『福島の歴史物語」

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2016.08.21
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     ハワイ移民一世(2)

 1898年、アメリカによるハワイ併合とそれに伴う新法の施行により、農場に残った日本人労働者の脱走とか不服従による牢獄送りといった心配事は軽減された。そのために移民たちは農作業や生活改善に前向きに取り組めるようにはなったが、法的規制によって改善された。しかし日本人移民に対しての労働条件の実態は、契約を交わしたときの名残が随所に残されていた。例えば鞭で労働者を叩くなど、ルナによる職権乱用が相変わらず続いていた。これなどは、日本人移民に対しての差別的行為であったのかも知れない。

 この半奴隷的労働と低賃金に対して、日本人移民たちは命令不服従と脱走で対抗した。農場で馬に乗って鞭を振って労働者を虐待するルナに対し、マウイ島のウルパラクア農園では移民二十名余りで大ルナ(総監督)を殴り倒すという集団暴行事件も発生した。その後も日本人移民たちは多くの抗議行動を起こした。彼らは集団で、あるいは代表を立てて、農場からホノルルまで行進し、日本総領事館やハワイ政府移民局に不当な扱いを改善するよう訴えた。それはさながら、江戸時代の百姓一揆のようであったという。

 移民して暫くたつと、単身で移民した多くは、生活の安定を求めて結婚を望んだ。しかし アメリカのハワイ併合後に日米間で締結された条約により、日本からの新たな移民が禁止されたが、それでも、辛うじてハワイから日本の家族を呼び寄せるという移民は許されたので、彼らは故郷の両親や親戚を頼って花嫁候補とされた女性と写真や履歴書を交換して結婚を決め、日本で入籍させた上でハワイへ呼び寄せた。いわゆるピクチャーブライド(写真結婚)である。しかし日本型社会がハワイに定着するにつれ、反日ムードが広がっていった。例えば、結婚は個人と個人の意志に基づいて行なわれるものだと考えているアメリカ人にとって、一度も直接的に意志の交換がなされずに行なわれる写真だけの結婚形態は、理不尽な風習に見えたらしい。だが意志を交わそうにも日本に戻る金銭的な余裕のない移民にとって、これは最も都合のよいやり方であったのである。裏には、『結婚は親が決める』とした日本の古い風習も支えとなっていたのかも知れない。しかしアメリカ人が好まない形式の結婚ではあっても、家庭を持つことのできた男性が増えていくことで日系人社会は次第に落ち着いてくるのである。そこで増えてきたのが次の世代である子どもたちの誕生である。いわゆる日系二世である。これら二世の場合、ハワイに住んではいたが、両親は日本人であったから、当然、日本人としての血統を引いていた。

12写真花嫁.jpg



 明治三十三年(1900)、ホノルルでペストが発生、流行した。醜悪な住環境に住む移民たちが原因とされ、病原菌駆除のためとして病人のいた家に火が放たれた。その火が燃え広がり、移民たちの住んでいた集落と隣接した白人の住宅地も焼いてしまった。政府はこの対処法として白人にはホテルを提供したが、アジア系移民にはバラックを準備した。しかしこのことから差別が表面化し、不満が爆発した。そしてこれを機に、ハワイに於ける日本人社会は、『アメリカ化』を進める同化派と日本人への差別や圧力をはね除けようとする対決派に分裂しはじめた。アメリカ式教育は同化派の、日本語学校の開設は対決派のそれぞれの基盤となったのである。

 大正九年(1920)1月19日、フィリッピン人労働組合の約三千人がオアフ島のアイエア、ワイパフ、エワ、ワイアルア、カフクの各農場でストライキに入った。当初、日本人移民は様子を窺っていたがスト協力を要請されて応ぜざるを得なくなり、2月2日、オアフ島の各地でストに突入した。このストライキは六ヶ月続き五割の賃上げや社会福祉の進展などを獲得したが、プランテーションでの重労働に嫌気をさした多くの日本人労働者が、農場から離れて町に出たり、アメリカ本土へ移ったりすることになる。これがホレホレ節でうたわれた、『行こかメリケンヨー帰ろか日本 ここが思案のハワイ国』を表現したのではないだろうか。

 大正十三年(1924)、アメリカは移民の絶対数を十五万人に制限し、明治二十三年(1890)当時の移民実績をもって各国への割当て基準とした。その結果、イギリス系をはじめ北欧系には有利になったが、南欧、東欧諸国系を含むその他の外国人には不利となった。その上この法律は、合衆国市民になることのできない外国人の入国を禁止するとしたため、アジア系の移民は全面禁止となってしまった。そのためこの移民法は、俗に排日移民法と呼ばれた。この法律により、富造が推進していた『写真花嫁』の入国も禁止されてしまったのである。

 このような状況の中で、何とかカネを貯めて日本に戻ろうとしていた日本人移民は多かった。一世たちには、「出来るだけ早く家に帰る」という親との約束があったからでもあるし、『故郷に錦』を飾りたいという気持ちもあった。しかもそれは年を経るごとに、強まるばかりであった。一世は当然のことながら、ハワイに渡った後、日本人移民のコミュニティを形成したため、日本語だけで毎日を過ごすことが出来たから、日々の生活に特別の不自由を感じることもなかったという。そのため多くの一世は、ほとんどまともに英語を習得することなく生涯を終えている。もしかすると彼らには、異文化の中で生活しているというような感覚は乏しかったのかも知れない。
 ーーいつかは家に帰ろう。
 その感覚の方が、強かったのである。

 その思いからか、移民たちは二世である子どもたちを故郷へ戻しはじめた。ハワイで生まれた子どものうち、せめて長男か長女だけでも日本の教育を受けさせようとして日本の親元や親戚などに預けた家庭は少なくない。親戚などに預けられた子どもたちは、いずれ戻って来るはずの親たちを待って、けなげにも、日本で親と離れて過ごすことになる。もちろん子どもたちの生まれた年にはバラツキがあるし、日本に戻って来た時期にもバラツキがある。しかし親たちにしてみれば、やがては自分たちも日本へ戻るのであるから、子どもたちを先に日本に戻して日本人として日本の教育を受けさせておき、いずれそこへ自分たちも戻って行けばいいと考えたのも無理はないと思われる。しかし子どもたちの受け止め方は違っていた。未知の世界の福島に行かされるという感覚だったのである。

 それにしても取材の過程で、幼児期、それも一歳に満たない子も日本に戻っていたことを知って驚かされた。この一歳に満たない子を日本へ連れて来て養育を依頼してハワイへ帰っていった親たちの心情は、どんなにか切ないものであったろう。恐らく過酷な労働に従事し、貧しい生活をしながら子育てが可能かという疑問、そして我が子の幸せを祈る願いがこのような選択を迫ったのではあるまいか。それにもう一つの理由として、「米国籍を有しているわが子には日本に住んでも日本の国籍法が及ばず、日本政府による徴兵を合法的に免れることができる」と考えたこともあるようである。それでも、子どもの養育のために実家が受けることになる負担の大きさを思い、子どもの兄弟全部を戻す家庭は少なかった。掘っ立て小屋の住居に住み、アメリカとしては低賃金でしかも長時間の過酷な労働ではあったが、そこには日本では得られない安定した収入があった。そして移民たちは、その収入から爪に火をともすようにして実家へ仕送りを続けていたのである。
    注 当時は、アメリカでも徴兵制をしいていた。

 ハワイで生活を続けている移民一世の親と二世の子どもたち、そして日本の親戚などに預けられた二世の兄姉たち。この分裂した家族をまとめる方法は、唯一、ハワイで稼いでカネを貯め、早く故郷に戻ることしか考えられなかった。そのために彼らは、必死になって働いた。しかし逆にそのことは、雇用する側の目に、良質の労働力と映ったのかも知れない。日本人は差別を受けながらも自己主張をすることも少なく、黙々と働いていたのである。聖徳太子の言う、『以和為貴(わをもってたっとしとなす)』の思想が根付いていたからかも知れない。

 ところで世界の情勢は、日本人移民たちの思惑を遙かに越えた動きをしていた。軍国主義日本によるアジアでの戦火拡大を恐れた一世の親たちは、日本に預けていた子どもたちの将来を憂いた。このまま子どもたちを日本に留めておけば、日本軍兵士として戦線に送り出されるかも知れないと心配したのである。日本の親戚に預けた子どもたちを、戻すべきかそのまま留めるべきか、その対応は別れた。しかし子どもたちを呼び帰すことは、全体的潮流とはならなかった。それはそのまま、親の迷いを表していた。

 日系二世は外見こそ日本人であるがアメリカ国籍を有し、法的には白人のアメリカ人と同じであった。彼らは、ハワイに住む自分たちはアメリカ人である、という気概を持とうとしていた。移民一世も、そのことは認めていながらも、気持の半分は『故郷に錦を飾る』という夢を捨て切れないでいた。この移民一世の夢を打ち破ったのが日米開戦であった。ハワイの日系人が目の前で見せつけられた日本海軍による真珠湾攻撃は、彼らの日本人としてのプライドをズタズタに切り裂いてしまったのである。それは戦争が単なる抽象的な概念としてではなく、実質的に日系人の存在そのものを大きく脅かす事実として立ちはだかったのである。

13真珠湾攻撃.jpg



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最終更新日  2016.08.21 07:01:45
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