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マ ウ ナ ケ ア の 雪
教会は二つの祖国の間に揺れる富造の心の支えであり、日系人の交流とまとまりの場であった。
何か日本に問題があるたび、日系人たちは祖国と共に非難にさらされた。
「いろんなことがあり過ぎた。日本人学校をつくったのは、祖国を忘れさせないためであった。それが本来、国家と個人は別な筈なのに、結果としてそれらを一体化しようとしてしまったことになった」
「相賀、そう自分を責めるな。俺だってあの大本営発表の嘘を見抜けなかった。日本が負けてはじめて、その本質を知ったんだ」
「しかし此処こそが、われわれにとって祖国になるわけだ」
「うん。それはわれわればかりでなく、子々孫々永久にわが祖国であるということだな。それに一世に市民権が与えられれば、完全に法的根拠も得ることになる」
戦後の日本から困窮のニュースが流れてきた。富造らは、もう止めようと思いながらも、また日本救済の義捐金募集の運動をはじめた。
「これが最後のご奉公かな。しかしこの言葉も死語になった筈だ」
そう独り言を言うと思わず苦笑した。彼はこのときすでに病気が進み、全財産も投げ出していた。
「それにしても相賀。日本では、植民地の相次ぐ独立は日本のお陰だ、などという者もいるそうだ」
「それは見当違いも甚だしい。確かに植民地から独立した国は多い。しかしそれは日本が起こした戦争という意志からではなく、日本の敗戦による結果論に過ぎない。現にそれらの独立はアジアにとどまらず、中近東からヨーロッパにまで及んでいる」
「日清、日露、日中など勝ち進んでいるうちは気付かなかったが、それにしても負けてはじめてこの戦争の意味を考えたとき、せめて国のために戦死したと思いたい日本の戦没兵士の家族や戦災被害を受けた人たちの気持ちは分かるが・・・」
アメリカ議会は日系アメリカ人立ち退き補償請求法を成立させ、強制立ち退きにより被った経済的損失の一部を取り戻す法案を成立させた。これにより三八〇〇万ドルが支払われたが実際の損失からは程遠く、効果の見えぬ金額であった。
「しかし金額はともかく、アメリカはアメリカ自身でその非を認めた。こういうことこそがアメリカをアメリカたらしめている。やはりアメリカは素晴らしい国だ」
富造は、家にいる時間が長くなった。長期に亙った人種差別への抵抗、そしてあの日本救済の義捐金募集の運動の激務が、彼の身体を更に蝕んでいたのである。日本に続く海の見える家のベランダで、新聞や読書に費やす時間が長くなっていた。新聞は大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国の成立、ベルリン封鎖を伝えていた。そしてイスラエルの建国は、中東戦争を勃発させた。
──戦争が拡大しなければいいが。
富造はそう思った。
そして新聞は、オアフ島に戦死した兵士を祀る国立共同墓地(パンチボウル)の開設を知らせていた。
──戦場で死んでいった若者たちはふるさとを夢に見、妻や恋人のもとに帰る日を待ちわびていたろうに。われわれは常に彼らを思い起こさなければならない。もし彼らが世界に忘れ去られることがあったら、彼らは本当に無駄死にをしたことになる。
そう思いながらも白い十字架が整然と並ぶ国立共同墓地を見て、富造は違和感を感じていた。
──キリスト教徒ばかりではなく、仏教徒や他の宗教の戦死者もいるのに。
そう思っていた。
(パンチボウル国立墓地・現在は宗教色を払拭するため十字架は外され、鋳鉄製のネームプレートのみが整然と並んでいる。またここには宇宙船事故で亡くなったオニツカ氏も祀られている)
「A級戦犯 東条英機ら刑死」
そしてあの沖縄戦での悲しいエピソードが伝えられてきた。海軍沖縄方面根拠地司令官の太田実海軍中将が、自決に際して発した電文である。
「県民は青壮年の全部を防衛招集に捧げ、残る老幼婦女子のみが相次ぐ砲爆撃に財産の全部を焼却せられ、わずかに身をもって軍の作戦に差し支えなき場所の小防空壕に避難、なお砲爆撃や風雨にさらされつつ、乏しき生活に甘んじありたり。しかも若き婦人は、率先、軍に身を捧げ、看護婦炊事婦はもとより砲弾を運び挺身斬込隊にすら申し出る者あり。一木一草焼土と化し、糧食六月一杯を支うるのみなりという。沖縄県民かく戦えり、県民に対し後世特別のご高配を賜らんことを」
「これは辛い話だ。それなのに沖縄県は琉球として日本から切り離され、アメリカ軍の軍事基地となっている。将来はアメリカのテリトリーになるのではないだろうか。あの血を吐くような太田司令官の遺志は、生かされるのであろうか?」
このころ富造は病床にあり、ミネを話し相手にすることが多くなっていた。
「ドイツ、ベトナムに続いて朝鮮が三十八度線で分断された。本来なら日本が分断されるところでなかったのではないか。あの分断は、日本の身代わりであったのではないかと思う。アメリカによる原爆投下が日本占領にソ連を加えず、朝鮮分断という譲歩を引き出したのではないかと思う」。
富造はそう言った。
「それにしても、あの原爆とはなんであったのだろう。原爆製造に成功したあのとき、アメリカはソ連の参戦を不要と感じたのではあるまいか。自ら持ち出した参戦の要請を、原爆を落として見せることでソ連に手を引かせようと思ったのではあるまいか。
そうも話していた。しかしアメリカの新聞論調は別であった。
「宣戦布告なしで戦争を仕掛けた日本が受けた自業自得」
「原爆は早く戦争を終わらせ、アメリカ兵士をはじめ多くの人を戦禍から救った」
そう主張されれば、それは無理にでも納得せざるを得なかった。
「しかし原爆を落とした兵士とすれば、そしてそれのことを追認せざるを得なかったアメリカ国民とすれば、そう主張しなければ勝利がアンフェアであったという意見に加担することになる。つまり、勝利を否定することになる」
アメリカは原爆を兵器つまり科学技術としてこれを捉えようとし日本は被害者たちの無念という情感でこれを捉えていた。被害者(日本・敗者)と加害者(アメリカ・勝者)では、自ずと視点が違っていた。
アメリカ政府による原爆被災の実情の隠蔽は、戦後七年にも及んでいる。そのためアメリカでは、原爆は単なる巨大な爆弾と思われていた。それであるから放射能の後遺症などということは知る由もなく、その一瞬の死者数は、日本上陸作戦の際のアメリカ兵の死者数と比較して考えられることになった。
──戦争は誰をも敗者にする。勝者などどこにもいない。それにしても日本にとってこの戦争は、どんな意味があったのであろうか?
日本が負けてはじめて問う、富造の疑問であった。
この年、日本国会の衆議院本会議において、自由党の松田竹千代議員の説明により、在米州在留同胞に対する感謝決議案が満場一致で可決された。
この記事を読んだとき、富造は心の底から喜んだ。
「ミネ。これでわれわれ日本人の存在が、ようやく母国に認められたぞ」
富造が嬉しそうな顔をして言うのを、ミネは久しぶりに見せた笑顔だと思った。
「あなた、よかったですわね。あなたたちの努力が少しは報われましたわね」
「いやいや、まだまだだよ。われわれ一世の移民たちが、アメリカの市民権を得られるようになるまでは終わらないよ。現に南部の諸州では、いまだに学校やレストラン、バスの座席に至るまで黒人と白人を峻別する法律が生きているんだ。この差別が無くならない限り、日本人も駄目かも知れぬ」
そう言いながらも、富造は日本という国に対して矛盾を感じていた。
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参考文献 2008.07.17
あとがきと,お世話になった方々 2008.07.16
マウナケアの雪 5 2008.07.15