいったい何であったろう。しかし溝口はその田中絹代の新しい意識をかたくなに拒絶したのだった。田中絹代が新藤監督に答えた言葉は正しかっただろう。 『祇園の姉妹』『雪夫人絵図』『噂の女』、いや『雪夫人絵図』の次に昨日見た『祇園囃子』を入れ、つづけざまに見てみると、『噂の女』の人物の出入りのスムーズな動きにはほんとうに感心してしまう。まさに円熟の演出といってよいだろう。自然で、たえず流動していて、しかもどのシーンも素晴らしい絵になっている。どんな傍役もすばらしい動きで、これが長回しで撮っているのだから、俳優たちはさぞかし大変だっただろう。だけど仕事としては面白かっただろうなー。堪能、堪能。
Aug 30, 2006
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仕事をほっぽりだして、昨夜来テレビで溝口健二映画をつづけざまに観ている。『雨月物語』の後、『雪夫人絵図』『近松物語』、そしてたった今、『祇園囃子』を見おわったところだ。 『雪夫人絵図』については、私としてはさほど感心しない。木暮実千代が演じる雪夫人が、財産家の亭主に夫婦間性的虐待され、挙句の果てに夫人は自殺するという話。華やかな色香を持ち味とする木暮実千代が終始憂鬱に沈んでいて、人格を否定された女性の存在と、それをつくりだす男の無感覚な横暴は、私の個人的感覚にはまったく合わない。同様のテーマをあつかった円地文子の『女坂』のような名作小説もあるが、これも円地文学ファンの私であるが、読んでいて辟易してしまう。男にも女にもまったく同情できないのだ。つまり野壷に墜ちてしまったような男女関係、もしくは夫婦関係だから、そこから発展的解放されることは決してないといってよい。解放されたいと思えば、雪夫人のように自殺しか道はあるまい。私はロマンチストでは全然ないので、非常に現実的な判断をする。情熱はある。それではその情熱をどう処理するかといえば、深い孤独を抱えて関係を築いていくしかあるまい、と思っている。それが私の人生哲学の根幹をなしている。そういう人間にとって、『雪夫人絵図』に描かれたような二進も三進もいかないような関係は、まったく興味の対象外というわけだ。 ただ、まあ、いささかならず白けた気持で観ていたのだが、ワンカットだけとても象徴的なところがあったので、それは指摘しておいてもよさそうだ。 昨日、『雨月物語』における蝶の意匠についてのべた。まるでその話題のつづきとなるようなカットである。主人公の豪勢な邸宅の庭の石灯籠がミドル・クローズ・アップになる。火が入っている。そこに大小二匹の蛾が明かりに誘われて舞っているのである。 このワンカットは、ほかに似たような挿入カットがないので、映画の流れのなかではきわめて印象的である。つまり明確なメッセージが託されていると言ってよいだろう。 この横暴な亭主と雪夫人の住まいには、下働きの男や女が数人同居しており、そのほかに上原謙が演じる音楽家くずれのような優男(やさおとこ)が同居している。じつは雪夫人はこの男に自分をこの邸から連れ出して逃げてほしいと、心ひそかに思っているらしいのだが、男は何不自由なく居候させてくれるこの家を出る気はさらさらない。雪夫人に対しても愛情を感じていないではないのだが、なにしろ煮え切らない優男。----このふたりが二匹の蛾に象徴されていると見てよいだろう。金という火の入った石灯籠を離れられずにパタパタと飛び回っている二匹の蛾。蝶の意匠の変形と考えれば、雪夫人の自殺を暗示していると言える。自律した人格を失った亡霊たち----。 『近松物語』も『祇園囃子』も、セット美術がすばらしい(水谷浩)。『近松物語』はクローズ・アップが1ケ所しかない作品で、全体がロング・ショットとミドル・ショットなので、大経師の大店の様子が相当の規模で映り込む。それが隅々まできっちり作り上げられていて、セットを見ているだけで嬉しくなってしまう。 『祇園囃子』の木暮実千代、若尾文子、浪花千栄子の三女優がいい。若尾文子はまだ10代か。初々しくて可憐だ。木暮実千代はスターの貫禄十分。若尾文子の演技をたっぷり受けとめている。そして、あらためて瞠目したのが浪花千栄子だ。ウマイナー、間然するところがない。現在、こういう演技ができる女優はいないな。こういう女優をみてしまうと、みんなミソッカスに見えてしまう。浪花千栄子は小津安二郎の『彼岸花』にも出ていてユーモラスな宿屋の女将を演じていた。物の本によると、小津監督のつくりだす京都弁に、「そんな京ことばあらしません」とか言って、以後小津組からはずされたそうだが、小津さんヤキがまわったのでは? まあ京都物を撮らなければそれでいいのか。 今週いっぱい私は溝口作品漬けである。
Aug 29, 2006
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ことしは溝口健二の歿後50年ということで、国際シンポジウム(8月24日;この日が命日)や作品連続上映会等のイヴェントが開催される。NHKBS2でも作品の連続放映がはじまり、先日、新藤兼人監督が縁りの人達のインタヴューを構成した『ある映画監督の生涯:溝口健二の記録』を露払いとして放映、そして今夜、『雨月物語』を放映した。つづいて午前0時50分から『雪夫人絵図』を放映する。 私はさきほどまで『雨月物語』を観ていた。TV放映は、フィルムの艶をだいなしにしてしまうので、映画を観たという気にはなかなかならないものだが、観ないよりはいい。撮影を担当した宮川一夫氏にはまことにお気の毒だったが、私はすでに何度も観ている記憶を蘇らせながら、食入るように画面を凝視したのだった。 映画は、何度観てもそのたびに新しい発見があるものである。きょうも今まで見のがしていたことを発見した。『雨月物語』についてはおそらく沢山の映画論において言及されていることと思う。私は無論すべてを読んでいるはずもないが、少なくとも目にとめた限りにおいて、誰も言及していないことなので、メモのつもりでここに述べておく。 焼物で生計をたてる源十郎(森雅之)が、出来たばかりの品々を都へ売りに行く。路上にならべて商いをしていると、供の老女(毛利菊枝)を従えた美しい上臈(京マチ子)が足をとめて幾つかの品を購い、邸に届けるようにと言う。実はこの若狭という名の上臈は後に亡霊であることが明かされるのだが、源十郎は知るべくもない(私たち観客も知らせられていない)。若狭の妖しい美しさの虜になった源十郎は、その邸で暮らしはじめる。 さて、私が気がついたのは、最初に源十郎をもてなし、誘惑すべく美々しく飾った邸内にあった、一張の几帳(きちょう)である。几帳というのは、貴人の座のわきに立てて仕切りとした道具で、台に二本の細い柱をたてて上に横木を渡し、ちょうど衣桁(いこう)のようなものに、幕を結んでたらしたものである。移動式のカーテンといえばよいか。夏冬、季節によって幕の生地を変えて使用した。夏は白の生絹(すずし)を用い、冬は練り絹を用いた。映画の中では、季節はおそらく夏なのであろう、白い生絹(すずし)の幕が垂れていた。向こう側が透けて見えている。そして私はその幕に蝶の文様が描かれているのに気がついたのだ。 蝶の意匠については、以前このブログでも述べたことがある。ヨーロッパ文化圏においても、日本においても、蝶の意匠は「霊魂」を表わしている、と。 『雨月物語』を何度も観ているのに、かつてまったく見落としていたセット美術のなかのその意匠。さきほどネタばらしをしてしまったが、この几帳が登場する時点で観客はこの若狭という美しい女の正体をまったく知らされてはいない。しかし、この几帳の蝶の意匠に気がついていさえすれば、これが見事に伏線となって、後に源十郎が遊行僧に呼び止められて「魔性が憑いている」と言われることがまったく唐突ではなくなるのだ。女の正体を蝶の意匠できっちり表現していたのである。美術は伊藤熹朔(俳優座創立者のひとり千田是也の実兄)。 私はこのことに気がついて、驚いている。日本の映画評論家はおそらく誰一人として気がついていないに違いない。彼等はまず映画のセット美術や小道具について論じようとはしない。キャスト・スタッフ紹介でも、ほとんどの場合、美術担当者を紹介していない。私はこういう風潮を美術担当者に対して随分無礼だと思って来た。ここ長らく休筆しているブログ別館の『映画の中の絵画』を執筆したのも、そのような映画美術家を無視した映画論の横行に業を煮やしたからだ。それはともかく、これから『雨月物語』をご覧になるかたは、是非その蝶の意匠の描かれた几帳に注意してみてください。それはこの映画のなかで重要な伏線です。
Aug 28, 2006
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きのうあたりから少しばかり肌に涼しさを感じるようになった。日曜日のきょうは、きのうよりは気温が高いようだが、それでもエア・コンディショナーを入れるほどでもない。いよいよ秋めいてきたか。 そう思いながらぶらぶらと散歩にでたところ、八百屋の店先に松茸がでていた。価格はまだ安いとはいえないが、2本入りの小籠を求めた。夕食は松茸御飯にきめた。 取敢へず松茸飯を焚くとせん 高浜虚子 さて献立をどうしよう。あれこれ思案しながらスーパーに立ち寄る。 で、できたのが…… 松茸御飯(松茸、筍、人参、牛蒡、油揚) 揚げだし豆腐のししとう添え(だし汁に大根おろしを加えて) 里芋の胡桃和え 鮭中トロの造り 菠薐草の浸し 海老真薯、柚子清汁 デザートとしてナタデココ入りのマンゴ・プリンを用意したのだけれど、脂肪のとりすぎを注意してデザートは抜きにした。 自分で料理して言うのも何だが、たいへんおいしかった。わたしゃ世話無し、世話無し。 今夜のブログはこれだけにして、これから少しばかり重い本を読むことにいたします。
Aug 27, 2006
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人間の住居というのは考えてみれば不思議なことに、柔らかい身体をやさしく包み込むというより、むしろ徹底的に反対概念によってなりたっている。固く直線的である。その固さをやわらげるために、身体と建築との間に緩衝材をいれなければならない。蒲団とかマットとか藁や毛皮のようなものだ。このようなことは人間以外の他の生物にはない。他の生物の住居(巣)というのは、その種によってデザインが一定しており、A君の家もBさんの家もほとんど同じ、しかも曲線的である。直線的な巣はまず無いと断言してよいだろう。 サルバドール・ダリには胎内回帰願望があったようで、プラスチックで作った大きな卵のなかに素っ裸でもぐりこんで写真を撮ったりしている。子宮は人間の住居として最も快適であろうことは論をまたない。子宮をとびだした途端に、人間はきわめて不快な空間を生涯の住居としなければならないのである。ダリのように卵の住居も次善のものかもしれない。一昨日、私は、古今東西に卵形の建築がないかを調べたことがあると書いた。そして、それがどうやら想像されたことすらないことを知った。それがなぜかという私の結論は、建築材と建築技術の現実が不可能なイメージを抑圧したのではないかということである。いや、いそいで付け加えると、20世紀にはただ1例だが想像されている。アンドレ・ブリエルという建築家の巨大ビルディングの構想としてだ。もちろんそれは実現されたわけではないので、幻想建築といってよい。しかし20世紀にそれが構想されたのは、ようやく技術的に可能性がみえてきたということだ。 とはいえ、ブリエルの構想が実現し卵形の建築がうまれたとしても、それは子宮のやわらかさからは程遠く、単に卵の形をした「固い」住居であることに変わりない。 なぜ人間は、曲線的なやわらかい、いわば身にそぐう住居を作り出すことができなかったのだろう。 そもそも人類史にはそのような柔らかい建築が一度も登場しなかったのだろうか。 そうではないのだ。ただ一つだけその柔らかい建築を住居としていた人たちがいた例がある。碩学バーナード・ルドルフスキーが紹介しているケルン近郊リーデンタールにいた新石器時代人の家である。 その家はどんな基準からしても型破りな曲線状の複雑な構造体であり、決して偶発的ではない不規則な平面をもち(つまり意図してそのような形状にしたということだが)、波打つようにうねる壁、その内部一面に散在する貝殻型の窪みは、自由奔放な形態の歓びが表現されている、とバーナード・ルドルフスキーは言っている。そしてこうつづける。「この窪みは、そこにぐったりともたれかかり、土の中へ、それも高度に洗練された形状をもつ土の中へ、言わば忍びこむように入れと、人々を招く」のだと。 ことばを変えて言うと、家の中の普通なら床というべき平面が、家族ひとりひとりの身にそぐう、……身体の曲線をやわらかく受け止める穴ぼこがたくさん穿たれていたのである。驚くべき発想、驚くべき自由さ。これこそ子宮を夢想させる、人間にとっての究極の住居といえるのではあるまいか。 私たちはリーデンタール新石器時代人がもっていた文化を完全に失った。その記憶さえ消えてしまったところから私たちの文化は始まった。これほどみごとに失われた文化はないだろう。他の生物の住居というのはその生物の本能のなかに組み込まれているものである。つまり住居建築遺伝子があるのだ。人間にはその遺伝子がない。遺伝子のかわりを文化がはたしているわけだ。リーデンタール人の文化が完全に消失したという事実の意味はそういうことである。 リーデンタール人ではない私たちが、我身を建築的にイメージするとどんな代物(しろもの)ができあがるか。国枝史郎の小説『暁の鐘は西方より』に人体建築というのが登場する。 「その建物の構造といえば、人間の頭脳に則ったところの、一つの建物を独立させて建て、その三方を白壁で囲み、両腕になぞらえたと云うことである。即ち両腕を頭上へ延ばし、頭を守った形なのである。頭脳の建物の南手の位置に、胴体に則った建物を建て、五臓六腑に則ったところの、十一の部屋を其の中へ設け、回廊で繋いだということであるが、特に意匠を凝らしたのは、その建物の家根であって、棟木や梁を塩梅し、肋骨に見せたというのである。そうして頭脳の建物と、胴体に則った建物とは、家根のある廊下で繋いだそうであるが、喉に則ったのは云うまでもあるまい。ところで胴体の建物であるが、これは勿論主屋であって、夫れに南手に庭を設け、それを人間の股間にたとえ、それを囲んで白壁を造り、両脚にたとえたということである。」 なんということはない、子供の悪戯書きのような建築イメージである。わざわざ図面を添えてあるが、こんな図面はないほうがよい。鼻白む態のものである。リーデンタール人の創造力は遥か遥かな彼岸にある。
Aug 26, 2006
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身辺いろいろな場所に読みかけの本を積んでおき、こちらで小説、あちらで学術書、というぐあいにまったく落着きない読書をしていることは以前にもお話しした。現在は寝室に世界の染め付け磁器に関する本や、都市構造をめぐる歴史書が置いてある。先日までは昭和初期の日本演劇史やその周辺の本が積んであった。また、いまこのブログを書いている机の上には2册の小説と1册のルポルタージュが置いてある。いずれも職人綺譚というべき種類の内容である。すでに読了した辻邦生氏の『江戸切絵図貼交屏風』と、いま読んでいる最中の佐江衆一氏の『自鳴琴からくり人形 ― 江戸職人綺譚』、そしてこれも読みおわった斎藤隆介氏の『職人衆昔ばなし』である。 私は職人気質というのが大好きだ。むろんそれは本物中の本物の仕事をする人のことで、職人気質をキドッテいる箸にも棒にもかからない奴のことではない。ほら、ときどき出会うでしょ?、苦虫を噛み潰したような顔をしてたいしたこともない料理をつっけんどんに出す食い物屋。客あしらいもしらないで、店なんかだしてンな!といいたくなるバカな料理人ですよ。私ははっきり物を言う人間ですから、「無礼者!」と一喝して箸もつけないで出てしまいますがね。----そういう奴等ではなくて、輝くような仕事をする職人さんがいるわけです。たとえば、私が愛用している広島県府中の家具なんて、ほんとうに素晴らしい出来ですよ。価格は張るけれども、この家具を使うと他のものが目に入らなくなってしまう。だって、家具屋で手当りしだいに抽出や扉をあけてみれば、何の説明もいらない、その差が歴然なのだ。あるいは東京・八王子の富士美術館が所蔵する指物細工の小さな小さな数寄箪笥があり、なんと全体が平行四辺形に歪んでいる。抽出の外箱も身も菱形に歪んでいるのである。しかし、びくともしない凛としたたたずまい。どうしたらこんな素晴らしい物ができるのだと、その技術に呆然となってしまう。使われているのは、太さ1センチほどの柱や僅か数ミリの厚さの板。それが傾いた箪笥として作られているわけだから、御想像いただきたい。 もう30年も40年も前のことだが、ある工芸展示会で、なにげなく見てまわっていたとき、ふいに腕をつかまれるようにグイッと展示台に引き寄せられた。それは丈7センチばかりの紙塑人形だった。作者は鹿児島寿蔵氏。鹿児島氏は人間国宝で、職人と呼ぶには語弊もあろうが、それはともかく、私はその小さな人形の発する美の力に圧倒されてしまった。大勢の出品者たちの沢山の陳列品のなかから、それは強い光を放ち、何も知らずに通りすぎようとした私を振向かせた。私は声もなくたたずんでしまったのである。ほんものの仕事だけがつくりだす美の力を私が思い知らされた経験のひとつであった。 私にはひとつの人生哲学というか、多くの優れた仕事を見、またその仕事をした人たちに会って気がついたことがある。「すぐれた仕事には陶冶された人格の反映があり、また、すぐれた仕事が人格を陶冶してゆく」ということだ。 ある若い大工の棟梁が、1年に1度くらいのわりで、我家の玄関の扉をたたく。「新作を見せてください」と言って。 「自分は絵の見方は知らないんですが、山田さんの作品を見ると、オレの仕事と同じなんじゃないかと思えて、自分は元気になるんですよ」 玄関の上框に腰をおろし、30分から一時間ばかり、私は棟梁のために新作を数点ならべるのである。
Aug 25, 2006
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昨日の贋作写真挿画について携帯で見られないという御指摘がありました。画像サイズが大きいためであろうか。せっかくアクセスしてくださったのにご覧になれないではお気の毒。今日あらためてサイズを小さくして掲載しなおしてみました。お詫びのしるしに、画像数を2点増やしました。ご覧になることができれば幸いです。--------------------------------------------- さて今日の話題は、二重螺旋構造の建築についてにしよう。 ずっと以前にも触れたことがあるが、私のいくつかある眷恋(けんれん)の古建築のひとつが会津若松市に残る円通三匝堂(えんつうさんそうどう)である。会津若松駅から約3キロ半、白虎隊の少年たちが自刃した場所として知られる飯盛山麓にある。宗形祠の境内に設けた六角形三層樓で、最下の直径6.3メートル余、高さ約16メートル。内部に旋回する昇降道があり、登りスロープと降りスロープが異なり、あたかも遺伝子DNAの二重螺旋のように互がからみあっている。栄螺(さざえ)の殻の内部に似ているところから「栄螺堂」という通称がある。 寛政8年(1796)に実相寺の郁堂という僧が建立した。ついでながらこの実相寺は現存する。元徳2年(1330)蘆名盛宗の臣、富田祐義の帰依により建立、復莽和尚を開祖とする。もと甲賀町にあったが、文禄元年(1592)に現在地----私が住んでいた当時は馬場上五の町といっていたが、今では由緒ある町名を捨てた所も多く、何と称しているか知らぬ----に移した。薬師観音を本尊とし、寺領は蒲生氏以降150石という格式ある寺である。 この実相寺の僧侶郁堂という人物が、栄螺堂のきわめて特異なイメージ(建築構造)を、いったいどこから導きだしたのか。 昭和30年代から40年にかけて、建築学の方面からその研究に取り組んでいたのは、当時、日大理工学部教授だった小林文次氏であった。氏の説が現在に至るも最も有力で、ほぼ定説になっていると言ってもよいだろう。 ここでちょっとこの独特な建築形式について概観しておく。 じつは栄螺堂は、広重や重政の錦絵「本所の羅漢寺さざえ堂」にも描かれている。このさざえ堂は現存しないが、明治の彫刻家高村光雲(光太郎の父)はこれを見ており、その二重螺旋構造について美術館にもっとも適するのではないかと言っている。しかし、これが建築学的にみて重要であることにはほとんど誰も気がついてはいなかったようだ。すくなくとも小林文次氏以前には。 現在、会津若松の例をふくめ、群馬県太田市の曹源寺など5件が現存することがわかっている。そして栄螺堂、正式には円通三匝堂という形式には二つのタイプがあったようだ。 一つは会津若松の例で、平面が六角の塔の形をしていて、螺旋状のスロープを二つ組み合わせて昇降路とするもの。スロープに添って33体の観音像を安置していた。建立者郁堂の実相寺が、観音信仰の寺であったことを思い出す。 他の一つは、平面は正方形、外見は二階だが中二階があり、実質は三階建である。主として階段、一部にスロープを組み合わせ、右回りに堂内をめぐりながら通路に並べられた100体の観音像を拝しつつ三階にいたる。帰路は別の階段で降りて来る。この三階は、いわば展望台のようなぐあいで、勾欄をつけた回廊になっている。太田市の曹源寺がこの形式で、本所・羅漢寺も同じであったようだ。重政の錦絵「本所の羅漢寺」には、三階の回廊から富士山を遠望する人々の姿が描かれている。 円通三匝堂はどうやら観音信仰と密接に結びついているようである。巡礼の簡素化をはかったものであろう。ただし、この建築形式は現存するものすべてが関東・東北地方にかぎられているようだ。これがなぜかは、今のところ解明されていない。 さて最初の設問にもどろう。上述のように栄螺堂形式のなかで、会津若松のような形式はこれ一件である。DNAのような二重螺旋の構造を建立者郁堂はどのように発想したのであろう。建築というのは奇想だけでは成立しないことは無論で、構造力学理論と設計・建築技術がともなわなければ如何ともしがたい。私はかつて古今東西の卵形のイメージを渉猟していて、卵形の建築がまったく存在しないばかりかイメージすらされていないことに気がついた。そしてその不在は、おそらく技術的に不可能であることが最初から発想を抑圧していたのではないかと考えるにいたった。まあ、それはともかく、建築は実現を前提して想像されるものなのである(幻想建築が存在しないではないが)。 小林文次氏の研究によればその発想の源は次のように推測されるという。 享保5年(1721)、吉宗によって洋書輸入が解禁され、西欧の新知識がもたらされた。そのなかに、平賀源内のように絵画上の写実と透視画法に開眼した人たちがでてきた。秋田藩主で画家でもあった佐竹曙山(しょざん)もその一人である。佐竹曙山が遺したスケッチ・ブックに二重螺旋階段の図があることは、日本の初期洋画史を研究する人たちの間では早くから知られていた。そして、その図は、輸入洋書からの模写であろうと推測されていたのだった。小林氏はこの図が、1670年にロンドンで刊行されたジョゼフ・モクソン(1627-1700)の著書『実用透視画法』の中の第35図の写しであることをつきとめたのである。このことから小林氏は、曙山の晩年(1785年没)には、輸入洋書を通して日本の一部の人には二重螺旋階段は知られていたのだと断じた。もっとも、氏は、そこから先、曙山の模写と栄螺堂建築の発想の直接の結びつきについては何の確証も見つかっていないと言っている。つまり推測に過ぎないのだと。 私は小林文次博士の研究を貴重な研究として尊重しつつ、一方で文化の同時多発ということを考えるのである。 日本には二重螺旋の造形はないのだろうか。 そんなことはない。あるのだ。しかもごく身近に。宗教と深く結びついて。 「注連縄(しめなわ)」である。これはまぎれもない二重螺旋構造だ。一般的象徴図像論としての注連縄は、雨雲と雷をデザイン化していると考えられている。農耕文化にとっては大変重要な慈雨を祈願したものだ。あるいはいささか陰に隠れてはいるが、やはり農耕文化の特徴の豊饒祈願としての性神信仰。注連縄は陰陽合体、性交の象徴とみなせる。また忌穢思想が入って、結界を表わしている。 このように注連縄は象徴的に複合しているのだが、私の観察によれば、日本においては二重螺旋による宗教的象徴は非常に早くから藁(わら)と結びついているのである。それは縄文土器にまで遡ってもよい。縄文と称される複雑な藁縄文様は一種の世界像ではあるまいか、と私は考えている。 注連縄の二重螺旋と栄螺堂の二重螺旋、いかがであろうこの二つを結びつけるのは。キー・ワードは「宗教的象徴造形」である。 モクソンの『実用透視画法』の中の二重螺旋は石造の階段である。もし郁堂がこの図を参照したとしたなら、なぜ栄螺堂に階段を取り入れなかったのだろう。階段にせずスロープにしたのは、技術上の問題ではあるまい。私には何かイメージの問題が潜在しているように思えるのだ。小林氏の日大理工学部建築史研究室が作成した会津の栄螺堂実測図の平面図を見ていると、そのスロープの板張の様から、私はついつい藁縄の藁一本一本の美しい並列を想像してしまう。あの出雲大社の太注連縄のようなものを。逆に、太注連縄を眺めているうちに、二重螺旋のスロープを発想することはないだろうか。この縄目のように板を張っていったらどうであろう……と。 じつは私にはもう一つ別のイメージがある。海苔巻寿司などを巻くときに使う簾、あれを子供のころに捻ってみたことはないだろうか。もしその巻き簾がかなり長いものだったら、美しい筋目のとおった螺旋ができるはずだ。この造形と太注連縄をイメージ的に合体させれば、そのイメージは一層建築的になる。 つまり私は郁堂の発想が階段としての二重螺旋ではなくあくまでスロープだったということにこだわっている。堂塔建築における昇降路をスロープにするという発想は尋常ではないはずだ。郁堂が佐竹曙山のようにモクソンの『実用透視画法』を見たとしよう。見て、その階段図から、どのような思考の過程を経てスロープというイメージに到達するだろ。すくなくとも日本建築においてスロープが常道的に用いられていたというなら話は別だ。そうではあるまい。むしろきわめて特異なのである。現実に建築図版を見たうえで、その階段図から非常道的なスロープへの発想転換は、実際的には大変なエネルギーが必要なはずで、私はむしろモクソンの『実用透視画法』を郁堂は見ていないのではあるまいかと想うのだ。 小林文次氏の説はみずから推説だとしていて、私の想像はさらに如何なる確証もありはしない。ただイメージのうまれてくるメカニズムのようなものを問いながら、ひとつの私見としてお話ししたまでである。
Aug 24, 2006
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私のイラストレーションの仕事のなかに非常に特異な39点からなるシリーズ作品がある。檜山良昭氏の著書『シミュレーション本土決戦』の挿画である。絵といってよいのかどうか。それ等は言うならば「贋作写真」だ。実際にはあり得なかった光景を写真として作り上げている。 1991年のこと、新人物往来社の名物刊行誌『別冊歴史読本・戦記シリーズ』の編集長だった故椎野八束氏からある相談をされた。檜山氏の書き下ろし企画についてだった。それは、日本が連合国のポツダム宣言受諾を決定した昭和20年8月、この決定を不服とする陸軍の中堅将校を中心とするグループが、「本土決戦、一億玉砕」を叫んでクーデタを画策していた。この策謀は未遂に終わったのだが、もしこのクーデタが実行に移され「本土決戦」にもちこまれたら、日本はどうなっていたか。檜山氏はこの歴史的には存在しなかったことを、アメリカ軍が準備していた「オリンピック作戦」「コロネット作戦」「ダウン・フォール作戦」と照らし合わせながらシミュレーションしてみようというのだった。 椎野氏の相談というのは、挿画としてリアリズムに徹した、従軍カメラマンが撮影した写真のようなものがつくれないか、というのだった。そして、できるならこの仕事を引き受けてほしいと。 そのとき私の頭に即座にひらめいたのは、戦時中に軍部が海外宣伝用に発行していた『フロント』という写真雑誌のことだった。この雑誌はB4判ほどの大型の立派な写真誌で、無論国内では見ることができないものだったので、おそらく関係者と数少ない人々にしか知られていなかったであろう。じつは私たちがこの企画について話し合ったときより数年前に、平凡社が当時と同じ状態に復刻し、私もそれによって「実物」を知り、椎野氏もそれを購入して所持していた。この『フロント』は日本のデザイン史においても特筆されなければならない雑誌であるが、その内容は、日本がいかに戦闘体勢が準備万端ととのっており、戦闘機も潜水艦も「これこのとおり豊富である」と写真で示していた。 事実はほとんど何もなかったのだが!----そうである、この写真は巧みな技術によって貼りあわされた贋作だったのだ。たくさんの戦闘機はわずか数機をなんどもなんども複写してコラージュし、エア・ブラッシで修正していた。潜水艦もまたしかり。それらの写真は何処から見ても、とても現実には存在しない光景だとは思えないのだった。 じつはこのような贋作写真は、世界の現代史のなかには少なくはないのである。旧ソ連には政権失脚した人物がかつての写真のなかから消失してしまったという例を、現在では私たちさえ知っている。つまり謀略写真と言ってよい、写真の政治利用だ。この日本語の「真」を「写す」という言葉の魔術的効果を意識の盲点として利用し、いくらでも「嘘」や「偽」のシャシンができるというわけである。 謀略的ではないが、政治の世界ではリンカーンの写真利用がもっとも早い例であろう。私はニューヨークの写真美術館でリンカーンの非常な数の写真を見た。そしてなぜ彼にはこんなに写真が多いのだろうと調べてみると、自分の功績を宣伝するためには写真がもっとも適していることに気づいていた、ということが分かったのだった。 それはともかく、私が椎野氏に提案したのは、そのような歴史的事実をふまえ、また読者の明敏な意識への呼びかけのために、「贋作写真」をつくってみようということだった。 私は39点の贋作写真をつくり、最後の1点に屍を残して雲の彼方へ消えて行く行軍兵士の姿を表わし、それまでのすべての「写真」に読者が「?」と、疑念を抱くようにした。そしてまた、その最後の1点に、ゴミのように使い捨てられた兵士たちへの追悼をこめた。 以下にその贋作写真12点を掲載する。
Aug 23, 2006
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夏休みも一般の会社では昨日あたりで終わったのだろう、午後外出すると、赤信号で車の長い列ができていた。暑さはあいかわらずなのだが、しかし、よく見ると我家や他家の庭先の柿の木の下に、直径5,6cmの青柿が落ちていて、落ちて日にちがたったものは朱にいろづいていた。それはまぎれもない晩夏初秋の色である。道行く人の肌の色もまた、小麦色よりやや深い、すでに盛夏を過ぎた色だ。 私も、しばらくブログの文章を休んでいた。15日の終戦記念日にコラージュ「壊れ物;取扱注意」を作り、以後、そのテーマの周辺に遊んだ。遊んだとはいえ、内心は日本の行く末をかなり深刻に危惧している。このところ私はあらためて勉強するつもりで、戦争前後の情況をいわゆる研究書ではなく、施政者や外交官や重要任務を負っていた人達の日記や記録文書を読んできた。またそういう立場になかったいわゆる文化人達の記録もあわせて読んだ。そこから浮びあがるのは、どんなにもったいをつけようとも、愚劣な国家であったという事実以外なにものでもない。あきれるほど愚劣な施政者たちの姿である。その国家主義は棄民思想と抱き合わせになっているといわなければならない。これらの思想は国民を徹底的に虐待することで維持されていた。じつに奇怪な国家だったのだ。----そういう愚劣な国家主義に、いままた懐旧の情をもって国民を煽動しようという人達がいる。政治家が「心の問題」を持出すときは警戒しなければならないとは、社会哲学の常識である。一般的に言っても、議論の場に心の問題がもちだされると議論にはならなくなる。政治的議論というのはあくまで具体的であらなければならない。けれども心というのはきわめて抽象的で、しかも一人一人みなちがい、なおかつそれは尊重されることを建て前としているからである。政治的議論にはそぐわない。だからこそ胸にいちもつある政治家は「心の問題」をもちだすのである。そのことは、身のまわりでの経験を冷静に思い出せば、思い当たるであろう。 ワーキング・プア(働けど貧しき)そして就職難の現実ひとつとっても、かつての戦争突入前の情況に実によく似ている。また、司法が行政寄りになってきている。これは最も危険な兆候である。裁判官の独立不羈の精神が薄くなっているということだ。政治がそのような情況をつくりだしているのだ。経済的苦境と教育の貧困情況に国民が逼塞すると、先に述べたような国家主義を信奉する人たちにとってはとても操りやすい国民が生まれるのである。これは世界史がおしえるところだ。悪は悪の顔をしてはいない。劇場型政治において、そのことは一層留意しなければなるまい。 さて、当初10点ほどのコラージュ作品を作るつもりであったが、そろそろ私も夏休み気分を捨てなければならない。上述の考察をふまえながら、新しい作品の構想にとりかかろう。残り3点のコラージュは時々のこととしよう。
Aug 22, 2006
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山田維史 《ダ・ヴィンチさんへ》 コラージュ 2006年8月21日作
Aug 21, 2006
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山田維史 《夜の鶴》 コラージュ 2005年8月20日作
Aug 20, 2006
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山田維史 《あなたの椅子》 コラージュ 2006年8月19日作
Aug 19, 2006
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私は幻想画家といわれることがある。自称したことはないのだが、そういわれて特別否定もしなかったはずだ。内心で困ったなと思ったことはある。ここ10年ばかり、意識的に作品制作の方法をかえてきた。私が絵画によって取り組んでみようという根本のテーマは変わらないのだが、その表現の仕方が変わった。画肌にも影響し、かつては筆跡をのこさない平滑な仕上げだったけれど、最近は緻密さと荒々しさとが共存し原画でなければ分からないような画肌をつくっている。画肌の問題は、一般的にいうと幻想画であるか否かということとは何ら関わりがないのだが、私の場合は方向転換に内的なさまざまな要因が絡みあっているので、これまで幻想画といわれてきた作品との離別には画肌のつくり方も関わりがないとは言えない。 第三者が見て、私の作品を幻想画と評することに異を唱えなかったのは、人の口に戸はたてられないと思っているからでもあるし、私がなぜそのような絵を描くか説明しにくいからでもある。私は世に幻想画と称すべき作品が存在することは認める。ただし私の判断は非常に厳密であって、おおむね作者自身がその幻想性を意識していないと看取されるものに限る。この定義は、ロジェ・カイヨワの定義とまったく同じである。簡単にいってしまうと、自分の作品を幻想画などと言っている絵に、幻想など立ちあらわれるはずがない。それは、幻想というより「ケレン」である。まあ、それはいささかキツイ言い方だけど、実際、私などは錯綜した主題を底に沈めて一目で象徴的に表現するためにさまざまな仕掛けをしているわけで、とても幻想などと言えたものではないのだ。 幻想画とは何かについては、私はかつてこの遊卵画廊の論文室に掲載してある『病める貝の真珠』の冒頭部に、ロジェ・カイヨワの幻想画論を参照しながら見解をのべた。で、絵画論はさておき、思想史をざっと眺めわたしてみると、たとえばフーリエの『四運動の理論』やカンパネッラの『太陽の都』のように、社会革命思想が語りゆくうちにだんだんと幻想性を帯びてくることを指摘できる。ユートピア思想というのは、本人にとっては生命にかかわる切実なところで執筆されているので、そのかぎりにおいて決して幻想ではなかったはずなのだが、夢の希求の激しさゆえに私たちの虚を突く。位相のズレといってもよいかもしれない。生命にかかわると述べたが、カンパネッラはカトリックのドメニコ会修道士であったが、その思想が異端とみなされて宗教審問所に召還され、残虐な拷問にかけられ、その71歳の生涯のうち29年間は牢獄につながれていたのだ。 ところで幻想小説というのはどうだろう。幻想小説についても上述のような観察は当てはまるのだが、ジャンルとして確立されていることに即して言えば、じつはこれほど論理的な小説もないのである。言い方は悪いが、一般小説よりずっと巧妙な伏線を張り巡らさなければならないし、幻想の在り処をしっかり見きわめたうえで読者の心理操作をしなければならない。幻想小説家(あるいは怪談作家も含めて)は、まったく幻想的ではない、というのが私の見るところだ。こんなことを言っては身も蓋もないけれど、言葉にはおのずと論理を求める磁力があるので、論理のすきまから立ちあらわれるかのように幻想を紡ぎだすのは、非論理的な人にはできない芸当なのである。 「言葉の論理のすきま」とはどういうことか。ちょっと簡単な例を示してみよう。 アミューズメント・パークで鳥の着ぐるみを着ているのを見た幼児が、「あっ、鳥だ」という。するとお母さんが、「あの鳥は人間なのよ」とこたえる。----ここに言葉の文法上の破綻はない。しかし何か妙だ。 あの鳥が、人間だって? あの鳥は人間なの? ----このとき幼児の頭のなかに、「鳥は人間だ」という奇怪なイメージが生まれなかったとは否定できまい。幻想小説の構造的な秘密はこれである。この要素を巧妙に積み重ねて、読者のイメージをがんじ搦みにしてしまうのである。読者はこの秘密の構造を最初の地点まで解きほぐすことはおそらく容易ではないはずだ。語弊があることを承知で言うが、精神分裂病(統合失調症)のメカニズムはこれと似ているといってもよいかもしれない。ただし作者はその当人である。みずからを巧妙な「罠」に仕掛けて、しだいに複雑に錯綜した物語の迷路に落込み緒を見えなくしてしまうのである。そうすることによって、絶望的な苦しみと生命の危機を「取り敢えず」は回避するのだ。しかし迷路の奥深く入ってしまえば、この自ら仕掛けた「罠」から脱出することはほとんど不可能にちかい。 奇怪なことに、私はときに分裂症をキドル小説家に出会うが、バカなことである。そんな病者の幻想の森に柴刈る夢をみずに、緻密な論理で幻想小説を書いたほうがよいのだ。それが本質なのだから。
Aug 18, 2006
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山田維史 《光球に触れる》 コラージュ 2006年8月17日作
Aug 17, 2006
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山田維史 《人間の門》 コラージュ 2006年8月16日作
Aug 16, 2006
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山田維史 《シナイ半島の雲男》 コラージュ 2006年8月15日作
Aug 15, 2006
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山田維史 《FRAGILE》 コラージュ 2006年8月15日作
Aug 15, 2006
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和歌山県・熊野速玉大社古神宝のなかに、国宝に指定されている手箱(内容品を含む)がある。一種は桐蒔絵手箱、もう一種は橘蒔絵手箱という。いずれも南北朝時代の明徳元年(1390)に足利義満によって熊野大社十三社に奉納された。 それらの工芸技法は、(私は実物を見ているのだが)文献によれば、長方形・丸角の合口造りで、錫の縁をめぐらし、身の側面に桐透かし金銅紐金具を取り付けてある。 箱の表面は金沃懸地に仕立て、模様の土坡(どは;堤)は金研出し蒔絵、裾に蒔暈しを用い、幹・茎・葉.岩は高蒔絵(半立体)により葉の一部や岩上に青金の金具を貼り、付描で細い線を描き、幹・岩・土坡に金銀の切り金を置く。 蓋の裏には、梨地に高蒔絵と研出し蒔絵で模様をあらわし、月には銀金具、岩上に青金金具を貼り、金銀の切り金を置く。懸子(かけご;他の箱の縁に懸けてその中にはさまるような作り方のこと)には梨地を施し、研出し蒔絵で桐枝や竹を表わし、花に銀の切り金を置く。 ……長々と技法を説明したけれども、要するに日本工芸の最高の結晶である。 この工芸技術の粋をあつめた手箱のなかには、いったい何が納められているとお思いだろう。 化粧道具である。蒔絵の鏡箱・櫛箱・白銅鏡・銀製の白粉箱・歯黒箱・薫物箱・鋏・耳掻・髪掻・眉作・櫛払・菊花形皿・白磁皿・櫛。そのような化粧道具一式が美々しく納められているのだ。 化粧道具がなぜ、神々に奉納されたのだろう。 神々の化粧。……それは何を意味するのであろう。 広く世界の民俗に、神降ろしのためや心霊の憑座となるために化粧をほどこすことがある。それらは人間を超越したものとして、多くは奇怪な異相である。化粧のルーツがそのような呪術的なものであったことは大いに考えられる。 平安時代の貴族は男女ともに額にふたつの点のような化粧をしていた。じつは眉毛を抜いて黛で描いたのであるが、位星(くらいぼし)ともいうこの化粧は、古代インドの額飾(テイラカ)にそのルーツをもとめることができるのではないかと私は思っている。碩学松山俊太郎の訳出した古代インド詩のなかに〈捲ける頭髪(け)の 列(つら)とつながる 額には 樟脳(カルプーラ)もて 描きたる 額粧(テイラカ)の飾り〉とある。樟脳というのがおもしろいし、気になる。樟脳から色素を抽出できるのだろうか。 そこで樟脳についてすこし調べてみると、樟脳を蒸溜・分離すると油分が残る、それが黄色ないし褐色を帯びている。これをさらに分溜すると、白油・赤油・藍油を製するというのである。 日本の黛はいわゆる眉墨であるが、その墨でえがく眉のことも黛というようになった。古くは松煙墨を用いた。貴族女性は捏墨(こねずみ)といい、紫草の花を黒焼きにして油煙と金粉とをまぜて胡麻油で練ったものを象牙の篦(へら)をつかって化粧した。近世になると油煙墨や麦の黒穂を用いたという。 埴輪の顔に赤い化粧がされてあるものがある。男女ともにみられ、額・頬・顎に左右対称に赤い色が塗られている。中国の『後漢書東夷伝』や『日本書紀神代巻』に丹朱粧とあるのがこの埴輪の赤化粧とおなじものであろう。この風習は神話学では恭順のしるしと考えられている。 日本における美容美顔としての化粧は、文献的には『竹取物語』や『宇津保物語』、あるいは『和訓栞』『和名抄』『名義抄』『本草和名』、また『増鏡』や『平家物語』に出てくる。『枕草子』に、「女は自分を愛してくれる者のために」化粧をする、という意味のことが書かれている。ただし、これは作者・清少納言のことばではなく、藤原行成がそう言ったというのである。藤原行成のことばには、出典があり、「士(おとこ)は、おのれを知るもののために死す」(『史記』刺客列伝)という句と暗に対句になっているのである。清少納言はもちろんそんなことは百も承知であったから、なんとなく女をバカにしたような行成のことばが愉快だったはずはなかろう。 ……と、書いてきたが、これは私の研究途上にあること。いまだに結論めいたことは出ていない。そんなわけで、駄文はこのへんでおしまいにして、以下に、資料として収集した図版のタイトルだけでも掲げてみよう。「絵画にみる化粧」である。 歌川国芳『浅草奥山生人形・座敷』 鳥居清倍『義経と静』大々判丹絵 勝川春章『楽屋内沢村宗十郎と山下万菊』大判錦絵 鳥居清長『化粧と張物』大判錦絵 喜多川歌麿『姿見七人化粧』大判錦絵 二代目喜多川歌麿『婚礼色直し』大判錦絵 歌川国貞『当世十弐相・世事がよさそう;歯をみがき、ようじで舌をしごく内儀の図』大判錦絵 鈴木春信『座敷八景・鏡台の秋月』中判錦絵 北尾政演(京伝)『艶本秋言葉・上巻』のうち 藤田嗣治『くしけずる裸婦』1925。『鏡を見る裸婦』1926。 小出楢重『裸女結髪』1927。 フォンテーヌブロー派『化粧室の婦人』 ピカソ『エロチカ・17』1968。 ボナール『化粧』1914。『鏡の中の裸婦の半身』1916。 アントワーヌ・ウールツ『薔薇の蕾』1864。 ジェームズ・アンソール『化粧室の少女』1886。 ドガ『浴後の化粧』1887。『化粧する女』1894。『化粧する女』1897。『化粧する女』1885。 ポール.デルボー『昼だけの申し出』1937。『鏡の前の女』1948。 ハンス・バルドゥンク・グリーン『女と死』1915。 ビアズレー『捲毛を奪う』より「化粧」。『サロメ』より「サロメの化粧」。 バルテュス『キャシーの化粧』1933。『ジョルジェットの化粧』1948-49。
Aug 14, 2006
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昨日今日あたり、東京の街はいくぶん人少なの感がある。お盆休みの故郷への帰省のせいであろう。3,4日はつづくにちがいない。昼間の電車が時にガランとして、不思議な暢閑(ちょうかん)さにつつまれることがある。車内の床に白いくっきりとした日射しが映っている。 薫りくるは浄土の風の便りなり 重頼 私はそんな東京がきらいではない。 目的もなくぶらぶら歩きながら、洒落た喫茶店をみつけて、ゆっくりブルーマウンテンの一杯を楽しんだり、かき氷なんかを食べるのだ。宇治金時もいいし、昔ながらの苺シロップもいい。ペパーミントのブルーもきれいだ。キーンと頭が痛くなるような冷たさ。思わず躰をふるわせ、含み笑いしながら、一匙々々食べる楽しさ。 匙なめて童たのしも夏氷 誓子 そうそう、昔々、中学1年の夏のこと。親許を離れてしばらく寮生活をしていた私は、家から小型の氷削り器をとどけてもらい、氷屋から氷柱を買込んで自室の扉に〈かき氷あります〉と張り出しところ、売れた売れた。次から次に寮生がやってきて、私は、ガリガリガリガリ大奮闘したものだ。そんなことをやらかすのは私ひとりだったが、中学生のくせに高校生のラブレターや作文の代書屋まで、おもしろがって何でもやった。氷水屋にしろ代書屋にしろ料金をとるのじゃない。お金に関してはまったく無頓着。みんなが掻き氷の冷たさに一斉に奇声をあげるのが愉快だった 二人してひとり遊のほたる哉 道二
Aug 13, 2006
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昨日、映画のなかの画家をめぐって5作品を挙げてみた。私が観たのはそれだけだと思っていたら、新たに3作を思い出した。そこで、追加として、その3作品について述べておこうと思う。 ★『カラヴァッジオ』 デレク・ジャーマン監督、ナイジェル・テリー、シーン・ビーン、デクスター・フレッチャー主演。1986年。イギリス映画。 もうひとりのミケランジェロといえば面くらうかもしれないが、もちろん本名である。1571年にミラノに生まれ、17世紀のバロックのリアリズム絵画を創始したミケランジェロ・メリシ・カラヴァッジオをめぐる伝記映画。……とは、ひとくちに言えないだろうなァ。一応、伝記をふまえているものの、画面のあちらこちらに電卓やタイプライターが鎮座し、あまつさえオートバイクさえ登場するのだから。カラヴァッジオの絵が登場するが、バロックのリアリズムというより20世紀の「ニュー・ペインティング」のスタイルだ。それではバッサリひと思いに切り捨てられるかというと、そうもいかない映画的したたかさを具えている。 カラヴァッジオが生まれた年は、あの偉大なミケランジェロ・ヴオナロッティが亡くなって7年後にあたる。イタリア・ルネッサンスは終焉に近づいていた。ヨーロッパ社会は文化の一大転換期にさしかかっていた。1517年、ドイツではルターが宗教改革を唱え、1543年にはポーランドでコペルニクスが地動説を発表。一方、イタリアの巨星レオナルド・ダ・ヴィンチは故国を離れ、フランス王の篤い庇護のもとにあったが、1519年に彼の地で没した。翌年にはラファエロも亡くなっている。文化の中心がイタリアから次第にスペインやドイツやイギリスなどの新教国に移りつつあった。 カラヴァッジオはそのような、いわばイタリア17世紀の裂け目にまるで野獣のように粗暴な姿で登場した。この野獣は、美術史上ですくなくとも私は二人しか知らない「殺人者」の一人である。しかし類い稀なる迫真の描写力をそなえた天与の画才は、高位の宗教者がこの殺人画家をかくまうほどだった。また男色家であり謀略家であり涜聖の輩だった。 監督デレク・ジャーマンの意図は、この17世紀の画家を、20世紀のわれわれの隣人として席を設けることであっただろう。シド・ヴァイシャスやパゾリーニの横に。そしてまた監督みずからの隣人として。 17世紀風な画面のなかにあった電卓やタイプライターやバイクは、20世紀への扉だったのである。デレク・ジャーマンは、カラヴァッジオの画才が20世紀的だといってるのではない。その人格が20世紀的だと言っているのだ。「20世紀はホモセクシャリティーを抜きにしては語ることはできない」と喝破したのは三島由紀夫である。もっとも三島の場合は未来を侮蔑し、あまつさえその未来へ希望をつなげようとしている日本人に対する最大限の侮辱をして自死した。その点、デレク・ジャーマンの描くカラヴァッジオは、17世紀を一気に20世紀と結び付けたことによって、未来をきりひらく人として立ち現われた。 さて、この映画、登場する絵画がまるで現代画のような描写だと述べたが、これはデレク・ジャーマンのしたたかな計算。というのは、絵を制作している場面が何度も出てくるが、たくさんのモデルを配し照明を配して、私たちが画集等で知っている作品そのものを観ているようなのだ。つまり「活人画」なのである。映画のなかで平面的な絵画作品をながめて面白いはずがない。モデルがポーズをとっての「活人画」こそ、映画のなかに再現された「名画」なのだ! ついでながらこの映画のなかで活人画となっている〈果物籠を持つ少年〉と〈キリストの埋葬〉については、私は実物を観ている。 ★『レンブラント』 シャルル・マトン監督、ピエール・デュプエ撮影、フィリップ・シフレ、ゲンナロ・ロザント美術、クラウス・マリア・ブラウンダウア、ロマータ・ボーランジェ主演。1999年。フランス=オランダ=ドイツ合作。 この映画、日本では『レンブラントの贈り物』という胸くそ悪くなるような題名がつけられた。『レンブラント』を『レンブラントの贈り物』と変えて、客足がのびるとでも思っているのか、バカバカしい。 と、一発ぶちかましたのは、この作品がまさに17世紀オランダの巨匠レンブラント・ファン・レイン(1606-1669)的な光と影、そして色調に深く染めあげられた美しい映画だからである。 映画は、レンブラントの回想のかたちをとっている。妻サスキアとの幸せな生活。画家としての輝くような名声。愛児の死による狂おしいばかりの苦悩。新局面を拓く裸婦像にたいするパトロンたちの無理解。そしてサスキアの死。破産。召使女ヘンドリッキエと同じくヘールチェ・ディルクスとを相手にした二股情事。やがてレンブラントの心は若く美しいヘンドリッキエに傾き後妻に迎える。裏切られたヘールチェの告訴。……映画はレンブラントの半生をほぼ忠実に物語ってゆく。 最晩年に至って、語り手がヘンドリッキエとのあいだに生まれた子供コルネリアに変わる。映画のトーンは終始変わらないので、私としてはこの語り手の変化をいささか残念に思う。死を描くとなれば、レンブラントの回想から視点を切り替えなければならないのは当然なのだが、私には、珠(たま)に瑕(きず)の感をぬぐいきれない。 映画のなかにレンブラントの作品が18点登場する。そのタイトルを列記しておこう。 〈エマオでのキリストの2人の弟子〉:〈トゥルプ博士の解剖学講義〉:〈サスキアの肖像〉:〈居酒屋の放蕩息子〉:〈目を抉られるサムソン〉:〈アガタ・バスの肖像〉:〈夜警〉:〈横顔のサスキア〉:〈長老に脅かされるスザンナ〉:〈ベッドの中のヘンドリッキエ〉:〈ダナエ〉:〈ヤン・シックスの肖像〉:〈ダヴィデ王の手紙を手にしたバテ・シバ〉:〈水浴する女〉:〈屠殺された牛〉:〈2人のアフリカ人〉:〈ユダヤの花嫁〉:〈自画像〉。 この映画は2000年度セザール賞美術賞を受賞している。 ★『真珠の耳飾りの少女』 ピーター・ウェーバー監督、エデュアルド・セッラ撮影、ベン・ファン・オース美術、コリン・ファース、スカーレット・ヨハンソン主演。2002年。フランス=イギリス合作。 現在オランダのマウリッツハイス美術館の至宝ともいうべきヨハネス・フェルメール(1632-1675)の3点の作品のうち、〈青いターバンの少女〉とも〈真珠の耳飾りの少女〉ともいわれている作品がある。カンヴァスに油絵具で描かれた46.5cm×40cmの比較的小さな作品である。日本にも2度貸与されているので、ご覧になった方も多いであろう。緑色の不思議な衣装を着て、青いターバンですっぽり頭を覆い、左向きの横顔を肩越しによじってこちらを見ている。かすかに開けた濡れたような赤い唇。その耳に一点の輝きを宿した真珠の耳飾りが印象的に画面をひきしめている。 彼女と絵を見る者の間には何の交渉もない。つまり、作者フェルメールとの間に何の交渉もないということでもある。この少女がいったい何物なのか。映画はそのことを物語ろうというわけだ。 オランダのデルフト焼きタイルの絵付け職人を父にもつ少女グリートは、父親がおそらく仕事中に起きたなんらかの事故で働けなくなり、画家のフェルメール家へ召使女として奉公にだされる。グリートは文字も読めない無教養ながら、美的な感受性は鋭敏だった。そのことは、料理の下ごしらえの玉葱や紫キャベツや蕪を切って、美しく皿にもりつけようとしている冒頭シーンでいち早く表現される。 家を出るとき母親は、「雇い主の家はカソリックだから、お祈りが耳に入らないように塞いでいなさい」と言う。この言葉は、われわれに二つのことを示唆している。ひとつは前世紀初めにドイツで巻き起こった宗教改革の嵐は、ヨーロッパを席巻し、1660年当時のオランダの下層階級はすでに新教に改宗して久かったこと。しかしいまだなお、富裕階級にはカソリックも多かったのである。二つめは、映画のなかで少女グリートがほとんど喋らず、笑いもせず、ただじっと見つめるだけの、その意味をあらかじめ示していると言ってもよいだろう。 実際、この映画は寡黙である。主人公の二人、すなわちフェルメールとグリートには、ほとんどセリフがない。フェルメールの義母が、この画家の家の辣腕のマネージャーとして采配をふるうなかで、まるで追い詰められた者同士のように画家と召使の少女は繊細な美の光のなかで寄り添う。 寄り添う? そう、たしかに寄り添うのだ。しかし、男と女としてではない。 フェルメールにとっては創造をかきたてる対象がそこに存在するにすぎない。とても愛にまぎらわしいのだが、それはあくまでもこれから自分が生み出す美を夢見させるモデルにすぎないのだ。モチベーションを高めるために、なんなら、「愛」と言ってみるかもしれない。 一方、グリートにとってはどうか。美を仲立ちにした階級差を超えた愛のはじまりと、かすかに期待したとしても、何が悪かろう。御主人フェルメールから真珠の耳飾りをつけるように半ば強制されて、ようやく決心して今やピアスの穴を耳にあけようとする。針をフェルメールに手渡して、「やってください」と言う。フェルメールは針を突き刺す。一瞬の鋭い痛みがグリートの身を走る。出血を押さえてやるフェルメール。少女の頬をひとしずくの涙がつたう。その涙を拭うフェルメールの指先が少女の唇に触れんとした刹那、……グリートの心がおのずとフェルメールに寄り添った瞬間、その指はまことに無常に彼女を離れたのだ。 このシーンにこめられた暗喩について、やぼな説明は必要ではあるまい。ただ、この映画のなかなかの見ものは、このすぐあとのシークエンスである。グリートは酒場で遊んでいる恋人のもとへ駆けつけ、酒場から引っぱり出すと、どこか街の片隅ではじめて恋人に身を許すのである。もちろんあからさまなシーンは一切ない。身繕いしているグリートと、それを愛し気に見やっている若者の姿が映し出されるだけである。いや、グリートの目のしたから頬にかけての紅潮と首筋のキスマークを見のがしてはなるまい。 物語をさておいても、よくぞここまで美術を徹底したと私は舌を巻いた。1660年頃のデルフトの街がたしかに斯くあったのだろうと納得させられる細部へのこだわり。オランダ絵画そのままの風景や物たち。肉屋の店頭や、デルフト焼きの藍染めの食器や、窓に嵌められた鉛ガラスの質感、水汲み場の手押しポンプ、冬の日の凍った洗濯物、画家のアトリエの顔料やピペットなどの道具類。家の中のいたるところに掛けられた絵画とその額縁の様式、シャボン玉遊び(それはヴァニタス絵画の重要なモチーフである)。 フェルメールの作品でおなじみのロケーションが、画家の家のなかにそっくりに再現されていることの嬉しさ! ラピスラズリ(群青)のすばらしい青! この顔料が大変高価だったことを、その美しさが語っている。 さて、最後に実物の〈真珠の耳飾りの少女〉について美術的なことを少し述べておこう。 この作品を「肖像画」と呼ぶかどうか、じつは意見がわかれる。というのは、少女が着ている衣装に問題があり、この時代のオランダのファッションではないのだ。いうなれば幻想的な衣装なのである。そのため市民風俗を写したということもできず、フェルメールの作品のなかでも特異なものである。 描写を仔細に見てみると、耳飾りの真珠には輪郭線がない。暗部に対して光のあたっている部分に白が置かれているだけだ。つまり真珠としての暗部は描かれていないのである。これは専門的なことになるけれども、西洋絵画におけるデッサンの理論をそのまま実現しているのである。つまり対象たる物体は、輪郭線によって空間から分離されて存在するのではなく、空間に瀰漫する光が遮られて影をつくり、その明暗によっておのずと物が立ち現われるのである。いいかえればデッサンというのは光と影をつかまえることにほかならないのだ。物体に輪郭線は存在しないのである。 フェルメールの絵画はこの理論の実践的モデルである、それをもっとも良く示しているのが、この「真珠」の描写である。
Aug 12, 2006
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画家を描いた映画、といって思い出すのは何だろう。あんまり記憶にないなァ。年代順にならべてみましょうか。 ★『モンパルナスの灯』 マックス・オフュルス監督、ジェラール・フィリップ、アヌーク・エーメ主演。1950年。 エコール・ド・パリの画家アメデオ・モディリアーニ(1884-1920)の伝記的な映画。当時、フランス映画界随一の美貌といわれたジェラール・フィリップがモディリアニに扮している。 エコール・ド・パリ(パリ派)とは、芸術への一途な憧れだけを胸にいだいてパリにやってきた外国人の画家たちを称した。彼等は概して孤独で、貧困をかこちながら芸術に邁進していた。モディリアーニはイタリア人である。 孤独な外国人画家たちのなかでも、モディリアーニの生涯はひときわ悲惨であった。彼の芸術は、生前はほとんど理解されず、貧困、結核、酒、焦燥、絶望と、果てしないような悪循環の繰り返しだった。 私はこの映画のDVDを持っているので、先日見直してみた。 ジェラール・フィリップに繊細さと儚さを感じて、涙する女性ファンはいるかもしれないが、絵描きの精神のようなものはちっとも感じられなかった。おもしろいのは、いちはやく彼の才能と絵のすばらしさを見抜いた画商の存在。この画商、自分の胸のうちでひそかに評価するだけで、モディリアーニの絵を買い取るわけではない。つかず離れずのところから、モディリアーニが間もなく死を迎えるであろうことを見ているのだ。そして、彼が死んだと知るや、そのしらせが彼の妻の耳にはいらないうちに、アトリエをたずね、絵を安値ですべて買い取るのである。何もしらない妻は大喜び、あれもこれもみんな持っていって下さいと言う。画商は何食わぬ顔をして絵を運びだすのだった。 この妻ジャンヌをアヌーク・エーメが演じていて、これがなかなか良い。 映画は画商の非情としたたかさを描いて終わっているが、事実を追いかけるとあまりの悲惨さに観客が拒否反応をおこすと判断したかもしれない。 その事実とは…… モディリアーニがジャンヌと知り合ったのは1917年のことで、当時、ジャンヌは画塾生であった。1年後にジャンヌはモディリアーニの子を出産する。女の子だった。1920年の1月、モディリアーニの病状が悪化。慈善病院に運びこまれるが、数日後に死亡した。35歳だった。ところが、このときジャンヌは二人目の子供を妊っていたのだ。夫が亡くなったその日、ジャンヌは娘を残して、窓から身を投げ、夫のあとを追った。 ★『赤い風車』 ジョン・ヒューストン監督、ホセ・ファーラー、コレット・マルシャン、シュザンヌ・フロン、クリストファー・リー主演。1952年。 アンリ・ド・トゥールーズ・ロートレック(1864-1901)の後半生をつづった伝記的な映画。この映画、ジョン・ヒューストン監督のドラマ作りのみごとさとともに、二人の撮影カメラマンの努力を讃えなければならないだろう。それは色調である。ロートレック調といってもよい、19世紀末のパリを再現しているのだ。加えて、ロートレックを演じたホセ・ファーラーの努力もひとこと述べておかなければなるまい。 ホセ・ファーラーという俳優はなかなかの長身で、ものの本によれば181cmだそうである。ところが、映画のなかで、彼は152cmの背丈になっている。ロートレックはフランスで有数の貴族の出身で、何不自由ない暮らしをしていたが、14,5歳のときに家のなかで階段から落ちて両足を骨折。以後、彼の脚の成長は止ってしまった。ありていに言えば、胴長短足の大人の顔をした子供のような人だった。そこでホセ・ファーラーは、膝を折って臑と腿を括り、衣装を着て、膝に靴を履いて撮影にのぞんだという。ロートレックをみごとに演じきっているのである。 「赤い風車(ムーラン・ルージュ)」はパリの北、モンマルトルの丘のふもと、クリーシー大通りの側にあるキャバレーである。前述のモディリアーニが暮らしていた南側のモンパルナスとはセーヌ川をはさんでちょうど正反対に位置する。例のフレンチ・カンカンで有名な店で、同じ場所かどうかは知らないが現在も赤い風車が夜空を彩っている。 ロートレックは、ゴッホや印象派の画家たちから刺激を受け、モンマルトルにアトリエをかまえて活気ある街の人間模様を生涯のテーマとして描いた。「赤い風車」や「ディヴァン・ジャポネ」のための石版のポスターは人気をあつめ、彼は街の寵児だった。しかし自らの身体的なコンプレックスからか、街を愛しながらも孤独で、愛人もいなかった。やがて酒に溺れるようになり、そのため制作も思うようにいかなくなる。 1901年、ロートレックはマルローメの城館で死の床についた。その死の床に彼にとっては生涯で初めての幸福な知らせがもたらされた。彼の作品がルーヴル美術館に収蔵されたのであった。 ★『炎の人ゴッホ』 ヴィンセント・ミネリ監督、カーク・ダグラス、アンソニー・クイン、ジェームズ・ドナルド主演。1957年。 ゴッホを演じたカーク・ダグラスは、この役がやりたくて自ら売り込みに奔走したらしい。熱演である。メーキャップがまたゴッホによく似せているのだ。カーク・ダグラスはアカデミー賞こそのがしたものの、ニューヨーク批評家協会賞とゴールデン・グローブ賞の男優賞を受賞した。アンソニー・クインのゴーギャンもよく似ているが、彼はこれでアカデミー助演男優賞を獲得した。 ゴッホの伝記はあまりにも人口に膾炙(かいしゃ)されているので、映画のストーリーから何か新しい話題を得ることはない。私にはもう一枚何かを剥いで、ゴッホの心の奥をのぞきたいという不満が残った。私は舞台で滝沢修のゴッホを観ている。その耳切りの狂気の戦慄するような演技がいまでも目に浮んで来る。滝沢のゴッホもよく似せたメーキャップだったこともあり、どうしてもカーク・ダグラスと比較してしまうのだ。すると、私の軍配は滝沢修に挙がってしまう。 ★『ゴッホ / 謎の生涯』 ロバート・アルトマン監督、ティム・ロス、ポール・リス、エイドリアン・ブリン主演。1990年。 この映画、原題は‘VINCENT & THEO’である。つまりゴッホと弟テオの関係を主軸に据えた、その意味では前述の『炎の人ゴッホ』とはひと味ちがった出来になっている。これはおそらく映画評としては賛否おおきく分かれるところだろう。つまり、観客があらかじめ期待しているであろうゴッホの芸術に対する飽くなき探究や、その精神、哲学、そしてコンプレックスや狂気については、意外にさらりと流しているのだ。この映画の主眼は、兄弟愛という名で語られてはいるものの兄ゴッホの甘えやエゴイズム、それと表裏をなす自己嫌悪や悔恨。そして、その何もかもを理解しながら一方で兄の呪縛から逃れられないで苦悩する弟テオを描くことだったであろう。それをおもしろいと見るか不満を感じるかで、映画評は二分するにちがいない。私は、「良し」とした。すくなくとも、ゴッホの画家としてのエゴイズム(狡さ)を、ティム・ロスはみごとに出していた。 ★『サバイバル・ピカソ』 ジェームズ・アイボリー監督、アンソニー・ホプキンス、ナターシャ・マケルホーン、ジュリアン・ムーア、ジェーン・ラポテア、ダイアン・ヴェノーラ主演。1996年。 ピカソをとりまく7人の女たちの物語。最初の妻フランソワ(ナターシャ・マルケホーン)の目から見ている。たしか、原作はフラソワの自伝ではなかったかしら。 ピカソを演じたアンソニー・ホプキンスは、ジェームズ・アイボリー監督とは気があうのか『日の名残り』でも一緒に仕事をしている。例の『羊たちの沈黙』の殺人鬼ハンニバル博士のアンソニー・ホプキンスだ。私はハンニバルが好きだというと誤解されそうだが、ハンニバルを演じたアンソニー・ホプキンスが好きだと言い直してもよい。そんな彼が、ピカソをよく研究して、ピカソになりきろうとして奮闘している。みごとだ、と言いたいのはやまやまだけど、どうも後半になって息切れしていないかしらね。 ピカソの女関係は、これも世間衆知のことだが、私はドーラとの関係に興味を感じる。彼女は写真家だった。『ゲルニカ』の制作過程を撮影していて、この彼女の連続写真によって、ピカソが現実の事件に触発されて制作を開始しながら、最終的には政治的プロパガンダにならないように、芸術作品として完成するよう次第に訂正していったことを我々は知るのである。この当時、ピカソはドーラに自らの手の内をあけっぴろげに示し、あまつさえ写真撮影を許していたのだろう。 まあ、そんなことはこの映画には関係ないのだが。 というぐあいに、私が思い出した「映画の中の画家」は以上だ。ほかに、たとえばオーソン.ウエルズが撮ったドキュメンタリー映画『贋作』をいれてもいい。しかしこの映画については、別に稿をあらためたい気もある。 あしたは、「推理小説のなかの画家」をお話ししようかしら……
Aug 10, 2006
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きょうは双子美術コレクションから、その一部をご紹介します。‥ ‥ ‥ ‥ ‥ ‥ ‥ ‥ ‥ ‥ ‥ ‥ ‥ ‥ (1)カストールとポルクス、古代ギリシャの壷絵、紀元前4世紀(2)狼に育てられるロムルスとレムス(ローマ市創建神話)、ローマ・カピトリーノ美術館蔵(3)卵から生まれたレダの子供カストールとポルクス、レオナルド・ダ・ヴィンチ派(4)ペルシャの星座の書より、1632年、ニューヨーク公共図書館スペンサー・コレクション(5)コルモンデリー家の姉妹、作者不詳、1610年頃、ロンドン・テート美術館蔵(6)双生児、ヤコブ・フォン・ゲリッツ・キュイプ(オランダ派)、17世紀初頭、所在地不明(7)双生児、コルネリウス・デ・フォス(オランダ派)、1630年頃、ヘルシンキ・アテニューム美術館蔵(8)双子姉妹、アメリカ人の作者(不祥)、1840年頃、コネチカット州・ミスティック海港美術館蔵(9)シャム双生児チャンとエン、アメリカ人の作者(不祥)、1852年、銀板写真にエングレイビング(10)旅の道連れ、オーガスタス・エッグ、1865年頃、イギリス・バーミンガム市美術館蔵(11)双子、ポール・クレー、1946年、個人蔵(12)ダブル・ハットの双子、オーティス・シェパード、1940年、ダブルミント社のチューイングガムの広告
Aug 9, 2006
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かつて安野光雅氏が報告していたことだが、コペンハーゲンの町の一画が、河とそこに架かる橋をはさんで、右にひろがる景色と左にひろがる景色とが、鏡に映したように同じであるという。安野氏はひどくショックを受け、薄気味悪かったそうだ。 私はこういう話が大好きなのである。そしてついつい、この町の住人は実はみな双子で、ふたりはそれぞれ右の町、左の町に別れて住んでいるのである、と、まァそのー、言ってみたくなるのだ。 「双子の建築」論というのは、建築家にしてマニエリスト、毛綱モン太こと毅曠氏の提唱したものである。しかし神社仏閣の伽藍配置などのシンメトリーなることなどを考えるのは思惑ちがい。シャム双生児のごとく、トウィードルディとトウィードルダムのごとく、互いの鏡像になっていることが肝心。 「而して其枠を限定するに、双子のうち片割れの建築がプラトン的立体の組合せを基本とせし完結した形態にて、片割れ同士が互に自律、対峙し、何らかの緊張関係成立せしこと。四次元空間にて転換可能な形態とでも謂うるか、立体の鏡面対称なること等。」 (毛綱毅曠『建築の無限』所収) 毛綱氏、東西の典型を例示して、すなわち東は播磨国小野の浄土寺浄土堂、重源上人の作。西にローマはポポロ広場の17世紀に建立された聖ギイ・ミラコリ寺院と聖サンタ・マリア・モンテミント寺院はまさしく双子の教会。バロックの巨匠、ベルニーニとフォンタナの設計である。 この「双子の建築」をミステリーにもとめると、まずはエラリー・クインの『神の灯』をあげねばなるまい。泡坂妻夫『曲った部屋』は、結構が団地式「兎小屋」では鼻白むが、われわれの日常生活場の盲点をつく面白さをとるべきだろう。 私がジャケット装画を担当したハヤカワ・ミステリ文庫の一冊、アンドリュー・ガーブ『ポートワインを一杯』(イギリス・ミステリ傑作選)もまた、双子の建築が重要なポイントになっている。この本、すでに絶版になっているが、最近ではネット・オークションに出品されることがあるようだ。ここはやはりミステリの掟に従い、詳しくは申しますまい。 推理小説の示す関心は、いま上記のごとく特異な建築論の紹介をしたけれども、じつは建築的幾何学嗜好と同じ精神基盤に立っているのである。のちに示すように双子についての関心は、なにも推理小説にかぎったことではない。誤解をおそれずに謂えば、たしかに「珍しさ」や「神秘性」も理由のひとつではある。現在も存続しているのかどうか私は不明ながら、東京大学教育学部附属中・高等学校双生児学級というのがあった。双生児に特有の精神機能等を観察研究するのが目的で設立された。この研究記録は1978年に『双生児500組の成長記録』として日本放送出版協会から刊行されている。文部省総合研究報告書のなかにも双生児研究班の報告がふくまれている。つまり、学術的にもしかるべき研究をしなければならない対象ではあったのだ。 しかしあえて文学や推理小説に限定するなら、もっとも肝心なのは、内部に対称性をもった一顆の胡桃(くるみ)のように、この世の乱雑さのなかの美しき幾何学的存在とみなされていることではあるまいか。 私は冒頭に安野氏の見たコペンハーゲンの双子の町について述べ、つづけて、住人はみな双子でそれぞれ右の町と左の町とに別れて住む、とヨタをとばした。ところが江戸川乱歩の『三角館の恐怖』にこんなことが書いてある。 〈父の財産は一応、(双生児の)長男の兄に譲る。しかし兄はそれを保管するだけで、死ぬまでに兄としての正式の遺言状を作っておくこと。その遺言状には、わたしたちふたごのうち、長生きをしたものに、正式に家督をつがせ、全財産を譲る。〉と。 この遺言によって双生児の兄弟は70歳になる今日まで、40年間、長生き競争をしてきた。正方形の敷地を対角線で真っ二つに分け、もとは一つの西洋館であった建物の内部に壁を築いて暮らして来たのである。まさに胡桃のように。四角な胡桃のように! ついでながら、江戸川乱歩はこの小説を執筆するにあたって、ロジャー・スカーレット『エンジェル家の殺人』を下敷きにしていることを公表した。加えてもうひとつ‘下敷き’にした作品がある、と私は思う。井原西鶴の『本朝櫻陰比事』のなかの一篇、「子子(ふたご)は他人のはじまり」である。乱歩はこれについても同じ小説の〈意中の人〉の章のなかで暗に告白している。森川弁護士と篠警部が会食しながらの話に、〈そして犯罪を取り扱った落語のことから、「栄陰比事」「櫻陰比事」などという裁判物語の批判にまで及んだ。〉と。 私自身がどういうものか幾何学嗜好があるので、シャム双生児のシンメトリー等には関心を抱いてきた。この双子は心臓が鏡に映したようにそれぞれ右と左とにあり、利き腕も右と左に分れている。あるいは、サルヴァドール・ダリはなぜか自分は9歳のときに双生児の弟と死別したと言いふらしていた。真っ赤な嘘なのだが、画家のエドワード・マッカボイの『ダリの肖像』という絵は、その双生児話を真にうけたのか、ダリの運命として描いている。映画『スター・ウォーズ』で美術を担当したティム&グレッグ・ヒルデブランドは一卵生双生児の兄弟である。 というぐあいに、何の役にもたたないそんな話まで、昨日書いた「記憶の頭陀袋」のなかに投込んできたのだったが、20年ほど前、わが弟が結婚したのが双子の姉妹の片割れだった。これにはいささか面喰らった。私はいまだにどちらが姉やら妹やら区別がつかないのである。 さて、このあたりで双子の推理小説および一般小説を列挙してみよう。しばらくぶりの主題別分類書棚だ。 スペンサー『妖精の女王』 エドガー・アラン・ポー『ウィリアム・ウィルソン』 エラリー・クイン『神の灯』 エラリー・クイン『シャム双生児の謎』 ルイス・キャロル『鏡の国のアリス』 ジョン・スタインベック『エデンの東』 アンドリュー・ガーヴ『遠い砂』 アンドリュウ・ガーヴ『ポートワインを一杯』 バリ・ウッド&ジャック・ギースランド『双生児』 H・J・アイゼンク『犯罪とパーソナリティ』 モーリス・ブランショ『謎の男トマ』 H・R・ハガード『二人の女王』 ジョン・シェイクス『戦士ブラク対吸血双生児』 ロアルド・ダール『あなたに似た人』 ポール・ギャリコ『もの言わぬ人質』 江戸川乱歩『三角館の恐怖』 江戸川乱歩『双生児(ある死刑囚が教誨師にうちあけた話)』 小栗虫太郎『黒死館殺人事件』 鷲尾三郎『文殊の罠』 倉橋由美子『反悲劇』 西村京太郎『殺しの双曲線』 柴田錬三郎『花嫁首』 ― 眠狂四郎シリーズより 和久峻三『パリ遺言特急』 立原正秋『恋人たち』 立原正秋『はましぎ』 竹本建治『匣の中の失楽』 萩尾望『ポーの一族』 萩尾望『アロイス』 そして最後にワーグナーのオペラ『ニーベルンゲンの指輪』から楽劇『ワルキューレ』のジークムントとジークリンデをあげておこう。
Aug 8, 2006
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物に執着する癖はそれほど強くないと自分では思っている。しかし本を買うのも、物を蒐集することであることに変わりはない。そういう私が、ちょいと風変わりな蒐集癖だと思っているのは、「蝶について」だとか「奇想の建築について」だとか、「石について」「庭園について」「匂いの記憶について」、あるいは「活人形」や「刺青」や「塔」などなど、ほとんど片言隻句にちかい資料や記憶を分類してあつめていることだ。このブログを長くお読みくださっている方はお気付きかもしれない。これもやはり蒐集(コレクション)と言うべきだろう。「記憶の頭陀袋」と私は称しているけれど、必ずしも記憶だけではなく、広告のきれっぱしや有り合わせの紙片に記したメモをファイル・ボックスに無造作に投げこんである。 それらの中に、「小説のなかの献立」というのがある。 小説とまで言わなくとも、概して文章で料理の「おいしさ」を表現するのは至難の技なのである。このことについては、映像絡みで以前にも書いたような気がする。その難しさを熟知した頭のいい小説家は、一見無愛想な献立表(御品書)を羅列することで、字面(じづら:紙面の視覚的効果)によって読者の感覚を刺激し、もって味覚を影像化しようとする。似たような効果を狙って、料理以外だと、たとえば船橋聖一の小説は女性のファッションがカタカナで頻出する。あるいは谷崎潤一郎の晩年の作品は、老人(主人公)に毎日投与される医薬品の名前を無機質に羅列することで、マゾヒスティックな効果を発揮せしめている。 これらの作為は、字面という視覚的効果によって官能性をひきだすことに成功しているのだ。そして、このような技術は、文体が高度に様式的(スタイリッシュ)であってこその効果、緊張感のないダレ文では駄目である。 と、私の関心はそのような視点に立っているわけだが、ここで文体を紹介しても仕方がない。献立表だけでもご覧にいれようと思う。二人の作家に限定してみた。歌人であり掌編小説集もある塚本邦雄と、三島由紀夫である。 まず、塚本邦雄 『冥府燦爛』より 前菜 銀杏の雲丹和え、牡蠣のベーコン巻き、卵黄にキャヴィア、貝柱の照焼、火焔菜、鵞鳥肝(フォワ・グラ)、皮蛋(ピータン)と水母(くらげ)の膾 スープ 初茸のコンソメ、玉蜀黍と小海老のポタージュ 鱒のフライ、梭子魚(かます)の酒焼、諸子(もろこ)の魚田(ぎょでん)、伊勢海老のコキール、鮒の甘露煮、蓮の鶏肉そぼろ詰、松葉蟹の牛酪焼、牛肉の粕漬、若鶏の乳漿煮 菓子 龍眼肉、二人静、松江の銘菓山川 同じく、『紺青のわかれ』より 精進料理(夏) 胡瓜と木茸の膾に青紫蘇添え、胡麻豆腐に新生薑、生湯葉と栗の甘煮蓼添え、榎茸の吸物(昆布だし) --------------------------------- 昼食 赤坂有職の袱紗寿司に茶巾寿司、鱧(はも)の洗いと蓴菜(じゅんさい)の吸物、四国の走りの酸橘(すだち) 次は三島由紀夫 『宴のあと』より 汁 松露、胡麻豆腐、白味噌 作 烏賊細作り、防風、橙酢 鉢 あまご、赤貝、青唐、橙酢、出汁 八寸 鶇附焼、伊勢海老、貝柱、千枚漬、甘草芽 煮 相鴨、筍、葛餡かけ 八肴 鰉(ひがい)二尾、甘鯛鹽焼、橙酢 椀 ぜんまい、粟餅、梅干 ---------------------------------- 前菜 土筆胡麻あえ、小川燻製、吹木東寺巻、穴子白煮、小鯛笹巻寿し 吸物 梅仕立、大星、淺月、木ノ目 作り 活鯛松皮作、島鯵 焼物 大車海老鹽焼、生椎、千社唐味噌漬 煮物 鳴門若芽、新竹の子、木ノ目 ---------------------------------- 前菜 赤貝、松葉銀杏、大葉百合根の甘煮、車海老の金糸巻 吸物 白味噌仕立に焼餅、菜の花あしらい 作り 活沙魚(はぜ)の糸作り 焼物 魴ぼう、松茸、川海老、焼玉子、栗、はじかみ等吹寄せ 煮物 海老芋、春菊 『春の雪』より 大正二年四月六日觀櫻會晩餐 一、羹汁 鼈極製浮身入 一、羹汁 鶏肉細末製 一、魚肉 鱒白葡萄酒煮牛乳製掛汁 一、獣肉 牛背肉蒸煮洋菌製 一、鳥肉 鶉洋菌詰蒸焼形入製 一、獣肉 羊背肉焙焼セロリ製添ル 一、鳥肉 雁肝冷製寄物 製酒 松林檎入氷酒(パインアップルいりソルベ) 一、鳥肉 しゃも鶏洋菌詰焼 サラト紙函入製 一、蔬菜 松葉獨活(アスパラガス) 牛酪製 鞘隠元豆 一、製菓 牛乳油製冷菓(ババロワ) 一、製菓 二種合氷菓 雑菓(プチ・フルー) ----------------------------------- スープ 魚肉 鮭燻製(レモン・パセリ添え)、舌比目魚(したひらめ)のグラタン、 海老のアスピック(ゼリー寄せ) 獣肉 トルネード・ステーキ 鳥肉 野鳥のブロシェト、フォワグラ サラダ レタス・胡瓜・トマト・アスパラガス(氷細工盛り) デザート チョコレート・ムース 『禁色』より 前菜(八寸) 松葉松露、百合根の木の芽焼、岐阜の蜂屋柿、大徳寺の濱納豆、蟹の更紗焼 吸物 小鳥の摺流しに隠し芥子の赤味噌仕立 作り 鯒(こち)の河豚作り(宋赤絵の牡丹文大皿) 焼物 落鮎の付焼 向付 初茸の青和と赤貝の白和の盛合せ 煮物 鯛豆腐に漬わらび 壷 茜草の熱浸し 食後の菓子 森八の起上り小法師 以上、いかがであろう。塚本邦雄『冥府燦爛』の献立は、私見ではいささかくどい。『紺青のわかれ』の昼食はすばらしい。 三島由紀夫の献立は完璧だ。彼は味覚音痴だったと父上が証言しているので、いずれ名のある料亭のアドヴァイスにちがいない。これを見て、どこそこの料亭の献立だと言い当てる人がいるかもしれない。どうか御教示ください。 注目するのは、『禁色』の八寸に蟹の更紗焼がはいっていること。三島由紀夫は蟹が大嫌いだったのは有名で、味覚よりなにより甲殻類が怖かったらしい。自己を鎧で固めた人だったが、鎧をまとった小動物に冷や汗を流していたというのだから、まったく人間てのはおもしろいですなー。 いずれにしろ、こうして地の文脈から抜き出しただけでも、料理の背景というようなものが官能性をともなって、我々のイメージとしてある確かな手ごたえとなって生まれて来はしまいか。『宴のあと』においては、上記のように、三度も献立が記述される。季節感が盛り込まれていることも言うまでもあるまい。
Aug 7, 2006
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いつもの夏なら、カンカン照りの太陽のように創作意欲がおさえがたく湧き起って、裸になって大キャンヴァスに立ち向かっているところだ。ところが今年は、新しいキャンヴァスが、のっぺりした白い顔をさらして退屈気に壁によりかかっている。 スランプなどとは思いたくない。そんなんじゃないんだ。筆を持ちさえすればいいのだ。一筆いれればさえ、あとは自ずとペースができあがってゆくのだ。 さきほども、突然、あるイメージが前頭葉にひろがった。「何じゃこれは!」というような影像だ。ギャヒャヒャヒャ! 「あんたちゅう人は、次から次とイメージを変えて、ほんまに落着きないなァ。同じことを繰り返し描くうちに、神気を得るちゅうこともあんのやで」と何処かから声がする。「分かっているワイ。しゃァないやないか、勝手に前頭葉にうかんでくるイメージや。どないせいちゅうねん。----分かった、分かった。ダーレのせいでもありゃしない~、ミーンナ私が悪いのよ~ってかー?」 狂乱の夏! お夏狂乱というのは歌舞伎の話。関係ないか。ギャヒャヒャのイメージをデッサンしようじゃないの。
Aug 6, 2006
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ミステリ作家の折原一氏から新刊『行方不明者』をプレゼントされた。書き下ろしである。折原さん、ありがとうございます。 読むのが楽しみだ。 8月5日発行なので、まだ店頭には並んでいないかもしれない。帯に書いてあるコピーを紹介してみよう。 「埼玉県蓮田市で、ある朝、一家四人が忽然と姿を消した。焚きたてのごはんやみそ汁、おかずを食卓に載せたまま……。両親と娘、その祖母は、いったいどこへ消えたのか? 女性ライター・五十嵐みどりは、関係者の取材をつうじて家族の闇を浮き彫りにしてゆく――。 一方、戸田市内では謎の連続通り魔事件が発生していた。たまたま事件に遭遇した売れない推理作家の「僕」は、自作のモデルにするため容疑者の尾行を開始するのだが――。」
Aug 5, 2006
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きのうは日記を更新できませんでした。アクセスしてくださった方々、ごめんなさい。じつは論文室に掲載するための原稿を入力していました。猛スピードでキーボードを叩きつづけ、図版もいっしょにアップいたしました。『狐信仰とそのイコノグラフィー』という論文です。先日、安藤昌益の幽霊論にふれましたので、ついでにこの拙論をあわせて読んでいただけたらと思ったわけです。後日、さらに図版を充実させるつもりですが、とりあえず概観できる程度にはいたしましたので、御興味がおありでしたらお読みくだされば幸いです。 では、次の日記まで。
Aug 5, 2006
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ここ数日間、NHK・BS2でチャップリンの作品を連続放映している。私はどちらかと言うと、チャップリンよりバスター・キートンの悲劇的な喜劇のほうが好きなのだが、チャップリンの初期作品を含むほぼ全作品を放映するらしいので、こんな機会をのがすテはあるまいと毎日観ているのだ。 このたびおそらく初めて公開されたのではないかと思うが、『独裁者』を撮影中のチャップリンを息子さんが撮影したというカラー・フィルム、あるいは没フィルムなどは、チャップリンがあのギャグの絶妙なタイミングをフィルムに定着するために何度も何度もトライしているのだということを示す貴重なものであった。『独裁者』の撮影現場では、何度繰り返しても彼の思い描いているイメージと違うらしく、ついに癇癪をおこしてスタッフを激しく怒鳴りつける姿もあった。 チャップリン喜劇についてあらためて考察してみたくなっているのだが、きょうは、ちょっと違う観点から気がついたことをメモとして書きとめておこうと思う。 じつのところ、確信はない。確信はないけれど、今後私の思いにいつまでも忘れずに去来しそうである。 それは、ひとつの勘違いにはじまる。 1916年作『チャップリンの番頭』のなかのシーンである。この作品は、ユダヤ人の営む質屋兼古物商にチャップリンが店員として就職する。そうしてヒッチャカメッチャカをやらかすわけだ。 ほとんど冒頭部で、出社したチャップリンが例の山高帽をぬぎ、棚に置いてある売り物の古い鳥籠の中にいれるのだ。このシーン、いや、〈鳥籠の中の山高帽〉というイメージといったほうが正確だろう。すてきなイメージだ。そして、どこかで見たような気がしないだろうか。 私は、シュルレアリスムの画家ルネ・マグリットを連想したのだ。マグリットが描いている! てっきりそう思った。私は数十年前に見たマグリット展のカタログを資料棚から探し出し、それらしい作品がないかと調べてみた。 あった! いやいや、これではない。その絵は、男の腰から上が鳥籠に変わっていて、籠の上に山高帽がのっかっているのだった。 ルネ・マグリットのよく知られた肖像写真というのは、黒いフロック・コートを着て山高帽をかぶっているのである。作品のなかにもそのような姿がわりと頻繁に登場する。私がチャップリンの『番頭』を観て、ルネ・マグリットを連想したのも、弁解がましいけれど、無理もないと言えなくもない。 私は、両者のイメージが似ているとか似て非なるものだとかを問題にしているのではない。私の直感は、もっと積極的なものだった。マグリットは『チャップリンの番頭』を観ているのではないか、と。この映画が製作された1916年、マグリットは18才。美術学校の学生で、若い芸術家たちとのつきあいがはじまっている。 ずいぶん大胆なことを言うと思われるかもしれない。自分でもそう思う。 じつは、鳥かごの中の山高帽のイメージだけなら、早々に勘違いだったと引き下がったかもしれない。次のシーンは、またもやマグリットを連想させるものだったのだ。 チャップリンは、次に、例の竹のステッキを楽器のチューバの中にさしこんだのである。 チューバ! この楽器もマグリットの絵に登場するものなのである。ステッキが入っているわけではないが、『魅せられた領域』と題された作品のなかでそのチューバは火を噴いている。 以上は私の頭のなかの連想にすぎないかもしれない。それならそれで、いま私は、綱渡りのようなひとつの映像サーカスを楽しんでいるのである。
Aug 3, 2006
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ちょっと遠いところから話しはじめる。 懇意にしている小説家、花輪莞爾氏の労作『坂本龍馬とその時代』は私が装丁をやらせていただいたが、この伝記で私がもっともおもしろく読んだのは、龍馬をとりまく女性たち、なかんずく姉乙女との関係と妻お龍について、類書中でも優れて分析的に言及している点であった。 しかし今日はそのことを述べるのではない。龍馬が暗殺された当日、その直前まで、彼の部屋を訪ねていた本屋がいた。その本屋とはどのようなものであったのか。と、私の好奇心が頭をもたげたわけである。 花輪氏は次のように書いている。 〈慶応三年十一月十五日の夜、龍馬はかぜ気味だった。いかに頑健とはいえ、連日の東奔西馳に疲れてもいたのだろう。蔵の密室では用たしにも不便なため、母屋の二階にうつり、寒さもひとしおなので真綿の胴着に舶来絹の綿入れをかさね、その上から黒羽二重のハオリをかけていた。 その日、夕刻の近江屋には陸援隊長の中岡慎太郎が、新撰組にとらえられている土佐藩士宮川助五郎の身柄引取りについての相談で、また同藩士岡本健三郎、出入りの本屋菊屋の峰吉(この時代は店頭売りもあるが、出前をする貸本屋が多い)も来合わせ、二階のいちばん奥の八畳間で世間話をしていた。〉 本屋については以上の記述だけである。 坂本龍馬をめぐっては、映画も何本かつくられている。しかし伊藤大輔監督の『幕末』にも、黒木和雄監督の『龍馬暗殺』にも、私の記憶には出前の本屋峰吉の姿はない。そうなるとそのイメージを追って一層気になりだした。 江戸時代の店頭売りの本屋については、『江戸名所図会』巻一の「鶴屋喜右衛門店頭図」でおおよそのイメージはあった。これを描いた絵師・長谷川雪旦の墓にも私は詣でている。「店頭図」には、仕入れに来た者の姿もあり、大風呂敷の包を背負っている。おそらく葛籠(つづら)に本を入れて、大風呂敷で包んだのであろう。 江戸時代の出前本屋について、気にはなったものの、怠け心でそれ以上突っ込んで調べもしなかったことはたしかだ。花輪氏の『坂本龍馬とその時代』が1987年だから、私が書店で新刊の長友千代治著『江戸時代の図書流通』を手にするまで15年が経っていた。それは江戸時代の出版と流通事情についての見事な調査研究の書物であった。発行元は佛教大学通信教育部、発売思文閣出版。佛教大学鷹陵文化叢書の第7巻である。 専門的な研究書なのでかいつまんで解説してもつまらない。江戸時代の本屋については第一章がまるまる当てられているので、その細目を紹介するにとどめる。 第一章 江戸時代の本屋 一 書物史上の江戸時代 二 四都と地方の本屋 (1)京都の本屋 (2)大阪の本屋 (3)江戸の本屋 (4)名古屋の本屋 (5)地方の本屋 三 店付きの本売 (1)板木屋 (2)表紙屋 (3)経師屋 (4)古本屋 (5)干し店 四 巡回の本売 (1)行商本屋 (2)絵双紙売 暦売・番付売・細見売・宝船売・勝負番付売・紅絵売・双六売・読売(触売) (3)糶本屋(せりほんや)(山田註:本屋仲間に加入している株仲間会員の名義を借りて営業している業者) (4)貸本屋 市中巡回の貸本屋・郭に入り込む貸本屋・芝居に入り込む貸本屋・貸本の入手・貸本の移動と装備・貸本見料・付記 イメージを渉猟している私にとって大変ありがたいことに、この第一章だけでも115点の図版資料を掲載していることである。もはや江戸時代の本屋のイメージを得るには十分すぎるほどだ。他の章の図版をあわせると全141点になる。長友氏の研究姿勢にはまことに感服する。 上の絵のなかで、内儀さんが、通りで行きあった出前の貸本屋を呼び止めている。セリフを読んでみよう。 「コウコウ、本やさん、こないだのあとを早くお貸しナ」 「ハイハイ、又あのほかにも面白い本ができました。あきしだい早々にもってあがります」 庶民にとってはまだまだ本は高価だったのである。 私はかつて鶴屋南北について調べていて、「大南北」と称された芝居台本作者がどのようにして教養を身につけたものかと不思議に思ったことがある。そのことはイギリスにおけるシェイクスピアについても言えることだ。鶴屋南北の生れは、現在の東京・中央区日本橋掘留町一丁目であるが、当時は乗物町と称した職人の町であった。南北の父は、その町の紺屋の型地付職人。つまり染め物屋で型紙を布地に置いて糊を刷き、藍壷に浸けて模様を染めあげる、----そういう仕事をしていた。しがない職人の子だったわけである。もちろん家のなかに本などあるはずもない。 長友氏の著書の目次、貸本の項に、「芝居に入り込む貸本屋」とある。大南北の和漢におよぶ教養は、おそらくこの貸本から得たところが多いにちがいない。もちろん師匠や兄弟弟子たちからの耳学問もあったであろう。というのは、南北の自筆稿には独特の当て字が散見するからである。 ともあれ、江戸時代の出前貸本は相当に繁盛し、また、庶民たちも意外にせっせと読書に励んでいたらしいのである。 ところで話しを始めにもどせば、暗殺のあった当日、坂本龍馬の部屋を訪ねていた出前の本屋菊屋だが、長友氏によって私はその確かな所在を知ることができた。 京・寺町十軒店、菊屋七郎兵衛。 峰吉はそこの使用人であった。
Aug 2, 2006
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午後2時の仕事場。良く晴れて青空も見えるのに、気温はなぜか暑いというほどでもない。エア・コンデショナーも切ったまま、窓を明けはなっていた。高台にある我家からは、多摩川をはさんで日野市豊田方面や北八王子が遠望できる。手前の住宅街の家々のベランダに、洗濯物がならぶ。風はないけれど、まさに洗濯日和。子供のサッカー・ジャージーやソックスがたくさん並び、あのお宅には少年サッカー・チームで活躍する男の子がいるのだろう。 と、その時、昼下がりの静寂を破って、にいにい蝉のかしましい鳴き声が一斉におこった。それはあまりにも突然だったので、「おやっ?」と私は仕事の手をやすめたほど。ことし初めて耳にする蝉の声である。 それにしても、なんという姦しさであろう。 蝉は非常に長い年月(たしか10年くらい)、幼虫として土中に暮らし、ある時季がくると地上に出、近くの樹木を這い登り、孵化する。そしてほぼ1週間の間に産卵をして死亡する。----この一生を我々人間はどのように見るか。羽化後の1週間だけを見ると、まことに儚い。生きていることが夢まぼろしのようだ。しかしまた、その間に、まさに情熱の限りに恋をし、交尾をし、子孫を残すために全精力をかたむけ、死んでゆく。 私は若い時に、死にとりつかれてしまったことがあった。生命力を失い、まるで死に場所をさがすように街中を蹌踉とした。私の目がとらえるものは、小さな生き物たちの死の姿だけであった。目の前で、それまでヒラヒラ舞っていた蝶が、ポトリと落下して死ぬのを見た。行く所、行く所に、蝉の死骸がころがっているのを見つけた。それらの姿は、おそらく普段ならほとんど気が付かないにちがいない、雑踏のなかの路傍の死であった。 しかし、私は、長い時を経て、憑ついた死を振払うことができた。その後は、むしろあふれるばかりの生命力を身にたくわえるまでになった。私は絵を描き始め、そのなかに次々と卵を描き込んだ。 にいにい蝉の大合唱にしばらく耳をかたむけていた。 が、どうしたことか、ものの15分ほどで、その鳴き声はピタリと熄(や)んでしまった。ほんとうに、どうしたことだろう。 私は依然として窓を開け放ったまま、再び大合唱の起るのを待っていた。が、ついに短い夕焼けとともに窓外は暮れてしまった。 来る蝉の身を打つけてとまりけり 嘯山
Aug 1, 2006
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