『福島の歴史物語」

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2016.12.16
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     おじいさんの古算盤(ふるそろばん)

 実家の土蔵を整理した際、上珠(5の玉)が2個(10を表す)で下珠(1の玉)が5個ある算盤を見つけた。これはどのような使い方をしたのであろうか。

 調べてみると、もともと算盤は中国から伝わったもので、一つの位に0~15までの数が置ける16進法のものであることが分かった。つまり当時の中国は、十六両で一斤という単位の仕組みによるものであった。しかし日本では、特に十六進法は使用していなかったので(日本は一両=四朱、一朱=四分、という4進法)、早々に上珠は1個に改造されたが、下珠は長い間5個のままであった。

 その算盤が日本に伝わってきたのは、おそらく室町時代の後半、16世紀の終わり頃、中国との貿易が盛んになるにつれ、貿易商の手で長崎、堺(大阪)などの港町に持ち込まれたようである。現存する算盤で最古のものは、加賀(石川県)の前田家に伝わるものといわれている。この算盤は、豊臣秀吉が朝鮮に兵を進めた1592年の文禄の役の折、肥前名護屋(佐賀県松浦郡鎮西町)に本陣を設けた加賀藩主・前田利家が陣中で使用したとされている。

 確かに日本では、十六進法での計算は必要ではなかったが、乗算や除算の計算では、一時的に一桁に10以上の数字が溜まる場合もあったので、江戸時代まではこの上珠2個の算盤が多く使われていた。それであるから、わが家に残されていた上珠が2個で下珠が5個ある算盤も、おじいさんたちの仕事で、便利に使われていたのかも知れない。

 江戸時代初期の1627年、数学者・吉田光由(よしだみつよし)(慶長三年・1598〜寛文十二年・1673)が、数学の原理をやさしく説明した『塵劫記』著わし、大衆の間に数学が浸透していった。算盤は『塵劫記』とともに次第に普及し、子供たちも寺子屋で読み書きと一緒に算盤を習うようになったという。

 江戸時代中期には、乳井貢(にゅういみつぐ)(正徳二年・1712〜寛政四年・1792)などから下珠が4個の算盤の利用の提案があったが定着はしなかった。しかし時代が下り、榊原孫太郎(明治二十六年・1893〜昭和四十九年・1974)などの教育研究者の啓蒙運動により、上珠が1個、下珠が4個の算盤が次第に認知されるようになった。それが実際に使われるようになったのは、昭和十年(1935)の小学校教科書の改訂で、文部省から下珠は4個、三けた区切りの定位点がついた算盤がよいとの指示が出されて以来のことである。これは、下珠が5個のうち実際には使われない不要な一珠が取り除かれたことを意味する。

 算盤の使い方は、下珠を1個ずつ上げることで1から4までを表し、上珠1個を下げ、下珠4個を下げることで5を表す。上珠を下げたまま下珠を1個ずつ上げると6から9を表し、10は1桁上の下珠1個を下げ、9を元に戻すことでそれを表す。以下、これの繰り返しとなる。ところで定位点について、言えば、3桁区切りでは、1万は10,000とゼロ3個で切り、1億は100,000,000とゼロ3個を2度続け、さらにゼロ2個を加えて表すことになる。しかし4桁区切りとすれば、1万は1、0000とゼロ4個で切り、1億は1,0000,0000ゼロ4個を2度続けることになり、常に1となる位置に定位点が付くことになり、非常に分かりやすくなる。しかしこの3桁区切りが国際標準である以上、日本としては、やむを得ないことなのかも知れない。

 ところが中国では、そして横浜の中華街などでは、今でも上珠が2個で下珠が5個ある算盤が使われている。いまだにそれが用いられているのは、十六進法の尺貫法が、民間に根強く残っているからであるという。




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最終更新日  2016.12.16 10:15:37
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