『福島の歴史物語」

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2008.06.24
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 日本人、日系人に対する不忠誠の嫌疑はますます大きくなり、全ての日本人の血を引くアメリカ人が4ーCという最低の徴兵資格に落とされた。この資格は徴兵不可の外国人という意味で、彼らが所属していたナショナルガード第二九八、二九九部隊を強制的に除隊させられた。そのため二世は、自分の国としていたアメリカのために戦うことができなくなってしまったのである。日本語新聞は発行禁止となったが、その後すぐに日系人への連絡伝達に必要を認められ、日布時事などの新聞の再発行が認められた。
「今度の戦争で、私は日本の在郷軍人となっていたためハワイの官憲からそのことを調査され、強制的に登録させられ、その他にも係官が家に来て四~五回調べられました。二世の県会議員(ハワイ準州の議員)が、ただ日の丸を持っていただけで五百弗の罰金を課せられました」               (松浦利右衛門 福島移民史)
 以前から、「もし日米間で戦争が起きたら、日本の軍艦が私たちを助けに来る」と囁かれていた。しかしそんなことはあり得ないということが、開戦後の状況からすぐに納得させられた。
「戦争なんて、そんな生やさしいものじゃない」

 一九四二(昭和十七)年アメリカは、中国を反日抗争の友好国として禁止していた移民を解禁し、市民権の獲得を可能とした。そして夜の酒場では意味などは何もないパールハーバー・ブルースが大流行し、こんなバンド音楽で出征前の若い兵士たちがダンスに興じていた。

  パールハーバー・ブルース
    一九四一年十二月七日
    一九四一年十二月七日
    日本人は真珠湾に爆弾の雨を降らせた。

 連合国は敗退を続けていた。
 一月二十四日、日本軍はボルネオ島のバリクパパンに上陸。
 二月、日本軍はオーストラリアのポートダーウィンを空襲し、さらにマニラやシンガポールを占領した。
 当時、アイダホ州検事総長であったバート・ミラーの手記が残されている。
「われわれはアメリカを白人の国として守っていきたいと考える。日本人はすべて強制収容所に入れるべきだ」(NHK・カラーで記録した第二次世界大戦)
 この月、ハワイ大学に在籍していた二世の学生達は、たとえ前線で戦えなくともアメリカのために死ぬべきと判断し、その決意をホノルルの司令官デロス・エモンズ陸軍中将への嘆願書にしたためた。
「ハワイは我々の故郷である。アメリカ合衆国が我々の国である。我々はたった一つの忠誠心しか持たない。それは星条旗に対してである。我々は可能ないかなる方法によってでも、忠実なアメリカ人として最善を尽くす」
「われわれは、アメリカのために戦って死ぬ積もりだ。命をアメリカに捧げる」
「われわれはアメリカ市民である。それにも拘わらず、アメリカ政府は我々が兵役に就くことを拒んでいる。政府がわれわれを兵士としてでなく、例え勤労部隊の労働者として使うとしても、われわれは労働者としてアメリカに奉仕しよう。住む場所と食べる物が支給されるなら、俸給は求めない。危険な任務があれば、命を投げうつ用意がある」
 これを読んだエモンズ司令官は、「強く心をうたれた。日系人たちがこれほどの決意でいることを我々は知らなかった」とすっかり感動し、嘆願書をホノルルの新聞各紙に渡して記事にし、日系アメリカ人からなる勤労奉仕をする歩兵大隊の編成を決定した。
「これをきっかけに、ハワイでの日本人に対する態度がすっかり変わりました。それまで日本人は危険な存在だと思われ、ジャップと蔑まれ、アメリカ市民になっていても『ジャップはジャップだ』ときめつけられていました。それが新聞で司令官の日本人支持が伝えられると、人々も考え方を変え始めたのです」
 これがいわゆるトリプルV(VVV・大学勝利志願部隊)で、日本語では、補助工兵部隊というのであろう。はじめは七~八十人で発足し、その後百五十人ほどに増えたが、志願者が多すぎて断らなければならないありさまであった。VVVの活躍はハワイ中に広がり、アメリカ軍のために倉庫を建設し有刺鉄線を張るなど、あらゆる銃後の仕事をやりとげた。さらに何回も献血に応じ、約二万八千弗にのぼる戦時債券を購入した。このVVVの努力を見て、エモンズ司令官は日系の志願兵をアメリカ軍に編入することを決定した。
「これがハワイの人々の考えを変えさせ、敵国の人間だがハワイの日本人は信用できる、と思うようになっていったのです」 
 三月九日、ジャワ、日本軍に降伏。
 この月にアメリカは、日系人十二万人隔離のためマンザナー強制収容所などの建設をはじめ、アメリカ本土に住む日系人の強制立ち退きが実行された。緒戦における日本軍の急進撃に脅威を感じたアメリカ陸軍の、強い要望によるものであった。最初は三十日以内にと言われた立ち退き猶予もつぎつぎに指令を出されて短くなり、しまいには二十四時間以内とむちゃくちゃな命令となった。

   持っていた船や網はイタリア系の使用人に馬鹿みたいな安い値
  でやってしまった。私たちが立ち退かされることを聞いて家財道
  具を安く叩いて買おうと多くの白人がやってきた。私の所にもい
  い応接セットとグランドピアノがありユダヤ人が買いに来た。私
  はあまりにも言い値が安すぎるので、しゃくにさわってグランド
  ピアノを燃やしてしまった。他の人たちも燃やした方がましだと
  言って家財道具に火をつけていた。考えてみれば、自分たちは随
  分前から狙われていた。例えば漁に行って帰って来ると沿岸警備
  艇から沖で『日本の潜水艦と連絡を取っていなかったか?』とし
  つっこく尋問された。その理由は私の船にドラム缶が二つ積んで
  あるからだと言う。一つは燃料用、一つは[こませ](撒き餌に
  使う小魚)用なのに『日本の潜水艦に燃料を補給するためだろ
  う』と疑われた。
  「二万五〇〇〇弗で建てた建物を一五〇〇弗で叩き売った。辛か
  ったねぇ」
   アメリカにもゲシュタボがやって来たのであろうか? ユダヤ
  人に対するヒトラーの虐待に怒りを覚えたはずの我が国が、日系
  人に同様の仕打ちを与えるとは・・・」
            (NHK・ジェームス・オームラの日記)

マウナ 強制収容
(アメリカ軍により発せられた強制立ち退き令を報じる羅府日報 Wikipediaより)


 ワシントン、オレゴン、カルフォルニアの太平洋三州に居住する日系人十一万余人の強制立ち退きがはじまった。こうして集められた収容者たちがマンザナーに着いたのは暑くて埃っぽい日であった。バスを下りた人々はそれぞれの群に分けられた。家族は配慮されなかった。スーツケースを部屋に置いたら今度は別の場所に集められ、長い袋を支給された。「それに藁を詰めてマットレスとして使え」と命じられた。
 四月九日、フィリピンのバターン半島が陥落した。ここでの戦いの後、飢えてまったく無力なアメリカ兵の捕虜を、収容所まで一四〇キロメートルの長途を行進させた。多くの捕虜が、その途中で死んでいった。そのためこの行進は、死の行進として報道され、全アメリカを激昂させた。
 しかしこれら日本軍の勝報は、移民にとって必ずしも心温まる話ではなかった。その上東京では、アメリカ空軍の空襲がはじまっていた。むしろその両方とも、困った事態であったのである。
 四月十八日、日本近海のアメリカ航空母艦から飛び立った爆撃機十六機が、東京を空襲して中国の基地へ飛び去った。
 五月六日、日本軍、コレヒドールを占領。
五月八日、コロラド・リバー、別名ポストン強制収容所に、最初の自主的退去者とされた人々が、カルフォルニア州インペリアル・バレーから到着した。ここでは、最終的に七四五〇人を収容することになる。





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最終更新日  2008.06.24 07:19:09
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