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2012.04.21
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カテゴリ: 安積親王と葛城王
          葛 城 王 伝 説

 いつの時代からであったのかは不明であるが、安積地方に次のような伝説が残されている。恐らくこれは、万葉集の左注の部分が伝説化して一人歩きをしたものであろう。

   今から千二百年ほど前のこと、安積の里は朝廷への
  貢ぎができないほどの冷害が続き、調査のため都から、
  葛城王が安積の里を訪れた。
   里人たちは王に窮状を訴えるとともに、年貢を免除
  してくれるように頼んだが聞き入れてもらえず、困り
  果てていた。
   安積の里の山の井には、笛の名手・小糠治郎と、相
  思相愛の許婚(いいなずけ)・春姫が住んでいて、二人
  は、ひとときも離れていたくないほどに愛し合ってい
  た。治郎は野良仕事へ行く時はいつも春姫の絵姿を持
  って出かけるほどだったという。
   里人が窮状を訴えた日に宴が催されたが、王の機嫌
  がよくなく十分にもてなすことができなかった。その
  時、出席していた里長の娘・春姫が王の目にとまり接
  待を命じられることとなった。春姫は言われるままに
  ふるまい、盃を捧げながら王の膝を軽くぽんとたたき
  次の歌を王に献上した。

    あさか山影さへ見ゆる山の井の浅き心を
    わが思(も)はなくに

   すると、王はたいそうよろこび、歌の美しさや意味
  の深さ、すばやく詠んだ春姫の才能を褒め称え、春姫
  を宮廷の采女として参内することを条件に、貢物を三
  年の間免除されることとなった。
   しばらくして春姫が都に上がると、愛しい許婚を失
  った治郎は嘆き悲しみ、夜毎、春姫への変わらぬ心を
  笛に託していつまでも吹きつづけた。里人の窮状を救
  う為には仕方がないと、悲しみをこらえる毎日であっ
  たが、ついにこらえきれなくなり、治郎は永久の愛を
  誓いながら山の井の清水に身を投げた。
   その頃春姫は帝の寵愛を受け、大変華やかに暮らし
  ていたが、片時も治郎のことを忘れることができなか
  った。そうしているうちに中秋の名月の宴が開かれ、
  春姫はこの時とばかり賑わいに紛れ猿沢の湖畔に駆け
  込んだ。そして湖畔の柳に十二単を掛けて入水を装い、
  治郎の住む安積の里へとひた走った。
   帝は春姫が亡くなったと思い込んで深く嘆き、春姫
  を供養する祠(ほこら)をつくり次の歌を詠んで捧げた。

     吾妹子(わぎもこ)の ねくたれ髪を 猿沢の



(恋しかりし人よ、あなたが朝起きたときに乱した髪も今となっては恋心となって蘇ってくる。わたしは、猿沢の池に浮かぶ藻が、あなたのその髪のように見えて嘆き悲しんでいるのだよ)
                     (柿本人麿)

   一方春姫は走りつづけ、やっとのことで故郷に着い
  たが、待っていたのは治郎のせつない死であった。体
  の芯まで疲れ果てていた春姫は、悲しみに追い討ちさ
  れ病の床に伏した。そして、雪の降る寒い夜のこと、
  治郎のもとへ行くことを願った春姫は、治郎と同じ山
  の井の清水に身を沈めた。
   やがて雪がとけ、安積の里にいよいよ春が来たと思
  われた頃、山の井の清水のまわり一面に、名も知れぬ
  薄紫の美しい、可憐な花が咲き乱れた。この花につい
  て、だれ言うともなく「二人の永久の愛が土の下で結
  ばれて咲いたのだ」という話が広がり、それ以来、里
  の人たちはこの花を「安積の花かつみ」と呼んだそう
  な。

 奈良市の『奈良新発見伝』には、采女伝説として次のように記されている。

   福島県の郡山市片平町に春姫という美しい娘が住ん
  でいました。奈良の都から葛城王が東北巡察使として
  彼の地へ行った時、奈良へ連れて帰って采女として宮
  中に仕えさせることになりました。
   美しい春姫は天皇に見そめられて寵を受けたが、そ
  の寵の衰えたことを嘆いて、池に身を投げたと伝えら
  れています。
   池の南東には、采女が入水するときに衣服を掛けた
  という衣掛柳があり、北西には、采女神社があります。
  この采女神社は自分が身を投げた池を見るのは嫌だと
  いって後ろを向かれたということで、道のある池側と
  は反対の方向を向いています。
   ところが、采女の出身地の郡山の方では、こんな風
  に伝えられています。
   春姫は、故郷に残してきた恋人のことが忘れられず、
  衣を柳に掛けて身投げをしたように装い、故郷まで苦
  労して帰り着きました。しかし恋人は春姫を失ったこ
  とを悲しんで井戸で入水自殺をしていました。春姫も
  その井戸に身を投げてなくなったということです。

 また奈良市橋本町の采女神社の案内板には、次のようにある。

   奈良時代、天皇の寵愛が薄れた事を嘆いた采女
  (女官)が、猿沢の池に身を投げ、この霊を慰める為、
  祀られたのが采女神社の起こりとされる。入水した池
  を見るのは忍びないと、一夜のうちに御殿が池に背を
  向けたと伝えられる。
   例祭当日は、采女神社本殿にて祭典が執行され、中
  秋の名月の月明りが猿沢の池に写る頃、龍頭船に花扇
  を移し、鷁首船と共に、二艘の船は幽玄な雅楽の調べ
  の中、猿沢の池を巡る。

 これら郡山や奈良の伝説に関して原型の一つと思われるものが、十世紀の中頃に成立したとされる大和物語の一五五段に記載されている。

   昔、大納言のむすめいとうつくしうてもちたまふた
  りけるを、帝にたてまつらむとてかしづきたまひける
  を、殿にちかうつかうまつりける内舎人にてありける
  人、いかでかみけむ、このむすめをみてけり。顏容貌
  のいとうつくしげなるをみて、よろづのことおぼえず、
  心にかゝりて、夜晝いとわびしく、やまひになりてお
  ぼえければ、「せちにきこえさすべき事なむある」とい
  ひわたりければ、「あやし。なにごとぞ」といひていで
  たりけるを、さる心まうけして、ゆくりもなくかき抱
  きて馬にのせて、陸奧國へ、よるともいはずひるとも
  いはず逃げて往にけり。安積の郡安積山といふ所に庵
  をつくりてこの女を据へて、里にいでつゝ物などは求
  めてきつゝ食はせて、とし月を經てありへけり。この
  男往ぬれば、たゞ一人物もくはで山中にゐたれば、か
  ぎりなくわびしかりけり。かゝるほどにはらみにけり。
  この男、物求めにいでにけるまゝに三四日こざりけれ
  ば、まちわびて、たちいでて山の井にいきて、影をみ
  れば、わがありしかたちにもあらず、あやしきやうに
  なりにけり。鏡もなければ、顏のなりたらむやうもし
  らでありけるに、俄にみれば、いと恐しげなりけるを、
  いとはづかしとおもひけり。さてよみたりける、

     あさかやま かげさへみゆる 山の井の
       あさくは人を 思ふものかは

  とよみて木にかきつけて、庵にきて死にけり。男、物
  などもとめてもてきて、しにてふせりければ、いとあ
  さましと思けり。山の井なりける歌をみてかへりきて、
  これをおもひ死に傍にふせりて死にけり。世のふるご
  とになむありける。

 これらの話を比べてみると、万葉集左注からはじまったと思われる奈良の葛城王伝説が、時代を追うごとに、安積のそれへ変化していったとの想像ができる。しかし気になるのは、万葉集が『浅き心を我が思(も)はなくに』とあるものが大和物語では『浅くは人を思(おも)うものかは』などとの若干の差であり、時代を下ってみても万葉集の『安積香山』、古今和歌集の『あさか山』、大和物語の『あさかやま』、奈良曝の『あさか山』などとあることである。この微妙な言葉の言い回しの差は、意味において大きな違いはないと思われるが、なぜ替えたのかという疑問が残る。その他にも大和物語には『安積の郡安積山』という固有名詞があり、さらには『山ノ井』で写したのは安積山ではなく娘の顔であり、歌はその娘の作とされていることなどの差がある。

 結論から言えば、作者とされた『陸奥国前采女某』が本当に安積に住んでいて詠んだのかどうかは大いに疑わしい。もし彼女が実在の人物であれば、万葉集の中に他にも安積という文字のある歌があってもおかしくないと思って目を通してみたが、見つけることが出来なかった。つまり約四千五百首の歌が収められた万葉集のなかに、『安積』のつく歌は一首しかないということである。ところでこれらの話に共通するキーワードがあった。それは水である。郡山では、『山ノ井』と奈良の『猿沢池』とは地中でつながっており、『猿沢池』に身を投じた采女の亡骸が『山ノ井』に浮いた、と伝えられている。



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最終更新日  2012.04.21 17:27:50
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