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唐突ですが、前々からちょっと悩んでいた問題について一席。 皆さんはご自分の配偶者のことを、人に対して紹介する時、何と呼んでいらっしゃいますか? 私の友人を見渡すと、「ヨメさん」と呼ぶ奴が多いのですが、私の感じですと、自分の配偶者を「ヨメさん」と呼ぶことには何故か抵抗があるんですなあ。「嫁」というと、何だか「私の」ではなく、「私の家」の視点から見た配偶者、といった意味合いがあるような気がするもので・・・。 じゃ「奥さん」はどうかというと、これも何だかしっくりこない。自分の配偶者のことを「奥さん」と呼ぶのは、「山の神」と呼ぶのと同じで、なーんか尻に敷かれているような感じがするんですね。それに、たとえば自分の目上の人に対して、「私の奥さんは・・・」なんて言えなくないですか? ま、そんなこともあって、私は自分の配偶者のことを、とりあえず「家内」と紹介します。しかし私が「僕の家内は・・・」なんて言うと、私のゼミ生たちが敏感に反応して、「えー! 先生って奥様のこと『家内』って呼んでいらっしゃるんですかー! 意外ー!!」などと囃し立てるんですよ。実は今日、ゼミがあって、そこで囃し立てられたんですが・・・。「家内」って変ですか? ま、実は私自身もこの呼び方がいいのかどうか、必ずしも自信を持っているわけではないんです。何だか自分の語彙ではないような感じ、と言いますか・・・。それに、この言葉にも「妻たるもの、家に貼りついているべきだ」というような封建的な響きがあるような感じもしますし・・・。 でも、「ヨメさん」もダメ、「奥さん」もダメ、「家内」もダメとなると、他になんて言えばいいのか・・・。英語だと「僕のワイフは・・・」で済むわけですけど、これを日本語に直して「僕の妻は・・・」ってのも、私としてはあまり使いたくない呼び方なんですよね。小説か何かに出てくる言い方みたいじゃないですか、「私の妻は・・・」なんて・・。 かといって、「私のパートナーは・・・」なんて口が裂けても言いたくない! 一方、私の「家内」に尋ねますと、女性の側としても、配偶者の呼び方には苦労すると言います。「主人」というのは、女=奴隷というニュアンスがありますし、「旦那(様)」というのも、それに近い。それに「私の旦那は・・」というのは、何だか下品な感じがしますしね。また「私の夫は・・」というのも何だか、こなれた日本語ではないような感じがする。じゃ、私のことを何て言って人に紹介するの? と尋ねると、親しい友人には普段「家内」自身が私を呼ぶのと同じ呼び方をし、目上の人には「主人」を使い、一般には「ダーリン」と呼ぶとのこと。「ダーリン」って・・・あのねー・・・。 じゃ僕も普段呼んでいるように「私のハニーが・・・」って言っちゃうぞ。(ウソ) ということで、このブログをお読みの皆さんの中で、何か「これがいいんじゃないの」というような配偶者の呼び方をご存じの方、ぜひコメントをお寄せ下さい。悩めるワタクシに救いの手を!
October 31, 2005
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今日、名古屋に戻ってきました。 このところ実家から名古屋に戻る日のお昼は、外食するのがならいとなってしまったようで、今日も聖蹟桜ヶ丘というところにある京王デパートのどこかで昼食を食べることにし、両親と家内を連れて出かけました。 もっとも、せっかく出かけるなら食事だけでなく、どこか見るところはないかとインターネットで調べたところ、この近くに多摩市指定有形文化財「旧多摩聖跡記念館」というのがあると判明。で、ここに立ち寄って見ることに。 この記念館というのは、もともと昭和5年に完成した建物で、明治天皇がウサギ狩りや鮎釣りをするためにこの地にしばしば立ち寄られたのを記念して建てられたものなんだそうです。前から「聖蹟桜ケ丘」という地名に含まれる「聖蹟」という言葉には、天皇家との関連があるのではないかと思っていましたが、ようやくそのことが確認できました。ちなみに、今では明治天皇の事跡の顕彰ということではなく、多摩市民の集いの場にしたいということで、記念館の頭に「旧」の一文字を付け加えたのだとか。ふーむ、なるほどね・・・。 ま、それはいいのですが、問題はこの建物でして、これがものすごくモダンなんですよ。とても今から75年前に作られたものとは思えないほど。解説によると関根要太郎という人が建設したそうで、19世紀末に生まれたドイツのアールヌーボー様式である「ユーゲントシュティール」(英語でいうヤング・スタイルですか)の影響が強く見られるとのこと。ともかく、楕円形の建物で、周囲には列柱が取り囲み、何ともカッコいい! 実に写真映りがいいんです。ちょっと日本離れしたそのモダンな風景ゆえか、その昔「仮面ライダー」の撮影で、この建物を背景に仮面ライダーとショッカーたちが闘ったのを始め、テレビのロケとして頻繁に使われているのも分かります。 ただ、如何せん、せっかくのモダンな建物も、地域住民の盆栽展会場みたいな使われ方しかしてないんです。もったいないなあ! こんな素敵な建物なんだから、結婚式場に使うなどして、多摩市が稼ぎまくればいいのに。相変わらずお役所は頭が固い! でも、とにかく建物好きの私としては、このモダンな建物を十分に見学することが出来て、かなり面白かったのでした。建物の周辺には散策するのにもってこいの林があったりして、秋の気も十分満喫できましたし。 さて、ここを見終わった後は肝心のお昼ご飯です。で、京王デパート内にある様々なお店の中から我々が選んだのは、「歌行燈」といううどんのお店。桑名に本店があるうどんの名店の、ここは支店ですが、釜揚げうどんに天ぷら、そしてご飯と茶碗蒸しが供される「歌行燈」というセットが売り物。生姜の風味の効いた独特の味のつゆにつけて食べるうどんもおいしいのですが、最後に、ご飯の上に漬け物や蛤の佃煮を乗せ、それに熱い出汁をかけてお茶漬けにして食べるのが絶品! 私がこの「歌行燈」というお店を初めて知ったのは、もうかれこれ20年近く前のことになります。大学時代の恩師に新宿・伊勢丹会館の中にある歌行燈の支店に連れていってもらったのが最初でした。その時、これはうまいものであるなあ! と感動し、それこそすぐ翌日くらいに再び両親を連れて、ここ、聖蹟桜ヶ丘の歌行燈に連れていったことを覚えています。ですから歌行燈の味は、もう亡くなってしまった私の恩師を思い出す、よすがの味でもあるんですね。今日もおいしかった! さて、そんなわけで歌行燈でおいしい昼食をいただいたわけですが、せっかく京王デパートまで来たのですから、今日はここでついでに「こたつ布団」を買っていくことにしました。 私の実家では、父が寒がりということもあるのでしょうが、真夏の一時期を除いてほとんど一年中こたつがセットされているような感じです。で、今年もそろそろこたつを出そうかというところなんですが、去年まで使っていたこたつ布団が少しみすぼらしくなってきたので、今年はこれを新調しようということになっていたわけ。 ところがですね、こたつ布団、買おうと思うと難しいですよ。 大体、デパートなどに行っても物がない。あっても1種類か2種類です。で、たとえ幾つか置いてあったとしても、その柄がものすごく趣味が悪い! もうほとんど昭和40年代のテイストって感じで、とても買う気になれない・・・。 これ、一体どういうことなんでしょうか? もう今時の若い人たちはこたつなんか使わないので、需要そのものがなくなってしまったということなんでしょうか? それにしても、まだまだこたつを愛用しているご家庭は多いと思いますが、そういう人たちは一体どこでこたつ布団を調達しているのだろう。あの趣味の悪い奴を、仕方なく買っているのか知らん? で、この趣味の悪い奴を買うか買わないかで往生していたところ、母がふと「無印良品に、そういうの置いてないかしら?」と言い出したんです。おお、それだ! 困った時の無印良品! 確かにあそこならシンプルでモダンな、それこそ無地のこたつ布団を売っているかも知れない! でまた、渡りに船というのか、つい3日ほど前に京王デパート内に無印良品が出店していたんですわ。これぞ奇跡! で、無印良品を探してみると、あったあった、無地のこたつ布団。ま、それほど洒落っ気もないですけど、少なくとも悪趣味にはなりようがないので、今回はこれにしようということになり、チャコールカラーのものを購入。 帰宅してから早速、こたつを作って布団を掛けてみると、うーん、まあまあ、かな。でもとにかく、これで今年も無事、こたつを出すことが出来たので父は大喜び。私としても、今日名古屋に戻る身ですから、何だか両親を暖かいこたつに託していくことが出来たようで、ホッとしました。 そして5時頃実家を出て、途中、サービスエリアで夕食をとりながら10時過ぎに名古屋に到着。ちなみに、今回は私の愛車、プジョー306ではなく、家内の愛車、オペル・アストラでの東京・名古屋往復だったのですが、この車、来年4回目の車検を通すかどうかという今頃になって「当たり」が付いてきたというのか、何だか最近、スピードの乗りが良くなってきたような気がします。1.6リッター車なんですけど、時速100キロあたりからの加速が割と力強いんですね。多分、その辺(3000回転位)にトルクの山があるんでしょう。最近、ようやくこの車のことを理解してきた感じ。 ま、それはさておき、このところどうも旅烏的な生活が続きましたが、この辺で少し落ち着かないといけませんね。明日から頑張りまーす。それでは、今日はこの辺で。お休みなさい!
October 30, 2005
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今日は某学会の第1回総会というのに出席して来ました。 何でもそうですけど、「第1回」というのはなかなか大変です。どの位の人が集るか、学会として盛り上がるかどうか、そういう勝手がまるで分からないので、すべてが手さぐり状態なわけ。無論、うまくことが運ぶようにほぼ1年をかけて設立準備をしてきたわけですけど、その成果は今日この日の成功如何にかかってくる。 で、結果から言いますと、なかなか上出来だったのではないでしょうか。大学院を終えたばかりの若い研究者による研究発表2本、既に活躍中の研究者4人によるD・H・ロレンスに関するシンポジウム、そして名著『言葉と文化』(岩波新書)でお馴染み鈴木孝夫先生によるご講演、というプログラムだったのですけど、どれも興味深いものでしたし、参加者の反応もよかった。特にトリをとられた鈴木孝夫先生は百戦錬磨のスピーカーですから、80歳というお歳をまったく感じさせないエネルギッシュで巧みな話術で聞き手を惹き付けられ、まったくお見事という他ありませんでした。 最近の鈴木先生は、日本の英語教育のあり方に対して積極的なご発言をなさっていますが、その趣旨は、日本の現在の英語教育は明治時代の「英学」の頃から全然変わっておらず、そこが宜しくない! ということです。その昔、英語を学ぶことで西欧列強に追いつけ、追い越せ、とやっていた時代、英語の書物を読んでその内容を学びとることが重視されたのは、日本の富国強兵政策の基盤としての歴史的な意味があった。しかし、現在の日本はもはや英米から何かを学ぶという立場にあるよりは、むしろこちらの情報を英語を通じて全世界に発信する立場にこそある。それだから今後の英語教育の主眼は、リーディングよりもライティングに置くべきである、と、まあそういうことをおっしゃるわけ。 ここで、「ライティング重視」というのがポイントです。鈴木先生は、決して「スピーキング重視」の英語教育を目指すべきだとは思っていらっしゃらないんですね。しかも、どのような方向性をとるにせよ、英語の勉強なんてものは、大学で教えるほどのことはない、ともおっしゃる。会話学校もあるし、テレビにしろラジオにしろ、とにかく英語を話す訓練の場など、大学以外の場所に幾らでもあるわけで、大学ではもっと別に学ぶべきものがあるはずだ、と鈴木先生はおっしゃるんです。たとえば文学の授業一つとっても、外国語で書かれた短かい小説を半年かけて1つ読み終えるよりも、翻訳でもいいから毎週1冊、文学作品を読ませた方がよほど為になる・・・とまあ、そんな感じで、今日本に必要な語学の方向性と、大学での勉強のあるべき姿を示しつつ、現時点で行なわれている大学での英語の授業の後進性を批判された。 ま、結構過激な論なんですけど、首肯すべきところは多いと思います。 というわけで、なかなか面白い学会となりました。 しかし、問題はここからなんです。学会が終わった後、懇親会がありまして、私はその懇親会の司会を務めなくてはならなかったんです。 ま、そういう役目は初めてではないので、普段ですと別に緊張することもないんですけど、何しろ今日は一つの学会のスタートを記念する懇親会なので、斯界の重鎮ともいうべき偉い先生も沢山いらっしゃったりして、失礼があってはいけないというところがある。 で、普段ですと私は、こういう場でも笑いが取りたい、受けが取りたい方なんですが、今日ばかりはそういうわけにも行かず、何だか気を使ってしまって疲れました。ま、さほどの粗相もなく、つつがなく終わったのではないかと思うので、その点はまあまあでしたけど、その代わり私はほとんどお料理を食べている暇がなかった。家に帰り着いてから、インスタントラーメン食べましたわ。 ということで、今日は一日、有意義にして、気の疲れる日となったのでした。 明日は名古屋に戻ります。今日はもう寝なくては。それでは、お休みなさい!
October 29, 2005
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今日は、両親を連れて「中村正義の美術館」というところに行って来ました。 私は寡聞にして中村正義さんのことは今度初めて知ったのですが、1924年に愛知県の豊橋市に生まれ、若くして速水御舟の再来などと言われた画家なんだそうです。36歳の若さにして日展の審査員に推挙されたというのですから、確かに将来を嘱望された画家であったことが伺えます。しかし、その後師匠の中村岳陵と袂を分かち、所属団体であった日展も脱退、神奈川県川崎市細山というところに自宅を構えてからは、中央画壇とは少し距離を置いたところで独自の活動を続けられたようです。で、43歳の時に直腸癌が見つかり、以来病気と戦いながらの創作活動を続けられて、1977年、肺癌のために逝去されたとのこと。享年52歳ですから、まだまだこれからという時に亡くなられたんですなー。 で、中村さんが後半生を過ごされた川崎市細山のご自宅が、今では美術館となっていて、春と秋に3ヶ月ずつ、週末毎に開館して中村さんの絵を公開されているんですね。私の実家からは車でわずか20分ほどのところにあるのですが、今までこんな美術館があるなんてちっとも知りませんでした。私の両親は知っていたようですが、車がないとなかなか行きづらいところにあるので、今まで来たことがなかったとのこと。 で、実際に行ってみると、これがまた落ち着いた住宅街の少し奥まったところに建つ白亜の瀟洒な美術館です。美術館の佇まいもいいですけど、庭がまたいい。決してだだっ広いわけではないのですが、庭の中程に巨木が一本生えていたりして、何となく落ち着く空間なんですね。公の場所にやってきたというよりは、知人の家を訪問したような感覚と言いましょうか。 実際、美術館に入館する際もインターホンを押して入館するのですから、何だか友人の家に招かれたような感じです。そして入館料も大人500円と良心的。しかも私の両親はシニア割引がきくので、そうなると300円。うーん、なかなかいい感じです。しかも、受け付けしてくださった方がとても親切というのですから、もう言うことはありません。 さて、気分よく展示室に入った我々を出迎えたのは中村正義描くところの顔・顔・顔。彼は人間の顔(自画像)をテーマに一連の作品をものしているのですが、今はまさにその系統の展示がなされていて、デフォルメされた顔がずらりと並んでいる。原色を多用したその画風は、確かにどぎついと言えばどぎついけれど、色の組み合わせだけに注目すると、一種のポップアートにも見えてくる。ふーん、中村正義の画風とは、こういうものですか・・・。 なんて感心していると、なんとその中村さんの娘さんである、美術館館長の中村のりこさんが、我々のためにお茶とお菓子を運んできて下さったではありませんか! ま、確かにお客さんは我々だけだったとはいえ、こんな嬉しいサービスがあるなんて! いやー、個人美術館っていいなー! というわけで、展示室に置かれたテーブルに腰を下ろし、そこからきれいな庭を眺めながら、40年以上前、中村正義さんがこの地に移り住んでこられた頃の辺りの様子など、娘さんののりこさんから興味深いお話をお聞きすることが出来たのはほんとに幸運でした。のりこさんは、私より少し年上、40代半ば頃かと思われる方でしたけれど、精悍な感じの美丈夫だった正義さんによく似た、きれいな方でした。 さて、この美術館は1階に展示室が2つある他に、2階にも展示室があるので、のりこさんからお話を伺った後、そちらの展示室も見せていただきました。2階の展示室もよかったですよ。で、すっかり絵を堪能した後、帰りがけに記念の絵葉書を購入したのですが、その絵葉書も1枚50円という良心的な値段。そこには今回展示されているもの以外の作品の絵葉書もあって、風景画や静物画のいい作品もある。お尋ねすると、来年の春には花の絵を中心にした展示を行なうとのこと。これはその頃にまた、ここを訪れなければなりますまい。 というわけで、思いがけずこんな近くにこんな素晴らしい美術館を見つけて、すっかり嬉しくなってしまった我々ですが、実はこの美術館の楽しみはこれだけではなかったんです。美術館のすぐ脇に、中村正義さんの息子さん、つまりのりこさんの弟さんで、陶芸家の毅義(たかよし)さんの窯があるんですね。正義さんの命名により、「屯屯窯」(とんとんがま)と名付けられたその窯で焼き上げられた作品も、そこで展示即売しているとのことですから、これは興味津々。 行ってみると、そこは「展示場」というような大層なものではなく、ほんとに作業場の隣の小さな部屋で、毅義さんの陶芸作品が販売されている、という感じです。たまたま今がそうだったのかも知れませんが、装飾用の陶器ではなく、普段使い出来そうな食器が中心ですね。なかなかいい感じの作品で、ま、そうは言っても大量生産の既製品ではないですから、それなりに値段も高いんだろうなと思いつつ、湯飲みを一つ手に取って、その値段を見てびっくり。「500円」 え? これ、そんなに安いの? 驚いてあれこれ値段を見ると、大体500円とか800円とか、高くても大皿が3000円とか、そんな感じです。ひゃー、こりゃ、買わずにはおられん! ということで、父が湯飲みを300円(!)で、私が白い抹茶茶碗を600円(!)で購入しました。父の買った湯飲みは基本的には緑色なんですけど、見る角度では紫っぽくも見えるような複雑な色合いでなかなかお洒落ですし、私の買った抹茶茶碗はちょっとした惣菜、たとえば「ほうれん草のごま和え」だとか「きんぴら牛蒡」なんかを盛っても良さそうです。いやー、なかなかいい買物をしました。 かくして、今日はふと思いついて「中村正義の美術館」を訪れたおかげで、いい絵を見、いい庭を見、いい人に触れ、いい買物をして、秋の一日を十分に満喫することが出来たのでした。いやー、今日もいい日だ! もしこのブログをお読みになっている方で、小田急線の「百合ケ丘」駅とか「よみうりランド前」駅に簡単に出られる方がいらっしゃいましたら、一度「中村正義の美術館」を訪れてみてはいかがでしょうか。この美術館、「教授のおすすめ!」です。
October 28, 2005
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さて、そろそろハロウィーンの季節になりました。 最近、日本でもハロウィーンを流行らせようと、色々な企画がなされているようですが、どうもいま一つ、盛り上がりに欠けるようですなあ。ま、もともと宗教的な下地がないところに、行事としてだけこれを輸入しようという方が間違っとるわけで、流行らないなら流行らない方が私はいいと思いますが・・・。 クリスマスが日本に定着したのは、多分、忘年会的な年末の気分と一致したからであって、これにしてもそもそもお祝いの仕方が違いますって。アメリカのクリスマスなんて、ショッピングモールも閉まっていれば、レストランも閉まっている。開いているのはマクドナルドくらいなもんだ。11月の感謝祭ほどではないけれど、クリスマスだって基本的には家族単位で集まって静かに祝うもんで、実際この日、アメリカの街はひっそりと静まり返ります。若い連中が友達同士で馬鹿騒ぎとか、高級ホテルのスイートルームがガキどもの予約で一杯・・・なんてこと、あり得ん! でもアメリカのハロウィーンはすごいですよ。 このシーズンになるととにかくどこへ行ってもカボチャが目につくようになる。スーパーマーケットなんかでは、オレンジ色に熟れた大小様々なカボチャが展示され、自由に持ち帰っていいことになっていたりするわけ。そして街のあちこちで、変装用グッズが売られるようになる。それも「お面」とかそういうレベルじゃなく、もっとすごいのが・・・。 で、月末の「本番」になると、この日ばかりは無礼講というのか、皆すごい格好して街を歩いてますからね。もう街中至る所、しかも昼日中から当前のことのようにドラキュラと狼男が出没する。一般の人に混じって魔女が堂々と横断歩道を渡ってきたりするんですから、見物ですよー。 ちなみに、1998年にロスで過ごしたハロウィーンの時、私は友人に強要され、素肌の上にウサギの毛皮を纏い、腰に短剣を差して、中世の狩人風の格好をさせられていました。家内もピーターパン風の格好をさせられて、まあ面白かったですよ。半裸だった私は直後にひどい風邪をひきましたが・・・。 でもアメリカっていいなと思うのは、こういう遊びを大人も子供も無邪気に楽しんでいることですね。この種のお祭りが、若者の、あるいは酒に酔った上での、馬鹿騒ぎには決してならない。そういうところが「大人」なのであって、それだけに、たとえやっていることは馬鹿馬鹿しいことであっても、結果として見苦しくない。日本でハロウィーンを真似しようというのなら、そういうところを真似してくれって! それにしても1998年というと、随分前のことになっちゃったなー。またいつかアメリカでしばらく暮らせるチャンスは来るのだろうか・・・。そんなことを考えていたら、アメリカで撮ってきた沢山の写真が見たくなりました。もう7年も経ったのに全然整理していない写真の山。今度暇な時にあれをまた眺めて、アメリカで過ごしたハロウィーンのことでも懐かしく思い出すことにしますか。 ところが、今日はその暇はないんです。実はこれから東京の実家に戻らなくてはならないんです。週末、学会があるもんでね。ということで、明日からは東京からの「お気楽日記」となります。お楽しみに!
October 27, 2005
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今日は勤務先の大学で、健康診断がありました。 私も40歳を過ぎてから、毎年人間ドックに行くようになりましたが、どういうわけか今年は申し込みを忘れてしまったので、学内で無料で実施してくれる健康診断に参加することにしたんです。ま、一応、年一回はこれをやっておかないと心配ですからね。 大学での健康診断は春と秋に一回ずつあり、春は胸部のレントゲン、秋は血液検査、尿検査、便検査、心電図、そして胃のレントゲン検査があります。トータルで見ると結構しっかりやってくれていますね。ただ、私は水腎症の気があるので、腎臓のエコー検査がないのがちょっと不安かなぁ。 ま、それはともかく、どこで受けるにせよ、この種の検査を受けるのは、何となく気が重いものです。そんなとき、せめて看護婦さんの中に陽気な人がいると、その人と下らない冗談などを言いあって、少しは気が紛れるのですけど、今日来て下さっていた看護婦さんたちは皆、気真面目そうな感じの方ばかりで、無駄口叩く隙がなかった・・・。血液検査で採血するときなど、私はいつも「痛くないようにやって下さいよー。あんまり痛くすると泣いちゃうよ」とか何とか、とりあえずアホなことを言ってみたりするんです。で、ノリのいい看護婦さんだと「あーら、先生、じゃ、ちょっと先生のこと泣かしてみようかしら」なんて言ってくれるんですけど、今日の看護婦さんはニコリともせずに「最初痛いですから」の一言のみ。看護婦さん、ちょっと修行が足りないんじゃないの! 何かと不安な患者さんの立場に立って、ここは一つ一緒に軽口を叩いて下さいよ。 で、看護婦さんに期待できない場合、次に頼りになるのはおっさん同士の「親父ギャグ」です。バリウム検査を待つ間、中年教授連が揃いの検査着を着てベンチに座っているんですけど、こういうちょっと不安な気分を抱えた場になると、普段は別に親しくもない教授同士の間に、奇妙な連帯感が生まれたりする。で、誰かが「俺、もう腹減っちゃってさ。昨日の夜から飲まず食わずだもん」なんて言い出すわけですよ。すると向かい側にいた人が、「もうすぐおいしいミルクが飲めるぞー」なんて応える。するとさらにまた別な人が「しかも、炭酸入りだぞ」などと言うもので、その辺にいた人全員がドッと笑い出してしまう。こんなしょーもない親父ギャグの応酬も、こういう場ではなかなかいいもんです。 それにしてもバリウム、まずいなー! なんかまだ胃が重い感じ。おぇーー! さて、かくして気の重い検査は終わりましたが、もっと気が重いのは結果の通知ですよね。あまり悪い知らせが届かないよう、神様にお祈りしなくっちゃ。お互い、健康には気をつけましょうね! では、また!
October 26, 2005
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ここ数日、秋らしい爽やかな陽気となっていますね。 ということもありまして、今日はお昼を食べた後、家内と自転車2台を連ねて家の近所をぐるりと回ってみました。ま、いわば「自転車散歩」というところですね。 2台の折り畳み自転車のうち、一台のタイヤの空気が抜けてしまっていたので、まずは近くの自転車屋さんで空気を入れてもらい(部品の交換も含めて200円なり)、それから元気よく漕ぎ出します。 いやー、それにしても久しぶりに自転車に乗ると色々再発見があります。自転車ってこんなに視点が高かったっけ? とか、自転車ってこんなに地面からの衝撃があるんだっけ? とか、驚くことばかり。何せ自動車ばかり運転しているもんで、身体がなまっちゃっているんでしょう。高校生くらいまではスポーツタイプの自転車を愛用する自転車小僧だったので、自転車なんていくつになったって乗れると思っていましたが、久しぶりに乗ってみるとスピードが出る下り坂なんてけっこう怖いですなー! でも、その怖いところがまたスリルがあって面白かったりして。 それでもとにかく20分ばかり漕いで、今日の最初の目的地であるお店に到着。一ヶ月ほど前にできたばかりの、今どきのちょっと洒落た洋服屋さんなんですが、前から店の前を車で通る度に気になっていたんですね。で、中に入ってみると店の半分が男性用、もう半分が女性用の服を扱っています。男性用の方は20代後半から30代前半位の人向けの品揃えという感じで、私にはちょっと若過ぎるものばかりでしたが、女性用の方はなかなか面白い品揃えでした。ブランドジーンズの珍しいものなども色々揃っているので、家内としてはかなり面白かったらしい。ま、今日はまあ「偵察」ですから、特に何かを買うことはありませんでしたが。 さて、なるほどこういう店か、ということが分かったところで、我々が次に向かった目的地は本屋さん。私は散歩となると、どうしても本屋さんを覗きたくなるんです。で、今日立ち寄ったのは「ロダン」という郊外型の大きな本屋。雑誌や文庫本の品揃えが充実しているので、色々楽しませてもらいましたが、今日は家を出る前に既にインターネットで3冊ほど本を買ってしまったので、ここも見るだけで我慢しました。でも、本とか雑誌って、立ち読みするだけでも楽しいですよね! 30分ほど立ち読みを楽しんだ後、そろそろ家に帰る方向に向かって走り出すことにしたのですが、どうせならいつも車で走る道ではない道を通ってみようと、車では走り難いような住宅街の路地を自転車の機動力を活かしてどんどん走ってみることに。すると、やはりいつもとは違う風景が見えてくるもんですなー。大通りから1本、2本、奥まった細い通りを走っていくと「え、こんなところにこんなお店が?」というような発見がしょっちゅうあるんです。今日も、なんかちょっと変わった建物があるなーと思ったら、それが実は「ミルク&ココア」という洒落たカフェであることが判明。しかもここは赤ちゃん用の洋服や可愛い玩具なども販売しているようなので、いつか友達のところに赤ん坊が生まれたときなど、贈り物を探すのにいいかも知れない。ふーん、こんなお店、気が付かなかったなあ・・・。 しかし今日の一番の発見は、大型スーパーの裏手の、ちょっと薄暗い一角にボソッと立てられたプレハブの粗末な小屋。この小屋、一体なんだろうと思って看板を見ると、何とそこには 「愛知県腕相撲協会本部」 と書いてあったのでした。はぁー、そんな大層な協会が、しかもその本部が、こんなところにあったのでありますか・・・。一体ここで日夜どんな活動が行なわれているのでありましょうや?? さてこの後、今日最後の目的地であるホームセンターに立ち寄って、ここで買おうと思っていた日用品を買いがてら、そこの一角にある「ペットコーナー」で少しだけ売り物の小犬と戯れ、また電気屋さんにも立ち寄って、前から欲しかった旅行用の小型の髭剃りを買いつつ、店内に溢れる様々な最新型の電気製品をチェックしたりしました。何せ私は「セレクトショップ」のオーナーでもあるのですから、時々こうやって商品チェックをしておかないと、何が今世間で流行しているのかとか、売れ筋商品の値段はどのくらいなのか、といったことが分からなくなっちゃいますからね。 それにしても最近のデジカメって小さく、軽くなりましたね! それからモバイルオーディオ製品も「ウソ!」っていうほど小さく、軽くなりました。ま、電気製品が特にそうなんでしょうが、こういうふうにお店で最新型の製品を見せられちゃうと、必要もないのに購買意欲を掻き立てられますなー。必要だから買うのではなく、欲しいから買う。これが近代資本主義経済の原理ってもんなんでしょう。 とまあ、こんな感じで「ご近所めぐり自転車探検」を終えた我らは、家に戻ってティータイム。何しろ運動した後ですから、甘いものがおいしい! 長い坂道を一気に駆け上がったツケが足にきている感じがしますが、それはつまりそれだけいい運動になったということですから、気分は爽快です。スポーツにはもってこいの季節、これからもちょくちょく自転車散歩を楽しんでみようかな。 さて、今日は久々にアフィリエイトもしておきましょう。今日は少しアウトドアを楽しんでしまいましたので、それにちなんでアウトドアっぽいものとして、「ナイフ」をご紹介しましょうか。 「ナイフ」というと、何だか危ないもののように聞こえてしまいますが、人間の道具としてもっとも古いものの一つですし、特に折り畳み式の七得ナイフは、使いようによっては本当に役に立ちます。私も随分前からヴィクトリノックス社の「トラベラー」というナイフを愛用していますが、その名の通り、旅行に出た時など、こいつが一本あると何かと重宝する。女性がバッグに忍ばせておいてもいいような、可愛い小型折り畳みナイフなども揃えてありますので、ぜひ「文房四宝・パート5」をクリックして見て下さい。ここをクリック! ↓文房四宝・パート5
October 25, 2005
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「ほっとけない、世界の貧しさ」を合言葉に日本でもブームになったホワイトバンド運動。これが今、問題になっているようです。 ホワイトバンド運動というのは、要するに何か白いものを身に纏い、それによって世界のあちこちに貧困に苦しんでいる国があることを意識しあうと同時に、それを是正するための何らかの方策をとるべきであるという意思表示をして、それぞれの国の国民が自国の政府なり何なりを動かそう、という運動です。つまりホワイトバンドは、実質的には「世界中から貧困をなくせ!」というプラカードと同じなんですね。ですから、「赤い羽共同募金」のような直接的な募金活動とは大分性質が異なることになる。 ところが、実際にこのホワイトバンドを購入して腕にはめていた人の多くは、ホワイトバンド運動というのはまさに「赤い羽」的な募金活動なんだろうと勘違いしていて、その価格の何割かが貧困に苦しむ国々に寄付されるのだと思っていたんですな。そのため、実際には必ずしもそうではないということが分かって、日本でホワイトバンドを売り出した会社に抗議が殺到していると、まあ、そういうことらしい。 そうなると、一方では「勘違いした購入者の方が悪い」という見方もできますし、「いやいや、趣旨説明が十分出なかった販売者の方が悪い」という見方も出来る。ま、どっちにも少しずつ非があるので、これは私個人の勝手な予想ですが、最終的には、販売者側が当初の計画を変更し、売り上げの何パーセントかを実際に寄付する形で収まりがつくのではないでしょうかね。 しかし私はこれとはまた別に、もっと基本的なところで「募金活動」というものに疑問を持っているところがあります。 いや、例えば何か大災害があったりした時の募金とか、交通遺児のための募金とか、そう言った種類のものなら、(ボーイスカウトなどを活動のために利用することには反対ですが)、基本的な趣旨として理解出来るし、実効もあると思うので、賛成します。私が疑問に思うのは、実効があるのかどうかよく分からない種類の募金です。 例えば最近地震の被害にあったパキスタンを例にとってみましょう。ご多分にもれず、かつて私の通っていた小学校でもこの地方の貧困をなくすための募金活動をしていて、私自身も子供の頃、小遣いの中から継続的に何がしかの寄付をしてきました。またそうして集められたお金はきっと彼の国に渡り、何らかの役には立ったのだろうと思います。その意味で、この募金活動はある意味、ちゃんと機能したと言える。 しかし、私はこの件に関しても大いに不満があります。 パキスタンの大地震後の映像などを見ると、小さな家も大きな建造物も一様になぎ倒され、すごい被害が出ていることが分かります。そして難を逃れた人々もまた、救援物資がうまく届かずに、飢えと寒さに苦しんでいる様子がよく分かる。 で、私が思うことは、「パキスタンには、建築基準法はないのか?」ということであり、「パキスタンには、まともな道路はないのか?」ということなんです。もちろん大地震は天災ですから避けようがない。それは分かっています。でも、もしちゃんとした建築基準法があったら、あそこまでひどい被害は出さなくて済んだのではないかと思う。またもし各地に点在する集落を結ぶ道路がちゃんと整備されていれば、救援活動ももう少しスムーズに行っただろうと思うのです。 そういう社会の基盤を整える努力を、果たしてパキスタン政府はこれまでにやってきたのでしょうか? そういうことをまるでやらずに、これまでも、またおそらくはこれからも、大災害がある度に多数の国民を危険に晒すつもりなのでしょうか? ならば私の子供時代の小遣いは、一体何のために使われたのか。私はそれを説明して欲しい。 日本だって、これまでに何度となく大災害を経験しています。関東大震災しかり、東京大空襲しかり、広島・長崎しかり。でも日本の場合、その焼け跡からまだ煙が立っている時から、早くも復興の槌音が聞こえてきて、あっという間に復興してしまう。しかも前よりも災害に強い形で復興してしまいます。もちろん復興するまでの間、他国からの援助を有り難く受けるわけですが、その期間は短く、また援助物資もきわめて有効な形で使い切っていると思います。そして何よりも重要なことは、再起不能かと思われるような災害から素早く立ち直った後は、逆に他国に援助する側に回って、過去の恩返しをしている、ということです。 それに引き換え、いわゆる「貧困に苦しんでいる国々」というのはどうなのか。何十年も他国からの援助に頼りっぱなしの国々の政府というのは、一体何をやっているのか。いつまで他人様頼りの「その日暮らし」をするつもりなのか。 もちろん、そうはいっても現実に飢えた人々がいれば、理屈抜きで援助しなくてはならないというのは分かります。しかし、それはざるで水を掬おうとするような種類の援助であって、いつまでたってもきりがない。そのことは、厳しく批判すべきものなのではないでしょうか。厳しく批判して、是正させなければ、結局その国の人々がいずれまた苦労することになるのは目に見えています。 ホワイトバンド運動のトラブルは、ある意味、いい機会ですよ。これを機に、もうそろそろ「可哀想だからお金を送ろう」だけで済ませてしまう寄付活動は止めにしようではありませんか。貧しい国々の内実を調査し、責任の所在を突き止めようではありませんか。その貧しさは不可抗力と言えるものなのか、それとも国民が怠惰だから貧しいのか、あるいは政府が悪いから貧しいのか、はっきりさせてもらおうじゃないですか。寄付する側としては、そのくらいのことを要求する権利があると思います。そしてそういうことは、民間の慈善団体ではなく、日本の政府がやるべきではないかと私は思う。その意味で、これまで気前よく、しかし無責任に他国の援助をし続けてきた日本の政府に対し、援助政策の見直しをしてもらいたいと思うのです。 ま、私が言いたいのはそういうことなんです。でもそこまで言ったついでにもう一言、十年一日のごとくお涙ちょうだいの募金広告を流し続けるACにも、この際私は猛省を促しておきたいと思います。正義を訴える団体に猛省を促すのは気が引けますが、そうは言ってももう少し考えてくれよ、という意味を込めて、ね。
October 24, 2005
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昨日、あまりの眠さにブログを途中まで書いたところでぶっ倒れてしまいましたので、今日はその続きから。 Kさん所有のログキャビンを後にしてから、我々一行5人は二手に分かれました。ギャラリー・オーナーのMさんと画家のYさんはこの日小淵沢に泊まる予定なのですが、私と家内、それに今日初めて知り合いになったもう一人のKさんはこの日のうちに名古屋に戻らなくてはなりません。 で、Mさんたちともここで別れて、我々帰宅組3人は名古屋に向かって走り出したわけですが、どうせなら小淵沢で夕食を済ませてしまおうということになり、評判を聞いていた「カントリー・キッチン」というお店で食べていくことにしました。 で、このカントリー・キッチンというレストランですが、これがなかなか雰囲気のある店だったんです。何しろ、レベルの高いジャズの生演奏を聞かせてくれるんですから、もうそれだけでぐっと来ます。ま、さすがに人気店だけあって、すぐにテーブルを確保することはできませんでしたけど、待っている間はレストランの2階に併設されている小物の店を冷やかしたりできるますから、20分や30分の待ち時間はなんでもありません。それに、もう一つ面白いことに、このお店ではレジのところに古書が常時20冊ほど展示されていて、欲しい人はこの中からどれでもただで持って返っていいことになっている。で、私もざっと見たところ、何とこれが欲しい本ばかりで、全部まとめて持ち帰りたいくらい。もちろん、常識的に言ってそんなことも出来ないので、その中から一冊、小野寺健さんの『イギリス的人生』(晶文社)のきれいな本をもらうことにしました。小野寺さんは私の通っていた大学院に非常勤で教えに来てくださっていたことがあって、私もよく存じあげているイギリス文学の偉い先生なんですけど、厳しい授業が終わった後では我々院生たちを引き連れて食事なんかに連れて行って下さったりして、よく面倒を見ていただきました。文章の達人でもあるので、懐かしい先生の文学的エッセイ集を、こんな形で手にすることができたのも、何かの縁なのでしょう。 で、そうこうしているうちに私たちの順番が来て席に案内され、食事を注文したわけですが、これがまたおいしかったんですわ。私とKさんは牛肉のステーキを、また家内は鮭のステーキを食べたのですが、肉も柔らかく、ソースも付け合わせもおいしく、大根サラダもシャキシャキで、ご飯の分量もたっぷり。盛りつけもなかなか洒落ています。で、これらをジャズトリオの生演奏つきで楽しめて、値段は1500円ですよ。しかも古本つきですから、もう私としては申し分なし。小淵沢のカントリー・キッチン、教授のおすすめ! です。で、かくしてここで夕食を堪能した私達は、小淵沢での秋の一日を終え、Kさんとの楽しいトークと共に帰路についたのでした。 しかし思い返してみても、なかなか充実した一日でしたね。ドライブ自体も楽しかったし、最初に食べた萬吉の蕎麦もうまかったし、ギャラリー・折々での本杉さんとの再会も楽しかった。また昨日のブログでは書きませんでしたけど、折々の広大なウッドデッキに置いてあった卓球台で家内と卓球をやったのも面白かったなあ。そしてフィリア美術館で見た四竈公子さんの絵も良かったし、Kさんのログキャビンに招待され、そこでのんびりとした時間を過ごすことができたのもよかった。で、最後の夕食もおいしかったですからね。古本のお土産までついていましたし。 しかし、何と言っても一番楽しかったのは、ギャラリー・オーナーのMさんの紹介で、個性溢れるアーチストの方たちとご一緒にドライブを楽しめたことです。大学人であるとどうしても付き合いが狭くなりがちですが、Mさんと親しくなってから、その縁で様々なタイプの芸術家の方たちとお付き合いさせていただくようになり、私たち夫婦の友人関係はホントに広がりました。しかもMさんの人脈で結びついている方たちというのは、皆、利害関係とは無縁の方ばかりですから、純粋にその人たちの感性や人間性の魅力に惹かれてお付き合いができる。そこがいいんですね。 それにしても、ご自分のギャラリーを拠点にして、魅力的な人たちとのつながりを広め、かつ深めていらっしゃるMさんって、すごいなと思います。ちょっと日本人離れしている感じなんですよ。それから、日本人離れしていると言えば、Mさんの服装のセンスがまたすごく良くて、いつもちょっと風変わりな、しかしMさんによく似合う素敵な服を着ていらっしゃるところもまたいい感じなんだなー。またMさんのご主人という方がまた実に魅力的な方で、私と家内はいつも、このMさんご夫妻のような歳の取りかたをしたいね、と言い合っているんです。 ということで、昨日は秋の八ヶ岳南麓に遊んで、すっかりいい気分の私だったのでした。 さて、そんな私が今日、何をしていたかと申しますと、1年半前に卒業した私の元ゼミ生の3人娘に久々に会っていたんです。この中の一人が1年間ほどイギリスに行っていて、この夏に帰国し、9月から地元の中学校の英語の先生になったんですが、その報告をしに来がてら、友達2人を誘って私に会いに来てくれたんですね。 いつも言いますが、教師という職業をしていて何が嬉しいかと言えば、卒業生が卒業後に会いに来てくれることが一番嬉しい。ということで、今日は私の家の近くの隠れ家的レストラン&カフェを紹介しつつ、彼女たちの近況報告に耳を傾けました。 聞いてみると、皆それぞれ、仕事も大変、恋も大変というところですね。ま、20代半ばなんて、そんなもんでしょう。面白いことに2年前の卒業生と会うと、私自身も2年前に若返るような気がするもので、いつにも増して調子に乗って釈迦楽節を聞かせてしまいました。楽しいひと時でした。皆、少しずつ大人っぽくなっている様子が分かりましたしね。 ところでブログを読み返せば明らかなように、北海道に行ってから今日まで、少し遊び過ぎたきらいがありますね。いかん、いかん。週明けからまた頑張ろう! ・・・と思うのですが、実は次の週末も学会で東京出張なんですよね。ま、これが秋の学会シーズンの最後になると思いますが。出入りが激しい分、体調も崩れがちになるので、気をつけなければ。今日は少し早く寝ようかな。それでは、また明日!
October 23, 2005
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今日は朝から小淵沢までドライブに行って来ました。 さすがに先日、北海道旅行をしたばかりで、肉体的にも経済的にも疲弊気味の私ですが、友人である某ギャラリーのオーナーMさんから、小淵沢にある「ギャラリー・折々」というところで本杉琉(もとすぎ・りゅう)さんの展覧会が開かれているので見に行かないかとお誘いを受け、秋の八ヶ岳南麓の様子を見てみたいということもあって、ついその話に乗ってしまったんです。 ちなみに本杉琉さんという方は、段ボールを材料にして様々なアートを生み出す、小淵沢在住の画家・造形作家さんなんです。私は前に一度、Mさんのギャラリーで本杉さんにお会いし、その作品のユニークさと、本杉さんご本人の飾らないお人柄に魅せられてしまったことがあり、その時、色々お話をした中で、実は私もいつかは八ヶ岳南麓に家を持ちたいと思っているんですよ、というようなことをお話すると、本杉さんは大変喜んで下さり、もし来るなら喜んで種々お手伝いしますよ、というようなことをおっしゃって下さった。ま、そんなこともあって、ぜひもう一度本杉さんにお会いしたいと思っていたんですね。 で、今日「折々」へ向かったのは総勢6人。MさんとMさんのご友人のアーチストお二人、それに私と家内、そしてもうお一人は小淵沢の別荘にお住まいで、やはりアーチストのKさん。Kさんは現地集合ということにして、残りの5人は名古屋から車2台を連ねてのロングドライブ。私はこの中で白一点です。 さて、9時頃名古屋インターから東名高速に乗り、そのまま名神、中央道と乗り継いで、小淵沢に着いたのは11時半。当地の有名なリゾートホテル、リゾナーレ小淵沢のショッピングモールでKさんと落ち合い、全員揃ったところでまずは小淵沢でも有名な手打ちそばの店「萬吉」にて昼食をとることとなりました。 今日集ったのは、Mさんのギャラリーで展覧会をしたことのあるアーチストたちと、そのギャラリーに入り浸っている私たち夫婦ということで、結局、Mさんの友人という共通点だけでつながっているのであすが、Mさんの人脈に連なっている人たちというのはどこか共通点があるらしく、普段はかなり人見知りをする私などでも、Mさんの友人の方たちとは妙にうまが合ってしまい、今日も蕎麦を手繰りながら30分ほどお話をしているうちに、まるで古くからのお付き合いがあったかのような感じになってしまったのでした。しかも、地元に詳しいKさんおすすめの「萬吉」のお蕎麦が実にうまかった! 蕎麦にはうるさい私も納得の味でした。 さて、そんな感じで楽しく腹ごしらえをしてから、まずは今日の主たる目的であるギャラリー・折々へ向かうことに。このギャラリー、ちょっと奥まったところにあるのですが、行ってみるとなかなかいいギャラリーです。私の好きな薪ストーブのある喫茶室や、野外コンサートもできる広大なウッドデッキなんかもあって、とても気持ちのいい場所。 で、本杉さんの今回の展覧会も良かった! 「絵」と「オブジェ」と「文章」という3つのメディアを使って一つの物語を紡ぎ出す、というのが今回の展覧会の趣旨なんですけど、この物語というのが可愛いんです。現代生活に疲れた旅人が道に迷い込み、ふと「夢の国・ゆすらうめ教会」という教会の前にひょっこり出てしまった、というところから話が始まるんですね。で、一度は気味が悪くなってそこから逃げ出すものの、何だか気になって後からもう一度そこを訪れることにする。そして、この不思議な教会にしばし滞在することにより、彼の疲れ切った心は癒され、再び生きる力を取り戻していく、というように話は展開するんです。それは夢のような話でもあり、現実にあったことのようでもあって、いずれにせよ、いかにも本杉さんのキャラクターから生まれた世界が現出している。特にギャラリーの入り口付近にかかっていた「マリア像」、そして「ゆすらうめ教会」を描いた2枚の絵はすごく良かった。 で、一通り展示を見た後、久々にお会いした本杉さんと皆で色々な話をしました。9月に開いたコンサートのこと、小淵沢での暮らしのこと、そういったことをぼそぼそと語る本杉さんの話ぶりがまたいいんだ。また本杉さんは、私が小淵沢に住みたがっていたのを覚えていらして、このあたりの物件情報などを教えてくれたり。何だか、こういう人の隣人になったら楽しかろうなあとつくづく思わされたのでした。 さて、ギャラリー・折々でのひと時を楽しんだ後、我々一行は本杉さんに別れを告げ、今度は「フィリア美術館」へと向かいました。ここには私の好きなドイツの女性画家ケーテ・コルヴィッツの作品が常時見られる他、様々な企画展も充実していて、行く度に何か発見のあるところ。で、今日はたまたま四竈公子(しかま・きみこ)さんという画家の展覧会をやっていたのですが、これがまた良かったんですわ。枯れた植物などを描いた静物画も良かったし、情念のようなものを感じさせる風景画も良かった。私は寡聞にして四竈さんの名を初めて知りましたが、覚えておきたい画家です。 またフィリア美術館の脇にある、絵と家具を展示したギャラリーも覗きましたが、特にオーナーの花嶋美代子さんの描かれた絵がなかなか素敵で、私もつい何枚か絵葉書を買ってしまいました。 そして、続けざまに美術の世界に遊んだ我々一行は、次にKさんの別荘にお呼ばれすることになりました。それは予定外のことだったのですが、Kさんのお言葉に甘えて、ご招待を受けることにしたんですね。20年前からこの地で別荘ライフを楽しんでいらっしゃるKさんの、そのログキャビンを見せていただけるというのですから、私などは興味津々です。 で、到着したログキャビンで出迎えて下さったのは、Kさんのご主人でした。いかにも知的で温厚そうなその紳士は、名古屋にある大学で物理学をおしえていらっしゃる教授なのだそうですが、そう言われると何だか余計に親近感がわいてしまいます。 そして、そのログキャビンが素晴らしかった。決して豪華な大邸宅というのではないのですが、オーナー夫妻の20年にわたる愛着によって、家自体がキャラクターを持つに到った、とでも言えそうなその別荘は、初めて訪問したにも関わらず、思わず「ただいま!」と言いたくなるような佇まいなんです。そして家の中心にあって、家全体をほっこりとした心地よい温かさで満たしている薪ストーブ! この使い込んだ薪ストーブがまたいいんだ! で、そんな心地よい空間の中で、ご主人自ら挽いてくださった豆で淹れたコーヒーを楽しみながらKさんのお話を伺っていると、これがまたホントに楽しくなってくる。お二人ともせわしない世間の動きには目もくれず、ご自身の生活を楽しみながら、いかにも余裕綽々に暮らしておられるようで、ああ、こういうのが本当に贅沢な暮らしなんだな、とつくづく思わされます。 しかし、秋の日は釣瓶落とし。5時半ともなればもう日も落ちて、小淵沢も夕闇に閉ざされ、もうお暇しなくてはならない時間です。私たち5人はKさんご夫妻に見送られつつ、ログキャビンを後にしたのでした。 ・・・と、ここまで書いたところで、もう私は眠くて眠くて死にそうです。この続きは、また明日! お休みなさーい!
October 22, 2005
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昨日、教育実習生の授業を参観しながら、昔の日本ってすごい国だったんだなぁ、とひたすら感心してしまったことを書きました。ま、それはそれでいい。しかし、その実習生が授業をするのを見ていて、大いに疑問に思うこともあったんです。 と言っても、それはその実習生に問題があったということではありません。彼女は教育実習生として、実に立派に授業をやったと思います。それに後で確認しましたが、今回彼女が用いた教案は、彼女の指導教員と念入りに打ち合わせながら練り上げたものだそうで、つまり彼女が昨日子供たちに社会を教えた教え方は、今日本の小学校で行なわれている「ものの教え方」の一つの典型なんです。ですからこれから私が言おうと思っている事は、現在の日本の教育のあり方そのものへの批判だと思って下さい。 で、日本の教育、特に日本の小学校教育のどこに問題があるかと言いますと、少なくとも国語とか社会と言ったような人文系の授業に関して、常に「児童自身に考えさせる」ことに重きを置いているところです。 え? 子供たちに自分の頭で考えさせ、自力で答えを見出させることのどこがいけないの? そう思われた方もいらっしゃるでしょう。しかし、それは実際に日本の教育現場がどういうことになっているか、見た事がない人の言い分です。 実際に見たら、こりゃやばい、と思いますよ。 たとえば昨日の社会科の時間にしても、授業は常に児童への質問形式で進みます。「250年前の木曽三川河口付近の地図と、現在のこの付近を写した写真を比べて、どこが違いますか? 分かる人、手を挙げて!」というふうな問いかけから授業が始まるわけ。もちろん教師の側としては、「昔は三つの川が河口付近で合流してしまっていたけれど、今はちゃんと三本に分かれて流れています」なんて答えを期待しているんでしょう。ところが、実際にはそんな答えは返って来ません。「木曽川と長良川はまっすぐだけど、揖斐川はちょっと曲がっています。それにちょっと細い」「昔の地図には、もう一つ別の川の名前が書いてあります」「今の写真では川に橋が架かっています」「今の写真に写っている田んぼには、カラスよけの案山子が立っています」・・・とまあ、とんちんかんな答えばかりが出る。そういう中からちょっとはましな答えをピックアップしながら教師は話を進めるわけですが、何しろそんな調子ですからなかなか本題にはたどり着けません。 それでもどうにかこうにか、今の木曽三川が整然と三つに分かれて流れていることに気づかせた後、次に教師は「じゃあ、どうやって中洲同士を土手でつなぐことができたのか、皆さん、考えてみましょう」なんて問いかけるわけ。しかし生徒たちの答えは「みんなで力を合わせたんだと思います」「多分、土を運んだんだと思います」みたいなことばかり・・・。そりゃそうでしょう、私だってそんなこと聞かれたって答えに窮します。ましてや、「上流から石をくくりつけた丸太を流し、堤防の基礎を築くべき場所まで来たら、丸太にしがみついていた人足が紐を切って石を川底へ落とし、自分は泳いで逃げたのだろうと思います」なんて答えが出るはずないじゃないですか。この場合、現実は子供たちの想像力を遥かに越えているんです。 ま、そんな調子で、子供の方も何を学習しているのだか要領を得ないまま授業時間も終わりに近づいてきます。そこで先生は、次の時間への橋渡しをしようとするわけ。で、「では皆さん、今日学んだことを踏まえて、次に自分が知りたいなーと思うこと、調べたいなーと思うことを、言ってみて下さい」などと問いかける。当然、「この治水事業を誰が、どういう目的で、どうやって達成したのか、調べてみたい」などという答えを期待しているのでしょう。しかし子供たちの答えは、「どうして昔の人は河口なんかに住もうと思ったのか知りたいです」「三つの川がどのくらいの深さがあるのか、知りたいです」「僕、お父さんと一緒に木曽川に行ったことがあります」なんて答えばかりで、これまた収拾がつかない。で、結局、この時間に何を勉強したのか、何が分かったのか、よく分からないまま終わってしまうわけです。 実際、この時間に子供たちが理解できたのは、昔と今では木曽三川の河口付近の様子が違う、ということだけでした。昔の人が水害に苦しめられたこと、それを知った江戸幕府が治水に乗り出し、家老の平田靱負と薩摩藩の人足たちがことに当たったこと、知恵を絞って奇想天外な工法を編み出したこと、1000人の犠牲者の上にようやく工事が終了し、人々の暮らしを守ったことなど、本当に教えるべきことは何一つ伝えられていない。 「これでいいのか、日本の小学校教育?!」と私が思うのも、無理ないでしょう? で、なんでこんなことになるかと言えば、要するに最初の最初っから「子供たち自身に考えさせよう」とするからですよ。そんなこと出来っこない。子供には十分な知識もなければ、経験もなければ、合理的な思考能力もないんですから。考えるための道具がすべて欠けているというのに、彼らに「自分で考えさせ」ようなんて、無理に決まっている。そんなこと当たり前じゃないですか。 同じことは以前、国語の授業を参観していた時も思いました。その時、太平洋戦争で兵隊に取られたお父さんが戦地で死に、お母さんとお兄さんも空襲で焼け死んでしまって、一人残された女の子が、最終的に飢え死にする悲惨な物語を小学校3年生に読ませていたのですが、一通り読んだ後、その物語の内容を「子供たち自身に考えさせた」ところ、「その女の子は、死んで天国に行って、お父さん、お母さん、お兄さんに会えたから、とても楽しい話だと思います」と結論づけた子が、クラスの大半を占めたのでした。慌てた先生が、「だって死んじゃうのよ、お友達とももう会えないのよ」と促しても、子供たちは「だって戦争なんだから、お友達も皆死んでしまって、皆天国で会えるから楽しいと思う」と口を揃えて答えるわけ。「子供自身に考えさせる」ということの危険性とは、つまりそういうことです。 もし仮に、私が今回の社会科の授業を担当するのであれば、何はともあれ、まずはこの地域の治水にまつわる歴史を十分に調べたうえで、それを子供たちにも分かるような言葉で彼らに語って聞かせたいと思います。そうやって子供たちの頭の中に、水害に苦しめられた人々の苦労や、水害に立ち向かった人々の勇気と知恵をしっかりと植えつけることを心がけます。だって歴史を伝えるには、知っている人が知らない人に物語る以外ないんですから。 で、その上で、もし子供たちに何事かを問いかけ、彼ら自身に何かを考えさせようというのであれば、たとえば「平田靱負という人は、難工事だと分かっている治水事業の責任者として幕府から任命された時、どんな気持ちだったと思う?」なんて尋ねてみたいですよ。あるいはまた、さらなる学習のための課題を与えようというのなら、「なぜ幕府は、木曽三川の治水のために、わざわざ薩摩藩の人足を使ったのだと思う?」なんてことを尋ねてみたい。 ま、それはともかく、どこの軽薄な教育学者が思いついたアイディアか知りませんが、「子供自身に考えさせる」というような、つまらない教育哲学に基づいた教育方針というのは、一刻も早く捨て去った方がいいと私は思います。最近の若い人たちの間に確固とした正義感・倫理・社会的マナーが根付いてないように見えるその根本には、小さい時から社会のルールではなく、幼稚な子供の頭で考えた独りよがりのルールに基づいて行動させられてきたことが原因としてあるのではないかと、私には思えてしょうがないのです。 子供たちに「自分の頭で考えさせる」のではなく、彼らがいずれ立派な大人の社会の一員になれるよう、「大人の頭で考えたこと」を教え込むような教育をすべきであーる!! 私は、日本の小学校における教育方針の大転換を、微力ながらここに主張したいと思います。
October 21, 2005
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今日は教育実習生の研究授業を参観するため、尾張旭市というところにある、とある小学校に出張して来ました。科目は4年生の社会科です。 で、今日、うちの大学の実習生が担当した授業の内容は、愛知県内を流れる「木曽三川」、すなわち木曽川・長良川・揖斐川の河口付近の治水の歴史を学ぶ、というものでした。 ふーん、愛知県ではこういう地元の歴史を学ばせたりするんだー、などと感心しながら実習生の授業を参観しつつ、私は授業前に手渡された小学校4年生の教科書にささっと目を通していたのですが、読んでいるうちに思わず「うーん!」と唸ってしまいました。何とそこには、ものすごいことが書いてあったんです。 その教科書によると、この三つの大河は互いに接するように流れているので、河口付近では互いに合流してしまい、その結果しばしば氾濫して、河口付近の中洲に作られた村々に甚大な被害を与えていたというのです。で、そうした水害を防ぐために村の人たちは中洲をぐるりと取り囲むように植林したのですが、その程度のことでは大きな氾濫は防ぎきれず、しばしば大きな被害が出てしまった。 それで今から250年ほど前、人々の陳情を受けた江戸幕府が治水に乗り出すことになるわけですよ。で、この治水の責任者となったのが家老の平田靱負(ゆきえ)。一方、工事自体は薩摩藩の人足が請け負うことになります。 で、水害の原因は三つの川が河口付近で合流してしまうことにあると見た平田靱負は、とにかく三つの川が合流しないよう、中洲同士をつなぐように土手を築くべきだ、と考えるんですな。とはいえ250年前のことですから、滔々と流れる大河の中に土手を築くなんて、至難の技です。 じゃ、靱負がどういう工法を採ったかというと、まず丸太に大きな石を紐で幾つもくくりつけ、上流から流すというのですね。で、この丸太には人足が一人しがみついていて、ちょうど土手を作ろうというあたりまで丸太が流れ着いたところでその人足が紐を切り、くくりつけていた石を川底へ落とすんです。で、そういうことを繰り返して、石を川底に積み上げていき、それで水を塞き止めたというんですね。ひゃー! 想像を絶するやり方じゃないですか! しかも石を落とした後、人足は丸太から離れ、岸まで泳いで脱出するというのですから、きわめて危険な工事です。 しかも靱負は、ただ単に土手を築いて三つの川を整然と分けるだけで満足したのではないんです。仮に三つの川のうちのどれかの水量が危険なほど増えた場合、その増水分を他の川に放流するため、土手の一部分を低くしておく、というような、水量調節の機能まで作っていたんですね。計算によると、一つの川の水位が1.3メートル上がると、自動的に隣の川に余分な水が流れ込むようになっていたとのこと。 ま、そんな感じで平田靱負と薩摩人足たちは、1000人近い犠牲者を出しつつも、ついに幕府に命ぜられた工事をやり遂げるんです。まったく、すごい話じゃないですか! いやー、こういう話を読むと、昔の日本人って立派だったんだなあ、ってつくづく思います。 第一、地方の窮状に対して中央政府がちゃんと対応するだけのシステムと能力が、江戸幕府の時代に既に存在していたということ自体、すごいじゃないですか。で、問題に対応するに当たり、幕府が一人の責任者を決めると、その責任者がどんな艱難辛苦をも乗り越えて、幕府の命を実現してしまうというところもすごい。しかもその対処の仕方自体、決してその場凌ぎのものではなく、非常に合理的かつ根本的な対処になっているということも素晴らしい。今の日本の政治のあり方とは、レベルが全然違う。 というわけで、今日、私は小学校4年生の教科書を読んで、すっごくいい勉強をしてしまったのでした。ホント、教育実習の授業参観行くといつも思うんですけど、私、もう一度小学校から勉強し直したいです。それと同時に、自民党新人研修会なんてものをやるというのなら、愛知県の小学校4年生の教科書をテキストとして採用すべきじゃないかな、と強く思います。 しかーし! これだけいい教科書を使っていながら、日本の教育現場には大きな問題点が横たわっていたのです! その問題点とは一体!? ・・・・・明日に続く・・・・
October 20, 2005
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この日の朝は、ホテルのバイキングで始まりました。実は私はホテルの朝のバイキングなるものが大好きでして。そこにあるもの全部食べたくなってしまうんですよね。オレンジジュースにコーヒー、三種のパン、スクランブルドエッグにソーセージにハム、山盛りのサラダ、フルーツにヨーグルト・・・うーん、うまい! 普段、朝食なんてろくに食べないくせに、旅行中だと妙に食欲全開なんだよなー。 さて、ここでお腹を満たした後、今日の我らの計画はと言いますと、支笏湖ドライブなんです。帰りの飛行機は6時45分ですし、新千歳空港から支笏湖までは20キロ少々ですから、時間的には十分余裕がありますしね。というわけで、送迎バスで札幌へ向かい、すぐに電車で新千歳空港まで行ってしまって、そこで飛び込みでレンタカーを借りることに。 空港に着いて「レンタカー」の掲示に従って進んでいくと、様々なレンタカー会社のカウンターが並んでいるところに出ます。さて、この中からどれを選ぶか・・・。トヨタは前日に乗っているし、日産も乗ったことがある。よーし、今日はマツダだ! というわけで、種々手続きの結果、マツダのデミオを6時間借り出すこととしたのでした。わーい! デミオで走り出してみると、さすがに今度のは1500cc車なので、前日のヴィッツよりよほどパワーがあるし、室内も荷室も広く、コンパクトカーとしてよく出来ている。それに借りた車がバリバリの新車だったので、新車特有の香りもしっかり残っていてなかなか気分がいい。ただハンドリングに関してはヴィッツと同様、日本車特有の不安なまでの軽さがあるなぁ・・・。 ま、それはともかく、ナビの指示に従ってどんどん行くと、信号のない、走り易い一本道に出て、後はこの道をひたすら西に向かうだけとなりました。両側は紅葉の始まっている森ですから、景色はなかなかいい。もっとも道が良過ぎるのか、一般道であるにも関わらず、皆、時速80キロ以上を出しているので、のんびり自分のペースで走れないのが玉に瑕。そんなですから、20キロの道のりも何のその、たちまち支笏湖に着いてしまいました。今日はここでお昼です。 しっかし、支笏湖、なーんにもないところですなぁ! 我々が車を止めたのはビジターセンターのあるところではなく、湖沿いの道をもう少し奥へ入った「幌美内(ポロピナイ)」というところにあるレストハウスなんですが、商売っ気のまるでない渋いレストハウスが一軒あるだけで、あとはなーんもなし。変に観光地化されていないんですね。ま、それはそれでいい。 で、ここで軽くお昼を食べてから、あらためて支笏湖の景色を眺めることに。ポロピナイから湖を眺めると、ちょうど対岸のあたりにひときわ大きな山(風不死岳・フップシダケ)が見え、なかなかいい感じです。レストハウスにおいてあった観光ガイドを読むと、なんでも支笏湖は水深が深く、平均水深が265メートル、最大水深は何と363メートルもあるそうで、面積から言えば琵琶湖の9分の1しかないのに、たたえている水の量は琵琶湖の3分の2もあるんですって。そのため水温は一年を通して低いのですが、逆に真冬でも水面が凍ることはなく、洞爺湖と共に日本最北の不凍湖でもあるそうです。ふーん、なるほどね。そう思って見ると余計、水の青さに凄味が感じられますなあ。 ところで、その観光ガイドをさらに読んでみると、ポロピナイの向かい側に「苔の洞門」というところがあって、ここがなかなかの見どころである由。なるほど、それならそこまで行ってみようじゃないですか。 で、湖をぐるっと回って対岸まで行くと、道路脇に割と大きな駐車場がある。なので、ここに車を止め、ゆるい上り坂を上っていくと、大体15分ほどで洞門の入り口に到着。さて、名にし負う「苔の洞門」とは如何なるものなるや? 要するに、ここは岩の浸食によって生じた天然の切り通しみたいなところなんですな。で、その曲がりくねった道の両側にそそり立つ岩の壁一面が緑なす苔に覆われている。それゆえ「苔の洞門」というわけなんですね。実際、入り口のところから奥を望むとなかなか神秘的な感じです。しかーし。何しろ自然に出来た切り通しなので、あちこちで崩落が生じているらしく、今は中までは入れないとのこと。昔は400メートルくらい中まで歩けたと聞くと、入り口から覗くだけで我慢しなくてはならないのがちょっと残念。でもまあ、それは仕方がない。こういうところなんだ、ということだけは分かりましたから善しとしましょう。 ということで、「苔の洞門」見学をもって支笏湖見学も終了―。帰り道は家内が運転して新千歳空港まで戻り、レンタカー会社に車を返し、少々お土産も買って、3泊4日の北海道の旅も終りです。帰りの飛行機はボーイング社の767型。さすがに行きに乗ったMD-81と比べると現代的な感じがしましたが、ランディングはこちらの乱暴で、ガツンと降り立った感じ。でも、とにかく無事で良かった。空港からは行きと同じく直行バスに乗って家の前まで運ばれ、家に着いたのが夜の11時半。やれやれ、疲れました。 かくして、学会がらみの北海道旅行記、全巻の終わりでございます。短い期間でしたけど、文章にしてあらためて読むと、結構色々なことをやってますね。めったに会えない友達とも会えましたし、食べ物もおいしかったし。でも、今度北海道に行くなら、もっと本格的に腰を据え、10日間くらいかけて車でぐるっと一回りしてみたいですな。特に道東に行ってみたい。それも、軽自動車で。 ということで、旅行記を長々お読み下さった皆様には、お疲れ様でございました。でも「お気楽日記」の方はこれからも毎日続きますよー。今日も夜、更新する予定なので、お楽しみに! それでは!
October 20, 2005
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旅行3日目。この日の朝、小樽のヒルトンで目覚めた我らは、眼前のヨットハーバーから遥か水平線まで180度の広角度で見下ろす紺碧のオーシャン・ヴューにあらためて見とれることとなったのでした。結局いいホテルに泊まるということは、こういう景色も含め、ワンランク上の贅沢な空間と時間を買うことなんだよなー、とつくづく思いましたね。前日泊まった格安ビジネスホテルも悪くはなかったけれど、ヒルトン、良かったなぁ・・・。 とまあ、そんなわけで、大満足のヒルトンホテルを後にした我らのこの日の予定は積丹半島へのドライブです。で、まずは電車で小樽まで行き、予約していたレンタカーを受け取ることに。今回は敢えて軽自動車を予約してあったんですが、軽自動車って運転したことがないので、ちょっと楽しみ・・・。 ・・・だったのに! レンタカー店の都合でトヨタのヴィッツ(旧モデル)に変えられてしまった! なんだよ、せっかくスズキのワゴンRを運転できると思っていたのにー。アメリカでもしばしば体験しましたが、レンタカー店での車種の予約ってぜんぜん当てになりませんなー。ガクガク。 でも、ヴィッツもちょっと運転してみたかったので、ま、いっか・・・。 小樽から今日の目的地である積丹半島の突端にある神威岬までは40キロくらい。ですから、ゆっくり走ったってそれほど時間がかかるわけではありません。しかも北海道の道はちょっと郊外に出るとほとんど信号がないですから、ドライブは楽なもんです。 で、旧型ヴィッツを運転した感想ですが、うーん、やっぱりそれなりの車だなぁ・・・。外形のデザインは秀逸だし、室内は予想以上に広々で、荷室の狭さを除けばファーストカーとしても十分に使えるだけの実力はある。しかし、日本の大衆車クラスってどれもこれもハンドリングがプアーなんだよなー。あまりに軽く回り過ぎて、接地感がまるでない。と、さんざん批判されても日本車のメーカーが改めないところを見ると、こういう軽いハンドルが日本では受けるのでしょうね。 ちなみに私の愛車、プジョー306は、日本で言えばカローラやシビックに相当するような大衆車ではありますが、ハンドリングのレベルは日本車とは段違い。たとえばある程度のスピードで直進している時、プジョーのハンドルを切ろうとすると、明らかに車が嫌がるんです。つまり、「私、今、高速で直進しているので、曲がりたくないんです」と車の方からドライバーに伝えてくる。だからカーブを曲がる時には、「このくらいのスピードなら曲がってあげますよ」と車が許してくれるところまでスピードを落とさなくてはならないわけ。逆に言えば、そうやって車と対話することで、そのカーブを可能な限り速いスピードで曲がることができることになる。対するに日本車のハンドルはあまりに軽過ぎ、路面からの情報がまるで伝わって来ないので、ドライバーがハンドルを切ろうと思ったら、たとえ車がどんな状態にあろうと、何の抵抗もなく切れてしまう。ですから、高速で直進している時に誤って大きくハンドルを切ってしまい、途端に横転事故なんてことも大いにあり得る。これは危険だし、疲れます。 というわけで、これがプジョーだったらもっと楽しいドライブができるんだけどなあ、などと思いつつ、それでもやはり愛車とは異なる車の運転を楽しみながら、積丹半島を目指すこと小一時間。途中の景色はとても良かったですよ。ちょっと信州を思わせるような白樺混じりの広葉樹林がそろそろ紅葉しかけているところですから、そりゃきれいなもんですわ。 で、到着したのは神威岬のすぐ手前にある「ペニンシュラ」というお店。土産物店と食堂が合わさったような、観光地によくあるレストハウスですね。で、ここで私たちはお昼をとることにし、食券を買って待つ事しばし。出てきた「岬丼」は海苔をトッピングした丼飯の上にイクラ、ウニ、海老、イカ刺し、刺身などが乗ったもので、これに味噌汁がついて1500円なり。で、これがまた実にうまかった。やっぱりネタが新鮮なんでしょうな。腹が減っていた事もあって、二人ともむさぼり食べてしまいました。おいしかったー! さて、ここでエネルギー充填した我らは、いよいよ神威岬の突端を目指して片道20分ほどのハイキング。距離的にはもちろん大したことはないのですが、高低差がかなりあり、しかも常に強い横風が吹いているので、それなりに足に堪えます。しかし神威岬からの景色は、確かにどこをとっても峻厳な感じの絶景でした。実際、神々しい美しさに、しばし絶句ですよ。かつてアイヌの人々がここを女人禁制の聖地としたこともよく分かる。まだ午後2時過ぎだというのに、早くも夕方めいてきた秋の日差しが、海に反射して見る者の目をまぶしく射抜くのも構わず、私たちはここで神威岬の光景をしかと目に焼き付けたのでした。 とはいえ、ここであまり時間をとる事もできません。小樽の町も少し見て回りたかったもので、そろそろここを後にしなければ。それに車を返す前に、前にこのブログでも書いた「日和山灯台」にももう一度行ってみたかったのでね。帰り道は家内が運転しました。ヴィッツにはナビもついているので、初めての道でも道に迷う心配はありませんし。 で、結局、日和山灯台にも行きましたけど、さすがに前にここで受けたような感動はありませんでした。直前に神威岬を見てしまったということもありますが、やっぱり思い出というのは頭の中に宿るもんですな。ま、そうは言っても、相変わらずいい眺めではありました。 とまあそんな感じで4時前には小樽に戻ってきたのですが、ここを散策するには車がある方がかえって不便だろうということで、とりあえずヴィッツを返却してしまい、その後2時間ちょっとかけて小樽の街歩きを楽しみました。とりあえずは有名な運河を眺め、「メルヘン交差点」まで行って「ル・タオ」という洋菓子店の2階でお茶とケーキを楽しみ、今度は駅へ戻るようにしながらこれまた有名な「北一硝子」を冷やかす、といった調子です。 でも北一硝子に関しては、ちょっと俗っぽくなった感じがしますね。10年くらい前にここを訪れた時は、今のような食器類やアクセサリー中心ではなく、船で使う硝子ブイとか船で使うランタンのような、実用本位の硝子製品を多く扱っていて、そこに北の町の硝子製品店としての風情があったんだけどなー。 それにしてもこの辺りは夜が早い! 6時近くになると、もうどのお店も店じまいを始めるんです。そんな中、ふと目についた小さな硝子アクセサリーの店に入ってみると、これがなかなか趣味のいい品揃え。私はこれでアクセサリーの見立てなどは得意なので、短い時間内でこれはと思うものをピックアップ。その中に家内の気に入ったものがあったので、閉店直前にネックレスを2つ買いました。といっても、硝子製品ですからどちらもとても安いのですけどね。かくしてこの日予定していた小樽での予定はすべて終了ー。 で、この日の宿泊先はと言いますと、再び札幌なんです。といっても中心部からは少し離れたところにある「ホテル・ド・レーゼン札幌」というところ。お菓子で有名なシャトレーゼが経営しているリゾートホテルです。で、ここへ行くには無料の送迎バスが札幌駅の北口から出るのですが、8時の便が最終なので、もう札幌で食事をしている暇はありません。ということで、今日は札幌駅で駅弁でも買ってホテルの部屋で食べようということになり、駅弁売り場を探すことに。ところが売ってないんですなー、駅弁。小さな売り場があっても、もう全部売り切れ。駅で働く人たちに聞いても、「もう買えないんじゃないですか」なんてそっけない答え。ウソだろー! で、仕方なく駅近くにある大丸デパートの地下に行ってみると、おお、あるじゃないのお弁当! と思ったのも束の間、7時半という時間ではもうどの売り場も商品がない状態。あっても残りは1個だけとか。というわけで、あちこち駆けずり回ってようやくお弁当を二つ確保したのでした。やれやれ・・・。 で、そのお弁当を携えてホテルの送迎バス乗り場へ行くと、ロータリーにお目当ての送迎バスが止まっている。ところがそこまで車道をちょっと渡ろうとすると、バスの運転手さんが向こう側から「すみませーん、申し訳ないけど、ぐるっと回って横断歩道渡ってきてもらえますかぁ!」と声をかけてくる。仕方なく言われた通りぐるっと回っていったところ、運転手さんもすまなそうに、「いや、お客さんに車道歩かれるとうるさくてね」とのこと。何がうるさいのかと思いましたが、やがてその意味が分かりました。どうやら駅のロータリーを常に誰かが監視しているらしく、人が車道を渡ろうとすると途端にラウドスピーカーで注意が飛んでくるんです。実際、私たちの後からおばさん連がちょこちょこ車道を歩いてバスまでやってきたところ、すかさず「ピンポン、パンポン! ロータリー内の車道を歩くことは禁じられています!」という放送が。うーん、すごいというか、何というか・・・。 ま、それはとにかく、無事車上の人となってバスに揺られること40分。札幌郊外の丘に忽然と姿を表したのが件のシャトレーゼ宮。とても大きなリゾートホテルで、プールから温泉からトレーニングルームから結婚式場に至るまでなんでもござれ状態。しかし、何と言っても我々はヒルトンからやってきたヤング・エグゼキュティヴ(?)ですからね。真の贅沢さを体験した直後の我らに、見かけ倒しの贅沢さは通用しないのだ! って、何も興奮することはないんですが、でもヒルトンの後で見ると、さしものホテル・ド・レーゼンも、調度品とかアメニティなど、そこにあるもの一つ一つのクオリティがどことなく安っぽいような気がしてしまって(失礼!)。泊まる順番、間違えたかな・・・。でも、ここでのんびり食べたお弁当はおいしかったですよ。私が食べたのは、札幌では有名な「ザンギ弁当」、すなわち餡掛け風鶏のから揚げ弁当だったんですけどね。 そういうことも含めて私が思うに、同じ額のお金を使うのだったら、中レベルのホテルで豪華食事付きにするより、上級ホテルの部屋で弁当食べた方が贅沢を味わえますね。これは一つの教訓として覚えておこうっと。 ってなわけで、3日目も無事終了。翌4日目は名古屋に戻る日ですが、我々はまだまだ遊びますよー。その辺の報告については、また明日! お楽しみに!
October 19, 2005
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今朝新聞を開いたら、シルベスタ・スタローン脚本・監督・主演で『ロッキー6』が作られる予定、という報道がなされていました。以前このブログ内で、リメイクと続編ばかりを作るようになってしまったハリウッドの創造力の枯渇を嘆きつつ、「そのうち、『ロッキー6』を作る、なんて言い出すんじゃないですかね」と揶揄しておきましたが、実際にそうなってしまった! この映画、59歳になったロッキーが再びカムバックを目指す話らしいですが、ハリウッドもスタローンもそこまで行き詰まったのか! って感じがしてもの悲しいなぁ・・・。 さて、以下、札幌旅行記の続き。 札幌に着いて二日目の朝、とりあえずの楽しみは朝食です。一泊2600円のビジネスホテルの無料朝食とは一体如何なるものなるや!? で、実際、指定されたところに行ってみると、ロビーの脇の小さな喫茶エリアが朝食会場になっており、和洋バイキング形式での朝食が用意されていました。で、これが予想していたのよりも良かった。もちろん品数なんてちょぼちょぼですが、私は和食バイキングを選んでご飯、味噌汁、海苔、焼き魚、ソーセージ、シューマイ・・・なんて感じで食べましたけど、普通においしかった。いや朝食なんてこれでOK、何の不満もありません。札幌駅から徒歩20分というところが玉にきずでしたが、トータルで見たら札幌KKSホテルは十分満足の行く内容だったなー。 で、お腹をこしらえてホテルを後にした我々が向かったのは、ホテルから徒歩5分のところにある道立三岸好太郎美術館です。学会は午後2時過ぎからのスタートですから、しばらく時間を潰す必要があったのでね。ちなみに、この美術館のすぐ近くにもう一つ道立近代美術館もありますが、こちらの方は現在「スターウォーズ展」というガキ向けの展示だったので、とりあえず今回は無視しておきました。 さて、その三岸好太郎美術館ですが、今回の展示は彼の奥さんである三岸節子さんの展覧会です。私は三岸節子の絵がとても好きで、名古屋・尾西にある三岸節子美術館にも何度か足を運んでいますが、今回の展示では私がまだ見たことのなかった作品も随分展示されていたので、なかなか見応えがありました。 三岸さんはそのキャリアの中でイタリアやフランスなど、南欧を中心にトータル20年ほどヨーロッパに滞在し、彼の地の風景を沢山ものした洋画家ですが、彼の地に行く前の作品と行った後の作品を比べると、後者の方が断然いい。もちろん、日本にいた頃の作品にも才能が溢れていますが、南欧の風物に触れた後の彼女の才能の開花というのはまさに目を見張るようなもの。その意味で、彼女の画風は南欧の風物によって完成させられた、と言っていいのじゃないでしょうか。ちなみに彼女は、同じく南欧で絵の勉強をしていた息子の黄太郎さんを頼って彼の地に行ったので、そのせいもあってか、現地の人との付き合いはあまりなかったらしく、ずっと日本の着物姿を通し、その格好でスケッチ旅行をしたり、息子さんとは別に借りたアトリエに一人籠もって油絵を描き続けたりという生活を続けていたようですね。そんな三岸節子さんのことを、当時のイタリア人やフランス人たちは一体どんな風に見ていたのでしょうなぁ。 さて、三岸好太郎美術館で三岸節子展を堪能した後、我ら夫婦が次に向かったのは、「スリランカ狂我国」というスープカレーの名店。実は今や北海道名物の一つとなったスープカレーなるものを現地で食べるというのが、今度の旅行で楽しみにしていたことの一つだったんですね。で、このお店、入ってみると20人ほどが入れるだけの小さな構えでしたが、相当な人気店らしく、我々が店に入った後どんどん客が増えて、テーブルが空くのを待つ人の行列が出来るほど。早めに入っておいて良かった! で、そのスープカレーですが、どろどろした通常のインドカレーとは異なって、カレー味のスープの中にチキンや大切りした各種野菜具が浮いているというようなもの。このお店では好みによって辛さをレベル1からレベル100まで調整できるようですが、我々は初心者ということで家内が5、私は8のレベルを選択。しかし、これでも出てきたカレーの辛いこと辛いこと。一口食べただけで、顔からさーっと汗が吹き出てきます。なるほど、各テーブルにティッシュの箱が置いてあるのはそういうことか・・・。でも、驚いたことに、常連客たちは「僕、レベル30でお願い」とか「75、お願いします」なんて言っている。さすが、「激辛ブーム発祥の店」なんて自慢するだけのことはあるなぁ。 で、そのスープカレーを初めて食べた感想ですけれど、ま、おいしいことはおいしいです。しかし、私個人としては、通常のインドカレーの方が好きかな。もっともスープカレーというのは店によって随分味が異なるらしいので、一軒だけの味見で決めつけるのは危険かも知れませんが・・・。 さて、かくして早めの昼食をとった我らは、学会の時間までにはまだ少し間があったので、地下鉄東西線というのに乗って「宮の沢」というところに行き、ここにある「白い恋人パーク」というのを冷やかすことにしました。ここは北海道土産で有名なお菓子「白い恋人」の製造元が作ったチョコレート博物館のようなもの。私、チョコレートには目がないもので・・・。で、ここでチョコレートの歴史を学んだり、チョコレートに関わる様々な事物、たとえばホットチョコレートを飲むためのカップの展示などを見たり、「白い恋人」が作られるその工程を見学したりしたのですが、ま、内容はそこそこですね。でも、喫茶部で飲んだホットチョコレートはうまかったなあ! コワンドローというオレンジリキュールを数滴垂らして飲むんですけど、これを入れるとチョコレートの香りが引き立つんですよ。今度家でココアを飲む時にも試してみましょうかね。 しかし、札幌というのは中国人観光客のやけに多いところで、この「白い恋人パーク」でも、客の大半は中国人でしたねー。何でなんだろう? さて、そうこうしているうちに学会の時間です。で、今回学会が開かれる北海学園大学へ向けていざ出発。地下鉄東豊線で札幌から3つ目かな? 「学園前」という駅で下車するのですが、キャンパス自体が地下鉄の駅と直結していたのでちょっとびっくり。これ以上の「交通至便」ってないよなー。 会場入りするとすぐに見知った顔がちらほら見えたので、彼らと立ち話をしつつ、色々な業界の噂話をしたり、会場に併設された書籍市で各出版社が出しているアメリカ文学関係の本を見たりしながら、お目当ての研究発表が始まるのを待ちます。地方開催の時はギャラリーが少なくなる傾向がありますが、さすがに北の大都市札幌だけあって、それなりに学会員が詰めかけているなあ。 もちろん今日の研究発表で一番のお目当ては、昨日お話しした私の親友、N君の発表です。彼の現在の学問的関心は、ファンタジー文学に代表される「ジャンル小説」というものを、既存の文学史の中にいかに組み込むか、というところにあります。いや、そうではなくて、「ジャンル小説」の存在をも包み込めるような、新たな文学史の構築を目指し、既存の文学史の大幅な見直しを迫っている、と言った方が当たっているかな。もちろんそれは今、私自身が関わっている「ロマンス小説史」構築の試みとも一脈通じるところがあるので、私としても興味津々。実際、彼の発表は内容の濃いものでした。発表時間が限られている中で、やや内容を詰め込み過ぎたきらいはありましたが、聞いているこちらの頭がクラクラするほど「おっ!」と思う話題が次々と出てくる。いや、面白かったですよ。これを聴くためだけでも、札幌まで来た甲斐があったというもの。最近、なかなかそう思える学会に出会うことがないんですがね。ということで各種研究発表を楽しみ、学会的社交も少しはやって、無事、この日の予定は終了ー。 ・・・でもないか。実はこの日はこの後、小樽に向かわなくてはならなかったのです。札幌に宿がとれなかったものでね。でも札幌と小樽って、電車で40分ほどなんですね。案外近い。 で、今日我々が宿泊することになっているのは、ジャーン! 泣く子も黙るヒルトンホテルなんですー。小樽駅ではなく、小樽築港駅にあるのですけど、そりゃもうリッチなホテルで、ま、言っちゃ悪いですけど、昨夜泊まったホテルとは随分違う。 第一、チェックインする時からして違いますからね。ホテルに足を踏み入れた途端、係の人がさっと出てきて我々の荷物をもってチェックインカウンターまで案内してくれるばかりでなく、チェックインの手続きをしている間に荷物係の人が全荷物をカートに乗せてスタンバイしていてくれ、手続き終了と同時に部屋まで丁重に案内してくれるなど、まさに至れり尽くせり。そしてまたホテルの廊下や部屋の作りがいい! そして調度品もいい! アメニティもケチ臭いところが一つもない。テレビをつけてもちゃんとアメリカのCNNチャンネルを見ることが出来たりする。まさにどこもかしこもリッチな感じです。 そして何よりも素晴らしいのは、地上17階の窓一面に広がるオーシャン・ヴュー!! 我々の場合、わざわざ選んだわけではなく、ここしか空いてなかったから仕方なくこういう贅沢なホテルに泊まることになったわけで、普段、学会がらみの旅行でこんなところに泊まることなんてまずないんですけど、やっぱりたまにはこういうところを利用するのもいいもんですなー。 ということで、すっかりホテルの贅沢さに圧倒された我らは、ちょっと休憩してから夜の食事をとりに、ホテルに併設されているショッピングモールへ行ってみることにしました。 が・・・、土曜日の夜だというのにショッピングモールは閑散。レストランも随分沢山あるのに、ほとんどガラガラ。おっと、ここ経営的に大丈夫なのか? しかもレストランの大半が7時半ラストオーダーって、どういうこっちゃ。結局あちこちで閉店間近であることを理由に入店を断られた我らは、ようやく10時頃まで店を開けているというイタリア料理のチェーン店「カプリチョーザ」に席を見つけることが出来たのでした。ここはセットメニューがお得なので、ピザとパスタを主菜にし、食前酒・サラダ・デザート・コーヒーがついたコースを注文。旅行中、生野菜が不足しがちだったせいもあってか、ここで食べたサラダはうまかったなあ。他の料理も、まあまあおいしかったです。 かくして、どうにか食事にありついた我々は、再びホテルへ戻り、あとは部屋でテレビを見たりしながらのんびりと、しかし贅沢な時間を過ごしました。かくして旅行2日目も終了ー。翌3日目は、今回の旅の目的の一つである「神威岬」へのドライブが待っていますが、その辺のことはまた後ほど、夜、書きますね。それでは、夜もお楽しみにー!
October 19, 2005
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いやはや、北海道から帰って参りました。今日からブログ前線復帰でございます。 北海道へ向かったのは先週の金曜日。今回、初めて中部国際空港、通称「セントレア」を使いました。で、セントレアまでどうやって行けばいいのか、と悩んでいたところ、何と私の自宅近くにあるバス停から直通バスが出ていることが判明。ガラガラのバスに90分揺られればもう空港に着いてしまうのですから、ひょっとして小牧にあった名古屋空港時代より、私にとっては便利になったかも・・・。 お昼過ぎに飛び立つ便だったので、11時頃に空港入りして早めの昼食(ベーグルサンドとカフェラテ)を取り、そしていざ機内へ。私と家内を乗せることになっている日航のMD-81機は妙に胴体の細長い古風な作り。大分古い機体みたいなのでちょっと不安ですなあ。実は私は飛行機旅行があまり好きではないのです。でも、ま、落ちはしないだろうと腹をくくって座席に着くと、間髪入れず離陸! 2時間弱のフライトでもう着陸! その間、コーヒー1杯がおつまみなしで出ただけですから、何だか損した気分。でもランディングはお上手でした。 さて新千歳空港から急行電車に乗り換え、およそ40分で札幌駅着。とりあえず今日泊まるホテルに向かいました。駅から徒歩20分。重い荷物を持っての歩きですから、名古屋・札幌間の道のりより、札幌の駅からホテルまでの方が疲れたという・・・。当日泊まった札幌KKSホテルは、格安ビジネスホテルとして可も無く不可も無し、といったところ。でも、何せ朝食付き1泊2600円ですから文句は言えないな。 で、ここで小休憩した後、夕食を食べに地下鉄南北線に乗って札幌の繁華街「すすきの」へ。この日はここで高校時代からの親友・N君と会うことになっていたのです。高校時代、一緒に英語の勉強に精を出した彼は、今では気鋭の言語学者。私なんぞとは随分異なって恐ろしく優秀な奴です。しかもそれだけ優秀な上に猛勉強しますからね、彼は。今でも夜、気絶寸前まで勉強し、「もう限界!」というところまで行った段階で、さらに現在新たに習得中の言語の語学テープを聞きながら眠るというのだからすごい。とはいえ、そんなN君も今では一児のパパ。猛勉強の合間、休みの日などには、お嫁さんともうすぐ1歳になる娘さんとデパートに出かけ、似顔絵コーナーみたいなところで家族の似顔絵を描いてもらったりするというのですから、ひゃー、想像出来ない! で、その彼に案内された「まるだい」という魚料理の名店でご馳走を食べながら、お互いの近況を報告し合ったり、昔話をしたり。彼に会ったのは2年半前、彼の結婚式に出て以来ですけど、会えばすぐに打ち解けられる。そこが若い時の友達のいいところで。 でもN君と話をしていて羨ましいなと思うのは、現在、彼が自分の生活にさほど不満を持っていない、ということですね。たとえば給料にしたって、私は「もっともらいたい」という不満を持っている。今勤めている大学に定年まで在籍したって、マンションのローン払うのに精一杯。それでは、あまりに楽しみがないではないか、と思っています。しかし彼はそうではないんだなー。彼に言わせると、学生時代から同じようにただ勉強しているだけなのに、今はそれで給料がもらえる、それだけでもいい身分ではないか、というわけ。うーん、そうか。そうかもね。 もちろん、それで私が私自身の持つ野心をあきらめることはないですが、それはそれとして、浮世離れしたところのあるN君と話をしていると、こちらまで何だか爽快な気分になってきます。それに彼の求道的なまでの勉強三昧の話を聞いていると、勉強嫌いの私といえども、少し気合を入れて勉強せねば、という気になってきますしね。やっぱり友達はいいなあ。私は決して友達の多い方ではありませんが、持っている友達は皆、最高級の連中ばかりですから。これだけは自慢です。 そしてそんな感じで、私と家内はN君と和やかな楽しい時間を過ごすことが出来たのでした。ご馳走もうまかったなー。刺身、ウニ、土瓶蒸し、焼き魚、蕪蒸し、白子の天ぷら、カニご飯、何もかもうかまった。しかも、結局、N君におごってもらうことになってしまって。申し訳なかったけれど、いつかまた逆の立場でご馳走するからねー。 さて、N君と分かれた後、我ら夫婦はもう一人の友人に会うため、札幌近郊の中島公園内にある札幌パークホテルへ。こちらもN君ですが、彼と私は大学院時代からの親友で、今も同じ名古屋近郊の大学に勤めるアメリカ文学研究者仲間。今回の学会で彼は研究発表をするので、その彼にちょいとエールを送っておこうと言うわけ。こちらのN君もまた飛び切り優秀な男で、彼の研究発表は毎回文句無しに面白いですからね。学会初日が楽しみです。 で、1時間ほど彼とおしゃべりを楽しんでから、我々はまた地下鉄で札幌駅に戻り、そこから20分歩いてホテルへ戻りました。この日の朝まで名古屋にいたのに、今はもう札幌にいて、しかも既に2人の友人と会ってきたというのですから、何だか不思議な気がしますね。 ま、こんな感じで北海道での1日目が終わりました。この先、まだまだ続きますけど、今日はこの辺で。また明日も、旅行記の続きを書きます。
October 18, 2005
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先日、今、巷で話題の村上氏について、読売新聞社の渡辺恒夫さんが「イカサマ野郎だ!」と吐き捨てるようなコメントを出しているのをテレビで見ました。 ま、私も村上さんというのはややエキセントリックな人だなとは思いますが、それは個人の勝手な思いこみなのであって、仮に公式なメディアからコメントを求められた場合、私なら「存じません」と言うでしょうし、それが筋ってもんなんじゃないですかねぇ。 もっとも渡辺氏が村上さんのことを個人的によく知っていて、しかも彼が「イカサマ野郎!」だということもよく知っているなら、また話も変わってきますが、それにしても公の場で人を「イカサマ野郎!」と罵るのは、いかがなものかと・・・。もうナベツネさんというのは渡世の仁義といった次元を通り越して、何言っても構わないという地位を手に入れたのかな。今回のことに限らず、いつもあんな風ですからね。ま、メディアの方も、ナベツネさんがああいうコメントを出すのを期待して取材に行っているのだろうから、その意味ではメディアも悪いな。 それにしても、私はよく知りませんが、読売巨人軍の社是というのは、「巨人軍の選手は紳士であれ」とかいうのじゃなかったでしたっけ? その親分がああ紳士的なんじゃ、巨人軍の選手の皆さんも苦笑いというところでしょう。 ところで、肝心な問題は巨人より阪神です。 ニュースなどでの報道を見る限り、圧倒的多数が村上氏の株式公開案に反対、という感じですね。あれが私には今ひとつ分からないのですが。 いや、親会社の阪神電鉄が反対するのは、よーく分かります。だって、15万人の阪神ファンが株主になった場合、株主総会が大変なことになりそうですもん。この前、阪神がリーグ優勝した時の暴徒と化した阪神ファンの映像、ご覧になりました? ああいうのが株主総会に出て来るんですよ。そりゃ、大ごとでしょうよ。第一、株主総会やる場所があるのか知らん。甲子園球場全部使ったって、15万人入らないんじゃないですか? だから、親会社が反対するのはよく分かる。でも何でファンの側が反対するんでしょう? だって、株主になれば経営者に対して言いたいこと言えるんですよ。バースみたいな強力な助っ人外国人選手を連れてこい! とか、ファンの支持を得ている選手・監督を辞めさせるな! とか、いくらでも言える。そういうの、阪神ファンって好きそうなのに。 また株式公開すると、チームが株主のものになってしまって、一般のファンのものでなくなってしまう、なんてことを言う人もいるみたいですが、そもそも現時点で、プロ野球チームの大半はファンのものであるどころか、各オーナー企業のものなんじゃないんでしょうか? だからこそ、オーナーである会社の経営が傾くと、チーム自体が消滅するなんてことが起こるわけでしょう? ですから、むしろ株式公開した方が、まだ名実ともに「ファンのもの」になると思うのですが・・・。 ま、私はプロ野球にも阪神球団にも興味がないので、どうなろうと構わないのですが、阪神ファンって不思議だなーって思います。 それにしても、ホリエモンにしても村上さんにしても、よく叩かれる人たちですなあ。二人とも一代にして、どころか、ほんの10年、20年で大きな企業を作ったというだけでも大した手腕なのに。こういう人に対して、日本ではすぐに「金さえあれば何でも出来ると思って・・・」ということが言われますが、彼らはただビジネスをやっているだけで、ビジネスというのはそもそも利潤追求するもんなんですから、そんなこと言っちゃあ、ちょっと可哀想ですよ。 その一方、同じような感じの孫さんとか、三木谷さんって、あまり叩かれませんね。何でですかね? 人徳ですかね? ま、それもそうかもしれませんが、それ以上に孫氏と三木谷氏はメディアの前で不必要にしゃべらないから、それで叩かれないんじゃないかな。ああいう立場になったら、しゃべっちゃいけないんだ、きっと。しゃべればしゃべるだけ、損をしてるもんな。 でも私はそういう立場じゃないので、良かった! これからも「お気楽日記」で好きなこと言いますよー。乞うご期待! さて、先日も言いましたが、私は明日から北海道出張です。しばらく更新が途絶えますが、帰ってきてからまたパワー全開で書きまくります。
October 13, 2005
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前回、19世紀末のアメリカでとても人気のあったロマンス小説作家として、ローラ・ジーン・リビーという人の名前を挙げましたが、今回はこの人のことをご紹介していきましょう。 今では文学辞典に名前の載ることすら少ない作家なので、リビーのことを調べるとなるとなかなか骨が折れちゃうんですが、辛うじて判明したことを総合すると、リビーというのは1862年、ニューヨークはブルックリンのお医者さんの家庭に生まれ、17歳の時に書いた小説が『ニューヨーク・レッジャー』という人気雑誌に掲載されたのを機に本格的に創作を始めた「おませさん」です。で、その後順調に作家活動を続け、1880年代から1890年代にかけては人気雑誌に彼女の作品が掲載されない週がなかったと言われるほどの人気作家となったらしい。何しろ最盛期には年間6万ドルの執筆料を得ていたというのだから、リビーは当時の作家として破格の成功を収めていたと言ってよいでしょう。 ではそんな人気作家リビーの小説とはどのようなものなのかと言えば、基本的にはどの作品も「ガール・ミーツ・ボーイ」式の恋愛小説でした。だがリビーの小説の妙味は、そういうロマンティックな側面よりも、むしろヒロインとヒーローが晴れて結ばれるまでに出くわすありとあらゆる艱難辛苦の描写にこそあるんです。次々と予期せぬ出来事が生じてきて観客を一時も休ませない映画のことをよく「ジェットコースター・ムービー」と言いますけど、その伝で行けば、リビーの小説はまさに「ジェットコースター・ロマンス」。 例えばリビーの代表作である『職工長の誓い』を例に挙げてみますと、この小説はヒロインとなる16歳のお針子コラリーが、縫製工場からの帰宅途中にロバートという邪な女工監督から誘惑され、あわや、というシーンから始まります。いきなりハラハラです。が、もちろんここは正義のヒーローが登場する場面であって、その期待通り、コラリーの勤めている工場の社長の甥であるアランが通りかかってその場でロバートに解雇を申し渡し、コラリーの危機を救う、と。で、これを機にアランとコラリーが互いに恋に落ちたことは言うまでもありません。何しろその二週間後に、アランは許嫁との婚約をあっさり破棄してコラリーに結婚の申し込みをしたというのだから、のっけから目の離せない展開です。 しかし、この小説が本当にすごいのはここからです。自分を解雇したアランへの復讐に燃える悪漢ロバートの策略によって、コラリーとアランとの新婚生活は際限なく邪魔だてされるんですね。まず結婚初夜からして新郎アランはロバートに騙され、途中下船できない遠洋航路の船上の人となってしまう。一方、帰らぬ夫を待つコラリーの元には、彼が別の女と結婚したことを告げる謎の手紙が届けられる。絶望したコラリーは家を飛び出し、片やようやく家に帰り着いたアランはコラリーが残した置き手紙を誤読して、彼女が財産目当てで彼に近づいたのだと思い込む・・・と、まあこんな調子で、これ以後この二人は嫌というほど誤解とすれ違いを繰り返すのですけど、とにかくこの先、高々100ページほどの小説の中でコラリーは 1井戸に落ちる 2精神病院にぶちこまれる 3悪漢の情婦にされかける 4交通事故に遭う 5アランが自分の母の仇の息子だと知らされる 6養母が毒殺される 7飢え死にさせられそうになる 8工場に閉じ込められ、火をつけられる 9ショックで廃人になりかける 10ナイフで襲われる、のだと言えば、私がこの小説を「ジェットコースター・ロマンス」と命名した理由もお分かりになるのではないでしょうか。しかもこれだけひどい目に会った挙げ句にヒロインとヒーローは再度結ばれ、コラリーは見事、一介のお針子から社長夫人へと華麗なる変貌を遂げるというのだから、この小説、面白いには違いないけれど、相当におめでたいと言わざるを得ない。そしてリビーの小説というのは、すべてがこんな調子だったんですね。 もっとも単に波瀾万丈のロマンスというだけなら、19世紀後半のアメリカには同じようなものが沢山出回っていたのであって、その点でリビーの小説が特に珍しいということはありません。実を言うと、リビー作品のトレード・マークはもっと別なところにあります。それは彼女の小説に登場するヒロインの設定の特殊さです。リビーの描くヒロインたちは、ほぼ例外なく大都会ニューヨークの縫製工場などで働く若年の(正確に言えば16歳の)勤労少女だったんですね。これは初期の『レオニー・ロック』(1884) から晩年の作品に至るまで一貫して見られる設定で、それゆえリビーの書く小説はしばしば「ワーキングガール・ナラティヴ」(=勤労少女の物語)と呼ばれている。つまり、貧しい勤労少女が自分の勤める会社の社長の息子・甥と結婚し、一夜にして社会階級を駆け上がるという筋書きにこそ、リビーの小説の人気の秘密があったんです。 では一体なぜリビーは勤労少女のシンデレラ・ストーリーにこだわり、またそれが絶大な人気を博したのか。この謎を解く鍵は、19世紀後半のアメリカの社会事情にあります。南北戦争後のアメリカでは工業化が進み、既成品の工場生産が盛んになっていて、中でも「ミシン」の登場によって既製服の市場は拡大し、それに伴って縫製作業に携わる労働力への需要が高まっていた。そしてこの需要に応じたのが、地方出身の(あるいは移民の)若年女性労働者だったわけ。事実、16歳から20歳までの若年女性労働者の数は1860年代から急速に増え始め、1900年にはその数は400万人にも上ったと言います。ただし、そんな若年女性労働者の労働条件は案外過酷なものだったらしく、1860年代には「アメリカ版女工哀史」ともいうべき告発記事がしばしば雑誌や新聞を賑わすようになり、一つの社会問題ともなっていた。 しかしこの「お針子さんは可哀相」という世間のイメージは、1870年代になると見事に覆るんです。きっかけとなったのは1871年5月25日に『ニューヨーク・ウィークリー』という新聞に掲載されたフランシス・S・スミスの「お針子バーサ」という小説。これは主人公のヒロイン、バーサ・スローアンが邪な上司から誘惑されて危うく貞操を奪われかけたところを同僚のロイに助けられ、このことが縁で恋仲となったバーサとロイがめでたく結婚する、といった恋物語なんですけど、同僚だと思っていたロイが実はこの会社の社長の身をやつした姿だったという「落ち」が読ませどころで、つまりはこの小説、一介のお針子が一夜にして社長夫人となる、という玉の輿物語だったんですね。 アメリカン・ドリームを実現させて金持ちとなることが美徳と考えられ、「野心の時代」とも呼ばれた19世紀最後の四半世紀。その時代に「女性版アメリカン・ドリーム」とでも言うべき玉の輿物語が提示されたわけだから、この小説が大都市に住む若く貧しい女性労働者たちの喝采を受けたことは容易に想像がつくでしょう。またそうなれば、この手の小説をもっと読みたいという実在の勤労少女たちの熱い要望に応え、当時の新聞・雑誌がこぞって「お針子バーサ」と同工異曲の小説を掲載し始めたのも当然。いやそれどころか、勤労少女出世譚の急激な流行は空想世界のみならず、ノン・フィクションの世界にまで波及していくんです。「お針子バーサ」以降、生き別れていた親戚の遺産を受け継ぐことで貧しいお針子が一夜にして大富豪になった、というような嘘か誠か分からないニュースが盛んに報道されるようになったんですね。ことここに至って、勤労少女出世譚は非常に現実味のある「都市伝説」となってしまったわけ。 そしてこの都市伝説を誰よりも上手に書きこなした作家こそ、我らがローラ・ジーン・リビーだったんです。何しろ現在確認されているだけで82もの作品が残っていて、さらにそれらの作品群が何度も版を重ね、その総売上げ部数は1600万部に達したと言われているのですから、19世紀末のアメリカはリビーの描く勤労少女のシンデレラ・ストーリーで満ち溢れていたと言っても過言ではない。華やかな生活に憧れて大都会にやって来ながら、実際には工場労働者として搾取される立場にあった無数の若年女性労働者たちに束の間の夢を見させること。それによって、ローラ・ジーン・リビーは時代の寵児となったんですな。 でも、時代の寵児は、その時代が過ぎ去った時、過去の人となる運命にある。ワーキングガール・ナラティヴの女王リビーの後半生も、時代の寵児に課せられたこの運命を忠実にたどることに他なりませんでした。20世紀に入って娯楽が多様化し、また「貧しい勤労少女」という存在自体が現実味を帯びなくなってくるに従って、リビーの小説は人々から飽きられるようになったんですね。そのことはリビーも承知していて、作風を若干変えてみるなどの工夫をしたようですけど、結局彼女には勤労少女出世譚以外の小説を上手に書く事はできなかった。1924年に彼女が亡くなった時、地方紙のただ一紙を除いて、ニューヨークのどの新聞もリビーの死を報道しなかったと言います。19世紀末の人気作家ローラ・ジーン・リビーは、その存命の時からして既に忘れられた作家となっていたんですな。そして今ではただ、アメリカ大衆文化に興味のあるごく一部の人々の間でのみ、その名が記憶されていることは、最初にお話した通り。 しかし、それならばローラ・ジーン・リビーは本当に「取るに足らない」作家なのだろうかと言いますと・・・ 私自身は、そうではないだろう、と思っているんです。例えば現在、世界中で絶大な人気を誇っているロマンス叢書たるハーレクイン・ロマンスにしたって、そのストーリー展開の多くは、身寄りのないティーン・エイジャーのヒロインが勤め先の青年社長と恋に落ち、途中様々な対立や離反を繰り返しながらも、最終的には彼と結婚して社長夫人に納まるというようなものであって、まさにリビー作品の骨組みをそのまま踏襲していると言っても過言ではありません。リビーお得意の勤労少女出世譚というのは、21世紀となった今なお、読者を惹き付ける力を持っているわけですよ。 第一、ロマンス小説の祖であり、近代小説の祖でもあるとされる例の『パミラ』(1740)だって、金持ちの屋敷に奉公に出された勤労少女パミラが、当の屋敷の主に請われてその妻になる話なんですから、これはもう歴としたワーキングガール・ナラティヴだと言っていい。要するに、近代小説の出発点から現代のハーレクイン・ロマンスに至るまで、ワーキングガール・ナラティヴというのは英・米文学史上に途切れることなく続いている系譜の一つなんですね。で、その見地から言えば、ローラ・ジーン・リビーは19世紀末の一時期にその伝統を引き継いだ重要な作家である、というふうに言うことができるはず・・・。 とまあ、そんなわけで、今では誰も見向きもしないこの19世紀末の大衆作家のことを、私は例の「アメリカ大衆小説史」プロジェクトの一環として、ことさらに応援しているというわけなんですね。 ま、それはともかくも、ローラ・ジーン・リビーのワーキングガール・ナラティヴを見るにつけ、ロマンス小説におけるシンデレラ・ストーリーの要素がいかにアメリカで受けるか、ということが分かります。階級の壁の厚いイギリスと比べ、アメリカでは「リッチになる」だけで、比較的簡単に社会的地位が上がりますから、金持ちの男性と結婚することで一夜にして上流階級の奥様に、という玉の輿幻想が、アメリカでは受け入れられ易いということがあるんでしょうね。その辺のことについては、いずれまた詳しく見ていくことにいたしましょう。 さて、次回ですが、大分回り道をしてしまいましたので、ようやく20世紀まで戻ってきたところで、そろそろまたハーレクイン・ロマンスそのものの販売戦略・経営戦略などについて、考えて行きたいと思っています。次回もお楽しみに! 「お気楽日記」は、また夜、更新する予定です。
October 13, 2005
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今日は床屋さんに行ってきました。例の私のお気に入りの床屋さんで、「こんちは」とお店に入ってから「ありがとう」とお店を出るまでわずか25分。髪を切ってくれている間も余計な話をせず、放っておいてくれる。実に気分がよろしい。 ところで理容師さんが黙っているものだから、必然、客としてはこの25分間の間、店内に流れているFM放送を聴くことになります。私も聴いていました。で・・・・ つまらないんだ、これが!! どうしてこうつまらないんだろう? って言うか、どうしてここまでつまらなくできるんだろう? ちなみに私が聴いていたのは、どこのFM局かは分かりませんが、女性のDJでした。で、この人がつまらない日本の若者の曲をかけ、何だか分からないけれど、その曲をやたらに褒めちぎるわけ。すばらしい曲だ、聴いているだけでエネルギーを与えられるようだ、とか何とか。私には何とも陳腐な、馬鹿馬鹿しい歌詞の曲としか思えませんでしたけど。で、「・・・?」と呆れていると、どういう話の流れだったか急にお弁当の話になって、彩りよくお弁当が作れた時は人に見せたくなる、というようなことを言い出すんです。で、その挙げ句に「そうだ! 上手にお弁当が作れた人、今から写真にとって局の方に送って下さい!」と、いかにも嬉しそうにのたもうわけ。 はぁ? お弁当? 局に写真を送れ? 一体、何のこっちゃ・・・。 私はもうラジオというものを聴かなくなって久しいですから、DJがどんな曲をかけようと、どんなことを話そうと、どんな提案をしようと、別に構わないですけど、私以外で仕事をしながらFM放送を聴いている人なんて世の中には沢山いると思うのですよ。その人たちが毎日こんな感じのDJの戯れ言に付き合わなくてはならないのかと思うと、本当に気の毒になります。 もちろん、たまたま今日、私が聴いたFM放送が下らなかっただけかも知れません。しかし、私にはとてもそうは思えないんだなー。少なくとも私が何かのついでにたまにFM放送を聴くと、その都度、同じようなことを思いますもん。どの局を選んでも、みんな同じ。DJが言うこともまったく同じ。声さえも、まったく同じに聞こえます。 きっとこういうところでDJやっている女の子たちって、大学でも放送研かなんかに在籍してたりして、「DJになる勉強」をしてきた連中なんでしょうね。だから、定められた時間の間、そつなく何ごとかをしゃべりたてることはできる。でも、できるのはただそれだけ。ちょうど英会話を習ってはみたけれど、「内容のある話」そのものができなかった、というようなもんじゃないのかな。 もし私が村上ファンドみたいなお金持ちだったら(おっと、あの人は「ファンド」って名前じゃなかったか・・・)、FM放送局ひとつ買い取って、もう少しマシな放送をしてみたいですね。そうしたら、とりあえずDJはすべて40歳以上にしよう。そして「ちゃんとした選曲」ができるプロを採用しよう。自分がかける曲の解説ができる人を使おう。声に深みのある、落ち着いた人を選ぼう。ゲストにはジャリタレではなく、色々な分野で秀でた業績を挙げている大人を選び、その人とちゃんとした会話ができる人じゃなければDJをやらせないようにしよう。リスナーからのお便りやリクエストは原則受け付けないようにしよう。要するに、大人のFM局を作ろう。 ホント、いつも思うのですけど、現代日本の日常生活の中で常に不足しがちなのは、「大人」じゃないか知らん。それと、大人に付帯するものとしての「知性」と「品」ね・・・。 というわけで、頭はさっぱりしたものの、あのFM放送にはいささか「殺られ」ちまって、ガクガクッとなってしまったワタクシなのでした。今日も、わけ分からん!
October 12, 2005
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前回、アメリカ19世紀半ば以降に流行した「家庭小説」なる文学ジャンルが、ロマンス小説的な要素を多分に持ちつつも、ヒロインとヒーローの恋愛にはさほど重きを置かず、むしろヒロインの強い信仰心と精神的成長を描くことを主にしていた、ということを述べました。結局「家庭小説」というのは、幼い時に「家庭」を奪われてしまったヒロインが、自らの信仰心と、また心正しき周囲の人たちの力添えによって自立し、自らが主体となった「家庭」を作り上げるという話なので、そこに至るまでの間にヒーローが果たす役割というのは少ないんです。また新たに作り上げられた「家庭」の主役はあくまでヒロインであって、ヒーローではない。「女、三界に家なし」なんていう言葉はここではぜんぜん当てはまらないので、アメリカの「家庭小説」において「家なし」なのは、むしろヒーローの方なんです。 それなら、家を失って影の薄くなったヒーローたちはどこへ行くかと言いますと・・・ミシシッピ川を筏で下ったり(マーク・トウェイン『ハックルベリー・フィンの冒険』)、あるいは海へ出て鯨を獲りにいったりするんです(ハーマン・メルヴィル『白鯨』)。 というのは冗談ですが、実際19世紀後半以降のアメリカ文学、特に男性作家の手になる小説を見ると、ヒーローが「家庭」の軛を振り払い、外に飛び出して冒険の旅に出る、という基本構造を持った話がやたらに多いことに気が付きます。20世紀に入ったって、やはり同じことが言えるんじゃないかな。「家を飛び出すヒーロー」を描く、というのはアメリカ文学の大きな特徴の一つなんですが、それにしても19世紀の女性作家たちがヒロインを大黒柱とする「家庭小説」を書きまくったのに対し、男性作家たちはその「家庭」から逃げ出すヒーローを書いたというのは、面白い現象と言えるのではないでしょうか。 とは言え、ここがまた「アメリカ文学史」の面白い点でもあるんですが、20世紀に入ってアメリカ19世紀以降の文学を「文学史」という形で検証しようという試みがなされるようになった時、女性作家による「家庭小説」なんてものはもう問題にもされず、ほとんど男性作家による「家庭逃避」の小説群ばかりが評価の対象になったわけ。ですから、現在ある形での「アメリカ文学史」の中で、19世紀後半というのは「アメリカン・ルネッサンス」の時代だなんて言われ、やれホーソンだ、メルヴィルだ、ホイットマンだ・・・といった「男性」作家の名前がきら星のごとく燦然と輝いております。既に文学史的見地から価値の定まった文学作品のことを「キャノン(=正典)」と呼ぶとすると、アメリカ文学史におけるキャノンは、ほとんど男性作家の作品で占められているんですね。 19世紀にヒーローを「家庭」から追放した女性作家たちは、20世紀に入って形成逆転され、「アメリカ文学史」という名の「家」から追い出されてしまった、とでも言いましょうか。 で、もちろんこんな具合に女性作家を、そして「家庭小説」を、文学史からそっくりはずしてしまったのは男性研究者たちですから、ここに女性研究者たちが噛みつくのも当然でしょう。その急先鋒であったニナ・ベイムなんていう女性研究者は、19世紀の半ば以降、アメリカで本当に人気があった作家というのは女性作家だったし、アメリカの読者層の大半は女性だったのであって、その意味でも女性作家による「家庭小説」が文学史の上であまりにも軽々に扱われているのは不当である、というようなことをずっと言い続けています。で、こういう女性研究者たちの主張によって、アメリカ文学史における「キャノンの見直し」ということが言われ始め、その結果、かつて顧みられることのなかった女性作家の業績が研究されたり、新しい文学史の中に記載されるなど、一定の成果が挙げられています。 しかし、そんな感じで一頃やたらに盛り上がった「キャノンの見直し」の機運も、最近になって何だか急に下火になってきたような気がします。結局文学というものを、「文学性」っちゅーんですか、個々の作品の「質」で見ていくと、やっぱり大半を男性作家が占める既成のキャノン作家たちの方が、家庭小説を書きまくった有象無象の女性作家より上じゃないの、ということになってしまうんですな。それを言っちゃあお終いよ、というところではありますが・・・。 で、じゃあ、こう書いている私自身の立場はどうなんだ、と言われますと、私はどちらかというと既成のキャノンにあまり変な改変を加えない方がいいんじゃないかと思っている方です。 ははーん、正体が見えたゾ! やっぱりお前はごりごりの保守派なんだ! そう思われました? しかし、事実はその真逆です。 私は新しい基準で新しい「アメリカ大衆小説史」を作ればいいと思っているんですね。で、その中で、数多ある「家庭小説」をキャノンの座に据えつけ、それらを書いた女性作家たちをキャノン作家にしてしまえばいいと思っているんです。 で、この新しい「アメリカ大衆小説史」において、声を大にして「20世紀最大の作家は『風と共に去りぬ』を書いたマーガレット・ミッチェルであーる!」なんて決めつけるわけ。で、ミッチェルとほぼ同時代、同じ南部出身の作家にウィリアム・フォークナーなんて名前の作家がいて、何かの間違いでノーベル文学賞をとったけれど、「アメリカ大衆小説史」の観点からは『サンクチュアリ』以外の作品は取り上げるに値しない、なんて書くわけですよ。あっはっは! ・・・あ、さて・・・・ そんな私の「アメリカ大衆小説史」の「19世紀末」の項目を開くと、ここにまた一人の、きら星のごときキャノン作家の名前が見えます。その名はローラ・ジーン・リビー。19世紀末のアメリカ流ロマンス小説の流れを決定づけた人です。では、彼女は一体どんなロマンス小説を書いたのか。 実は今日はその辺のことを書きたいと思って書き始めたのですが、例によって前置きが長過ぎました。ということで、リビーについてはまた次回、ご紹介する予定です。それでは、次回もお楽しみに! 「お気楽日記」はまた夜、更新するつもりです。こちらもよろしく!
October 12, 2005
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今週末、北海道は札幌で日本アメリカ文学会の年次大会というのが行なわれます。アメリカ文学関連の学会として、年間で最大のイベントです。で、もちろん私もこれに参加しますので、今週末は北海道で過ごすことになっているんですー。 学会の全国大会に参加する場合、とりわけそれが自分が住んでいるところから遠いところで行なわれる場合は、学会に参加すること自体が一つの旅行になりますから、毎年この時期はちょっと楽しみなんです。しかも今年は北海道ですから、小旅行と言うより、ちょっとした大旅行ですよね。 ただちょっと驚いたのは、北海道までの足代がすっごく高いということで、飛行機のチケットをとったら往復で5万円もするんですね。これは一体どういうことなんでしょう? だって、オフシーズンだったら成田・ニューヨーク間往復で4万円ですよ。しかもこちらの場合、映画が3本くらい見られるし、3食くらいは食べられるし、夜食・スナックの類も出るし。燃料だってもちろん比較にならないくらい消費するはずなのに・・・。 それから宿泊するホテルをとるのも大変でした。札幌はビジネスホテルなどが沢山あるから大丈夫だろうと甘く見ていた私も悪いのですが、昨夜予約を入れようとしたら、空いているホテルがぜんぜんなくて、選択の余地がなかった。結局とったのは札幌駅からはかなり歩かなくてはならないホテルなんですけど、それにしてもこれが何と1泊2600円。何だか安過ぎませんかねぇ? しかもこれで朝食付きなんですよ。ま、安い分には文句は言いませんが、あんまり見すぼらしいところもねぇ・・・。 ま、それはともかく、どうせ北海道まで行くのだからと思い、学会が終わった後、1日は北海道に留まり、小樽で遊ぶことにしました。私には小樽の町で一ヶ所、どうしても行きたい場所があるのです。有名な「鰊御殿」の近くにある「日和山灯台」というところなんですが。 実は私は前にも一度、学会がらみで小樽を訪れており、この時、何となく一人で車を走らせてこの灯台まで行ってみたんですね。別に何の期待もせずに。 ところがこの灯台のふもとから眺めた海が、あまりにもきれいだった・・・。 何しろこの灯台は海に突き出た岬の高台に立っているので、ここの下に立つと眼下に270度の広角度で紺碧の北の海が望めるんです。まさに息をのむ風景でした。 この美しさを如何せん。私はあまりに感動してしまったので、この光景を何とか記録したいと思ったのでした。私は人間の記憶の力なんてあまり信用していないので、ね。で、とにかく写真に残そう、と、そう思ったわけですよ。その写真が、私がここで得た感動の幾分かでも思い出すよすがになるように・・・。 そう思ってカメラを取り出した私を愕然とさせたのは、カメラの中にフィルムが一枚も残っていないという事実でした。あああああああぁぁぁぁ! その時、もし友達と一緒に居たのなら、その美しさをその友達と共有できたことで私は満足したでしょう。「あそこからの眺めはよかったねー」と、後々までその友達と語り合えばいいのですから。ところが、その時私はたった一人だったのです。しかも、その時、私はこの圧倒的な光景をどうしても記憶しておきたいという心的状況にあったというのに・・・。 あの時、あのあたりの空を飛んでいたカモメが居たとしたら、誰もいない岬の突端で、頭を抱えながら絶叫する一人の男を見たことでしょう。 というわけで、もし小樽にもう一度行くことがあれば、あの景色をもう一度見たい、と、ずっとそう思っていたんですね。で、今回、ようやくそのチャンスがめぐってきたというわけ。ま、もちろん、あの時の光景はあの時のものであって、今度同じ場所に立ったとしても、「あの時」の光景がもう一度見られるだろうなんて、思っていませんけれどね。 それに今回、私が行きたいのはここだけではなくて、もう一ヶ所、神威岬というところも見てみたいと思っているんです。それでやはり今回も小樽の街でレンタカーを借りることにしました。北の地を経巡るのなら、普通の車よりむしろちっぽけな車の方がいいかな、なんて思って、わざと軽自動車の予約を入れておいたんです。今度の旅では、家内も連れて行きますので、このちっぽけな車に家内を乗っけてトコトコ海沿いの道を走ってみるつもりです。 というわけで、今週末は楽しみが沢山あるのですが、そのつけの前払いとでも言いますか、金曜日までに終わらせなければならない仕事が山積みでして、明日・明後日と忙しく過ぎていきそうです。それでは、また明日!
October 11, 2005
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この間、『植草甚一スタイル』という植草甚一さんにまつわる本のことをお話ししたばかりですが、今日また植草さん関連の本を読み終わってしまいましたので、そのことを少し書いておきましょう。『アメリカ小説を読んでみよう』(晶文社)という本です。実は植草さんのお書きになった本の大半は晶文社という出版社から「全集」として出されていて、それが一頃絶版になっていたものですから、我々植草ファンとしては、古書店を回ってはその全集の端本を一冊、また一冊と集めていかなくてはならなかった。ところがその幻の全集が今度まとめて復刻されることになったんですな。だもんで、私もつい有頂天になって、まとめて何冊か買ってしまったんです。それで、今、楽しみながらそれらを読んでいるというわけなんですね。 ところで、今日読み終わった『アメリカ小説を読んでみよう』という本は、植草さんが読み散らした様々なアメリカ小説(またはイギリス小説)の中で、いいと思った、あるいは新しいと思った作品のことが、色々紹介されているというものです。で、紹介する基準はただ植草さんの心に残ったかどうか、ですから、ここに羅列されている作品は、もちろん有名な作家の有名な作品のこともありますけど、今ではあまり言挙げされることのない作家の、聞いたこともない作品だったりすることも多い。ま、そういう点から言うと、少し専門的過ぎる本かも知れず、アメリカ文学に興味のない方にとっては退屈してしまうかも知れません。でも植草さんがご自分の好きなものについて語る時の語り口には邪気がありませんから、たとえアメリカ文学に興味がない方でも、植草さんが「面白いなあ」と言っているのを聞いているだけだって楽しいと思いますよ。 ただ、アメリカ文学についてのおおよその知識があれば、そうでない場合よりも楽しめる本であることは間違いない。特に、この本が書かれたのが随分昔のこと、1940年代の末頃からせいぜい1960年代の半ばのことですから、その辺の時代を基準にして植草さんがお書きになっていることを、現代のアメリカ文学界の常識と照らし合わせながら読み直すというのがまた面白いわけ。 たとえば、若くして『裸者と死者』を書き上げたノーマン・メイラーの才能のすごさと行き詰まりと、その両方を植草さんはこの時代に既に見極めていたんだなぁ! なんてことに感心することもあれば、「トルーマン・カポーティという作家が有望だそうだけど、彼の本を読むくらいならドライブにでも行った方が良さそうだ」なんて評価を下しているのを見て、おっと植草さん、そいつはちょっとお見立て違いじゃないですかい、なんて言いたくなったりする。「最近、サリンジャーなんて作家の作品が日本でも随分読まれるようになったようですが・・・」なんて書いてあると、隔世の観があって面白いんですなあ。 それから、この本の中にハーヴェイ・スワードスという作家の『遺言書』という作品について触れた一節があるのですが、以前、この日記の中でご紹介した「私が所有している植草蔵書」というのは、まさにこの作品でありまして、おお、植草さんは、今は私の所有に帰したこの本を読んで、この箇所をお書きになったんだ! と思って大いに感激してしまったり。ま、これは私の個人的なことですけどね。 それからもう一つ面白かったのは、この本の後ろの方に、植草さんと佐伯彰一さん、それに丸谷才一さんの鼎談が載っていることです。で、その鼎談の何が面白いかといいますと、ぜんぜん鼎談になっていないところなんですね。つまり佐伯さんと丸谷さんという評論家肌の論客たちと植草さんでは気質が違い過ぎて、互いに話が通じてなさそうなんですが、その通じてないところが面白いわけ。 佐伯さんと丸谷さんは、もう言わずと知れた論客ですから、この鼎談の中でも、アメリカ文学をイギリス文学や日本文学と比べたりしながらその特徴を突き詰め、それを体系づけ、何らかの結論を引き出そうとする。ところが植草さんは、そういう理屈づけや体系づけとは無縁の人なので、佐伯さんや丸谷さんが縦横無尽にアメリカ文学を語るのに、ぜんぜん口を挟めないんです。 植草さんは、確かに沢山のアメリカ小説を読まれているんですけど、それについて「面白かった」か「つまらなかった」か、あるいは「ぐーっと引き込まれた」か、それとも「難解だった」か、まあ、そういう分類しかしていないんじゃないかというところがある。だから、佐伯さんや丸谷さんみたいに、理屈を並べて、ものごとを体系づけようとする人たちの話には首を突っ込めないわけ。だからこの鼎談でも、そもそも主役は植草さんのはずなのに、植草さんが語っている部分があまりにも少ない。 で、そういうのを見ていて、私が一番共感を覚えるのは、無論、口を挟めずに疎外されている植草さんの方です。 佐伯さんや丸谷さんがこの鼎談を通じて出した理屈づけとか体系づけなんて、それから35年たった今から見れば、ぜんぜん大したことないわけですよ。そういうものは、時間が立てばどうしたって古びるものなんです。それに対して、ある作品が、ある時点で、ある個人にとって面白かったか、つまらなかったか、引き込まれたか、難解だったか、それは一つの歴史ですから、いつまで経っても古びることがない。 たとえばこれが「文学」なんてものじゃなくて、「食い物」のことだと考えて下さい。食い物の思い出っていうのは、結局、その時食べたものが自分にとってうまかったか、まずかったか、でしょう? いつ、どこで何を食べ、それを食べたとき、うまいと思ったか、まずいと思ったか。それ以外ないじゃないですか。文学だって結局同じですよ。理屈なんかつけたって、他の料理と比較したって、あんまり意味ないんです。 どこそこの店でビーフシチューを食ったが、あれはうまかった、というような随筆を池波正太郎が書けば、それは面白いし、そのビーフシチューをぜひ自分も食べたいなあ、と思うでしょ? それと同じように、植草さんが、これこれこういう新人作家の本を読んだけど、なかなか有望だと思ったなあ、なんて書いてあるのを読むと、自分もそいつを読みたくなる。そういうところが、植草さんの本の魅力なんです。冒頭で、植草さんの文学談議には邪気がない、と私が言ったのは、そういう意味です。 ということで、植草さんの『アメリカ小説を読んでみよう』という本、決して万人向けではないけれど、そんな植草さんのスタイルに興味がおありの方には、ぜひ「教授のおすすめ!」です。これこれ! ↓
October 10, 2005
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前回、アメリカにおいては「ロマンス小説」という予定調和的なハッピーエンドの小説よりも、むしろ身寄りのない若い女の子が悪い男の誘惑を受けて堕落していくといったような、いわゆる「誘惑小説」が好まれたということをお話ししました。そして、こうした悲劇的な結末をもつ小説が、表向きには「反面教師」的な役割を果たすものと考えられ、その内容がセンセーショナルなものであればあるほど「道徳的」かつ「教育的」な小説として、しかし実際にはそのセンセーショナルな内容への興味・関心ゆえに、流行していた、というようなこともお話ししました。『シャーロット・テンプル』に続いてアメリカで大衆的な人気をさらったハナ・ウェブスター・フォスターの『コケット』(1797)なんぞという小説もまた、この種の「事実に基づく」誘惑小説でした。 もっともこれらの「誘惑小説」から得られる道徳的、ないし教育的な教訓というのは、「社会通念のたがから外れ、自分の未熟な判断で行動しようとする女には、とんでもない災難が降りかかるゾ」ということでした。要するにこうした「誘惑小説」の背後にあるものは、「女たるもの、父親(夫)の厳しい監督のもと、大人しく家に居れ」という、父権制社会のルールなんですな。「アメリカは自由の国」なんていう言い方は、実際にはどんな場面にも無条件で当てはまるというようなものではないのであって、むしろ多くの面で「自由にすることが許されない」お国柄と言っていい。特に女性にとっては、そうなんですね。アメリカほど「女とはこうあるべき」という理想像を強く保持していて、それを現実の女性に押しつけようとする国なんて、そうはないんですから。 ですから、「自分の好き勝手に行動する女に禍あれ」という「誘惑小説」の後に、その逆のパターンの小説、すなわち、「苦境にあっても忍耐強く、キリスト教徒として恥ずかしくない行動をとる女には幸あれ」という小説が来てもぜーんぜんおかしくないわけ。その背後にある教訓は同じなんですからね。 かくして19世紀も半ばとなったアメリカでは、それまでの「誘惑小説」に代わり、「父権制社会から見て望ましい女性が、いかに苦境を乗り越えるか」という小説が流行するようになります。これがいわゆる「家庭小説」という奴ですな。たとえばスーザン・B・ウォーナーという人の書いた『広い、広い世界』(1850)なんていう小説は、「アメリカで最初のミリオンセラー」なんて言われていますが、このジャンルの代表的なものです。 で、この小説、どういう筋書きかと言いますと、まあ、基本的にはアメリカ版「おしん」だと思って下さい。実際、「おしん」と同じように、ヒロインのエレン・モンゴメリーの苦労は、彼女がまだ幼い時から始まります。ま、こういう小説によくあるように、親が破産してしまい、その結果、血のつながらない田舎の伯母のもとに預けられてしまうんですな。で、都会育ちのエレンには田舎での暮らしはつらく、また伯母ともうまくやっていけないわけ。しかし、彼女はこれも神が与えた試練と思い、聖書を心の頼りとして勉強を続け、教職に就くようになるんです。で、そうこうしているうちに、牧師をしていたジョンという男性と知りあうようになり、彼が彼女のよき理解者・指導者となってくれるんですね。 ところが捲土重来を期してイギリスに渡っていたエレンの両親はかの地で亡くなり、その遺言によってエレンは母方の叔父を頼ってスコットランドに行かなくてはならなくなる。で、行ってみると、エレンの親代わりになることになったリンゼイ氏がまた口うるさい人で、すべて自分の家の仕来り通りにエレンを躾けようとし、さらに彼女のプロテスタントとしての信仰にも横槍を入れてくるわけ。エレンにとっては、一難去ってまた一難というところです。 しかし、エレンは負けないんですね。どんなにリンゼイ氏が横暴に自分を縛ろうとしても、それは現実界のことであって、そんなことは取るに足らない。自分の心は自分の信じる神に捧げているのであり、その領域には何人も足を踏み入れることは出来ない、という強い信仰がエレンにはあったんです。そして、このようにいかなる苦境にもくじけることなく、神へと続く一筋の道を歩み続けたエレンに、ついに「ご褒美」が与えられることになります。アメリカからジョンがやってくるんですね。かくして二人は互いの思いを確認し合い、やがて結婚することがほのめかされたところで、この小説の幕は閉じます。 とまあ、現代的な目で見るとどこにアクションがあるんだかよく分からない小説ですけど、それはさておき、この小説の粗筋から見ても明らかなように、一般に「家庭小説」というのはストーリー展開から言うと、「誘惑小説」よりもはるかに「ロマンス小説」に近いことが分かります。何せ身寄りのない若いヒロインが、すったもんだの末にヒーローと出会って結婚し、幸福になる話なんですから、基本的にはロマンス小説そのものと言ってもいい。 じゃ、どこが純然たるロマンス小説と違うかと言いますと、力点の置きどころが違うんですね。ロマンス小説の場合は、ヒロインを襲う艱難辛苦は、いずれも彼女の恋を邪魔するものに限定されています。結局ロマンス小説というのは、ヒーローとの結婚というゴールを目指す障害物競走みたいなもんなんですから、そうなるのは当たり前ですね。ですから重点は常に「ヒロインの恋」に置かれている。 一方、「家庭小説」は、必ずしもそうともいえないんですな。こちらの場合、重点は「いかにヒロインが艱難辛苦にもめげずキリスト者としての道を歩むか」という側面に置かれるわけ。ですから、家庭小説のゴールは、ヒロインが忍従し、信仰を保持し続けること。これなんです。ヒーローなんぞというのは、無事ゴールにたどり着いたヒロインに与えられるちょっとしたご褒美に過ぎないんですね。言ってみれば、それは大して重要なもんじゃないわけ。ですから「家庭小説」における「家庭」とは、別にヒロインとヒーローとの間で築くべきものですらなくて、たとえば『広い、広い世界』以上のベストセラーとなったと言われるマライア・スザンナ・カミンズの『点灯夫』(1854)ともなると、主人公のガーティの恋人のウィリー・サリヴァンは、彼女を置いて遠くカルカッタでの仕事に就いてしまいます。もうキリスト教の信仰によって精神的な成長を遂げたヒロインは、自分の居場所としての「家庭」さえ得られれば、ヒーローすら必要なくなってしまうんですな。「家庭小説」のヒロインにとって重要なのは、恋愛そのものではなく、自分が聖女になって家を守る、ということの方なんです。 結局、19世紀半ば、いわゆる「ヴィクトリア朝」の道徳律が蔓延していたアメリカでは、男と女が惚れた腫れた、なんていうお話しは、ヨーロッパ的な、ふしだらなものとされていたんですね。またそういうふしだらなヨーロッパ社会とは異なる、アメリカ的な価値観として、清浄無比な女性像を作ろうと躍起になっていたんですな。で、その結果生まれたのが、性的なものとは無縁の「家庭の天使」としての女性像だった、と。 ただ、ここで急いで付け加えておかなくてはならないのは、こういう女性像が、当時のアメリカ男性によって勝手に作り上げられた理想像であったということではない、ということです。少なくとも中流階級以上の女性であれば、彼女らもまたそういう「家庭の天使」を理想とする志向を持っていたんですね。そのことは、たとえばこの時代のアメリカ中の(中流階級の)女性のバイブルでもあった『ゴーディーズ・レディーズ・ブック』という雑誌の編集方針を見ても推測されます。あまりの人気ゆえに『ザ・ブック』と言えばそれで通じたといわれるこの雑誌、こいつはまさに「良妻賢母」養成講座みたいな雑誌だったんですから。 もちろんこの後、19世紀も終わりに近づくにつれ、こういう類の、すなわち「家庭の天使的・良妻賢母的」女性をヒロインに据えた「家庭小説」の流行も下火になってきます。そのことについては、また次回にでもお話しすることにいたしましょう。 しかしここで覚えておいていただきたいのは、アメリカにおいては、道徳的であること、ふしだらでないこと、という条件が、どんなジャンルの文学にも一応は求められる、ということです。日本ではなかなかそういうことが誤解されがちですが、アメリカというのは他のどんな国にも増して、その辺のことはうるさいところなんですね。で、だからこそ、ハーレクイン・ロマンスのように、「徹底的に管理された上品なロマンス」が人気を得ることにもなる・・・。 ・・・なんていうことを言い出すと、話がいつまで経っても終わらなくなりますから、その辺の話もまた、次回以降ということにしましょう。それでは、次回もまたお楽しみに! 「お気楽日記」はまた夜、更新する予定です!
October 10, 2005
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昨夜、ティム・バートン監督の『ビッグ・フィッシュ』をDVDで見ました。で、これがまた噂に違わぬいい映画だったもので、ちょっと興奮しましたね。以下、そのご紹介をしたいと思いますが、ネタバレですのでご注意下さい。 ま、この映画、テーマとしては「息子による父親探し」です。 この映画に登場する父親と息子の間にはある種の断絶があって、まる3年間というもの、一言も口をきいていないということになっているんですね。ところがその父親が末期癌でいよいよ危ないかも知れないということになって、家に寄りつかなかった息子も父親の顔を見に実家に戻ってくる。ま、映画はそんなところから始まります。 じゃ、この親父、よほど放蕩もののひどい親父だったのかというと、・・・そうでもないんですな。ただ空想癖が強いというのか、ほら話をするのが好きなんですね。で、年がら年中ほらばかり吹いている。しかもこれがまた実にうまいもので、たちまち周囲の人を話につり込んでしまうほどなんです。ま、彼は「トラベリング・セールスマン」としてアメリカ中の町々を経巡りながら、旅先で口八丁手八丁、商品を売って歩かなければならなかったわけですから、そういうほら話のうまさはある意味彼の商売道具でもあったんですね。実際、彼は優秀なセールスマンだった。 で、息子の方も子供の頃は、この親父のほら話を真に受け、また面白がっていたんです。でも段々成長し、大人になっていくにつれ、この親父のほら話は通用しなくなってくる。「またその話?」ってわけです。で、ほら話の神通力が通用しなくなれば、それは単に「ウソばかりついている、いつも家にいない親父」ですから、息子から見れば、そういう父親のことが段々疎ましく感じられるようになるのも当然でしょう。かくして父親と息子の関係は次第に悪化してしまうんですね。で、息子の結婚披露宴の日、大勢のお客さんを前に父親がまた得意になってほら話を披露し、息子が生まれた日のことなどを面白おかしくスピーチしたことがきっかけとなって二人は大喧嘩。冒頭で述べたように、まる3年もの間、口をきかぬ仲になってしまうわけ。 しかしそうは言っても、その父親はもう余命いくばくもないという状態ですから、息子としては、せめて親父が死ぬ前に、ほら話ではなく、真剣な話をしたいと、切に思うんです。ところがそんな彼の思いを知ってか知らずか、相変わらず父親は、口を開けばほら話ばかり。息子は怒りと悲しみを込めて、「俺は親父がどういう人間なのか知りたいんだ。せめて一度でもまじめな話をしてくれ!」と嘆願するのですが、親父さんの方は「俺はこの通り、見たままの人間だ。それが分からないのは、お前の目が節穴だからだ!」というようなことを言ってとりあおうとしません。父親と息子の溝はなかなか埋まらない。 ところが、この息子の嫁さん、つまり披露宴の時からほとんど義父と顔を合わせたことのない嫁さんは、義父のほら話を聞きながら、もちろんそれがほら話だとは知りつつも、何かそこに一片の真実があることに、本能的に気づくんですね。それに、確かにこのくそ親父のほら話はとてつもなく面白い! で、その嫁さんは夫に向かって、お義父さんのことを少しは理解してあげたら? と仲立ちをするのですが、やはり息子としては、まだ父親への不信をぬぐえないでいる。 ま、そんな感じで、なかなか二人の関係改善が進まない時、この親父さんがとっておいた様々な書類やら何やらを整理する必要が生じるわけ。で、そういう古い書類をひっくり返していると、むかし父親から聞かされた様々なほら話に関係する書類などが色々出てくる。で、これらの書類を見ているうちに、彼がかつて面白おかしく、とんでもない尾ひれをつけて語った話には、確かにある程度の真実があったらしい、ということが少しずつ分かってくるんですね。 そこで、息子はその書類を頼りに、以前父親のことを知っていた人、それはひょっとすると父親の愛人だったのではないかと疑われる女の人だったのですが、その人に会いに行くことにするんです。 で、そこでその女の人から若き日の親父のことを聞かされた息子は、またもや親父のほら話の全部が全部、嘘ではなかったことを聞かされます。しかも、親父が母親を裏切ったことなど一度もなかった、ということも聞かされる。 つまり、ほら話のように見えるけれど、父親の話はある意味、すべて真実だったんです。彼なりのやりかたで面白おかしく脚色されてはいたけれど、そこには確かに親父の人生の真実があったんですね。息子はようやく、そのことに気がつく。 親父の足跡をたどった短い旅から戻った息子は、いよいよ親父の最期が近いことを知ります。そして、息子はようやく理解した自分の親父の最期を看取るんですね。というか、「親父が死ぬ時はどうやって死ぬか」という、とんでもないほら話を、まさに父親と息子の二人で紡ぐんです。これがたまらない! そして父親の葬儀の日。かつて親父が語った数限りないほら話の登場人物たちが、彼の死を悼んで次々と集まってくる・・・。 『ビッグ・フィッシュ』っていうのは、大体こんな感じの映画です。でも、これはやっぱり映像で見ないと、本当の面白さは分からないです。ティム・バートンというと、『シザー・ハンズ』などを見ても分かるように、もともとエキセントリックなストーリーをエキセントリックな映像美学で撮る人ですが、こと『ビッグ・フィッシュ』に関しては、このストーリーを語るなら「ティム・バートン流」のやり方で撮らなければ、絶対に映像化できない!と思えるほど、ドンピシャリなんですよ、これが!! 実はこの話、ティム・バートン監督自身の父親がモデルであり、作品自体も父親に捧げられているんですが、さもありなん、という感じです。まさにティム・バートン一世一代の映画じゃないですかね。 で、また出演者がすべていい! 決してオールスター・キャストではないけれど、要所要所にいい俳優を使っていて、しかも彼らが適当に抑制の効いた、いい演技をするんですよ。ほんとに、気分よく笑えて、しみじみ泣ける映画になっています。 ということで、この『ビッグ・フィッシュ』に対する私の点数は・・・95点! 今年見た映画の中で最高点! すばらしい映画です! 同じようなテーマを描いた『みなさん、さようなら』なんて、まったく目じゃない完成度。うーん、アメリカ映画界はもうお終いか? なんて言って御免なさい! ちゃんとこういう映画も撮れるんですな! やっぱり、アメリカ映画界の底力は大したもんです! ということで、『ビッグ・フィッシュ』、まだご覧になっていない方、人生で一つ損をしていますよ! この映画、熱烈に「教授のおすすめ!」です! さ、レンタルビデオ屋さんに急いで!!これこれ! ↓
October 9, 2005
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キンモクセイが薫る季節となりました。私の勤務先の大学にも図書館の前に一本、キンモクセイの大木がありまして、これがこの季節になるといい匂いをあたり一面に撒き散らします。この匂いを嗅ぐと、いよいよ秋も本格的になってきたな、という感じがしますね。 ま、大木もいいですけど、住宅地の生け垣なんかにキンモクセイが使われているのもいいですね。木自体はあまりパッとしないので、普段はその存在に気が付かないですけど、秋のこの時期だけは晴れ舞台。散歩をしていてふいにキンモクセイが香ってきたりすると、おお、こんなところに植えられていたのかね、キミは! なんて思います。 ただ惜しむらくは、この花、開花期が短いんですよね。それこそあっと言う間に散ってしまう。1週間、10日、もつかどうか。なのに今年はこの時期に雨ばかり降って、ただでさえ開花期の短いキンモクセイの花を痛めつけてしまっているんですから、もう情けないったらありゃしない。 閑話休題 さて、今日の私は昼から原稿を書いていました。で、一段落したところで、今日は少しのんびりとリーフティーを淹れ、昨日買っておいた「モンタボー」というパン屋さんの「プリンパン」と共に楽しみました。そしてその後しばらく読書。そして夕食。 そして夕食後、DVDである映画を見たのですが、これがまた予想以上の名作で、大いに感動! これについては明日以降、レヴューしますので乞うご期待! とまあ、今日はそんな感じの一日でした。ま、平和な一日ということで。 ところで、今日は手を着けませんでしたが、このところやらなければならない仕事が急に増えてしまいました。その仕事というのは、本になる原稿の校正作業、しかも2種類いっぺんに、です。 本と言っても私一人で書いたわけではなく、一冊は他の人との共著。私はその本の中の一章を担当しています。もう一冊の方はアメリカ文学関係の辞書で、私は数項目を執筆。で、これらの校正が上がってきたものですから、ここ1、2週間のうちに訂正箇所に朱を入れ、出版社に送り返さなければなりません。2冊とも年度内には出版されると思いますが、その意味ではちょっと楽しみかなー。自分の携わった本が続けざまに2冊出版されるなんてことは、そうあるものではないですからね。 しかし問題は、これらの原稿を書いたのがどちらも1年以上前、ということなんです。つまり、これから私は、1年以上前に自分が書いた文章と対面しなくてはならないわけ。これが、案外つらいものでして・・・。 もちろん、どんな原稿だって、それを書いた時点では一応自分として「ま、こんなもんだろう」という程度には納得しているわけですが、それからしばらく経った段階で読み直してみて、「うん、やっぱりよく書けてる」なんて思えることはまれです。大抵は、「こーんなこと書いちゃって・・・」と思わず赤面してしまうことが多い。だから、今回の校正もあんまり気が進まないんだなー。2本とも受け取ったのは一昨日ですが、昨日、今日と原稿に触りもしなかった。 ま、そうは言っても締め切りがありますからね。明日は少し手を着けないと。あー、どうせまた赤面ものなんだろうなー・・・。 ということで、この週末の雨もよいの空と同じく、少々気の重いワタクシなのでした。それでは、また明日!
October 8, 2005
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イギリスから、アメリカへ。何か実験的な、あるいは革新的な芸術・文化の伝達という点において、「イギリスから、アメリカへ」という流れは、我々日本人が思っている以上に多いのではないかという気がします。ロック・ポップス史におけるビートルズの果たした役割は言うまでもなく、アメリカのお家芸と考えられているミュージカルのことを考えてみても、たとえば『キャッツ』なんていうのは、あれはブロードウェイ生まれではなく、ロンドンのウェストエンドで1981年に生まれたミュージカルです。新編『レ・ミゼラブル』(1985年)もそう。『オペラ座の怪人』(1986年)もそう。『ミス・サイゴン』(1989年)なんて、ベトナム戦争のことを扱っているのに、実はロンドン生まれのミュージカルです。もっとも『ミス・サイゴン』というのは、ベトナム戦争に取材したとは言い条、ピエール・ロチの『お菊さん』だの、プッチーニの『蝶々夫人』だのの焼き直しに過ぎないので、どこで作られようと不思議はないわけですが・・・。ちなみに、そういう性質のものですから『ミス・サイゴン』という作品、我々東洋人の目から見たらとんでもない国辱ものです。白人の目から見た東洋人の姿が、誤解と偏見に満ちた形で、都合よく描かれているわけ。ですからこういうふざけた作品を日本で公演しようというのなら、我々としては「東洋人をバカにするな!」という横断幕でも掲げ、ぜひともボイコットすべきものであったのですが、本田美奈子主演で行なわれた帝国劇場版『ミス・サイゴン』は、トータル111万人の観客がつめかける大ヒット作となったのでした。ヤレヤレ・・・。 ま、それはさておき、ことほど左様に「新しい文化・芸術はイギリスからやってくる」という流れが、伝統的にアメリカにはあります。で、「ロマンス小説」に関しても同じことが言えるのであって、「イギリス生まれのロマンス小説がアメリカで受ける」というのは、何も20世紀後半のハーレクイン・ロマンスに限ったことではなく、そういう伝統は大昔からありました。 たとえばロマンス小説の祖たる『パミラ』(1740)、そう、この連載でもしばしば取り上げている『パミラ』もまた、イギリスで評判をとった後、すぐにアメリカ版(1744)が発行され、彼の地でも大ベストセラーとなっています。ちなみに『パミラ』のアメリカ版を最初に出したのは、何とあのベンジャミン・フランクリンです。雷が電気であることを発見し、さらにはアメリカ独立運動にも深く関わっていた人。というより、つい最近、愛知万博のアメリカ館で我々観客の案内人を務めてくれた、あの「ベン」です。ま、彼はもともと印刷業界の出身の人ですから、彼が『パミラ』のアメリカ版を出したこと自体、さほど不思議なことでもないのですが。 ところで、その『パミラ』以上に後のアメリカ大衆文学に影響を与えたイギリス小説に『シャーロット・テンプル』(イギリス版1791年;アメリカ版1794年)という作品があります。シャーリー・テンプルじゃないですよ、シャーロット・テンプル。 これを書いたのはスザンナ・ローソンというイギリス人の女性作家です。で、これがまた数奇な運命をたどった人で、もともとはイギリス海軍軍人の娘として生まれ、若い頃から文才を発揮していたらしいんですね。ところが結婚後、金物商だった夫の商売が傾き、経済的に苦境に立たされることになる。で、彼女がどうしたかと言いますと、つてを頼って夫共々アメリカに渡り、フィラデルフィアのとある劇場の戯曲家兼作曲家兼女優として活躍するようになるんです。(はぁ?) で、それならそれで、そのまま演劇人となるのかと思いきや、その後突如舞台から降りるとおもむろに女学校を創設し、後半生を女子教育のために捧げることになる・・・。わけ分からんでしょ? ちなみに彼女の女学校では、家政学のような女子学生向けの科目の他に数学・科学・地理学といった、従来男子学生にしか教えられていなかった科目もカリキュラムに採用していたといいますから、教育者としてなかなか進歩的だったらしい。で、しまいにはアメリカ市民権を取得し、アメリカ人として亡くなったと、まぁそんな感じの生涯です。ですから『シャーロット・テンプル』という作品は、イギリスからアメリカへ渡ったローソンの、いわば手土産みたいなもんだったわけですね。 もっとも、誤解されるとまずいので急いで付け加えておきますが、この『シャーロット・テンプル』という小説、実は「ロマンス小説」とは言えないんです。そもそもハッピーエンドじゃないですから。それどころか、主人公のシャーロットは、もう最初っから最後までひどい目に会いっぱなしです。 訳あってとあるイギリスの寄宿学校で学んでいた15歳の少女、シャーロットは、イギリス海軍軍人であるモントラヴィル中尉に見初められます。で、その寄宿学校の女性教師ミス・ラルーの手引きで彼とデートを重ねるのですが、そこでモントラヴィルの甘言に誘われ、彼とミス・ラルーと共にアメリカに渡ることになる。もちろんシャーロットとしては、モントラヴィルとアメリカで結婚するつもりだったんですね。しかし、もともとモントラヴィルにはそんな気などなく、彼女を単なる愛人と見なしていたんですな。そんなわけですから、モントラヴィルにとって次第にシャーロットが重荷になってくる。しかも、ここでまた別の男の策略もあったりして、モントラヴィルは身重のシャーロットをあっさり捨て、別な女性と結婚してしまうんです。ショックで病気になったシャーロットは、助けを求めてミス・ラルーのもとを訪ねるのですが、既に裕福な男と結婚していた彼女は、シャーロットを邪険に扱い、雪の降りしきる通りへと追い返します。で、結局シャーロットは女の子・ルーシーを出産した後、娘の窮状を知って駆けつけてきた老父の見守る中、息絶えてしまう。後に事情を知って後悔したモントラヴィルは、シャーロットの墓を訪ねるのですが、もはや取り返しのつくはずもなし。一方、そもそもシャーロットが堕ちていくきっかけを作った悪女ミス・ラルーは、悪運尽きて獄中に死ぬ運命となる・・・。 ま、『シャーロット・テンプル』というのはこんな感じの小説です。なんだかあんまり救いがない話なので、粗筋を書いているだけで陰々滅々としてきます。でも、これが当時のアメリカではやたらに受けたんですな。でまた、たまたまニューヨークにあるトリニティ教会という教会の墓地に「シャーロット・テンプルの墓」というのがあるのが見つかって、これが「あのシャーロット」の墓なんだ! ということにされてしまったために、ここをお参りするファンの列が途切れなかった、なーんていうことも伝えられています。実際、この小説の副題は「A Tale of Truth」、すなわち「真実の物語」となっていたものですから、この中で語られていることは、すべて実際に起こったことなんだと、一般読者が勘違いしたのも無理はないんです。というか、当時アメリカでは「架空の作り話」というのは道徳的にけしからん! と一般に強く思われていたので、この手の小説を出版する際には、実際にはそれが100%の作り話だったとしても、「ここで語られていることは実際に起こったことであって、誰かが主人公と同じ過ちを犯さないよう、敢えてここに事実関係を公表するものであります」というような前書きを書いておかないと、そもそも発禁になってしまう恐れがあったんですな。 結局『シャーロット・テンプル』みたいな小説、つまり、若い女の子が悪い男に騙されてどんどん身を落としていくというような小説は、「悪い見本」として、あるいは「反面教師」として、世に問われたわけ。こういうふうになっちゃお終いよ、だから若い女の子は操を大事になさいねと、まあそういうことですね。後に女子教育に情熱を注ぐことになるスザンナ・ローソンが、こんな小説をアメリカで出して矛盾を感じずに済むのは、つまりはそういうわけです。この時代の「誘惑小説」は、道徳の教科書でもあったんですね。 と言ったって、もちろんそれは表向きの話で、実際には誰もが「若い女の子が誘惑され、堕ちていく話」が読みたかったわけですよ。そりゃ、そうでしょう。誰が「優等生の男の子の話」なんかに興味を持ちますかって! とまあ、上に述べてきたようなわけで、18世紀の終わりから19世紀の初頭にかけ、アメリカではイギリス伝来の「誘惑小説」に沸いたわけですけど、これがきっかけとなったのかどうか、アメリカにおいてはこの後、本来のロマンス小説、すなわちヒロインとヒーローが出会って恋に落ち、最終的には結婚して幸福になるというような小説ではなく、「ヒロインが悪い男に出会って苦労する」というような小説の方が持て囃されていくんですな。一応、「道徳的啓蒙書」として、ね。 つまりアメリカでは、「道徳的」というところが「錦の御旗」なんです。で、こういう文化的土壌があるものだから、アメリカではイギリス流「ロマンス小説」を、そのまま受け入れるのではなく、それをちょっと変形させて受け入れるわけ。そのためにまずは「誘惑小説」が流行したわけですが、その後、この「誘惑小説」がさらに変化して、さらに別なものに姿を変えていきます。じゃ、その別なものって何だということですが、これがまた意外なものでして・・・。 ま、もう長くなりましたから、この続きは次回以降にお話ししましょう。それでは次回もお楽しみに! 「お気楽日記」は、また夜更新しまーす。
October 8, 2005
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先程、私がよく遊びに行くブログのサイトを覗いていたら、偶然、二人の方が「煙草」にまつわるお話しをしていました。最近は煙草を吸うことの出来る場所も限られてきて、私など煙草を吸わない者にとっては有り難い限りですけど、愛煙家の方にとっては厳しい環境になってしまったんでしょうな。 しかし一昔前、いや、二昔ほど前は、大人の男で煙草を吸わないという人の方が少なかったんじゃないですかね。小学校時代のことを考えても、担任になっていただいた先生方のほとんどが、煙草を吸われていましたもんね。 ちなみに私の父はもともと煙草を吸いませんが、母方の祖父は大変な愛煙家でした。ですから、祖父がおいしそうに煙草を吸っているのを見ると、あんな煙がなんでうまいのか、少なからず疑問に思いつつ、自分も早く煙草が吸えるようになりたいものだと、子供ごころに思ったもんです。煙草から立ち昇る煙は青いけれど、口から吐き出される煙は真っ白なのを見て、ふうむ、さてはあの青い色に味があるのか、なんて思ったりして。 ところで、私の煙草への特別な思いというのは、母に歌ってもらった「子守歌」に端を発します。私の母は、幼児の私を寝かしつけるのに、「ここはお国を何百里」をよく歌ってくれたのですね。で、この歌の中に二人の戦友が「一つの煙草を分けて飲み」、という一節がある。ま、実はこの二人のうちの一人は、敵弾に当たって倒れてしまったんですね。で、無事だった方が、倒れている友人のところまで必死で這いずって行くんですが、倒れた友の心臓は既に止まっていて、ただ懐中時計ばかりがコチコチと鳴っている。そこで生き残った方が、国からの便りを一緒に読み、一つの煙草を分けて飲んだ、その唯一無二の戦友が死んだことを嘆くわけ。私はその「一つの煙草を分けて飲んだ」ほどの親友が死んだことを嘆く兵隊さんのことが可哀相で、いつもそこで泣いてしまい、そのままいわば「泣き寝入り」していました。とまあ、何せそういう幼児体験が基礎になっていますから、煙草というと、何かとんでもなく重要な男同士の友情の証、というイメージがあるんです。 そういえばまた、こんなこともありました。私が子供の頃通っていた小学校の先生の一人が、若くして亡くなったんですね。で、その先生を追悼する集まりか何かで、その先生がいかに煙草が好きだったかというエピソードを同僚の先生のどなたかが披露されたんです。それによると、その先生は煙草が好きで好きで、しかしあまりお金が無かったので、思うように煙草が買えなかった。で、その先生がどうしたかというと、野球の試合が終わった後の野球場へ行って、落ちている煙草を沢山拾い、その吸いさしを家に帰ってからばらして一つにまとめ、そうやって吸っていた、というんですね。いわゆる「モク拾い」ですな。その話を聞いて、私は一度も習ったことのない先生でしたけれど、なんていじらしい人なんだろうと思いました。そんなに煙草が好きだったのなら、死ぬ前に好きなだけ煙草が吸えれば良かったのに、と、そう思ったことをはっきり覚えています。 ま、そんな諸々のことがあって、「煙草」というモノにかける男たちの深い愛情というのを、私は自分が煙草を吸える歳になる前に、十分認識していたという気がします。いや、私だけでなく、昔の男はみんなそうだったんじゃないでしょうか。そうやって、喫煙の文化が男から男へと引き継がれていったんじゃないですかね。 ちなみにそんな私ですから、自分も煙草を吸ってみようという気を起こしたとしても不思議ではありますまい。確か、小学校3年生の時だったと思います。 しかし、先にも言いましたように、私の父は煙草を吸わないので、家に煙草はありません。そこで私が何をしたかと言いますと、・・・・庭の落ち葉を拾ってきて、それを刻んで新聞紙で巻き、その煙を吸ったんです。 死にかけました。 さて、その後、小学校6年生になった時、私は私に決定的な影響を与えた先生と出会います。その先生も煙草が好きな人でした。「茂久」というお名前だったのですが、よく私たちにふざけて、「僕の名は、『モク』と読むんだぞ」なんておっしゃっていたことを思い出します。 ま、私がその先生からどれほどの影響を受けたかという話は、ここではしますまい。しかし、ともかく、私が生涯の師と思い定めた人でした。 ところが、その先生は私が18歳の時に、53歳の若さで亡くなってしまいます。心臓発作でした。朝、全校生徒を集めた朝礼の場で倒れられ、そのままだったそうです。 その後、その先生の追悼文集が出た時、ある一人の同僚の方が、先生の最後の朝のことをその中に書かれていました。それによると先生は、朝礼の前ぎりぎりまで煙草を吸うのを習慣にしておられ、ごくたまに煙草を切らしたりすると、誰かれ問わず「すまない、一本!」といって煙草をもらうのが常だったとか。 ところが、心臓発作で倒れられた朝、先生は火のついた煙草を後ろ手に持たれていたのに、それを一向に吸おうとなさらなかったというのですね。多分、もうその時には体調の不調を覚えておられたのでしょう。で、吸われないままの煙草の青い煙が、先生の背中からまっすぐ上に立ち上っていて、やがて短くなった煙草が先生の指を焼くのではないかと、他人事ながらハラハラした、と追悼文を書かれた先生は述懐しておられました。先生が倒れられたのは、その直後でした。 私はその夜先生のご自宅に駆けつけ、お通夜の席に並んだ後、学校に戻り、先生がその朝倒れられたという場所に立って、真っ暗な中、一人泣きました。寒い冬の夜でした。 煙草というと、色々なことを思い出します。そんな私が、大人になってからも結局、煙草を吸うようにならなかったのは、一体どういうわけなんでしょうかね? それは、私にも分かりませんな。
October 7, 2005
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前回、ゴシック・ロマンスの代表的な作品として『レベッカ』(1938)の名を挙げましたが、イギリスの女流作家ダフネ・デュ・モーリエが書いたこの作品、小説としてよりもむしろ、ヒッチコックの映画版(1940)でご覧になった方が多いかも知れません。実際、これがまたよく出来た映画で、数多いヒッチコックの作品の中でも傑作の一つと言ってよいのではないでしょうか。 さてこの作品、始まり方は典型的なロマンスです。今はお金持ちの老婦人の付き添いの仕事をしている身寄りのない若いヒロイン(名前は明らかにされない)が、モンテカルロで休暇を過ごしていた上流階級に属する富豪の壮年男性、マキシム・ドゥ・ウィンターと出会い、恋に落ちるというわけ。 ところが、ここからこの物語は早くも通常のロマンス小説のパターンから少しずつ逸脱し始めるんです。 前にも言いましたように、通常のロマンス小説であればこのあたりで「ライバル女」というのが登場してきて、こいつがヒロインとヒーローの恋路を邪魔するようなことをしでかすわけ。で、そのためにヒロインとヒーローは互いのことを誤解するようになり、派手な喧嘩もあったりして、二人の関係は二転三転・・・、と、こう話が進むわけです。が、『レベッカ』の場合はそうではない。二人の恋はとんとん拍子に進み、あれよあれよという間に結婚と相成り、そして楽しい新婚旅行の後にマキシムの所有する大邸宅(マンダレー)で二人のアツアツの新生活が始まる、というふうになるわけ。アレ? 何だか物足りないなぁ。これじゃ、順調すぎて、話にならないよ・・・。 でも、大丈夫。この小説においても、ライバル女はちゃんと登場してきます。それがレベッカ、つまりマキシムの前妻です。 もっとも、ここがヒッチコック好みの一ひねりなのでしょうが、この前妻というのは、実は既に死んでいるんですな。じゃ、マンダレーの屋敷には彼女の亡霊が出るのか? と思われた方、当たらずと雖も遠からずです。つまり、マンダレーの屋敷はレベッカの「気配」に満ちているんですな。確かに彼女は既に亡くなっている。しかし、この屋敷の至るところにレベッカの痕跡があるんです。レベッカが使っていた部屋、レベッカが愛用した品々、レベッカが決めた屋敷の仕来り、そういうものがあたかも彼女が生きている時と同じように維持されているわけ。そして、何よりも彼女の「後釜」であるヒロインを見下ろすかのようなレベッカの肖像画! その美しい肖像画は、マキシムと同じ上流階級出身であるレベッカの誇りを示し、「平民」出身のヒロインをいたたまれないような思いに陥れます。 しかし、何と言っても極めつけは、マンダレーの屋敷で召使長を勤めるダンヴァーズ夫人です。この、いかにもヒッチコック的なキャラクターは、かつての女主人レベッカを盲目的かつ狂信的に崇拝しており、それだけにどこの馬の骨かも分からぬマキシムの後妻に快く仕えようなどとは、最初から毛ほども思っていない。むしろ彼女を屋敷から追い出すために、ありとあらゆる嫌がらせをしようと手ぐすねを引いているのだから、ヒロインがマキシムの屋敷で針の筵に座っているような気にさせられるのも無理のない話です。 ま、そういうこともあって、本来なら新婚の楽しい時期であるはずのヒロインは、次第に自分自身に対する自信を失っていくんですね。いや、そればかりでなく、彼女は夫であるマキシムに対しても、疑惑の目を向けるようになってしまうんです。すなわち、マキシムが自分と結婚したのも、単に自分に死んだレベッカの代理をさせようとしているだけであって、彼はまだレベッカを忘れられないでいるのではないか、という疑惑を抱くのです。実際、マキシムの行動もヒロインの誤解を助長するようなところがある。この辺の不気味な演出はまさにヒッチコックの独壇場で、我々読者・観客の側も、ひょっとしてマキシムはヒロインの人間性を抹殺し、第二のレベッカに仕立てようとしているのか? という思いにさせられてしまう。「誰かが私を殺そうとしている! しかもそれはひょっとして夫かも知れない!」という、例のゴシック小説の基調音が聞こえてくるようです。 ところがこのレベッカという女、復活させるに足る、類稀なる貴婦人であるどころか、実はとんでもない性悪女だったんですな(やっぱり!)。マキシムと結婚したのも金目当て、一旦妻の座に納まってしまえば貞淑な妻の振りをするなんてまっぴらという女で、金は浪費するは、マキシムの目の前で堂々と浮気はするは・・・。ま、マキシムから見れば悪夢のような女だったんです。そしてそのことをマキシムは結婚後すぐに見抜くのですが、家紋に傷をつけることを恐れ、離婚までは踏み切れない。で、そのことを知っているレベッカは、ますます図にのって浮気に精を出す・・・。 しかし、ついにマキシムの堪忍袋の緒も切れる時がやってきます。彼の小心ぶりをあざ笑うかのように、愛人の子供を身ごもったと告げる彼女を、マキシムは拳銃で撃ち殺してしまうんですね。(ちなみに映画版ではマキシムはレベッカを殴るだけで、ただ打ち所が悪くて彼女が死ぬ、という設定になっています。) で、マキシムは罪の露呈を恐れ、レベッカの死体をボートに乗せ、事故に見せかけてボートごと海に沈めます。かくして妻を「事故で」失ったマキシムは、傷ついた心を抱いてモンテカルロへ行き、しばし無為の日々を過ごすわけですが、それは要するにレベッカの記憶、そして殺人の記憶から逃れたかったからなんですな。そしてそこで彼はレベッカとは対照的に心美しい女性に出会った。ですから、ヒロインが抱いていた疑惑は実はまったく杞憂に過ぎず、マキシムにとって彼女はまさに救済の天使だったんです。マキシムがヒロインと結婚した後も依然としてレベッカを忘れられずにいるように見えたとすれば、それは彼女が愛しいからではなく、忌まわしい罪の記憶から彼が今だに逃れられずにいるからなんですね。 そしてこのマキシムの憂鬱は、やがて実際の恐怖に変わります。そこはそれ、ヒッチコック映画ですから、かの烈女が大人しく海の底に沈んでいるわけもない。マキシムが沈めたボートとレベッカの死体は、ある偶然から陸に引き上げられることとなり、マキシムの罪は露呈してしまうんです。またそうなれば、この上流階級のスキャンダルにジャーナリズムが飛びついてこないわけがない。たちまちマキシムは妻殺害の嫌疑を掛けられ、いずれ裁判沙汰になることは必至ということになる。で、もはや自分の罪状を隠蔽しきれないと覚悟した彼は、ヒロインに自分の罪を全てを告げます。けれど、マキシムが前妻に対しそもそも何の愛情も抱いていなかったことを知り、自分こそが彼の真の意味での妻であることを知ったヒロインは、それまで失いかけていた自信を取り戻すと同時に、最後まで彼の側に立つことを誓うわけ。 ところがこのマキシムにとっての絶体絶命の危機的状況は、まったく意外な方向に展開することとなります。レベッカの主治医の証言によって、彼女が末期癌に犯されていたことが判明するんですね。要するにレベッカは、自分の命が残りわずかなのを知り、わざとマキシムを怒らせて自分を殺すように仕向けていたんですな。が、そうさせた彼女の意図が奈辺にあったかはともかく、この医者の証言によってレベッカが自殺を計るだけの理由は十分にあったとされ、マキシムに対する疑惑は一挙に鎮静化してしまいます。 かくして、ついにレベッカの呪いを振り切ったマキシムとヒロインは、喜び勇んで屋敷へと戻るのですが、一難去ってまた一難、そこで彼らは屋敷が劫火に包まれているのを目撃します。そしてその燃え盛る炎の中には、かのダンヴァーズ夫人の姿が! レベッカのものであるこの屋敷をヒロインなんぞに譲るくらいなら、我が身もろとも燃やし尽くして見せる。そんなダンヴァーズ夫人の呪詛と共に、レベッカを葬ったことの代償としてマキシムは先祖伝来の屋敷を失うんです。しかしまたそのことが一種の罪滅ぼしとなって、マキシムが正しくヒロインを妻として迎えるための準備も整うんですね。かくしてレベッカの亡霊が屋敷もろとも灰塵に帰したところで、サスペンスに満ちたこの物語の幕は閉じます。 さて、このような『レベッカ』のストーリー展開を見てみると、デュ・モーリエは、通常のロマンス小説のストーリー展開を微妙にずらすことによって、巧みにサスペンスの要素を導入し、この小説・映画をゴシック小説として成立させていることが分かります。しかも、それでいて最終的には互いに愛し合うヒロインとヒーローが誰憚ることなく夫婦となるわけで、その意味ではハッピーエンドのロマンス小説にもなっている。その意味で『レベッカ』という小説は、前回少し触れた『ジェイン・エア』と同じく、ゴシック小説でありながらロマンス小説でもある、すなわち「ゴシック・ロマンス」の代表的な作品なんですね。そういえば、これは偶然であるにせよ、『レベッカ』でヒロイン役を演じたジョーン・フォンテーンは、何と『ジェイン・エア』の映画版(1944)でもヒロイン役を演じていたのでした。 ところで、『レベッカ』という作品をロマンス小説として見た場合、特に重要なのは、ライバル女の役を負うレベッカの造形です。彼女は美しく性的な魅力に満ちている。その点では、名前さえ明らかにされないヒロインを圧倒しています。そして、まさにそのことがレベッカを破滅させる原因ともなる。換言すれば、美しいこと、セックスアピールに満ちていること、これら、通常であれば女性にとって決して不利にはならないはずの特性が、ロマンスの世界では徹頭徹尾、目の敵にされるんですな。『ジェイン・エア』で既にほのめかされていたこの傾向は、『レベッカ』ではもはやあからさまに表面化されています。で、ロマンス小説に込められたこのメッセージ、すなわち、美しく性的な魅力に溢れた女は地獄に堕ちる、こそが、この文学ジャンルが世界中の女性たちにアピールしていく原動力なんですな。そのことは、ハーレクイン・ロマンスにおいてヒロインは決して「絶世の美女」ではないと説明した時に、あらかじめ示しておいたつもりです。 しかし、とりわけこのメッセージを歓迎したのは、間違いなくアメリカの読者です。アメリカは、ロマンス小説の持つこの種の後進性をとても歓迎するんですね。 では、それは一体なぜなのか。 というわけで、次回あたりから、ロマンス小説とアメリカ、というテーマのお話しをしていきたいと思っています。それでは、次回もお楽しみに! 「お気楽日記」はまた夜、更新します。
October 7, 2005
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新米の季節となりました。 ところで、新米というと私には忘れられない一言がありまして・・・。 ほんの数年前のこと、姉と話していて、何かの拍子で話題が新米のことになり、その時、我が姉が次のように言ったんです。 「新米って、おいしいよねー!」 がーん! そ、そうなの? 新米って、おいしいの? そりゃ、そうだろう、と思われた方、多分沢山いらっしゃると思います。が、実は私は「新米オンチ」らしく、新米の味が分からないんですなー。ご飯はもちろん大好きなんですよ。だけど、今日から新米だよ、と言われてもその差が分からず、「昨日のご飯と同じくらいうまい」としか感じられないんです。 といって私は、マヨネーズさえかければ何でもうまい、と思っているような今どきの若い人とは全然違います。それなりに繊細な味覚の持ち主であるという自負はあります。 だもので、私はてっきり「新米」がうまい、というのは「気のせい」なんだろうと、ずっと思っていたわけ。ほら、パチンコ屋さんの店先には「新台入荷!」とか「新規開店!」みたいな幟が毎日立っているじゃないですか。ああいうのと同じで、「そうは言ったって、いつもと同じだろ」というふうに捉えていたんです。ちなみに私の家内も私と同じで、新米とそれ以外の区別がつかないと言います。 ところが、私と一緒に育ち、同じものを食べてきたはずの姉が、新米の季節を毎年楽しみにしていたという・・・。私が仰天したのは、姉がそんなふうに新米を楽しみにしていたなんて、その時までまったく知らなかったからなんです。 で、姉に言わせると、新米は「ぜんっぜん味が違う! 香りも違う! 一口食べるだけで寿命が伸びる!」とのこと。えー! そんなに違うの・・・。 ま、そんなわけで、そのことがあって以来、毎年新米を買った日には、家内と二人で「今日から新米なんだ。これはとてもうまいものなんだ。昨日までとはぜんっぜん段違いなうまさなんだ」と呪文のように唱えながら、心して食すんです。舌に全神経を集中させながら。数日前、我が家で今年初の新米の封を切った時もそうでした。で・・・ うまい!! ・・・が、・・・昨日も同じくらいうまかった・・・ やっぱり、分からなかったですねぇ・・・。いつも通り、うまかっただけで・・・。 ああ、新米の味も分からないなんて、なんて不幸せなんだ! こんなんで私は本当に日本人なのか?! でも、新米じゃない米もおいしく食べられるのだから、逆にすっごく幸せという説も・・・。 ただ一つ疑惑があるのは、我が家の炊飯器なんです。これ、私の独身時代から使っているもので、もうただ米が炊けるというだけのシンプルな代物なんですが、ひょっとしたらこいつがいかんのかなぁ? 今風の、やれ「IH」だ、「厚釜」だ、「遠赤外線」だ、「スチーム」だ、といった最新式の機能のついた炊飯器を使って炊けば、新米のうまさが分かるように炊けるのか知らん? どうなんでしょう、その辺。ご存じの方、いらっしゃいましたら、ご教示下さいませませ。
October 6, 2005
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前回、次は19世紀末から20世紀初頭にかけてのロマンスについてお話しする、なんて言いましたが、ちょっと予定を変えまして、ロマンス小説のサブジャンルである「ゴシック・ロマンス」というジャンルについてお話しすることにします。これもまた、面白いジャンルなんですよ。 ところで「ゴシック・ロマンス」という名前ですが、ロマンスの方は分かるとして、それにくっついている「ゴシック」というのは一体何なのか? 「ゴシック」というのは、もともとは建築様式の用語です。おざなりな辞書なんぞを見ると「12世紀~15世紀にフランスを中心として発達した建築様式。アーチと弓形の天井とを主とする」なんて書いてある。つまり中世からルネッサンスにかけての時代、主として寺院建築などに見られる荘厳な感じの建物の様式のことなんですね。代表的なのはパリのノートルダム寺院だ、と言えば、何となく感じが分かるのではないでしょうか。 ところがこれが文学上の用語としての「ゴシック」となると、直接「中世」とは関係がなくなり、「18世紀半ばから19世紀初頭にかけてイギリスで流行した中世風ロマンスの一種」を指す、ということになります。じゃあ「中世風ロマンス」って何だ、と言いますと、「中世の封建社会やゴシック建築の古城などを背景とし、恐怖・怪奇を目的とした」物語、ということになる。ですから「ゴシック・ロマンス」となりますと、結局、人里離れた古い城や大きな屋敷を舞台にした、おどろおどろしい雰囲気の怪奇小説っぽい恋愛小説、ということになる。実際、この定義は当たらずといえども遠からずなので、現時点ではとりあえずそんなもんだと思って下さい。 しかし、恐怖とか怪奇とか、そんなようなことをテーマにした怪奇小説とハッピーエンドの恋物語たる恋愛小説、この2つって果たしてくっつけられるもんなの? と思われる方がいるかも知れません。 ところがですね、これがくっつくんです、見事なまでに。と言うのも、実はゴシック小説には多分にロマンス小説的なところがあり、またロマンス小説というのは本来的に怪奇小説っぽいところがあるからなんです。 たとえば、ロマンス小説の特徴の一つに「ヒロインの視点から物語が語られる」ということがあると述べてきましたが、ゴシック小説もまたこの原則が大抵当てはまるんです。たとえば初期ゴシック小説の傑作、ラドクリフ夫人の『ユードルフォの怪』(1794)などがその典型ですけれど、身寄りのない孤立無援のヒロインが、不気味な古城の一室に閉じ込められ、さんざん恐怖を味わうというような筋書きのものが多い。で、こういう場合、当然、すべての物語はヒロインの視点から物語が語られることになります。そりゃ誰かを怖がらせるということになれば、男を怖がらせるより女の人を怖がらせた方が面白い(失敬!)ですから、ゴシック小説の多くがこういう語りの構造をとっているのも理解できるでしょう。 しかもゴシック小説の特徴というのは、ただヒロインを怖がらせることにあるのではありません。重要なのは、彼女を怖がらせる主体というのがしばしば、本来なら彼女の保護者たる地位にある人物だったりすることなんです。つまり身寄りのないヒロインが、本能的に頼ろうとしていた男性、それは彼女の後見人であったり、恋人であったり、時には夫となった人物であったりするわけですが、そういうヒロインにもっとも近しい立場にいる男性こそが実は彼女の真の敵だった、というような筋書きをとることが多いんですね。あるゴシック小説の評論家は、ゴシック小説を象徴するセリフとは、「助けて! 誰かが私の命を狙っているの! で、どうやらその誰かというのは、私の夫らしいんですの!」である、というようなことを言っています。つまり、ヒロインの身近にいる男が果たして味方なのか敵なのか、それが最後まで彼女に(読者に)分からないという点にこそ、ゴシック小説の醍醐味がある、というわけ。 しかし、よく考えると、この構造はそっくりそのままロマンス小説と同じなんですね。何しろロマンス小説においてヒロインが抱える最大の悩みは、ヒーローが果たして自分のことが好きなのか、嫌いなのか、味方なのか、敵なのか、それが最後まで分からないということなんですから。 換言するならば、ロマンス小説における例の「美女と野獣」の構図において、この野獣が本当の野獣になってしまうとそれはゴシック小説になるし、またヒロインの愛の力の前に屈して元の王子様の姿に戻れば、それはロマンス小説ということになる、と、そういうふうに言ってもいいかも知れません。いずれにせよゴシック小説とロマンス小説というのは、元来、互いに近接した文学ジャンルなんです。ですから、ロマンス小説の設定に少し手を加え、そこに種々の不気味な要素を導入しさえすれば、それはたちまち怪奇味を帯び、ゴシック小説に近づくことになる。つまりはそれが「ゴシック・ロマンス」なんです。 たとえば、先日この連載の中でご紹介したシャーロット・ブロンテの『ジェイン・エア』(1847)なんかも、考えようによってはゴシック・ロマンスの範疇に入れるべきものかも知れません。 まずこの小説のヒーローであるロチェスターが住む屋敷が古い大邸宅であるというところで、ゴシック小説の場面設定の条件はクリアします。しかもこの屋敷の端の方にはヒロインが案内されない一角があって、そこには例の狂人となったロチェスターの妻が幽閉されていたというのですから、ますますもっておどろおどろしい。もちろん彼女がそこに幽閉されているのにはもっともな理由があるのですが、それは小説を最後まで読んで初めて分かることであって、途中まで読んだ段階では、ロチェスターとその狂人の女の関係もよく分からないわけです。となれば、ひょっとしてロチェスターは、かの「青髭」のように、色々な女と結婚しては、その新妻を狂気に陥れる趣味があるのかも知れない。おー、こわ! そんな青髭ロチェスターから求婚されたジェイン・エアの運命やいかに!! ま、要するに『ジェイン・エア』というロマンス小説には、「ロマンス」の要素だけでなく、「ゴシック」特有の怪奇的要素までも上手に仕込まれているんです。冒頭で、ゴシック小説というのは、18世紀後半から19世紀初頭にかけてイギリスで流行した、ということを紹介しましたが、『ジェイン・エア』が19世紀半ばという時代に書かれたことを考え合わせれば、このロマンスの中にゴシック小説の要素が採り入れられ、それがこの小説を単なるロマンス小説以上にサスペンスに富んだものにしていることも、文学史上の連続性という観点から見て、「なるほど」と頷けます。 しかし、ゴシック・ロマンスの傑作中の傑作といわれる作品は、実はもっと身近なところで、つまり20世紀になってから書かれました。イギリスの女性作家、ダフネ・デュ・モーリエの書いた『レベッカ』(1938)です。 何を隠そう、そもそも今日はこの『レベッカ』という小説について書く予定だったんです。でも、それにしては前置きが長過ぎましたね。ということで、この作品自体についてはまた次回、詳しく述べることにします。それでは、次回もまたお楽しみに!
October 5, 2005
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昨夜、林望さんの新刊『帰宅の時代』を読了しました。 「世の男性方よ、だらだらと会社関係の付き合いなんかしていないで、さっさと帰宅せよ、そして定年後に自分らしい生きかたをするための準備をせよ」。ま、これが最近の林さんの主張ですね。自分らしい生きかたをするといっても、無論、一朝一夕にできるものでもない、だから今から準備に取りかかれ、というわけ。趣味に生きるにはその趣味をある程度の高みまで持っていかなければならない、そしてそれには10年はかかる。逆に言えば、どんな人でもひとつことに10年かければ、それなりにモノになる。だから、将来に備えて今すぐ始めよ。と、まあ、林さんはそうおっしゃるわけ。 で、この本にはそういう考え方がベースにあって、それを実現させるためのヒントとして、「自分らしく暮らすための十カ条」なんていう項目があり、たとえば「『人並みの生活』を捨てよう」「身の程を知れ」「自己投資にはお金を惜しむな」「他人と違うことに誇りを持て」なーんていうことが、色々論じてあるんですね。 で、じゃあ、この本は面白いのかと言いますと・・・うーん、どうかな。 もちろん相変わらず手練の文章で書かれていますから、すらすらと読み進めることはできる。それに書かれている内容についても、一々ごもっともと思うことが多いし、それなりに面白くもある。 しかし、これまでに林望さんが書かれた本を読まれている読者に対して、敢えてこの本をオススメするほどのことはないかなー。だって、どの章を読んでも、「この話、前に読んだ」というものばかりなんですもん。少なくとも林さんの愛読者にとって、この本は決して新味のある本ではないんです。何だかこの本、各地の講演会かなんかで林さんがお話しした、その講演録をそのまま活字にしたみたいな感じですね。読み易いけれど、それだけのもんです。 50歳で定職から離れ、その後はいわば筆一本、人気エッセイストとしてあれよあれよという間に70冊以上の著書を出された林さんですが、やはり最近出される著書は少し内容が薄いんじゃないかなあ。多分、「林望」はもうブランドになってしまったので、彼が書けば内容を問わずにそれなりに売れるのでしょう。だけど、それにしてもちょっと『帰宅の時代』は内容が薄すぎるのではないか知らん。 もちろん、この程度の本でも新潮社のような大出版社から出せてしまうようになったのは、それは林さんの過去の実績の賜物なので、そのこと自体はある意味大したことだと思います。たとえ誰かが「私にはこれ以上のものが書ける」といったところで、実績のない人には大出版社は見向きもしないでしょうから。しかし、林さんにはそれだけファンも多く、過去のエッセイを全て読んでいる、というような人も沢山いるわけですから、そのことを慮って、もう少し内容の濃いものを出してもらわないといかんのじゃないですかね。 前々から言っているように、私もまた林さんのエッセイの大ファンですから、私と同じように思っているファンの代表として、『帰宅の時代』に対してはちょっと注文をつけたいと思います。林さん、次、期待してますからねー。 しかし、一昨日読み終わった『植草甚一スタイル』の植草さんは40歳の時に、昨日読み終わった林望さんは50歳の時に、また今読んでいる『思索の遊歩道』の著者・串田孫一さんも50歳の時に、それぞれ定職を離れているんですよねー。つまり、私がこのところ暇な時間に読んでいる本の著者は皆、定年までサラリーマンを勤め上げていないんですよ。そんな人の本ばかり読んでいる。果たしてこれは偶然なのでしょうか? それとも私自身、早めに勤めを切り上げたいと思っているところがあって、その潜在的な願望が呼び起こした必然なのでしょうか? 多分、後者だな。 ま、夢はあった方がいいですからね。そういえば林さんも『帰宅の時代』の中で「何事にも準備期間として10年見とけ」とおっしゃっていたわけだし。私もひとつ、10年後に「筆一本」で立つことを目指して、今から頑張って見ますか。ん? それじゃやっぱりこの本は、ワタクシの人生の指針になってるんじゃん。 前言撤回、この本、「教授のオススメ!」です! これこれ! ↓
October 5, 2005
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ここ数日、『植草甚一スタイル』(平凡社・コロナブックス)という本を弄んでいたんですけど、これを読むだに、あらためて「植草甚一って、かっこいいなあ!」と痛感しますね。 私が植草と最初に「出くわした」のは、大学院生の頃。たまたま神田・神保町の洋書専門の古本屋(泰文社)の店先でペーパーバックを漁っていた時、ふと取り上げたペーパーバックの表紙の裏側に奇妙なサインを見つけたんですね。一筆書きで人間の横顔を描いたものの下に「J.Uekusa」とあり、さらに「この本、出た途端に買ってみたが、さて、どうかな・・・?」と書きつけてある。ああ、これが噂に聞いた「植草本」か! 私もついに植草さんが一時所有していた本を手にできたんだと思って、その時は素直に嬉しくなったことを覚えています。当時、植草さんの蔵書が少しずつ市場に出回っていたんですね。 ちなみにその本、私も読んで見ましたが、確かに「どうかな・・・?」というような出来の小説でした。しかし、それほど有名ではない(が、完全に無名でもない)その作家のそんな不出来な小説まで、植草さんは一応チェックしていたのか、と、むしろそのことにびっくりしたことを覚えています。 植草さんが若者の間でカルト的な人気を誇っていたのは、1960年代後半から1970年代にかけてですから、私が植草さんのことを知った時には、もう彼はこの世の人ではありませんでした。しかし、その伝説の余韻は残っていましたから、何となく植草さんの書いた本を読んで彼の生きかたを学ばないと、サブカルチャーの何たるかなんてわからないんじゃないの? という風潮はあった。ま、そんなわけで、私の周りの本好きは皆、彼のことを知っているという感じでしたね。で、私はというと、生来の天の邪鬼ゆえに、皆が知っていることを後追いしたって仕方がないと思って、20代の頃は敢えて彼の本を読もうとはしなかった。 ですから、私が植草さんの本を読むようになったのは、そういう若い頑さを脱した30代になってからです。でも、結果としてそのことは良かったと思っています。というのも、ある程度大人にならないと、彼のやったことのすごさが分からないところがあるからです。 では一体植草さんの何がそんなにすごいかと言いますと、まずそのキャリアがハチャメチャです。早稲田の建築科に在籍している時から喫茶店を経営していたというのもすごいですが、その後大学を中退して映画会社の東宝に就職、映画会社社員としての仕事は一切せず、ただアメリカの小説を読みまくって、たまに上司から映画がらみの質問を受けるとそれに即答するという、いわばアメリカ文化関連の「顧問」みたいな特殊な地位を実力で確保した、というのもすごい。で、40歳で会社を辞め、その後は映画評論をやったり、ハヤカワでミステリの編集をしたりというフリーターの生活に入り、48歳の時にジャズにはまって、以後、ジャズ評論も始め、59歳で『ジャズの前衛と黒人たち』で単行本デビューを果たしたというのも、かなりすごい。普通の人が定年を迎える頃から輝き出すんですからね。で、そこから71歳で亡くなるまで、エッセイ集をはじめとする数十冊の本を出し、若い世代から「ぼくらのおじさん」として親しまれ続けた、というわけ。ま、今でこそフリーターなんて珍しくないですけど、彼は日本の高度成長期にそれをやってのけたんですから、大したおじさんです。 とにかく植草さんは、自分のやりたいことだけを好きなようにやったんですね。まずアメリカの雑誌や古本を買いまくり、読みまくる。ジャズ喫茶に籠もってジャズを聴きまくる。散歩をし、買物をする。で、自分の好みにあった服を着、小物を集め、写真を撮る。好きなものならなんでもスクラップし、コラージュし、イラストを描く。そしてそれらについて、エッセイを書く。ま、いわば遊んでばかりいた、ということですが、ここまで自由に、ここまで情熱的に、ここまで本腰を入れて好きなことをやり尽くすなんて、普通の人にはできません。それをやっちゃったんですから、やっぱり植草さんはすごい! そして、彼のエッセイ! あの文体! ふらーっと散歩でもしているような書き出しで始まる、あの独特の文体! あんな書き方でものを書く人なんてそれまでいなかったんですから、あれを発明しただけだって大したもんだ。エッセイというもののあり方に、まったく新しい光を当てたと言っていい。それはまさに植草さんの功績です。 で、このところ読んでいた『植草甚一スタイル』という本は、そんな植草さんの世界の一端を、まさに植草流のコラージュで紹介したものなんですね。ですから、私のように既に植草さんの世界にはまっている人に楽しめるのはもちろんのこと、これから彼の世界を覗いて見ようという人にもうってつけ。 ま、とりあえずこの本を開いて、そこに数多く載せられている植草さんの写真をとくとご覧あれ! 身長150センチ少々の小柄な植草さんがニューヨークの街を闊歩している写真なんかが沢山載っていますが、植草さん、ニューヨークの街並みに完全に溶け込んじゃっていて、まったく浮いていないんです。なにせお洒落で、ダンディーで、自分のスタイルを確立していますから、そんなばっちり決まった小柄なおっさんがニューヨークの街を歩けば、そりゃお洒落なニューヨーカーの方から逆に声をかけられるのも当たり前。「ねえ、おじさん、そのシャツ洒落てるねえ! 一体どこで買ったのさ?」ってな感じ。そんな感じが、写真から伝わってきます。これがカッコいいんだ!! それにしても、方向性から言えば、私は完全に植草さんの弟子筋に当たるんだよなー。アメリカ文学をやり、ペーパーバックの研究をし、ジャズを聞き、小物を集め、ものを書いているんだから。ただスケールが違う! それが決定的なんだなー。植草さんが定職をすっぱり捨て去った年齢になったというのに、私は依然としてそれにしがみついているんですもん。そこが、いま一つ脱皮できないところなんですけど、それにつけても、やっぱり植草さんはすごい! そのすごさが、この歳になって実感できます。 というわけで、こんなカッコいい日本人のおっさんがいたんだ! あの時代にこんな生きかたをした人がいたんだ! ということを知るためにも、この本、いいですよ。教授のおすすめ! です。これこれ! ↓
October 4, 2005
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これまでも何度か触れましたように、私が勤務先の大学まで車で通勤する、その道の途中で、田んぼの中の一本道をトコトコ1キロ以上に渡って走る箇所があります。ここは四季折々、また田んぼに植えられた稲の成長によっても風景の趣が微妙に移り変わっていくものですから、ここを走るのが私にとって通勤の間の密かな楽しみになっています。 で、もちろん今は実りの時期でありまして、この道から眺める稲穂の波が実に美しいんです。ま、4、5日前から刈り入れが始まったらしく、以前のように果てしなく稲穂の波が続く、という状態ではなくなりましたが、ところどころにぽっかりと空いた刈り入れの終わった田んぼでは、カラスの群れが「落ち穂拾い」をやっていて、それはまたそれでちょっと乙な趣もあります。 それにしても、稲穂の色というのは、きれいなもんですね。 これは私に限ったことなのか、私の頭の中にあるイメージとしては、稲穂というのは要するに麦わらの色、つまりごく薄い黄土色だという感覚があったのですが、実際に身近で見る稲穂は、もっとはるかに明るい色なんですね。色としては「浅葱色」に近い・・・かな? いずれにせよ、黄色と緑が混じったような、ちょっと蛍光味を帯びた明るい色。多分、私は稲穂の色と麦穂の色を頭の中でごっちゃにしているのでしょう。麦が実る時は、まさに麦わらの色ですからね。あれはまたあれで、きれいなものですが。 しかし、それにしても、この稲穂の浅葱色って実にきれいですなぁ。しかもそれが大地に敷きつめられた滑らかな絨毯みたいに、ずーっと向こうの方まで続いているでしょう? まさに浅葱色の海。こいつを上からご覧になっている神様がいるとしたら、今頃喜ばれて、ニッコリお笑いになっていることでしょう。 何もなかった田んぼに、ある日突然水が張られ、そこに大空が映ってきれいだった5月、それから植えられたばかりの苗が風にそよいで可愛らしかった6月、いつの間にか膝まで届くように逞しく成長した稲の濃い緑が灼熱の太陽の下で青く輝いていた7月、8月。そして浅葱色の海となった今。思えば、田んぼに水が張られた時のことが遠い昔のことのようでもあり、ついこの間のことのようでもあります。四季折々、私の目を楽しませてくれたこの田んぼの中の一本道の劇場も、そろそろ長いオフシーズンに入ろうということなのでしょう。 完全に刈り入れが終わるまであと1週間くらいでしょうか。せめてこの間、美しい浅葱色の広がりを、楽しませていただくことにいたしましょう。今日も、いい日だ。
October 3, 2005
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前回のところで私は、「ロマンス小説とは、パターンの文学である」というようなことを言いました。ロマンス小説と呼ばれる文学ジャンルには、守るべきルールというか、構成原理が確固としてある。そういう非常に特殊な文学ジャンルだ、と述べたわけです。 しかし、そんなふうにルールがガチガチに決まっていたら、どのロマンス小説も基本的に同じようなストーリー展開のものばかりになってしまうのではないかと、そう思われる方がいるかも知れません。そうです。ロマンス小説というのは、マンネリの文学なのです。過去の作品の焼き直しがいくらでもできる、そういう特殊な文学ジャンル、それがロマンス小説の世界なのです。今日はその辺のことについて、面白い例を挙げて論じてみましょう。 もうかれこれ10年ほど前のことになりますが、ヘレン・フィールディングというイギリスの女性作家の書いた『ブリジット・ジョーンズの日記』(1996)という本が、日本でも評判になりました。出版社勤務の30代のOLがつけた日記の体裁を取りながら、この年代の女性の悩みやトキメキを赤裸々に綴るというような小説です。結婚適齢期を微妙に通り越してしまい、そのことも少しは気になるけれど、まだまだ一人の男に自分の人生を託す気もないし、もう少しキャリアを積みたいという野心もある。おいしいものを食べながら友達と騒ぐのも好きだが、体重の増加も気になる。煙草は止めた方がいいとは分かっているが、ついついまた吸ってしまう。そんな微妙な女心の綾が同年代の女性たちの共感を得たためか、イギリスでも日本でも大変なベストセラーになったことはまだ記憶に新しいところですね。ルネー・ゼルウィガーが主役に抜擢された映画版の方も評判になりました。 ところで、小説の方でも映画の方でもいいのですが、この『日記』を読んだり見たりした方は、この作品が純然たるロマンスであることはご存じでしょう。何しろこの作品、主人公たるブリジット・ジョーンズが、いかにしてマーク・ダーシーなる恋人を得るに到ったか、ということを描いたものなのですから。しかし、彼女は最初からダーシーに惹かれたわけではありません。それどころか無骨なところあるダーシーのことを、ブリジットは最初のうち、あまりよくは思っていなかった。むしろ彼女が最初に惹かれるのは、勤務先の上司ダニエル・クリーヴァーなんです。 しかし、クリーヴァーとの付き合いが深まっていくうちに、次第に彼の誠実さのメッキははがれ落ちていきます。彼には、ブリジットとは別に付き合っていた女性がいたんですね。でも、そうやって不誠実な男に振り回されたおかげで、もっと一途に彼女のことを見守ってくれていたダーシーという誠実な男性を、彼女は発見するわけ。ブリジットは、見かけでは分からない男の価値というものに気付き、今までどちらかと言うと胡散臭い目で見てきたダーシーを、自分の真の恋人として意識するようになるんですね。で、色々あった1年間を振り返るように、ブリジットは彼女の日記の最後のページに次のように記します。「やっと、男性と幸せになる秘訣がわかった」と。メデタシ、メデタシ・・・。 さて、で、この小説から私は何が言いたいのかと言いますと・・・この小説もまたまぎれもないマンネリの産物だ、ということなんです。実は『ブリジット・ジョーンズの日記』という作品、19世紀前半に書かれたイギリス文学の傑作であるジェイン・オースティンの『高慢と偏見』(1813)のパロディ、と言いますか、焼き直しなんですね。 では『ブリジット・ジョーンズの日記』が依って立つ『高慢と偏見』とはそもそもどういう小説か、と言うことですが、さすがに文学史に名を残す名作だけあって、その筋書きは複雑なものであり、簡単にはまとめられません。それでも敢えて主筋だけを身も蓋もなく要約するならば、自分には教育も才能も資産もあるし、別に結婚なんて目じゃないわ、と思っていた主人公エリザベス・ベネットが、すったもんだの末に、自分にふさわしい相手を見つけて結婚する、という話です。しかも彼女が選んだのは、第一印象からして「嫌な奴」だと思っていたフィッツウィリアム・ダーシー氏。つまり種々の偏見によって正しい判断力を失っていたエリザベスが、恋愛を通じて人間的に成長し、ダーシー氏の真価を見抜けるようになるまでを描いたロマンス、というわけ。 ところで、このように『ブリジット・ジョーンズの日記』と『高慢と偏見』を並べてみますと、当然、ヒロインが最終的に選ぶ男性の名前が共に「ダーシー」であることに気付きます。これは明らかに意図的なもので、そのことは著者のヘレン・フィールディングも認めている。が、二つの小説がパラレルであることについてはもっと明確な証拠があります。『ブリジット・ジョーンズの日記』が書かれる1年前の1995年、イギリス放送協会(BBC)が『高慢と偏見』をテレビドラマ化して放映してすごい視聴率をとったことがあるのですが、この時にダーシーを演じて一躍人気俳優となったコリン・ファースが、映画版の『ブリジット・ジョーンズの日記』でも、やはりダーシー役を務めているんですね。ですからBBCテレビの『高慢と偏見』を見、かつ映画版の『ブリジット・ジョーンズの日記』を見た人であれば誰でも、ああ、『日記』は『高慢と偏見』の現代版なんだな、ということが即座に分かるようになっていたんです。 もちろん、『ブリジット・ジョーンズの日記』と『高慢と偏見』の共通点は、ヒーローの名前や、演じた役者の一致ばかりではありません。たとえば、『ブリジット・ジョーンズの日記』でヒロインが最初からダーシーに好意を抱いていたわけではなく、むしろ「嫌な奴」というふうに思っていたというところも、『高慢と偏見』の筋書きと共通します。また『ブリジット・ジョーンズの日記』にはダニエル・クリーヴァーという、表面的にはダーシーよりもカッコいい優男がいて、ブリジットは最初こちらの方に惹かれるわけですけれど、この辺のプロットもその原型は『高慢と偏見』にあって、こちらの場合にはジョージ・ウィカムというハンサムな男が、ベネット家の娘たち目当ての優男として登場します。で、どちらの場合もそれらの優男たちはヒロインの気を惹くため、ダーシーに対するいわれのない中傷を彼女の耳に注ぎ込むんですね。ま、『ブリジット・ジョーンズの日記』の場合、原作にはそういう場面はないのですが、映画版ではクリーヴァーがダーシーの悪口をブリジットに聞かせる場面がちゃんとある。 で、こうしたいわれなき中傷のためもあって、当初ダーシーはヒロインの目には醜い「蛙」として、あるいは「野獣」として映るわけです。要するにクリーヴァーだのウィカムだのというのは、ヒロインを害する魔法使いの役どころなんですな。しかしどちらのヒロインも、魔法によって醜い姿に変えられていたダーシーの真価を見抜くことで、彼を本来の王子様の姿に戻すことになる。どちらの小説も、ほぼ同じ形でロマンス小説に必須の「蛙の王様・美女と野獣」の要素を押さえているんです。 またロマンス小説における必須の条件として、「シンデレラ」の要素、すなわち「結婚によるヒロインの身分の上昇」という要素が、二つの小説の中でどのように扱われているか、という点について見ていきますと、『高慢と偏見』の場合、ダーシー家というのは、ヒロインの属するベネット家よりも明らかに上の階級という設定です。ダーシーがエリザベスを娶るに当たって悩んだのはまさにここ。彼は「高慢」であったがゆえに、下賤な家から嫁をもらうのはちょっと嫌だな、と思っていたんです。ですから、ヒーローもまたエリザベスとの恋愛を通じて自らの高慢さから抜け出し、人間的に成長するというところがある。ま、それはともかく、結果から言えばこの小説のヒロインのエリザベスは、ダーシーとの結婚によって一つ上の階級にステップアップすることになります。そういう形で、この小説はロマンス小説の条件を満たしているわけですね。 で、それなら『ブリジット・ジョーンズの日記』の中で、「結婚によるヒロインの身分の上昇」という要素がどのように描かれているかというと、さすがに現代イギリスの話ですから、家柄がどうの、身分がどうのという話にはなりません。そこで著者のヘレン・フィールディングは、ダーシーを一種のマザコン男に描くことにしたんですな。彼には母親という理想の女性像がある。つまりこの小説では、「理想の女性像としての母親」という高いハードルが、ヒーローとヒロインの間の階級差を象徴しているのです。ダーシーの母親とは似ても似つかぬ、ということはつまり「身分の低い」ブリジットは、それでもダーシーに恋人として選ばれることで、ダーシー家の女に、つまり「身分の高い」女になれた、ということになり、そこに象徴的な意味での「身分の上昇」が見られるわけ。というと、何だかこじつけみたいですが、要するに『高慢と偏見』の中でダーシーが「家柄」に固執するように、『ブリジット・ジョーンズの日記』におけるダーシーもまた「母親(=つまり自分の出身)」に固執するわけですよ。で、どちらの小説でも、最終的には、ヒーローのダーシーも、この点に関してはヒロインに妥協する。そういうことです。 とまあ、そんな感じで、『ブリジット・ジョーンズの日記』がはっきりと『高慢と偏見』を踏まえて書かれており、少なくともメインプロットに関して言えばどちらの小説もほぼ同じストーリー展開を示すということがお分かりいただけたのではないかと思います。つまり、推理小説のような文学ジャンルとは異なって、ロマンス小説のジャンルでは、大昔に使われたトリックを意識的に繰り返しても何ら差し支えないどころか、むしろそれが受ける、ということです。そしてそのことこそ、私がこの文の冒頭で述べたこと、すなわち、「ロマンス小説という文学ジャンルはマンネリでいいんだ」ということの、一つの証になっているのではないかと思うのです。『ブリジット・ジョーンズの日記』は、ロマンス小説の系譜という点から見ると、『高慢と偏見』という文学史上の傑作を踏まえた「正統派」、なんですね。 ちなみに、その「ロマンス小説の正統派」という点から見ますと、『ブリジット・ジョーンズの日記』には、もう一つ、面白いところがあります。実はこの小説の著者であるヘレン・フィールディングは、ヘンリー・フィールディングの末裔なんです。ヘンリー・フィールディング(1707-1754)というのはイギリスの小説家で、かのロマンス小説の祖たる『パミラ』をパロディにした小説、『シャミラ』を著した作家として知られている。どうもフィールディング家というのは、歴史に名だたるロマンス小説をパロディにしたり、焼き直したりするのが好きな家系らしいんですな。ちなみに、ヘンリー・フィールディングの代表作のタイトルは『トム・ジョーンズ』です。ヘレン・フィールディングの小説のヒロインであるブリジットの苗字がなぜ「ジョーンズ」なのかは、これで何となく分かりますよね。 とまあ、以上のようなことから考えてましても、ロマンス小説というのが偉大なるマンネリの産物であり、それゆえに、現代の作品が過去の作品と密接な関係を持つことが頻繁に行なわれている、ということが分かるのではないかと思います。 で、だからこそロマンス小説というのは、個々の作品を論じるより、ロマンス小説全体として捉え、相互の作品の中にあるその密接な関係性を論じていった方が面白いのだ、と、私は思うのですよ。私がロマンス小説史を書こうと思っている理由はそこにあります。 なーんて、ちょっと大風呂敷を広げてしまいましたが、『高慢と偏見』で19世紀初頭を、前回の『ジェイン・エア』で19世紀半ばを見てきましたので、次回は19世紀末から20世紀前半あたりにかけてのロマンス小説の方向性について考えていきたいと思います。乞うご期待です。 「お気楽日記」はまた夜更新しますね!
October 3, 2005
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久保田万太郎の俳句に「時計屋の時計 春の夜 どれがほんと」というのがあります。日常の風景の中にちょっとした発見をする、いかにも万太郎らしい句だなぁと思います。特に「春の夜」という中の句が効いていますね。 さて、唐突にこの句を思い出したのにはわけがありまして、実は今、我が家がまさにこの時計屋の状態なんです。つまり、今、正確に何時何分なのか、よく分からないんですね。 というのも、我が家の時計がどれもこれも曲者ばかりで、どんどん進んでしまうものがあるかと思えば、逆にどんどん遅れていくものもあるからなんです。で、一番せっかちな奴と一番のんびりな奴では、それこそ15分近い差がある。 たとえばリビングにある時計が6時を指しているとしましょう。その時、同じリビングにあるビデオレコーダーの時計は5時58分を指しています。私の部屋のステレオの時計は5時57分、私が普段使っている腕時計のうちの1本は、最近すっかりのんびりしていて、まだ5時52分ということになっている。ところが、玄関先に置いてある時計は6時2分、私の携帯電話の時計は6時3分、我が家で一番せっかちな台所にある給湯設備の時計は、何と6時7分を指しています。で、結局今何時何分なんだ? ま、多分、細かいことを気にする人だったら、こんな状態はあり得ないんでしょうね。 もちろん、我が家だって、多少は「不便だなあ」と思ってはいるんですよ。それでも何とか不都合なくやってきたのは、私の腕時計の1本(スウォッチのクオーツ時計なんですが) が比較的正確な時を刻んでいたためなんです。どうしても正確な時間が知りたい時は、これを見れば良かったわけ。ところがこの2、3日、頼りにしていたこのスウォッチが、電池切れのためか、急にのんびりし始めてしまった。このおかげで、今、我が家では、冒頭で述べた「どれがほんと?」という状態になってしまったんですね。 大学や会社などの組織だと、たった一人優秀な人材がいたために万事うまく行っていた部署が、その人材が抜けたために一挙にぼろぼろになってしまう、なんてことがよくありますが、我が家の「時間計測部」も、まさにそんな感じです。 ま、こんなことをブログに書いている間に、せめてスウォッチを時計屋に持って行って電池を入れ換えてもらえ、という話なんですが、そういうのは我が家流じゃないんだなぁ。こういう場合、釈迦楽家では、「ああ、困った、困った。一体、今何時なんだよ」という不便な状態をしばらくは楽しむわけ。私はあまり詳しくないのですが、こういう性癖は血液型O型の特色なんでしょうか? 我が家は私も家内もO型ですから・・・。 というわけで、曖昧な時間に囲まれたまま、我が家の秋の夜長は更けていくのでした。今日も、いい日だ。
October 2, 2005
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さて、前回までに書いてきたところで、ハーレクイン・ロマンスには様々な「おとぎ話」の要素が組み込まれているという話をし、特に「シンデレラ」と「蛙の王様」、そして「美女と野獣」という3つの伝説の要素が重要である、というようなことを述べました。 しかし、ロマンス小説におけるこのような側面は、何もハーレクイン・ロマンスに限らず、より文学的な作品、と言うと語弊があるかも知れませんが、一般に文学的価値が高いと思われている作品の中にも存在します。たとえば、イギリス19世紀に書かれたロマンス小説の傑作、『ジェイン・エア』(1847)なども、考えようによってはハーレクイン・ロマンスの構成と非常に似たところがある。 まずヒロインの設定ですが、ヒロインのジェイン・エアは幼い時に両親を失い、成り行きから血のつながりのない伯母に育てられるという不幸な出自を持っています。そしてその後、彼女は寄宿学校を出、ガヴァネス(住み込みの家庭教師)として自立するわけですが、その辺りの設定が実に「ハーレクイン・ロマンス的」だということは、この連載をお読み下さっている方には、もうお分かりでしょう。ジェインが強い正義感の持ち主であり、またちょっとのことではへこたれない元気な若い女性であるというところなんかも同じくハーレクイン・ロマンス的です。 その一方、ヒーロー役たるエドワード・ロチェスターは上流階級に属する壮年の大金持ち。つまり社会的地位の点でも、経済力の点でも、年齢の点でも、さらにはお互いが置かれた立場の上でも、ヒーローの方が圧倒的優位に立っているというところもまた、ハーレクイン・ロマンス的と言っていいでしょう。ただヒロインとヒーロー、共にルックス的にはあまりパッとしないところだけが、ハーレクイン・ロマンスとは少し違います。実はこの点は『ジェイン・エア』のオリジナリティーの在り処でして、美男美女が主役を張らないロマンス小説というのは、この作品以前にはほとんど存在しなかった。それだけに、作者であるシャーロット・ブロンテが何を思ってこのような設定にしたのか、ちょっと不思議なところですね。 ま、それはともかく、「雇い主と雇われ家庭教師」という縁で一つ屋根の下に住むようになったジェインとロチェスターは、やがて恋に落ちます。そりゃそうなってくれないと、話が始まりません。しかし、ここでジェインにとってショックだったのは、ロチェスターとの恋には障害がある、ということの発見でした。そうです、「ライバル女の登場」です。しかもそのライバル女、ロチェスターが正式に結婚した正妻だったというのだから、強敵どころの騒ぎではない。 ところが、実はこのライバル女、発狂した廃人だったんですね。ロチェスターは、かつて若かりし時、父と兄の策略によって、大金持ちではあるけれど、呪われた家系の娘と政略結婚させられていたんです。で、その娘と愛のない結婚生活を送っているうちに、案の定、彼女は発狂してしまった。そこでロチェスターは彼女を座敷牢に閉じ込め、自分もまた絶望やら良心の呵責やらで荒んだ生活をしていたわけ。そして、そんなこんなでロチェスターが「傷ついた野獣」と化していた時に、彼のもとへジェインがガヴァネスとしてやってきたと、まあ、そういうわけだったんですね。 もちろん、真実を知った正義感の強いジェインとしては、結婚どころではありません。彼女はロチェスターから離れる決意をし、一文無しの状態で家を飛び出します。そしてその後色々あって、ある清く正しく貧しい一家の知遇を得、その庇護を受けつつ、学校の教師の職につくことになる。曖昧な出自の持ち主だった彼女が、結局曖昧な地位に甘んじて、一生を終えることになりそうな勢いです。 しかし、そうしているうちに彼女の出自がはっきりしてくるんですね。で、それがまた驚いたことに、現在彼女が世話になっている一家、リヴァーズ家というのは、ジェインの母親の側でつながった親戚であり、しかもジェインには相当な額の遺産があったことが判明するわけ。 とまあそんなわけで、ジェインの地位は一夜にしてお金持ちのお嬢さんに格上げされ、しがない学校教師を続ける必要もなくなるのですが、一難去ってまた一難、今度はリヴァーズ家の一人息子、セント・ジョンから結婚の申し込みをされ、ジェインは窮地に追い込まれます。なぜそれが窮地かと言いますと、ジェインに結婚を申し込んだセント・ジョンは、熱狂的なキリスト教の布教者で、ジェインを娶ろうとしたのも、愛によってというよりは、外国に布教に赴くための便宜としてだったんですな。で、そのことを見抜いたジェインは、愛のない結婚は御免だとばかりこの求婚を断り、かつて自分を本当に愛してくれ、自分もその愛に応えようとしたロチェスターのところに戻ってみようと思うんです。 で、彼女がロチェスターのところに戻ってみると、これが一大事。例の発狂した妻の放火によりロチェスターの大邸宅は崩れ落ち、その際の怪我でロチェスターは失明、一方、彼の妻は自殺して死んでしまっていたのです。かくして立場逆転! 今度はすっかり無力になってしまったロチェスターを、ジェインが助けるようになるんですね。そして、先妻の死によって何の障害もなくなった二人は、素直に互いの愛情を受け入れることとなり、結婚します。そして、その二人の結婚を神が祝福してくれたのか、失明していたロチェスターの目が少しずつ回復し始める、というところでこのロマンスの幕は閉じます。 さて、このように『ジェイン・エア』の筋書きを述べていくと、結局これもまた「シンデレラ」+「蛙の王様」+「美女と野獣」のパターンで書かれたロマンスだということがお分かりになるのではないかと思います。貧しくけなげなヒロインがヒーローに選ばれるところは「シンデレラ」ですし、魔女(的な女性)によってヒーローの姿・人格が変えられてしまうというところは「蛙の王様」です。また野獣となったヒーローの元を逃げ去ったヒロインが、色々あってもう一度戻ってみたら、彼は死にかけていた、なんてところはほとんど「美女と野獣」そのもの。 要するに、ストーリー展開上のパターンだけ見れば、文学史上に残る名作も、ハーレクイン・ロマンスのような大衆的なロマンスも、さほど変わらないということなんですね。それから、これも忘れずに言っておかなくてはなりませんが、「ヒロインの視点からすべてのストーリーが語られる」というところなんかも、『ジェイン・エア』とハーレクイン・ロマンスは共通しています。 さて、では、これらのことを踏まえた上で、一体私は何が言いたいのか。 結局、私が言いたいのはですね、「ロマンス小説」というのが非常に特殊な文学ジャンルだ、ということなんです。つまり、「ロマンス小説」には「おとぎ話」に由来するような、ある明確なストーリー展開上のパターンがある。しかもこのパターンは、何度模倣してもあまり咎められない。ロマンス小説というのは、そういう文学だ、ということです。 別な言い方をするならば、ロマンス小説という文学ジャンルでは、「オリジナリティー」よりもこの「パターン」の方がよほど重要視される、ということです。いや、そういうと誤解されそうですので、次のように言い換えましょうか。「パターンを踏まえた上でオリジナリティーを発揮するのは構わないが、このパターンを踏まえない小説は、ロマンス小説とは見なされない」と。 本当にそうかな? と思われる方がいらっしゃいましたら、ロマンスっぽいところはあるけれど、このパターンを完全には踏襲していない小説を思い浮かべて見て下さい。で、その小説のことをよくよく考えて見て下さい。すると、多分、「うーん、やっぱりこれ、本質的にロマンスじゃないな」という気になってきますから。たとえば『ジェイン・エア』を書いたシャーロット・ブロンテの妹、エミリー・ブロンテの書いた『嵐が丘』なんてどうです? あるいは、これはアメリカ文学ですけど、マーガレット・ミッチェルの『風と共に去りぬ』は? ほーれ、よーく考えると、これらの小説は、何であれ、少なくとも「ロマンス小説」とは言えないな、という気がしてくるでしょう? しかし、ストーリー展開の上でここまで明確なパターンのある文学ジャンルって、そうあるもんじゃないですよ。たとえば、極端な例として「推理小説」という文学ジャンルのことを考えてみて下さい。「オリジナリティーよりパターンが重視される」なんてこと、多分、絶対に言えないと思います。そういうことを考えてみても、ロマンス小説というのは、かなり特殊な文学ジャンルだということが分かる。 で、だからこそ「ロマンス小説」という文学ジャンルだけが、「量産可能」な文学ジャンルなんですよ。ここが重要なんだなー。 おっと、ちょいと結論を先走り過ぎました。ま、今述べた最後の一言はもう少し棚上げにさせていただいておいて、この先もう少し、「ジャンル」の話をさせて下さい。それでは次回もまた、お楽しみに!
October 1, 2005
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昨日の「お気楽日記」に寄せられた皆さんからのコメントにお答えしているうちに、私の妄想は果てしなく広がってしまい、次々と様々な思いが浮かんでは消え、何とも収拾がつかなくなっておりますので、今日は私の夢たる「八ヶ岳ライフ」について、その妄想の一端を少し披露してしまいましょう。 私はこれで案外風水の勘があり、しかも日本中あちこち旅して回ったことがありますので、それらの諸経験から得られた結論として、自分が最終的にどこに住みたいか、ということについてかなり確固とした思いを持っています。そしてそれが八ヶ岳南麓なんですね。もう一つの案として「太平洋を臨む高台の家(多分静岡県内)」というのもあるのですが、風水面から言って「水」、とりわけ「大きな水」というのは私の思考面での成長にあまりよい影響を与えないのではないかという気がしているんです。 人は水とか水の流れというものが人間の心にもたらす影響についてあまり考慮しないようですが、水というのは妙に無常観を育てるもので、「努力をしても無駄だ」とか、「どうせなるようにしかならん」というような思いを助長するもんですよ。ですから、水辺というのは、粘り強く一つの問題を考え抜かなくてはならないというような職業の人が住むべき場所ではないんです。ほら、昔の修行僧だって皆、山に籠もるでしょ? 物書きもそれと同じなんですね。逆に何か悩み事を抱えている人が大河や海を見て癒されるということはあります。悩んだってしょうがない、どうせ一度の人生だ、当たって砕けろ、というような思いがプラスに作用するんですね。もっとも悩みが強すぎると、そのままドボン、なんてこともありますが。 というわけで、私の住処は「山」に決まったわけですが、それにしても私だって仙人になりたいわけじゃない。ばりばりのシティボーイ(?)たる私としては、時には都会に出ることも必要です。つまり都会からある程度は近くないとダメなんですね。ちなみに私にとって都会とは東京、または名古屋を意味するので、関西の諸都市は考慮のうちに入っていません。私は元来、関西方面とは極端に相性が悪いんです。ま、それはさておき、都会から近い山となると、候補は八ヶ岳南麓か箱根仙石原に絞られてくる。軽井沢という選択肢もありますが、あそこは私は小さい時からよく知っていて、人間の住処として考えた場合の弱点もよく知っているんです。つまり、湿気が多すぎるんですね。それに最近では野生の猿が多く出没して、そういう面での環境も悪化しています。え? 那須はどうか、ですって? うーん、どうかなあ。確かに那須には天皇の御用邸があったりして、場所的に悪いはずはない。でも、はっきりと原因が特定できませんが、私の風水的な勘が首を横に振らせるんですなあ。那須というと風水的には「黒」のイメージなんですね。つまり、戦の気、もしくは収縮の気です。それがいかんのかなあ。 で結局、候補として残るのは箱根仙石原と八ヶ岳南麓。これはどちらも魅力的です。ただ一つ、箱根は西に山があるんだなー。それはつまり、夕方が早く訪れることを意味するので、そこがちょっと、ね。山に住んで昼の時間が短いのは、寂しいもんですよ。その点八ヶ岳南麓だと山は北側にあり、山の方角としては最高です。 つまり、ここがいい、ということなんですね。 それに八ヶ岳南麓にはサントリーの白州蒸溜所があるでしょ。つまり水がいいってことですよ。これも重要な要素です。 しかも、これは昨日の「お気楽日記」のコメントにも若干書いたことですが、八ヶ岳南麓には別荘地が多い。甲斐大泉や小泉、清里、それからちょっと離れますが蓼科も遠くない。私は実はそういう別荘地に住みたいんです。 といって、なにも気取って「別荘族」になりたいと言っているわけじゃないんですよ。別荘地のいいところは、管理企業による管理態勢がしっかりしていること、そしてまたその帰結として、町内会的な自治組織の必要がなく、隣近所と無理やり近所付き合いをさせられることがないことです。私は町内会的な組織に有無をいわさず加入させられるのが嫌なんですね。隣組的な付き合いなんてまっぴら。個人の生活としては、友人とだけ付き合いたいんです。 ま、それはとにかく、八ヶ岳南麓の別荘地を買ったとしようじゃないですか。そうですね、やはり2区画・1000坪は欲しいかな。家はそんなに大きくなくていいですけど、庭は広い方がいい。もちろんそこは私の天性の風水の勘を働かせて、気持ちのいい土地を買うことにしましょう。特に重要なのは見晴らしですね。こいつばかりは後から付け足すことができませんから。 家の設計は私が自分でやります。もちろんプロと一緒にね。と言っても「プロの助けを借りて」ということではないですよ。プロの設計士なんて大抵ものを知らず、人間にとって住みやすい家とはどうあるべきか、なんてことについてあまり考えてないですから、私がプロの設計士を助けて、家の作り方を教えてやるんです。よく雑誌などでプロの設計士が作った家などを見ますけど、真四角な箱型で一方の壁が全面ガラス張り、なんてアホな家を作って得意気になっているんだもの。こんな連中に私の家は任せられませんって。 そうそう、別荘族向けの家というと、冬の寒さを考慮して薪ストーブなんかをリビングに据えつけちゃっているケースがよくあるでしょ? ああいうのは、薪ストーブの持つイメージにやられているだけですって。第一、薪ストーブって扱いが面倒ですよ。薪だって何年分かあらかじめ買っておいて乾燥させないと煙が出て叶わない。それに毎朝起きた途端に凍えながら薪に火をつけるなんて、大変です。そういうのは、都会暮らしの人の憧れかも知れないけど、実際にはねえ・・・。 ですから、私の作る家には薪ストーブなんか・・・ぜひ置きたいです。(ガク、ガクッ!) だって、いいじゃないですか、あれ、雰囲気があって。炎が見える暖房器具ほどステキなものはないですよ。それに最近のアメリカ、もしくは北欧製のストーブがいかに性能がいいか、ご存じですか? ただ、薪を鉄の箱で燃やしているわけじゃないんですよ。そういう薪ストーブだと薪の持つエネルギーの10%くらいしか利用できません。最新型のあちらのストーブは触媒を使った二重燃焼システムを採用していて、薪の持つエネルギーの70%くらいは利用しているはず。私はそういうことも研究しつくしていますからね。 そして薪ストーブと同様に必要なのが、大容量インターネット。こいつは欠かせない。 私が思うに、ブロードバンド・インターネットこそが、都会人の脱都会化を可能にした立役者です。これさえあれば欲しい書物も居ながらにして買えるし、その他のどんなものだって簡単に取り寄せられます。それにビジネスマンだって、私のような原稿書きだって、インターネットさえあれば、都会に住んでいる時と同等の仕事がこなせる。 それに、このブログを始めて分かったことですが、インターネットを利用することで、職業も年齢も住んでいる地域も異なった友人を作ることすらできる。山に籠もったから、人との付き合いが減ったなんてことは、もう過去のもの。こういう付き合いなら、私は大歓迎です。私の未来の八ヶ岳の家には、こういう友人たちが遊びに来てもいいように、ゲストルームを作っておきましょう。 やあ、こんな話をしていると、時間の経つのを忘れますなぁ!! さて、「お気楽日記」を読まれている皆さん。どうです、この私のアイディアは? ぜひぜひ「妄想族」の私と一緒に妄想を逞しくして、理想の住まいの話でもしようじゃないですか! それでは、この続きは、またいずれ!
October 1, 2005
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