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鋳物の町・日和田
郡山地方は、古墳時代から奈良・平安時代にかけて各所に金工所が作られていました。大槻町中柵遺跡では鋳造跡が発見され,鋳造された紡錘車も見つかっています.またうねめ団地造成工事中に見つかった鋳造跡からは、鉄滓が出土しているのです。ここでは古墳時代の剣や鉄鍬が出土しています。また大槻町のほかにも、三穂田町・富田町・開成町・赤木町・咲田町・小原田町などでも見つかっています。
鋳物とは、加熱して溶かした金属を型に流し込み、冷えて固まった後、型から取り出して作った金属製品です。古代では自然界に純粋な形で産出する金及び精錬が容易な銀、銅が主に用いられました。鉄の精錬はかなり難しいものでしたが、武器としての性質も優れていたので、永らく金より高価であったといわれます。
天保十二年(1841)に編纂された二本松藩の地誌『相生集』によりますと、聖武天皇(724〜749)の時代、奈良東大寺の梵鐘が、なんとこの日和田で作られたと記述されているのです。それから約600年後の南北朝時代(1336〜1302)になると日和田の鋳物師は、ほとんど寺社用のものを作るようになりました。これは、信仰に根ざしたものと考えられています。このように、もともと鋳造が盛んな土地でしたが、南北朝時代に下野国宇都宮の秦(はた)氏などが出職(でしょく)(よそに出かけて仕事をする)としてこの地に進出してから、本格的に鋳造業が発達したようです。この秦氏とは、百済から渡来した技術者集団とされています。この南北朝の争乱に続く室町幕府の崩壊とそれに伴う兵火が、当時の作品を焼きつくしたため、現在に残されているものは、ほとんどありません。それでも、最古とされるものが、現在、西田町鬼生田にある広渡寺の銅鐘(県指定重要文化財)で、銘に、『大工秦景重(はたかげしげ) 永徳二年(1382)十一月八日』とあります。このことから、秦景重は、宇都宮から来た秦氏の一族とも考えられています。
この時代、日和田での鋳造品は銅鐘のみならず、半鐘や生活雑器なども作っていました。それらの一部は重要文化財として指定されています。また、田村市船引町の大鏑矢神社に国重要美術品の鉄鉢があるのですが、これの銘に、『文明十九年(1487)六月一日 於日谷田(日和田)根岸(八丁目)大工秀次』とあります。鋳物師を、大工と言ったのでしょうか。これらの作品には、日和田在住の鋳物師が携わっていたと考えられます。ここでは数多くの梵鐘などが作られたのですが、残念ながら、それらの大半が第二次世界大戦中に供出されて兵器などに転用されたため、残されているのは僅かです。それでも作られた梵鐘や銅器などのデータ(日和田の鋳物)によると、梵鐘だけでも42個に及んでいます。
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では何故日和田に鋳物師が集まったのでしょうか。それには秦氏一族が日和田に来たためと思われるのですが、それでは何故、秦氏一族が日和田に来たのかという疑問となります。一番考えられることは、この地が鋳物の生産に適した条件が揃っていたことではないでしょうか? ではその条件とは、なんだったのでしょうか。実は日和田には、鋳物に必要な適度の粒度および耐火度のある砂と粘土が豊富にあったというのです。
次に、原料となる砂鉄が潤沢であったというのです。ではそれらの砂鉄を、どこから採取したのでしょうか。砂鉄が多い所と言えば川、ということになると思いますがその川はどこの川であったのでしょうか。そこで、一番日和田に近い藤田川ではないかと想定してみましたが、どうも水量の点で納得しかねたし、その鉄分が流れてきるもとはどこか、ということになってしまったのです。そこで砂鉄について調べてみると、『主に岩石中に含まれる磁鉄鉱、チタン鉄鉱などが、風化の過程で母岩から分離し、運搬過程で淘汰集積したもので、川岸など平坦地に堆積したもの』とありました。なるほど、理屈は分かりました。しかしその、砂鉄の揺りかごが分かりません。そして考えていて、安達太良山に鉄山という山があるのに気付きました。「あっ、この鉄山!」と思った時、この鉄山の近くに『くろがね小屋』という山小屋あるのに気が付きました。『くろがね』とは、鉄の古語です。鉄山と『くろがね小屋』とを合わせて考えた時、砂鉄の揺りかごはここではないか、と思ったのです。それに加えて極め付けの推測は、安達太良山そのものにありました。製鉄に関係する『たたら』という用語は、「多々良」などと表記されており、「古事記」や「日本書紀」にその使用例があるのです。つまり、ア・タタラではないかという推測です。
もう少し調べてみました。すると、『昔の日本の鉄は、山砂鉄から作っていた。山砂鉄とは、火成岩中に1~2%含まれている鉄鉱物が,岩石の風化によって分離し,現地で多少濃集するか,もしくは河川などによって運ばれ集積したもの。火成岩とは、火山から噴出したマグマが冷えて固まった岩石で、鉄やマグネシウムに富んでいる』とあったのです。すると鉄山やくろがね小屋に固執せず、火山である安達太良山そのものが火成岩でできていると考えても良いのではないか、と思ったのです。すると藤田川の蓋然性が高くなると思ったのです。それともう一つ。Wikiによると、熱海町の高玉金山から、金・銀・銅・鉄・アンチモンが室町時代より発掘されており、昭和五十一年の日本鉱業(株)の閉山まで続いていました。つまりこの鉱山からも、鉄鉱が採掘されたのではないかと思われます。
ところでこのWikiの『日本の鉱山の一覧』によると、日和田町高倉に赤沼という鉱山があり、鉄、マグネシウム、クロムが主成分の鉱物を産出していたと記されていました。赤は、酸化した鉄の色でもあるのです。現在は閉山となっているのでその詳細は不明ですが、このような鉱山があったとすれば、ここからも砂鉄が流れ出ていたとは考えられないでしょうか。
次の問題は、燃料としての木炭が、どう供給されていたかです。これについても、竹之内・高玉・石筵あたりや、田村地方から舟で木炭が日和田の多くの鋳物師の現場に場に運び込まれて、町中に市が立ったかのように賑やかであったといわれます。
日和田で行われていた、たたら製鉄は、鉄原料として砂鉄を用い、木炭の燃焼熱によって砂鉄を還元し、鉄を得る方法です。また日和田に伝わる俗謡の中に、『歌にうたう 日和田はここぞ 女郎衆を 鍋吹く顔も 色の黒さよ』。そして、『風の福原 鍋吹く日和田 日和田おなごは 何故色黒い 鍋を吹くため 色黒い』。という歌が残されており、また郡山の俗謡に『風の福原 早過ぎて 川坂瓦の 牛ヶ池 鍋吹く日和田の 蛇骨地蔵』とあったそうですが、これらの唄の文句の文字数が微妙に違うのです。しかしメロディーは、似たようなものであったのかも知れません。これらは、女たちが炉に風を送る踏鞴(たたら・大型のふいご)を踏む姿を歌ったもので、労働歌としても歌われたのかも知れません。さてこのように、鋳物の生産の条件は揃ったことになり、日和田は、鋳物の町として大きく成長することになったのです。
江戸時代の末期、日和田では、鍋・釜など実用的なものも生産していました.特に享保年間の二本松藩では、財政再建のため鋳物師の地位をあげることで,鋳物の生産に力を入れています。幕末の二本松藩は軍事力を高めるため積極的に鋳物技術者を育成しようとして、技術的に進んだ江戸に鋳物師を派遣し,技術向上を図っています。そして幕末の安政五年(1858)六月、二本松藩は、幕府より上総国富津(千葉県富津市)海岸砲台の警備を命じられると、日和田の鋳物師は藩命により、大砲・小砲・砲弾などの兵器製造に関わっていましたが、その後も、二本松藩より大砲五門、三春藩より大砲二門と五貫目弾を受注、納入したようです。
明治の日和田の鋳物師たちは、各地の生活雑器の販売先の店を割り振り、過当競争を防いでいました。明治三年の時点では、次のような販売店に卸していることから、当時の取引の範囲や各町村の規模などを想像することができます。
(資料は山野井村郷土誌より)
福島 7 三春 5 本宮 4 郡山 4 二本松 3 居村 3 八軒 3 川俣 2 針道 2 須賀川 2 小浜 2 正法寺 1 湯の村 1 谷田川 1 長橋 1 百目木 1 瀬の上 1 長沼 1 牛ヶ池 1 片平 1 川田 1 切払 1 大谷 1
明治三十五年(1902)、日和田の鋳物師たちの共同経営で、株式会社日和田鉄工場が設立されました、日露戦争の時は、陸軍砲兵工廠から12インチ砲の信管製造を依頼されるほどでしたが、明治四十三年(1910)には業界の大手に押され、解散してしまいました。
そこで山野井村郷土誌から見つけ出し、昭和六十三年(1988)まで日和田で藤崎鋳工場を経営していた藤崎一夫さんを訪ねてみました。藤崎一夫さんは、祖父の藤崎辰五郎さん、父の辰雄さんと続いていた最後の鋳物師でしたが、鋳物の道具などの一切は古物商に売却してしまい、「今は何も残っていない」と言われました。しかしそこで、改めて聞いたのは、「阿武隈川や藤田川より砂鉄を採取していた」とのことでした。やはり私の推測は、正しかったようです。ただし時代が下がるにつれ、「阿武隈川を利用して、岩手県の南部鉄を原料として運び込んでいた」とも言っていました。
ただ私には、もう一つの疑問が残っていました。それは、今知られているだけでも42ヶほど残っている銅鐘です。銅鐘ともなると、原料が銅でなければなりません。半鐘ならともかく、砂鉄ではダメなのです。半鐘は鉄製のため音が甲高く、梵鐘は銅製のため音が低く響くのです。そこで、原料の銅がどこから持ち込まれたかについて藤崎一夫さんに聞いたところ、「鉱石が近くの八幡神社から運ばれ、自分は行ったことはないが、坑道が残っていると聞いたことがある」と言うのです、私は、丘の上の八幡神社へ行ってみました。探してみましたが、どうもそれらしきものが見当たりません。しかし丘の北側の裾に、人為的に崩したような岩場があったのです。残念ながら鉱石に縁のなかった私には、その岩石に銅が含まれているかは分かりません。止むを得ず、ひょっとして、八幡神社の岩場が銅鉱であったのではないかとの期待を込めて写真だけは撮ってきました。
現在では工場なども取り壊され、粘土のあった土地なども整理や改良がなされ,当時の面影などを見ることはできなくなりました。
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