2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
全11件 (11件中 1-11件目)
1
昨日は吉祥寺の爆音映画祭に行ってきました。 爆音映画祭というのは、音楽ライブ用の音響設備を利用して映画を爆音で観ちゃおうという試みなんだそうで。 モノによっては、映画の意味がひっくり返るほどだそうだ(宣伝文句によれば)。 なるほど、たとえば小津安二郎の映画やオズの魔法使いなどを爆音で観たら、変かもしれないもんね。ひょっとしたらスタッフのささやき声とかも聞こえてしまったりさ。 映画の体験性を再確認できる試みですな。 祭りの予定では、『プライベートライアン』などもかかるとのことで、こりゃ鑑賞するだけで身体欠損できるかもしれません。オススメです。 んで、リンク先のタイムスケジュールを見てもらえばいろんな映画がかかってるのがわかると思うけど、最近は特に身体性が気にかかっているオレなので『RIZE』を観にいった。 『RIZE』はロサンジェルスのサウスセントラルというゲットー(貧民街)に暮らす黒人社会をダンスの切り口から観たドキュメンタリーだ。 凶暴なほどに美しい、黒人の踊るカラダ。 太いスピーカーから出てくる重低音がはらわたを震わせて、ヒップホップ音楽がカラダをぶん殴ってくる。 ダンスバトルの時の、スタジアムにいる観客の歓声の圧力がとんでもない再現度だった。 でも、しゃべりのトコではさほど爆音でもなくてね。 あんだけレンズにツバが飛んでんだから、もっと爆音らしい爆音であればいろいろ聞こえてきたかもしれないのに。ていうかオレ難聴? 高速度カメラで撮影されたそれはそれは美しい彼らのダンスは、あらゆる論評を拒むようなスタイルだ。「クランプ」ってんだけど、振りの型が無いのです。音楽を聴いて、カラダの中から出てくる衝動のまま動く。 ダンスのスタイルを聞かれると、彼らは「カラダに備わってる」という。 非常にプリミティブなダンスで、アフリカの部族のお祭りの映像がオーバーラップされんだけど、これが、マジ似てて。なんというか、ロサンジェルスからアフリカ西海岸まで、2004年から大航海時代前まで、これは数百年くらい旅した気がしたね。 どんだけプリミティブかって、彼らが教会でゴスペルにあわせて踊る時は、激しくないんですね。ゆっくりとしたリズムに合わせて、でも衝動のままに無定形に踊る。カラダが、そんなふうに動いちゃうんだろう。 ストリートやバックヤードに集まって踊る彼らは、激しくカラダを動かしてシラフなままトランスする。 ダンスには、ゲットー地域に蔓延するコカインやヘロインへの誘惑を断ち切るって役割もあって。 使う誘惑もあろうが、売る誘惑へもそうですね。売人やったら儲かるけど、仲間の命が安くなる。 ゲットーの若い黒人は、ギャングに入って倉庫に盗みに入ったり級友を撃ったりドラッグを売ったりするか、ダンスの営業をするか、どっちかなんです。 で、若い子がギャングに入らないための受け皿としてダンスするピエロの団体を組織した黒人がいたんだね。 ドキュメンタリーの主なストーリーはそっち側で、身寄りのない子供とかが、ダンスによって犯罪者にならずに生きていける。 ダンスするピエロっていう格好で、バースデイパーティなんかで営業している集団があるんですね。そこでは年齢の近い少年少女が、家族のように結びついている。親が死んでたり、刑務所に入ってたりって子たちなんですよ。ギャングに入るのは簡単なんだけど、それ以外でも仕事があるから、助かっている。 『エウレカセブン』を観た人ならわかる余談をすれば、ゲッコーステイトは家族のように見えるふうに慎重に描かれていたんだけど。つまり仲間は友人のように触れ合ったりはしないで家族の距離感で人と関わってたでしょう。そういう部分ばかりを選んでエピソードを重ねていたでしょう。仕事や責任はあるけど、それは家族としての仕事と責任だったよね。…あ、いや。『エウレカセブン』ってすごいなあ、って思っただけなんだけど(笑)。 そうそう。 ダンスは、蓋をされたバケツのように出口の見えないゲットーの黒人社会の中で生きていくためのタフネスを授けてくれるんだね。 これはHIPHOPカルチャー全般にいえることなんだけどね。できるだけ暴力を排して、タフにクレバーに生きていく。 キング牧師の時代から暴動しちゃ損を被ってきた連中が身に着けた、生きるための知恵なんですね。ゲットーのシマを争って死んではバカバカしい。争うならダンスで、みたいなの。 彼らがバックヤードで狂ったようにダンスしている姿は、ちょっと怖いほどだ。 これはなんでかって、あのダンスは「暴動」そのものなのだ。 街を燃やして廃墟にしちゃうようなエネルギーが、カラダに凝縮されて、ダンスの形で発現しているのだ。 そりゃあ怖いですよ、美しいですよ。 でも爆音で観ないと、暴動とまでは感じなかったかもしれない。単にすげえダンスで終わってたかもしれない。 カラダひとつでRIOTを表現しているダンスっす。 くどくど書いたけど、爆音で『RIZE』を観るって体験を伝える言葉は無い。 音と肉体の暴動に身を曝して欲しいと思います。 爆音映画祭では、ほかにもいろんな映画がかかるので、吉祥寺に行ける人はなんでもいいから爆音を体験するといいと思います。 オレが爆音でかけたらいいのにと思うのは、オーロラプロジェクトのビデオ。あの音響セットで観たらきっとすげえ面白いよ。 あとまあなんだ、そういう意味でNHKの朝ドラ『瞳』は糞。『ちりとてちん』みたいな傑作の後であんな糞をひれるNHKの恥知らずなところが不思議。栄倉好きなので、かわいそうで仕方が無い。
2008.04.11
コメント(0)
![]()
いやほんと、いまさらすみませんが、今日さっき『よつばと!』1~7巻を大人買いしてきた。 もちろん書店で買ったさ。 我が家では盆と正月の実家帰省時しか読めなかったのですが、それが癪なので一気買い。 まだ読んだことが無い人っているのかというくらいの有名マンガなんで、ほんとすみません。 僕はあまり自慢できるほどのマンガ読みではないので、非の打ち所が無いって思ってるものは少なくて、『寄生獣』『ヘルタースケルター』『茄子』『毎日かあさん』あと『よつばと!』。諸手を挙げて降参する傑作といえば、これくらいしか挙げられません。 そんな傑作を持ってないのがムカついてしかたがなかったのです。 未読の大人は大人買いしない手はない。書店で大人買いするとすごくカッコイイぞ。なんかばかみたいですごくきもちいい。 僕の場合も、家に欲しいと思い続けて長かったので、一気に買ったらなんか便秘が解消した的な、宿題を金で解決した的な、そんな気分を味わえるです。
2008.04.10
コメント(0)
せんだって、横目でニュースを見ていたら、四川省の救出プロパガンダ映像が流れた。 倒壊したアパートの瓦礫の下に数日間埋まっていた女性が、人民解放軍の手によって救出された。 担架に乗せられたままぐったりしている女性。 周りにいる人民解放軍の兵士が、野太い声を合わせて「ハッピーバースデー」を歌った。 そしたら生気の無かった女性の眼が開いた。 まるで“生き返った”ようだった。 なんだろう。言葉にできないくらい感動してしまった。プロパガンダなのに。 僕は、あの女性の笑顔を生涯忘れないだろう。 ホコリにまみれて表情も無く、もう死にそうなくらいだったんだけど、ハッピーバースデーの歌に囲まれたとたんに、ものすごくバツが悪そうに、笑ったのだ。 数日間も瓦礫の下で身動きも取れずにひとりでいて半分向こう側に行ってた人が、バカな男たちのダミ声で歌われる「ハッピーバースデー」を聴きながら掘り出されて。 そして、泥だらけの顔で、恥ずかしそうに笑っちゃった。 “また生まれてきた” 僕はそんなふうに「解釈」して、自分の解釈に不意打ちされて、感動したのだ。 彼女が感じたであろう、空気の新鮮な感じとか、兵士の歌声の響きとか、涼しい風とか、そんなものさえ実感したように思う。 いや実際は、前日あたりがその女性のリアル誕生日だったらしく、当たり前の機転として歌ったのだ。周囲の状況は、人民解放軍のヘタレさに女性の家族が苛立って、それはそれは殺伐としたものだったらしい。 でも、あの笑顔は、凄かった。 バカなダミ声のハッピーバースデーが、カラダにこたえた。ぐっときた。 僕はあの笑顔のバツの悪さを生涯忘れないだろう。 僕は、見当はずれの解釈したからすごく感動してしまったのだけれど、でも「ハッピーバースデー」の歌って、すげえ。 帰って来ざるを得ない感じがする。 カラダに響く歌、ヘソの奥から命を悦ばせる言葉だと思った。 んで、これは提案というかなんというか。 レスキューや救急医療の現場において、ハッピーバースデーの歌って効くのではないでしょうか。 心臓マッサージをしながら、人工呼吸をしながら、「帰って来い、帰って来い」と祈るように叫ぶ状況の時、ハッピーバースデーを歌いながらって効くのではないでしょうか。 僕もそうなった場合、一回くらいは帰ってきてもいいかなと思うと思う。 いや、今回のプロパガンダ映像を見た時に、とっさに「ああ、レスキュー現場にはこういうノウハウがあるんだな」って勘違いしたんで。それほど、うまく行ってるように見えたのだ。
2008.04.09
コメント(0)
![]()
せんだってからちょっと思うところあって、しばらく思いつきを書き散らしている。 コンテンツを、頭じゃなくカラダで読む(聴く、観る)ってことは、ある。 ほんとにいいもんは、深い解釈に絶えうる強度を保ちつつ、下世話な部分でも強い。 一次コンテンツは批評の肴にするためにあるわけじゃない。 感じるカラダが直接語る言葉は強い浸透力を持つ。 「どのカラダが言ったか」って説得力は「誰が言ったか」って基準を越えることができる。 となるとネットの上の匿名の意見にも、説得力はあるじゃん。 いいもんとか、すげえコンテンツは、一度触れてしまえばジャンルなんか関係なく、触れるもののカラダを圧倒する。 モノが売れないと嘆かれる世相だからこそ、じゃあ触れるまでの部分、観るきっかけをどうすっかってことで、モヤモヤ思っているのだ。 つまりレビューや紹介に身体性があるのか、あればいいのかみたいなことなんだけど。 一般に、批評やレビューの役割というか機能には受け手に文法を授ける、というと偉そうだけど、ある切り口やアングルを例示して、読み方観かたモデルを見せるってのがある。 こう読んだら面白かった、とか。 あの漫画のこのコマは、ナントカの暗喩! とか。 こう解釈したらすんげえ泣けた、とか。 みたいなの。 そういうきっかけ作りがアリなのはわかる。 外部テキストを引用したり、サブテキストと関連づけたりする批評スタイルで説得力を持たそうってのもわかるし、その有効性も重々知っている。 批評のスタイルと役割については『文学部唯野教授』という外部テキストを引用しておこう。古い? でも、こういうアタマに訴えるチャンネルってのは、受信するアタマ、響きあうアタマ、共有してる知識が求められるでしょう。 作家やアーティストを煽ったりなんだり挑戦的な表現をすすんで拾い上げたりっていう方向の批評の働きはともかく、でもいまそういう文壇プロレス的な盛り上がりでは外部は盛り上がらない時代ではないですか。 物語を必要としていない人たちがいるという。 批評やレビューの力で、その人たちに漱石を読ませられるか、『地獄変』や『刺青』や『そこに愛はあるか』や『椰子椰子』や『ピクミン』や『春琴(←サイモン・マクバーニー演出)』みたいなのに触れるきっかけを作れるか。 そういうことを考えているのです、はい。 ガルシア=マルケスのバッグを持っている娘にガブリエル・ガルシア=マルケスを読むきっかけを与えられるのか。焼酎飲んでる人に『百年の孤独』を読ませられるだろうか。 ひょっとして「みんな読んでるよ」とかでいいのかな。 アタマのチャンネルでは引きが弱かろう。 でも、カラダって、みんな持ってる。 すげえコンテンツがカラダにこたえるように、批評やレビューのような紹介文もまた、カラダに響いたらいいじゃないかと思う。 たかが。たかが小説マンガ映画ドキュメンタリー演劇ゲームに触れたことで。 押しつぶされた肺を見せてくれと思う。 へんな汗の匂いを嗅がせてくれと思う。 開いたチャクラを見せてくれと思う。 ヒザの震えを伝えてくれと思う。 ぎゅってなっちゃった心臓のかさぶたを見せてくれと思う。 涙の跡を見せてくれと思う。 にっこりしちゃった笑顔を見せてくれと思う。 好きだっていう思い入れを、さらに突き抜けちゃったエクストリームな言葉で肺腑をエグって欲しいのだな。 オレって勝手だな。 いや自戒込みなんだけど。 理想論なのはわかってる。 400%程度のシンクロ率で身体感覚を犯してくれる、自分の価値観が明らかに歪むような「強い」批評には、「がうー」(←強く息を吐きながら読んでください)と唸って、知らず知らずアマゾンの「購入する」ボタンを押させてしまっているような勢いがある。 あるんだ。 有名人のオススメ的なバズ広告を越える可能性が、匿名のレビューにだってあるだろう。 有名人の記名ならなおさらだ。
2008.04.08
コメント(0)
せんだってからちょっと思うところあって、しばらく思いつきを書き散らすことにした。 コンテンツを、頭じゃなくカラダで読む(聴く、観る)ってことは、ある。 ほんとにいいもんは、深い解釈に絶えうる強度を保ちつつ、下世話な部分でも強い。 一次コンテンツは批評の肴にするためにあるわけじゃない。 感じるカラダはどこいった。 リアリティある身体性を持った批評やレビューがあってもいい。 「質の高い」ものは少なくないのに、なぜか読まれない、買われないって世相で。 でも良質の作品は誰が見たって面白いしカラダに「来る」。そういう強度を持ってるのが良質ってことだから。 あとは、作品の魅力をどう伝えるか。 ネット上では、「匿名」で「顔が見えない」レビューが多くあるが、でもアマゾン経由で売上に貢献してる事実もある。 説得力に、顔や実名は、あまり関係が無いみたいだ。 カラダの説得力なんだと思う。 質の高いコンテンツは、そもそもポピュラリティを持っている。 ポピュラリティと質の高さは決して同じではないけれど(どうしてET-Kingの『ギフト』みたいなキモチ悪いゲロを喜んで聴く人たちがいるのか)、それでも「いいもの」は伝わる。 良質なコンテンツは、広く受け入れられる可能性を持っている。 ちゃんと伝えたら、魅力はわかってもらえる。 僕はきっとそう信じたいのだな。 批評やレビューが持っている「祈り」とは、つまりはそういうことなのだろう。 つか、そうでないといけない気がするなあ。 ある作品に惚れ込んで、その魅力を伝えたいなら、誰かと共感したいなら、解釈や解説や分類の批評・評論じゃなくて、カラダに来た感触を、伝達せにゃならんだろうと。 女性ライターのブログで、AVのレビューが書かれてて。アダルトのVね。 商業的なしがらみから解放されたブログって場での、その人の作品紹介がまさにカラダに来るレビューで。 V観てつかんだ身体感覚を直接言葉にしているみたいなその批評は、読んでいるうちになんかこう、脳みそにプラグを突っ込まれて感覚を乗っ取られたような気持ちになる。 感情移入なんてレベルじゃない。 男性である僕のカラダには本来ありもしない器官が揺さぶられるような、ポルチオがトランスするような感覚に襲われる。 よくわからんけど、下腹がもやもやしてくる。 無性に、切歯扼腕(いい日本語だ)したくなる。 感覚を共有させられる。 身体的な共感となるレビューなのだ。これはね、説得力ありすぎ。 その女性ライターはAV以外のコンテンツでも同じように、カラダを共振させるレビューを書く。 カラダに起こったことを言葉にするのは翻訳みたいなものなんだけど、感覚を言語に置き換えるという以前に、まずはコンテンツの内容を強く感受する肉体が必要だ。 良質なコンテンツの良質な部分を評して、多くの人に伝えることができるのは、感じるカラダを持ってる書き手の説得力だ。 きっとそれしかない。 メンタルとフィジックスは不可分だ。 そういう言葉を発する身体が、ただあるのだ。 僕は、その女性ライターの身体に、ちょっと嫉妬するのだ。 まるで、『セイバーキャッツ』の脚色部分を看破した武術の先生のような。 訓練でもテクニックでも埋められない部分だからだ。 それは才能と呼ばれるものだ。 あらゆる人のカラダに作用する批評やレビューがあるといいなと思ってる。 作品の分類でも、解釈のテクニックでもない。 作品の魅力を、作品に触れて得た凄みとかなんかそんなのを、こっちのカラダに直接ねじ込んでくるような、レビューや紹介文があるといい。 ネットでの匿名の意見がどうとか言われて。 なんだかんだでけっきょく説得力てのは「誰が言ったか」ってとこに落ち着きかけてて(いまどきゲーム脳・森昭雄の言葉を信じるのは、世界日報くらいのものだしさ)。 でも、説得力ってんなら「どのカラダが言ったか」って要素は大きいはずだ。 本やDVDやCDが売れないよう、という嘆きが聞かれて、でも食べたり飲んだり旅行したり遊んだりって体験が実感できることにはお金はちゃんと使われてて。 そういう流れの中でも、面白いコンテンツはちゃんと現れてて。 だったらちゃんと観られたり読まれたり聴かれたりってバランスは、いまどうなんだろうと。 作品を評価するのであれば、批評行為そのものを面白がってる場合ではなく、まっとうにオリジナルに触れる機会となる、そんな批評やレビューの「強さ」が欲しい。 これは自戒を込めて、書いておこう。
2008.04.07
コメント(0)
せんだってからちょっと思うところあって、しばらく思いつきを書き散らすことにした。 コンテンツを、頭じゃなくカラダで読む(聴く、観る)ってことは、ある。 ほんとにいいもんは、深い解釈に絶えうる強度を保ちつつ、下世話な部分でも強い。 一次コンテンツは批評の肴にするためにあるわけじゃない。 感じるカラダはどこいった。 ポツドールの舞台『顔よ!』は、頭で解釈すればすごく面白いホンなんだけど、あのなんていうか、せっかくの顔の話なのにフィジカルな強さが足りずどうにも喰い足りない感じだった。喰い足りないのは僕の先入観や期待値の問題でもあるけれど、しかしあの程度で収まってしまった舞台を絶賛しているネット界隈の批評やレビューは一体全体なにを観てなにを感じているのか、狙ってるとこまで演出が届いてないでしょアレ、演劇から役者の肉体や雄弁な表情を軽視したらもう、どうして舞台に上げてんだって話だよ。感じるカラダはどこいった。 そんなことを思っているうちに、感じるカラダはケータイ小説に行ってたみたいなのだ。 本田透の『なぜケータイ小説は売れるのか』を読んで、なるほどとうなずいたのは二点。 ・ケータイ小説読者(おもにキャバ嬢や風俗嬢なのだ)は、「大きな物語」を必要としていない ・ケータイ小説は読むというより「共感」するメディア うーん納得しちゃうよなあ。 大きな物語。宇宙の深淵とか、幕末の熱狂とか、密室殺人とか、自分とは関係しない世界のオハナシなんか知らなくていいんだろうな。 そんなものを読む時間があったらトモダチとなんか楽しいことをしたほうがいいし、そもそも読者には、そんな世界のオハナシで癒されたり興奮したりするような、なんというか、心の隙間が無いのだ。心の隙間を自覚してないのかもしれないし、もっと身近でリアルな例じゃないとピンと来ない。 最近、横っ面をはたかれるような意見を読んで目が覚めたのだが、ケータイ小説に書かれるドラッグ、死病、レイプ、堕胎みたいな過剰な恐怖や悲劇ってのは、お手軽な不幸の記号ではなく本当に「リアル」なんだ。それに気が付かされた。 ちょっとだけでも目を遠くにやれば、レイプも堕胎もドラッグも、僕の身の回りにあるものだ。 ニュースで聞くし友達からも聞く。高校生がMDMAのプッシャーをするくらいなのだ。僕も中学のころ、シンナー缶をくわえてスクーターに乗る高校生を見たことがあるもんな。カノジョに堕胎させた友人と絶交したこともある。リスカ経験がある女性も、摂食障害の女性もいる。 ケータイ小説の中にある不幸な出来事は、実はホントにリアルな現実だった。 己の不明を恥じ入った。 んで、ケータイ小説は「共感」で読むという。共感リテラシーを求めるから、小説として「解釈」しようとしても混乱するばかりになる。 「リアル」はあっても「リアリティ」は不要なのだな。 オッサン世代は小説に「リアリティ」を求める。ウソの話、フィクションなのでなおさらそこには本当らしさが欲しいのね。 ケータイ小説には、生々しい感情を丁寧に描写した文章とか、動機の必然性とか、なんかそんなのが無いので、解釈ができないのだ。 共感の足場となるリアルな感覚はあるけど、リアリティが無い。そもそもアウトオブ眼中なんだもん。 出来事と記号の列挙で、描写されてるのはセリフと動きだけだからあれは「台本」だって揶揄もある。台詞とト書きじゃんっていう。つーか、登場人物の感情に連続性さえ無いので、ありゃもう「夢をメモしたもの」みたいな、とにかくすごいものだ。 でも、「共感」はできる。ケータイ小説の瞬間瞬間には「あ、アタシわかる~」と感じられる出来事やセリフ、ポエムがある。ぽえむ。 共感はカラダに来る。 死病は悲しいし、犬は健気でかわいいし、レイプはバカバカしくて悲しくて許せない。登場人物の感情は瞬間で切り替わる。 これでいいのだ。リテラシーが違うんだから、やっぱり、違うルールで書かれた「小説」なんだよね。 んで、カラダの一部分を持ってかれるような説得力は、アタマの解釈よかカラダの共感のほうが強い。圧倒的に強い。 ケータイ小説が売れて、文芸が落ち目ってのは、なんかしょうがねえのかもしれねえ。 いや、『乳と卵』なんか共感ベースで読んでもすげえ楽しめると思うんだけど、そういう情報は読者にリーチしてないもんね。これは情報流通の問題ね。 共感ってのは、こりゃ、読み物としての質の高低に関係しない要素で。 読み方や観かたを知ってる人が面白がるものと、誰にとっても面白いものってのがあるとして。 面白いというのはいわゆる「オモシロ方面」ではなく、エンタテインメント性と作家性が、感覚と理屈が、幸福にも一致した作品ってことなんだけど。 そういう「質の高い」ものは少なくないのに、なぜか読まれない、買われないって世相で。 むしろ質が低くても、カラダに作用しやすいものがマーケットを支配しがち。これはどの業界でもそうですね。 「この作品、面白いよ、イイよ!」と共感を呼びたいであろう熱意を感じられるレビューや評論は、なんか高尚な知的遊びのほうに夢中だったりして、ともするとそういうサロン文化は「オレたちのコンパ、サイコー!(@ナンシー関)」的なところに行ってしまう。 百聞は一見にしかずというけれど、良質の作品は誰が見たって面白い。そういう強度を持ってるのが良質ってことだから。 あとは、作品の魅力をどう伝えるか。 僕の思うことってのは、それもある。 身体性を備えた、共感をかきたてる、批評やレビュー。 ネット上では、「匿名」で「顔が見えない」レビューが多くあるが、でもアマゾン経由で売上に貢献してる事実もある。 説得力に、顔や実名は、あまり関係が無いみたいだ。 カラダの説得力なんだと思う。
2008.04.06
コメント(0)
せんだってからちょっと思うところあって、しばらく思いつきを書き散らすことにした。 コンテンツを、頭じゃなくカラダで読む(聴く、観る)ってことは、ある。 カラダで読んだ(見た、聴いた)もんは、交換不能だ。 強く訴えるものはまずカラダに「来る」。 ほんとにいいもんは、深い解釈に絶えうる強度を保ちつつ、下世話な部分でも強い。 もっとこう、カラダに「来る」批評があってもいい。 批評や評論が語れば語るほど作品への間口を狭めることになっちゃうことがある。 こないだ観たポツドールの舞台『顔よ!』と、それにまつわる絶賛の蔓延への違和感がある。 違和感の根っこはたぶん、頭とカラダの関係。 人間のやるせない部分を、てらいのない性と暴力の演出でぐいぐい押し付けてくるというイメージのポツドールが、顔の美醜に関する脚本でやるってんだから、そりゃもう期待したっす。観客がドン引きするほど醜悪な人間の本質を剥き身でさらけ出してくれるもんだと、期待した。 僕も先入観(美人、ブサイク、イケメン、自意識、他者からの視線、モテと性欲、うひょーゾクゾクする期待できるぅ)を持って本多劇場に行ったんだから、こういう態度は決して誉められたもんじゃないよね。 まあこういうポツドールが「顔」でやるって時点で、勝ってるんだけど。 頭で「解釈」したり「想像で埋め」たりする余地がでっかい脚本なので、頭で解釈するほど面白い。 だって、自分や他人や好きな人の顔が気にならない人っていないでしょ。観る者すべてに、自分の問題として突きつけてくるよ、そりゃあ。 そりゃね、そうなんです。 本多劇場は、小劇場としては大きな小屋なんです。 役者の顔や表情が、読みにくいんだよね。遠くて。 僕は幸い、前めの席で見ることができたんだけど、後ろの席で観た知り合いは、役者の顔が見えなかったって言ってた。表情じゃない、顔そのものをだ。 ということは、ラストのどんでん返しが、物理的に見えなかったんだよね。もう、台無しじゃないか。 顔の話なのに、役者の顔が見えない。小さい小屋でやれば、もっとカラダにこたえただろうと思う。 フジの深夜番組『演技者』という番組でやった『男の夢』ってホンがある。ポツドール三浦大輔の脚本を大根仁が演出して、生田斗真が主演。斗真、かわいいよ斗真。それはまあいい。 郊外のカラオケボックスでの合コンというかヤリコンの雰囲気が悪くなってく話です。 ブサイクな男とブサイクな女が同調圧力でくっつけられようとして、それに反抗するんだけど。こういう話の三浦大輔のセリフはリアリティがありすぎて身につまされるのだ。見てきたようにウソを書くのだ。聴いてるだけで居心地が悪い。 ブサイク女役の近藤春菜(ハリセンボン)の表情が凄かった。 アップで抜かれた役者の表情を観ながら、僕もおかしな顔をしてたはずだ。 そこにいる全員が欲望と諦めとイライラを混ぜ込んだ表情を浮かべたのがテレビで見える、性欲と自意識で濁ったカラオケボックスの中の空気ったら、笑うしかなかった。 凄かった。 『男の夢』のブサイクパートと『顔よ!』のブサイクパートって鏡合わせでほぼ一緒なんだけど、『男の夢』のほうが圧倒的に「来た」のは、表情がしっかり見えたからだ。 三浦大輔の脚本は、映像でやったほうが強いんだよね。 精神に刺さってきて、賢しげに解釈する余地が無い。 近藤春菜の表情の、なんと雄弁なことよ。 以前読んだナイロン100℃のケラのブログに、客席がみんな味方(イエスマン)になってるお笑いライブの寒さを憂いているのがあった。 『顔よ!』はなんか、そういう客席だった。 客席から湧く「俺は理解してますよ」とアピールするための笑い声にびびったよ。 劇作家・演出家は、ああいう客席がホントは大嫌いだ。 解釈遊びをして盛り上がってる(嫌な言葉だ)ネット界隈が薄ら寒い。 解釈すればどんなもんだって面白く思えちゃうんだよ。 あの脚本、さほど「顔」の問題に踏み込めてないことに自信がなさそうだったじゃないか。 ファックシーンでも、必要なほどのボルテージは無かったじゃないか。ぬるかったよ。 すごくキレイな演出だったけど、「うあー」ってなるまでストレスフルではなかったよ。 批評や評論はテクニックでもあるので、解釈の作法によって、たいしたことないものでもスゲエもんに思わせることができる。 説得力が足りない気がする。 本や音楽のパッケージが売れないと、不景気だと、大変だ創作の危機だと。 そういった、なんかだらけた世の中で。 サロンの中で解釈の知的アクロバットを楽しむような、薄っぺらいサブカル消費者を動員するだけの批評サマではなく、カラダに作用(して購買に直結)するような批評やレビューはないものか。 一次コンテンツは批評の肴にするためにあるわけじゃないだろ。 感じるカラダはどこいった。 そんなことを思っているうちに、感じるカラダはケータイ小説に行ってたみたいだよ。
2008.04.05
コメント(0)
せんだってからちょっと思うところあって、しばらく思いつきを書き散らすことにした。 コンテンツを、頭じゃなくカラダで読む(聴く、観る)ってことは、ある。 カラダで読んだ(見た、聴いた)もんは、交換不能だ。 強く訴えるものはまずカラダに「来る」。 ほんとにいいもんは、深い解釈に絶えうる強度を保ちつつ、下世話な部分でも強い。 もっとこう、カラダに「来る」批評があってもいい。 批評や評論の抱える熱い思いと、カラダに響かない言葉遣いやアカデミックな解釈遊びの間にあるなんか越しがたい溝みたいなのが気になる。 批評、評論の役割ってのはいろいろあるけど。 作品に歴史的な位置づけをするとか、解釈して価値を固定するとか、作品論や作家論の中でマッピング(村上春樹の影響が…云々みたいなの)するとか、密室のサロンで高尚な知的遊びをするぶんには楽しいけど、本来エンターテインメント性を充分に持っている強いコンテンツに「賢い解釈をしないと楽しめないのですか、ハードル上がってないすか」的な色をつけちゃう弊害があることは、かつてのサブカル周辺でよく見られた誉め殺し効果でね。 いまはまあそんなこともあまりなくなったけど、書き手の「作品の面白さを伝えたい」ってピュアな思いとは裏腹に、語れば語るほど間口を狭めることになっちゃってた過去がある。 劇団のチェルフィッチュの岡田利規が、HP中の演劇論において『方法論を体系化するのは「引き寄せる」ことだ』みたいなことを書いてた。 引き寄せて掴んだ「論」を明確にする理由は、いつまでも掴み続けてないで、すばやく手放しそこから逃走するためだと。 劇作家の彼がこう言うのはすごく説得力がある。 創作のエネルギーは固定された「論」から逃げていく速度だってのは、ひとつの真理だよね。 文芸批評、漫画評論、劇評などの繊細な解釈とかはそれ自体が面白い行為だ。んでも、批評がやる、解釈や分析やマッピングは「固定」の方向だ。 すぐれた作家は、固定された価値からどんどん逃げていこうとして、ときには極端に先鋭化して普遍性を失ったり、あるいは逃げ疲れて急にヌルくなったりしてしまう。 ここんとこ「思うところ」の中には、こないだ観たポツドールの舞台『顔よ!』と、それにまつわる激賞の蔓延への違和感がある。 ポツドールは劇団。誤解を恐れずに固定化すると。 性と暴力をてらいなく使う演出と、人間のやるせない部分をぐいぐい押し付けてくる脚本で、評論家周辺からの評価も高い。 『顔よ!』は、ぬるかったと思うんだけど、あちこちですげえ絶賛されてて、中には最高傑作なんて書いてあるブログもある。ブログかよ。 違和感がある。 違和感の根っこはたぶん、頭とカラダの関係。
2008.04.04
コメント(0)
![]()
せんだってからちょっと思うところあって、しばらく思いつきを書き散らすことにした。 コンテンツを、頭じゃなくカラダで読む(聴く、観る)ってことは、ある。 まずカラダが反応してしまうコンテンツがある。たいていそれはイイモンだ。 カラダで読んだ(見た、聴いた)もんは、交換不能だ。 強く訴えるものはまずカラダに「来る」。 ほんとにいいもんは、深い解釈に耐えうる強度を保ちつつ、下世話な部分でも強い。 どこのメディアも不況だっつって。本が売れない、CDが売れない、CM枠が売れないと、景気の悪い話ばっかりの状況下で、(商業的な意味で)人を動かすことができるのはカラダの感覚だけなんじゃないかと。 これは別に、音楽をライブで楽しむとか、なんかそういうモロでダイレクトなレベルのこっちゃなくて。 景気悪い状況でも良質のコンテンツは作られてて、そういうモンはたしかに、観ている(読んでる、聴いてる)者のカラダのどっかを引っ張ってく力を持ってる。 不景気な中でもそんな良質なコンテンツがあるんだよってことを人に伝えるのがレビューとか評論とか、コンテンツ周辺にある二次コンテンツの機能(の一部)であるはずだ。 いや別に、機能とか役割ってのは「責任があるんだからちゃんとしてねん」ってことじゃないんだけど。 書き手がプロアマ問わず、ブログでも雑誌でも、レビューとか評論ってあんじゃん。 この映画を観てすごく面白かったってことを伝えたい。自分が感動した小説のすごさを誰かと共有したい。わかって欲しい。わかって欲しい。もっともっと、こういうのを観たい読みたい聴きたい。みんなもそう思うよな? な? 評論やレビューには、そんなピュアな動機があるわけでしょう。(提灯記事の場合は、動機っつーか、明確に機能とか役割ですね)。 共感を呼びたい。 あるコンテンツに触れて、その感想や評価をしようとして文章を書く場合にはさ、共感を呼びたいのだという願いのようなものが、動機の根っこにあるはずだ。誉めようがディスろうが、そうでしょ。 富野由悠季は、あらゆる表現は表現者の祈りなんだと看破し、「祈りとはヘルプミーだ」と言った。なにいってんのとも思うが、これは真実を生々しくエグった言葉だよな。(孤独を癒してくれ!) レビューや評論も表現であることからは逃れられない。 届けたい相手にちゃんと届く文法で作られないと、届かないでしょ。 そのためにゃ、レビューや評論にもカラダに「来る」部分は必要でしょ。 私の「思うところあって」ってのは、まあいろいろあるんだけど、ひとつは評論・批評の動機と、機能への自覚の乖離。そこへの疑問なんですよ。 「(僕が好きな)このトンがった表現のすごさを、なんでみんなわかってくれないのかなあ! やっぱり読者、観客、聴衆を(僕らレベルまで)啓蒙しないといけないよなあ!」 こういう熱い気持ちのあふれるレビューや批評を読むことがあるが(たまに俺様も書くし)。いや、表に出さなくても、けっこう根っこは熱いものでね。 そういう熱い評論に限って、アカデミックな言葉を使ってみたり、高次な教養をベースにしたもっともらしい解釈遊びをしてみたりしているのがあってさ(いや俺様もな)。 イラッとくる。 「頭でっかち」という日本語のデキのよさに驚く。 文化としてそういうもんだってことはわかるし、そういう立場の存在は必要なんだけど。啓蒙も大事だってことはわかるんだけど。 でももう1フック、欲しいでしょう。 熱い気持ちを共有するためには。共感を呼ぶためには。 自分がイイと思ったものを誰かに観て欲しかったら。 人様のカラダへ逆トゲのついた銛を打ち込むための下世話で「強い」コトバがいるのではないでしょうか。 これはまあ自戒も込めてね。 解釈のアクロバットを楽しむのは気持ちいいけど。 でもさ。 たとえばコニー・ウィリスの小説『ドゥームズデイ・ブック』では、我々の耳にたしかに鐘の音が聞こえる瞬間があって、安堵感とさみしさが胸の内にふくれ上がる。 小説から鐘の音が聞こえたなんて、華麗に解釈して見せたって示せない体験じゃないか。 批評、という作業は、こむずかしい言葉を使って作品を分析してみたり解釈して見せたり作品の歴史的業界的な位置付けをやってみたりするが、きっと根っこにゃ熱い気持ちがあったりして。 もっとこう、自分が聞いた鐘の音を伝えるような、カラダに「来る」批評みたいなのがあってもいいのではないかと、ぼんやり思うんだ。 ホントは「あってもいい」なんてヌルい思いなんかじゃないけどな。
2008.04.03
コメント(0)
せんだってからちょっと思うところあって、しばらく思いつきを書き散らすことにした。 コンテンツを、頭じゃなくカラダで読む(聴く、観る)ってことは、ある。 まずカラダが反応してしまうコンテンツがある。 たいていそれはイイモンだ。 なんでこういうことを考えるようになったかって。 たけくまさんが「マンガは紙媒体で読むのが最高だと思ってるけどケータイの手軽さにはかなわない」と言い、石野卓球は「ライブはダウンロードできないからね」と言った。 これはつまり、新しいメディア(ケータイで読むマンガ、音楽のDL)によって旧来のメディア(紙媒体、CDやレコード)がいよいよ終わるかもという、いつもの金の流れの話ですよ。いつもの。 世の中には本や雑誌をまったく読まない人々というのが驚くほどたくさんいて、漫画をケータイで読めるようにしたら、こんどはびっくりするぐらい稼いでんだってさ。 ケータイなら、漫画は売れる。手軽で便利でね。 予想外の潜在マーケットがあったっていう話で。でも、このままじゃ原作供給源である紙媒体がアブねえって状況は変わってない。現にケータイ向けに新作が書かれているわけだし。 これは、紙媒体漫画が終わりっつー兆候なのか。 いやいやでもさあ。 漫画がテレビに出てきて「テレビまんが」なんて言われてたけど、テレビの漫画は漫画にはならずに「アニメ」という独自のコンテンツに変わってった。 いまのケータイ漫画もバイブ機能を付加しているように、いずれは音が出たり絵が動いたり、なんかそんな方向になんじゃねえのか。 そうなると、それはまた別の表現だよね。 でも、ケータイ漫画が紙媒体のシェアを食ってるのは間違いない(一日は24時間だ)。 CDの売上は(CDバブルのころと比べて)激減してて、しかしダウンロード販売はなんだか好調で、違法DLの海賊も増えてるかもしんない。 手軽で便利で安価。 でも、音楽にはライブがある。体験できる。 新しいメディアはすべて手軽で便利にコンテンツを消費できるよう、コンテンツそのものをチューニングする。 そこにある情報というか内容はメディアを問わず同じものなんだけど、メディアによって決定的に違う部分がある。 体験。カラダだ。 カラダの記憶、カラダに作用する感情みたいなもんは、ライブとipodでも、ケータイと単行本でも変わってくるだろう。 カラダで読んだ(見た、聴いた)もんは、交換不能だ。 ん。まとまりを欠いた文章だ。
2008.04.02
コメント(0)
せんだってからちょっと思うところあって、しばらく思いつきを書き散らすことにした。 コンテンツを、頭じゃなくカラダで読む(聴く、観る)ってことは、ある。 カラダが文法を持っているというか。 武術コンテンツ(たとえば『少林少女』やK-1みたいなのです)でいうと。 文法を持ったカラダでないと解釈できない繊細な部分と、誰もが視覚だけでわかる派手な動きが、同居している。 解釈できるカラダを持っている人は繊細な部分を重要視してしまうが、そうでない人は、見世物としての擬斗が派手でエンターテインであれば満足できる。なまじ文法を持ってる人は、派手なだけの擬斗にウソがあると気づくとなんだか興醒めしたりする。 いい悪いではなく、そういうものである。 で、稼げるコンテンツは、派手でなおかつウソがわかりにくいものだ。 この現象は武術に限ったものではなくて。 音楽でも小説でも映画でも、各分野での教養のベースが鑑賞の深度にかかわってくる。 深く理解したり読み取ったりするには、知の下地がいる。 あのシーンはこの名作映画へのオマージュ、とか。音楽のジャンル分けとか。小説の「構造」とか。 こういう論評を楽しめるのは、文法を持った(リテラシーがある)頭だけだよね。 でも、なんかイイモン、強いコンテンツは、まずカラダのどっか(ハート、胃袋、腰、記憶など)が引っ張られてくような、強い魅力がある。 たとえば思わず踊りだしたくなる音楽とかね。 そういう感覚は、知的な解釈よりも、強い。 ほんとにいいもんは、深い解釈に絶えうる強度を保ちつつ、下世話な部分でも強い。 考える前に泣いちゃったとか笑っちゃったとか踊っちゃったとか。 でも、思わず踊ってしまうならそれはそれで、そのヴァイブスを感じ取るリテラシーを持ったカラダが必要だったりな。 おお。正論だ。当たり前すぎてつまらねえぞ。
2008.04.01
コメント(0)
全11件 (11件中 1-11件目)
1