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5 戦いの恩賞
『曽我兄弟の仇討ち』の事件のあった後のことになります。義経を引き取った平泉の藤原秀衡は、関東以西を制覇した源頼朝の勢力が奥州の自身に及ぶことを懸念し、義経を指導者に立てて頼朝に対抗しようとしたのですが、文治三年(1187年)に病で亡くなってしまいました。この遺言によって後を継いだ藤原泰衡は平泉をとりしきり、後白河院から陸奥・出羽押領使に任ぜられていたこともあって、頼朝の恫喝を1年半にも渡って無視を続けていました。しかし遂には、頼朝の再三に及ぶ圧力に屈して、「義経の指図を仰げ」と言い残した父の藤原秀衡の遺言を破り、500騎の兵をもって10騎あまりの義経主従を衣川館、いまの岩手県平泉町高館にあったとされる館に襲ったのです。源氏としての誇りと武士としての力を蓄え、そして最後に頼った場所の平泉は、義経にとってまさに第二の故郷のような場所でした。義経の家来たちは必死に防戦したのですが多勢に無勢、ことごとく討ち果たされました。この衣川館で藤原泰衡の兵に囲まれたとき、義経は一切戦うことをせず持仏堂に籠り、まず正妻の郷御前と4歳の女の子を殺害した後、自害して果てました。享年31歳でした。このとき持仏堂に籠った義経たちを死しても護ったという、『弁慶の立ち往生』の話が有名です。
源平の合戦で勝利し、義経を平泉に下した源頼朝によって、奥州地方は鎌倉武士たちへ戦いの恩賞として分け与えられました。浜通りの大半は桓武天皇の血を引く関東の名族である千葉氏へ、その千葉氏の四男は好間庄、今のいわき市の一部へ、伊達郡は常陸国伊佐郡や下野国中村荘において伊佐や中村と名乗っていた伊達氏へ、岩瀬郡は幕府の官僚であった二階堂氏へ、白河郡は下総国の結城を領した結城氏へ、会津諸郡は相良三浦氏の流れの佐原氏へ、南会津郡は下野国芳賀郡長沼を領していた長沼氏へ、そして石川庄、今の石川郡と古殿町鮫川村を合わせた地域を八幡太郎義家の六男の源義時を祖とする石川氏に配分されました。しかし磐城を岩木氏が、そして田村郡を田村氏が、古来からの奥州の住人として安堵されています。このときに安積郡を安堵され、安積伊東氏の元祖となった人が、『曽我兄弟の仇討ち』に遭って死亡した工藤祐経の二男の伊東祐長でした。ただし工藤祐経が安積郡をもらったのは、この時ではなく、建暦三年(1213年)の泉親衡の乱の恩賞として賜ったという説があります。それはともかく、安積郡の地を相続した祐長は、安積氏を名乗り、安積伊東氏の祖となったという説もあります。
泉親衡の乱とは、建暦三年二月十五日に発覚した内乱です。これは泉親衡が、源頼家の遺の児の千寿丸を鎌倉殿に擁立し、執権北条義時を打倒しようとした陰謀と、それに続いた『和田合戦』の前哨戦とされています。和田合戦は、この年の五月に鎌倉幕府内で起こった有力御家人和田義盛の反乱で和田義盛の乱とも呼ばれています。この泉親衡の謀反が露見した折、和田義盛の息子の義直、義重と甥の胤長が捕縛されました。その後、息子2人は配慮されて赦免になりましたが、義盛については、三浦氏を含む一族を挙げて甥の胤長の赦免を懇請したのですが、胤長は首謀者格と同等とされため許されず、二階堂氏の岩瀬郡に流罪となりました。吾妻鏡の記述には、『和田合戦で謀反を起こした和田四郎左衛門尉義直、伊東の六郎祐長これを預かる』とあります。これは伊東祐長が、一時、義直を鎌倉で身柄を預かったということでしょう。そして三月十七日の項には、『和田の平太胤長陸奥の国岩瀬郡に配流せらる』と記されています。このように、祐長が岩瀬郡に流された和田胤長を預かったという記述から、安積郡と岩瀬郡との間には、何らかの近い関係が想像されます。伊東祐長が郡山へ入った時期は明確ではありませんが、郡山最初の領主となったのは間違いありません。
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