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チベット死者の書を読むーまず解脱と輪廻を考える
まず、優れた修行者は、死ぬ瞬間に中有を経験することなく
解脱できる。
さて、ここでまた判らない言葉が出てきましたね。
中有です。日本では中陰といったほうが判りやすいでしょうか?
中陰というと四十九日と思う方もいらっしゃるかもしれませんが
四十九日は満中陰。つまり中陰が満ちた日で中陰の終わりです。
インドの死生観では輪廻転生があるとお話しましたが
生まれる瞬間ー生有、生きている間ー本有、死ぬ瞬間ー死有
そして、死んでから再び生まれ変わるまでの間がー中有(中陰)
解脱はこの生有、本有、死有、中有の輪廻から抜け出すことです。
まず達人?は自分で瞑想に入って解脱する。
死ぬ瞬間にこれができなかった人には、
「バルドゥにおける聴聞による大解脱」が他の人によって
お唱えされる。これを行うものは自分が導きを受けていた
師僧が最上とされる。
また、体外へ吐く息が残っているうちに行うのがよく
朝ご飯を食べる程度の時間で行うべきとされている。
ん?なんか似ている?
日本の枕経に似てないか?
今でこそ、病院で亡くなる人が増えて、亡くなってすぐに
枕元でお経を唱えることは、ほどんど無くなりましたが、
30年ほど前には、亡くなったらすぐにお経を唱える習慣が
ありました。
だから坊主も大変(ーー;)
真夜中でも人が亡くなるとすぐに駆けつけないといけない。
それができない事情でもあったら、
「クソ坊主のせいで成仏できん」
と言われかねない(ーー;)
さて、ここでも瞑想の能力が問われる。
導きを受けて瞑想に入り解脱する。
しかし、導きを受けても、生前に修行していないと
解脱できないだろう。
日本の枕経と違いような気もしますが、事情は同じではないか?
最近、法話でこんな話をしました。
「仏教の瞑想は若い人より年寄りに必要だ」
仏教の瞑想というと、若い人が心の安定を求めて行うような
イメージがあり、年配者には必要のないように思っていました。
一方、お経を読むお年寄りは少なくない。
お経を読めば心の安定は手にれられるかもしれない
でも、自らの死に対しては気休めにしかならないような気がする。
死という究極の非日常に向かう対策としては、やはり
仏教瞑想という手段は有効ではないかと思う。
死という誰もがいずれは迎える、そして、経験者や先達が全くいない
出来事に関しては、人に相談したところで、回答を得ることは
難しいだろう。
しかし、仏教では死後の世界が描かれている。
全く見えないことを、科学的に分析したり経験することはできない。
しかし、瞑想によって感じることはできるのではないか?
「死後の世界」の話になると、「誰も経験していないから判らない」
という人がいる。
果たしてそうだろうか?
「事実」「真実」という言葉は客観的に見えるがそうではない。
見ているものはそれを我々が「そういうものとして」頭で認識して
いるだけで、本当はどういうものか判らない。
人間の生きている状態と死んでいる状態の区別は現代科学ではできる。
しかし、なぜ生きているのか、なぜ死ぬのかに対する答えは無い。
弘法大師の「即身成仏義」には、素粒子のことを書いているとしか
思えない記述がある。1200年前にどうやって見たのかと思う。
死後の世界を見ることはできない。
しかし、感じることはできるのではないか?
仏教の瞑想法にはその可能性があるような気がします。
いかがでしょう?
続きます。