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「里見忠義公と、われら八賢士、四百年の時を超え、北野天満宮に今、参りました。わが殿、里見安房守忠義が社殿修造の後、当神社ますます栄え、中西神社、稲荷神社、秋喜神社とも併せて祀り、丁度百年の今年、主従初めて北野神社に参拝できること、まことに嬉しく思います」 去る九月六日、里見祭りがあり、北野神社に忠義主従の武者行列参拝がありました。森閑とした空気の中に、大きな声が響きわたりました。 はるか房総から伯耆倉吉に配流して来られた里見忠義公を顕彰して、武者行列を、毎年お亡くなりになった九月に行っています。 九回目の今年は、忠義公が天満宮のお社建造なさって四百年目ということで急遽、武者行列の参拝を試みました。 神社側も宮司さんはじめ総代さん方も尽力頂き、地元の童子ばやしの元気な太鼓の音が鳴り渡る中、時ならぬ過疎の空気を一掃し躍動させました。 江戸幕府幕閣の権力抗争に巻き込まれお家断絶の悲劇に至った里見家でありましたが、これをモデルにしたと言う「南総里見八犬伝」が有名となり、作者滝沢馬琴は、事実とは違う物語と告白するも、物語が事実を凌駕して、本家房総でも今や「南総里見八犬伝」の里見物語になってしまっています。 ここ倉吉での忠義公の八年間も謎で、記録はほとんどと言うほどありません。お国替への形できて活動するも、追い打ちかけるように幕府沙汰で、池田家にお預けの身にされ、下田中、関金山守へと転居させられ、挙句、病気で亡くなり、家来衆も殉死し果てたという伝えしかありません。 あわれが先立ちする里見物語です。 伊木家の記録もあまりありません。 少ないのは、どうも意図的で、幕府に、不都合事象を見せる事は禁物で、必要以外は記録に残さぬように注意してたようです。 これは岡山に行ってもまだ幕府の目を気遣いしてたことが記されています。 ところが、忠義主従武者行列天満宮参拝があってから、不思議な事に里見忠義の伯耆倉吉での実像が浮かびあがってきました。 倉吉図書館が、岡山の図書館から探して頂いてた貴重な資料が届きました。 まるで、天神さんが教えて下さったようです。 伊木家事情がわかれば、里見忠義の実像に迫れるとかねて思っていましたが、倉吉から岡山に着任した時の伊木家の状況が分かり安堵しました。 ご家来衆に、伊木半兵衛正春、小岸惣右衛門在信なる智者、数奇な運命の者あり、家老伊木長門守忠貞六歳にして、数々の偉業を手掛け、倉吉十五年間で見事果たしたわけがわかりました。 忠貞が最初に取り掛かったのが洪水対策で、今に地名として残る小鴨川沿いの長門土手の建設、河原町土手千人波止、里見忠義が転居した下田中の天神川沿いの千人波止の堤防難工事です。そして勝入寺の建立もしました。 もともと小鴨川・甲府川と竹田川(天神川)は別々に流れて日本海に沿いでいました。 天文の大洪水の時に、小鴨川は、天神野麓の西側流路だったのが、東側八幡神社側、現在の流路に変り、更に山名時代に栄えた見日千軒を飲み込み、竹田川(天神川)と合流しました。 里見忠義が倉吉に来た時は、その洪水の痛手がまだ残り、代々確たる治者もなく放置された状態でした。 さて、伊木半兵衛正春という人物は、家老伊木家の始祖忠次の弟、教春の子で、前任地三木では、城下の修復や勝入寺の建立も、初代忠次と共に行動した方です。 又、二代家老伊木忠繁が亡くなった時、三男で五歳の忠貞を、一族の意を統一して相続させた方です。 信長に謀反した荒木村重征伐で、伊木忠次が、支城を攻めた時こともあろうに敵城主が、わが子を忠次に預けて落城しました。その子が客分として育てられ家臣団の責任者として才腕発揮し温情あったのが小岸惣右衛門在信です。 姫路から鳥取に国替えの途中、正条川(揖保川)渡しで、指揮官の米子家老が、家中者に殺傷される事件があり、真相が幕府に知れたら一大事、この解決も六歳の忠貞が事無く処理しています。これも半兵衛居たらこその長門守忠貞のあっぱれ手腕でした。 預かりの身になった里見安房守忠義主従が洪水対策真っ只中の下田中、しかも住民が霊域とする勝宿禰神社神域に住を許したのは、協調関係の証ではないでしょうか。 関金山守は、産鉄の本場、房総も産鉄の本場、里見主従の山守転居は産鉄事情とかかわりがあるのではなど胸おどる推察もします。 知恩院三十二世となった雄誉霊厳上人の倉吉の忠義訪問、雄誉上人の愛弟子で橋津西連寺開山の本誉春道上人との交流は、なども推察します。 里見忠義が、二十九歳で病死しなかったら里見忠義も倉吉の歴史も変わっていたことでしょう。 里見主従が身罷りした時は、伊木長門守の時で、岡山に国替えになったのは、それから10年あとです。 来年も天神さまにお参りして忠義公の実像を教えていただきましょう。
2015年11月25日
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山形の友からリンゴがおくられてきました。 さっそく、電話しましたが、電話がつうじません。 箱にも電話番号がかいてありません。 去年、梗塞で入院してたから、又どうかなってるんではないかなどよからぬ心配。 2度、3度、時間おいて掛けてたら、出ました。 「リンゴありがとう。電話つうじないんで心配した」 「おう、元気か。年だから大事にしなよ」という。 互いに、相手の体を心配しあってる挨拶で、大笑い。 大玉の真っ赤なリンゴ、山形のかおりが広がり、一気に 冬まちかのフィールド歩きでの遭難寸前のあの時の心にバック ツウ。 地質調査は沢を行かないと露頭がないので、のっけから水中行軍。 友が来てくれたので、予定より深く調査の歩を進めすぎたことにきずきました。 沢をくだっては真っ暗になって危険です。 マップをみて、尾根にあがり、かえろうと作戦変更。 ところがマップにない高低が3個あり、尾根に上ったときは、ツルベ落としの瞬間。 懐中電灯が1個あったので、前に行く者が足元を照らすと、それを見て、後の者が判断して 歩を進めねばなりません。足をだしたところは、もう真っ暗ですから。 それが、尾根の道は、岩のごつごつしたものだから、つま先をひっかけて大変。おっと危ない、下は断崖、昼間登って行った川のせせらぎがきこえます。 途中交代しながらいくんですが、これではいけないということになり、松明を作ろうと、サンプルつつむ新聞紙とりだし、笹や枯れ枝を巻き付け火をつけましたが、そんなに灯りは簡単にできないものです。もえません。 友はやめようといって、枯れ枝をあつめて焚火し、土をかぶせ、そのうえに座り、焚火をあらたに作りました。下からあったかい熱が上がってきます。ここでお互いに落ち着き、1時間ごとに交代で焚火の番をして、一人は眠るようにしました。 ぐっすりねてるのを見ると、1時間交代が、2時間になり、目がさめるまでと、譲り合うゆとりがでてきました。帰る宿の方からかすかな音が聞こえるところにいることはわかっていました。 宿のほうでは、捜索隊が編成されて出たけど2重遭難になったらと中止になり、夜明けを待ってということななったようでした。 夜がしらけて、2人とも眠っていました。 さあ、帰ろう。 歩いてたら、やまぶどうがありました。 ごちそうさん。昨日の昼弁当たべてからなんにも腹に入れてないハラペコ。 2日とも、むらさきいろになって、やっと笑いました。今度は口の中がスッパイ。 宿に帰ったら、おにぎりがテーブルにつんであり、 「今日は、なんですか?」 「捜索隊がこれからでるところでした」 安心やら、気まずいやら。 温泉につかり、昨夜「飲もうな」と励ましあったお酒をのみました。 その酒の味のうまかったこと。 リンゴはなんにもいわないが、八十路の男は青春の声で電話をしてました。
2015年11月17日
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歳月は人をまたず」というが、魂を過去に戻すことはできます。 その時に記した、日記がそれです。 ページをめくっていて、そのページに注ぐと、不思議や年代がパラパラとめくれ、その書いた時の心と年代がめぐってくるのには驚きました。 2006年のもので、季節は、違いますが、電話をかけてみようなんて思いました。 両手の指をつかいきる年が過ぎ、八十路に足かけた自分も忘れ、電話の先に母がいる気になります。母さんの肝っ玉 16名水死、5人行方不明が先の日曜日、全国で海水浴事故の発生数だと報じていました。 楽しい海水浴であるべきものが事故があると一転暗黒の世界に落としいれられ、周りも失意のどん底におとされます。 郷里にきれいな白砂の海水浴場があります。 夏には、海水浴客が遠近おとずれキャンプ場もあり、大賑わいをします。 岸辺のやぐらの上では見張りが双眼鏡で安全監視をしています。 福井県から夏休み旅行で立ち寄った大学生O君、着替えもそこそこにして、砂浜を駆け海にとびこみました。泳ぎに自信があったのか沖へ向かって一気におよぎだしました。そして心臓発作をおこしました。 監視員の発見ですぐさま岸辺に救助され、人工呼吸をしましたが蘇生はありませんでした。 持ち物より姓名、住所がわかり、福井のお父さんに連絡がつきましたが、遠路で明日の夕方にしか到着しません。町のはずれにある古るびた火葬場に家族がこられるまで安置することになりました。 ドライアイスなぞ当時ないので、氷を棺に入れました。 夜になりそれぞれみな家にかえり誰もいなくなりました。 婦人会長さんは、自分の子供が東北の大学にいっているので、他人事に思えず一夜、一人で線香番を買ってでました。町外れの淋しい山の中です。 うとうとしてると棺の中が、がらがらっと鈍い音がしてびっくりしました。 氷が溶けてぶっかりあう音でした。静かさの中では異様に響く音だったそうです。 2度、3度と音は続きました。 その婦人会長さんも95歳になり思考力も劣りながらも、電話が自分の子供の声と知ると「体を大事にせいよ」とだけ言うのは忘れない人です。私のだいじな母親です。 海水浴シーズンになるといつも氷の大学生に付き添いした、肝っ玉母さんを想いだします。 今夜又、電話してみましょう。」 年経ると古がなつかしくなるんでしょう。
2015年11月13日
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先日、2日に日本海新聞に 中国製と国産同じ鋳型、揺らぐ製作地分類論争という三角縁神獣鏡の記事がありました。 鋳型の傷を調べたら、いままでの中国産と国産と区別していたものが同じ鋳型のものであったということでした。「魏志倭人伝」に魏の皇帝が倭の女王卑弥呼に「銅鏡百枚」を与えたとしるされてる鏡で、邪馬台国が、畿内であるか、九州であるかの論争の鏡だから大変です。 筒野古墳(三重県松坂市)と馬ノ山4号墳(鳥取県湯梨浜町)の舶載鏡(中国製)と造山1号墳(島根県安来市)のぼう製(国産)は同じ鋳型から作られたと確認したとありました。 専門的なことは別にして、馬ノ山はいつも眺めていますので、興味をもって見させていただきました。 先日岡山の熊山遺跡を見学しまして、其の威容に感心しました。 「吉備国の古代製鉄と熊山遺跡出土の陶製筒形容器」先史古代研究会発足記念の論文がありまして、ここに熊山遺跡陶製筒形容器と並んで、馬ノ山4号墳出土円筒埴輪の写真もあり、古墳時代のキュポラ(鋳物炉)であろうとの説でした。 三角縁神獣鏡は中国には出土してないようで、あるいは、ここでつくったかも。 湯梨浜町には、長瀬高浜遺跡があります。 弥生時代から中世にかけての巨大複合遺跡です。、埴輪は通常古墳にたて並べるものですがここでの謎は、大量の埴輪が古墳以外の場所から出土してることです。 動物や人物などの埴輪がなく、家型埴輪に代表される器材埴輪であるといわれています。 古墳の築造が何等かの理由でとりやめになって、放置されたとしていますが、産鉄用だったかも。 興味深いことに、ここに「久留」という地名があります。 久留とは、製鉄ルートの発生の地のひとつ、アラビア語源kur(クウル))・溶鉱炉の意味で、陸奥国の俘囚鍛冶場の多くは「久留」の名がつき、朝鮮語クルは鉄製の器を意味し高句麗には、久留の地名が多くあると現代宗教研究所書にありました。 ここは当時、天神川が大きくカーブして流れ、橋津川と合流して日本海に流れていましたので、川砂鉄、葦のある湿原に褐鉄鉱もあったかもしれません。興味をそそります。、
2015年11月11日
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