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吾妻鏡を追って
かつては、『鎌倉幕府は1192年にが開かれた』とされていたのですが、これは、源頼朝が征夷大将軍に任命されたのが1192年だったからです。しかし、諸国の統治を行う『守護』や、荘園や公領で税の取り立てをする『地頭」が1185年から置かれていたため、現在では、源頼朝による鎌倉幕府は、1185年に開かれていたと解釈されています。
吾妻鏡は、鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝から第6代将軍の宗尊 ( むねたか ) 親王まで6代の将軍記という構成で、治承四年(1189年)から文永三年(1266年)までの77年間の幕府の事績を、年度を追って記述されたものです。成立時期は鎌倉時代末期の1300年頃とされ、編纂者は幕府中枢の複数の者と見られています。この『吾妻鏡』によれば、建久元年(1190年)頼朝が権大納言兼右近衛大将に任じられて公卿に列し、建久三年には征夷大将軍の宣下がなされ、鎌倉幕府は、名実ともに武家政権として成立することとなったのです。吾妻鏡の中には、将軍と主従関係で結ばれた武士、つまり御家人たちの勤務状況なども記されています。ただし幕府に都合の悪いところは、意識的に記されていないので、読むにはそれなりの注意が必要、とされています。
この吾妻鏡の書き出しは、治承四年(1180年) 一月二十日で、『この日皇太子(のちの安徳天皇)魚味 ( ぎょみ ) ・着袴等の事有り。三歳の着袴吉例たるの上、来月譲位の事有るべきに依って、急ぎ行わるる所なり』とあります。それでは、工藤祐経の子の伊東祐長について、何か記載されていないか。そこで丹念に吾妻鏡を紐どいてみました。しかしそこには、工藤祐長は、何時の時点で伊東祐長に姓を変えたのか? そして祐長は、いつ郡山へ来たのか? についての記述がないようなのです。ただし備前老人物語に、『工藤右衛門祐経、奥州安積をはじめ、田村の内、鬼生田村などを領す。伊東大和守祐時、嫡流たるにより伊豆に住す。これ日向伊東の先祖なり、次男祐長、安積伊東の祖なり』とあるそうなのです。なお鬼生田村とは、いまの西田町鬼生田です。『吾妻鏡』において、祐長の父の工藤祐経初見の記事は、元暦元年(1184年)四月、一ノ谷の戦いで捕虜となり、鎌倉へ護送された平重衡を慰める宴席に呼ばれ、鼓を打って今様を歌ったという記録があります。そこで吾妻鏡から、伊東祐長が関係すると思われるところを抽出してみました。ただし漏れがあるかもしれません。ご了承願います。なお、和暦では分かりにくいと思いますので、以後、西暦で表してみます。
1184年4月20 鶴岡八幡宮の宴席において静御前が舞を舞った際に、『(祐長の父の)工藤一臈 ( くどう いちろう ) 祐経 ( すけつね ) 、鼓を打ち今様を歌う』とあります。ここで言う一臈とは、武者所の上級職の名で、今様とは、当時の流行歌のようなものです。そこで吾妻鏡から、伊東祐長が関係すると思われるところを抽出してみました。ただし漏れがあるかもしれません。ご了承願います。
1190年11月7日 頼朝が上洛。先陣60名、後陣46名。同じ月の九日、工藤祐経は、右近衛大将拝賀の布衣 ( ほうい ) 侍7名の内の1名に選ばれて供奉をしています。なお布衣とは、元々、都人のお洒落着であったと言われ、主君の外出の際など、矢を背負い、弓を持って供奉した役職です。
1192年7月27日 源頼朝は、征夷大将軍就任の辞令をもたらした勅使を幕府に招き、寝殿の南面に於いて御対面なされて、『献盃有り。』との記述があります。そして、この勅使が退出する際に、工藤祐経は、頼朝からの引き出物の葦毛の馬を渡すという名誉な役を担っています。勅使は庭に降りて、馬を受け取っています。祐経が、頼朝に重用されていた様子が分かります。
1193年5月28日 曽我兄弟の仇討ちがありました。ここのところは、少し詳細に見てみたいと思います。
小雨降る、日中以後晴れ 。子の刻に、故伊東の次郎祐親法師が孫の曽我の十郎祐成・同五郎時致、富士野の神野の御旅館に推参致し、工藤左衛門の尉祐経を殺戮す。ことに祐経、王籐内らが交会せしむる所の遊女、手越の少将・黄瀬河の亀鶴ら阿鼻叫喚す。この上祐成兄弟、父の敵を討つの由の高声を発す。これに依って諸人騒動す。子細を知らずと雖も、宿侍の輩皆悉く走り出ず。雷雨に馬具を撃ち、暗夜に灯を失い、殆ど東西に迷うの間、祐成等が為に、多くを以て疵を被る。平右馬の允・愛甲の三郎・吉香の小次郎・加藤太・海野の小太郎・岡部の彌三郎・原の三郎・堀の籐太・臼杵の八郎、宇田の五郎以下を 殺戮せらるるなり。十郎祐成は新田の四郎忠常に合い討たれをはんぬ。五郎は御前を 差して奔参す。将軍御劔を取り、これに向わしめ給わんと欲す。而るに左近将監能直 これを抑留し奉る。この間に童五郎丸、曽我の五郎を搦め獲る。仍って大見の小平次に召し預けらる。その後静謐す。義盛・景時仰せを奉り、祐経の死骸を見知す。 また備前の国の住人吉備津宮の王籐内と云うもの有り。平家の家人、瀬尾の太郎兼保に與するに依って、囚人として召し置かるるの処、祐経に所属しているのが誤り無きと訴え申すで、去る二十日本領を返し給わり帰国す。而るになお祐経が志に報いんが為、途中より還り来たり、盃酒を祐経に勧め、合宿して談話するの処に同じく誅せらるるなり。吾妻鏡は、『保暦間記』を転載している。『彼の狩り野の居出の屋形にて祐経打れぬ。祐成、時宗ら、伊東入道が孫なり。朝敵の者の子孫とて世に便宜あらば、将軍をも思い懸け奉らんとにや。また遁るまじと思いけるにや。将軍の仮屋にて二名の者戦をす。
1213年2月16日 和田義直が、泉親衡の乱の企てに加担して捕縛されると、義直の身柄は伊東祐長の岩瀬郡に預けられた。しかし義直は、父の義盛の嘆願により、弟の義重と共に赦免された。しかし義盛の甥の胤長も赦されたのですが、同じ岩瀬郡へ配流となっています。岩瀬郡も、伊東祐長の領地であったのであろうか。
1219年7月19日 左大臣九条道家の二歳の嫡子が、関東に下向した。そのときの行列は、 各々輿に乗った女房10名。先陣の随兵10名。 歩行にて若君の御輿の護衛10名。医師1名。陰陽師1名。護持の僧1名。そして後陣の随兵17名とある。このうちの1人に伊東左衛門の尉とあるが、これは祐長なのであろうか。
1227年6月15日 『伊藤左衛門尉、尾藤左近将監らと京都より帰参す』とのみ記載されています。
同じ年の6月19日 丈六堂供養たるべきに依って、御家人ら群を成す。ここに伊東左衛門の尉祐時の郎従、悪の高橋を捕縛する。
1236年8月4日 将軍家、若宮大路新造の御所に御移住なり。安積六郎左衛門尉、矢を負い弓を持って供奉す。
1237年4月22日 将軍家、左京権大夫の屋敷に入御す。安積六郎左衛門尉は、供奉人50名の中の1人であった。
1238年1月1日 新年饗応の御沙汰あり。御劔、御調度などを 大和の守祐時らこれを持参す。
同じ年の2月17日 将軍、六波羅の御所に着き給う。先陣192名。後陣50名。この後陣に安積左衛門尉の名がある。
同じ年の2月22日 将軍家、今年始めて御直衣にて出られる。御車には帯劔にて御車の左右に10名が列歩す。次いで安積六郎左衛門の尉祐長らの8名が従う。
同じ年の2月28日 将軍家、御馬を公家に奉らる。一の御馬、大和の前司祐時と安積六郎左衛門尉祐長とあり、二の御馬に大和守景朝と河津八郎左衛門の尉尚景の四名、布衣・帯劔でこれに乗る。
同じ年の8月25日 将軍家御参堂、供養をされる。前駆4名。御後、安積六郎左衛門尉ら38名。最末騎兵12騎。
1243年7月17日 臨時御出の供奉人。上旬44名。中旬、安積六郎左衛門尉ら49名。下旬49名。
1244年8月15日 鶴岡八幡宮の供養祈願祭なり。大殿並びに将軍家御参り。先陣10名。御車11名。御後、安積六郎左衛門尉祐長ら62名。後陣12名。
1247年5月14日 故武州経時の墳墓の傍らに送り奉るなり。人々素服。安積新左衛門尉ら30名が供奉。
同じ年の6月6日 薩摩の前司祐長ら、上総権の介秀胤を討ち取るべきの旨を仰せ付けられる。祐長らこれを追捕せんが為行き向かうと雖も、その実無きに依って各々帰参す。
1248年1月3日 将軍家御行はじめの儀有り。供奉人5位・21名。6位・大和前司ほか22名。
同じ年の12月10日 将軍家、方角の吉凶を占う御方違えの儀有り。先の御駕篭に5名。御後の騎馬での供奉人、薩摩の前司祐長ら12名。歩行の供奉人12名。
1250年1月16日 将軍家鶴岡八幡宮に御参り。薩摩の前司祐長ら52名が供奉。
同じ年の3月1日 諸国の官人を京都に招く。この中に伊東大和の前司と、安積薩摩前司の名がある。
1251年1月1日 新年の祝宴。薩摩の前司祐長は、将軍家の御方の28名中にあった。若君御前の御方としては、21名が出席している。
1252年6月17日 『大和守従五位上藤原朝臣祐時卒す』とのみある。以後吾妻鏡に伊東祐時と思われる名は出てこない。この祐時の名から、伊東祐長の兄と推測される。
1253年1月3日 新年の祝宴。これには薩摩の前司祐長のほか、53名が出席している。
同じ年の1月16日 来る二十一日、鶴岡八幡宮に御参有るべきに依って、薩摩前司祐長、供奉人を仰せつけられる。
1254年1月1日 『朝、雪俄かに散る。巳の刻より晴れる。将軍家御行始めの儀有り』新年の祝宴である。この時、二の御に、薩摩七郎左衛門の尉祐能と同九郎祐朝の名がある。この祐能と祐朝は、伊東佑長の関係者なのであろうか。なおこの時の供奉人には、薩摩の前司祐長の他に、43名の名がある。この時を最後に、祐長の名は吾妻鏡の記述から消えています。祐長の死はこの頃と推測できます。
1266年11月2日、この吾妻鏡は、『北條九代記』の中より、『御所・姫宮等御上洛。良基僧正逐電し、高野山に於いて断食死去す』を引用する形で終わっています。この翌・文永14年には、高麗使が蒙古王フビライの書を奉じて来朝しています。のちに起こる元寇襲来を、記したくなかったのでしょうか。ところでこの吾妻鏡の中に、源頼朝が、伊東祐経に安積の地を与えたという記述はなく、しかも、『鞭指莊』の文字はありませんでした。これはどういうことなのでしょうか。
ともあれ、吾妻鏡から読めることは、伊東祐長が鎌倉に出仕していたらしい1213年から1254の41年の間に、24回あったということです。ただし素人の私が、読み漏らした部分があるかも知れません。それでも平均すると、2年に1度の割合になり、意外に多くの日数、鎌倉に行っていたことが分かります。このように吾妻鏡に記載のない時期は、郡山にいたのかも知れません。ともあれ頻繁に祐長の名が吾妻鏡に出てくることから、祐長は、幕府の主要な仕事に関わっていたとも考えられます。このことから、吾妻鏡に記載されていた年は、鎌倉に出仕していたことになりますから、その間は、郡山に代官を置いたと思われます。代官には、伊東祐長が安積に赴任する際、伊豆から随伴してきたと思われる相良城主の関係者や、狩野城主の関係者などが当たっていたのではないかと思われます。今も大槻町に相良さんが多く住み、また熱海町に狩野さんがおられるということは、このことと関係するのではないでしょうか。そして今、日和田町朝日坦地内の東北電力日和田変電所近くに、安積左衛門夫妻の墓と伝えられるものが残されています。これが安積左衛門尉、つまりは祐長夫妻のものであるという説を信じれば、晩年には祐長は郡山に住み、日和田で亡くなったことになります。しかし日和田郷土史会の石田善男氏は、この墓を、祐長夫妻のものであるかどうかを、疑問視しておられます。
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