PR
カテゴリ
コメント新着
カレンダー
キーワードサーチ
三、 宮 城 県
宮城県も伝説が少なくない。戦場となった胆沢が仙台領であり、政宗の孫が立藩した一関にほど近いこととを考え合わせれば、当然のことと思われる。その伝説の最初は、田村麻呂の父、苅田麻呂からはじまる。この言い伝えは宮城県に苅田郡という郡があることによるものであろうが、丁度、福島県の田村地域に多くの田村麻呂生誕伝説が伝えられていると、まったく軌を一にするものと思われる。
「田村麻呂の父の坂上苅田麻呂は、苅田郡の生まれです」
(宮城県苅田郡)
昔、この辺りは七里ヶ沢(宮城県)と称し、大多鬼丸が支配していました。そして田村麻呂の父の刈田麻呂がエミシ征伐の折り、宮城郡利府郷に宿陣した時、九門長者の娘阿久玉姫を愛しました。
阿久玉姫は元々京の人で,父親の知り合いで多賀城の近くの九門長者を頼ってきていました。彼女は観音様に,悪い人に逢ったら醜い女,良い人に逢ったら美人に見えるように祈願し旅立ちました。朴沢(仙台市泉区山の寺二丁目)の亀の子石に近い水田に湧く鏡ヶ池(現在はない)で旅の汚れを落として化粧をしたので阿久玉姫の化粧水と呼ばれ、その坂を化粧坂(坂としてではなく地名として残っている)というようになりました。
(仙台市泉区)
山ノ寺=千熊丸(田村麻呂の幼名)は大菅谷保の佐賀野寺(山の寺の前身)で学問をしました。
(仙台市泉区山の寺二丁目にある龍門山洞雲寺)
田村麻呂が参籠から戻ったところに、童子が一匹の葦毛の馬をひいてきました。長谷寺の清浄上人のもとからで戦いの時は必ずこの馬に乗るようにとのことでした。田村麻呂はこの馬に乗って征夷を成し遂げました。ところが陸奥国三迫というところで、この馬が死んでしまいました。仕方なく石の唐櫃に納めて葬りました。するとこの墓が七日にわたって光り輝き、異香が薫じたので不思議に思って墓を掘ったところ、金色の馬頭明王が顕れました。
(気仙沼市)
桓武天皇の延暦二十年(八〇一)、大伴駿河麻呂将軍によって一度平定された東北のエミシ、悪路王高丸・俗称箟岳丸(ののだけまる)は、当時の国府多賀城を攻略しました。箟岳丸はその勢いをかって京都までのぼろうして駿河の清見ヶ関(静岡県)付近まで攻め進んだところ、朝廷もこれに驚き、武勇無双の坂上田村麻呂を征夷将軍に任命、エミシをこの山で攻め滅ぼしたのです。
(宮城県)
今の北上川筋には、昔は二股川と大関川の合流した川が流れていました。田村将軍がこの地へ来たとき、先に服従した者たちが人柱を作り、橋となって田村麻呂の渡河を助けたと言われます。それでこの地を鬼橋というようになりました。
(登米市東和町鬼橋)
(登米市東和町鬼伏)
鬼伏=相川の奥で将軍に追い詰められた賊どもが降伏したところと伝えられます。付近には水喰(みずはみ)という所もあり、賊が逃げる途中に水を呑んだ所といわれています。
(登米市東和町鬼伏)
悪徒(党)原=田村将軍に反抗した賊どもが住んでいた所といわれ、現在は悪戸と言われています。
(登米市東和町)
耳取=悪徒原から追い出された賊が耳を切り取られた所だと言われています。 (登米市東和町耳取)
鱒淵馬頭観音=さらに追われた賊は鱒淵の山に登りましたが、ついにここで退治されました。田村麻呂はこの地の他にも石巻の牧山、嶽山、栗原の小迫、八戸の蝦夷を平らげたので奥羽は平和になりましたが、鬼神と言われたエミシでも人なのだからと言われて、これらの七ヶ所に寺を建立してその霊を弔いました。奥州七観音といわれるのがこれです。葦毛の名馬の働きがあったので馬頭観音を祀りました。それが鱒淵の馬頭観音です。
(登米市東和町鱒淵)
エミシの首領・大武丸と征夷大将軍坂上田村麻呂が戦い、鬼と呼ばれていた大武丸が首をはねられました。その場所を鬼切辺と呼び、鬼首の地名が生まれたとされています。
(大崎市鳴子町)
桓武天皇の御世、奥州の大嶽丸という鬼神が伊勢の国まで攻め上ったとき、田村麻呂が征夷大将軍に任ぜられ、鈴鹿御前の力を借り大嶽山にて大嶽丸の首を切り落としました。その首が飛んでいったところが鬼首(おにこうべ)です。また、この物音に目をさました仲間の鬼神たちがあわてて逃げ出しましたが、田村麻呂はその後を追って行き、鬼神の一人を切って埋めた所が浅水の長谷観音です。鬼神たちはさらに東へ逃げました。
(大崎市鳴子町)
長谷寺(ちょうこくじ)=赤頭(あかがしら)と呼ばれたエミシの首領が、気仙郡佐狩郷赤崎小田の地にいて、鎮守府将軍の田村麻呂と一戦を交えました。成敗された赤頭の首を埋めた墓の上に田村麻呂はお堂を建て、十一面観世音菩薩を安置したのが、現在の猪川町にある竜福山・長谷寺(創建八〇七年)と伝えられます。それから九〇〇年が経った宝永元(一七〇四)年に、寛応法印が寺内から発掘したという赤頭の歯、三三枚が寺宝として現存しています。それは鬼の牙といわれています。
田村麻呂は駿河麻呂将軍の祀られた白山権現の宝前で、勝ちどきをあげ背中より一本の矢をとりだして、これを東辺・箟宮の塚に立て刺し、『東夷ふたたび蜂起せずんば枝葉を生ぜよ』と、七日七夜の祈念をしました。ところが不思議にもその鏑矢に枝葉が生じましたので、これを箟岳(ののだけ)と称しました。
(桶谷町)