『福島の歴史物語」

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2011.01.21
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  の歴史学者でエミシ研究学者でもあった喜田貞吉氏
  が紹介している。
  さらに喜田氏は、秋田氏の態度を次のように褒め称
  えている。
  「・・・神武天皇御東征以前より本土に豪族たりと
  の家伝を固執し長脛彦の兄・安日の後なることを公
  称せらるるはわが史上まれに見るの尊敬すべき態度
  なりとす」
   (昭和3年8月15日大阪朝日新聞
                HP能代古代通史)

 喜田氏はこれらの研究のため、大正15年8月と9月に三春を訪れて『秋田子爵家宝文書』等を閲覧し、秋田氏の史料調査を行っている、

 ここに出てくる出雲国造家とは、大国主命(オオクニヌシノミコト)に国譲りの交渉を受けたとされる国津神の天穂日命(アメノホヒノミコト)の末裔とされる家である。しかしこれに対し秋田家では「拒否したといふ事実はない」と抗議し、喜田氏も取り消すという騒ぎが起こっている。もっとも秋田家は宮内省の意向を拒否はしなかったとはいうものの、安日王・長脛彦の子孫であることを否定もしていない。ただしこのエミシの安日王・長脛彦に祖を求めた秋田氏の家系図は、室町期に成立した『曽我物語(安日が津軽に逃亡してエミシになったという物語)』の影響を受けている可能性が高いため、信憑性は薄いと考えられている。

 秋田氏が自らをエミシの子孫と伝承してきたことは確かである。そしてそのことこそが、北奥において大和とは別の歴史観を醸成し、アテルイに至る抵抗につながってきたということではあるまいか。この秋田氏の主張は、宮内省の側にとって面白いものではなかった。しかしこの両者の間でどのような話し合いがあったかは定かではないものの、秋田氏は子爵となったのである。

 さてここで、さらに明治の10年代(1877~1887)より時間をさかのぼってみる。時は天明5(1785)年である。

 この年の2月22日昼九ッ半(午後1時)過ぎ、三春八幡町鍛冶・近平方より出火、おりからの強風で東へ延びた火は、同心町、裏町通り、御免町を焼き、北は丈六・御持筒組下通り、愛宕下、道場町、荒町へと次々に延焼、龍穏院門前で辛うじて食い止めたが丈六からの猛火は中町の商人街を焼き、大町へと広がっていった。三春移封七代目の藩主・秋田千季(ゆきすえ・後に倩季・よしすえ)は大町焼失の頃北町黒門辺りに出馬したが、城に類焼の危機が迫ると宝来寺(廃寺・三春町亀井)に移った。しかし火はさらに広がり、大手の長倉、御下屋敷を焼き、ついには御三階から本丸まで焼き尽くした。この未曾有の大火の中で、東日流外三郡誌もまた焼失してしまったという。しかしそのとき、三春にこの東日流外三郡誌に類したものが焼失したという記録がないことから、元々、秋田氏がそれを所有していたかどうかも不明とされている。秋田千季が家系の資料の収集と系図の作成を命じたとされるのは、この大火の後のことであるという。

 千季は長男の東太郎が幼くして死去したため寛政元(1789)年、次男の謐季(やすすえ)に家を継がせたが謐季は病弱のため7年で隠居した。そのため享和3(1803)年に三男の孝季(のりすえ)が継いだ。千季の死去する8年前のことであった。

 大火から4年後の寛政元年、隠居した千季は、十三湊(青森県五所川原市)に住んでいたという孝季に、秋田氏家系の関係資料の収集をするように命じたとされる。ただし三春歴史民俗資料館学芸員の藤井康氏も次のように言って、十三湊の孝季の存在自体を否定している。

「秋田氏では藩主となるべき世子のみが『季』の字を名前の下につけることが許されており、例え藩主の次男であっても『季』の字は上にした。だから領外へ出た者に孝季という名を付ける筈がない。しかも藩主と同姓同名を名乗ることなど許される筈もない」

 とは言え、家系の資料の収集と作成を命じられたとされる十三湊の孝季は、義弟にあたる和田長三郎、つまり東日流外三郡誌を見つけた和田元市の先祖にあたる人と二人で、ひたすら収集記録に努めたという。もちろん前出の三春移封九代目藩主秋田伊豫守孝季とは同名異人である。現在これらの資料は五所川原市飯詰の和田家に保存されているとされ、もう一つの『東日流内三郡誌』は未発表であるとされる。この東日流外三郡とは、ほぼ津軽半島全域であって、内三郡はそれ以南の津軽の内陸部にあたる場所であるという。いずれにせよ、三春に東日流外三郡誌の原本や写本の類は一切残されていない。





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最終更新日  2011.01.21 12:28:19
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