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大地震 大津波 放射線被害 (1)
平成二十三年(2011)三月十一日午後二時四十六分、突如巨大な地震が発生し、その約一時間後、大津波が東北から関東地方を襲った。この大津波は、場所によっては波高十メートル以上、最大遡上高四十メートルにも上る巨大なもので、東北と関東地方の太平洋沿岸部に壊滅的な被害をもた
らした。平成二十六年(2014)五月九日の時点で、この大災害による死者・行方不明者は一万八千五百六人、建築
物の全壊・半壊は合わせて四十万四百一戸が公式に確認されている。震災発生直後のピーク時においての避難者は四十万人以上とされ、停電世帯は八百万戸以上、断水世帯は百八十万戸以上等の数値が報告されている。復興庁によると、平成二十六年三月十三日時点の避難者等の数は、福島県人口二百万強に対して約十四%の二十六万三千九百五十八人となっており、避難も長期化している。次は地震、津波、放射線汚染発生当時の、福島民報新聞の見出しの一部である。
分 福島県は、東京電力福島第一原発
より半径二キロメートル以内の住
民に避難を呼びかけた。
午後九時二三分 首相が第一原発から半径三キロ
メートル以内の住民に避難を、十
キロメートル以内には屋内退避を
指示した
。
十二日午前五時 四分 非難指示区域を半径三キロメート
ルから十キロメートルに拡大した。
午前七時四五分 福島第二原発にも原子力緊急事態
宣言を拡大、第二原発の半径三キ
ロメートル以内の住民に避難、十
キロメートル以内に屋内退避を指
示した。(県民の誰しもが、放射
能事故の重大性に恐れおののいた)
午後三時三六分 第一原発
一号機の建屋が水素爆発
起こして
白煙が上がり、東電社員
ら四人が負傷し病院に運ばれた。
(目に見えぬ放射性物質の拡散が
始まった)
午後五時四五分 第一原発周辺から放射性セシウム
が検出され、第二原発の半径十キ
ロメートル圏内にある大熊、双葉、
富岡、浪江、楢葉の五町の住人六
万一千人に対し、避難
が指示された。
この避難指示に
より、福島原発周辺の住民らの大脱出が始まった。しかしこの脱出は、今までに行われてきた非難訓練のような訳にはいかなかった。運転手が放射線により被曝するのではないかと危惧したバス会社が、避難用のバスの運行をさせなかったので
ある。その上、地震や津波の影響もあって県内の鉄道や道路などの交通網は寸断されてマヒし、新幹線、在来線の鉄道やバスなどの公共交通機関が全面的に運休、避難しようとする住民の自家用車が給油を求めてガソリンスタンドに殺到したが、そこもすでに脱出していて無人となったりしていた。被災地の相馬市の対策本部では、緊急車両や暖房用の燃料確保ができず、その機能を失っていた。一方、ハワイでは英邦字紙・ Hawaii Pacific Press は、日本での大津波とそれに付随して起きたハワイでの津波の被害を報じていた。
(前略)日本の東北地方太平洋沖でM8・9の大地震発
生の知らせを受け、エバビーチの太平洋津波警報センター
が10日夜9時半(ハワイ時間、筆者注)に津波警報を
発令。海岸に近い住民に高
台への移動を勧告した。昨年
のチリ地震津波に続き今回も州内のほとんどの地域は被
害を免れたが、ハワイ島コナのケエヒラグーン・マリー
ナなどでは大きな被害を受けた。(中略)今回最も大き
な被害を受けたコナでは、18戸の住宅やアパートが倒
壊あるいは半壊し、レストラン、ホテルなど20軒が大
きな被害を受けた。キングカメハメハホテルのロビーは
1フィート(1フィート30・48センチ)冠水し、 ケアラケクア・ビーチでは住宅1棟が沖に流された。 ナプープーでは波の高さが11フィートに達し水は海 岸から100フィー
トの地点に達したという。オアフ島
ではサンドアイランドに近いケイヒ・スモールボートハ
ーバーで約200隻のボートが大波に煽られて漂流した
り衝突したりして損傷した。
マウイ島のマラエアハ
ーバーでは2隻が沈没し1隻が
転覆した。(後略)
日本で
は連日、大地震、大津波、そして福島県の放射線の被害について、大きく報道されていたが十四日午前十一時一分、福島第一原発では三号機
も水素爆発を起こし、自衛隊員を含む十一人が負傷した。
注 東京電力福島原子力発電所は、第一発電所(楢葉
町)1〜3号機と第二発電所(大熊町)1〜4号
機で構成されている。福島県を襲ったこの放射線
被害は、程度の差はあれ、青森、岩手、宮城、山
形、茨城、栃木、
群馬、埼玉、千葉、東京、神奈
川、山梨、長野、静岡、三重、兵庫、香川の各都
県に及んだ。
避難した住民らは口々に、「原発の事故による放射線からの避難勧告が出て驚き、着のみ着のまま夢中で逃げてきた」と言う。これが多くの避難者たちの、偽らざる心情であった。避難する住民にしてみれば、何が起きたか分からないなかでの原発の爆発であり、広島や長崎に落とされた原子爆弾のような大爆発があると想像し、「ああ、死ぬんだな・・・」と思った人の多かったのも、無理のないことであった。それが住民たちの間に避難のパニックを生み、さらに福島県民の恐怖心を煽り、増大させていった。TVに映し出される避難民の車列は、あたかも戦乱などを逃れる難民の姿を彷彿とさせた。この原発周辺の被災者のうち八千六百人余が郡山市に、二千人超が川俣町に、六千八百人超が田村市に、その他の多くが人々沖縄県などを含む全国各地に避難して行った。しかしこれらの避難民を受け入れる近隣の地域でも大地震で建物の損壊などにより無傷ではなかった。郡山市でも五階建てのビルが斜めになったり、一階が潰れてしまったビルや陥没した道路など、至る所が交通止めになっていた。
ホノルルの Hawaii Pacific Press 誌には、何日にもわたって、大きな見出しの記事が掲載されていた。
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