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ハ ワ イ 併 合
オアフ島カフク耕地に事件が起きたのは、富造が移民募集のため日本に行っていた三月の二十六日のことであった。
当時カフク耕地には三百人ほどの日本人が居住していたが、清国人の方が多く古参であった。しかしそのような中での日清戦争の勝利は、日本人移民に、精神的な昂揚感を持たせてしまったのである。移民の中には日本の兵役法により帰国して参戦し、戦後ハワイに戻った者も少なくなかった。それもあって、ハワイの労働界に於ける日清人の間の力学的立場を、逆転させてしまったのである。これまで日本人労務者は、先住多数の清国人労務者に一歩を譲り、とかく侮蔑と圧迫を受けて劣勢であった。それなのに日本が日清戦争に勝ってしまったのである。日本人の驚喜は頂点に達していた。カフクでそれが、暴発したのである。最初はささいな個人間の喧嘩であった。それが集団暴動に発展して乱闘の末、日本人側は三人の清国人を殺し、二十余名の重軽傷者出させてしまったのである。その後も日本人移民たちはカフク耕地全体を閉鎖状態にし、鎮圧に来たハワイの官憲を入れなかった。この事件は、ハワイ全土に大きな衝撃を与えていた。
日本から戻ってきたばかりの富造に、首謀者への説得要請があった。こうなればハワイの共和国政府であろうがハワイ領土政府であろうが問題ではなかった。とにかく日本人のためにやるだけのことであった。
とるものもとりあえず、富造は帝国総領事館の弁理公使事務代理・平井深造とともに現地へ急いだ。カフク耕地はホノルルから西のクウラウ山脈を越えて二十キロメートル、カネオヘから北へ転じて四十キロメートルほどのオアフ島北端の地である。シュガーミル(砂糖精製工場)を有する大耕地であった。うねるような大きな山襞の続く景色を、今は愛でるような気持ちではなかった。それは山脈を左手に、右に海を見ながらの一本道であり、特にそんなに人が通る訳でもない淋しい道であった。二人を乗せた領事館の車は、土埃を立てながら走って行った。
カフク耕地のシュガーミルの食堂に入った二人はテーブルの上に立ち上がり、目を血走らせて集まった百人以上もの労務者たちと対峙していた。すでに血を見てしまった彼らは清国人の報復を恐れる気持ちもあり、騒然としていた。
富造は叫んだ。
「お前らァ! ここに居られる方を、どなた様と心得ておる! 大日本帝国総領事館の平井様だァ!」
ざわめきが、ちょっと落ち着いた。すかさず富造は、大声で続けた。
「総領事館の館長とわァ、畏くも天皇陛下のご名代であるゥ!」
天皇陛下を持ち出され、急に会場は静まった。
「只今より、平井様よりお話がある。天皇陛下のお言葉と思って拝聴するように」
そう言うと、富造は平井を紹介した。
平井は、労務者たちに諄々と道を説いた。労務者たちの中から泣き声さえ沸き起こってきた。(ハワイ島移民資料館長・故大久保清氏談)
日清小戦争と言われたこの事件で、二十九人の日本人が暴徒召集罪で逮捕、告発された。死刑の判決を受けた井原石五郎らの裁判の弁護に、富造は積極的に関わった。首謀者とされた井原の判決は死刑となったが、後に死一等を宥恕され終身懲役となって十三年八ケ月入牢し、その後特赦で放免となった。この事件によって富造の名声が一挙に日本人間に拡がり、敬意を受けるようになっていった。
あとで平井が述懐している。
「勝沼さん。あのとき畏れ多くも、天皇陛下の御名が出たときは、よくまあ言ったと思って本当に驚いて足が震えましたよ」
「いやあ、私もあのときは何とか暴動を押さえようと、必死でしたからね。あとになってから、あんなことを言ってしまって不敬罪になるのではないかなどと考えて、冷や汗をかきました」
平井が続けて言った。
「それでもここは日本ではないから、どうにか内密にもできますが、私にしても総領事館の館長にされてしまいましたからね。冷や汗ものですよ」
「いや、それにしても笑い話にできるようになって、よかったです」
二人は大きな声で笑った。
「しかし一応これで済んだからよよかったものの、どこかで日本人としての矜持を持たせねばなりませんね」
「実は私も、今それを考えていました。勝沼さん、なにかいい方法がありませんかね」
「いやあ私もそれについては考えていたのですが、まず各県毎に県人会を作って互助の精神を育てて一体感を持たせ、しかるのちに日本人会のような連合組織にしたらどうかと思っているのですが・・・」
「うむ、それはいい。どうですか勝沼さん、あなたの出身地の福島県からそれをやってみてくれませんか」
「そうですね、早速やってみましょう」
(カフクの旧シュガーミル・現在は観光施設として利用されている)