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『 帰 布 二 世 』 の 証 言(3)
ヒデオ トウカイリン氏は、フミコさんの父がアーカンソー州ジェロームの強制収容所に収容されていたとき、彼の元を訪れている。彼はハワイの日系二世で編成された第100大隊の兵士であったのである。私は今回、彼に取材をしていない。二年ほど前に亡くなったからである。であるからこれは、福島中央TVが2006年に放映した『虹の彼方でアロハ〜勝沼富造の生涯』の取材テープに入っていたものの抜き書きである。
注 「大」は、福島中央TVアナウンサーの大野修氏が
勝沼富造に扮したセミドキュメンタリー番組で取材
録画されたもので、「ヒ」はヒデオ トウカイリン氏。
大「あなたは二世になりますか?」
ヒ「父は1907年、十九歳の時伊達郡掛田町から移民して
いますから、僕は二世になります」
大「何年の生まれで何歳のとき日本に来られましたか?」
ヒ「1926年、僕が米国籍の三歳、弟のマサオが一歳の
とき父親に連れられ、父の出身地の伊達郡掛田町に戻り
ました。僕は九人兄弟の長男でしたから、三男以下の弟
や妹はハワイで生まれハワイで育ったことになります。
しかしその後、両親が離婚しました。父は子どもたちを
育てながらハワイに残りました。僕は父の実家で祖母に
育てられましたが、父からの経済的援助はなかったと聞
いています」
大「すると学校はどうされましたか?」
ヒ「僕とマサオは掛田尋常国民学校を卒業しましたが、そ
の後、僕は保原中学に、マサオは掛田高等国民学校に進
学、そこを卒業してから青年学校へ進学しました」
注 当初、青年学校は、高等小学校、中学校、実業学校
などの中等教育に進学をせず、勤労に従事する青少
年の教育機関として設けられた。しかし戦時色を強
める中で軍需品生産力の増強に向け、制度上は教育
機関であったが、その実は戦時下の動員体制に組み
込まれたまま敗戦を迎えた。
大「学校の様子はどうでした?」
ヒ「当時は保原中学だけではなく、県内の中学にも軍事教練
が課されていました。保原中学でも週に三、四回は、重点
的に軍事教練が行われるようになっていました」
大「軍事教練ではどんなことをさせられましたか?」
ヒ「陸軍の現役将校が配属将校として学校に派遣され、生徒
たちに軍事教練を教えました。やがて三八式歩兵銃の操作
を教わるようになり、陸軍練習場で実弾射撃も行いました」
大「え〜。実弾で射撃訓練もしたのですか?」
ヒ「そうです。実弾射撃は距離200メートル先にある2
メートル
標的に向かって五発ずつ撃ち、その訓練が終わると薬莢拾
いをやらされました。人数×五ですから撃った数ははっき
りしています。しかしそのうちの幾つかが見つからないと、
夜を徹してでも探させられました。この使用済みの薬莢は
仙台の師団本部に戻され、再利用されるのだと説明されま
した。一発一発を大事に撃つよう命令されました。実戦を
想定した様々な訓練をさせられ、東西両軍に分かれて戦闘
訓練が行われました。傘型散開の隊形を取りながら、匍匐
前進をして敵陣に突入したところで訓練が終るのです。最
後は全校生徒の閲兵で、隊伍整然と行進し、視察官の前で
『かしら〜右』をして通り抜ける。これが終わってはじめ
て本日の講評となるのです」
大「うわー。大変ですね」
ヒ「それ以上大変だったのは、学校のグラウンドで実施され
た軍の査閲でした。これまでの成果発表が仙台から数名の
査閲官と監視官の前で行われたのです。これは緊張しまし
た。それから、こんなことを知っていますか? 軍隊の起
床ラッパと就寝ラッパです」
大「あっ。それ、私も憶えています」
ヒ「起床ラッパは、『起きろよ起きろよ皆起きろ 起きないと
大将さんに𠮟られる』。就寝ラッパは、『新兵さんは可哀想
だね〜 また寝て泣くのかね〜』でした」
大「そうでしたね。私は子どもの時だったので、ラッパのメ
ロディの真似をして遊んでいました。それでも大きくなっ
てから、軍隊生活は大変だったと、本などで知りました。
ところでトウカイリンさんは、いつ頃ハワイに帰りました
か?」
ヒ「1941年(開戦の年)十五歳の春、弟と一緒でした。
ハワイで父が死亡したので僕たちは厄介者扱いをされたの
です。しかしハワイに帰っても英語が出来ないことで、嫌
な目に会いました。それは弟も同じことでした。話をしな
いで出来る仕事として、弟はハワイ報知新聞の文選工の仕
事に就きました。弟の給料は月30ドル、内15ドルを下
宿代に払い、10ドルを育てて頂いたお礼ということで掛
田への仕送りとし、5ドルで生活しました。税金は1ドル
の人頭税がありました」
大「あなたはどうなさいましたか?」
ヒ「僕は日本で軍事教練の経験もあったので軍隊に入りまし
た」
大「よく入れましたね」
ヒ「太平洋戦争前のハワイには、オアフ島出身の日系二世に
より編成されたナショナルガード第298歩兵部隊とそれ
以外の島の出身者の299歩兵部隊がありました。僕はホ
ノルル出身でしたから第298部隊に入隊しました。ここ
で使った小銃は日本の小銃より軽く、口径が大きかった。
そして戦闘訓練で日本と決定的に違ったのは、敵のいる方
角に頭の上から(自分の身を隠す意味で)闇雲にでもいい
からと言われて撃たされたことでした。上官は、『いいか!
命が大事だ! 弾は幾らでもある。遠慮せずに撃ちまくれ!』
と命令されたのです。この考え方の違いには驚かされました」
大「なるほど。私もそれらのことは聞いていたので、よく分
かります」
ヒ「それに日本の中学では、誰か一人が失敗しても、『連帯責
任』と言われて全員が殴られた。あれは辛かった。それに比
べると、アメリカの方はピクニック並みだった」
大「そうですか。アメリカとでは、考え方がまったく違って
いたのですね。それはまた、国力の差であったのかも知れ
ません。それで真珠湾が襲撃された時、あなたはどこで、
何をしていましたか?」
ヒ「その日は日曜で休みだったので、朝から酒に酔って家で
寝ていました。エレメンタリースクールの妹に『おい、兄
さん起きろ! お前兵隊だろ。早く兵舎に戻れ』と起こさ
れ、外に出たら港が燃えていました」
大「その煙を見たのですか?」
ヒ「そう、軍艦も港でひっくり返っていました。間もなく日
系人のナショナルガードが解散されて軍人の職を失いまし
た。その後大変な苦労をして、ハワイの日系二世だけの第
100大隊が作られ、ウェスコンシン州のキャンプ・マッ
コイで訓練を受けてイタリアで戦いましたが、僕はここで
負傷しました。第100大隊には英語もよく分からない
『帰米二世』が多かった。バカバカしかったな戦争。大分
死んだっけね。・・・かわいそうに」
後日談1 ヒデオがフミコの父にルイジアナで会っ
たのは、米本土で訓練中の頃である。
後日談2 ヨーロッパ戦線に日系二世の大隊が投入
されたことを知ったドイツ軍は、在独日
本大使館員に100大隊での連絡通話を
ドイツ語に訳すことを命じた。しかし、
第100大隊での会話は、日本各地の方
言、それにスラングとハワイ語がゴッチ
ャになっていたから、通訳は四苦八苦し
たという。
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