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「掲示伝道」が西連寺の寺報にあった。高いようで低いのが教養低いようで高いのが気位深いようで浅いのが知識浅いようで深いのが欲の皮有るようでないのが反省無いようで有るのが七癖多いようで少ないのが分別少ないようで多いのが無駄厚いようで薄いのが人情薄いようで厚いのが面の皮強いようで薄いのが根性弱いようで強いのが意地
2019年10月03日
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2014年からNHk大河ドラマへの放映希求で、実行委員会が運動しています。 元和3年因幡・伯耆転封になった池田家の筆頭家老家の伊木忠定が倉吉を担当治領しました。 里見主従は、神坂から下田中に移ります。 [早速の試練が、神坂の里見屋敷を長槍を担いだ池田家の小隊が囲んだのである。無勢の忠義は、この申し出に応じるしかなかった。たちまち槍先に囲まれ、忠義は屋敷の外へ叩きだされた。騒ぎを聞きつけ里見家臣団が駆け付けた時は既に遅く、忠義は槍に囲まれて外へ叩きだされて門は追われる所だった。」 このような表現で、全くの悪の対象として池田家を表現しています。堀江能登守頼忠が亡くなる時も医者のない倉吉で治す術がないなど事実でなく、どうも終焉の地として大河に恥を晒ける有様で賛同できません。真実でないものを敢えて表現されては困ります。 昭和41年秋に川名登氏が堀村を訪問されAWANOKAMIが、阿波と安房が混同してることを発見して、ようやく里見主従の存在が紐どかれたのです。 倉吉市誌(31・10)もこの時、池田家の重臣、倉吉担当、伊木家について報じていますのもあやふやなものです。 伊木忠貞藩かん譜池田氏の条に伊木清兵衛という人がいる。小牧山の戦いに池田信輝に勧めて秀吉方につくことを主張した人である。その結果信輝、之助ともに戦死に至り、立場は苦しかっただろう。三木では、輝政に乞い勝入寺を建て信輝を祀った。 伊木忠貞は倉吉を領するに及んで、勝入寺を三木より移した。 勝入寺の過去帳には「伊木前長門守忠繁元和2年8月6日死」とある。 それで清兵衛、忠繁、忠貞の3人は一族であり、互いに親近関係のものと思うがこの裏書きとなるものがない。参考まで付記しておく。 初代、2代、3代の関係ですが、平成7年倉吉市史には、伊木氏は美濃国伊木に興り、光政の老中筆頭で、最高の3万3000石で、町民の民生の安定と農民の田畑を守り長門土手と称される治水工事に励んだ事を記しています。しかしこれくらいの記述だけでお見事、15年間の在倉吉の記事は意識して残していません。 伊木半兵衛の存在が倉吉の記録に出てきません。 意識して、記録に残さなかったことでしょう。播州の折、三木を預かった初代伊木忠次、弟の子半兵衛を右腕に三木城補修、姫路城普請奉行となった2代伊木忠繁の補佐も半兵衛つとめ、忠繁が死すと相続を三男忠貞5歳を衆知納得させ、翌年池田家の鳥取国替えに忠貞6歳の供をして倉吉の地に行きご承知の長門土手作成、勝入寺の建築をきっちり果たしています。 里見主従を槍で追い出す心根はありません。 初代忠次が、荒木村重攻めで支城城主の子を托され、その子が40代になってるはずです。人の痛みをしっています。 このような伊木氏の活躍を証してやるのが、これからの倉吉の勤めです。
2019年10月01日
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