『福島の歴史物語」

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2024.01.10
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 見まつりて 未だ時だに 更 ( かわ ) らねば 年月の如 思ほゆる君      (万葉集4〜579)


 (お逢い申し上げてまだ幾らも時は経っておりませんのに、もう長い年月を経たように懐かしく思われる君よ)



733年、葛城王49歳のとき、母の三千代が亡くなった。


734年、葛城王50歳のとき、近畿地方を中心に、古代史上最大と言われる大地震により多くの被害が発生した。



 ところで、735年から翌年にかけて、遣唐使の吉備真備や僧侶の玄昉が唐より帰国した。この頃、九州の太宰府で疱瘡(天然痘)が発生し、全国に蔓延した。当時の日本の人口の3分の1、100万人から150万人が死亡したとされる。このころには大凶作もあって税収が減少、国家経営が危機に陥った。(2022/7/9・関口宏の新しい古代史より)



736年、葛城王52歳のとき、弟の佐為王と共に、母の三千代の姓である橘宿禰を継ぐことを願い出て許され、以後は橘諸兄を名乗ることになる。なお次の歌は、葛城王が橘姓を継いだ時に、聖武天皇より賜わった和歌である。橘諸兄に対する皇


室の期待と信頼の篤さが窺われる。



 橘は 実さへ花さへ その葉さへ 枝に霜置けど いや常葉の木 (万葉集 6〜1009)


 (橘は 実まで花まで その葉まで 枝に霜が置いても いよいよ栄える木である)



 ところで、『安積山のうた』の左注に、葛城王とあることから、この歌はこの頃までに詠われたものであろうか。しかしこれまでに述べてきたような忙しい時期に、葛城王が安積を訪れることは、到底不可能であったと思われるがどうであろうか。



737年、橘諸兄53歳のとき、全国に蔓延した疱瘡のため、政権を握っていた藤原四兄弟が続けざまに死去した。しかも同時期、8人の公卿のうち5人が死亡した。朝廷はこの非常事態に、急遽、故・長屋王の弟の鈴鹿王を知太政官事に、橘諸兄を


大納言に任命して急場を凌いだ。



738年、橘諸兄54歳のとき、右大臣に任ぜられ、吉備真備や玄昉をブレーンとして政権運営に当たった。この年、朝廷は、諸国に巡察使をおくっている。



739年、橘諸兄55歳のとき、従二位に昇叙されて橘諸兄政権を成立させた。藤原氏の勢力は大きく後退することになる。



 このとき11歳となっていた『安積親王』に、大伴家持は歌を贈っている。



我が屋戸の 一むら萩を 思ふ児に 見せずほとほと 散らしつるかも       (万葉集 8〜1565)


 (我が家の庭に咲いた一群れの萩の花を、思いをかけている児に見せないまま、ほとんど散らしてしまいました)


 ここで大伴家持は、安積親王を、『思ふ児』と表現したようである。また橘諸兄の邸で開かれた宴席で、橘諸兄は次の歌を詠っている。



 ももしきの 大宮人は 今日もかも 暇を無みと 里に去(ゆ)かずあらむ   (万葉集 6〜1026)


 (百敷の大宮に仕える人は今日も暇がないからと里にはいかないのだろうかなあ)


 そしてその左注によると、『右の一首は、右大臣伝えて曰く、故豊島采女の歌なりとえへり。』とあり、その詠み人の名を明らかにしている。それなのに橘諸兄は、なぜ、『安積山のうた』で、その詠者を、陸奥国前采女『某』としたのであろうか。



740年、橘諸兄56歳のとき、亡くなった藤原四兄弟の長兄、藤原武智麻呂の次男の藤原仲麻呂は、正五位上とされた。藤原仲麻呂は藤原氏の栄華を再現しようとして、吉備真備や玄昉の排除を画策した『藤原博嗣の乱』に失敗した後に、都が平城京から恭仁京に遷都された。この地が選ばれたのは、橘諸兄の本拠地であったことが指摘されている。さらにこの年には、国分寺が創建された。これは四天王が来て、国を護るという信仰に基づく事業であったが、これには遷都にかかる費用の他に、多大な犠牲を人民に求めることとなった。



742年、橘諸兄58歳のとき、聖武天皇は、近江紫香楽に離宮を作り、諸国に巡察使をおくった。



743年、橘諸兄59歳のとき、聖武天皇が計画した大仏建立の財源を確保するため、6歳以上の男女に田を分け与えるという墾田永年私財法を実施した。そしてこの年の秋から冬にかけての頃、15歳になった安積親王を、橘諸兄の甥の藤原八束が自身の屋敷に招き、宴を開いた。この宴の時に大伴家持が、安積親王を詠った歌が万葉集(6〜1040)に残されている。



 久堅の 雨は降りしけ 思ふ子が 屋戸に今夜は 明かして去かむ


 (雨よ降れ降れどんどん降ればよい。そうしたら、私の大切に思っているあの子が帰れなくなって、今夜はここにお泊りになるだろうから)


 大伴家持は、ここでも『思ふ子』として、安積親王の名を伏せている。



744年、橘諸兄59歳のときの元旦、安積皇子の屋敷があった『活道岡 ( いくじがおか ) 』で、大伴家持や天智天皇の玄孫である市原王らが集まって宴を開いた。この年、恭仁京から、さらに難波京への遷都が実施された。このとき大伴家持が、歌を詠んでいる。



 たまきはる 命は知らず 松が枝 ( ) を 結ぶ心は 長くとそ思 ( おも ) ふ    (万葉集 06〜1043)


 (いつまで生きるかわからない、それでも松の枝 ( えだ ) 結ぶ、やはり長く生きたいと 内心願っているからだ)



 この家持の歌は、安積親王への正月の祝賀の歌であると同時に、『松が枝』という言葉に安積親王の即位を待つ期待が、また『松』には安積親王の無事長命を合わせ込めたものであると言われている。そしてこれらの歌は、皇統から疎外された天智天皇の玄孫である市原王と、政権から疎外された大伴家持との、安積親王に対する祝福の歌であったと言われている。彼らにとっての最大の願望は、安積親王の即位にあったのである。そしてこの歌会のあった一ヶ月後の閏一月、聖武天皇は難波宮への行幸に際して、恭仁宮の留守居役として、皇族である鈴鹿王と藤原仲麻呂を任命した。この聖武天皇の難波宮への行幸に同行した安積親王は、途中の桜井頓宮から脚の痛みにより引き返し、その日のうちに恭仁宮へ戻って来た。そしてこの年の三月七日、安積親王が亡くなった。恭仁宮へ戻ったわずか二日後、たった16歳であった。この脚の痛みによるこの安積親王の早過ぎる死は、藤原の血を受けぬ安積親王が皇位を継ぐことを嫌った藤原仲麻呂により、暗殺されたと考えられている。恭仁宮で留守を命じられた藤原仲麻呂にとって、それは正に絶好の機会であったのではあるまいか。藤原仲麻呂か、もしくはその妻の藤原宇比良古によって暗殺されたのではないかという説になっている。この安積親王の薨去により、安積親王の姉の井上内親王は、27歳で斎王の任を解かれて退下したとされるが、帰京後、白壁王、のちの光仁天皇の妃となった。



745年、橘諸兄60歳のとき、聖武天皇は、都を難波京から平城京へ復した。この短期間での異常とも思える遷都は、自身の第一皇子の基王と第二皇子の安積親王を亡くした上、大地震、大凶作、そして疱瘡の大流行に怯えた聖武天皇が迷ったことによる行為と想像されている。



746年、橘諸兄61歳のとき、大伴家持は越中守に遷任され、七月、越中へ向け旅立った。この年、玄昉は藤原仲麻呂により筑紫の観世音寺別当に左遷されたのち、任地で没した。再興しつつあった藤原氏に、暗殺されたとの説もある。



748年、橘諸兄63歳のとき、元正上皇が薨去された。



749年、橘諸兄64歳のとき、安積親王の義姉の阿部内親王が、46代の孝謙天皇として即位した。



750年、橘諸兄65歳のとき、正一位に上った。この年、吉備真備は筑前守、次いで肥前守へ左遷され、第十次遣唐副使として再び唐へ渡航した。二度までも命がけの入唐を命じられたついては、藤原仲麻呂による陰謀説がある。



756年、橘諸兄は71歳で亡くなった。藤原氏が再び勢力を得る中で、安積親王を擁護した著名な人々は、このような不遇にさらされていったのである。



 いずれこの橘諸兄の経歴から、葛城王を称した時代となる713年から736年の間に安積に来たと考えることは、難しいと思われる。ところで万葉学者で文学博士の澤潟久孝氏はその著『万葉集注釈巻十六』の85頁に、『確証がないからこそ、安積山の歌が都の歌人によって作られた歌であると、思いたい』と記述している。『思いたい』と言って断定こそしていないが、専門家でもこう考える人がいるのである。







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最終更新日  2024.01.10 08:00:10
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