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帰米二世
学齢期に日本にいて、そののちハワイに帰った帰米二世たちは、日本語で戦前の神国日本・皇民・軍国的教育を受けその正当性と倫理観を叩き込まれていた。これら帰米二世たちの帰りを待ちわびていた弟妹たちは、ハワイで英語に慣れ親しんで育ち、民主・自由主義的アメリカの文化とその価値観で育っていた。そのため両者の間に起こったのが文化の衝突であった。このお互いが受けたカルチャーショックのため、実の兄弟間でも対立が起きた。帰米二世たちは社会的孤立と同時に、家庭内でも孤立せざるを得ない状況に立ち至るのである。そのような状況の中でのパールハーバー攻撃。日系二世のうち、帰米二世たちは敵国の出身であるとして、ハワイでも不審者として扱われるようになっていた。彼らには、居場所がなくなってしまったのである。
ハワイにおいては、『悪い日本精神の根源地は布哇(ハワイ)大神宮にある』とFBIに決めつけられ、大神宮の建物はすぐさま接収されてしまった。その上、大神宮の文字すら良くないということで、門に刻んである『布哇大神宮』の文字を「布で隠せ」と命じてきた。ところが雨の多いハワイでは、布で隠した筈の文字が雨で濡れると文字が見えてしまったので、あわてて次には「木の板で囲え」と命令してきた。また神社に寄付した人々は直ちに逮捕されたりしていたので、神社側は関係者の名前が分からないようにと、泣く泣く寄進物をことごとく焼却している。
同様な状況が、各家庭でも起きていた。仏壇の上などに飾っておいた皇室関係の肖像画をはじめとして、日本語の本や手紙など、とにかく日本的と思われるものすべてを、FBIに疑われないようにと焼き尽くしたのである。このことは帰米二世に限らず、すべての日系人に重くのしかかることとなった。「日本人でもなくアメリカ人でもない自分はいったい何者なのか。これからどう生きたらいいのか。」彼らはこれによって、日系人としてのアイデンティティを、まったく喪失してしまったのである。これらのことは、帰米二世たちにも、自分の日系人としてのルーツをどう考えるかという根本を揺るがす大問題として突きつけられることになる。
この問題について、移民一世は法的にも日本人であり、基本的に日本志向であった。また在米二世はアメリカ人であろうとし、そのための努力もしてきた。しかし帰米二世は、法的にはアメリカ人でありながら、日本で生活してきたこともあって日本志向が強かった。それがまた同世代の二世間での対立を増幅することになった。帰米二世たちは、神の国である大日本帝国によりこの戦いの正当性を指導されていたし、天皇は神の子であり国民は陛下の赤子として叩き込まれていたのである。
しかしそうは言っても、ハワイに生まれ育ち、住み、英語を自由自在に繰つることができた在米二世と、日本語しか話せないという言語的ハンデイキャップを持つ帰米二世とが、ハワイで共生していかなければならなかった。共生とは言っても、帰米二世たちは、在米二世たちと異なり、庭師か洗濯屋、メイドといった英語を話さないで済む職業にしか就けなかったから、彼ら二世同士の対立には相当根強いものがあったという。それに加えて、日系人の社会からも、帰米二世を葬り去ろうとした政治力があったという。どちらの二世たちも、親から受け継いだ日本人の血と同様、二世たちにとっては選択する余地のなかったそれぞれが受けた教育に翻弄されることになったのである。
このようなとき、日本の親戚に預けたものの帰って来なかった我が子を持っている移民一世の親たちは、『これからどうしたら、ハワイでの日系人家族として元の生活に戻れるか?』という難題に突き当たっていた。日本に住む子どものためにも、ハワイに住む日本人の親たちはどんなことをしてでも生き延び、やがては家族一緒の生活をしなければならないという強い命題につき動かされていった。それは、明治期日本人の特性であったのかも知れない。一世の親たちは、ただこのことだけを考えていた。この時期の日系人たちにとっては、日本に住む子もハワイに住む親も、言いようもない孤独の中にあったのである。そう、それは家族を守らなければならないという強い意志であった。
幼い頃の二世たちにとっての生活の場は、日本でもアメリカでもそう違いはなかったであろうが、中学生くらいにまで成長していた二世たちにとっては、自分にとってそして家族にとって最善の道は何なのかを考えざるを得なかった。ただここで、理由はどうあれ、日本に残った二世たちは、単にハワイに行ったことがあったという淡い記憶だけとなっていく。彼らはあまりにも日本の社会に馴染んでしまい、まったくアメリカ国民である二世としてのアイデンティティは、なくなってしまったのである。このアメリカと日本という二つの祖国を持ちながら、その二つの拠り所を失ってしまった日系二世たちの人生は、不条理なものであったと言わざるを得ない。そして帰米二世の悲劇は、日本がアメリカの敵国となる異常な状況で起きたものであって、帰米二世自らが選択したことで起こったものではなかった。
このような状況下で、帰米二世たちの大部分は、ただ引きこもっていた訳ではない。中には英語学校に通うなど、アメリカ化への地道な努力をする者もいた。しかし日本がアメリカの敵であった時代、そのアメリカを敵とする軍国主義に染め上げられた帰米二世たちの存在は、ハワイの社会や日系人社会にとっても、決して好ましいものではなかった。彼らは日系人社会からも、コミュニティの恥として黙殺、封印されることもあった。その上、アメリカ政府によって実施された敵性日系人の強制収容(ハワイを含む)と忠誠登録質問という政治的手段によって、帰米二世とアメリカで生活していた二世との感覚的差は、決定的となった。理由が何であれ、忠誠登録質問を拒否した人々は、アメリカ政府からは敵国人という政治的レッテルを貼られたのである。帰米二世たちは、自分が下した判断について、常に悩み続けることとなった。
ところで、帰米二世とは言えども、当初は二重国籍者であった。同じアメリカ国籍を持つ二世たちが対立をさせられた決定的理由は、戦争にあった。今までなら、単に親の生まれた国と自分の生まれた国という関係だけの日米が、お互いに敵となってしまったからである。そのため、どちらの国に忠誠を示すのかという二者択一の状況に追い込まれてしまったのである。そのことは、帰米二世自身の中においても激しい葛藤を生むことになる。このような中で、アメリカ本土においても、帰米二世たちは二つに分かれた。対決派は頑なに大日本帝国を信じた組であり、もう一つは懸命に英語を学び、アメリカに同化しようとした組である。
「第100大隊の兵士たちには、英語もよく分からない『帰米二世』が多かった。バカバカしかったな戦争。大分死んだっけね。・・・かわいそうに」
これは、後述する故・ヒデオ トウカイリン氏の述懐である。これは命を投げ出してもアメリカ人であろうとし、かつアメリカ本土に作られた強制収容所から親たちを解放しようとして多くの帰米二世が選んだ道の一つであったと言える。
1945年8月15日、海外に住む日系人たちに多大な犠牲を強いた戦いは、日本が連合国に無条件降伏をすることでその幕を閉じた。しかしハワイにも日本の敗けを信じない「勝った組」、「必勝組」、あるいは「布哇大勝利同志会」などと称される人々が各島にいた。もっとも、時間の流れと共にこれらの人々の主張にも変化が見られるが、当初は文字通り、日本の勝利を唱える活動であった。しかし実情を知るなかで、戦後の日本の経済的繁栄をもって勝利の証としたり、精神的な勝利を説くような者もあらわれた。やがてこの運動も「勝った」とばかり言えず、次第に質的変化が生じていく。この運動をしていた人々の多くがどのような人たちであったのか? 必勝組の人たちもその他の人たちも互いにおもんばかってか、それを語る口は重く、多くを知ることはできなかった。
日系人社会に大きな混乱を巻き起こした太平洋戦争後の1948年から52年にかけて、太平洋を渡った在日二世は、約2万人とも言われている。これらの人々は、『戦後帰米』と呼ばれる。しかし大戦中に市民権を凍結されていたため、旅券入手には種々の困難を極めたという。例えば在日アメリカ領事館で、「君は祖国に銃を向けた人間ではないか。そのアメリカに帰りたいなどとよく言えたものだ」などという激しい言葉を浴びた者もいたという。そして続く長い戦後・・・。またハワイの側でも戦争の期間中に故郷との間との連絡ができなくなってしまい、福島県出身というだけでそれ以上の住所を知らない人も多くなってしまっていた。しかも戦争中、お互いの間でも転居などもあり、互いの住所を忘れてしまったこともあった。
戦後は三世、さらには四世が登場する。彼らはもうほとんど日本語を話せない。真面目に日本語学校に通った者が、何とか祖父母との間で日本語によるコミュニケーションできる位である。要するに彼らにとって日本語は外国語になってしまったのである。彼らの顔は日本人であっても、頭脳はすっかりアメリカ人なのである。それでも、四世、五世にあたる人たちが、しかも他の人種と結婚して生まれた日系人たちを含めて、祖国を日本と考え、故郷の福島を心のよりどころにしている福島県人会員は多い。その多くの人が、「私の先祖が福島県から来たことを誇りに思う」と話してくれるのである。
2001年4月、私が最初に『マウナケアの雪』の取材のためハワイを訪問したとき、多くの県人会の方々のお世話になった。その方々は、故郷福島への思いを、私に次のように話してくれていた。彼らの心の一端を次に紹介してみたい。
「福島県人の子孫としてハワイにいるのですが、(福島県は)大変美しい郷土であり人の心も温かく、その親切な福島県人の血を引いている私としては大変誇りに思います。
(ジョージ スズキ・勝沼富造の孫・三世)
「福島で一番好きなものは血です。日本人としての血です」
傍らから新一世である妻のサニーさんが説明してくれた。
「要するに彼は、自分が日本人であることの誇りを説明したいのですが、日本語で上手に言えないのでああ表現するのです」
ロイさんが続けた。
「もしカネが問題でなかったら、ハワイの福島県人の子どもたちを福島県に連れて行きたいです。その気持ちがあるとつながるわけね、福島県との橋が・・・。それが私の夢です」
(ロイ トミナガ・前ホノルル福島県人会々長三世)
注 新一世=ほぼ戦後になってからハワイに移住した日本人。
「福島県人の多いマウイ郡は、福島県と文化や経済の交流をしたいと思っています。私は父母や祖父母が苦労して働いたことで今の自分があると思うと、とても感情が高ぶります。(涙ぐむ)その先祖に貰った愛情を、自分の子どもにも伝えていきたいと思います。
(リン レーガン・マウイ郡経済開発担当・四世)
注 彼女は自分の一人息子のライリーを、エレメンタリ
スクールに入った1913年から日本語学校に通わ
せている。
「どうか遊びに来てください。私たちは遠い遠い親戚です。私たちも福島に必ず行きますから、どうか私たちを忘れないでください。もしかしたら見た目も違うかも知れません。話す言葉も違うし考え方も違うかも知れません。しかし私たちは、皆さんと同じように福島県人としての誇りを持っています」
(ブライアン テツオ モト マウイ福島県人会々長・四世)
「福島県人であることを誇りに思います。これからも、もっともっと会のために協力援助したいと思っています」
(ウォルター タチバナ・ハワイ島前福島県人同志会々長・三世)
今は、日本側も世代が代わっており、親戚がハワイにいるとは親に聞いて知っていたが、通常の生活ではまったく意識していないという人が多い。その中の一人、ホノルルで取材に応じてくれたヒロシ ヨシダさんの親戚の家が伊達市にあった。当主の吉田恭亮氏にお会いすることができた。ヒロシから見て従妹の子にあたるという。すでに世代が一代下がり、年齢的にも若く、ヒロシに対する記憶はまったくないと言う。ただ戦後の物資不足の中、ヒロシから時折、生活物資(砂糖、チョコレート、農耕具、大工道具、デニムの衣類など)が送られてきて、鼻が高かったという。すでに、そのような時代になってしまったのである。
私が帰米二世について取材に応じてくれた人のうち二人ほどから、出身地の福島県での住所を聞いたので訪ねて行った。福島市に住んでいる一人を訪ねたとき、愕然としたのである。何と私が訪ねた女性はその前日に亡くなり、伺った日は通夜の日であったのである。家族によると、戦後の一時期、ハワイからいろいろな援助物資が送られて来ていたと言う。
——ああ、もう少し早く来れば良かった・・・。
悔いが先に立った。彼女だったら、ハワイへ戻らなかった事情が聞けたかも知れない。八十八歳であったという。彼女の年齢が、私を待っていてはくれなかった。
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