『福島の歴史物語」

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2011.02.21
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 秋田氏が祖という安倍氏は、永承6(1051)年の前九年の役で源氏・清原連合軍に敗れたとき、安倍貞任の遺児、高星丸(たかあきまる)が津軽の藤崎に逃れ、安東氏を名乗った。

 文永元(1264)年、蒙古帝国(のちの元)が3000人の軍勢を樺太に派兵し、住民の骨嵬(くぎ・樺太アイヌ)を朝貢させたが、弘安7(1284)年、骨嵬は元に反乱を起こす事件があった。これを識者は、『北の蒙古襲来』という。永仁5(1297)年、安東氏は骨嵬を率いてシベリアの黒竜江(アムール川)流域に3度反攻したが元に降伏し、以後毛皮などの貢物を献上することを約束したとされる。なお九州に襲来した蒙古に関して、東日流外三郡誌大要の766頁に次の記述があるという。

  『これぞその真心、神に通じ、神風起こりて国難を
  除きけるは、人をして上下を造らず睦ぶ心に神ぞ救
  済すと曰ふ。この年東日流にては、元船十二艘漂着
  し、元兵、山にこもれるも、安東一族に誅され、ま
  た救われたり。・・中略・・』

 これは九州の元寇の際、安東水軍が出撃した証拠とされる文言であるが、『東日流外三郡誌』偽書説の強い今、これをそのまま鵜呑みにする訳にはいかない。安東氏のシベリア出兵と錯綜しているようにも思える。津軽には『対馬』『津島』『若狭』『加賀』『能登』『越前』『越後』『輪島』などの姓が多くみられるというのも興味深い。

 永禄5(1562) 年、フランス人ベリユによって世界地図が製作されているが、ここには津軽地方からカムチャツカにかけての地域が、Bandov と記されているそうである。一説に Bandov とは安東国の意で、津軽地方の南に大和との『境界線』が引かれているというから、明らかに西洋人の目には、大和とは別の独立国として意識されていたことになろう。他の説によると、Bandov は坂東を意味するという。坂東とは箱根の坂の東、つまり関東を指す古語である。ただしこの地図に引かれている境界線は現在の日本地図のどこに当てはまるかは明らかではない。明らかではないがこのことは、この『北の蒙古襲来』が日本史に記載されなかったことと関係があるのかも知れない。つまり鎌倉幕府が当時の Bandov (安東)を外国と認識していたと考えれば、そのことが理解できる。しかし坂東にあった鎌倉幕府が Bandov (坂東)を外国と認識していたというのではおかしいことになる、とすれば Bandov は安東国でなければならないことになる。

 ここに出てきた『安東国』とは、三春秋田氏の先祖である『安東氏』が治めていた国のことである。中世には今の秋田県北部から青森県全域、北海道南部までをその勢力圏とし、津軽十三湊を本拠にした安東水軍の最盛期には北海道・樺太・千島・中国などと交易していたとされる。そのため安東氏は、『蝦夷管領』『日の本(ひのもと)将軍』と称されていた。ここに『日の本将軍』という官職名が出てきたが、昭和24(1949)年に甲地村(いまの青森県東北町)千曳の川村種吉氏が、千曳と石文(いしぶみ)集落の間の赤川支流の湿地から『日本中央(ひのもとちゅうおう)』と書かれた石碑を発見した。これは歴史上の資料として確定されてはいないが、古来伝えられてきた『壺の碑(いしぶみ)』ではないかと言われている。

 『壺の碑』については、文治元(1185年)の頃編まれた袖中抄の19巻で『陸奥の奥に有り。日本の東の果てと云り。但し田村将軍征夷の時、弓筈にて石の面に日本中央の由を書付たれば石文と云ふ。石の面長さ四、五丈計りなるに文をゑり付けたり。その所とはつぼと云也。それをつもと云也』と言われてきた。つぼは、今の青森県七戸町天間館坪(旧坪村)と思われ、つもは、坪村のさらに古い名・都母と思われる。しかし江戸時代の初め頃、市川村(いまの多賀城市)で石碑(多賀城碑)が発見された。この碑は発見当初から壺の碑であるとされ、天平宝字(757~764)年間に建立されたものとして当時の記録に残されている。

 この安東氏の支配下にあった十三湊は、室町時代に大津波で襲われ、その栄華もまた歴史から忽然と消えてしまったのである。平成20年、五所川原市の沖、つまり十三湊の海底から人工の遺跡と思われるものが発見され、『みのもんた』のTV番組で放映された。いまのところ、遺跡そのものが人工のものとの確認がされていないからにわかに断定はできないが、もしかして『東日流外三郡誌』時代のものでは? という期待は湧く。しかしこれが直ちに東日流外三郡誌信憑説の証明となるかどうかは不明である。





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2011/2/21 またも半月で、1日平均
           アクセス数が73になりました。

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最終更新日  2011.02.21 11:46:44
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