『福島の歴史物語」

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2008.05.01
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 ここで働く労務者たちの不平の多くは、日本語が通じないことからくる外国人労務者との間の意思の疎通の悪さによるものが多かった。英語や清国語を使わないですませることの出来るこの小さなコミュニティは逆に英語の流入を阻止し、それ故にこのコミュニティから出ていくことが出来ないという悪循環におちいっていた。つまり彼らは労働条件の不満を理由に、職を変えてアメリカ人の社会に出て行く訳にもいかなかったのである。彼らは何であれ、まずカネを稼いで故郷に送金できればそれでよかったし、事実、田中に差し引かれるものがあったとしても重労働の報酬は日本でのそれよりはるかに高額であったのである。しかしそれは、まるで孤島で働いているのと同じであった。
 その孤島で労務者たちは飯場の食事では不足の分を富造の管理していた店で補い、必要な物を買い、愚痴をこぼした。愚痴の多くは金銭の問題であった。貧乏な日本より多くのカネが稼げる筈で来ていたのに、支払われる実質賃金はいろんな名目の天引きが多く、名目上の高い賃金を知っているだけに、それは切実であった。彼らはそれが不満だと思っても、言葉や距離そしてなによりも人種差別の問題もあって、他の仕事を求めて町へ出ることが出来ないでいた。
「兄貴。ここの日本人労務者は俺たちを必要としているんだ。われわれに対するこの報酬は正当なものなんだ」
 周太郎はこの主張を聞きながら、富造は変わったと思った。多くの異国人と一緒に生活するということは、こういうことかとも思っていた。
 富造はここの診療所で、医者の役割も果たさせられていた。田中は富造の英語力もさることながら、獣医の資格を医者として利用していたのである。まっとうな医者が、こんな不便なところまで来る訳がなかった。富造としては好んだ訳ではないが、現実目の前に怪我人や病人がいれば獣医だからと言って治療しない訳にもいかなかった。
 田中などの請負人は、アメリカ人雇用者と日本人労務者との仲介役でもあった。雇用者側にとっては、かけがえのない仲介役だった。請負人は労務者を募集供給し、英語のわかる現場監督を使って労務者の仕事を監督した。請負人側がこうした役割を果たしていたので雇用者側は自分の手を煩わせることなく、安上がりに日本人労務者を雇うことができた。鉄道会社の義務はただ一つ、労務者に住居を提供することであった。住居といってもそれは、使われなくなった有蓋貨車か掘っ建て小屋であった。
 請負人は鉄道会社に関係する事柄すべてを扱い、いわば会社と労務者との緩衝器であった。その結果、労働争議では請負人と労務者の関係がつねに鍵となっていた。間題が賃金であろうと労働条件その他であろうと、争議は必然的に雇い主ではなく請負人を巻き込んだのである。そして通常それは、富造ら現場監督に丸投げされるのが当然とされていた。
「まったく王とは、身勝手なもんだ」
 ついに富造は周太郎の前でぼやいた。
 まもなく二人はコロラド州のデンバー(伝馬}に転勤させられた。ロッキー山脈の裾野に広がり、海抜約一六〇〇mの高地のこの町は温度差の激しい町であった。その上気圧が低いため水が沸騰しても一〇〇度にならず、妻のミネがようやく送ってくれた貴重な日本の米を炊くのにも苦労させられた。
 田中はより一層、富造や周太郎を必要としていた。それの証拠に、富造と周太郎はこの田中王の下で、日本では考えられないほどの多額の報酬を手にしていた。笑いが止まらない、そんな状況だったのである。しかも田中に代わっての実質的な請負人ということもあって、富造と周太郎はさらに多額の収入を得ていた。
「生活や今後のために確かにカネは欲しい。しかし果たして、これは人間のやることでしょうかね」
 富造は眉間に皺を寄せて言った。
「うーん。結果として日本人が日本人を喰うような仕事は、本当はやりたくないな」
「そうですね。とにかく俺はカネを作ったら、ここから出て行きます」
「富造。やはりお前はアメリカに永住する気か?」
 富造は返事をしないでいた。

 その頃アメリカ社会での清国人排斥運動がエスカレートし、日本人もその槍玉に挙げられてきた。アメリカの新聞の論調も激越となってきていたのである。見出しの幾つかを取り上げてみる。
 Influx of Japanese(日本人の流入)
 The Mikadoユs Subjects Crowding into the United States(日本帝国臣民が米国へ殺到)
 Over four Thousand Hear Now(既に四〇〇〇人が在留)
 They Are Mostly Students and Eke Out An Existence by Service Out(ほとんどが学生で家庭に奉公口を得てやっと生活)
 Objectionable Immigrants(嫌悪すべき移民)
 Twenty-five Japanese Returned by Commissioner McPherson(二五名が移民官マクファーソンの手で送還)
 Another Tide of Immigration(移民再び増加の気運)
 The Japanese Colony Increasing Very Rapidly(日本植民の急増)
 What the Subjects of the Mikado Do When They Come Reach California(帝国臣民はカルフォルニアに来て何をしているのか)
 Their Effect Upon the Labor Market(彼ら労務者の就労に及ぼす影響)
 Importation of Women for Immoral Purpose(売春の目的で日本人女性の移入)
等々であった。やがてこのような記事が日本の世論を硬化させ、本気で「日米若し戦わば」という議論が発生した。しかしアメリカに住む移民たちが感じる屈辱感はアメリカ人に向かって直接晴らすことはできず、内向せざるを得なかった。そしてこの内向した意識は、日本人としての国家意識に収斂されていった。たとえばそれは、富造個人が軽蔑されることは日本人としての対面を傷つけられるだけでなく、日本国が辱められることと思えたのである。そういうことがあっては日本国に対して申し訳ない、と感じていた。そのためもあって富造は、何とかアメリカの社会に溶け込もうと努力していた。それは差別から逃れる最上の方法だとも思っていた。






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最終更新日  2008.05.01 09:15:34
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