『福島の歴史物語」

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2012.07.22
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カテゴリ: 安積親王と葛城王


 「やがては」、と安積親王に期待する気持ちが詠われている。宴は安積親王を慰める、または元気づけるためのものであったと思われるし、もしそうであるとすれば、記録にはないがこれ以前にも多くの宴が開かれたものと思われる。藤原氏は、四人兄弟の次の世代に移っていた。しかしすでに広嗣は九州で反乱を起こして故人となっていたし、仲麻呂は阿倍内親王に取り入ることを試み、八束は安積親王を囲むメンバーの一人として宴の場を持っていた。

 聖武天皇は紫香楽宮(信楽宮・滋賀県甲賀市信楽町)に遷都し行幸に出発する。その際、留守官の橘諸兄と内舎人の大伴家持は、天皇の行幸に従わず安積親王と共に恭仁宮(京都府木津川市)に留まった。

 天平十六(744)年正月、安積親王の邸があったとみられる『活道岡(いくじおか)』で家持や市原王(第三十八代・天智天皇の五世孫)らが集まって宴を開き。歌を詠んでいる。

     一つ松 幾代か経ぬる 吹く風の 声の清きは
                    年深みかも
(この一本松は、どれほど長い年月を経ているのか。吹き抜ける風の音がなんとも清らかなのは、幾多の年輪を重ねてきたからなのだろうか)    (市原王 万葉集 06/1042)

 皇統から疎外された市原王と、政権から疎外された名門の大豪族の末裔の貴公子大伴家持との、安積親王に対する夢多い祝福の歌であったのであろう。彼らにとっての最大の願望は安積親王の即位にあった。この歌は安積親王への正月の祝賀歌であると同時に、『一つ松』という言葉に安積親王の即位を待つ期待が、また『松』には安積親王の無事長命を合わせ込めたものであると言われている。

 閏一月、聖武天皇は左大臣・橘諸兄に難波宮(大阪市中央区)を皇都とすると宣言させ、難波宮に行幸した。

 この年、安積親王が薨去された。

 天平十七(745)年、橘諸兄の遷都計画は失敗に帰し、以後、次第に実権を藤原仲麻呂に奪われることになる。

   【大伴旅人と家持】

 大伴旅人とその子・大伴家持は歌人として有名であるが、むしろ武人としての家系にあった。大伴氏は、天孫降臨のときに先導を行った天忍日命(あめのおしひのみこと)の子孫とされ、古代日本の有力氏の一つである。大伴氏は物部氏と共に軍事の管理を司っており、現在でいう皇宮警察や近衛兵のような役割をしていた。今も宮城の正門に、大伴門(朱雀門)の名を残している。そのような立場にもあって、旅人は長屋王派と言われ、その重鎮として活動していたようである。

 養老四(720)年、旅人は山背摂官となり、その後征隼人持節大将軍として隼人の反乱を鎮圧、そして八月、不比等の死に際して勅命を受けて京に帰還した。これらの事情から反藤原の人たちは、旅人などを中心に結束を固めはじめた。しかし未だ、その核とするべき人物はいなかった。

 そのような神亀五(728)年、安積親王が生まれた。大伴旅人六十二歳、その子・家持は九歳のときであった。

 天平三(731)年、『安積派』の重鎮でもあった大伴旅人が亡くなった。十二~三歳になっていたその子・家持は、三歳となった安積親王に歌を贈ったとされている。しかしここでは、『安積親王』の名は使われていない。

見まつりて未だ時だに更 (かは) らねば年月の如思ほゆる君
(お逢い申し上げてまだ幾らも時は経っておりませんのに、もう長い年月を経たように懐かしく思われる君よ)
             (万葉集 04/0579)

 足引の山に生ひたる菅の根のねもころ見まく欲しき君かも
(山に生えている菅の根が土にしっかりと絡みついているように、つくづくとお顔を拝見したい君であることよ)
            (万葉集 04/0580)

 家持は亡父・旅人や葛城王とともに、安積親王の有力な支持者となっていた。家持が天平八(736)年以前に安積親王を詠んだとされる歌に、次のものがある。『安積親王』は八歳となっていた。

    我が屋戸の一むら萩を思ふ子に見せず
              ほとほと散らしつるかも
(我が家の庭に咲いた一群れの萩の花を、思いをかけている子に見せないまま、ほとんど散らしてしまいました)
             (万葉集 08/1565)

 天平十五(743)年、聖武天皇は紫香楽宮(信楽宮・滋賀県甲賀市信楽町)に遷都し行幸に出発する。その際、内舎人の大伴家持と留守官の橘諸兄は、天皇の行幸に従わず安積親王と共に恭仁宮に留まった。このことから、家持は親王専属の内舎人になっていたかと推測される。

 天平十六(744)年閏一月、安積親王が薨去された。
 その後大伴氏は藤原氏の台頭によって衰退していくが、万葉集などでの文化的な面で活躍をみせる。






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最終更新日  2012.07.22 09:03:05
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