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五月八日辛卯、平蔵らは迎えに来たアイヌの七人のうち一人を道案内とし、出発した。食糧、重い鎧などはアイヌ人に運ばせた。甲崎富蔵を通訳とした一行十三人は、渚の砂地を回って行った。それは砥石のように平らな海岸であった。小河川が海に入る所ごとに、遡上した鰊が死んで水底に隙間無く沈んでいるのを踏みしめながら行った。風波が激しいからか腹が破れ、また卵が出て堆積したところを歩いて行くため、踵や、ときには膝までがその中に没した。「魚がこんなになって腐っているということは考えられなかった。それにこの腐った嫌な匂いでは、頭が痛くなる」
富蔵が苦笑しながら言った。
「旦那様、この時期ここでは、何処へ行ってもこうです」。
途中の集落で架台に鰊が干してあるのが見え、その架台が林立しているのを見た。そばに寄って見るとその魚体は細長く、体長は七、八寸から一尺程度で背側は青黒色で腹側は銀白色であった。
「春になると、産卵のために北蝦夷地の各地の沿岸に現れます」
腹を割いていっぱいの卵を取り出し、薄く切り細長く伸ばして干してあった。
「嫁取りなどのお祝いの席には必ず出して多産を願うのです」
通常アイヌ人は鰊の干肉を食べているが食事の時間は一定せず、腹が減れば食うという生活である。しかしそれも干肉を三、四本食べるのみであるという。
アイヌの男たちは山では熊を、海ではアザラシを、また川ではサケなどを獲っている。「サケを獲るのは九月から十一月にかけてで、この時期、サケは産卵のために川をのぼって来ますが野放図に獲る訳ではありません。九月と十月はその日に食べる分だけで、保存用に多くを獲るのは十一月になってからです。この頃になると産卵も終わって、脂っ気がなくなり、保存しやすいということもありますが、なによりも産卵した後ですから、いくら獲ってもサケの減る心配がない。アイヌ人は、サケの数が減らないように、考えて獲っているのです」
肉類は生で食べる場合もあるが、多くは焼いて食べているという。
「それに女たちも山で山菜やキノコを採ったりしますが、全部採ってしまうことはしません。根こそぎ採ってしまえば、次の年はそこで採ることができなくなってしまうからです」
「なるほど、よく考えているな」
「アイヌ人たちは穀物なども畑で作ってはいますが、自然の幸を求めて移動もします。しかし大雪その他の自然的災害で、餓死する者も少なくありません」
そして熊送りなどの行事は、男も女も、子どもたちも総出で行うという。
「鰊は呆れるほど採れます」
「うーん。呆れるほどか」
辞書に鰊は『鯉に似る』とある。しかし平蔵は似ているとは思えなかった。鰊の字を考えてみた。たとえば赤鯛は周防に産するので魚に周と書くという。それと同じく、俗に東海に生まれるというので魚に東に似た柬と書くのであろうか? 多分、そうなのかも知れない。ただし『東医宝鑑』には青魚とある。会津にも、鰊鉢(酢と山椒で鰊を漬け込んだもの)や鰊蕎麦がある。このようにして獲られた鰊が会津まで行くのであろうか。平蔵は故郷に思いを馳せ、懐かしんだ。
この海辺を行くと、山が開け川の流れる海浜ごとにアイヌ人の集落があった。アイヌ人は五穀の生産ができず魚猟で生計を立てるため、落ちぶれた生活をしている。
富蔵が言った。
「しかしここには租税もなく、賦役もありません。また戸長がいてもアイヌ人全体を統率する者もいません」
「ほお、それでこの社会が成り立つのか?」
「そこで幕府は松前藩統治外の地、つまりこの辺りに来る和人の商人を役人とし、アイヌ人を監督させています」
野村が訊いた。
「監督? それでなにを監督しているのか? この北蝦夷地全部をか?」
「いいえ、全部ではありません。商人たちは十里から二十里をその範囲として商売をしていますから、彼らの監督の範囲もそれに限られます。監督には支配人という正と番人と言われる副の二人が当たり、彼らの居所が役所となっています。しかし役人であると言いましても、姓もなく、刀も持っていません」
「ふーむ。それで役人の仕事ができるのか?」
「はい高津様。それが問題なのでございます。アイヌ人は漁は上手いのですが漁網を作ることが出来ません。そのため番人は漁具を貸し、獲物の多くを貰います。また、米、塩、酒、煙草、また鍋、釜、針、糸など一切の日用生活品を売り、その代価として彼らの財産を騙し取っています。例えば針一本に対して鮭七十匹を交換しているのですから。あとは推して知るべしでございます。このため無税とは言ってもその収入の実質は少なく、結局彼らは子どものころから貧しさに据え置かれることになっています」
野村が呻いた。
「しかし高津様、酷いもんですね」
「うーん。このような役人では旧来の悪習がなくなることはないようだな。わが国元にも、これほどの貧乏人はおるまい」
この日の藩士たちの行動をアイヌ人たちが見ていたが、男子が犬の皮を着、女、子どもはアザラシの皮で服を作っていた。鮭の皮を綴り連ねたものを服としている者までいた。
「彼らは着る物のため毛の長い犬を飼い、冬になればそれを殺して肉を食べ、皮を剥いで着物とします」
殺して食糧とした熊や犬の頭は、山へ埋葬するという。
昼、志由志由耶(シュシュヤ・戦前の日本名、新場か。いまのロシア名、オビルトスカヤか)の集落に着いたが飲用水がないため、アイヌ人に山に入らせて水を汲ませ、飯を炊いた。
富蔵は全員が出発した後この場に留まった。北蝦夷地には鳥類が多く、ここに来るのは鷺やミサゴが多い。富蔵は銃で鷺を獲ってきた。樹木に巣を作り群がっていて、人を見ても恐れない。
「鉄砲という物を知らないためでしょう」
富蔵がそう説明をした。
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