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文化十三(一八一六)年、イギリス軍艦が琉球に来航した。
──北ばかりではなく南、それに江戸までもとなると、これは日本全土の問題だ。このまま外国の跋扈(ばっこ)を許していると、あの蝦夷地のアイヌ人たちのように、日本もなくなってしまうのではないか? 何とかしなければ。
文政元(一八一八)年、イギリス人ゴルドンが浦賀に来航した。このとき会津藩は七〇〇石積一艘、一三〇石積二艘、押送船五〇艘、番舟二一四艘を出して警戒した。海岸には酒樽に墨を塗ったものを置いて、大筒に見せかけたという話が伝えられた。
「こんな一時しのぎでは駄目です。わが藩も外国と同じような鉄製の大筒を持つべきです。十年前の北方警備の際にも、ロシアは鉄の大筒でした」
平蔵は北方警備での直属の上司であった家老の北原采女に、強硬に申し入れた。
「あのときの経験を生かすべきです」
文政三(一八二〇)年、会津藩は約十年にも及んだ相模の沿岸警備を免除された。
「御家老様。北方警備がなく、沿岸警備を免除された今こそ、使わないで済む資金を有効に活用して、軍備全般を増強すべきでございます」
「高津。その方はそう言うが、二つもの大仕事をした後ではその始末だけでも容易ではない。今の借財の多さについては、その方も知っておろう」
そう資金のことを言われてしまうと、平蔵には返す言葉がなかった。
文政四(一八二一)年、幕府は、蝦夷地一円を松前家へ還付することを決定した。藩主松前章広は江戸城へ登城を命じられ、老中水野忠成からこのことを言い渡された。
──このことはロシアからの脅威が無くなったということなのであろうか。いや、そんなことはあるまい。
そう心配する平蔵の手元に、菅茶山から戍唐太日記が戻されてきた。このようなときこそ戍唐太日記をまとめなければと考える平蔵から、今度は蝦夷に関する記録を集めるとの理由で、会津藩が日記を持って行ってしまったのである。
──これでは書けないではないか。
平蔵は書くことへの意欲が、急速に萎えていくのを感じていた。
文政七(一八二四)年、イギリス人が常陸の大津浜(北茨城市)に上陸した。常陸は会津から見て、そう遠い距離ではない。平蔵はひしひしと迫ってくる外国の軍事力に、強い不安を感じていた。
天保二(一八三一)年、戍唐太日記がようやく藩から戻されてきた。あれから二十年も過ぎてしまったことになる。しかし平蔵は藩の要職に就いていたこともあり、家族のこともあって公私ともに多忙であったから、書くことを続ける時間がなく、いつの間にか多くの書類の下になってしまっていた。
天保十一(一八四〇)年、清国で阿片戦争が勃発した。強力なイギリス艦隊との戦いに敗れた清国に、イギリスは香港割譲などの要求を出した。
「清国が敗れた」
この敗戦は、清国の商人によっていち早く伝えられた。
「あの大国が」
平蔵もまた、大きな衝撃を受けていた。以前より海外事情を学んでいた平蔵は、いち早くこの戦争の国際的な意味を理解し、危機感を募らせていたのである。
天保十三(一八四二)年、南京の揚子江に停泊したイギリス海軍戦艦コーンウォリス艦上で、イギリス全権代表ポッティンジャーと清国全権代表の耆英によって条約が締結され、正式に阿片戦争が終結した。
「しかし清国の支払った代償は、香港島の割譲、銀二一〇〇万両に及ぶ賠償金などと大きかったようだ」
情報を聞いて走り込んできた平蔵に、そう采女が言った。
「はい。それにこの条約の付属協定として、『五口通商章程』で広州・福州・アモイ・寧波・上海の五港の開港、『虎門条約』で領事裁判権の承認、関税自主権の放棄、片務的最恵国待遇、イギリス海軍の清国港湾への常駐、開港場における土地租借の承認が締結され、領事裁判権、一方的最恵国待遇などがイギリスに付与されたそうでございます」
「うむ。イギリスは実に不平等な条約を清国に押し付けたものだ。大体このようなことは西洋の国の常識なのであろうか」
「いいえ、私はそうは思いません。国境を接している彼らは、お互いにもう少し平等な条約を結んでいると思います。彼の国が裕福と思われる経済力は、これら植民地とした国からの収奪によるものと考えています。下手をすると、植民地自体が、自分自身から収奪させるための資金を提供しているということになるのかも知れません。わが藩も軍備を増強する必要があります」
采女は黙ってしまった。
「御家老様。資金のことでございますか?」
「・・・」
「御家老様。これはわが藩一藩の問題ではありません。資金不足ともあれば他藩にも働きかけ、国を挙げて対抗しなければ清国の二の舞となってしまいます」
家に戻った平蔵は、書類の下になったままの戍唐太日記を取り出した。阿片戦争の結果が、平蔵の書くという気持ちに火を付けたのである。すでに北方警備から三十五年という長い間が過ぎていた。
──若かった者たちも老い、同行者の半数以上はいなくなってしまった。私もまた年老い、五十五歳にもなってしまった。それでも若い好事者に当時のことを質問されることがある。
平蔵は再び筆をとった。啓蒙の書としたいと考えたこともあった。しかし覚え書きが残されているとは言っても記憶は薄れていたし、その内容と文章の拙さを考えると、果たしてこの書を残す意味があるのかという心配もあった。
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50位以内に入れればいいなと思っています。ちなみに今までの最高位は、2008年7月22日の52位でした。