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2016年01月18日

いんちきチェコ語講座(二) 名詞(一月十五日)


 これから書くのは、チェコ語を勉強していて間違えたときの言い訳にはなりそうだけれども、チェコ語の勉強の役には立ちそうもない与太話なので、発音について書いたときとは題名を変えることにする。ただ続きではあるので「二」である。
 日本人がチェコ語を勉強するときに、一番最初にぶつかる山が、語彙の山である。英語と違って日本語に外来語として取り入れられた言葉がほとんどないチェコ語は、見ても聞いても想像もつかない言葉ばかりである。ただこれは、英語であっても最終的には覚えなければならない言葉は山のように出てくるのだから、何語を学ぶのであれ語学には、避けて通れない道である。
 昔、大学でドイツ語をちょっとだけかじったときに、名詞には性があって格変化というものが存在することを知って、どうしてこんな言葉を選んだんだろうと後悔したのだが(他の選択できた言葉、中国語、フランス語を選んでいたとしても別の理由で後悔していたに決まっているが)、チェコ語の名詞には、男性、女性、中性の区別があるのみならず、男性名詞はさらに、生きているもの、いわゆる活動体と、生きていない不活動体に区別されるのである。かつて活動体と不活動体の間違いを何度も指摘されて、自分が悪いのはわかっていながら、「どうして女性名詞には活動体がないの? 女性は生きていないってことなの」などと八つ当たり気味に師匠に質問して、困らせてしまったことがある。
 それからよくわからないのが、厳密に男性名詞、女性名詞を区別するのに、本来女性名詞であるはずの名詞が男性の姓として使われることである。有名どころを例としてあげておくと、交響詩『我が祖国』で有名なベドジフ・スメタナの姓、スメタナは本来、クリームを意味する女性名詞である。師匠の話では、まだ名字をもつことが一般的ではなかった時代に、その家で生産している物、売っている物を同名の人物の識別に使ったのが始まりではないかと言う。それで、師匠に、女性形がスメタナだったら、男性形はスメタンじゃないのと聞いたら、アホと怒られてしまった。
 もちろん、女性の名字は、原則として「オバー(ová)」で終わることは、チェコ語の勉強を始めてすぐに説明されるのでわかってはいるのである。しかし、これは男性、これは女性と、必死になって名詞の性を覚えようとしているところに、典型的な女性名詞の特徴であるア段でおわる名字が出てきたら、これは女性名詞だから、この人も女性だろうと思うのも無理はないと思う。私自身も、今でこそこんな間違いはしなくなったが、初学のころは名字だけ知らされた人のことをとっさに女性扱いして何度も笑われたものである。男性名詞、女性名詞を厳格に区別するのだったら、女性名詞を男性の名字にするときに、男性形を作り出してくれれば、私のような外国人が苦労せずにすんだのに。
 反対の例もある。ボレスラフというのは男の名前である。一番有名なのは、聖バーツラフを暗殺した弟のボレスラフであるが、この人物にちなんで名前の付けられた(と聞いたような気がする)暗殺の地スタラー・ボレスラフも、自動車会社シュコダの工場があるムラダー・ボレスラフも前に付けられた形容詞の形からわかるように女性名詞になっているのである。男性の名前が、地名になると女性名詞になる。何とも不思議な話である。

 そして、名詞の性、活動体、不活動体が判別できたからといって、格変化ができるわけではない。それぞれに硬変化、軟変化、特殊変化などいくつかの各変化の種類があって、さらに単数複数の区別があったり、複数でしか使われない名詞というのもあったりして、なかなかに大変なのである。ただ、格変化自体は、日本語で名詞に「てにをは」をつけるようなものだと思えば、それほど抵抗は感じない。覚えるのが大変だという事実が残るだけなのだが、これについては、稿を改めることにする。

1月16日12時





 せっかくやり方を覚えたので再度挑戦。この教科書、十課以降まで独学できた人は、学校に通ってチェコ語の勉強を刷る甲斐があると思う。イメージがないのが残念だけど、どうせチェコ語を勉強するなら、この教科書が一番いい。1月18日追記




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マリア・テレジアのオロモウツ(一月十四日)


 日本にいると、ハプスブルク家はオーストリアのものであるという意識が強くて、知識としてチェコもその支配下にあったということはわかっていても、モラビア、ひいてはオロモウツとハプスブルク家の関係は実感としては意識しにくい。それはハプスブルク家についての文章が日本語で書かれるとき、チェコの地名もチェコ語の名前ではなく、ドイツ語の名前で表記されることが多いからかもしれない。オロモウツとオルミュッツという二つの地名を見て、似ているとは思っても、知らなければ同じ町の別名だとは気づくまい。
 しかし、実際にはハプスブルク家は長期にわたって、神聖ローマ帝国内では、ボヘミア、モラビアとシレジアの一部からなる現在のチェコの領域を、神聖ローマ帝国外では、上部ハンガリーとして現在のスロバキアを支配しており、チェコスロバキア、ひいてはチェコとスロバキアに大きな影響を与え続けてきた。オロモウツにハプスブルク家の足跡がいくつか残されているのも当然ではあるのだ。

 オロモウツのバーツラフ広場から、トラムの走る通りに降りて、向かい側に見える道を登っていくと小さな広場に出る。ここが名前だけは立派な司教広場で、左手前方にある白い大きな建物が、大司教宮殿である。1848年にウィーンで革命騒ぎが起きたときにオロモウツに逃げてきた当時の皇太子が、この建物の中の一室で戴冠式を挙げたと言われている。残念ながら大司教宮殿が一般に開放されるのは年に何回かしかないので、いつでも見学できるというわけではないが、改修が終わる前でさえ一見の価値があったので、折を見て見に行きたいと思っているのだが、なかなか予定が合わない。
 大司教宮殿の入り口の前に立って広場のほうを向いた時に、右手前方、若しくは、視界の右半分を遮るように立っているのが、マリア・テレジアが建てた武器庫と呼ばれる建物で、現在はチェコで二番目に古い大学であるパラツキー大学の図書館になっている。
 チェコ語の師匠の話では、私生活を何度もオロモウツの大司教に批判されたことに腹を立てたマリア・テレジアが、かつては広かった司教広場の半分を使って、左右対称に建てられた大司教宮殿への景観と、大司教宮殿からの視界を半分だけ遮るように建てたものだという。これ以上批判を続けるなら、この中の武器を使うぞという脅しの意味も兼ねていたのだろう。

 旧市街の反対側、ホルニー広場からドルニー広場(この日本語訳は何とかしたいのだが……)に入って右手に下って行って、一つ目の角を曲がって細い通りを抜けると、トラムの通る大通りに出る。そこから右手前方に見えるのがテレジア門と呼ばれる建物である。
 かつてオロモウツはシレジアを失ったハプスブルク領の北の国境を押さえる要塞都市としての機能を担わされていた時期があり、テレジア門はその時代の名残なのである。現在トラムの走る大通りは堀の代わりの川が流れており、こちら側から街に入るためには、テレジア門を入って橋を渡る必要があったらしい。そして当時は、この門から外側、街の反対側では大砲の置かれた砲台の外側には、建物はおろか、木さえも存在することが許されなかったのだという。できる限りの見通しを確保することが最優先されたのである。その結果、この旧市街の外側に当たる部分は、内側と比べて新しい建物が多く、建物の正面上部に記載されていることの多い建築年紀を見ると、19世紀の終わりから20世紀の初めに建てられたものが多いことがわかるのである。

 再びバーツラフ広場からトラム通りに下りて来たところに戻って、左折し歩道を道なりに下りていくと、名前から水車用に引かれたと思われるムリーンスキー川にでる。橋の上から左、上流のほうを見るとほぼ正面に見えるなかなか壮麗な建物が、本来は修道院で、現在は軍の病院になっているクラーシュテルニー・フラディスコ(訳を考えたくないのでカタカナ表記にさせてもらう)である。以前は改修されておらず漆喰がはげていたり壁の白色がくすんでいたりとなかなかひなびたたたずまいを見せていたのだが、改修後は小奇麗な印象になってしまった。
 この建物はナポレオン戦争の時代に、オーストリア軍やフランス軍が、接収して傷病兵の療養所として使ったことから軍病院になったらしいが、例のアウステルリッツ(チェコ名スラフコフ)の三帝会戦の前だったか、後だったかにナポレオンその人も滞在したことがあるのだという。そして中には、マリア・テレジアの図書室と呼ばれる部屋があって、現在も図書室として使われているが、当時の本はまったく残っていないというような話を、かつてチェコ語のサマースクールで見学をしたときに、聞いたような記憶がある。もっとも当時の私のチェコ語力は非常に怪しかったので、どこまで本当に聞いたことなのかは保証しかねるのであるが。
 軍の病院になっているため一般公開はされていないが、チェコ語のサマースクールなどで見学ができることもあるし、中庭までなら特に許可もなく入ることができる。もっとも患者として軍病院に運ばれて中を見学するという手もあるけど、病院の診察室や病室として使われている部分は、近代化されていて、あまり見てもしょうがないのではないかと言う気もする。
1月15日22時30分




 記事には関係ないけど、チェコ関係の我が愛読書の一つである。こんなこともできるようになるなんて、我ながら成長したなあ。1月17日追記。


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