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我が家では夕方に一度、そして11時過ぎにもう一度、お茶を飲む習慣があります。これは私が実家から持ち込んだ習慣で、飲むものはたいてい紅茶ですが、一緒に食べるものによってごくたまに日本茶になったり、珈琲になったりすることもある。そして夕方のお茶の時には、それなりにしっかりしたものを「おやつ」として食べます。 で、今日の「おやつ」は白玉でした。もちろん、出来合いのものを買ってきたのではなく、白玉粉から自分で作ったんですよ。 白玉を作るのは、ごく簡単です。まず白玉粉にほんの少しの砂糖を加え、それに水を加えて耳たぶの柔らかさになるまで練る。強いて言えばその時の水加減がちょっと難しいかな? ちょっと足りないかなー、と思うくらいが丁度いいので、油断して水を多くしてしまうと「耳たぶの柔らかさ」を越してしまって、また粉を足すことになってしまう。蕎麦を打つのと同じですね。 で、捏ねた白玉粉を、変なたとえですが「赤血球」の形に整えて沸騰したお湯に落とす。後は落とした白玉がお湯の表面に浮いてくれば中まで火が通った証拠です。そしてその茹で上がった白玉を冷水にとって冷し、後は器にもって小豆のアンコなどを添えるだけ。時にはこれに抹茶を振りかけたり、アイスクリームを添えたりして豪華版にすることもあります。これがうまいんだ! 白玉を自宅で作るという習慣は、私は母方の祖母から受け継ぎました。夏休みなど、祖父母の家に遊びに行く。と、うまい具合に祖父母の家のすぐ近くに市営プール(もちろん昔のことですから野天の奴)があって、まるで自分の家の庭にあるプールででもあるかのように、毎日昼から泳ぎにいくわけ。そして3時頃、泳ぎ疲れて帰ってくると、台所で祖母がこの白玉を作ってくれていたりするんですね。私なんぞは祖母がそういうものを「こさえて」くれるのを見るのが好きでしたから、脇で見ていてすぐ作り方を覚えてしまう。たまに粉を捏ねたり、団子を丸めたり、茹で上がった白玉を掬うのを手伝わせてもらったりしてね。沸騰したお湯の中で白玉がくるくる回りながら浮いてくるのが面白かったもんです。 ま、そんなわけで、私にとって白玉は、「母の味」ならぬ「祖母の味」であり、「田舎の味」であり、「夏休みの味」なんですね。今でも白玉を食べると、どこか記憶の奥の方から、夏草の草いきれとプールの消毒用カルキの匂いが漂ってくるような気がしますよ。 今日はそんな白玉を作って食べながら、8月最後の日をのんびりと過ごしていたのでした。今日も、いい日だ。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ さて、ここから先はロマンス談義の続きです。今日は、ミルズ&ブーン社が創業以来、最初の試練に直面する、というお話し。 昨日、ミルズ&ブーン社にとって一番のドル箱だったジャック・ロンドンの急逝によって、同社が打撃を受けたというお話しをしましたが、この打撃の影響は金銭的なものであるよりもむしろ精神的な打撃として、長く同社の経営陣にとってのトラウマとなりました。一人の専属流行作家が当該の出版社に大きな利益をもたらすことは言うまでもありませんが、その作家に頼り過ぎることがいかに危険なことであるか、ミルズ&ブーン社は身をもって体験したわけ。 しかし、ジャック・ロンドンの死という大打撃に襲われた1916年、ミルズ&ブーン社はさらに大きな危機に直面します。第一次世界大戦前夜の世界情勢の緊迫により、同社の経営責任を担ってきたジェラルド・ミルズ、チャールズ・ブーンが二人揃って兵隊にとられてしまったんですね。かくして以後同社の経営は3年間にわたってブーンの妹、マーガレット・ブーンが担うことになります。身寄りの少なかったミルズとは異なり、兄弟姉妹の多かったブーン家では、ほとんど一族郎党がこの出版社に勤めていて、マーガレットもオフィス・マネージャー兼校正係として同社で働いていた。それで彼女が臨時の経営責任者に選ばれたんですが、当時、まだ家族経営と言ってもいいような小規模な出版社であったミルズ&ブーンには、他に頼む人がいなかったんです。 しかし、結果から見ると、これが良くなかった。マーガレット・ブーンは、与えられた仕事をこなすことはできても、一つの出版社全体に目配りして、出版スケジュールを決めたり、在庫管理をしたり、ということができなかったんですな。しかも当時彼女は不倫の真っ只中で、仕事に専念できない事情もあった。しかもその不倫相手というのが、同社の専属作家の一人であったソフィー・コール(同社の記念すべき最初の出版物の著者)の義兄弟だった、というのだから事情は最悪。 かくして、徴兵を受けてから3年の後にミルズとブーンが社に戻ってみると、新刊の計画はめちゃくちゃ、在庫は100万部にまで膨れ上がっていることが判明。収益も激減し、1921年にはわずかに40ポンドの黒字しか計上できないまでになり、さらに1923年には2270ポンドの赤字を出すという有り様。周りの同業者は戦後の好景気に沸いているというのに、ミルズ&ブーン社は逆に極度の経営不振に陥ってしまいます。 しかもこれに追い打ちをかけたのが生産コストの上昇です。1914年から1921年までの7年間に、紙の値段や印刷費は倍、製本コストは3倍になり、これに伴って赤字と黒字の転換点もほぼ倍の2000部になってしまった。つまりどんな本であれ、それが2000部売れた段階でようやく出版社に収益が生まれ始めるということであって、これは弱小出版社にとってはかなりきつい数字です。 しかし、それでも何とかミルズ&ブーン社は持ち直し、1920年代後半には以前のレベルまで業績を回復します。まだ第一次世界大戦の爪痕が残るこの時代、他に大した娯楽もなかったこともあり、1920年代というのは世界的に見て読書ブームの時代だったんですね。ま、そんな追い風もあってか、同社の出版物の柱の一つである教育関係の出版物やノンフィクションにもヒット作が生まれ、それなりの収益を挙げるようになってきたし、もう一つの柱であり、また収益率の高い小説部門の方も出版点数が増えてきた。 で、その小説部門での稼ぎ頭となったのがルイーズ・ジラード、ジョアン・サザーランド、エリザベス・カーフレイ、デニース・ロビンズといった女性ロマンス作家たちでした。彼女たちの書くごく軽い娯楽的な小説というのが、1920年代のイギリスの国民嗜好に合っていたんですね。特に、海外を舞台にしてヒロインが冒険的なロマンスに身を委ねるという感じの小説を書き飛ばしたサザーランドと、病院内を舞台にした恋愛小説で名を挙げたジラードの作品は売れ行きも良く、こうしたいわゆる「エキゾティック・ロマンス」や「メディカル・ロマンス」が、ミルズ&ブーン社を代表する売り物になっていきます。 ところで、こういった「エキゾティック・ロマンス」や「メディカル・ロマンス」を愛読したのは、労働者階級の中層から上層にかけての人々でした。つまり1920年代の後半あたりから、少しずつミルズ&ブーン社の顧客層とその好みが見えてきたんですね。無論、当時のミルズ&ブーン社は自分たちのことを決してロマンス専門の出版社だというふうには思っていなかったのですが、とにかく数字だけ見れば、このあたりの階級の人々にミルズ&ブーン社の出版物が支持されていることは明らかだった。 しかも、明らかになったのはそれだけじゃなかったんです。彼ら、労働者階級の中層・上層の人々は、本を買うのではなく、「貸本屋」から借りて読んでいる、ということも同時に明らかになってきた。要するに、ミルズ&ブーン社のロマンスは、「貸本屋」で評判が良かったんですね。となれば、「貸本屋」の存在を、出版社としても無視できなくなってくるのは当然。かくして、1930年代を目前にしたミルズ&ブーン社は、次第に「貸本屋」をターゲットにした出版というものを心がけていくようになるんですな。 では、イギリスにおける貸本屋事情というのは、いかなるものだったのか。その辺のことについては、また後日ということにいたしましょう。それでは、今日はこの辺で!
August 31, 2005
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今日の我が家の夕食の食卓に、ついに秋の味覚、サンマが登場しました! いやー、私にとって秋の楽しみの一つがこれなんですな。ひょっとして焼き魚の中で一番好きかも。こいつが食卓に上がったが最後、ものも言わず、すっごく情熱的に食べてしまいます。で、お皿には頭と尻尾と両者をつなぐ背骨が一本残るだけで、後はみーんな食べちゃう。ほんと、漫画に出てくる「食べ終わった魚」そのもの。サンマは身もおいしいけど、わたもおいしいですからねー。うーん、満足、満足。 さて、今日の名古屋地方は朝からどんよりとした曇り空。午後には時折強い雨も降りました。予報によると今週はこんな感じの日が多いようですが、これが終わるとまた一段と秋の到来が明確に感じられるようになるんでしょうね。 ちなみに、私はこれで案外「夏男」でして、寒いのよりは暑い方が好き。ですから、少し前まで「夏の終わり」というのが嫌いでね。ま、10月とか11月とかになると少しは諦めがつくのですけど、9月が最悪。ま、夏休みが終わる月ということもありますが、とにかく9月を目の敵にしていたんです。 でもこの頃、歳のせいか、仲違いをしていた「夏の終わり」という季節と関係修復を果たしました。この2、3年というもの、9月だからといって「嫌だなぁ」という感じがなくなってきたんですね。秋の到来を待つ中途半端な季節にも、それなりの良さがあるということが、ようやく分かってきたといいましょうか・・・。 で、そんな話を同年代の友人たちにすると、皆、異口同音に「俺は最初から夏の暑いのより秋とか冬が好きだよ。9月、上等じゃん」って言うんですよね。なーんだ、そうなの? 「夏男」は私だけ? 気張って9月と喧嘩してたのは、私だけなんざんすか? ガクガク・・。(ちなみに、この「ガクガク」っていうのは、少し前から我が家のちょっとした流行語なんです。身振り付きです。肩から前につんのめるようにして、「ガクガク」って言ってみて下さい。ま、どうでもいいことですが・・・) ということで、何はともあれ、サンマに舌鼓を打ちつつ、目前に迫った9月の到来を控えめに楽しみにしているワタクシなのでした。今日も、いい日だ。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ さてここから先は、ロマンス小説談義の続きです。興味のある方はどうぞ! 昨日、創立直後のミルズ&ブーン社のドル箱となったのがアメリカ作家ジャック・ロンドンであった、というところまでお話ししました。それにしても、後に「ロマンス製造工場」として世界中の女性たちの心を掴むことになるミルズ&ブーン社と、アメリカ自然主義文学の流行作家ジャック・ロンドンという、一見共通点が少なそうな両者が一体どのような経緯で結びつくようになったのか。今日はその辺のことを少しお話ししましょう。 実は両社の関係は、1907年、ジャック・ロンドン代表作の一つである『白い牙』のイギリス版が、メシュイン社によって出版された時にまで遡ります。1907年といえば、ミルズとブーンの二人がメシュインを飛び出す前の年。ですからメシュイン社における小説部門を担当していたチャールズ・ブーンは、『白い牙』の出版に関しても大なり小なり携わっていたはずで、両者の関係はこの時点から既に始まっていたということも言える。 ところが、この『白い牙』の出版はメシュイン社にとって、苦い経験をもたらすことになってしまいました。というのも同社はこの作品をイギリス国内向けに出版・販売したばかりでなく、オーストラリア・ニュージーランド・カナダといった旧英国植民地でも販売してしまったのですが、実はこれらの地域での版権は、ジャック・ロンドンのアメリカにおける出版社であるマクミラン社が握っていたんですね。つまりメシュイン社は、意図したことではないとはいえ、マクミラン社の出版権をうっかり侵害してしまったわけ。 このためメシュイン社はこの件で若干のトラブルに巻き込まれることになりました。そしてその結果、メシュイン社は多額の違約金を支払う羽目に陥っています。もっとも、その代償としてオーストラリアとニュージーランドでの版権をマクミラン社から譲り受けることができたので、怪我の功名がまったくなかったわけでもないのですが。ま、そういう苦い経験によって最初から少しばかり味噌がついてしまったものの、ジャック・ロンドンのイギリス・オーストラリア・ニュージーランドにおける版権は、とりあえずメシュイン社のものとなった。 しかしメシュイン社とジャック・ロンドンとの契約は、結局のところ、あまり両者に益をもたらしませんでした。そしてその原因は、メシュイン社の創立社主であるアルジャーノン・メシュイン氏が、ジャック・ロンドンの作品を本質的に理解していなかったことにあったと言ってよいでしょう。 ご存じの方もいらっしゃると思いますが、ジャック・ロンドンという作家は19世紀末から20世紀初等にかけてアメリカに数多く登場した自然主義作家の一人です。で、そもそも自然主義というのは、人間を崇高な存在としてではなく、欲望や環境に振り回される脆いものとして捉える傾向がある。たとえば彼の代表作たる『荒野の呼び声』や『白い牙』にしても、前者は人に飼われていた犬が主人を亡くし、野に放たれたことで野生を取り戻していく話ですし、後者は逆に狼の血を引く野生の犬が人間の飼い主から愛情をかけられることで野生を失い、忠実な飼い犬になっていく話。要するに、人の人生なんて環境によって容易に左右されてしまうものだということを、「犬」にまつわる物語の形を借りながら描いたものなんですね。ですからジャック・ロンドンの書く動物小説はあくまで「寓話」なのであって、彼が本当に描こうとしているのは、運命に翻弄される人間の姿なんです。つまり、彼はジャンルとしての「動物小説」の書き手ではなかった。 ところがメシュイン社の社主にとってジャック・ロンドンとは、動物が主人公の面白い小説を書く作家であり、それ以外の彼の作品に興味も関心もなかったんですね。だからジャック・ロンドンに対しても次の「動物小説」を慫慂するばかりで、なかなか彼の思うような出版をしてくれなかった。そこでこうした状況に不満を持ったジャック・ロンドンは、メシュイン社との契約を早々と打ち切り、イギリスにおける彼の作品の出版をハイネマン社という別の出版社に託してしまうんですね。 しかし、彼はハイネマン社との契約にも満足できなかった。というのも、この出版社は出版のペースが遅すぎたんです。何しろジャック・ロンドンという人は、わずか40年の生涯のうちに50作もの長編小説を書き、この他にも多くの戯曲やエッセイを世に出した多作な作家でしたから、そんな彼にとってハイネマン社の遅々として進まぬ出版ペースはなんとも歯痒くて仕方がない。彼としては、彼が書くそばから出版してくれるような、機動力のある出版社と契約したかったんですね。 で、そんな機動力のある出版社を探していたジャック・ロンドンのエージェント、ヒューズ・マシー氏の目に留まったのが、ミルズ&ブーンだったんです。かくして、1911年9月、ジャック・ロンドンは同社と契約を結び、最初の作品として『神が笑う時』という作品を出版します。契約の内容も豪勢なもので、100ポンドの前払い、5000部までは20%の印税、それ以降は25%の印税というのですから、この点でも文句なし。しかもメシュイン社とは異なって、ミルズ&ブーン社はジャック・ロンドンの作品ならどんなものでも喜んで出版を引き受けた。実際、最終的には36点のジャック・ロンドンの小説をイギリス・オーストラリア・ニュージーランドで出版しています。しかもこれらは皆、相当に版を重ねることになったのですから、この契約はジャック・ロンドンとミルズ&ブーン社の双方にとって、実りの多いものでした。とりわけ、創立からまだ間がなく、有力な作家とのコネクションがなかったミルズ&ブーン社にとって、流行作家ジャック・ロンドンとの契約は非常に大きな意味があったことは確か。 ところが、そんな相互互恵的な関係にも、やがて終止符が打たれることとなります。両者の契約が結ばれてからわずか5年にして、ジャック・ロンドンが40歳の若さで世を去ってしまったんですね。これはミルズ&ブーンのような弱小出版社にとっては、なんとも大きな打撃でした。そしてドル箱と頼んだジャック・ロンドンを失ったミルズ&ブーン社は、この後さらに第1次世界大戦というもう一つの試練を迎え、一時的に経営上の危機を迎えることになります。 そして、これら一連の存亡の危機の中から同社が学んだのは、「一人の流行作家に頼ってはいけない」ということでした。「有名な一人の作家」よりも、「大勢の無名作家」に頼った方が、安定した経営をすることができる。そして、この教訓をもとに同社が目をつけたのが、「ロマンスを書く大勢の無名女性作家たち」だったのです。 この続きは、また後日!
August 30, 2005
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今日は夕方から買い物に星ケ丘というところに出かけました。ここには三越デパートや、星ケ丘テラスというショッピングモールがあるんです。 今日の目的は三越の中に入っている「レピシエ」(もうすぐ名前が変わって「ルピシア」になるらしいですが)という紅茶のお店で紅茶を買うこと、それから『モンテ・クリスト伯』の第6巻を買うことです。 で、ようやく買いましたよ、第6巻。これでようやく続きが読める。それから紅茶も買えました。我が家では普段はティーバッグで済ませてしまうのですが、週末など、ここぞという時は茶葉から紅茶を淹れて楽しむことにしているのです。今日買ったお茶はアフリカはケニア産の「マシンギ」というお茶と「イメンティ」というお茶。ケニアはインド・セイロンにつぐ世界第3位の紅茶生産国なんだそうですが、今までケニアの紅茶を飲んだことがなかったもので、試してみようと思いまして。またこれらと共に、フレーバーティーとして「ライチ」というのも買ってみました。これはライチのフレーバーですから、アイスティーなんかにしてもいいかも知れませんね。どれも、ちょっと楽しみです。 そしてその後、スターバックスでお茶をし、星ケ丘テラスの「ギャップ」を見たりしていたのですが、今日はたまたま星ケ丘テラスの特設会場で自転車の販売をしているということで、つい見に行ったのが運の尽き。前から欲しいと思っていた折り畳み自転車のいいのが売っているじゃないですか! で、色々と試乗させてもらった挙げ句、結局ローバー社のFDB16(私のフリーページ「教授のガレージ・パート3」でも扱っているもの)というモデルを買ってしまいましたよ。完全に衝動買い。色はブリティッシュ・グリーン、6段変速付きです。実は以前、ブログ仲間のマイクさんから一台折り畳み自転車をいただいていたのですが、これで2台揃ったので、これからは2台連ねて近所への買い物や遊びに使うことができるようになります。これから秋になって少し涼しくなってきたら、ぜひフォールディングバイクでのツーリングを楽しみたいです。 ということで、今日は思わぬ買い物デーになってしまいました。少し贅沢だったかも知れませんが、たまには浪費の楽しみもないと、ね。と自分に言い聞かせて、さあ、これから仕事です!・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ さて、ここから先は「ロマンス小説」にまつわるお話しの続きです。 昨日、カナダのハーレクイン社の創立経緯、およびイギリスのミルズ&ブーン社の相互関係についてお話ししましたが、今日はミルズ&ブーン社の創立経緯について一席。 「ミルズ&ブーン」という出版社は、1908年、ジェラルド・ミルズとチャールズ・ブーンという二人の人物によって創立されました。ハーレクイン社が出版業界での経験がほとんどない素人の手によって創立されたのとは異なり、ジェラルド・ミルズもチャールズ・ブーンももともと「メシュイン」という名の有名な出版社に勤務していた業界人です。ミルズの方は教育関係の本、ブーンの方は小説などの担当ですが、どちらも有能な出版人で、メシュイン社でもそれなりの地位を得ていた。ちなみに二人を比べるとミルズはお金持ちの家柄でケンブリッジ大出身、一方のブーンは貧しい農家に生まれ、12歳で教育を終えた後、16歳でメシュインに就職し、オフィス・ボーイから始めてセールス・マネージャー兼ゼネラル・マネージャーに出世した叩き上げです。 ではなぜそんな二人が敢えてメシュイン社を出て、新たに出版社を興そうと考えたかと言いますと、一つには給料の点で不満があったため。もっとも、先程も言いましたように、実際には二人はかなりの高給取りで、ミルズが500ポンド、ブーンが400ポンドの年収があった。これは当時として決して悪い給料ではありません。オフィス・ボーイからキャリアを始めたブーンにしても、この時期までには持ち家を持ち、お手伝いさんも雇えるほどの生活をしていた。しかし、それでも彼らとしてはもらっている給料以上に社に貢献している、という思いがあったんですな。 また報酬に関する不満に加えて、もう一つ二人が独立を目指すにあたってのモチベーションとなったのは、20世紀初頭のこの時期、イギリスで出版業界に好況の波が押し寄せていたことです。イギリスではこの頃、義務教育の普及によって識字率が上昇し、本に対する潜在的な需要が上がっていたんですね。ですから、当時イギリスでは本の出版が盛んになり、新しい出版社が次々に生まれていた。ですから野心のある出版人なら、このあたりで一旗あげようという気になったとしても、決しておかしくない。 とまあそんなわけで、まさにその野心満々の二人は、1908年、コベントガーデンのウィットコムストリート49番というところにオフィスを構え、ミルズ&ブーン社を創立します。資本金は1000ポンド、そのすべてはミルズ側が出しました。だから、「ブーン&ミルズ」ではなく「ミルズ&ブーン」になったのだ、という説がありますが、信憑性についてはよく分かりません。 で、翌年の3月、二人はミルズ&ブーン社の最初の出版物を世に問います。それはソフィー・コールという女性作家による『Arrow from the Dark』という本で、もうコテコテのロマンス。しかしこれは単なる偶然で、創立当初のミルズ&ブーン社では特にロマンスに力を入れていたわけではありません。一般の小説・政治論・ユーモア・健康・育児・料理・旅行などいかなる種類の本でも選り好みせず出版していたようです。ただ、創立当初から単一の装丁、単一の定価で売り出すということはしていたらしい。つまり「叢書」としての形を最初から取っていたんですね。これはその後のこの出版社の行く末を考えた時、なかなか興味深い問題です。「叢書」というのは、そもそも個々の本のタイトルや著者の名前よりも出版社のネームバリューで本を売る戦略であり、後にミルズ&ブーン社に成功をもたらすことになる販売戦略を、創立当初から意識していたのではないかと思わせるフシがあるからです。しかし、この問題に関してはまた後に述べることといたしましょう。 さて、こんな感じでイギリス出版業界に新たな船出をしたミルズ&ブーン社ですが、その後 Laughter Library (ユーモア叢書)や Thrilling Adventure Library(サスペンス叢書)、あるいはNovels of the Plays(芝居のノベライズ叢書)といった各種叢書でそこそこの成功を収めた後、これらよりももっと大きな成功を同社にもたらすことになる、ある人気作家との契約にこぎ着けます。その人気作家の名は、ジャック・ロンドン。日本でも『荒野の呼び声』や『白い牙』などで有名な作家です。意外なことに、ミルズ&ブーンの最初のドル箱作家は、イギリス人ではなくアメリカ人の作家だったんですね。 ではなぜ当時のアメリカの売れっ子作家が、ミルズ&ブーンなどという新興の弱小出版社から小説を出すことになったのか。その辺についてはまた今度お話しいたしましょう。それでは、今日はこの辺で。
August 29, 2005
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昨夜は夜の9時から友人ご夫妻と中国茶専門の喫茶店で深夜のおしゃべりを楽しんできました。 この喫茶店、家から車でほんの5分ほどのところにある「碧落」というお店です。住宅地の中にあるのですが、付近はまだ造成地のような状態で他に建物もなく、そんな何もないところに忽然とモダンな佇まいの中国茶の専門店が姿を現すのですから、なんかちょっと不思議な感じ。前にこのあたりを散歩していた時に見つけ、気になっていたのですが、昨夜、ついに初見参となったわけ。驚いたことにこの店は夜中の3時まで営業していますので、夜遅く語らいのひと時を持つにはうってつけの場所です。 この土地自体がかなり小高いところにありますし、また周囲にはほとんど建物がありませんから、お店の窓からは周辺の町の灯が一望できるようになっている。店内はしっとりとした照明が用いられているので、なかなか雰囲気のある落ち着いた大人の空間という感じかな。週末最後の夜ということもあってか、9時過ぎだというのにほぼ満席。ま、もともとそんなに大人数が入れるお店ではありませんが。 で、このお店のメニューは完全に中国茶のみ。種類は、そうですね、30種類ほどはあるでしょうか。安いもので1300円ほど、高いもので1800円くらいかな? これだけでもお菓子つきですが、300円足すと7種くらいのスイーツがつく豪華版になります。 で、お茶は中国風の茶道の道具一式と共に運ばれてきて、初めての場合はお店の方がお茶の淹れ方を指導してくださいます。中国風の小さな急須をまず熱湯で温め、そこに茶葉を入れて溢れるまでお湯を注ぎ、蓋をしてさらに急須に熱湯を回しかけて温め・・・というような奴ですね。しかも、お茶そのものを飲む前に、香りだけを楽しむプロセスがあったりして。私はこういうのを初めて体験ましたが、先生の手順を一生懸命真似る小学生みたいな感じで、お茶を入れる儀式そのものが楽しかった。 ちなみに私が飲んだお茶は、「蜜の味にも似た芳醇な香りと味」みたいなものでしたが、確かに「蜜の味」というのは当たっていましたね。決してお茶そのものは甘くなく、むしろ苦いくらいなものですが、一口飲んだ時の風味がまるで蜂蜜のようで、またお茶を飲んだ後、口の中に残る味にも蜜のような甘味がある。いや、なかなかおいしいお茶でしたね。4人、それぞれ別のお茶を頼み、それぞれおいしかったですが、友人の奥様が注文なさった「マスカットの風味」のお茶もおいしかった。 で、また、お茶とともにいただいたスイーツが面白かった。たとえば「トマトの甘煮ゼリー寄せ」とか、「生姜のシャーベット」なんて、ちょっと食べたことがない味でおいしかった。また「杏仁豆腐」もついてきたのですが、これが今まで食べたことのないようなもっちりとしたもので、一体どうやって作ったのか? と思わせるようなおいしさでした。このお店で出されるお菓子はすべて自家製なのだそうです。とにかく、お店の立地といい、また中国茶専門店であることといい、お菓子がおいしいことといい、「大人が夜、遊べるお店」としておすすめです。お店のホームページがありますので、興味のある方は検索エンジンに「日進市 碧落」と打ち込んで見て下さい。 ところで、昨夜お会いした友人ご夫妻というのは、私の家の近所でギャラリーを開いていらっしゃいます。正確には、ギャラリーを開いているのは奥様の方で、ご主人は会社勤めをなさっているのですけどね。で、このギャラリー、そんなに大きなものではないのですが毎回趣味のいい展示をなさっていて、私も何度か絵を買わせていただき、そんなことが縁で今では夫婦そろってお付き合いさせていただいています。ギャラリーを開いている奥様も面白い方ですが、ご主人も相当ユニークな方でね。しかも、そういうユニークなご夫妻のまわりに集まってくるご友人の方たちやアーチストの方たちがまたそれぞれ面白い方ばかりで、このギャラリーに出入りするようになって私もお付き合いの幅が随分広がりました。 で、このご夫妻、少し前にトルコのイスタンブールにご旅行されたのですが、以前からそのご旅行の顛末を伺うお約束になっていたんですね。で、そのこともあって、昨夜の深夜の茶会が催されたわけ。 で、そのイスタンブールのお話しですが、まずそこへ到着するまでの話からしておかしかった。ご夫妻はエアロフロート機で、モスクワ経由でイスタンブール入りされたのですが、このエアロフロートというのがまたいかにもロシアっぽい飛行機で、座席のリクライニングはしない、行きも帰りも「今日はテレビが壊れているから」という理由で映画の上映がない、飲み物のサービスもない、という到れり尽くせりの飛行機だったとか。またトランジットで数時間を過ごしたモスクワの空港が暗く、ベンチの数も少なく、その少ないベンチを多くの人が狙っているので、一度座ったらもう二度と立てないとか。まあそんな話から始まって抱腹絶倒の珍道中の話が続きます。 しかし、イスタンブールそのものは、予想していたよりもよほどきれいな、安全な町だったとのこと。写真も随分見せていただきましたが、確かにきれいなところです。特にモスクを始め、町のいたるところを飾るモザイクの美しさは凄い! またトルコ料理もお店を選べば、かなり安くおいしいのが食べられるのだとか。 それからトルコの子供たちとの交流の話も面白かった。あるところで向こうの小学生たちに囲まれてしまったのですが、彼らはご夫妻が日本人だと知って興味津々で、言葉が通じるかどうかなんてことはまるでお構いなしに話かけてくるのだそうです。しかも、ませた男の子はさっと野の花を摘んできて、奥様に差し出したり。その子供たちの写真も見せていただきましたが、まあホントに子供らしい、無邪気な可愛い笑顔ばかりで、こんな子供たちに会えるなら、私もそこに行ってみたいなと思ったほどでした。トルコというのは昔から親日だとは聞いていましたが、本当なんですね。日本もそういう親日の国と、もっと交流を深めればいいのに。 とまあ、そんな感じで、夜9時から深夜12時過ぎまで、「碧落」の中国茶を楽しみつつ、愉快なお話しを堪能することができたのでした。私よりも若干年長のご夫妻を友人と呼ばせていただくことが許されるのなら、いい友人を持ち、いいお店を知っているというのは、これは人生における醍醐味の一つですね。今日も、いい日だ。じゃなくて、昨夜もいい夜だった。 さて、ここ数日連載しているロマンス小説談義については、また夜にでも再度更新します。ではまた後ほど!
August 29, 2005
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以前、この「お気楽日記」にも記した通り、この夏の目標の一つとして、私は『モンテ・クリスト伯』(岩波文庫・全7巻)を読破するということを挙げておきました。そして現在5巻目を読み終わり、6巻目に突入というところまで来ています。 それにしても、面白いですわ、この大河ロマン!! 「この先、一体どうなるんだ!?」というワクワク感でページを繰るのももどかしく、先へ先へと読み進めています。こんなエキサイティングな読書体験は、ホント久しぶりのことです。何で今までこんな面白いものを敬遠していたのだろう。 『モンテ・クリスト伯』というのは有名な話ですから、ご存じの方は多いと思いますが、これは若い船乗りエドモン・ダンテスの数奇なる運命を描いた一大伝奇小説なんですね。ダンテスは有能な船乗りとして将来を嘱望され、また恋人との結婚も控えてまさに順風満帆の人生を歩んでいた。ところが彼が乗り組んでいた船の船長が航海中に亡くなり、その死に際の頼みとして、エルバ島に流されていたナポレオンからある手紙をフランス本国へ運ぶ仕事を、一等航海士だったダンテスは依頼されてしまう。しかし、実はこの手紙には、既に王政復古がなされていたフランスに再度帝政を復活させるための陰謀計画が示されていたんですな。もちろん若いダンテスにはその手紙が何を意味するのか分かりませんから、ただ船長の遺言であるという理由だけで、その使命を果たす決意をします。 ところが、あまりにも順風満帆な人生を謳歌していたダンテスを恨む人たちが、一つ彼をちょいと苦しめてやろうと、手紙の一件を当局に密告するんですな。悪い奴らが居たもんです。で、この密告により、ダンテスは官憲の手に捉えられ、手紙も押収され、ナポレオン帝政復活の陰謀に係わったとして逮捕されてしまう。しかも運の悪いことに、彼を取り調べた検事の父親が熱烈なナポレオン支持派で、実際、帝政復活の陰謀に絡んでいたんですね。で、ダンテスがフランスに持ち込んだエルバ島からの手紙が裁判で明らかになると、検事の父親の陰謀も曝露されることになってしまう。そこでこのことを悟った検事は、この事件そのものをもみ消すため、秘密裏にダンテスを海上の孤島に置かれた監獄に投獄してしまうんです。かくして、ダンテスはまったくわけも分からぬまま、自分の結婚式当日に捉えられ、公の裁判すら受けられず、十数年にわたって監獄島の独房に幽閉されるという悲惨な運命を迎えることになる。 で、この先、物語は、これまた数奇な運命の巡り合わせでこの監獄島を脱出し、しかも巨万の財産を得ることになったダンテスが、かつて自分を陥れた人たちにいかに復讐していくか、という話になっていきます。しかも復讐と言ったって、単に殺す、なんてもんじゃないですよ。自分が味わった十数年の恐るべき苦悩と絶望の代償として、単に命を奪うくらいでは到底もの足りないと思っているエドモン・ダンテスの復讐ですから、これがまた凄いんだ・・・。もっとも私はまだ最後までこの小説を読み切っていないので、それがどのくらい凄いか分からないんですけど、途中まで読んだだけでも凄い復讐になりそうだ、ということは分かります。まあ、とにかく面白いですよ。残るは6巻と7巻ですけど、早くこれを読み上げてしまいたい・・・。 ところがです! ここで思っても見なかった問題が一つ生じてきたのです! まさにエドモン・ダンテスを襲った悲劇にも似た悲劇が、私にも襲いかかったというべきか! 実は私はこの本を読むにあたり、最初から7巻全部買わないで、1巻読み終わる度に書店に次の巻を買いに行くというようなやり方で読んでいたんです。なんかその方が充実感があるかな、と・・。で、実家に居た間はそれで何の不都合もなかった。ところが名古屋に戻って5巻目を読み終わり、さあ次の6巻目を買いに行こうと思ったら、近所の書店に売っていないんですよ、『モンテ・クリスト伯』が! というか、そもそも岩波文庫を売っている書店が近所にない! 嘘だろ!! そんなはずは・・と思いながら、私も書店を回りましたよ、2件、3件と。でもどこにも売っていない。で、あちこち回ってついに一軒だけ岩波文庫を置いてある店を捜し当て、やれ嬉しやと思ったら・・・何と、何とですよ、『モンテ・クリスト伯』の1巻から7巻のうち、ちょうど6巻だけ売れてしまっていて在庫がなかったんです。そんな、馬鹿な! これは何かの陰謀か!? 私の読書のヨロコビを妬む輩が居て、そいつが私を陥れようとしているのか!? それにしても岩波文庫って、なんで置いてない書店が多いんでしょうか。書店から毛嫌いされるほど、それほど売れないものなのかなぁ・・・。 かつて「岩波文化人」という言葉があったように、岩波書店から本を出す人たち、あるいは岩波書店の本を愛読する人たちというのは、自ら「文化人」としての自負を持っていた。恥ずかしながら私なんかもその端くれで、中高生の頃は岩波文庫や岩波新書を読んで、自分に足りない教養を身につけようと思ったもんですけど、今、そういう崇高な志を持つ人なんかいないのかな? それにしても、露骨に岩波文庫だけ置いていない書店がこう多いと、名古屋の文化人人口の先行きが危ぶまれます。 ま、それはともかく、どうしたもんですかね、第6巻問題。もちろん今、どんな本だってインターネットで買おうと思えば買えますけど、それだと本が届くのに数日はかかるしなあ。 ということで、『モンテ・クリスト伯』の6巻目が買えず、エドモン・ダンテスの復讐劇も頓挫しかけて、なんとも歯痒い私なのでした。今日も、わけ分からん! 閑話休題。 今日はまだまだ続きますよ、この日記。でも、ここから先は昨日の続きなので、興味のない方は飛ばして下さい。 さて、昨日の話で、ハーレクイン・ロマンスというのが、イギリスを舞台にしたブリティッシュ・ロマンスである、ということを言いました。つまりカナダはもとより、アメリカ、フランス、ドイツ、日本、中国など、世界中のハーレクイン・ロマンスファンの女性たちは、イギリス人のヒロイン・ヒーローが恋に落ちるロマンスを読んでいるわけ。ちょっと変でしょ? でも、それはある意味当然なのです。なぜなら、ハーレクイン社自体はカナダの出版社ですが、同社の出版物の編集をしているのはイギリスにある「ミルズ&ブーン」という出版社だからです。つまり、ハーレクイン・ロマンスというのは、実はカナダのハーレクイン社とイギリスのミルズ&ブーン社という二つの出版社の共同作品なんですな。しかし、一体なぜそんな面倒くさい手続きが、大西洋を間に挟んで行なわれているのか。 ことの起こりは、カナダ側から始まっています。1949年のこと、カナダはマニトバ州にあるウィニペグという町で「ハーレクイン」という名の出版社が興されました。会社を作ったのはリチャード・ボニーキャッスルという地元の名士。ま、この人、実は出版のことなんかあまりよく分かっていなかったんですが、当時カナダではアメリカで出版された安価なペーパーバック(日本の文庫本にあたる、安価な紙表紙の再刊本)が一種のブームになっていて、そういう本が盛んに輸入され、売られていた。で、たまたまボニーキャッスル氏の知り合いにその手のアメリカ製ペーパーバックを配送する仕事をしていた人が居て、その人から儲かるからペーパーバックの出版をやってごらん、と勧められたわけ。 で、人のいいボニーキャッスル氏は勧められるままに出版社を興し、「ハーレクイン」(=道化師)なんて洒落た名前を付け、既存の探偵小説やミステリーなんかをペーパーバックの再刊本として出版してみたのですけど、これが実際やってみると言われたほど儲かるもんでもない。そこでボニーキャッスル氏は早くもこの新事業に身が入らなくなってしまいます。この人、実は「極地探検家」を自ら名乗るほどの冒険好きで、事務所にこもって自社の本の売れ行きを気にしたり、金勘定したりするのにはもともと向いてなかったんですな。 ところが、この人の奥さんのメアリーという人がしっかり者だった、というところから、話は俄然変わってきます。メアリーさん、自分の亭主のやっている出版社の帳簿をちょいと覗いてみて、まあ全体的にあんまり売れていないけれど、ロマンス小説だけは比較的売れ行きが良くて、あまり返本がないことに気づくわけ。で、夫に「いっそロマンス小説ばっかり売ってみたら」と進言する。言われたボニーキャッスル氏の方は、そんならお前頼むよ、善きに計らってくれ、ってなことを言うばかり。そこでメアリーは、夫の秘書だったルース・パーマー女史と協力して自社出版物選定の主導権を握るようになる。 ところでハーレクイン社というのは、既存の本(ハードカバー)をペーパーバックとして再刊する再刊本専門の出版社ですから、何を出版するかを決めると言ったって、別に作家に執筆を依頼したりするわけではありません。図書館に行って面白そうな本を探し出し、その本の出版元と交渉して、再刊本を出す契約を結ぶだけ。そこでまずルースが地元の図書館に行って面白そうなロマンスを次から次へと借り出して読み、その中で気に入ったものがあればメアリーに推薦する。そしてそれを今度はメアリーが読んでみて、やっぱり面白いということになったら出版元と交渉して再版権を獲得する・・・と、まあそんなような一種の流れ作業が始まります。 ま、かくして、ハーレクイン社の命運はメアリーとルースという二人の中年女性の選択眼に掛かることになった次第なんですけど、これがまたうまいことに、この二人のロマンス小説の好みというのは大体共通していたんですね。つまり、露骨なシーンが一切なく、濡れ場といえばわずかに最後の方にキスシーンが1回、二人が結婚を決意する時に限る、といったようなものが二人の好みだったわけ。もちろん不倫とか婚前交渉とか、そういうのは一切なーし! しかも小説の最後の最後でヒロインとヒーローが互いの愛を確かめ合い、婚約をして、ハッピーエンドで終わる、というのが必須条件。つまり「上品で、ハッピーエンド」なロマンスが二人の好みだったんですな。 で、そんな感じのロマンスを見つけて、再刊本を作るための交渉をしようと思うと、それがたいていイギリスの「ミルズ&ブーン社」が出しているロマンスであることが分かる。つまりミルズ&ブーン社の出すロマンスは、メアリーとルースの好みのど真ん中を突いていたわけ。 そこで、それだったらいっそミルズ&ブーン社と専属契約を結んでしまって、同社がイギリスで刊行したロマンス本をカナダに持ってきてペーパーバック化し、それをハーレクインの本として売り出してしまえば話は簡単ではないか、ということになるのは、当然予想される成り行きです。 というわけで1957年、イギリスのミルズ&ブーン社とカナダのハーレクイン社は互いに「紳士協定」を結び、イギリス生まれのロマンスをカナダでペーパーバック化するという、先に述べたような業務提携を始めることになります。ちなみにこの「紳士協定」というのは、毎年1回両社の首脳陣が昼食会をもって、次の年もまたお互いに協力していきましょう、という口約束をするというものです。ま、お互いにあまり縛られたくなかったのでしょうな。 で、ここからロマンス専門のペーパーバック・リプリントたる「ハーレクイン・ロマンス」の快進撃が始まるわけですが、その辺りのことについては私は既にあちこちで書いていますので、ここではおきます。今、私が書きつつあるのは、むしろイギリス側、つまり「ミルズ&ブーン」側の歴史の方なんですね。で、その辺のことについて、この先もう少しお話ししたいのですが、さすがに長くなりましたので、ここで一旦筆をおきましょう。続きは、また後日。お楽しみにー!
August 28, 2005
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今日は、珍しく割と勤勉に論文を書いていました。たまにはそういう日もないと、自分の職業が何だったか忘れてしまいますからね。 ところで、今私が書いているのは、女性向けロマンスについての論文なんです。もっと具体的に言いますと、「恋は本屋さんで売っている」のキャッチコピーでお馴染み、ハーレクイン・ロマンスについての論文。ハーレクイン・ロマンスなるものを一度でもお読みになったことがある方ならご存じと思いますが、まあ、コッテコテのロマンスですな。ヒロインとヒーローがあるきっかけで出会って互いに一目で惹かれあうものの、その後は誤解とすれ違いの連続で、会えば派手な口論や喧嘩ばかり。本当は互いに愛し合っているのに、二人ともなかなか素直になれない。しかもそこへもってきて、ヒーローの持つ莫大な財産を狙う絶世の美女が彼にモーションをかけたりなんかするので、ことは余計複雑に・・・。読者としては二人の恋の行方にやきもきさせられっぱなしです。しかし、そんなじれったいすったもんだの末、横槍を入れてきた美女の悪巧みは曝露され、ヒロインとヒーローの間に横たわっていたすべての誤解はウソのように氷解。かくして読んでいるこちらが赤面するような熱いセリフでもって主役の二人は互いへの愛情を吐露し合い、めでたく婚約が整ったところで物語の幕が降りる。ハーレクイン・ロマンスっていうのは、ま、ざっとこんな感じのロマンスですわ。 で、もちろん、こんな感じのいかにも商業的なロマンスですから、当然、文学的にはほとんど価値がないと思われていて、まともな文学研究者ならハーレクイン・ロマンスなんぞ端から相手にしていません。ま、そりゃそうでしょう。普通に考えれば、文学の命は「オリジナリティー」にこそあるんですから。ハーレクイン・ロマンスみたいに、どれを読んでも皆同じのコテコテ・ロマンスなんて、これはもう完全に女性が家事の合間に、あるいは仕事の後で密かに楽しむためのものであって、大の男が読むものではない。実際、ハーレクイン・ロマンスの読者の99%以上は女性です。また、その女性読者にしたって娯楽のためにこれを読んでいるのであって、別に精神的な糧を求めて読んでいるわけではないんですから。そんなモン、文学研究の対象になるわけはない・・・。 しかし、にもかかわらず、私はここ最近、この見捨てられたコテコテ・ロマンスについて、かなりまじめな論文を書き続けているんです。それはなぜかと言いますと・・・ 私が「まともな文学研究者」じゃないからでーす! 人がやらないことをやる。人と反対の道を行く。「奇抜」こそ我が名、「異端」こそ我が称号。それがワタクシ、釈迦楽なのです! ガーン!! ・・・あ、皆さん、引かないで・・・。戻ってきて・・・ ま、それはともかく、たしかに酔狂とはいえ、しかし実際に調べてみるとこのハーレクイン・ロマンス、その成り立ちがとても面白いんです。へぇー! っと思わされることが多々ある。 そもそも、ハーレクイン・ロマンスの出版元である「ハーレクイン社」というのは、カナダに本拠を持つ国際出版社です。国際も国際、すごいですよ、その全世界での売れ方。23カ国語に訳され、100カ国以上に輸出されているんですけど、それらの国々での売り上げをすべて合わせると、1秒間に5.5冊売れている計算になる。1秒間に5.5冊ですよ。あ、今5.5冊売れた、あ、11冊売れた、あ、16.5冊売れた、ってなもんです。ちなみに過去10年に売れたハーレクイン・ロマンスを1日1冊ずつ読むと、読み終わるのに25万年かかります。25万年。読み終わる頃には次の氷河期ですわ。とまあ、ハーレクイン・ロマンスって、実はとんでもないベストセラー商品なんですね。カナダって、メープルシロップだけ輸出してるんじゃないんですな。ロマンスも相当輸出している。ま、どっちも、かなり「甘い」んですけどね。 ところで、ハーレクイン・ロマンスにとっての最大の市場はアメリカです。ま、それは何となく予想できますでしょ? ところが不思議なことに、ハーレクイン・ロマンスというのは、基本的にイギリスが舞台になっていることが多い。ま、ハーレクイン・ロマンスには様々な「ライン」があって、最近ではアメリカが舞台のものも売り出されていますが、圧倒的多数の作品は今でもイギリス系(オーストラリアやニュージーランドなど、旧イギリス植民地を舞台にしたものも含める)です。ハーレクイン・ロマンスというのは、結局、正調ブリティッシュ・ロマンスなんですね。 今、「正調」と言いましたのは、文学史的な観点から言って「ロマンス小説」なるものを生み出したのがイギリス人だからです。18世紀半ばのこと、イギリスで『パミラ』っていう小説が出版されて大評判になるんですけど、これがロマンス小説の元っちゅーことになっているんですな。ロマンスなんてラテン系の人々の特権かと思いきや、実はロマンスの元祖はイギリスなんですね。個人的な偏見からすると、イギリス人ってあんまりロマンティックな感じがしませんけど、そのアングロサクソン的な、情念剥き出しじゃないところにこそ、案外ロマンスの本質があるのかも知れません。それによく考えれば英国王室のどたばたって、いつもロマンスがらみですからね。 しかし、ハーレクイン・ロマンスの大半がイギリスを舞台にしたロマンスであることには、実はもっとはっきりした別の理由があります。それは何かと申しますと・・・。 ・・・あー、ここで時間切れ。この先のお話しは、またこ・ん・ど!
August 27, 2005
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今、紫色に色づいた無花果がスーパーなどで出回っていますね。我が家でもつい2、3日前に買ってきて食べました。家内が好きなものでね。 ところで、私はと言いますと、少し前まで無花果をお店で買うということ自体に、かなり抵抗がありました。「あれはお金を出して店で買うものか?」という感覚があるんですね。あんなの木苺とかグミとかアケビみたいなもんで、その辺に勝手に生えているのをちょっと摘んで食べるもんじゃないの? 実際、子供の頃に住んでいた家の庭には、無花果の木がありました。正確に言うとそれはうちの庭ではなく、隣の家の庭なんですけどね。でもうちの庭まで枝が張り出してましたし、沢山なるので別にいいかな、と・・・。で、実がなって段々熟してくると、適当なところでポキンと摘んで食べちゃう。ポキンと摘んだところから、なんかべっとりとした白い液体がふっつりと沸き上がってくるのが、ちょっと気味が悪いんですけどね。 で、じゃ、それが美味いのかというと、子供の頃はそんなに美味いものとは思っていなかったなあ。ま、実を取るために栽培していたわけではないから、あまりいい実ではなかったのかも知れません。それに、なんか中の方がぐじゅぐじゅしていて、「これ、ホントに食べ物?」って感じがするんですもの。ちょっと、コワイ。 その後、無花果ってのはひょっとして美味いかも、と思うようになったのは、よほど大人になってからですね。一流レストランでデザートとして出されたのを食べたり、あるいはケーキ屋さんで売っている無花果のタルトなどを食べるようになって、ようやくそのおいしさに目覚めたって感じ。で、その頃ようやく気づいたのですけど、今私が住んでいる愛知県というのは、無花果の名産地なんですな。ですから、子供の時に食べたのとは大違いの、紫色に熟した、大きく肉厚な無花果を、よくお店などで売っている。たしかにこんな立派な無花果となれば、これはもう「売り物」ですなあ。実際、食べてもうまいですしね。 でも、やっぱり、あのぐじゅぐじゅした部分を咀嚼する時に、かすかに「これ、ホントに食べ物?」という子供の頃の恐怖感が戻ってくる。その、「コワイけど、おいしい」感覚がまた、たまらなかったりして。「イタキモ」(=痛いけど気持ちいい)という変な日本語に対抗して、「コワイシイ」(=コワイけどおいしい)という言葉を提案しようかしらん。いや、「コワうま」の方がいいか・・。 それにしても、無花果のような、ちょっと野生っぽい果物のことを考えていたら、またまた子供の頃のことを思い出してしまいました。秋、真っ青な高い空の下、なだらかな起伏に富んだ武蔵野の雑木林に遊びに行っては、アケビを取ったり、服につく草の実を友達と投げ合ったりしたなあ。カラスウリの艶やかな赤い実が青い空に映えて、ホントにきれいだった。最近、岩波書店の『図書』という雑誌に小沢昭一さんが子供の頃の遊びのことを書いていらっしゃいますが、小沢さんもおっしゃる通り、子供の時代こそが人生の黄金時代なんでしょうな。今どきの親と違って、遊び放題にしていた子供時代の私を、好き勝手にさせておいてくれた両親には、つくづく感謝しなくてはいけませんね。
August 26, 2005
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前にも一度ご紹介したことがありますが、NHK衛星放送でたまに放送する「アクターズ・スタジオ・インタビュー」を続けて何日か見ました。この番組、ジェームズ・リプトンという司会者がアメリカのスター俳優・女優をゲストに招いて色々話を聞くという趣旨の番組ですが、私が見たのはジョン・トラボルタの回とバーブラ・ストライザンドの回。昨日はトム・クルーズをやっていましたね。 ちなみに、この番組は公開録画なんですが、会場に詰めかけているの客の大半はアメリカでも有数の俳優養成所たる「アクターズ・スタジオ」の学生たち。ですからこのインタビューは、いわば成功して功なり名遂げた先輩から、明日を夢見る俳優の卵たちへ向けたメッセージという意味合いもあるわけ。聞き手である俳優の卵たちは、スターたちから少しでも成功の秘訣を学ぼうと必死ですから、毎回、会場はすごい熱気に包まれています。 しかし、それにしてもアメリカを代表する俳優・女優たちが自らを語るのを聞いていると、彼らが本当によく己を知り、仕事を知り、更なる目標へ向かって努力することを知り、そしてそれらに裏打ちされた自信に満ちていることがよく分かる。老俳優ばかりでなく、若い俳優・女優すらそうなんですから、アメリカの演劇界の層の厚さには毎度圧倒されてしまいます。実際、彼らの話を聞いていると、本当に学ぶべきことが沢山あります。 そんなわけで、私は機会があれば必ずこの番組を楽しむことにしているのですが、私が見たジョン・トラボルタもバーブラ・ストライザンドも、共にすばらしいインタビューを聞かせてくれました。 ところでそんな中、特に今回「ほう」と思ったのは、超大物ミュージカル女優・歌手、バーブラ・ストライザンドの次のような言葉でした。 何の話の中だったか忘れましたが、彼女はかつてイギリス作家バーナード・ショーの「思考は現実に行き渡る」という言葉に非常に影響を受けた、というのですね。 「思考は現実に行き渡る」。それだけ聞くとちょっとよく分からない言葉です。で、その言葉の意をさらに尋ねると、バーブラは自らの体験を交えて、こう説明したんですね。自分の調子が良くて、納得の行くパフォーマンスを披露した場合、自分のことを高く評価した批評しか目につかない。それに反して、自分でもあまり良くなかったかなぁと思う仕事をしてしまった場合、自分のことを貶す論評しか耳に入らない、と。うーん、なるほど、そう言われれば、そういうことは誰にでもありますよね。 そこでバーブラは、こう結論づけるんです。つまり、自分自身の思い(うまく行った! とか、ダメだったなぁ、という思い)が、そのまま現実(好評・不評)に反映されるのだ、と。「思考が現実に行き渡る」、あるいは、「思考が現実に先行する」というのは、そういう意味なんですね。 だから、自分で自分のことをダメだと思ったら、現実にダメになってしまう、と彼女は言うんです。成功しようと思ったら、まず現実に先だって、自らの思考の中で成功しろ、と。自信を持て、と。ふーむ、なるほど! ま、もちろんこの言葉の意味(「まず自分に自信を持て」)だけを取り出したら、どうということはないかも知れない。しかし、私が感心するのは、バーナード・ショーのちょっと難しい言葉を自分の体験の中で血肉となるまで理解し、それを人に説明できるバーブラ・ストライザンドその人です。それができるということは、つまり彼女がこの言葉を、頭ではなく腹で理解しているからでしょう。私はそういう「腹から出た言葉」というのにいつも感動します。なぜなら、そこには、頭から腹に到達するまでにプロセスがあるからです。バーブラの話に説得力があるのは、結局そのプロセスを持ってるからなんですな。 とまあそんなわけで、ここ数日、この番組を見て、「腹から発せられた言葉」を何度も聞くことができたのでした。やっぱり、すごい人はすごい! そんなすごい人たちのインタビューが聞ける「アクターズ・スタジオ・インタビュー」という番組、あらためて「教授のおすすめ!」です。よーし、私もいっちょ頑張るぞ!
August 25, 2005
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先日、買ってしまいましたよ、話題の「ドゥ! レミパン」! ま、男性の中にはご存じない方も多いかと思いますが、これ、タレントの平野レミさんが開発した新種のフライパンなんですな。なーんだ、そんなもの、と思うなかれ、これがなかなか優れモノなんです。ちなみに我が家が買ったのは大きさが24センチ、蒸し台つきのもので、色はグレーの奴。 レミパンというのは、基本的にはフライパンですから、焼いたり炒めたりが出来るのは当たり前。ところが普通のフライパンよりよほど深く作ってあるので、シチューや煮物を作ることも出来るし、揚げ物もできる。それから附属の蒸し台を使えば、蒸し器として使うこともできるんです。こうした多様な使い方ができることに加え、大きさが手頃で、しかもがっしり作ってある割には軽いところもいい。それから把手の反対側にもちょっと出っ張りがあるので、「鍋掴み」を使えば両手で鍋を持つことができるところも安心です。 それから鍋に附属する蓋がまた優れモノで、自立するんですよ。料理をしている最中、鍋の蓋って案外置き場に困ることが多いのですが、レミパンなら蓋自体に自立する仕組みがあるのでとても便利。しかもその蓋には細工がしてあって、餃子を焼く時など、蓋を完全に開けずに差し水をすることができる。この機能も、使ってみると結構重宝します。 というわけで、この「レミパン」を買って以来、家内はその使い易さを絶賛しています。事実、今日から数日のうちの我が家の夕食のメニュー(お好み焼き・ビーフシチュー・ギョーザ・骨つきチキンの酢煮・・・)も、すべてこのレミパンで作ると豪語していますから、その入れ込みようはすごい! 家内に言わせると、今まで料理毎に鍋を替えていたのだけれど、レミパンが一つあれば、他の鍋は必要ないとのこと。1万円かそこらでそんなに喜んでくれるなら、私もこのレミパンを家内に買ってあげた甲斐があるというものです。 ちなみに、レミパンを買った自慢話(?)をすると、家内の友人である主婦の皆さんは「ホントにいいの?!」と身を乗り出して聞いてくるそうです。つまり、皆、この鍋に興味はあるのだけど、ちょっと値段が高いので、実際に買うところまで踏み切れないみたいなんですな。でもねー、この鍋、ホントにいいですよー! 「教授(とその奥さん)のおすすめ!」です。 それにしてもこの鍋を開発した平野レミさんって、頭いいなあ。料理好きの主婦の立場から、「こういう鍋が使い易い」っていうものを形にして、見事販売に成功したんですからね。大したもんだ。 というわけで、今日は「教授のキッチンウェア」でも販売しているレミパンを、自信を持ってアフィリエイトしてしまいます。ぜひ、お買い求め下さい。後悔はさせませんゾ!ここをクリック! ↓セットでお買い上げの方が断然お得♪【ドゥ!レミ・パン 24cm イエロー&専用蒸し台セット】...
August 24, 2005
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もう虫が鳴き始めましたね。秋ですなぁ・・。 虫と言えば、子供の頃、私はバッタの類が好きでね。よく捕まえては、しばらく遊んでもらったものでした。子供の頃に住んでいた家の前の草ぼうぼうの庭が、バッタの宝庫だったんですな。ほんとに、ありとあらゆる種類のバッタが、面白いようにいた。 姿かたちの点で一番堂々としているのは「殿様バッタ」。あれは飛翔力もすごくて、捕まえ損なうと遥か遠くまで飛んで逃げてしまう。たしかにバッタの王者と言う感じがします。顔も知的な顔をしていますしね(バッタにしては・・・)。 もっとも大きさから言えば、「ショウリョウバッタ」が一番かな。虫のくせに、よくもまぁこんなにでかくなっちゃって、と思うほど大きい。しかし、その大きい総身に知恵が回りかねるのか、動作もぎこちなくて、捕まえようと思えば案外簡単に捕まえられる。そこがちょっと張り合いがないんですけどね。で、捕まえてみるとずっしりと持ち重りのするオクラみたいな身体に、瓜実の間抜けな顔つき。あまり愛敬のある奴ではありませんが、こいつの子供は親をそのまんま小さくしたようで、可愛くて好きでした。 あと、ショウリョウバッタに似ているけれど、遥かに機敏なバッタもいたなあ。我々は「キチキチ」と呼んでいたけれど、正式にはなんというのか。殿様バッタほど持久力はないけれど、こいつも飛翔力がかなり強くて、「キチキチッ!」と音を立てて飛ぶ。捕まえるのが面白いバッタではありました。よく飛ぶバッタといえば、「菱バッタ」というのもいた。小さくて、身体が茶色の菱形の奴。あれは地味すぎてあまり好きではなかったけれど、道案内でもしているかのように、私が歩く先々をピョンピョン飛んで行くのがちょっと面白かった。 コオロギもよく捕まえました。特にブリブリと太った「閻魔コオロギ」なんか、色つやがゴキブリっぽくて、今だったら多分触れないでしょうけど、子供の頃は平気でしたね。そもそも虫が汚いなんて、思ったこともなかったですから。虫を触ったその手で、オムスビが食べられましたからね。 その他、草むらを足でかき分けながら歩くと、面白いように色々なバッタがとれたもんです。殿様バッタの子供なんて、翡翠のような艶のある緑色をしていて、きれいだった。あと涼しげな緑色をしたバッタもいましたね。「ウマオイ」だったかな。「スズムシ」は、あれは鳴き声はよく聞こえるけど、実物はなかなか捕まえられなかったですね。 でもバッタというのは脆い生き物で、沢山捕まえて遊んでいると、後ろ足がポロっと取れてしまって、片足だけになってしまったりする。あるいは口から変な液体を出す奴もいる。人間に置き換えたらかなり具合が悪い状態になったはずなのに、「別に痛くないもんね」といった感じで無表情なのがちょっと怖かったりして。そんな時はむしろこちらが気味悪くなって、さっさと捨ててしまったり。・・・思えば可哀相なことをしたもんです。 そうそう、そんなふうに虫と遊んでいるうちに次第に秋も深まり、あんなに生い茂っていた草もすっかり枯れて、日溜まり色になった原っぱにカマキリの生んだ卵を見つけたりすると、ああ、生き物との遊びはまた来年の夏までお休みだな、なんて子供心に思ったもんでした。 しかし、こういう思い出を持っているのは、男だけなんでしょうかね。女の人にとっての晩夏・初秋のイメージって何なんだろう? ま、それはともかく、こういう子供の頃の思い出があるので、大人になって虫取りをしなくなった今でも、晩夏から初秋の趣というものが、具体的なイメージと共に感じられるのかも知れません。 今日はとりとめのない話になってしまいましたが、このところ今シーズン初の虫の音のコーラスを聞きながら、そんな子供の頃のことを思い出しては、シミジミしているワタクシなのでした。今日も、いい日だ。
August 23, 2005
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久しぶりで大学に出かけ、野暮用を幾つか済ませてきました。 ところで、今、私の勤務先の大学では、キャンパスが騒然としています。と言いますのも、校舎の大がかりな増改築が行なわれているためで、見慣れた校舎全体に足場が組まれ、幕が張られ、その中ではドリルの音や電動鋸の耳をつんざく音が鳴り響いている。とにかく大騒ぎなんです。ま、今はうるさくて仕方がありませんが、そのおかげで秋ごろには少し見栄えが良くなった校舎の姿を目にすることが出来るというわけなのでしょう。 ところで、この種の建築工事に関して、私には昔から一つの疑問があります。それは、こういう建築現場で働いている人たち、彼らは一体どこで「建築のイロハ」を習うのか? ということなんです。 建築家であるなら、設計図の引き方をきっと大学で習い覚え、その後は設計事務所で腕に磨きをかけるのでしょう。それは分かる。しかし、その建築家の引いた設計図を受け取って、実際に建築作業に取りかかる人たち、彼らは一体どこでその技を習うのか? こういう疑問を私が持つのも、実は私はかねがね建築作業場で働いている人たち、特に若い人たちの働きぶりにとても感心しているからなのです。実際、彼らが働いているところを見ると、実に気持ちがいい。もちろん実際にはどうなのかよくは分かりませんが、少なくとも傍から見ている限り、一人一人の作業員が自分のやるべき仕事のことをよく弁えていて、なんだかもくもくと物も言わずに働いている感じがする。そして昼休みにはコンビニで買ってきたカップラーメンや菓子パンといった、あまりパッとしないものを黙って食べ、しばらく昼寝をし、それが終わるとまたもくもくと作業に取りかかる。そして一日の仕事の終わりには、道具を仕舞い、作業場を片づけ、明日の作業にすぐに取りかかれるようにしている。その勤勉さ、作業分担の完璧さ、見事な統制。これはもう素晴らしいとしか言い様がありません。そして一定期間が過ぎれば、家やら、マンションやら、とにかく設計図通りのものが完成し、しかも中も外も完璧に掃除され、片づけられて建主に引き渡される。 では、こんなに素晴らしい仕事をしている若者たちは、一体どこでどういう教育を受けているのか。私には、それが謎なんですな。もし一種の徒弟制度的な教育が作業の中で行なわれ、それによって何も分からずに雇われた人間が、次第に設計図を実物にするまでのすべてのノウハウに通じるようになる、というのであれば、それはそれですごいことであると言わざるを得ません。私は、一応「教育」ということに携わっているので、人を教えるということがいかに難しいか、少しは分かっているつもりなので。 ま、ここで私は私の疑問に対する答えを何としてでも探りたいと思っているわけではありません。が、とにかく、何しに大学に来ているのかよく分からないような、ちゃらちゃらした学生を目にするたびに、建築現場でもくもくと働いている若者たちに贔屓の目を向けたくなるんです。 そしてその贔屓のついでに言わせていただきますと、最近、その種の若者たちもお洒落になったというのか、ズボンの裾が必要以上に広がったド派手なムラサキの作業着なんかを着ていたりしますよね。私が思うに、あれもまたファッションとして面白い! 作業着というものに無縁の私は、逆にあらゆる作業着に対する憧れがあって、スプリングコート代わりに実験白衣を、パジャマ代わりに手術着(アメリカの医者の着る手術着というのは、実に格好がいいんです)を買おうかと思って、家内に止められたことがありますが、あの裾のえらく広がったムラサキの建築作業着、あれもちょっと着てみたいですね。私があれを着て、授業をしに教室へ入って行ったら、面白いでしょうなぁ。聞くところによると、海外のファッション関係の人たちも、日本に来て一番興味を持つのは、作業服を売る店だというではないですか。やっぱり、事情通は、そういうところに目が行くんですって。 ということで、働く若き建築作業員たち、およびその奇抜なファッション、「教授のおすすめ!」です。 さて、おすすめついでに今日はアフィリエイトも少し。今日は、毎回好評をいただいている「教授の時計ショップ」第9弾。今回はデジタル時計の特集です。デジタル時計というと、高校・大学時代に身につけていたことがありますが、その後しばらく縁がありませんでした。なんとなく「子供っぽい」かなと。しかし、最近のデジタル時計はなかなか優れモノが多く、デザイン的にもかなり面白い。そこで私自身も見直し始めたデジタル時計、都合8本セレクトしてみましたので、興味のある方はぜひクリックしてみて下さい。ここをクリック! ↓時計ショップ・パート9
August 22, 2005
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やあ、名古屋に戻ってまいりました。今日からまた私の「第三の故郷」たる名古屋での生活が始まります。 ところで私にとって東京と名古屋の間を東名高速を使って往復するのは、もう長い間の習慣になっているので、4時間の行程もさほど苦ではありません。車の運転が好き、ということもありますしね。特に一人で走っている時などは、その時その時で一番安全と思われる車線を随時選びながら、ほとんど無我の境地で走っています。一応、健康に気をつかって一度くらいは休憩しますが、一気に4時間走ろうと思えば走れるかな。特に疲れることもありませんし。 とはいえ、こんな感じで年に何度も東名高速を車で往復していると、時々怖い目に会うこともあり、また面白いことに出会うこともあります。それで今日、ちょっと怖く、またちょっと面白かったのは、「雨の壁」にぶつかったこと。 このところ大気の状態が不安定なのか、毎日のように各地で雷雨や集中豪雨が観測されていますけど、今日の東名もそんな感じで、雨足が急に強まったり、そうかと思うと逆に急に弱まったり、ということの繰り返しでした。 で、そんなことを繰り返しているうちに、「雨の壁」にぶつかったのです。ちょうど静岡のあたりを走っていたのですが、そのあたりは雨は降っておらず、私はここぞとばかり快調に車を飛ばしていました。と、前方の道路が何やら不気味なまでに灰色に煙っている。「何だろう?」と思ったら、それが晴れのところとスコールのところの境目だったんですな。「あ、やばい!」と思った時には、滝の中に突っ込んだように一瞬何も見えなくなり、気づいた時にはバケツをひっくり返したような土砂降りの中を走っていたというわけ。もちろん、私の車も周辺の車も、全車一斉にスピード・ダウン! 隣の車線では前走車に突っ込みそうになったトラックの悲鳴にも似たクラクションが響きわたる! いやー、なかなかスリルのある一瞬でしたヨ。 でもこのおかげで「雨が降っているところと、降っていないところの境目がどこかにあるはずだ」と長年思い続けていた私の疑問が、ひとつ解消されました。 ま、それはともかく、無事に名古屋に戻って来られて良かった、良かった。今日は寝る時に、神様にお礼を言わなければなりません。都合のいい時だけ信心深くて、申し訳ないのですけどね。それでは、また明日!
August 21, 2005
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8月4日に戻って以来、2週間あまり実家でのんびり過ごしてきましたが、それも今日でおしまい。明日は名古屋に戻ります。実家にいると、ありとあらゆる責任から逃れ、まったく気ままな立場に戻れるというところがあって、そのことが私には貴重な意味を持つわけですが、しかしそれが永遠に続いたら、真正のどら息子になってしまいます。名残惜しいですが、このあたりで社会復帰しなければなりますまい。 ということで、実家での休暇の最終日となる今日一日、私はこれ以上ないと言うほど、のんびり過ごしていました。することと言ったら『モンテ・クリスト伯』を読むことだけ。今、岩波文庫版で全7巻のうち、第3巻を読んでいるところですが、あまりにも面白過ぎて目眩がしてきます。 そして夕食(有り難いことに、母がおいしいご馳走を用意してくれました)の後は、この夏の家族旅行の写真などをもう一度両親と眺め、楽しみつつ、「旅行の初日の頃に戻りたいもんだねぇ」などと言い合っていました。 でも楽しい時間があったり、寂しい時間があったりという変化があった方が、結局はいいのかも知れませんね。楽しい時間があまり続き過ぎると、人はその楽しさに鈍感になりますから。 それに明日は明日で、家内が私の帰りを待っていてくれますからね! また明日からは、名古屋からこのブログを発信することになります。ご愛読の皆様には、引き続きご贔屓のほどを。 それでは、週末アフィリエイト第一弾といきましょう。昨日の「芸術作品」からの影響もありまして、今日は「教授のアトリエ・パート6」のご紹介です。パート6では内外の版画作品を8点ご紹介しています。例によって私の趣味全開ですが、お気に召した作品がありましたら、ぜひクリックしてみて下さい。家に本物の絵があるというのは、楽しいものですよ! あ、それからトップページに展示してある商品も総入れ換えしましたので、こちらの方もご覧くださーい!ここをクリック! ↓アトリエ・パート6
August 20, 2005
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なんだか毎日遊び歩いているみたいですが、今日は大学時代の恩師・S先生のお宅に遊びに行きました。 S先生は私の卒業した大学の先生ではなく、別の大学の先生です。しかし幸いなことに、私の大学時代の直接の恩師であるO先生とS先生とは非常にお親しい間柄であり、そのこともあってS先生は非常勤講師としてうちの大学に教えにいらしていたんですね。で、私もO先生から勧められてS先生の授業を受けに行ったのですが、授業を受けているうちに先生の学問とお人柄にたちまち惹かれてしまった。そんなわけで、大学時代の私は、O先生とS先生、このお二人の先生の薫陶を受けながら過ごすことができたというわけなんです。実際、私がS先生から受けた影響というのはものすごく大きなものがある。しかもその後、残念なことにO先生は早くに鬼籍に入られましたので、今の私にとっては、言葉の真の意味で「先生」と呼べる方はS先生だけになってしまった。それだけにS先生は、私にとって、本当にかけがえのない存在なのです。 とはいえ、私は別に畏まるために先生のお宅にお邪魔するのではありません。先生のお好きなお酒を一本携えて遊びに行き、先生のお話しを伺ったり私の近況を報告したりして、楽しいひとときを過ごすために行くのです。長い休みに実家に戻っている時は、必ず一度は先生のお宅に遊びに行くのがならいになっているのですね。で、今日もそんな感じで東京は深大寺の近くにある先生のお宅にお邪魔してきたわけ。 先生は大正の末のお生まれなので、今は81歳とか82歳とか、多分そのくらいのお歳だと思います。しかし、いつお会いしてもそんな感じはまったく受けず、今なお研究に、読書に、執筆に、そして庭仕事にと、忙しくしていらっしゃいます。今日も、私が今研究していることや手がけている仕事などについて、あるいは最近読んだ面白い本のことなどについて、色々とお話しをさせていただいたり、また先生のことについてもお話しを伺うことができました。 しかし、今日、何と言っても面白かったのは、先生が最近なさっている、ある「芸術活動」についての話題でした。 きっかけは、私が昨日、仙石原の湿性花園に行ってきたことや、サワギキョウがとてもきれいだった、というようなことを報告したことでした。で、それを聞いていらした先生が、サワギキョウならうちの庭にも咲いているよ、とおっしゃりながら、後ろの書棚からなにやら紙挟みのようなものを取り出され、その中から一枚の紙を出して私に示された。その紙が、問題の「アート」だったんです。 それはなんとも不思議なものでした。もちろんその紙にはサワギキョウが描かれて(?)いるのですが、よく見ると写真のようにも見える。しかし、写真かしらと思ってみると、どうもそうでもないようで、精密に描かれた日本画のようにも見える。しかし、どちらにしても非常に美しいアートなのです。 「先生、これは・・・」と私が絶句していると、ニコニコしていた先生がようやく答えを教えて下さいました。それは花のカラーコピーだったのです。 つまり、花の咲いた木、あるいは草を近くのコンビニに持っていって、そこにあるカラーコピー機で直接コピーしてしまうというのですね。ちなみに、コピーする時に蓋(というのかな?)をしてコピーすると背景は白になる。逆に、蓋をしないでコピーすると背景は黒くなる。背景を白くするか、黒くするかは、花の色にも依ります。赤い花などの場合は白い背景の方が映えますし、また紫の花などは黒い背景が似合う。ま、その辺はケース・バイ・ケースのようですが。 機械的にコピーしただけで、そんなにきれいな「アート」が出来るの? と思われた方のために、先生の作品をお見せしたいようなものですが、これが本当に、日本画かと見紛うようなものになるんです。見たら、びっくりしますよ。これぞ現代の新たな芸術手法! という感じです。 ただ、もちろんそれが「アート」であるためには、花の美しさばかりでなく、それをいかに上手に配置するか、という「アーティスト」側の手腕も問われます。ということはつまり、「生け花」的なセンスや絵心が必要になってくるわけ。私がS先生の作品に打たれたのは、そのセンスの良さに依る所も大きいかな。たとえば先生は花の性質によって作品のトーンを様々に変えていらっしゃるのですが、白い背景に白い花桃を映し出した清楚な感じの作品もあれば、黒い背景にハナミズキの花を散らした、まさに日本画的な作品もある。そうかと思うと、大小様々な黄色い菊の花をうまいこと画面一杯に散らし、あたかも「ポップアート」のように仕上げた作品もあったりする。その辺のさじ加減が、これがなんとも言えずいいんですなあ。 しかもさらに愉快なのは、この手法を考案したのが先生ご自身だ、ということですね。つまり先生は、この新たな芸術手法の「家元」なんです。と言っても、もちろん先生は別に「アート」を作るために花のコピーをなさっているわけではありません。一番最初は、ただご自宅の庭に咲いた花々を詳細なデータと共に記録してみようと思われただけなんですね。で、はじめのうちはご自宅にあるコピー機で白黒のコピーをとって、ご自分で彩色しておられたのですが、ふと思ってカラーコピーしてみたらなかなか面白い「作品」が出来上がった。それ以来、この「アート」をお一人で楽しんでおられるというわけ。先生の作品にまったく「邪心」がないのはそのせいかも知れませんね。コピーした花だって、コピーが終わったら花瓶に差して愛でられるのだそうです。 いやはや、それにしても80歳を優に越えられた先生が、研究や読書や執筆の合間に花を愛で、自ら工夫してその花の美を別な形に置き換えたりしながら、悠々と暮らしを楽しんでおられる様子を見て、私まで本当に楽しくなってしまいました。それに先生考案になるこの手法だったら、画才のない私にもちょっとしたアート製作が出来るかも知れません。なにせ、私は現時点で家元の最初の弟子みたいなもんですから、頑張れば免許皆伝も受けられるかも知れない。 ということで、今日は恩師のS先生に飛び切り楽しいひとときと、それからアートな野心をいただいて、すっかりいい気分で帰宅の途についた私なのでした。
August 19, 2005
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さて、悲しいかな、実家で過ごす私の夏休みも大分残り少なくなってきました。ということで、今日は急遽、両親を連れて箱根・真鶴へドライブに行くことに決定! 我が家では四季折々、箱根仙石原の「湿性花園」を訪れることがほとんど家訓みたいな感じで決まっており、今回もそれをやっておかないとこの夏は終わらんだろう、ということになったわけです。 で、朝9時半に家を出発! 東名をかっ飛ばし、11時には御殿場インターを出て、その名も乙な「乙女峠」をちょいと越えればもうそこは仙石原。そして、そこにある野生の草花の楽園・湿性花園へいざ突入! それにしてもここはホント、いつ来てもいいところです。春は春で、早咲きの水芭蕉やカタクリの花が楽しめますが、晩夏から初秋にかけても見どころ一杯。特に今頃はオレンジ色のヤマユリや黄色いオミナエシ、白いオトコエシなどが見頃です。またこの季節には私の好きな青や紫の花も数多い。たとえばサワギキョウやミソハギ、桔梗、アザミなどが初秋の野を彩っています。しかもそれらがあまり管理し過ぎない、ごく自然な状態で咲き誇っているのがいいんですね。気温から言えばまだまだ暑いですが、仙石原の山の上ではそろそろ日差しが白っぽくなってきて、秋の気配を満喫することができました。やっぱり、来てよかったなぁ。 しかし、ここ湿性花園を訪れる楽しみは、花を愛でるだけに留まりません。実は湿性花園の入り口近くに「グレイン」というレストランがあって、ここでお昼を食べるのも楽しみの一つなんです。何でもここのシェフは「山のホテル」で長年修行した人なんだそうですが、とにかく出てくる料理がうまい! それから添えられる焼きたてパンもうまい! ついでにケーキもうまい! ちょっと料理が出てくるまでに時間がかかるのが難点ではありますが、しかしリーズナブルな値段でこれだけおいしい料理を出してもらえるなら、言うことはありません。今日もここで父と私が「ビーフストロガノフ」、母が魚介類のパスタを堪能させていただきました。湿性花園とグレイン、「教授のおすすめ!」です。 さて、おいしいお昼を楽しんだ我々は、ここからもうちょっと足を伸ばし、真鶴まで出ることにしました。真鶴には私の好きな「中川一政美術館」があるので、ここを見ていこうというわけ。前にも一度、箱根の帰りに立ち寄ろうとしたのですが、箱根から真鶴まで案外距離があって、真鶴にたどり着いた時には、もう美術館が閉まった後だったんですね。そこで今回は、その辺も計算にいれた上で、早めに家を出ておいたわけです。 ちなみに、私はここを訪れるのは2度目か3度目なんですが、ここも何度来ても満足度が高い美術館です。中川一政氏は基本的には油絵画家だと言っていいと思いますが、ちょっとゴッホを思わせるようなタッチで向日葵や薔薇、それから真鶴近くの「福浦」という漁港や箱根の山を描き続けた人。たしか97歳くらいまで長生きしたんじゃなかったかしらん。お若い頃は尾崎士郎の『人生劇場』の挿絵を書いていた時期もあり、晩年には書や陶芸などにもチャレンジしています。また油絵の具だけでなく、岩彩を使った作品にもいいものがある。 また彼の作品の場合、絵だけではなく、額縁もかなり重要です。彼は額縁のデザインも自分でやってしまうのですが、それが中の絵と実によくマッチしていて、額縁も含めて、作品を形成しているんですね。とにかく、とても力強く、色彩豊かな作品ですなあ。見ていると幸せになってくる。この前は残念でしたけど、今回はちゃんと中川さんの絵を見ることができて、ホントに良かった! というわけで、これで今日の目的の二つ目を果たしたのですが、実は今日のドライブの目的地はもう一つあったんです。中川一政美術館からほんの目と鼻の先、真鶴半島の突端に「三ツ石」と呼ばれる風光明媚なところがあるのですが、これが今日の最終目的地だったんですね。ちなみに「三ツ石」というのは、ちょうど海の中から二つの岩が、ちょうどクワガタのメスの顎のようにニョキっと突き出ている、そんな感じの奇岩です(なんで「二ツ石」じゃないんだろう?)。 で、ここは私は初めて訪れたのですが、これがまた予想以上に良かった! 何しろ半島の突端にあるので、この趣のある奇岩を上から見下ろすと、それと同時に相模湾を270度見渡せるのですから、これはもう絶景というしかない。海というのは、上から見下ろす時、一番青く、広く、きれいに見えますからね。晩夏の、しかもそろそろ暮れかけようかという日差しの中、見はるかす紺碧の海に突き出た奇岩。これは今日のドライブを締めくくるのには最高のシチュエーションでした。願わくばもう少しここにいて、夕日が沈むところまで見たかったけれど、5時で駐車場を閉めると言われ、ちょっと慌ただしい感じになってしまったのが少し残念。ここはもう一度訪れてもいいかな。 というわけで、今日は箱根の山の秋の気配と、中川一政の力強い絵と、そして三ツ石の絶景を堪能するドライブができたのでした。今日も、いい日だ。それでは、また明日!
August 18, 2005
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昨日外出した折、書店に寄って『ふたりの山小屋だより』(文春文庫)という本を買ってきました。詩人・画家の岸田衿子(えりこ)・女優の岸田今日子姉妹が、北軽井沢の別荘で過ごした若き日々のことなどを回想している本なんですが、昨日読み始めて、今日読み終わってしまった。なかなか面白かったですよ。そもそも私は岸田今日子のファンですし、彼女たちのお父さんは劇作家の岸田国士(くにお)氏。そういう才人一家の別荘ライフとなれば、ちょっと読んでみたくなるではないですか。しかも私は子供の頃よく軽井沢で遊んだので、そういう懐かしさもあります。 ちなみに私にこの本を薦めてくれたのは、タレントの小泉今日子です。なーんて言うとびっくりさせてしまいますが、彼女がどこかの新聞でこの本のことを「夏の読書に最適」であると薦めているのを、たまたま私が目に留めたというわけ。 読んでみて、まず面白かったのは「北軽井沢」の成り立ちですね。そもそもこのあたりが別荘地として開けてきたのは、野上豊一郎・野上弥生子夫妻に与るところが多かったのだそうです。法政大学の文学部長だった野上氏がこのあたりの土地持ちで、それで法制大学の先生方に呼びかけ、「大学の先生の薄給」(妙に納得・・)でも別荘が買えるよう、1坪1円、500坪単位で分譲した。それで、教授たちが次々とこの地に別荘を建てるようになり、それで「大学村」が出来上がったというわけなんですね。外国語の辞書を編纂する先生なんかも多かったので、「字引村」などと呼ばれたこともあったとか。 しかも、この村には「各自の生活を尊重して侵し合わない」「都市の奢侈や華美の風を持ち込まない」といった不文律があったというのだから、なかなか高尚です。で、始まりがそんなですから、野上夫妻や岸田国士一家の他にも、たとえば哲学者の谷川徹三氏(詩人の谷川俊太郎氏のお父さん)、ロシア文学の米川正夫氏、イギリス文学の吉田健一氏(お父さんは吉田茂(白足袋)首相)など、錚々たる人たちが別荘を持っていたんですね。それだけにこういった北軽組のところに遊びに来る連中というのがまたすごい!「鉢の木会」の面々(大岡昇平、中村光夫、福田恆存、神西清、三島由紀夫)はもとより、武満徹や大江健三郎なども来るし、また岸田今日子の方面からは文学座の小池朝雄、仲谷昇、北村和雄、山崎努といった連中が来る。こんな才能豊かな、しかも当時はまだ若い連中が、別荘地のもつリラックスした雰囲気の中で集うというのですから、これはさぞ面白かったことでしょう。 しかし、この本のいいところは、そういう錚々たる連中がどうしたとか、こうしたとか、そういうことが面白おかしく書かれているのではないことですね。そういうことは岸田姉妹にとっては単なる日常の一場面に過ぎない。ですから、ただそういう日常の一場面として、他の日常的なこと、たとえば「リスやムササビが遊びに来た」とか「近くの小川に熊の親子が出る」とか、「スケッチブックをもって写生に出かけた」とか、そんなことと同列のものとして書かれるわけ。だからいいんです。そういう書き方をされた方が、「いい時代をここで過ごされたんだなー」ということがしみじみ伝わって来ますからね。 それからお二人の書いたものを読むと、岸田国士という人がどんな人だったのか、なんとなく分かるような気がしてきます。どうやら岸田さんは、ここを単なる避暑地としてとらえていたのではなく、自給自足・晴耕雨読の生活を可能にする拠点として考えていたみたいなんですね。しかし、もちろんそんなことができるわけもないですから、自給自足も晴耕雨読もみんな中途半端に終わる。でもやっぱりそういう生活に憧れるところはあって、つい羊とか山羊とか飼って、羊毛でセーターが編めたとか、山羊の乳が搾れたとか、その程度のことで得意になってしまう。そういう、可愛らしいところが岸田国士にはあったらしいんです。写真を見ても、いかにも照れ屋な感じの岸田さんが、えらい劇作家としてではなく、二人の娘のいいお父さん、という感じで写っている。私は岸田国士の作品を読んだことはありませんが、こういう可愛い人だと知れば、その作品も読んでみたい気になってきます。 ま、そんな岸田さんご一家の別荘にまつわる楽しい話を、そこで善き少女時代を過ごされた岸田衿子・今日子姉妹の筆で読めるのだから、なかなか贅沢な本です。まあ、個人的な好みも含めて言わせていただきますと、特に私が感銘を受けるのは、この本の中で岸田今日子さんが筆を執っているパートですね。その筆致は淡々としているようで、どこかユーモラスだったり、しみじみとさせるところがあったり。また意外な発想に驚かされることもあったりします。彼女は女優としてのみならず、文筆家としても一流ですな。 ということで、昨日から今日にかけて、東京のうだる暑さの中、空想の中だけでも優雅な北軽井沢ライフを楽しませていただきました。この本、「教授のおすすめ!」です。ここをクリック! ↓ふたりの山小屋だより
August 17, 2005
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今日は両親につきあって、テレビを買いに行きました。行ったのは町田のヨドバシカメラです。それでどうせ町田まで行くなら、町田ルミネの最上階にある「梅の花」という豆腐料理の店でお昼を食べよう、ということになり、11時半ごろ家を出発。 で、「梅の花」に到着し、個室で料理を待っていると、仲居さんが「地震、大丈夫でしたか?」と尋ねてくる。我々は車に乗っていたので全然気が付きませんでしたが、仙台で強い地震があり、東京でも相当揺れたとのこと。「梅の花」でもお客さんを誘導して外に出すかどうか、検討したほどだったそうです。お客さんの中にはテーブルの下に隠れちゃった人もいたとか。ビルの10階ですから、地上以上に揺れたのでしょうね。いや、もう少し早く町田に着いていたら、怖い思いをするところでした。また私の姉が仙台に住んでいるのでちょっと心配しましたが、急いで電話してみると皆無事とのこと。ひとまず安心です。 というわけで、豆腐料理を心置きなく堪能したあと、いよいよテレビを買いに、いざヨドバシカメラへ! 売り場に着いてみると世は液晶時代で、大小様々な液晶テレビが所狭しと並べられています。しかも今どきの液晶テレビは性能がいいのか、画像もきれいですね。しかし、よーく見るとメーカーによって画面の色彩・トーン・シャープネスがかなり違う。画面が明るくていいなと思うものは、ややチラつくところがあるようだし、画像が自然だなと思うものは全体的にトーンが暗かったりという具合で、いざ買うとなるとなかなか決心がつきません。 しかも、2011年からの地上デジタル放送に対応しているかいないかで、値段が倍違うというのも悩むところです。20型くらいだと、対応していれば16万円、対応していなければ8万円くらいですかね。どうせ対応していない機種を買うのだったら、むしろブラウン管のテレビを2万円くらいで買って、数年後に液晶のいい奴を買い直す、という手もあるかもしれませんし・・・。 結局、悩みに悩んだ末、結局、地上デジタル放送対応の液晶テレビをエイヤッと買ってしまいました。東芝製だったかな? ま、ちょっと予想より高かったけれど、どうせ父が買うのですから、父の気に入った奴を買うのがいいですからね。 しかし、テレビも簡単に買える時代になりました。昔、まだカラーテレビが「三種の神器」だった頃、我が家にカラーテレビがやってきた日のことを今でもよく覚えています。あれは、我が家にとって、一大事件でしたね。当時のテレビは、なんだか木目の家具調で、堂々としていましたしね。そしてそのピッカピカのテレビで年末の「紅白歌合戦」をカラーで見た時の感動たるや・・・。 今のように高性能なテレビが比較的簡単に買える豊かな時代もいい時代なんでしょうけれど、一生懸命になって貯めたお金で、家族一同、清水の舞台から飛び下りるくらいのつもりになってようやくテレビが買えた時代というのも、今から思うと楽しかった。ま、よくしたもんで、豊かな時代には豊かな楽しみがあり、貧しい時代には貧しい時代なりの楽しさがあるってことなんでしょうな。 さて、新しいテレビは明日配送してくれるそうですが、ということは、明日は我が家の「液晶テレビ時代」の幕開けとなるわけですね。ちょっと楽しみです。
August 16, 2005
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今年は終戦から60年目なんですなぁ。 そういう節目の年ですから、「戦争を考える」という趣旨のイベントが各地であり、またどのメディアもそのことを取り上げています。今年は特に戦争の記憶をいかに風化させないでおくか、ということが焦点になっているみたい。 当たり前のことですが、戦後60年ということは、戦後すぐ生まれた人がもう定年を迎えるかどうかの瀬戸際にある、ということですね。つまりそろそろ社会の一線から身を引こうかという年代の人たちですら、第2次大戦というのは、人からまた聞きの経験でしかないということになる。 もっとも、今60歳くらいの人たちというのは、その親の世代が戦争を直接体験していますから、親から語り聞かされた生々しい記憶を心に植えつけられているでしょう。そしてそれは多分、自分自身の体験にかなり近いものと言えるでしょう。 しかし今40代前半の私ほどの年代になると、親の世代すら戦争の時には子供過ぎて、筆舌に尽くし難いほどひどい体験はしていない。ま、それはその時住んでいた場所にも拠るでしょうけれど、少なくとも私の親はそんなに苦労はしていない。ですから、正直に言って、私にとって戦争の記憶とは、まったく体験に基づかない空想でしかありません。 となれば私より10歳ほど若い世代になると、これはもう彼らの親の世代すら戦争の記憶がない、ということになるのではないでしょうか。戦後60年というのは、結局そういうことなんですな。 で、「もうそういう時代になってしまったんだなぁ」と思いながら新聞を読み、またテレビを見る。すると新聞には、まさに私よりも若い20代、30代の論客たちが第2次大戦のことを論じた鼎談が載っている。そしてテレビでは、賢そうな女子高生がどこかの記念碑に花輪を捧げながら、「戦争の悲惨さを訴え続けたい」と宣誓しているところを映し出している。 そういうのを読み、かつ見て、これからますます、明らかに私以上に戦争の記憶がない人たちが戦争を論じ、また戦争の悲惨さを訴える中心になるんだろうなと思ったら、何だか妙な気がしてきました。私の子供の頃は、それでもまだ日本は貧しかった。舗装してない道路、電話がない家なんて沢山あったし、普通の人は海外なんか行けなかった。今30歳くらいの人は、その程度の貧しさすら知らないでしょう。そんな人たちが、戦争について云々するのをこの先ずーっと聞き続けることになるのかと思ったら、・・・何だかインチキ臭い気がしてきます。 戦争の悲惨さを語り継ぐ、と口で言うのは簡単ですが、「戦争は悲惨だ、と祖父母が言っていた、と両親が言っていました」と言わなければならない時代がもうそこまで来ている時に、相も変わらず、生徒会長っぽい女子高生を選んで、記念碑に花輪を捧げる行事を続けるだけでいいのか知らん、と私は少々疑問に思います。「日本が侵略戦争を仕掛けないのは約束できるとして、日本がテロの標的になったり、他国から侵略された場合、どうするの? 『戦争は悲惨だから、やめて』って相手に言ったら、すぐやめてくれると思うの?」と問いかけたとしたら、あの賢そうな女子校生は自分なりの答えを持っているのでしょうか。私は、そういうことを考えることの方が、「戦争の悲惨さを日本から世界に訴えたい」などと誓うことよりも重要なのではないかと思うのです。とりわけ、現にイラクをはじめ世界のあちこちで紛争が続いていることが、日々ニュースとして飛び込んでくるこの時代、日本からいくら戦争の悲惨さを訴えたって、海の向こうでは誰も耳を傾けてくれないことがこれほど明らかな時代にあっては。 生意気なことを言いました。 さて、生意気ついでにもう一つ生意気なことを。 人事院が公務員の給与を引き下げることを政府に勧告したそうですが・・・それは一体どういうことなんじゃ! 私の理解では、人事院というのはそもそもストライキをうつことができない公務員のために存在し、全国の公務員に代わって給与アップを政府に訴えるものだと思っているのですが、違いますかね? その人事院が給与の引き下げを「勧告」してどうするんだって! 企業に対して給与「引き下げ」交渉する労働組合がどこにあるんだ!! しかも都市部に住む人と、田舎に住む人の給与格差を広げるそうじゃないですか。馬鹿たれ! 今日日、どこの田舎に行ったら物価が安くなると言うんじゃい!! いいですか、愛知県内の国立大を見たって、市内の名古屋大学と市外の大学では給与が1割違うんですよ。1割ですよ。実際には市内と市外にはほとんど差はないのに! それに郊外から市内の名古屋大学に通勤する人もいれば、名古屋市内から市外の大学に通勤する人だっているのに!! その格差をさらに広げるって、何考えとるんじゃ! それに民間との格差を埋めるってなことを言いますけど、じゃ、あのバブルの時代、民間企業の給与が鰻登りだった時代に公務員の給与を同率で上げたんですか?! 上げないじゃないですか。下げる時の論理としてだけ、民間企業と足並みを揃えるなんて、もっともらしいことを持ち出すなって! こんなデフレの時代、給与は下がる、ローンの支払いは変わらないじゃ、生活が苦しくなるばかり。私は別に贅沢をしてるとは思いませんが、生活、ギリギリですよ。公務員の給与がいいなんて、一体誰の話なんだ! まったく、わけ分からんことが多いなぁ・・・。 今日は、なんか否定的な発言ばかりで申し訳ないですけど、明日という日は明るい日と書くのですから、明日はなんか明るい話題出します。今日はこの辺で失敬!
August 15, 2005
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今日は小学校からの親友T君と旧交を温めてきました。 彼と私は小学校5年生の時からの友人ですから、かれこれ30年以上の付き合いになります。高校からは互いに別な道を歩みましたが、彼も私も比較的時間が自由になる職に就いたこともあって、感覚としてはそれこそ年中会っている感じがする。もはや「友人」というより「兄弟」に近いですかね。そんなわけで、私も夏休みなどに実家に戻る度に、彼には必ず連絡し、それでどちらからともなく「とりあえず会おう」という話しになる。今日もそんな感じで「とりあえず」会ってきたわけ。 で、今日は一緒にお昼を食べようということになり、小田急線の新百合ケ丘駅で待ち合わせ、駅南側の「マプレ商店街」の中のフランス料理店、「ビストロ パリエ」に向かいました。ここはランチだと840円くらいからありますが、今日二人が食べたのは「単品ランチ」という奴で、メインディッシュとパン(ライス)、それにコーヒーがついて1000円弱というもの。メインは肉料理と魚料理が選べますが、私は魚料理、T君は肉料理を注文。 魚料理は白身魚のソテーのバルサミコソース、肉料理はロールキャベツでしたけど、どちらもかなりおいしかった。これでコーヒーつきで1000円なら満足ですね。ちなみに私はレストランや喫茶店でコーヒーを飲む時、「○ジャータ」みたいな個別包装のコーヒーフレッシュを出されるとガクッとくるんですが、「ビストロ パリエ」で出されたコーヒーには、ちゃんとピッチャーに入ったクリームが添えられていました。その点でも合格、合格。 ところで、この「ビストロ パリエ」のあるマプレ商店街には他に「ラ・カンパァーナ」というイタリア料理の店もあって、ここはここで隠れた名店です。新百合ケ丘周辺にお住まいの方は、ぜひ一度行ってみて下さい。この2店、「教授のおすすめ!」です。 それはさておき、私の友人のT君、ある事情からこのところ少し元気がなかったのですが、今日会って話をしていたら、この先彼が手がけようとしているビジネスの話が次々と出てきてなかなか威勢がいい。彼が仕事の上での夢をあれこれ語っているときは調子がいい時ですから、私としてもひとまず安心。つられて私も今自分が抱えているプロジェクトの話を随分してしまいました。これだけでも、今日会った甲斐があったというもの。 しかし今日私が彼と会ったのには、「とりあえず」の他にもう一つ理由がありました。実は私には、彼に「楽天ブログ」デビューをさせようという腹があったのです。私もこのブログを始めてから、色々な人と出会い、教わることが多かったので、彼にもその楽しさを教えてやろうと思ったわけ。 しかし、T君というのはものすごい「アナログ人間」で、コンピュータにあまり興味がないタイプ。何しろEメールの代わりに手書きファックスを愛用し、情報はすべて印刷メディアから得るという男。今どき映画館の上映スケジュールを見るのに『ぴあ』を買いに走るというのですから、筋金入りのアナロッガーといわざるを得ない。そのT君にブログを始めさせるのだから、これは一仕事です。 でも何だかんだと手取り足取り教えて、とりあえず楽天広場にHPを開設させることには成功しました。ま、今日の仕事としては上出来かな。しかし、HPを開設しただけではまだ道半ば。毎日日記を更新し、内容を充実させていかなければあまり意味がありません。これからしばらくはT君を叱咤激励して、ブログの面白みが分かるところまで、引っ張っていかなければ。 ということで、今日はおいしい昼食をとり、親友と旧交を温めた上、筋金入りの「アナロッガー」をにわか仕込みの「ブロガー」に仕立て上げることに成功した一日となったのでした。今日も、いい日だ。 さて、今日は週末アフィリエイトの第2弾として、「教授のキッチンウェア・パート4」をご紹介しましょう。今回はパーティなどで重宝なグラスウェアやトレイを中心にセレクトしてあります。興味のある方はぜひ下の文字列をクリックしてみて下さい。ここをクリック! ↓キッチンウェア・パート4
August 14, 2005
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それにしても衆議院解散以降の政治ショーを見ていると、小泉さんの圧勝という感じがしますね。反旗を翻した37人は読みが甘いな。お砂糖みたいに甘い。 大体、民主主義というのは多数決の論理で動いていくのだから、党内で反対の議論をするのはいいとしても、一度党議で決まった以上、党として法案を出す時には賛成しなきゃいかんわけで、反対の票を投じるならまず離党すべきところですよね。離党はしないけど反対票を投じる、なんてことをするなら今回のような処分を受けるのは当然。従来の自民党では同じようなケースでも曖昧に処理されることが多かったので、甘く見たんでしょう。たった一つの法案に反対だからといって、「刺客」を差し向けてくるのは酷過ぎる、なんて綿貫さんや亀井さんは言いますけど、永田町で長年暮らしてきた政治家ともあろうものが、そんなところで泣き言をいうのはちょっと情けないんじゃないかなぁ。 また今回の衆議院の解散について、参議院で議案を否決したのに衆議院を解散するのはおかしいではないかという見方もありますが、それもどうでしょうかね。仮にもし国民の過半数が小泉改革を支持していたとして、参議院がそれを否決したのなら、それは参議院が民意を反映していないことになる。だからそれを衆議院の解散&総選挙で確かめようという小泉さんの意志は、一応筋が通っていますよ。 それでもし今度の選挙で小泉さんが勝ったとして、もう一度同じ郵政民営化法案を参議院で審議した場合、参議院はメンバーが同じなんだからまた否決されるだろう、なんて言う人もいますが、そんなことはない。たとえ同じメンバーで審議をしたとしても今度は否決できないはず。もし否決した場合、次の選挙の時にどういう仕打ちが待っているか、目の前で見ているのだもの。だから今度の選挙で小泉さんが勝てば、彼はついに彼の信念でもあり、また公約でもあったことを果たすことになると思いますよ。で、もしそうなった場合、今まで任期中に公約を果たした政治家なんて日本にはいなかったわけですから、小泉さんはかつてない豪腕の政治家だということになる。たとえば今は民主党の小沢さんなんてかつては豪腕だなんていわれていたし、風貌もそんな感じでしたが、なんのなんの、小泉さんの方がよっぽど豪腕だった、ということになるんじゃないでしょうか。 もっとも、急いで付け加えておきますが、私は小泉という人が政治家としてやり手だと言っているだけで、郵政民営化がいいのか悪いのか、その辺はまだよく分からないんですけどね。 でも小泉さんが旧来の自民党派閥政治を破壊したこと、これはとりあえず誰もが評価していいことではないでしょうか。多分、彼が出なかったら、閣僚を決めるにも相変わらず「○○派から何人、××派から何人」なんていう風習が続いていたでしょうからね。それにもう一つ、小泉さんが金権政治と無縁というところも私は評価します。年齢的にもまだまだ陰の力を発揮したであろう橋本龍太郎元首相が、ケチ臭いヤミ献金事件で「記憶にありません」なんて古いセリフを残して政界を去る情けなさを見ていると、小派閥出身でクリーンな小泉さんが、最大派閥出身の金権政治家を完膚無きまでにやっつけてしまったことは明らか。これなんか、昔の自民党だったら考えられないことですよ。そうそう、それを言ったら中曽根さんや宮沢さんなど、大年増の政治家をあっさり永田町から追い出してしまったのも小泉さんでした。やっぱり、豪腕だ! ま、そんな感じでかつての大物を全部片づけてしまった豪腕・小泉さんの対抗馬になりそうな人が、もはやどこにもいないということは、今回の解散騒ぎで一段とはっきりしましたね。期待の第2政党たる民主党も、この頃では昔の社会党みたいに「なんでも反対、民主党」になり下がった感がありますしねぇ・・。しかも岡田さんは今度の選挙で過半数とって政権をとれなかったら党首やめるそうですが、誰が考えたって民主党が過半数とれるはずがないのだから、事実上「もう辞めたい」と言っているようなものじゃないですか。羽田・小沢・管の三枚看板が表舞台を去って、もはや看板になる人がいないことが誰の目にも明らかなとき、しかもこれから選挙だって時に「自分も辞めます」というのと同義のことを言ったのではどうしようもない。参議院で否決されたって、あくまで自分の信念を押し通して見せると見栄を切った小泉さんと岡田さんとでは、もう役者が違い過ぎる。 国会での答弁や記者に対するコメントのうまさからして、小泉さんと他の人では雲泥の差がありますからね。小泉さんは「ワンフレーズ・ポリティクス」だなんて批判するのは簡単だけど、彼のワンフレーズがどうして効くのか、対抗馬になるべき人たちはまったく考えてないんだものなぁ。勉強が足りないですよ。 ・・・もっとも私は政治に関してはまったく無知なので、ここまで書いてきたことも誤謬だらけかも知れません。が、そんなこと言ったら国民の大半は私と同じくらい無知ですからね。民主主義というのは、別名「衆愚政治」といって、もともと私のような無知な国民が国の舵をとる政体なんですから、それは仕方がない。とにかく、無知は無知なりに、私は今度の選挙に興味津々です。あと1ヶ月、友人・知人と議論し、勉強しながら、誰に投票するか、考えていくつもりです。 ちなみに現在のところ、私のとりあえずの「政敵」は私の父かな? 私がどちらかというと小泉さんを評価しているのに対し、あまりはっきりとは言いませんが、父は彼の政治手法に批判的な模様。さて、家庭内政治論争においてキャスティング・ボートを握る母を説得できるのは果たして私なのか、父なのか。今、我が家は、熱い熱い「政治の季節」です。 さて、久しぶりに週末アフィリエイトと行きましょう。今日は「首相の座」にかけて、椅子のご紹介です。「教授の椅子・パート4」では、モダンで美しいデザイナーズ・チェアを厳選しましたので、ぜひクリックしてみて下さい。 ここをクリック! ↓椅子・パート4
August 13, 2005
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夏休みに入ってから学生の卒論指導、家族旅行、それに読書三昧と、色々楽しんできましたが、私も研究職に携わる身、そろそろ本格的に自分の論文を書かなくては。そうそう、研究して論文を書くことこそが私の本業なのだった! (時々忘れるらしい・・・) てなわけで、今日からは意を決して自分の論文に手を付け始めました。真っ白いワープロのスクリーンの冒頭に「○○用論文原稿」などと記し、標題は後回しにして、「序」と見出しをつけ、最初の書き出しの言葉をひねり出す時の、若干の苦渋を伴う期待感というのは、なかなかいいもんです。もっともこの先、筆が止まった時は、その「期待」がたちまち「絶望」に変わるんですけど。資料はあるし、書きたいことも分かっているのだけど、そのすべてを盛り込むためには、どの順序でどう書けばいいか分からない時というのは苦しいものでしてね。まったくこの「お気楽日記」を書く時と同じくらい、つらつらと書き進められればいう事はないんですけど。 ま、そんなわけで今日の午後は論文を書いて過ごしていたのですが、一日家にいると退屈してきてしまうので、少しお勉強した自分へのご褒美に、夕方から家の近くにある古本屋さんに行って息抜きをしてきました。 その古本屋さんというのは「ブックスーパーいとう」といって、東京の郊外でチェーン展開をしている店の一つ。私の家から近いのはそれほど大きなお店ではありませんが、ここは雑誌の品揃えが割と充実しています。今日、ここへ来ようと思ったのも、実はこの雑誌が狙い目。堅いものを書いている時は、内容のある本よりも頭を使わないで済む雑誌の方が読みたくなるもので。 そして今日ゲットしたのは『エスクワイア』誌のバックナンバー。一つは2000年2月号で「雑誌王国アメリカの100年」という特集。もう一つは2001年9月号で「別荘を持ってみない?」という特集です。前者は実は私の専門に係わるものなので、半分は仕事の資料用。後者は、建築好きの私にとって好きな話題の一つなんですな。『エスクワイア』って割と好きな雑誌ですが、扱っているところが少ないのか、家の近くの本屋さんには置いてなくて、普段あまり買って読むことはありません。ですから、バックナンバーが選べるこういう古本屋さんは、私にとってとても有り難いんですね。 で、夕食後、買ってきたこれらの雑誌をぱらぱらとめくってみましたが、ふーむ、なかなか面白そうじゃないですか! でも、今、ここでこれらを熟読しちゃったら、またしても論文が後手に回ってしまいますから、ここはぐっと我慢。論文が捗ったらご褒美に読むというルールにして、仕事をしましょう。勤勉でない私には必需品の「鼻先のニンジン」です。 ・・・おや、雨がにわかに強く降ってきたようですね。雨音というのは、案外インスピレーションになるもの。これを利用しない手はありません。これからもういっちょ頑張って仕事しますか。それでは、皆さん、また明日!
August 12, 2005
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昨日から綴っている山中湖旅行報告、第2弾です。 二日目(10日)は朝7時起床、7時半朝食。さすがに前の晩9時に寝ると、朝7時起きでも気分爽快。やっぱ、人間、できることなら早寝早起きでなくっちゃと思いましたね、つくづく。そんなわけで、私は珍しく朝から食欲モリモリ。普段は朝食なんて紅茶とクラッカーだけで、ほとんど食べないんですけどね。で、朝食後、まだチェックアウトには時間があったので、母の提案で湖畔を散策することに。宿から湖畔までは歩いて5分ですから、気軽なもんです。 散歩に出てみると外は快晴!ではなかったですけど、富士山は大きく見えました。月並みな言い方ですが、富士山ってのは雄大で姿のいい山ですね。でも素人が素人カメラで富士山を撮ろうとしても、その雄大さがうまく写らないのは、一体どうしたもんでしょうか? ま、それはともかく、湖畔はまだ人も少なく、散策するにはもってこいでした。水上スキーをやっている人が見事なターンを披露してくれたりして、なかなか面白かった。それから宿に戻ろうとする頃、山水荘のお隣にある明治大学の寮から自転車部の連中が自転車を連ねて練習に出かけて行くのを見かけました。健康そうな若い人たちがスポーツに興じているというのは、見ていて楽しいものです。それにしても、明治大学の山中湖寮というのはコンクリートとガラスで出来たモダンな建物で、一昔前の大学寮とは大違いですなー。ひょっとして山水荘より・・・いやいや、山水荘、なかなか気持ちのいい宿でしたぞ。 さて、宿をチェックアウトした後、二日目の日程はまず「山中湖美術館」からスタートです。ここは湖畔から少し入った森の中にある個人所有の美術館。基本的に版画の美術館ですが、コレクションの趣味はなかなかのもの。たとえば日本の版画家では駒井哲郎・池田満寿夫・谷中安規、そして外国ではピカソ、ブラック、ダリ、ジャコメッティ、ミロ、シャガール、クレーなどの作品が見られます。たまたま今回は「ミロと友人たち」という企画展示の最中だったので、ミロ作品が多かったかな。私はミロはさほど好きでもないのですが、ここに収蔵されている作品はみな良かった。多分館長さんと私の趣味が似ているのでしょう。それから今回はムンクの版画やクリストのスケッチなどもあったので、かなり楽しめました。後、ランボーの肖像を描いた作品も良かったのですが、作家名を忘れました。今回は見られませんでしたが、私の好きなコルヴィッツなんかもあるようです。 で、好きな絵を見ていい気分になったところで、今度は旭日丘地区(注:山中湖南部に広がる「旭日丘(あさひがおか)」という地名は、徳富蘇峰翁の命名だそうです。全国の新興住宅地に「希望が丘」とか「虹が丘」などの名前がつくことに苦言を呈する人は多いですが、その元凶は案外、日本近代ジャーナリズムの祖たる蘇峰だったりするのかも知れません)周辺にある雑貨屋さんを2、3軒めぐりましたけど、収穫なし。で11時頃、たまたま「焼きたてパンの店」という看板が見えたので、ここでちょっと早めのお昼をとることに。何せ昨日の昼から和食攻めでしたので、とにかくパンとコーヒーが食べたかったんです。 この店、「森の巣ギャラリー」という陶器やトンボ玉などのお店のすぐそばにあるのですが、これも名前を忘れてしまった。でもテラス席で焼きたてのパンを食べ、またコーヒーを飲んだら、何だか幸せになってきました。パンがうまいんですよ。たまたま我々の隣の席に60代くらいのいかにも別荘族らしい御夫婦がいて、ここのテラス席でお茶を飲み、なにやらパンを沢山買って帰られましたが、なるほどこの地にしばらく住んでいれば、おいしいパン屋がどこにあるか、とか、そういうことが分かってくるんでしょうね。この御夫婦は白いBMW(カー・デザイナーのクリス・バングルがめちゃくちゃにしてしまう前の、姿の良い5シリーズ)に乗って颯爽と帰られましたが、ま、こういう風景を見ると、よーし私もひとつ別荘をぶっ建てるために頑張って仕事するぞ! という気になります。(少しだけ、ね) ちなみにこのパン屋兼カフェレストランでは、絵本の展示室を併設していたので、帰りがけにミュージアムショップだけ覗きましたけど、ガーン! なんとそこに「ガスパールとリサ」のグッズが置いてあるじゃないですか! 実は私、密かな「ガスパール・ファン」なんです! ガスパールというのはフランスの絵本の主人公なんですけど、この絵本がまたとても色鮮やかで、いいんだなー。ポストカードとかクリアケースとか、ついつい買ってしまいましたよ。 さて、ここでのんびりと、楽しくお昼を済ませた後は、今日の目玉、「花の都公園」へ出発です。ここは山中湖の北西、湖畔から車で5分ほどのところにある花の公園。しかし、ここはちょっと中途半端だったかな・・・。なんとなくパンフレット見て、予想はしていたのですが、何もかも人工的で趣がないんですよ。私がこの種の植物公園で一番好きなのは、箱根にある「湿性花園」。ここにまさる植物公園はないですな。でもまあ、そうは言っても4人乗り自転車に乗って死ぬほどペダルを漕いだりして面白いこともあったので善しとしましょう。 そして花の都公園を十分に楽しんでからもう一度山中湖畔に戻り、「コスタ」という名の湖の見えるカフェギャラリーでコーヒーとケーキを楽しみました。ケーキの種類が少なかったのが残念でしたが、湖が間近で見られる立地はなかなかの魅力でした。そしてこれをもって今回の短期旅行の日程をすべて終え、行きと同じ道を通って帰宅。 今回の旅行は近場ということもあって、本格的な旅気分というのは味わえませんでしたが、それでも三島由紀夫文学館や山中湖美術館、そしてパンのうまいカフェテラスでののんびりした気分など、旅行ならではの楽しみも随分ありました。家族旅行というのはどんなものであれ、いい思い出になります。今年は諸般の事情から例年とは異なる短期旅行になってしまいましたが、帰宅後の夜の家族トークでは早くも来年の夏の旅行に向けてのアイディアが噴出。来年も家族のメンバーが揃って楽しく旅行ができることを祈りつつ、今日はこの辺で筆を置きましょう。 といいつつ、今日は少しアフィリエイトを。上にも書きましたが、今回の旅行で私も入手してしまった「ガスパールとリサ」関連グッズを、「教授のアトリエ・パート5」に揃えておきましたので、興味のある方はぜひご覧下さい。ガスパール、可愛いんだよなー!ここをクリック! ↓アトリエ・パート5
August 11, 2005
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山中湖への家族旅行から帰って来ました。今日は早速、そのお話しを。 昨日(9日)は朝10時頃自宅を出発。東名下りは横浜・町田のあたりで少し渋滞しましたが、その後はトラブルフリーで御殿場に到着。インターを降りてから国道138号と東富士五湖道路を使って山中湖へ。2時間半のドライブでした。渋滞がなければ2時間弱で着いたはず。近いもんですね。 さて現地に着いての最初の楽しみは昼食です。せっかく山梨県に来たわけですから、ここはやはり名物の「ほうとう」を食べたいところ。そこで、有名なほうとうのチェーン店である「小作」でほうとうをいただきました。ちなみに「ほうとう」というのは山梨県の名物で、独特の幅広のうどんを野菜たっぷりの味噌味スープで煮込んだものですが、南瓜の入った「南瓜ほうとう」が本式。うまいもんですよ。そして、帰りには小作オリジナルの味噌も買ってしまいました。ここの味噌がまたうまいんだ。「教授のおすすめ!」です。 で、ここでお腹もくちくなったところで、いざ「山中湖文学の森」へ。ここは三島由紀夫館と徳富蘇峰館が向かい合わせに立っているので、まずは三島館から見学。 ま、展示室は一つだけというシンプルなものでしたが、内容はなかなかのものでしたね。展示してあった写真などはすでに見たことのあるものが多かったですが、それでも彼の自筆の原稿が見られたこと、それから彼の肉声が録音テープで聞けたことは私にとって収穫でした。案外、聞き取り難いしゃべり方だったのは、ちょっと驚きでしたけどね。私はもっと滑舌の良い人なのかと思っていたものですから。ただ、彼のしゃべっている内容は、なるほど彼らしいなと思うものが多かった。中でも特に印象深かったのは、「僕なんかが、古い日本語が読み書きできる最後の世代だろう。事実、日本でもすでに安部公房のような作家が登場している。これからの作家は、日本であれ外国であれ、伝統から切り離された書き方をするしかなくなるだろう。しかし、僕にはああいう書き方はできない。それはもう仕方がないことなので、僕は古典的な書き方をするしかないと思っています」というような内容のことをしゃべっていたことです。三島という人は、自分がある伝統の最後に連なるものだ、という自覚を抱いていたわけですな。 それから、もう一つ意外だったのは、彼の小学校1年生くらいの時の作文です。栴檀は双葉より芳し、ってなことを言いますから、天才三島は幼少の折、どんな文章を書いていたのか、興味津々だったのですけど、それがまた「今日、僕は○○をしました。とても○○だったので、びっくりしました」式の、子供らしい平凡な作文なんですよ。私の母に言わせると、私のその年頃の作文はもっと凝ったもので、文彩の点でも三島どころの騒ぎではなかったとのこと。私自身よく覚えていますが、確かに小学校1、2年頃の私は「今回の作文では冒頭に擬音を持って来て、ちょっと読者を驚かせてやろう」などと考えながら作文していましたから、その点ではひょっとして三島以上(!?)だったかも。惜しいことをしました。(何が?) ところで、ここまで何だか三島のことをよーく知っているような書き方をしていますけど、実は私は三島の小説作品の良い読者とはとても言えず、まともに読んだのは『金閣寺』くらいかな? こんなことをいうと三島ファンから怒られるでしょうけれど、三島の文章というのは、余韻がないというか、艶がないというか、文章はうまいんだけれど、それでいて妙に無味乾燥なところがあって、どうも私は苦手なんですね。彼はギリシャ信奉者でしたから、文章まで地中海気候的なものになってしまったわけでもないのでしょうけれど、彼の小説の文章を読んでいると、何だかタイルを貼り合わせて作ったモザイクの絵を見ているような気がしてくる。結果として出来たものは整然としてきれいなんだけど、それを構成しているピースはとてつもなく無機的な感じがする、とでも言いましょうか。そんなこともあって、三島に関しては私はむしろ評論とかエッセイのようなものの方が好きかな。 一方、三島に関する本というのは、これは面白いものが多く、それは随分読みました。それらを読むと、三島という人は友人として持つにはとてもいい人だったろうなと思わされますね。とてもデリケートで、優しい、人間味のある人。しかし、人に対してあれだけ親身に思いやる人が、自分の人生に関してはああいうふうな死に方を選んでしまうのだから、三島という人は本当に不思議な人です。結局、彼は「人間通」だったのか、そうではなかったのか。私には謎ですね。それだけに、とても興味はあるのですが。 ちなみに、数多い三島本の中で、私が好きなのは澁澤龍彦が書いたもの。逆に嫌いなのは父親の平岡梓の書いた『伜・三島由紀夫』です。自決した自分の息子のことを語るというのに、よくもまあこういうことが書けるものだと呆れるほどのもので、その怪物的なまでの俗物ぶりがあまりにもひどいので、逆に人に一読を薦めたくなるほどのものです。 さて、大分話しが逸れました。そうそう、三島館に行ったところまで言いましたよね。で次に徳富蘇峰館にも行きましたが、こちら予想した通り、それほど興味が起こりませんでした。精力絶倫のジャーナリストだった、ということは分かりましたけど。 ところで「山中湖文学の森」はこれら二つの文学館だけでなく、林の中の散策路が整備されていて、富安風生の句碑などが点在しているので、我々もその辺をちょいと散策したりして十分に堪能し、それから宿に向かうことにしました。 ちなみにこの日泊まったのは「花薫る宿 山水荘」というところ。まあ、よくある観光地の旅館という感じでしたね。和風の旅館に泊まるのは久しぶりで、部屋出しの夕食とか、それが終わると係の人が布団を敷きに来てくれるとか、「そうそう、こういう旅館に泊まると、こういうふうだったよな」と思い出しました。私などはもうこの頃、こういうサービスを受けるのが面倒臭くなってきて、ホテルやペンションのように放っておいてくれるところの方がむしろ落ち着くような感じがしますが、しかし、山水荘のサービス自体はとても良かったです。フロントの人も、部屋の係の人も、押しつけがましいわけではないのに、ここぞという時にさりげなく親切で、とても好感が持てました。 ということで、ここのお風呂と夕食を楽しんだ後、さて恒例の家族トークで深夜まで盛り上がる・・・つもりだったのですが、どういうわけかこの日に限って皆、眠たくて眠たくて、結局9時には散会して一同爆睡という事態に。こんなことは我が家では珍しいのですけどね。かくして旅の一日目は終了。 で、二日目ですが、もうここまでで随分長くなってしまいましたので、この続きはまた明日ということにいたしましょうか。それでは、皆様、お休みなさい。あー、何だか今日も眠たいや。眠り病かしらん。ぐーぐー。
August 10, 2005
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明日10日は私の父の誕生日なので、それをお祝いしがてら、今日から明日にかけて家族で山中湖に小旅行に行ってきます。我が家ではこういう小旅行というとたいていいつも箱根に行くのですが、今回はちょっと目先を変えて山中湖を目指します。 山中湖というとバブルの頃にはテニス合宿のメッカみたいになっていて、夏休み期間などにうっかりドライブしようものなら、テニスウェアを着た若人の群れに遭遇してしまって、こちらが普通の格好をしていると、何だか逆に恥ずかしいみたいな感じだったもんですが、最近はどうなんでしょうかね。もうここ4,5年は行ったことがないので、最近の山中湖がどのようになっているのか、かなり楽しみです。 ところで山中湖に行く時、私にとってはずせないのが「山中湖美術館」です。ここは版画中心のこじんまりとした個人所有の美術館ですが、ブラックや駒井哲郎など私好みの版画が多く、またいかにも森の中の美術館という感じがして、結構好きなんですよね。幸い、予約した宿がこの美術館の近くなので、早めにチェックインしてから散歩がてら覗きに行くのもいいかも知れません。中でお茶を飲むのもいいかも。 また私は行ったことはないのですが、最近「山中湖文学の森」というのができたらしく、三島由紀夫と徳富蘇峰関連の資料が見られるみたいですね。三島由紀夫はいつの時代も人気作家ですからいいとして、徳富蘇峰とはまた渋い選択ですな。しかし、こういうところに行って資料などを眺めると、これまで縁遠かった蘇峰にも興味が沸いてくるかも知れませんから、ここを訪れるのも楽しみです。 ま、この他には特に予定を決めていませんが、そんなに欲張らず、のんびりと小旅行を楽しんで来たいと思います。また帰って来たらその報告もいたしますので、お楽しみに。それでは、また!
August 9, 2005
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スペースシャトル、今日地球に帰還するんですよね。何やら若干の不安要因もあるようですが、無事帰還してくれればいいなと思います。 とはいうものの、私は「宇宙飛行」ということに関してまったく興味がなく、宇宙に行ってみたいというような希望を持ったことなど、子供の頃から一度もありませんでした。私なんぞはもろに「アポロ11号月面着陸」世代ですから、クラスメートとかには「大きくなったら宇宙飛行士になる!」なんていう子もいましたが、そんな子を横目で見ながら、「気が知れんなー」と思ってたのが幼少の頃の私です。そういうお祭り騒ぎにはまったく乗らない子供でしたからね。その後、立花隆の『宇宙からの帰還』を読んで、宇宙体験というのが人間に及ぼす精神的影響を知り、ちょっと興味を持ったことはありますが、それでもやっぱり宇宙に夢を託す人の気が知れない、というところは依然としてあるな。 科学的な見地に立てば、きっと宇宙空間というのはそれ自体すごく興味深く、また地球上では出来ない実験などが出来るという意味で、宇宙へ行くということは人類にとって重要なことではあるのでしょう。ですから、自分に理解できないからといって、人類が宇宙に行くことについて文句を言うつもりはさらさらありません。 ま、それはそうなんですが、しかし、私にはスペースシャトル計画に関して一つ疑問に思うことがあります。スペースシャトル計画に関しての疑問というよりは、それに乗って宇宙に飛び出して行った過去の日本人宇宙飛行士たちの宇宙での言動についての疑問なんですが。 その疑問とは、「そもそも彼らは何をしに宇宙に行ったのか?」ということです。 このところスペースシャトル関係のニュースを見るたびに、私が目撃するのは、野口さんがラーメンを食べているところだったり、記念写真を撮っているところだったりする。今日見た映像では、野口さんは手品をやっていました。これは一体、何事なのか。野口さんだけではありません。過去には下手な俳句か何かを披露していた人もいましたよね。 もちろんこういうのは、宇宙飛行士本来のミッションを果たした後で、「余興」としてやっているのでしょう。しかし、それにしてもわざわざ宇宙まで行って、そこでラーメンを食べて見せたり、手品をやったり、俳句をひねったりすることが、たとえば日本の子供たちに宇宙への興味を抱かせるきっかけになるだろうと思っているのだとしたら、それはすごくセンスが悪いと私は思うのですけど、そう思うのは私だけなのか。 宇宙というのは、ラーメンを食べたり、手品をしたり、記念写真をとったり、俳句をひねったりするよりも、もっと重要な場所なのであって、それをするために莫大な費用を掛けるだけの意味があるのだ、ということを、私はちゃんと説明してもらいたい。報道する側もそういうことを心がけない限り、「宇宙飛行士なんて、ドーンと打ち出されて、しばらくぷわぷわ浮いて、チューブから宇宙食を食べて、後はパラシュートで落ちてくるだけじゃん」とせせら笑った子供時代の私のような可愛くないガキを増やすだけだと思うのですが、どうでしょうか。 どういうつもりなのかは知らないですけど、野口さんのおちゃらけた映像を嬉々として日本中に流している報道関係者の人たちに、私は強く一考を促したいと思います。
August 8, 2005
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今日は珍しく勤勉に仕事をしていました。 しばらく前から時々話題に挙げていますが、今私が調べているのは、第2次世界大戦中の「日系アメリカ人強制収容問題」についてです。私の指導学生がこのテーマで卒論を書き始めたもので、私の方でも少し予備知識を仕入れておこうと思って手を着けたのですが、やり始めるとなかなか面白いこともあり、自分の研究分野とはかけ離れているものの、結構熱中してやっています。それにこの種の調べ物がまるで自分のためにならないというわけでもないんです。こういうことをある程度深く調べておくと、急に大学で「日米交流史」なんて授業を持たされた時にネタとして使えますからね。あるいは「アメリカ文化史」で使ってもいいかな? ま、「教えることは、学ぶこと」ですから、学生を指導すると言いながら、私が一番勉強してしまうわけ。 でも、どんなことであれ、モノを調べていると面白い発見が色々あって、それまで漠然と抱いていた先入観に変更を強いられることがある。たとえば今回、私がちょっと見直してしまったのは、エドガー・フーバーFBI長官です。彼はFBI長官の職に長く留まり過ぎ、この国家機関をあたかも私物であるかのように駆使して自らの政治力を強めていった評判の悪いおじさんで、私もなんとなくいい印象を持っていなかったんですけど、少なくとも日系アメリカ人強制収容問題に関しては、決して変なことは言っていません。この問題に関して、彼ははっきりと中立・公正な立場を取っていて、「軍事的観点からいって、日系アメリカ人がアメリカの国益に反するようなことをしている証拠は何もない」という至極まっとうな報告を大統領に提出しています。いや、フーバーさん、あんたはえらい。ちょっと男を上げましたゾ。 一方、逆に男を下げたのはフランクリン・デラノ・ローズベルト大統領ですな。アメリカの歴代大統領の中でもワシントン、リンカーンについで評価の高いFDR大統領ですが、日系アメリカ人強制収容問題に限って言えば、彼の判断は明らかに誤っている点が多い。そもそも人種差別丸出しの一部軍関係者のご注進を鵜呑みにして、日系アメリカ人の強制収容を認める大統領命令を出してしまったことからしてどうかと思いますが、その後、先に挙げたフーバー長官や、その他政府高官が「日系アメリカ人がアメリカに対する破壊工作や諜報活動に携わったという証拠がまるでないんだから、いつまでも強制収容していたらまずいでしょ」という意見を出しているのにも係わらず、「大統領選挙も近いし、アメリカ大衆の人気を得るためにも、あいつらもうちょっと収容所に放り込んどけ」というような判断をして、なかなか強制収容の解除命令を出さなかったというのもあんまりな話です。そりゃ、すべての面において完璧な政治家なんているわけもありませんが、それにしてもローズベルトさん、少し酷過ぎはしませんか、と言いたくなりますね。 ・・・とまぁ、そんな具合で、このテーマで調べ物を進めながら「へぇー」とか「ほぉー」とか言いつつ、あっちで感心したり、こっちで憤慨したりして、それなりに楽しんでいる私なのでした。それにしても、インターネットで得た各種写真なども盛り込みながらノートを作っていたら、もうそれ自体が立派な卒論みたいになってきてしまったんですけど、どうしましょう。何もそこまでやらなくてもいいのですが、私も一度凝りだすと、結構力が入っちゃうんですよねー。 というわけで、今日は大分仕事が捗りましたので、明日は少し散歩にでも行きますかね。あまり家にこもっていてもつまりませんから。それでは、また!
August 7, 2005
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昨日、本屋さんで岩波文庫版の『モンテ・クリスト伯』を買いました。全7巻だったかな? 昨日私が買ったのはそのうちの1巻と2巻だけ。ま、とりあえず、ね。 『モンテ・クリスト伯』というのは、日本では『巌窟王』と言った方が通じ易いのかしらん。私は小さい時に、子ども向けに書き直された『岩窟王』を読んでしまったために、なんとなくエドモン・ダンテスの数奇な運命をたどったこの物語のことを既に知っているような気になってしまい、それでこの歳になるまでオリジナル版で読んだことがなかったんですけど、あるきっかけがあって、この際、一夏かけて全7巻を読み切ろうと思ったわけ。 そのきっかけというのは、ついこの間、大学時代の恩師の先生(現在は80歳を越えておられます)からお便りをいただき、そのお便りの中で先生が『モンテ・クリスト伯』のことに触れられていたからなんですね。先生もこの度、初めてこの物語を読まれたそうなのですが、すごく面白かったとおっしゃっていました。 ちなみに、この小説の主人公たるエドモン・ダンテスが活躍した時代というのは19世紀のはじめ、すなわちナポレオン時代なんですが、その前後のフランスの政変というのはすさまじかった。まず王政があって、そこへ革命が生じ、共和制となる。それから今度はナポレオンが出て帝政となり、彼が倒れて再び共和制に戻り、と思ったらナポレオンが復活し、また倒れ、そうかと思えば今度はナポレオン三世が出て再び帝政に・・・とまあ、そんな具合で、人が生きて死ぬまでの間に何度も何度も政変が起こる。そしてその度に、倒された政治家はギロチンで首が飛ぶわけ。当時のフランスの人々はそういう激しい時代を暮らしていたし、架空の人物とはいえ、エドモン・ダンテスもまたそういう動乱の時代を生きた人なんですな。 で、それに比べると現代の日本というのは、何もないね、と、私の恩師はおっしゃっるわけ。確かに太平洋戦争は大きな出来事であったけれど、その後60年間というもの、少なくとも18世紀末から19世紀にかけてのフランスに起こったような大きな政変はなかった。ということはつまり、私にとっては生まれてこのかた、そういう意味での激動の時代などなーんにもなかったということですな。そういう時代、そういう国に我々は生きている。 ということは、言い方を変えると、今の日本は「大河ドラマ」が作れない時代だ、と言えるのかも知れません。 たとえば我々は400年前の「戦国時代」のことを易々とイメージできます。それは織田信長の時代であり、豊臣秀吉の時代であり、徳川家康の時代であった、と言えばいいのですから。もちろん武田信玄の時代と言ってもいいし、上杉謙信の時代でも、伊達政宗の時代であってもいい。とにかく我々は彼らを通してその時代を知ることが出来るし、また逆に、そういう時代に生きた人たちとして、彼らのことを知ることが出来る。日本史に疎い私ですら、本能寺で裏切りの炎に巻かれながら「人生五十年」と歌い舞った信長の心が分かるような錯覚を持っていますからね。批評家の小林秀雄が「昔の人間は、本当に人間らしい形をしていたよ」と言ったのは、そういう意味でしょう。 だとしたら、未来の日本人は、現代の日本を、あるいは現代の日本人を、何をよすがに思い出すのでしょうか。今から400年後の日本史の教科書に、「昭和後半から平成にかけての時代については、不明なところが多い」なんて書かれたりして。 そんなことあまり考えたことなかったですけど、恩師の先生のおっしゃられた一言で、つい色々なことを考えてしまいました。もちろん、「何もない」ということがよい事なのか、悪い事なのかは判断が難しいですけどね。しかし、ま、そんなこともあって、今の日本と違う激動の時代の物語でも読んでみようかと、そう思った次第なんです。先生によれば、デュマが描き出すこの激動の物語はものすごい迫力だそうで、昔の小説家の力量にはほとほと呆れてしまうとのことですが、一夏かけて取り組むには、恰好の相手なのかも知れません。今から楽しみです。 それはそうと、この件に関連して一つ思うことは、この種の世界的な名作を「子ども向け」に書き直して、それを子供に読ませるということは、果たして良いことなのか、どうなのか、ということです。冒頭で言いましたように、子供の頃、子ども向けの『巌窟王』を読んでしまったことが、私とこの大小説との出会いを大幅に遅らせた原因なのですが、そういうことを考えると、名作の簡約版などを子供に読ませない方がよろしいのではないでしょうかね。世の親御さんたち、お子さんのためを思えば、子供用世界名作集などを買い与えない方がよろしいですぞ・・・。ん? そもそもうちの子は本を読まないですと? それどころか、親御さんたち自身も本など読んだこともないと・・・。なるほど、余計な心配だったようで・・・。
August 6, 2005
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昨日、愛車プジョーをかっ飛ばして東京の実家に舞い戻りました。3週間ほどこちらで休暇を過ごす予定です。 ところで私は車の運転がすごく好きで、エンジンの音を聞きながら走ることが嫌いでないせいか、車中でラジオやオーディオを聞くことはあまりありません。もちろん車には純正のラジオとカセット(今どき・・)がついていることはついていますが、あまり活用してないですね。 しかし、今日はどういうわけかちょっと気が向いたので、カセットテープでも聞こうかなと思い、その辺にごちゃごちゃ置いてあるテープの中から一本を無作為に取り出し、何が入っているのか分からないけどとにかくカセットに突っ込んでみたわけ。すると・・・ 走り慣れた東名高速がいきなりカリフォルニアのフリーウェイに変身したじゃないですか! 実は3年前の夏、1ヶ月ほどロスに滞在していた時に、地元のFMラジオ局の放送をテープに吹き込んで、それをお土産として持って帰ったことがあったのですね。で、私が無作為に選んだテープがたまたまその中の一本だったわけ。そのテープを車に積んでいたことはもちろん、そういうテープの存在そのものを忘れていたんですけどね。 でもそのテープを聞いていたら、とたんに蘇りましたよ、3年前のロスの夏が。特に、当時流行していた曲なんかがかかると、その夏の色々なことがまざまざと思い出されてくる。ほんと、記憶を蘇らせる「魔法のテープ」って感じです。 しかし、我ながらいいアイディアでしたね、このテープ。外国へ行ってつまらないマグカップとか、Tシャツとか、キーホルダーなんかをお土産に買って帰る人は多いですけど、(実は私もその一人なんですけどね・・・)、そんなものよりもむしろその土地のラジオ放送をテープに吹き込んで持ち帰る方が、その時のことがまざまざと思い出されて、いいお土産になるような気がします。音って、かなり記憶力に作用しますからね。それに、今は録音装置も小型化されていますから、そういうものを外国に持っていっても、そんなに邪魔じゃないのではないでしょうか。 もしこの夏、海外旅行など予定されている方がいらっしゃいましたら、私のこのアイディア、応用してみてはいかがでしょうか? それがなかなかいいもんだということは、昨日のドライブで私自身が実感しましたから。 ということで、外国に行って「音」を持ち帰るというこのアイディア、「教授のおすすめ!」です。
August 5, 2005
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毎週火曜日の夜7時半から、NHKの教育テレビで『スーパー・ピアノレッスン』という番組をやっています。一流のコンサート・ピアニストがピアノの個人レッスンを行なう、というのが番組の趣旨で、前半にはレッスンの模様が延々と映し出され、後半には今練習している曲の作曲者にまつわるエピソードがビデオで紹介されたり、先生による一種の「模範演奏」がなされたりする。ま、そんな感じで後半にちょっと「息抜き」が用意されているとはいえ、全体としてみると淡々とした調子で進行していく番組です。で、最初に見ると「なんじゃ、こりゃ?」という感じを受けるのですが、毎週続けて見ていくと、この淡々としたところがなんとも言えずいい味に思えてくるんですなー。 ところで、なんでまた私がこんな番組を毎週見ているかと申しますと、もともと家内がこの番組のファンなんですね。家内は自分でもピアノを弾くので、一流の先生の教え方が面白いのでしょう。そこで彼女に付き合って私もこの番組を見るようになったというわけなのですが、実はこのところ、私もこの番組にはまっています。というのも、最近この番組の先生が交代したのですが、新しい先生と前の先生との教え方が余りにも違っていて、その違いがすごく面白かったのと、その新しい先生の教え方に非常に心惹かれるところがあったからなんです。 ちなみにこの間までの先生はフィリップ・アントルモン氏で、練習曲はモーツァルトでした。そして今放送しているのは、ジャン・マルク・ルイサダ氏で、練習曲はショパンです。 もっとも、私はもともとクラシック音楽にさほど詳しくないので、この二人の先生がどういう人たちで、ピアノの世界でどの程度の評価を受けているのかなど、全然分かりません。しかし、「教師」として見た場合、両者の指導法はホントに違うんですね。 まずアントルモン氏はどうかと言いますと、彼はとにかく感情をほとんど表に出さない。常に難しい顔をしているコワイおじさん、という印象があります。そしてその教え方の根本義は「楽譜に忠実であれ」です。生徒さんが変な弾き方をしていると、「違う! 楽譜をご覧なさい! どう書いてありますか。「段々強く」でしょ! さ、もう一度!」ってな感じ。もし仮に私が教わる生徒さんの立場だったら、こんなおっかない先生にこんなことを言われたら、ますます萎縮してしまいそうです。もっともレッスンの最後あたりで一瞬にこやかに「大分上手になりましたネ」などと言ってくれることもあって、その時だけはちょっとホッとしますが、しかし少し勘ぐると、「お前なんか、せいぜいこの程度弾ければ上等だ。それ以上を目指そうなんて馬鹿な考えは持つなよ」という意味の微笑みにも見えてくるので、余計コワイ。 ところが今レッスンを担当しているルイサダ氏は、アントルモン氏とはまるで逆。レッスン中も終始ニコニコして、可愛いおじさんって感じなんですね。そしてそのレッスンがまたとてもアクティヴで情熱的。生徒さんが意に沿わぬ演奏をすると、もう自分の椅子に座っていられずに飛び出してきて、「ほら、こうやって肘を張って」とか「袖をまくって手首を見せて」「手首に窪みがつくくらい力が入りすぎている」などと、実際に生徒さんの身体に触れて、演奏姿勢から直したりする。とにかく教え方がアクションに満ちているんですな。そこが見ていてすごく面白い。 しかしルイサダ先生で一番感心するのは、そういう情熱的指導だけでなく、ものを教える時の「比喩表現」のうまさです。たとえば、曲調が途中でがらりと変わる曲の時など、「二人の別の人間がピアノを弾いているように」弾きなさい、と指導したり、あるいは左手の伴奏部分について、「小指とその他の三本の指は別のものだと思いなさい。ここに小指君がいる。そしてこっちにその他の三人がいる。これは別のものです。あなたの演奏では、小指君とその他三人の区別がつきません」などと説明したりするわけ。聞いている素人の私でも、思わず「なるほど!」と思ってしまいます。比喩がうまい、というのは教師の資質として非常に重要なことですからね。 また一つのことを教えるのに、複数のアプローチを持っていることにも感心してしまいます。たとえば昨日の生徒さんの場合、どうしても速く弾きがちで、演奏に抑揚がなかった。そこでルイサダ先生も最初のうちは「そうじゃありません、もっとゆっくり弾いて」と何度もアドバイスしていたのですが、そのアドバイスの効果がないと見ると、「では、別な提案をしましょう」と言って、「そこのところはだんだん強く弾くようにしてメリハリを出してご覧なさい」とアドバイスするんですね。で、その生徒さんも今度はメリハリを出すのに気を取られて、必然的にその箇所をゆっくり弾かざるを得ず、結果としてルイサダ先生の思惑通り、生徒さんの速過ぎる演奏を直してしまうんです。もう「お見事!」と言わざるを得ません。 もちろん、これは「スーパー」ピアノレッスンですから、アントルモン先生のような峻厳極まりない教え方ももちろんあってよいと思います。私の家内なんかも、アントルモン先生の教え方はいい、と言っている。しかし私のようなド素人から見ると、ルイサダ先生の教え方に魅力を感じます。「ルイサダ先生にバイエルから習いたい!」などと、つい思ってしまいますもんね。私も職業としては「教師」なわけですが、ルイサダ氏の教え方の巧みさは、「教師」としての視点から見てもすごく参考になります。 ということで、ピアノに関心があろうと無かろうと、一度ルイサダ先生の情熱的かつ知的なレッスンぶりを見てみるのも一興だと思いますよ。毎週火曜日夜7時半、 NHK教育テレビの「スーパー・ピアノレッスン」とルイサダ先生は、ズバリ、「教授のおすすめ!」です。 ところで、パン・パカ・パーン! 昨日をもちまして、この「教授のおすすめ! セレクトショップ」への累積アクセス数が10,000を越えました。ご愛読いただいている皆様には、感謝、感謝でございます。今後とも、その日その日のよしなし事について、私の思いを綴っていきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。 それでは、また明日!
August 4, 2005
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月曜日の夜、見てきましたよ『アイランド』。以下、そのお話しですが、まだ見ていない方でこれから見ようかなーと思っていらっしゃる方は、ネタバレにご用心。 まず最初に言っておこうと思いますが、予想していたより2倍くらいは面白かったです。とにかく映像的にかなり迫力があり、適度にスリルもあるので、2時間20分を長いと感じさせません。娯楽映画としては、そこそこよく出来ている。事実、ちょっと前に話題になった『アイ、ロボット』と比べたら、こっちの方がよっぽど面白いです。大画面で迫力ある映像を楽しもうというのなら、十分おすすめです。 ところがこの映画の面白さというのは映画館の中だけで通用する話でありまして、映画館を一歩外に出てしまうと、どうということのない映画だなぁ、ということになる。つまりこれはジェットコースターみたいな映画なのであって、見ている間だけキャーキャー楽しんで、ああ面白かった、というだけのものです。その意味で、例の私のインスピレーション評価では72点ですね。ただ冒頭でも言いましたように、実際にはこの点数以上に楽しめる映画だということは言っておきましょう。ビデオで見るより映画館で見た方がいい映画であることは絶対に確か。 ところで、おそらくある程度の映画ファンなら誰でも思うことでしょうが、この映画を見た後で、我々は奇妙な「既視感」に襲われます。あれ、この映画の一つ一つのシーン、どこかで見たことあるぞ、という感覚ですね。 まず冒頭に描かれる一種の未来社会の映像ですが、この徹底的な管理社会の描写はジョージ・ルーカスの出世作『THX1138』にそっくり。恋愛感情まで管理されているので、男女の間に何の感情も起こらないという状況も似ていますし、あるきっかけからそういう状況に疑問を抱くようになったヒーローとヒロインが、管理社会の「エデンの園」から外へ出ざるを得なくなる、という筋書きまで似ている。ついでに言えば、地下の管理社会から逃げ出し、外の世界に飛び出てみたらそこに荒涼とした乾燥地帯が広がっていたというところもまったく同じです。 また管理社会を逃げ出した主人公たちと、それを追いかける連中と間で繰り広げられる追跡シーンは、これは『マトリックス2』や『アイ、ロボット』を思わせますね。 またこの『アイランド』の中では、秘密裏にクローンが生産されているということになっているのですが、そのクローンが人工羊水の中で臨月の時を待つ風景は、これは既に『マトリックス』で見たような気がする。また各クローンには記憶が植えつけられているので、自分がクローンだと思っていないという状況は、これはもう『ブレードランナー』のレプリカントたちと同じ状況です。そしてそのクローンたちが、次第に普通の人間と同様の感情を持ち始めるという筋書きも『ブレードランナー』に似ていますし、あるいは『アイ、ロボット』と同じだと言えるでしょう。ついでに言えば『アイ、ロボット』の中でも主人公(?)のロボットが自分たちの未来を予言するような絵を描きますが、『アイランド』でもそれとまったく同じことが起こります。 さらに言えば『アイランド』と『アイ、ロボット』の最後のシーンは、もう映像的に完全にかぶっている。いや、管理社会の元締めをやっつけて、自分たちと同じ運命の仲間たちを救うという意味では、『トータルリコール』のラストシーンとも重なっているかな? ・・・とまぁ、そんな感じで、この『アイランド』という映画、筋書きの点で、あるいは映像として、過去のSF映画とかぶるところがやたらにある。だもので、この映画のオリジナリティーって一体何だ? と思い始めてしまうと、「何もないじゃん」という結論が速攻で出てきてしまうんですね。私がこの映画に高い得点を付けられないのは、結局、この「オリジナリティー完全欠如」のゆえです。 しかしよく考えてみると、SFの想像力というのは、もともとそれほど多様なものではないのかも知れませんね。だって、今までのところSF映画というのは、1 人間の記憶や認識は、人の手で操作可能なものかも知れない。あるいは、我々が現実だと思っていることは、ひょっとすると架空のものかも知れない2 人間は人間に近いもの(コンピュータ・ロボット・サイボーグ・クローン)を作りだせるかも知れない。あるいはそうした人工物にも、人間と同じ感情が芽生えるかも知れない3 過去や未来へ行くことができるかも知れない4 地球人以外にも未知の生命体はいるかも知れない というわずか4つの想像力しか生み出していませんから。ひょっとするとまだあるかも知れませんが、それを加えたって大した数ではない。 つまり現実の縛りがないのだから、想像力を働かせさえすれば無限のストーリーが考え出せるだろうと思うと実際にはそんなことはなくて、せいぜいこの4つの要素の組み合わせで変奏曲を奏でるしかない、ということなのでしょう。でこの4つはH・G・ウェルズとカレル・チャペックとP・K・ディックとアイザック・アシモフで完成しちゃうんですから、後はその焼き直しということになる。「天が下に珍しきものなし」ということは、SFの世界でも通用するんですな。 ま、一つ慰めとなるのは、特撮の発達は今後もあり得る、ということかな。実際、『アイランド』の特撮にしても、こんなのどうやって撮るのだろうと思うようなド迫力の映像の連続ですからね。そこは、やっぱり見ていて面白い。 そんなわけで、「今日の結論」としては、ごたごた言わずに『アイランド』は映画館で見て楽しめ! と言うことですね。この映画、(そこそこ)教授のおすすめ! です。
August 3, 2005
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思えば私は、小さい頃から「出版」というものに魅せられていたのかも知れません。 最初に「出版」の真似事をし始めたのは小学校3年の時でした。確か班ごとに何かキャラクターを作るという宿題か何かがあって、うちの班では私の発案で、ある動物キャラクター(ビーバーなんですけどね)を作り出し、班のマスコットにしたのですね。ところが、そのうちにそれだけではつまらないということになってきて、今度はこのキャラクターにまつわる物語を作り、まあ一種の漫画雑誌みたいなものを始めてみた。で、これをクラスの連中に回覧したらえらい評判で、そのうちよそのクラスからも貸し出し依頼が殺到。結局、継続的に雑誌を出すことになり、十何号位まで続いたのではなかったかしらん。で、なんか知らないですけど、これがとても面白かったんですね。今から思えば、多分これが私の「出版」への情熱の原点だったのでしょうな。 ちなみにこの時、うちの班のメンバーだったのが、今は女優になった「あめくみちこ」です。ま、あめくに関しては、他に面白い話もあるので、いつかまたお話しすることにしましょう。 もっとも、そんな漫画雑誌を自作していた子供の頃に、「出版」ということを意識していたわけではもちろんありません。ただ文章や絵を書いた紙を綴じ、本の状態にする、ということが面白かっただけ。でもこの傾向は大学生になってからも続き、たとえば授業で配られた資料プリントなどを綴じ合わせて本にしてしまう、というようなことをよくやっていました。今でも当時私が作った手作りの資料本が何点か残っています。もっとも大学生の頃はどちらかというと本を自分で作ることよりも、本を買って読むことに夢中でしたけれどね。で、その後、大学で研究職についてからは、今度はアメリカ文学について研究しつつ、アメリカの出版史にも興味を持ち、今では「出版史から見たアメリカ文学史」という未知の領域を開拓しつつあります。 このように、今や私はある意味「出版で食っている」と言っても過言ではないのですが、そういう研究上のテーマとしてではなく、実際に「編集」したり「印刷」したり「製本」したり、ということにも相変わらず係わっています。たとえば先日もお話ししたように、うちの学科の「同窓会報」などの編集・印刷などは私が一手に引き受けていますし、昨年度からうちの大学の英語関係の教授陣で作っている紀要(年度毎の論文雑誌)の編集も担当しています。この紀要ですが、一昨年までは編集・印刷・製本をすべて印刷所にまかせていたため、350部の論文集を作るのに40万円ほどかかっていたのですが、昨年度は私が編集・出力をやってしまい、印刷所には写真製版による印刷と製本だけをお願いして、10万円以下で作ってしまいました。ざっと30万円のコストダウンです。ま、なかなかのお手柄だと自画自賛していますが、それよりも何よりも、自分の手持ちのワープロソフトやレーザープリンターだけで、いかにプロが作った紀要と遜色のないものを作るか、というのが私には面白くて仕方がなかった。 ところが、そんな私の「出版」への情熱が漏れ伝わったのかどうか、先日、私はかなり責任重大な任務を負わされることとなってしまったのです。今度うちの大学で「出版会」を作ることとなったのですが、その設立編集委員にされてしまったんですね。今までのように個人のレベルで楽しんでいたのとは異なり、今度は大学の名前を冠する出版会の業務ですから、なかなか大変です。たとえば広く世界を見渡せば、かの「オックスフォード大学出版会」のような非常に伝統ある大学出版会がありますし、また日本でも「法政大学出版会」「玉川大学出版会」「東京大学出版会」「慶應大学出版会」「名古屋大学出版会」など、数多くの大学出版会があります。試みにそういう出版会のホームページなどを覗いてみますと、それぞれに頑張っていて、「サントリー学芸賞」などの大きな賞を受賞するような本を数多く出版していたりする。うーむ、これはプレッシャーです。 ま、そうは言っても、私なんぞが始めからそんなに高望みをしたって仕方がありません。それにうちの大学の財政から言って、スタート当初からそんな大きな企画を立てられるはずもないでしょう。手始めは、「ブックレット」的なものの出版から細々と始めることになりそうです。 しかし、それでもやるとなったら、できる範囲でいい本を出版したいという野心はあります。それがなければ、最初からこの仕事を引き受けはしません。私と共に委員に選ばれた先生方の中にも、私と同じような野心をもっている先生がいらっしゃるようなので、そういう先生方と協力し、なんとか面白い企画を立て、著者を選び、いい本を作っていきたいと思っています。大学に勤めながら、しかも私の幼少時からの夢の一つである「編集者」の仕事までできるようになるとは、なかなか面白いことになってきました! というわけで、最近の私は「自分が編集した本を世に出す」という夢を心の中で弄んでいるのでした。さて、どうなることやら・・・。
August 2, 2005
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昨日の昼、我が家ではソーメンを食べました。今シーズン、初ソーメンです。 幸いなことに私は元来夏バテをしないタイプで、どんなに暑くても食欲が落ちるということはまったくありません。ですから昨日の昼にしても、食欲がなくてソーメンをすすったということではなく、単に食べたかったからなんですね。家内が副食を作ってくれたり、薬味に練り梅を添えたりしてくれたので、なかなかおいしかったですよ。 ところで、ソーメンというと私はつい思い出してしまう逸話があります。私の子供の頃からの親友・H君の話なんですが。 H君は東京でタクシーの運転手さんをしているのですが、もう今から10年くらい前のある真冬の寒い日のこと、ようやく一日の仕事が終わって「うー、寒い、寒い! 今日の晩御飯のおかず何?」などと言いながら自宅に帰り着いてみると、その日の晩御飯は何とソーメンだったというのです。しかも器には氷まで浮いて・・・。そこで温厚なH君もさすがにぶちきれて「このクソ寒いのにソーメンかよ!」と怒鳴ると、まさか怒られるとは思ってもいなかったらしい奥さんがびっくりして言い訳するには、「だって、賞味期限が切れそうだったから・・・」。 この奥さん、この種のエピソードには事欠かない人なんですが、H君と彼女がまだ新婚ホヤホヤの頃、ステーキ、とんかつ、から揚げ、ステーキ、とんかつ、から揚げ・・・というような具合で毎晩飽きもせずに肉料理を出したこともあったそうです。H君も最初のうちは喜んで食べていたようですが、さすがに何日も続いたので、「こんなコレステロールの高いもんばっかり食わせて、俺を殺す気か!」と怒ると、奥さん、小さくなって「だって、あんたが肉が好きだって言ったから・・・」と泣いてしまったのだとか。 いつだったか、こんな感じのエピソードで我々友人たちを爆笑させながら、「だーめだ、うちのかあちゃん、あたま悪くって!」などと言っていたH君ですが、そんなことを言いながらも実はすごい愛妻家であり、二人の娘さんの善き父親です。特に彼の善き父親ぶりというのは、話を聞いていてもとても微笑ましく、勉強になります。 たとえばまだ娘さんたちが小学生の頃、彼は暇があると彼女らをサイクリングに誘ったというのですね。何しろ本業がタクシーの運転手ですから道には詳しい。そこで安全でかつ変化に富んだ道を選び、途中の公園でボール遊びをしたり、喫茶店でジュースを飲ませたりしながら、往復20キロくらいの道のりを走らせてしまうというのです。つまり、娘さんたちと一緒に遊びながら、彼女たちに体力を付けさせようというわけ。彼曰く「人間、やっぱり最後は体力だ」ということなのですが、しかしそんな「教育的配慮」のことはおくびにも出さず、彼はただ「お父と一緒に遊びにいこうや」と言ってうまく子供たちを誘い出し、まんまと目的を達してしまう。いや、なかなか天晴れな父親ぶりではありませんか。 もちろん体力のことばかりではありません。H君は、普段電車に乗ることのない娘さんたちに切符の買い方を教えるために、わざと電車にのって買い物に連れ回したり、音楽会や美術館の雰囲気に慣れさせるためにそういうところに連れて行ったり、とにかくほんとに上手に子供たちに社会勉強をさせているんですね。しかも「教えてやる」という態度でやるのではなく、ごく自然に、自分も楽しみながらやるというところがいい。ですから、既に年頃になった娘さんたちとH君の関係は、依然としてすごく良好なようです。しかも、それが必ずしも「友達のような関係」にはなっていないところはさすがで、躾けということも彼はよく考えている。たとえば娘さんたちがあまり分からないことを言って愚図ると、「これ以上ぐずぐず言っていると、お父、怒るよ」といってギロリと睨み付けるのだそうです。すると、娘さんたちも一遍で黙ってしまうらしい。何しろ彼は体格も良く、しかもパンチパーマで、彼に本気で睨まれたら大概の人は縮み上がりますからね。 ところで、そんな善き父親のH君は、実は子供の頃にお父上を亡くされています。それで高校を卒業して就職してからは、お母様の面倒も随分見てきたらしい。つまり、かつての同級生とはいえ、私なんかよりもはるかに苦労人なんです。しかし彼はそのことで不平一つ言ったことはないし、笑顔を絶やしたこともない。ただ、いつか彼が私にポツリと、「自分は、若い時、父親に居てもらいたいと思った時に父親が居なかった。だから二人の娘たちには、自分が父親からしてもらいたかったと思ったことをしてあげているのだ」と言ったことがあります。彼が善き父親である理由が、ですから私にはよく分かるのです。 我が家にはまだ子供がいませんが、この先もし子供が生まれるようなことがあれば、私はH君のような善い父親になりたいものだと思うことが時々あります。特にソーメンを食べて、彼のことをふと、思い出すような時に。
August 1, 2005
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