『福島の歴史物語」

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2008.06.18
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  突如イタリアはエチオピア併合を宣言、日本はロンドン軍縮会議を脱退した。それらのニュースを見ながら、富造は相賀に言った。
「国際連盟を脱退し、今度はロンドン軍縮会議から脱退した。アメリカは日本をどう考えるのであろうか?」
「これは日本にとって困難な事態になるのだろう。自分から脱退して出来る無条約の時代は、日本の孤立化を意味するなにものでもないのではないか。どこの国が日本に協力してくれるのか? それを考えると頭が痛くなる」
 その危惧の念が、現実となりはじめていた。二月二十六日早朝、歩兵第一、第三連隊、近衛歩兵第三連隊が反乱を起こしたのである。
 これらの部隊は首相をはじめとする各相の私官邸、警視庁、朝日新聞社などを襲い、内大臣、蔵相、教育総監などを殺害し侍従長に重傷を負わせた。さらに反乱部隊は首相官邸、国会議事堂、陸軍省、参謀本部を含む永田町一帯を占拠した。この事件の成否は三日間にわたって不明であったが天皇の反乱軍の撤兵を命ずる奉勅命令により、あっけなく幕を閉じた。この反乱軍の将校自体も天皇に忠誠を誓っていたから、いざ反乱軍と規定されるとたちまちよりどころを失い、自殺、あるいは投降した。つまり尊皇討奸を叫ぶ彼らが、逆に反乱軍として討伐の勅命を受けるという、皮肉な結果となったのである。その後のニュースで、岡田首相は殺害を免れたということが報道された。
「なあ小野目。今度の事件を見てると、戊辰戦争を想起させられる。あのときも錦の御旗を前にした同盟軍は、分解して瓦解していった」
「戊辰戦争か・・・。お互い東北出身だと、どうもそこにこだわりがあるな。それに今回も天皇陛下の一言で事が治まった。ただこの決着がよかったかどうかは別問題だが」
「しかしこの頃、俺には天皇陛下とは何なのか、が分からなくなってきた。」
 富造はそう言いながら周囲を見回した。天皇を話題にすることはタブーだった。それであるから、誰かが聞いていないかと気を回したのである。富造は声をひそめた。
「どう考えてみても、この世に神の生きている訳がない。現人神というのは、まやかしではないのか?」
 しかしそう言いながらも富造は、「ついに、口にしてしまったか」という悔悟の念に襲われていた。
  ──小野目のことだ、きっとこの話を内密にしてくれる筈だ。
 そしてスペインでは、フランコ将軍を首領とするファッシストの反乱が起こった。正規軍を中心とする反乱軍は、世界各地からの義勇軍に対して独伊両国の公然たる軍事援助を受けた。この戦争において、ドイツはスペインに自己の持てる新鋭武器を提供することで、その実験場としていた。スペインのゲルニカがドイツ空軍の無差別の戦略爆撃に曝され、やがてスペイン王室は海外に亡命していった。ピカソがゲルニカを画き、「独裁政治の続いている間は帰国しない」と宣言したのは、この後のことであった。
「ヨーロッパに広がりつつある国民戦線(ファッシズム)と人民戦線との対抗の渦中で、日本はファッシズムの道を進むのではなかろうか?」
「こうなると、われわれ一世は帰るに昔の日本が無く、いま自分の住むアメリカからも疎外されることになるのではないか?」
 あの「日本人除隊兵に市民権を与えよ」との運動は、「東洋人在郷軍人帰化権付与法」としてアメリカ国会を通過、大統領も署名して発効した。
「しかし折角通過した法案だったが、市民権を得られるのは戦争に参加し命を全うした者だけだからな。やはり片手落ちの法律だ」
 富造らは、そう言って心配していた。
 そのようなときヒットラーの率いるドイツの首都・ベルリンでは、オリンピック大会が開かれた。ラジオから流れる「マエハタ ガンバレ」の絶叫は、世界中に散った日系人の興奮を呼んでいた。ドイツはこのオリンピックまでを、自己の政治的宣伝の場としていた。そして十一月、ベルリンで日独防共協定が調印された。
 この協定は、コミンテルンの活動について情報を交換しあい、相互に反共措置について協議するというものであった。特に外務省は調印の日に、「これはコミンテルンよりの防衛を目的とする以外のなにものでもなく、ソ連、その他いかなる特定国をも目標とするものではない」と声明した。日本の外務省は、「日独防共協定は他国の加入を希望する」との声明を発したが、額面通りに受け取る国はどこもなかった。
「なんともいい加減で矛盾に満ちた声明だな。日独防共協定や日伊エチオピア協定を結んだ日本は、アメリカの好まぬファッシストとの連携を強めていることを隠し切れないでいるようだ」
 相賀安太郎は、そう心配して言った。
「それでなくても悪化するこのアメリカの反日感情の中で、われわれは行き場を失ってしまうのではないか?」
 富造も心配をしていた。またあの排日運動の再来を恐れていたのである。

 一九三七(昭和十二)年、末日聖徒イエス・キリスト教会のロバートソンが、日本伝道部再開のためホノルルに着いた。
 ロバートソン伝道部長が着任したとき、ハワイには十七人の日系人教会員がいたが、最初の日曜には、トミゾー・カツヌマ、奈知江常、池上吉太郎を含む三十五人の日系人教会員、求道者が集会に出席した。
                (日本末日聖徒史)

このようなとき、富造は神に救いを求めていたのである。
 日華事変が発生した。ハワイには日本の練習艦隊が、時折寄港していた。
「学校の友だちで行きたい人が、みんなで一緒に港へ行ったんですよ。日本語の稽古にもなりましたしね。日華事変のときには、私は慰問袋を作ったんですよ。千人針などもやりました」
 世界も、そして日本にも、間違いなく戦争が近づいていると思われた。その一方で、中国爆撃で死んだ子供の写真のプラカードを持って、数十人の人たちがホノルル市内で反戦デモをやっていた。政府が動かなくても、市民レベルでの日本ボイコットが起きそうだった。
十月二十六日の羅府新報日本語の社説では、「欧米勢力を駆逐し極東地域のタクトを日本が振る。日系人により献金や慰問袋が組織的に作られ日本の陸海軍省や中国で戦う兵士に贈られた」と日本を擁護していた。ところがその一方、英文の記事では「日系人の商店の多くが不買運動などで廃業に追い込まれた」「日本の絹を使わない会や絹の靴下を履かない会が出来た(不買運動)]などと、日本に対するアメリカ社会の不当を責めていた。
 日系人の多くは、日本からの報道を正しいものと信じていた。しかしその半面、アメリカでは中国での戦争や爆撃の結果、中国側民間人の被災人数まで報道されていたため、日本は人道の敵と非難されていた。
「よく日本では本音と建て前と言っていたが、これはアメリカ流に言えば、ダブルスタンダードということだな」
 富造のもとに、日本から菅原伝の死去の通知が届いた。思わず富造は自分の年を数えた。
  ──菅原は俺より一歳上だ。彼には随分世話になったが、亡くなったとは・・・。それにしても七十三~四歳とは、俺ももうそんな年になったんだな・・・。
長いあいだ親しくつきあった友の死に、強い精神的ショックを受けていた。
ついに、日独伊防共協定が成立した。
  ──もし菅原がこれを聞いたら、どう思ったであろうか?
 十二月、揚子江を航行中のアメリカ砲艦パネー号と商船三隻が、帝国海軍機六機の攻撃を受け撃沈された。アメリカの世論は激昂し、日米開戦を唱える声も出た。駐米大使斎藤博はラジオを通じて全米に詫びの言葉を述べ、補償も約束した。いわば無警告のまま一方的に日本が先制攻撃を仕掛けた形となったパネー号事件に対し、ルーズベルトは慎重に対応していた。
 この間に、南京大虐殺が報道された。アメリカは国家の意志として、初めて日本を非難した。ルーズベルト大統領は日独伊のファッシズムの台頭に対決するため、「侵略者を隔離せよ」との演説をシカゴで行い、アメリカがファッシスト枢軸反対の旗幟を鮮明に打ち出したのである。


マウナ・パネー号事件
(パネー号事件は アメリカで 大々的に報道され、対日感情悪化のきっかけとなった)

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最終更新日  2008.06.18 07:23:41
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