デフレの正体 0
原発 0
体罰 0
糖質制限食 0
全270件 (270件中 251-270件目)
A氏:あけましておめでとう。 元旦はどうだったね? 私:横浜は曇りがちで昼過ぎからちょこちょこ小雨があったね。 午前中、家族と逗子海岸のほうにドライブしてきたよ。 途中、無料のお屠蘇と甘酒を飲んできた。 ところで、君は「踏み絵」を知っているだろうね。A氏:新年早々、知的街道に踏み出したかね。 もちろん、徳川幕府の最初の頃のキリスト教禁止に対して、信仰していた人を暴くために用いた方法だね。 キリストかマリアの絵を踏ませる。 踏むのを拒むと信者として処罰される。 日本史の常識だよ。私:ところで、信者であったが、踏まない人はどうなったと思うね。 踏み絵を踏まないと信者ということで、ものすごい拷問で仲間を聞かれる。 最後は改宗しない限り命はない。A氏:殉教者の記録はあるようだが、逆に、そういう人のことはあまり聞かないね。私:遠藤周作氏はそれに焦点を合わせて「沈黙」という小説を書いたという。 この講演集でそう言っている。 凡人は死まで覚悟して信仰を明らかにすることはないだろうという見方だね。A氏:遠藤周作氏と言えば、クリスチャンで高名な小説家だね。 1996年に73才で亡くなっている。私:俺が聞いた講演のCDは、1990年のものだ。A氏:ところでその踏み絵を踏んだ人たちはどうなったの?私:信仰を本当に捨てたのではない。 隠れキリシタンとなり、明治の禁止令解除まで続く。 ところが、それらの隠れキリシタンを調べると、聖母マリア信仰が中心だというね。 もとのキリスト教と基礎が違っているんだね。A氏:日本は文化的に母性的なものが中心なせいかね。私:遠藤氏は、キリスト教のような一神教は父親的で、論理的、権威的であるというね。 文明と違い、文化は意識下にある考えだから、キリスト教はストレートには日本人になじまず、変化していたんだね。 フランシスコ・ザビエルが布教に来たとき、神をゴッドと言わず、ゼウスと言ったそうだが、その音から、これを日本人の多くの信者は大日如来と聞き違えたという。 戦国時代にキリシタン信者は60万と言われるが、現在、日本では洗礼を受けたキリスト教信者は100万くらいと言う。 だから、人口比で考えると戦国時代にいかに急速に広まったかがわかる。 しかし、そのキリスト教は、かなり日本化したものであったようだね。A氏:キリシタン大名で有名な高山左近がいるね。私:彼が残した書は、贖罪などキリスト教の本質的なことはふれておらず、世の無常のような仏教的な内容であるという。 遠藤氏は、日本文化は女性的なもので、戦争で兵隊が死んでいくとき、天皇陛下バンザイでなく、無意識のうちにお母さんと言って死んでいったと言う。 日本文化は父性的でなく、母性的なようだね。 遠藤氏は、日本でキリスト教が意外に普及しなかったのは、布教するほうでこの日本文化のDNAを意識しなかったせいだといっているね。 しかし、欧米も次第に日本文化を理解するようになっていると遠藤氏は言っている。A氏:日本文化の根底はわれわれが意識していないが、風土、食、習慣など、日常生活上、奥深いんだね。私:NHKの紅白歌合戦の後に、各地に残っている古い行事を残すことが重要だとその紹介をやっていたね。 眠くて途中までしか見なかったけれど。 今後もそういう特集を期待したいね。
2007.01.01
コメント(8)
私:ようやく図書館の予約で俺の番が回ってきたので読んだよ。 俺の後、まだ、40名ほどの人が待っているから優先で読んだ。 これは昭和19年6月25日に硫黄島赴任から昭和20年2月3日までの硫黄島から家族宛の手紙が中心だね。 11月5日の日記の「『玉砕総指揮官』の絵手紙」はその前のアメリカ時代の手紙だね。 A氏:アメリカの艦砲射撃、空爆の総攻撃が2月16日、上陸が19日だから、もう島は孤立だね。 もう、手紙を送ることはできない。 栗林中将は有名な最後の電文を3月16日に出して、3月25日に最後の総攻撃をしている。私:手紙の内容は、上陸前の硫黄島での日常生活と、家族の生活の心配が中心だね。 硫黄島での生活は敵の毎日のような空襲とものすごい数の虫の攻撃に悩まされている。 それとわずかな雨水のみの生活だね。 その生活をくりかえし、手紙で書いている。 長男の太郎にはもっと男らしくなれということば繰り返し書いている。 家族への心配は疎開だね。 疎開を早くするように、繰返し書いている。 次女はすでに長野に疎開しているが、妻、長男、長女が1月末の手紙ではまだ東京なのだね。A氏:この間、栗林中将が心配していた3月10日に東京大空襲があるね。私:B29が300機くらい、ものすごい爆音で3月9日に硫黄島の上空を東京に向け飛んで行く。 これを硫黄島の市丸少将や日本兵たちが見上げるシーンがTVドラマ「硫黄島・戦場の郵便配達」に出てくるね。 栗林中将もすでに大量のB29による本土爆撃を予測していたから見上げただろうかね。 そのとき、家族は疎開していたのだろうか。A氏:栗林中将の実家は長野の松代だから、有名な地下の大本営があったところだろう?私:かなり立派な地下壕で、延長10km、朝鮮労働者が7千人投入されたという。 碁盤の目のような通路で、天皇陛下はじめ皇族が生活する部屋もあったという。 本土決戦になったら移転していたかもね。 ここは、今、見学できるが、一時、この近くに栗林大将の記念館もあったとどこかで読んだようが気がしたがね。 長野市は敗戦間際に1回、艦載機の機銃掃射があったくらいで空襲はなかったね。 もう、冬の頃から多くの東京の小学生が善光寺の坊に集団疎開していた。 松代は、川中島の戦いで有名な海津城(後に松代城)や妻女山がある。 江戸中期に財政難となり、「日暮硯」で有名な恩田木工が立て直す話は有名だね。 幕末には佐久間象山が出る。 小さな田舎町だが歴史のあるところだよ。A氏:そういえば、今週の「週刊現代」ではスクープとして「栗林忠道の『埋もれていた日記』を本誌が発見」という特集があったね。 俺は、ふだんは「週刊現代」は読まないんだが、今回は買って読んだよ。私:「硫黄島からの手紙」をちょうど読み終えたところで、グッドタイミングで俺も買って読んだよ。 松代の生家の土蔵に少年期の日記、手紙、手記、絵、小学校の通知簿まであった。 これを「週刊現代」の記者が取材したわけだね。 カラー写真で紹介しているが貴重な資料だね。 これを見ると、子供の頃から文や画を書くのが好きだったんだね。 実に細かい描写だね。 アメリカにいたときに長男に絵手紙を送っているのは、この延長だね。 硫黄島に行っても細かいことを手紙に書いているね。A氏:小学校の通知簿で算数が丙だったのは驚くね。 週刊誌の本文のほうに、この資料を基に保坂氏、加藤氏、福田氏の鼎談があるが、特に目新しいものはないようだね。私:映画でも話題になったせいか、今、栗林ブームだね。 しかし、たしかにあまり賞賛するのは、問題だね。 「昭和の魔法」を語った司馬氏は、23才で群馬の佐野市の戦車隊で敗戦を迎えるが、そのとき同じ年令だが士官学校上がりの隊長が「これは戦争でなかったなぁ」と言ったという。A氏:どういう意味?私:要するに、戦争とはある程度、力が均衡していて始まるものだ。 相撲で言えば、幕内同志の戦いだね。 ところが高校生くらのアマチュアとプロの横綱が試合をしたら、それは勝負といわないね。A氏:勝負にならない戦争をしたと言うことか。 なぶり殺しとなるね。私:だから、圧倒的な戦力に対して戦うというのは死しかないね。 負けることはわかっている。 栗林中将はその覚悟を手紙で繰返し書いている。 いくら抵抗しても結末は明らかだ。 戦争ではないということになる。 悲惨だよ。 それを美化してはならないと思うね。 TVドラマの「硫黄島・戦場の郵便配達」で、銃を送ってくるように大本営に要請したら、航空機で竹槍を送ってきたシーンがあったね。 敵の膨大な量の自動小銃、火炎放射器、大砲、戦車、飛行機に対して、竹槍で戦えというのは、ブラックユーモアになってしまうね。 司馬氏が「昭和の小説は書きたくない。息苦しくなるからだ」というのがわかるね。 それがわからないクリント・イーストウッドの映画「硫黄島からの手紙」は、俺は見る気がしないね。 それから、「南京虐殺」をアメリカが映画で描くなら、「広島、長崎の原爆と東京大空襲による一般日本市民の虐殺」の2部作にして同時公開すべきだね。
2006.12.28
コメント(2)
私:このシリーズの最終巻だね。 何故、硫黄島のような戦いをせざるを得なかったかという知的散歩でもある。 結論的に言うと、根本的な原因として昭和の日本人は絶対的な思考になっていて、相対思考ができなくなっていたとあるね。 江戸時代のような多様性の欠如だね。 司馬氏は、ある国のことを考えるとき、その国の人になりきるという思考訓練を若いときからしていたという。 その国の人になりきるには、その国の歴史などをよく知らないといけない。 牧野伸顕という昭和の有名な政治家がいるが、昭和2年頃、イギリスの女性が国に帰ることになったので、友人たち十人くらいで送別会をした。 そのとき、ある人がそのイギリス女性に「これから日本はどうなるでしょうか」と聞いたら、その女性は「日本は亡びるでしょう」と言ったという。A氏:何故?私:ヨーロッパでは、フランス軍もドイツ軍もそれぞれの長所短所を相対してよく把握している。 しかし、日本軍は、自分たちが世界で一番強いと思っている。 相対的な思考がない。 したがって、軍部の権力が強大となり、それが国を滅ぼすという。A氏:その話は昭和2年だそうだが、当たっているね。私:孫文が大正13年に神戸で講演しているが、そこでこの30年くらい前までは、アジアで植民地でなく独立した国はなかったと言っていたという。A氏:日本は、徳川幕府で安政条約があるんじゃないの?私:これは不平等条約だね。 日本では横浜居留地とかきれいな言葉で逃げているが、上海租界と同じで、日本国土ではない。 日本の政治、司法の及ばない植民地だね。 明治27年になってようやく対等な条約にこぎつける。 それまでは、孫文の目から見ると日本は独立した国家ではないんだね。A氏:なるほど、孫文のように外から見ると、そういう見方もできるね。 それが相対的な見方か。私:孫文はそれで、独立した日本が今後、欧米のようなアジアに対して覇道(力で抑える道)を行くのか、中国とともに王道(それぞれ自立して協調していく道)を行くのか、それを選択すべきで、孫文は王道を行くべきだという。 聴衆は大きな拍手でそれに応えたというね。 残念ながら、孫文は翌年、ガンで亡くなる。 ところで、日露戦争を陸軍がまとめた膨大な「日露戦史」というのがある。これは悪書で有名だそうで、司馬氏はこれを古本屋で購入する。 そして少しずつ読んで、長い間かけて全部読んだというが実につまらない本だという。A氏:なんでそんなにつまらないの?私:これを書いたのはある陸軍大佐だが、後に彼は陸軍の閑職に回される。 ある人がその彼にあって聞いたところでは、彼が「日露戦史」を書いていると、当時のいろいろな大将などが来て「このように書け」というのだという。 正確に書いていたら、出版してから、それらの大将からクレームがつき、閑職に追われたという。 アメリカは第二次世界大戦の戦史は、軍人に書かせない。歴史家や学者に書かせたという。 日本軍は相対的な思考、自己解剖的な思考ができなかったという。 明治初期は、日本は欧米に遅れており、追いつこうしているが、本当に追いつけるかという不安の時代だから、相対主義であった。 むしろ、国としてノイローゼ気味であった。 それが日露戦争以降、絶対的になる。 これに対して、ジャーナリズムも責任があるともいう。 ジャーナリズムは日露戦争は、すれすれの勝負であり、危ないところだということを強調することをしなかったという。A氏:そういう相対主義のジャーナリズムが明治後期から大正にかけて一般的になっていたら太平洋戦争は避けられたかもしれないね。私:司馬氏は「昭和の小説は書きたくない」とはっきり言っている。 書くとどうしても戦争にふれないといけない。 昭和は戦争の時代だからね。 書くことを想像するだけで息苦しくなるという。 事実、「坂の上の雲」でも203高地の戦いでは何べんも息苦しくなり筆を置いたという。 確かに、硫黄島の戦いなど、書くと息苦しくなるだろうね。 自分たちの民族が悲惨で書く気が起こらないだろうね。 黒澤明が、本当の戦争を描く映画は観客に弾丸が飛んでこなくてはダメだということを言ったというがそうかもね。 黒澤明が、唯一、昭和の戦争映画をアメリカと共同で描こうとした「トラトラトラ」はハリウッドと意見が対立し、監督を解任されているね。 司馬氏は、1980年代の偏差値問題にもどって心配している。 その当時、高知県の偏差値は最低線にあった。 司馬氏は、高知は多くの名文家を出していると言って、偏差値では測れないものがあるのではないかと言っているね。 ある女子学生が「日本は息苦しい」、だから、西洋人と結婚して欧米に行きたいと言っていたという。 人生の多様性を失うと、子供の自殺も増えるのではないかね。 司馬氏は、その問題解決は、これからの若い人の宿題だとして終わっているね。A氏:冷たいなぁ。 君や俺の孫の時代が心配だよ。 昭和の魔法というカルトは形を変えて生きているのかもしれないね。私:それはひょっとしたら、市場原理主義かもね。 司馬氏が生存のときは、まだ、問題になっていなかったので、それにはふれていないがね。 司馬氏がなくなってから「国家の品格」がベストセラーになったからね。 いずれにせよ、日本はカルトにひっかからないためには、相対的な見方を失わないようにすべきだね。 司馬氏は重要な問題解決を宿題にしてしまい、このTVの雑談後、10年でなくなってしまったね。 司馬氏には孫がいなかったので、一般の若い人への宿題になってしまったね。 今後、若い人は昭和と違った意味で大変な時代を生きていなければならないことは確かだね。
2006.12.23
コメント(4)
私:司馬氏は昭和の問題から、明治にさかのぼり、明治維新は実は江戸の多様性を背後に持っていて成功したという。 江戸時代の多様性は、10月17日の日記にあるように、多くの藩が江戸時代は藩と言わず、国だったわけで、政治経済は各国にまかされていた。A氏:今のように国の交付金などない。 小さい国(藩)ほど、知恵を出さないといけない。 それが多様性につながるのかね。 地方文化の多様性だね。 市の財政が破綻した夕張市も、中央の真似や指導で、安易に観光事業に膨大な投資をしたのは、一律の箱物行政の知恵のなさかね。 戦後、多様性を失ったのかね。私:江戸時代、姫路の播磨辺には、数学の大会があり、試合があったそうだ。 このへんは有名な和算の天才関孝和がいた。 これが工業に応用され、大阪の発明家工楽松左衛門が生まれる。 また、東京の多摩地区は天領だが、百姓が剣術が好きな風習があった。 この中から近藤勇らの新撰組が生まれるが、これらの剣術使いを播磨に期待できないね。 各国それぞれの特徴がある。 鍋島藩は勉強熱心で高等教育に熱心だったが、薩摩藩は逆にあまり教育熱心ではなかった。 蘭学も宇和島藩、越前の大野藩などの小さい藩で盛んに学ばれる。A氏:そういえば、江戸期にはいろいろな特徴のある学者がいるね。 内藤湖南、山形幡桃、家永仲基などだね。私:明治は富国強兵一辺倒でもないのだね。 夏目漱石の「吾輩は猫である」は日露戦争で国をあげての戦いのときに発行されているという。 しかし、明治初期、政府は近代化のために多くの投資を政府がするのだが、汚職がないね。 裏口入学もない。 これは当時のエリートたちの特徴かね。 国家のためという「公」の考えが徹底していたんだね。A氏:今度の教育基本法の改正で「公」の考えの重要性が強調されたね。 戦後、日本はあまりにも「私」を重視したために、バランスを欠き、わがまま勝手が堂々と許されるようになってしまったからね。私:秋田の大館というところの出身で狩野享吉という人がいた。 明治のときに第一高等学校の校長に若くしてなり、その後、京都大学ができると文学部の創立をする。 しかし、彼はその後、退職して、貧乏しながら、「日本人にオリジナリティがあるか」を研究する。 当時は、西洋の真似がはやっていたからだ。 そして、江戸時代に八戸にいた安藤昌益を発見する。 要するに、司馬氏は、自分が育った昭和時代よりも江戸やその影を残す明治のほうが多様性があったという。 この司馬氏の雑談をしている1980年代の頃は偏差値が学校教育で問題になっていた頃らしく、司馬氏は日本全国、子供のお母さんは偏差値一色で、多様性がないとこぼしているね。 明治の頃には、陸軍の上層部が長州などの閥の支配を受けていたので、一部の幹部が大正から昭和にかけて、幼年学校から士官学校を経て陸大の最優秀の成績を得た者から選抜にするようにした。 これが統制権を得て無茶をやるようになる。 司馬氏はこれと偏差値主義を結び付けているようだね。 多様性を尊重しない点が似ている。A氏:その1980年代の戦後の偏差値問題で今度はゆれて「ゆとり教育」が生まれ、学力低下で失敗だね。 司馬氏が生きていたら何と言うかね。 今、夕張市はじめ、地方の疲弊が問題になっているが、それは江戸時代に持っていた地方の多様性を喪失したためかね。私:明日は最後の第12巻に挑戦だね。
2006.12.22
コメント(0)
私:昨日からの知的街道の続きだ。 司馬遼太郎は、何故、日本人はあのようなバカな戦争をしたのだろうかという疑問から、日本の歴史では、昭和の最初から敗戦までの20年は異常な時期であったという。 いわゆる「昭和の魔法」にかかって、日本人はバカな戦争をし、多くの人を失ったという。 それは昭和10年から20年の軍部の統帥権が日本を独裁的に支配した時期であるという。A氏:司馬氏は明治ファンだね。私:そうだね。 だから、せっかく、明治の人が欧米の植民地化から逃れ、明治憲法の下で独立した国家を短い期間で作りあげたものを、大正末期から昭和のはじめにかけてぶっ壊してしまったというわけだ。 このビデオシリーズは、「昭和の魔法」を解くシリーズだが、この第10巻は幕末から明治政府が徳川幕府に代わり、そして明治22年に憲法を作るまでの間の話だ。A氏:幕末というと、坂本竜馬が登場するかね。私:実は、倒幕の志士たちは、幕府を倒してからその後、どのような政治体制を作るかの青写真をもっていなかったという。 唯一、例外だったのは坂本竜馬であった。A氏:どういう青写真なの?私:俗に「船中八策」といわれるもので、正式には「新政府綱領」という。 この一つに、上院、下院の2つの議会制をひくことが書いてある。A氏:幕末によくそういう近代的な案ができたものだね。私:実は、幕末はすでにいろいろな海外の情報がかなり広まっていた。 竜馬が20才の頃、郷里の土佐で名もない蘭学の先生から、オランダの自治政府の話を聞いている。 オランダは歴史上初めての市民国家を作っている。 また、ジョン万次郎が帰ってきたとき、それを取調べした河田小竜という人のところに竜馬は行っているね。 後にアメリカに渡航している勝海舟の話も聞く。A氏:なるほど、すでにかなり欧米先進国の政治体制は一般的な知識となっていたわけだ。 しかし、何故、新政府の青写真を作ったのが坂本竜馬なのだろう。私:坂本竜馬は、世界の情報から日本のような国は海運を起こさないとダメだと感じて、海運業を起こす。 これが海援隊だね。A氏:ベンチャーだね。私:ところが海援隊を有効に動かすためには、国が統一されていないといけない。 そこで彼は幕府を倒して新政府を作る必要が出てきた。 薩長連合をひそかに進めるのもそこから来ているという。 しかし、議会制は薩摩との連合で薩摩の反対で削除される。 そして、幕府は倒れるが竜馬もいない。 青写真は落ちてしまう。A氏:青写真なき明治政府ができたというわけか。私:明治憲法ができるまで、一種の専制政治が行われるね。 司馬氏は、青写真的なものを明治新政府は最終的にドイツに求めたという。 これが後の昭和の精神主義に影を落とすのかね。 ドイツは、昭和にヒットラーのナチズム時代となるが、これもカルト的だからね。A氏:そうだね。 ドイツ哲学などは論理的過ぎて、論理が空回りするような気がするね。 西欧の朱子学かね。 それに対して、イギリスもアメリカも現実主義だね。 前回もあったように、今思うと、明治でのドイツの選択が日本の歴史を大きく変えた分岐点だね。私:明治憲法ができるのが明治22年だが、その間、西欧の文化の取り入れはものすごいスピードだ。 廃藩置県、武士の廃止、四民平等など次々に専制的に改革が行われる。 当然、反対勢力の反乱がある。A氏:佐賀の乱と西南の役だね。私:その後、反乱はなくなり、野党的な勢力は土佐の民権主義運動くらいなもので、これに対しては司馬氏の点数は辛い。 何故なら、後で憲法ができて議会ができるとこれらの人は議員となってしまうからだ。 次回は、「昭和」への道はもう一度、江戸にもどる。
2006.12.21
コメント(2)
私:昭和の魔法街道の続きだね。 硫黄島戦争など日本陸軍のリアリズムを失った自殺カルトの知的追及の旅だね。 自殺カルトの旅は江戸までさかのぼる。 司馬氏は、江戸幕府は朱子学を儒学として採用するが、韓国と違い、朱子学だけということではなかったという。 多様な考えが生まれ、特に荻生徂徠のように朱子学に批判的な考えも生まれる。 これは朱子学の観念論よりも実践的な陽明学より早いというね。 その基本はリアリズムであり、合理的な思考だ。 江戸期にはそういうリアリズム的な思想家が多く生まれた。A氏:数学でも和算というのがあり、関孝和など、高等数学者まで出るね。私:ところが明治維新でこの江戸の近代がプッツリ切れて、一挙に西欧の近代が導入される。 それはできあがった技術の導入だね。 それは機械技術だけでなくあらゆるものを欧米から導入する。 あるドイツ人が明治維新で日本人が過去の優れたものもどんどん捨てていくのに驚くが、すべての過去は遅れていて恥であると考えたんだね。A氏:戦後と似ているね。私:いや司馬氏は、戦後のほうが変な昭和のイデオロギーから開放され、江戸時代も見直されるようになったというね。 しかも、職人芸が復活し、日本人が本来持っている技術好きが復活し、戦後の技術による経済発展に寄与したという。A氏:ようやく江戸期につながったというわけか。私:しかし、幕末に尊皇攘夷で朱子学が水戸学として復活するね。 日本的なリアリズムと違った理屈っぽい観念的な思想だね。 明治新政府は、西欧を買い続けたが、精神面ではこの朱子学が復活して教育勅語になるね。 一方で、近代とは欧米の近代だね。 日本自身の江戸の近代的な思想は明治から消えている。 そして、たまたま、明治維新のはじめにヨーロッパで普仏戦争があり、当時、プロシアといわれたドイツが勝つ。 それから、ドイツの輸入が中心になる。A氏:哲学もドイツ哲学だね。 医学もドイツだ。私:司馬氏は、ドイツを日本が選んだというのもその後の日本の運命をきめたというね。 イギリスやフランスを選んでいたらというイフが考えられるね。 軍部も参謀本部を置くというのもドイツ流だね。 これが昭和10年ごろから、統帥権の中心になる。A氏:それだけ西欧のものを買い続けたのに、どうして、軍の幹部は昭和期に合理主義を失い技術音痴になるんだろうね。私:おそらく当時、和魂洋才といって、精神は日本精神、技術は西欧だったんだろうが、この精神が問題だったんだろうね。 ちゃんとした魂があるから技術も使いこなせるのじゃないかね。A氏:魂とは思考力だね。 それが精神主義的だということかね。 江戸のリアリズムを失っているから、昭和では西洋の技術を使う思考力が育っていないのかね。私:そこに天皇の軍隊がつながるのではないのかね。 朱子学と神道が結合したイデオロギーだね。 正しい思考停止作用を起こす。 カルトになる。 司馬氏のいう「昭和の魔法」ではないかねA氏:今の北朝鮮のような将軍様イデオロギーと似ているね。 北朝鮮も朱子学の土壌がある。 しかし、金日成の外交はしたたかだね。 精神主義ではないね。 民衆のほうが将軍様カルトの犠牲になっているようだね。 でも最近、あまり経済が苦しいのでそのカルトにだまされないという風潮が出ているそうだね。私:司馬氏の雑談はまだ、続く。 VHSで後、3巻ある。
2006.12.20
コメント(0)
私:「硫黄島・戦場の郵便配達」は、12月9日土曜日にフジテレビで夜9時から2時間余にわたって放映された。 俺は都合で見られなかったので録画しておいた。 これを今日、見たよ。 A氏:「硫黄島からの手紙」の栗林中将は出るの?私:このテレビドラマのサブタイトルに「あの硫黄島にあったもう一つの"真実"」とあるように、これは海軍司令官の市丸海軍少将の話が中心だね。 その話をつなぐ航空隊のパイロットと郵便配達の話がからむ。 実際の日米の記録映画を交え、ドラマは展開する。 海軍と陸軍は同じ島でも行動が分かれていたんだね。 栗林中将は陸軍司令官だね。A氏:文藝春秋の対談によると、陸軍と海軍を一元化してくれと栗林中将は直接、侍従武官長に電報を打って進言しているようだが、結局、それは無視されたんだね。私:だから、このドラマには栗林中将のことはまったく出てこないね。 例えば、地下壕の隣同士の部屋にいれば「おい、どうしている?」と声を掛け合うだろうがね。 そういうシーンもないね。 二人はそろって合理主義者だから、話は合っただろうにね。A氏:市丸少将の最後はどうなったかは不明だろうね。私:そうだね。 ただ、本土に伝令を出しているね。 伝令は捕虜になったが、彼の意図は捕虜になってでも祖国に帰って、この戦争の事実を伝えよということであったと思うね。 無駄死には嫌だったのだろうね。 市丸少将の長女がラジオを通じて、硫黄島の将兵に激励の放送をする。 それを市丸少将は知っていたというね。 捕虜になった部下が戦後、遺族にそれを伝えている。 伝令として生き残り、日本に帰った人は遺族を探して戦場を語って回ったという。 それと市丸少将は「ルーズベルトに与える書」を残しており、それを米軍が硫黄島で拾いアメリカ海軍兵学校に保管してあるのを紹介している。 これはかなり広く国際的な視野で述べている遺書だね。 しかし、このテレビドラマでは61年後に硫黄島戦で生き残った人や、手紙を書いて送った人もいるが、すでに戦場にいた人は80才を越えているし、その手紙に登場する子供たちも70才代だね。A氏:これらの人の死とともに、この記憶は消えて行くのかね。私:クリント・イーストウッドが描くのではなく、本来、日本人の監督が描くべき映画だったんだろうね。 もっと、日本人はもっとあの戦争ときちんと向き合うべきだね。 それにしても、栗林中将、市丸少将が生きて戦後、活躍したら、ソニー、ホンダを築いただろうね。 あの戦争は、このような貴重な日本の人材も殺した。 しかし、そのソニーも創業者の井深さんがなくなってからおかしくなっているようだ。 風化現象は止むを得ないのかね。
2006.12.16
コメント(3)
私:このシリーズ1回目、2回目に続き、7巻から9巻で、主として戦争と兵器に関する話だね。 まず、日本人は世界史的にも稀にみる職人を重要視する民族だという。 物づくりが尊重されるんだね。 最初は、埴輪に見る程度の芸術品しか作る技術がなかったのに、仏教伝来とともに、彫刻、仏像、建築の技術にショックを受け、それを吸収し、さらに日本独自の技術まで発展する。 そして鉄砲伝来だ。 これもあっという間に、その生産が戦国時代の日本国中に短期間で広まる。 当時のイギリスが描いた世界地図にそれぞれの土地の人の絵が描かれているが、日本人の絵では肩に鉄砲を担いでいる。A氏:しかし、徳川幕府で武器の研究は衰えるね。私:だから、幕末でのペリーの来日は蒸気船の技術がショックだった。 薩摩、佐賀、宇和島の3つの藩がすぐに真似をし出す。A氏:日露戦争では西洋に負けないくらいの兵器は作り出すんだね。私:ところが、日本は第1次世界大戦の経験がないから、日露戦争以降、武器があまり発達していないんだね。 第1次世界大戦は、まさに戦争は大量殺人となるね。 戦車、飛行機、トラックなど、ガソリンが必要となり、弾丸・弾薬などは大量浪費となる。 ところが司馬氏がNHKの日本軍の中国での昭和期の活動フィルムを見ると、大隊の移動は隊長が馬で歩兵は歩いているね。 トラックが出てこない。A氏:要するに、日本は昭和の戦争に基本的に日露戦争と同じレベルの武器でのぞんだ訳だね。私:司馬氏は、参謀本部は幼年学校から士官学校、陸大と秀才コースを経た人材からなっている。 それが、こんな武器で戦争はできないと真剣に考えていないのが理解できないという。A氏:司馬氏の「昭和の魔法」だね。私:戦後、司馬氏はそれが疑問で参謀本部の幹部の生き残りの人にインタビューしたが納得した返事は得られなかったという。 そういう問題意識がなかったしかいいようがないという。A氏:やはり謎か? しかし、それで戦死した多くの人はたまらないね。私:司馬氏は幕末に活躍した西郷や坂本竜馬らは、今、東大の試験を受けたら落ちるだろうという。 彼らは秀才ではないという。 明治政府の初代総理大臣の伊藤博文などは日露戦争の開戦には積極的でなかったらしい。負けると思っていたから、開戦となると自ら一兵卒になっても戦うと言っていたというね。 それなのに、昭和では参謀本部は秀才ばかりだからと信じてしまったのかね。 日本はヒットラーがいなかったから、「魔法」の説明が難しいんだね。 司馬氏は、東条大将は町内会会長レベルの能力しかないと厳しいね。 いずれにせよ、「魔法」はまだ謎だね。
2006.11.27
コメント(0)
私:11月16日のクローズアップ現代で、国谷女史がイーストウッドにインタビューしていたね。 メインの話題は「父親たちの星条旗」だったね。A氏:俺も見たよ。 ところどころ、「父親たちの星条旗」や「硫黄島からの手紙」の映画シーンが出てきたね。私:インタビューでは最初、「父親たちの星条旗」だけで終わる予定が、相手の日本軍に興味を持ち、日本側からの「硫黄島からの手紙」を作ることになったと言っているね。A氏:それで日本に来て硫黄島の生き残りの日本兵への取材もしたのだね。私:戦争に悲惨さを描くのに成功しているようだが、俺は日本軍の捕虜となるのは恥であるという考えはイーストウッドに理解できたのか疑問だね。 戦陣訓を書いた東条はピストル自殺をし損ねているしね。 それをどう描くのだろうか。 武士道のいさぎよさと言うのは、負けは負けといて潔く認めることではないのかね。 剣道でも負けるときは「参りました」といさぎよく認めるではないか。 負けると知りながら傷が深くなるまで戦うことのほうが潔くないのではないの?A氏:戦友の食糧を奪ってでも生き延びることじゃないの? 口減らしのために、敵に損害を与えないムダなバンザイ攻撃を強制することではないのでないの? NHKの「硫黄島玉砕」ではアメリカ兵はそのばかばかしい考えを批判しているね。 その時点では日本兵の抵抗の戦術的な効果はあまりなかったのではないのかね。 サイパンから日本本土を空襲し、途中、硫黄島に降りたB29はかなり早くからいたのではないの?私:栗林中将の最後の突撃で生き残ったものは降伏すべきだったのかもね。 気をつけないとまた悲壮感で戦争の美化になりそうだね。 日本軍を支配した悪夢は何だったのか、戦陣訓の意味はなんだったのか、イーストウッドのインタビューでは、そこまで突っ込んでいなかったが、彼はどのように扱うのか楽しみだね。 司馬遼太郎は、昭和はじめの20年は、日本史では異常なもので、他の国の歴史ではないかと思われるくらいであると言っている。 特に、後半の昭和10年から20年までは異常な時期としている。 その中心は統帥権だ。 それの歴史的な理由をイーストウッドは理解できるだろうか。 さらに司馬遼太郎の雑談シリーズで聞いてみようと思う。
2006.11.21
コメント(3)
私:このビデオの12巻セットは買ってきちんとみていないまま、棚にしまってあったんで、敗戦責任知的街道の重要な宿場として、この機会にきちんとみようとおもってね。A氏:この街道は長いね。私:「積読(つんどく)」でなく「積視聴(つんビデオ)」かね。 十年くらい前に買ったのだろうが正確な記憶がないね。 とりあえず、第1巻から見出した。A氏:20年位前にNHK教育テレビで放送をしていたのをちょこちょこ見ていた記憶があるよ。 司馬さんがカメラに向って一人語りかける番組だったね。私:司馬さんは書くこともすごかったが、語りも説得性があり独特だね。 司馬さんも、山本七平さん、会田さん同様、若いときに戦争を体験した世代だ。 司馬さんは群馬県の佐野市で戦車隊員として敗戦を迎えている。 当時、司馬さんが上官に「アメリカ軍が本土上陸してきたとき、佐野から東京に戦車隊は進まなければならないが、道路は避難してくる日本人の民衆で混んでいるので、容易に移動できない」と言ったら、上官は「ひき殺していけ」と言ったという。 それで、国民を守る軍隊がなんで国民を平気で殺すのか疑問を持ったという有名な話があるね。A氏:沖縄戦で日本軍が市民を犠牲にしたということで、本土に反感をもっている人もいるが、本土決戦になっていたら同じように軍が民間人をかなり犠牲にしていただろうね。私:司馬さんは、ノモンハン事件を例にして、なんでこんなばかばかしい戦争をしたのか、日本人はもともとこんなバカで民族であったのかというね。 そのノモンハンの反省なしで、太平洋戦争はその2年後に始まる。 そして、結論的には大正の末から昭和の敗戦まで、日本人は魔法の世界にとりこまれた日本史上でも特異な時代だとしている。 司馬さんはその魔法のカギを解きたいと言っているね。 それがこのビデオシリーズだ。A氏:司馬さんはノモンハン事件を小説で書くことを期待されていたのではないの?私:何度もチャレンジして、調査もしたらしいね。 戦争中は満州に居たんだしね。 しかし、魔法の謎が明快に解けないためか書けないまま亡くなってしまったね。 戦後、司馬さんはノモンハンの参謀だった人に取材のため、長時間インタビューしたらしい が、話がかみあわないんだそうだ。 話が平面的でツルツルしてつかみどころがないのに、多弁だったという。A氏:英語力同様に説得性ある表現力がないのかね。 日本の参謀には自分の信念というものがないのだね。私:敗戦を迎えたときアメリカ占領軍が来ても右翼も抵抗しなかった。 むしろ、開放された感じであったという。 すなわち、昭和のはじめは軍の権力に日本は占領されていたのだと司馬さんはいう。 言論も抑圧されていた。A氏:適切な説明だね。 小学生の俺も、敗戦という悲しい感情よりも実感はホッとした開放感があったね。私:司馬さんは、この軍国支配の原因に例の「統帥権」をあげている。 明治憲法は基本的に三権分立の近代憲法だが、11条に「天皇が陸・海軍を統帥する」とある。 この一条を軍は曲解して、三権の上に軍をもってきてしまった。A氏:そして参謀が勝手に国を動かすことになるわけだ。 本当に国のためでなく、自己保身のために。 しかし、今の九条も解釈論でいつの間にか世界有数の軍事力を持つのと似ているね。私:司馬さんは、この軍国主義的なイデオロギーはさらに明治維新にあると指摘しているね。A氏:君が明治維新の水戸学でふれていたね。私:それまでの儒学に対して中国の儒教は宋のときにイデオロギー化したようなんだね。 これが幕末の「尊王攘夷」のイデオロギーにつながるようだ。 朱子学だね。 日本では「廃仏毀釈」までいくね。A氏:韓国も朱子学の影響が深いというが、だから、過激なデモなんかあるのかね。 未だに、年長を重んじる伝統が残っているという。私:中国のほうは朱子学は清の時代には衰えるんだね。 清は満州族で夷荻の国だから、正統性がなかったからかね。 ところで、明治維新を中心に推進した日本人は、韓国と違い、「攘夷」を捨てて「尊王」を推進した。A氏:「尊王」すなわち、王政復古だね。私:しかし、司馬さんは明治政府を作った人は現実な対応をせざるを得なかったが、それらの人が明治末期に次第に亡くなって、官僚政治になってから、イデオロギー化しておかしくなってきたというね。 これからの司馬史観の展開が知的興味を湧かせるね。 敗戦責任知的街道の大きな宿場になりそうだね。
2006.11.13
コメント(0)
私:因縁なのかね。A氏:何が?私:NHKの「硫黄島玉砕戦」のドキュメントから映画「父親たちの星条旗」の街道まで来たんだが、その結果、この映画が2部で日本側から描いた「硫黄島からの手紙」があるということを知ったんだがね。 これは12月9日からのロードショーだという。A氏:その手紙は硫黄島の総指揮官栗林忠道中将が硫黄島から家族宛に送った41通がもとになっているらしいが、それがどうした?私:その栗林忠道中将が俺の高校の先輩だったんだよ。 当時は旧制中学だがね。 もっとも、40年ほど上だから先輩というにはあたらないかね。A氏:同郷の縁か。私:それで知的興味が湧いたね。 しかし、この「硫黄島からの手紙」は図書館ではもう予約待ちが多くてすぐ読めない。 そこで、同じ栗林大将(戦死後、大将に昇格)がアメリカに留学時代に、長男に書いた絵手紙47点を集めた「『玉砕総指揮官』の絵手紙」は予約待ちがないのでこっちを読んだ。 「硫黄島からの手紙」は、この後の時期に硫黄島に行ってからになるね。 昭和3年4月から2年間のアメリカ留学だが、自動車好きで現地で購入してメキシコにドライブし、カンサスからワシントンに移るときは自動車を使っているね。 アメリカ大陸の半分を横断している。A氏:英語はどうだったの?A氏:38才でアメリカに英語を習いながら単身留学だね。 もっとも中学での英語の成績は抜群だったという。 高校を出るとき、外交官か軍人かで迷ったという。 しかし、アメリカに2年もいれば英語はペラペラだろうね。A氏:その頃だと、まだ、日米関係は悪化していなかったろうね私:この本では、硫黄島からの41通のうちから、次女にあてた7通と家族にあてた2通をのせている。 2通とは、硫黄島での最初と最後の手紙だね。 最後の手紙は2月3日。 米軍の上陸は2月19日。 最後の総攻撃の大本営への電文は3月17日。 この電文は大本営の参謀が「御遺骨と思ってくれ」と家族に渡したという。A氏:栗林総指揮官は米軍から賞賛された名将だったというが、所詮、本土の支援はゼロだし、アメリカ軍の物量を相手ではどうしようもなかったね。 軍人として無念だったろうね。私:辞世の歌の1つにその心があらわれているね。「国のため重きつとめを果たし得で、矢弾尽き果て散るぞ悲しき」 この硫黄島の戦いでは米軍は1週間で陥落させる計画で、十分な弾薬を投入した。 例の学者参加のOR(オーアール)が活躍する。 しかし、栗林総指揮官の地下トンネルの戦術に悩まされ、1ヶ月を超える戦いとなり、米兵もかなりの死傷者を出す。 これから、アメリカ軍が安易に地上戦をする作戦を変え、徹底的な空爆がメインになり、かつ、日本本土の戦いに用心深くなる。 このような命知らずの戦いを日本本土でされたら米軍だってたまったものではないからね。 ボッダム宣言が本土攻撃の前に出されたのも、この硫黄島の戦いのせいだというね。 マッカーサーは、天皇の存在は400万の兵力に相当すると言ったというが、精神性も数字に置き換える欧米思考だね。A氏:その意味で、本土決戦を救った栗林総指揮官の徹底的な抵抗も無駄ではなかったと言えるのかね。私:心安かれと御冥福を祈ります。
2006.11.05
コメント(0)
私:君はこないだビデオのHDDを整理したと言ったけれど、俺も整理したよ。 中には録画して見ないでそのままのものもあった。 その中で8月はじめのNHKスペシャルの硫黄島の戦いを見た。 最初、見ないで消そうかと思ったが、ちょっと見出したら、目が離せなくなったね。 ずっと大東亜戦争の知的街道を歩いてきたせいか、アンテナを張っていたんだね。A氏:俺は8月に放送したとき見たよ。 すごい戦いだね。 日本兵は二万ほどだったが、捕虜で残ったのは千人くらいだという。 それも餓死近い状態で捕虜となるんだね。 島は日本軍が網の目のように穴を掘っており、その中の戦いだから、今でも遺骨が一万以上も穴の中に埋もれているという。私:9月20,21日と民主党の小沢代表と管氏が島を訪れているね。 そして、管氏は早く遺骨を集めたいと言っているね。 しかし、NHKスペシャルを見ると、そんなコメントは空虚だね。 島ごと、墓にしたいくらいだね。 小沢代表はその後、健康を損ねたようだが。A氏:この硫黄島の戦いは君のいうORで米軍は学者も参加して計画して、計算し、莫大な砲弾で1週間で落ちる予定だったのが、1ヶ月以上もかかったんだね。 アメリカ軍はかなりの損害を出す。私:生き残ったその千名くらいの人はすでに今80才代だから、戦後、多くの人がなくなっている。 体験を語る人が減ってきているね。 生き残っている人のうち、3人の人のインタビューがある。 貴重なインタビューだね。 思い出して話すのが苦しそうで、涙が自然に泣き出した人もいた。 人間は極限を体験すると話すのも嫌になるのだね。 いやな記憶だったんだろうね。 当時、硫黄島で戦った米兵のインタビューもあったね。A氏:彼らアメリカ兵には、何故、日本兵がこれだけ苦しんでいるのに投降しないのか理解できないと言っているね。 ある日本兵が投降しようとしたら、それを知った上司の下士官が後から撃って殺したのを目撃した米兵の証言もある。私:そんな話は遺族にできないね。 最後は味方同志で食糧を奪い合う。 遺族に実状を話せないという。 山本七平氏が戦後、遺族に本当のことを言えなかったのと同じだね。 投降なんか考えられない。 ただ、死を待つのみだね。 事実は、武士道精神の死ではないね。 美化できない。 オウム真理教だよ。A氏:生き残って今も働いている人が、言っていたね。 こんなに苦しんで死んでいった人の死がムダだったと絶対言ってほしくないとね。 ムダと言ったら、彼らは浮かばれないとね。私:今度、硫黄島の戦いの映画をクリント・イーストウッドが手がけるというが、捕虜になるくらいなら自殺せよという日本軍のマインドコントロールは理解できないだろうね。 クリント・イーストウッドは南京虐殺も映画化するという。 しかし、それは映画化できるものなのかね。 彼がどういう理解力でその歴史を扱うのかね。 おそらく理解しないで作ると思うね。 真実の硫黄島の戦いは映画にはできないね。 その謙虚さが、大人の心だよ。 このドキュメンタリーは貴重な映像だね。 永久保存だね。
2006.10.10
コメント(0)
私:山本七平氏がどこかに書いていたが、捕虜生活中にあるベテランの兵隊が敵が十の力があり、こちらが七の力でも、戦いは開始するという。 不足の三は精神力で補うのだという。 山本氏は、これに対して、マッカーサーは本土上陸作戦で天皇の存在は四百万の兵力に匹敵するという計算をしていたという。 日米の軍人の発想の違いを指摘しているね。A氏:近代戦は数字に基づく作戦だからね。私:戦争中、軍需工場に飛行機の注文が来る。 月初に、生産計画を立てる。 しかし、資材の不足、勤労学生の参入などによる作業の質の低下などで、計画通り行かない。 月末になると数字で事実が出る。 目標より足りない。 軍の調達官は怒り、会社側を叱る。A氏:軍には調達官が張り付いていたらしいね。私:怒られたら、言い訳してはいけない。 言い訳すると言い訳がましいとますます叱られる。A氏:この前の山本さんの体験と同じで言葉を失うのだね。私:だから、一番いいのは、「すみません。精神力が足りませんでした。来月は頑張ります。」ということだ。 すると、調達官は「次はしっかりやれ」で終わる。 この繰返しだったという。A氏:せっかく、組んだ飛行機をまたばらして、飛行場まで運び、また組立てるんだそうだね。私:途中の道路を牛で運ぶ。A氏:馬のほうが速く運べるのではないの?私:だめなんだ。速すぎると振動で飛行機の部品に傷がつく。 ゆっくり運ぶことが必要なんだ。 そのため北海道か東北の牛が最適だったそうだ。A氏:驚異的な零戦の技術の背景にそういう原始的なアンバランスがあったんだね。私:ところで君はOR(オーアール)という言葉を知っているかい?A氏:よく知らないけれどOperations Researchの略ではないの? 経営数学という意味で若い頃、聞いたことがあるね。 今でも大学の経営工学科や情報学科あたりではそういう学科があるんじゃないの?私:もとの意味は作戦計画だね。最初、第二次大戦でイギリスで生まれたんだが、そのときはOperational Researchだったという。 後にアメリカで盛んになりOperations Researchとなる。 沖縄戦での特攻隊の防衛方法にも学者が参加して、いろいろな回避方法を考えているね。 第二次大戦の英米の特徴は軍事作戦に学者が参加したことだ。 戦争が科学になったと言われた。 もう、イラク戦争なんかその極端な例だね。 それまで、戦争になると職業軍人のカンの世界になり、学者は象牙の塔にこもっていただけだったがね。A氏:その学者が参加した作戦計画がORか。私:たしかリーダーだったブラケットという人がこの成果を豊富な事例でまとめて戦後本にしているが、今、図書館で調べたがないようだね。 今でも記憶しているいろいろな例があるね。A氏:例えば?私:ドイツの潜水艦のUボート作戦だね。 その頃、制空権はイギリスが握っていて、海上を走っているUボートを発見するのだが、追いかけて爆雷を落とすが、戦果が出ない。 当時、職業軍人のカンにより30メートルで爆雷を破裂させるようにセットするマニュアルだった。 ORである教授がいろいろなデータを科学的に分析したら、7.5メートルが適切であるという結論になった。 最初、職業軍人側の反対があった。 プライドを傷つけられたようなものだからね。 初期の学者参加にはこのようなトラブルが多かったようだね。 しかし、被害が拡大するので仕方なくやってみた。A氏:戦果は?私:戦果は驚異的なものとなった。 Uボートの撃沈率は8割近くなった。 ドイツ軍はイギリスが新しい爆雷を発明したと思ったというが、実は爆雷は同じでセット位置(ソフト)が変わっただけだね。A氏:なるほど、今までの軍人プロでは成果が出なかった面があったんだね。私:面白いことに、ドイツとの戦争終了後、ドイツの飛行機の棚卸しをしたんだね。 ドイツが生産した飛行機から連合軍が撃墜したり、爆撃で破壊したりした飛行機を差し引くと戦後残った飛行機数になるはずだね。 ところが、倍の数字で合わなかったという。 生産数と残った数は正確だから、撃墜数や破壊数が不正確だったんだね。 だから、戦後、朝鮮戦争あたりからは、データ把握が正確になるね。A氏:太平洋戦争ではどうだったんだね?私:硫黄島の戦いでも物量投入計画に学者が参加する。 しかし、このときは、予想外の日本の抵抗で計画通りいかなかったらしいね。A氏:日本軍にはロケット弾があったという話を聞いたことがあるね。私:これらのOR学者は戦争終了とともに失業するが、ビジネスの方面で活路を見出すね。 ビジネス界ではそれまではビジネスマンのカンであったのを数式もデルに変えて最適な解答を求めるというわけだ。A氏:なるほど、それで経営数学と言われ、今ではITが使われているわけだ。 経営が科学化し、数式化し、ITがそれに便乗してきたわけか。 戦争はこういう面でも影響があるんだね。私:しかし、あまりに数式化に走ったために、本末転倒の現象も出たようだね。 その皮肉な例があるよ。A氏:どんな例?私:日米のトラック島の戦いの例なんだが、アメリカの艦船が味方の飛行機を日本機と間違えて撃ち落すという事故が多発した。 そこでOR学者が投入された。 彼は数日間で成果をあげて帰ってきた。A氏:さぞかしすばらしい数学モデルを考案したのかね。私:彼は誤射の原因はパイロットが味方である信号を出すスイッチを離陸するとき入れ忘れすることにあることを発見した。 対策は簡単だった。 戦闘機が離陸するとき、丁度、パイロットの目の高さに大きな幕を掲げた。 その幕には、「味方識別信号スイッチをいれよ」と大きく書いてあった。A氏:なるほど、コストが安く、効果の大きいやり方だね。 経営の原点もそこにあるね。 マニュアル主義から出てこない真の知恵だね。 今、その知恵を経営の現場で失いつつあるようだね。 今のITの行き過ぎに対する警告でもあるね。
2006.09.30
コメント(2)
私:芸能界では、明石家さんま、木村拓哉、市川海老蔵の三氏を白洲次郎ファンの三巨頭だというそうだ。 そのさんまがTBSテレビで7月19日(水)の夜中に白洲次郎スペシャルを放映した。正味1時間ほどの番組だ。真夜中の放映なので録画しておいた。昨日、昼間見たよ。A氏:最近は、白洲次郎ブームらしいね。 文藝春秋の今月、8月号でも「白洲次郎:昭和の快男児:プリンシプルの男」という特集もあった。私:雑誌「歴史街道」8月号でも白洲次郎の特集しているのは前に話したね。 しかし、このさんまのテレビを見て思ったことは、白洲次郎が戦争に負け、アメリカに屈服するくやしさが人一倍だったことだろうね。A氏:日本では「武士は食わねど、高楊枝」とか「やせ我慢」という言葉があるが、敗戦当時は、日本の官僚は自信喪失してアメリカの言うままになってしまっていたのだろうね。 白洲次郎は占領時代は、負けたことの悔しさがあったのだろう。「占領の屈辱」を彼ほど痛切に感じて、抵抗した日本人は他にいかったのかね。私:外務省に残っている手記で、アメリカに押し付けられた憲法案に対し「『今ニ見テイロ』トイウ気持抑エキレズ。ヒソカニ涙ス」と書いている。その文字がテレビで出てきたよ。A氏:約30年後に経済的に製造業では日本は仇を討ったがね。しかし、成り上がりの金持ちでまた、今、また、崩れているようだ。私:彼の祖父は福沢諭吉と親交があったようだけれど、福沢諭吉が明治になって幕府から相手の新政府についた勝海舟を非難して「やせ我慢の説」を展開するが、似ているね。「プリンシプルに生きる」というのは、「スジを通す」とういうことだから、「やせ我慢」もありえるね。A氏:作家大岡昇平氏も、敗戦後、多くの人が負けた悔しさを忘れ、新しい占領政策に迎合していくのに耐えられなかった一人だね。そして、押し付けられなくても、喜んで迎合していく日本人を見ていられなかったのかもしれない。私:大岡氏は、捕虜になったとして、芸術院会員となるのを断わったし、戦後の著作はあてつけに全部新仮名遣いにした。それは一種の「抵抗」だね。 戦後の新仮名遣いに反対なのだが、その裏返しの抵抗だね。 昭和天皇のA級戦犯合祀の靖国など、敗戦処理をきちんとしなかった事実は戦後60年以上たってもまだ根が深いね。
2006.07.28
コメント(0)
A氏:昨夜の10時からのNHKの川中島合戦を見たよ。「きつつき」戦法が出てきたね。私:2つの説があり、史上有名な第4回目の川中島の戦いは、偶発的なものだという対立した考えだね。A氏:5回あって、5回とも引き分けているが、それは両者の戦力が対等でなく、それぞれの内部固めのパフォーマンスであるということだ。私:それは、他の国に攻め入るのだから、内部を固めるのは当然だがね。A氏:善光寺が商業的に有益であったというのは、信玄が甲府に善光寺があるにでも分かるね。私:パーフォーマンス説で有力なものは、「きつつき戦法」の中心となる信玄軍の妻女山の夜襲だ。A氏:実際の山に登り、険しいので、この急な坂を一万を越す兵士が馬を連れて登ることは不可能ではないかという疑問だ。私:あの辺の山は平野部から急に切り立っているからね。だから、妻女山だけでなく、善光寺周辺の山も切り立ったような山が多く、5回の川中島の戦いでもいろいろな山が登場する。A氏:テレビでは旭山とか横山とかで出たが、結構、切り立った山らしいね。 川中島の合戦だと言うけれど、信州だから、一種の山岳戦ではないの。地元の武士にはいろいろ知恵があったのではないかね。私:信玄と謙信の直接の対決が出てきたが、偶然の衝突なら、このパフォーマンスの演出に無理があるね。A氏:それに、信玄は重要な幹部をなくしている。これはやはり、午前の戦いで本陣をやられてからであろう。偶発で幹部をなくすことは考えられないね。私:やはり、テレビの視聴者の直接投票が本当に両者の決戦があったというのうが多かったが、その可能性のほうが高いね。
2006.07.27
コメント(0)
私:昨日、長野新幹線で長野に日帰りした。長野市内に4時間ほどいて、用事を済ませ、帰ってきた。A氏:長野は雨で大変だったのでは?私:長野市は昨日の昼からは日も出て雨は降らなかったが、それまでは歴史的な雨だとタクシーの運転手が言っていた。 帰りには、むしろ、東京に行くにしたがい天気が悪くなった。なつかしい浅間山もふもとまで雨雲におおわれていた。頂上は雨だったろうね。 帰りに、「川中島合戦笹ずし」という駅弁を夕食代わりに食べたよ。非常においしかった。A氏:川中島合戦と関係があるの?私:弁当の説明書によると、上杉謙信が居城である越後の春日山城から川中島に出陣したとき、北国街道の冨倉峠(今の飯山市)越えたとき、村人が山菜ずしを笹の葉に盛って出したのが由来という。 6種類の材料に一種類ずつ笹の葉に盛り付けてあるんだ。A氏:川中島合戦と言えば、多くのドラマや映画になっていて有名だが、本当に謙信と信玄が直接斬りあいをしたのかね。私:直接の戦場は川中島の八幡原というところなんだが、ここには今、馬に乗った謙信が、椅子に腰掛けている信玄に向って切りかかり、信玄が軍配団扇で防ぐというおおきな像があるよ。しかし、これは事実ではないらしい。伝説のようだ。A氏:結局、この戦いはどちらの勝ちなの?私:川中島合戦は、5回あり、有名なのは第4回目だ。信玄は今の松代近くの海津城に入る。 ところが、謙信軍はその虚をついて、すぐ近くの妻女山という山にこもる。信玄は頭を抑えられて感じだ。 そこでしばらくにらみ合う。A氏:そこで信玄が考えたのが「きつつき」作戦だと言われているが。私:そうだ。まず、軍を二つに分け、一つを夜こっそり妻女山に奇襲をかける。 もう一軍を、川中島に陣を敷き、奇襲で逃げてくる謙信軍を迎え撃つ。一種の挟み撃ちだ。きつつきが木をつつき、虫を誘い出し、捕らえるのと似ている。 ところが、妻女山にいる謙信は、海津城の兵の動きから、その戦術を知ってしまう。裏をかいて、夜、ひそかに妻女山を下り、川を渡る。A氏:このシーンが詩吟で有名な頼山陽の「鞭声粛々夜河を渡る」だね。 馬に口輪までして、声を殺し、信玄に気づかれないようにそっと山を下り、川中島の河を渡るわけだ。私:信玄は本陣を川中島に敷き、昼頃、逃げてくる謙信軍を待っていた。 ところが、早朝、河に立ち込めていた霧が晴れだしたら、そこに現れたのは、突貫してくる謙信軍だった。 こうして、謙信軍は混乱した信玄の本陣まで食い込むんだね。A氏:妻女山に夜討ちをかけた信玄軍は?私:妻女山の頂上に登ったら、もぬけのから。 そのうちに、川中島のほうに戦いの声がする。慌てて山を降り、河を渡ろうとするが、向こう岸に謙信軍が待っていて、容易に河を渡らせない。 午前は、まさに謙信の勝ちだ。 しかし、遠回りしてなんとか戦場に駆けつけた妻女山からの信玄軍が午後に参加してからは、形勢は逆転し、謙信軍は最後は退却する。A氏:それで、両者傷み分けということか。私:そうだね。しかし、いきなり妻女山に乗り込み、かつ、信玄の「きつつき」作戦の裏をたくみにかいた謙信のほうが戦略的に優れている気がしないでもない。A氏:信玄と謙信は対極的な戦いをするそうだね。私:信玄の戦い方は近代的と言われていた。 戦いの前に幹部と車座で議論する。決定した戦術は演習でためす。一種のシミュレーションだ。 よく情報を集め、慎重に行動する。 それに対して、謙信は、一人、堂にこもり、何日か瞑想し、念じて、一挙に出陣する。直感的、ワンマン的だ。 しかし、何故、慎重な信玄が川中島合戦で、「きつつき」作戦が気づかれた場合のリスクを考えていなかったのか、疑問に思うね。A氏:そういえば、今夜、NHKの歴史の選択で「川中島の戦い」をやるね。 来年の大河ドラにも登場するそうだ。さて、知的な興味が湧いてきた。
2006.07.26
コメント(0)
私:昨日の夕方、どうも体がだるい。のどが痛い。体温を測ったら38度だ。 2、3日前から外を歩くとむし暑く、電車やビルは冷房で、その温度差か知らないが、冷風でクシャミが出たり、鼻水が出はじめたり、そのうちに、痰がからみ、のどが痛くなってきた。 夏カゼだなと思っていた矢先だよ。カゼで熱を出したのは二十年ぶりぐらいだろうか。A氏:熱は下がったの?私:市販の熱をさげる薬をのんだら、37度まで下がった。 今朝は平熱にもどったが、念のためかかりつけの医者に行った。血液検査もして、単なるカゼという診断だ。ノドが真っ赤だと言っていたよ。いろいろな薬をもらって帰ったよ。A氏:悪質なカゼでなくてよかったね。私:ところで、病院で待つ間に、置いてあった雑誌の中から「歴史街道」8月号をなんとなく選んでさっと読んだが、知的興味をひいたのは、白洲次郎の特集記事だ。A氏:例の敗戦後の米軍占領時に、日本は負けたけれど、奴隷になったのではないと、マッカーサーに言うべきことは言ったということで有名な人だね。 多くの日本人は卑屈になったのにね。白洲氏の背景にあるのは「愛国心」だね。私:敗戦のときのサムライと言われたようだね。 知的な興味があったのは、この雑誌で白洲氏が敗戦後、いろいろ活躍したが、その評価を一勝三敗としていることだ。 まず、憲法のGHQ案に対して修正要求をしたが、これは押し切られた。1敗目。 次にサンフランシスコ講和のとき、昭和天皇の退位と吉田首相の退陣の要求をしたが、これもけられ、2敗目。 次に通産省を立上げ、日本の戦後の高度成長の基礎を作る。これが1勝目。A氏:3敗目は?私:戦後、日本はアメリカの不完全な進歩主義者のために、伝統文化を根こそぎにやられ、自由と放縦を混同する国家になったことだ。国という意識がうすくなったことだ。A氏:白洲氏は、サムライと言われているけれど、イギリスに8年いたのではないの?私:そうだね。だから、ダンディと言われていたようだ。 それで思い出したんだが、ベストセラー「国家の品格」の藤原正彦氏もアメリカ、イギリスと歩いているね。A氏:たしか、アメリカの大学で3年、イギリスの大学で1年かね。私:以前、藤原氏がテレビに出たことがあるが、興味があったのは、答え方が簡潔明瞭なことだね。 むしろ、あいまいでグダグダ言う、いわゆる日本的な姿勢でないね。 むしろ、欧米的な自己主張が明確な姿勢と共通していることを感じたよ。 ただ、欧米型の自己主張はうるさい感じだ。これは中国、韓国も似ている。 しかし、藤原氏の姿勢は、冷静に自己主張をする感じだ。A氏:武士道というのは、生死がからむから、明確な姿勢が要求されるのだね。私:白洲次郎氏も家庭では、きびしく日本的なシツケをしていたようだね。だから、3敗目は最大の後悔であったのではないかね。奴隷になったのかね。
2006.07.12
コメント(0)
6月7日の朝日新聞で、インターネットで伝えられているような、アインシュタインが日本を訪問したとき「一系の天皇を戴いていることが今日の日本をあらしめたのであり、私はこのような尊い国が世界に一ヶ所ぐらいなくてはならないと考えていた。」というのは、事実でないという記事が載った。これは「アインシュタインの予言」というのだそうだ。知的刺激をそそられ気になっていたが、そのままにしておいた。 今日、調べて驚いた。これはすでに昨年、2月から11月にかけて、インターネットの「萬晩報」で中沢東大教授が述べていることなのである。教授はアインシュタインがそのような政治体制に関心がなく、おそらく、ドイツの国法学者シュタインの誤解ではないかとしている。そのままの内容が朝日新聞に載っている。これは月刊誌「報知」の昨年11月号の雑誌に掲載されたものであるという。 そうなると、この朝日新聞の記事は2つの疑問が残る。 1つは、何故、半年以上もたって、ニュースとしてこれが載ったのかということである。ミスティリーである。 しかも、新聞記事はアインシュタインが天皇制についてほめたのは疑問視しているが、中沢教授が引用している肝心のアインシュタインが日本文化を高く評価した事実を書いていない。 彼が来日にした目的の1つは、ラフカディオ・ハーンなどで読んだ美しい日本を自分の目で確かめてみたい――とくに音楽、美術、建築などをよく見聞きしてみたいという点にあった。 その結果、彼は日本人の集団主義、自然との一体の文化など、日本文化を高く評価しているのは事実。これらは欧米がすでに失い、日本人はその後、次第に多くを失ったものであるが。 したがって、2つ目の疑問は、なんで、この独特な日本文化へのアインシュタインの高い評価を朝日新聞の記事はバランスよく報じなかったのか。これもミスティリーである。 ちなみに、藤原正彦氏「国家の品格」に似たような日本文化のすばらしさを外国の有名人が評価する記事があったように思ったので、まさかアインシュタインではないかと思い、さっと、また、目を通した。 アインシュタインの言葉は発見できなかったが、最後に「世界を救うのは日本人」というところで、駐日フランス大使を努めた詩人のポール・クローデルが「日本人は貧しい。しかし、高貴だ。世界でどうしても生き残って欲しい民族をあげるとするとしたら、それは日本人だ。」と昭和18年にパリで言ったと書いてあった。 その後、経済成長で、貧しさを失うとともに、これら外国の知性人が指摘した高貴を失ってきたのであろうか。まさに「国家の品格」が問題になっているわけであり、「世界を救う日本人」は消滅しつつあるのか。
2006.06.11
コメント(0)
A氏:2006.06.02の日記の朝鮮戦争のことを考えると、日本の敗戦後、約半世紀、朝鮮戦争あり、ベトナム戦争あり、カンボジャの二百万と言われる虐殺ありで、多くのアジア人が戦争で亡くなっているね。その間、われわれ日本の世代は学生時代、サラリーマン時代と平和だった。そしておかげで経済繁栄をした。平和ボケと言われるわけだね。それは自慢できることなのか、運がよかったことだけなのか、他人の犠牲で得られた平和なのか、正直言って微妙だね。 戦争で相手を殺すのは、通常の兵士だ。チャップリンが、戦争でたくさん殺せばヒーロー、平時では1人殺しても犯罪者という名言を残しているが、他人を殺すことには変わりない。私: 十数年くらい前だったかね。まだ、中国が今のように経済繁栄をしていないときに、2週間くらいの観光ツアーで中国を回ったことがある。そのツアーは主に石窟とか寺院とかを廻る旅だった。 ツアーの中で、俺より10才くらい年上の人が1人で参加していた。いかにも、真面目て平凡な市井人という感じの人であった。寺院などでは深く祈りを捧げていた。ちょっと、異常なくらいなので気になっていた。 そのうちに雑談でなんとなく出た話で、彼は「若いとき、私は一兵卒で中国の戦いに来た。中国兵を何人か殺した。しかし、そうしないと私が殺されていた。仕方がなかった。しかし、それは言い訳にならないかもしれない。せめてこの国の寺院でご冥福を祈るだけだ。」と話してくれた。 日中戦争や太平戦争時代では、年が少し違うだけで戦争経験が全く違うね。A氏:俺も、もう、10年早く生まれていたら、同じ運命だったかもね。 作家大岡昇平氏が、レイテ戦の戦闘で茂みに隠れていると、アメリカ兵は気がつかず近づいてくる。撃つかどうか迷っているうちに、そのアメリカ兵は別の方向に行ったので撃たないですんだという。殺さなかったのはちょっとした偶然だね。私:最近、ある中堅企業の社長さんと雑談をする機会があった。もう、80才を超えているのに元気だった。 戦争のときは20才台だが、中国に派遣されていた。あるとき、軍用トラックに兵隊十数名を載せて、夜の黄河の岸を移動していたら、運転手が運転を間違えてがけ下に落ちた。その人は最後部にいて、うつらうつらしていたそうだが、ぱっと目がさめて落ちていく途中の木の枝にしがみついて、九死に一生を得た。他の兵士は全員死亡。 また、あるとき、塹壕で鉄砲を撃っていたら、両サイドの兵士がやられ、その人だけ助かったという。その社長は言っていたね。「これだけ、偶然に命が助かると、俺には強い運があるのだと信ずるようになった。」しかし、中国兵を殺したことはなかったと言う。それも運かもしれない。A氏:映画「プライベイト・ライアン」(2006.05.18の日記参照)でトムハンクスの大尉が部下を戦いで何人か戦死させる。 大尉は、「部下を死なせることはつらい。しかし、俺の数人の部下の死のおかげで、数十人の味方の兵士が死なないで済んだと思って自分を納得させている。」というようなセリフがある。 しかし、その彼もこの映画では最後に戦死する。たった、一兵卒ライアンを前線から連れ戻すために---。だから、大尉は息を引き取るときライアンに「有意義な人生を送れ」と言い残す。監督のスピルバークは何を言いたかったのかね。私:それはおそらく犬死を嫌う心理だろうね。昨年の文芸春秋9月号を読むうちに、次の2つの質問にぶつかった。 問1.太平洋戦争の戦闘員の戦死者は、陸軍165万人、海軍47万人とされているが、このうち広義の飢餓による死者の比率は、次のどれか? a. 10% b. 30% c. 50% d. 70% 問2. 同じくこのうち海軍の海没者(海没とは、移動などの途中で輸送船が撃沈されて兵士が死んだことをいう)は18万人、陸軍は? a. 5万人 b. 18万人 c. 25万人 d. 40万人 どうだね?分かる?A氏:全然分からないね。私:俺も分からなかった。答えは、問1はd、問2はb。 陸海軍の死者の7割が餓死であり、陸海軍含め36万人の海没者がいた悲惨で冷酷な事実はどうしようもない。そして戦死者は敗戦間際に集中する。 この事実が靖国問題にあるね。あの戦争の戦死とは何か。中韓とは関係なく日本人自身が抱えた問題だね。 これで、ちょっと暗い話になったが、日本人が知らないといけない現代史の戦争の知的街道はひとまず終点としよう。
2006.06.05
コメント(0)
A氏:昨日の日記に、朝鮮戦争でトヨタが大いに利益をあげた話題があったが、もう、朝鮮戦争があって、何年になるのかね。私:1950年(昭和25年)6月25日の日曜日に北朝鮮の侵攻が始まったから、今月で56年目を迎えるね。もう半世紀を超えるんだね。この間、日本はこの戦争の需要(朝鮮特需)で高度成長への基盤を作り、10年後にはベトナム戦争の需要(ベトナム特需)が始まり、ついには世界第2位の経済大国になる。トヨタは今では世界のトップ企業の1つになる。 僕の手元にあるのは、ベトナム戦争などの報道で有名なジャーナリスト大森実氏の「戦争秘史」第8巻の「朝鮮の戦火」だ。これは今から25年前の発行だが、次の文章で始まり、25年後の日本を予見していたことが分かる。「1950年(昭和25年)6月25日は、日本の国家的性格と戦後の進路を決定づける歴史的な日となった。」A氏:九州を目の前にしたプサン(釜山)にまで北朝鮮軍が来たとき、今にも、北朝鮮軍が日本に上陸し、真っ先に税務署員が殺されるなどいう噂を当時、俺の兄貴がしていたくらい、一時緊迫した状態が日本にもあったようだね。私:大森実氏は、北朝鮮との関係が深い。氏は1941年に神戸高商(現在の神戸商大)を卒業し、日本窒素(現・チッソ)に就職する。当時、北朝鮮には同社の巨大工場があったんだ。 チッソの創業者、野口遵は、1926年に北朝鮮に行き、水と電力を主原料とする窒素生産をここで行うことを考え、巨大な工事を行う。 1929年、3大人造湖がつくられ、6万5千キロワットの大水力発電所が稼動する。そしてさらに、発電能力は、翌年には53万キロになる。太平戦争末期の1944年には、世界第2位の70万キロワットの水豊発電所が完成する。そして、日本の敗戦までに北朝鮮の総発電力は、200万キロワットにまでなる。 戦後高度成長期の1975年の日本の総水力発電量が2250万キロワットであるから、その巨大さが分かる。 この巨大工業力が、5年後の朝鮮戦争の際、北朝鮮の軍事力の背後にあったことは否めないだろうね。満州でもそうだが、日本の植民地化は、欧米の植民地収奪と違った面があるね。A氏:ところで38度線はどうして生まれたのかね?私:この本を読むと38度線で何故、南北が分かれたのか分かる。実は、それは歴史的な境界線で、明治の伊藤博文政権のとき、日清戦争後、南下するロシア勢力を阻止するため、対露妥協案が38度線であった。当時の日露議定書にあるという。 その後、日露は日露戦争で直接対決することになる。 日中戦争中、日本陸軍内でも、38度線の北側を関東軍が所轄、南側を第17方面軍が統括。敗戦でソ連軍が関東軍を、アメリカ軍が第17方面軍を解体し、すぐに、冷戦時代となり、次第に38度線を境に南北朝鮮が固定しだす。 38度線は、長い間、大国間の政治的な妥協で作られたもので、朝鮮半島を丁度、半分にする線なのだろう。A氏:大国の狭間にあり分裂した朝鮮国民の南北統一の歴史的な心情も分かる気がする。私:ところで、この本によると朝鮮戦争で北から進入してきた戦車は、最初、アメリカ軍のバズーカ砲の玉を跳ね返し、アメリカ陸軍兵士は恐怖におびえたという。北朝鮮の戦車はソ連の最新鋭のもので、その鉄板はアメリカのバズーカ砲ではびくともしなかった。あわてて口径の大きなバズーカ砲が作られ、補給され、ようやく効果を出したという。いかにアメリカがこの強大な侵攻を予想していなかったかが分かる。A氏:1昨年、朝鮮戦争50年で深夜のNHKで古いドキュメンタリー番組の再放送をやっていた。それを見たメモによると朝鮮戦争は4つの時期に分かれるようだ。 第1期は、北朝鮮軍が突然、38度線を越え、韓国とアメリカ軍を破り、一部は、日本海上に逃れたくらいに追い込まれる。 それが、北朝鮮軍の背後の仁川にアメリカ軍が上陸し挟み撃ち作戦をとるというマッカーサーの奇抜な戦略がとられ、これが成功し、北朝鮮軍は退却し、アメリカと韓国を中心とする国連軍は逆に38度線を越え北上する。これが第2期。 国連軍が、中国国境に近づくと、かねてから警告していた中国から、義勇兵と称して中国軍が北朝鮮軍に加わり反撃となる。中国とアメリカの戦いだ。これが第3期。膨大な中国軍が投入され、国連軍は後退しはじめる。これに対して、マッカーサーは中国本土の空爆や原爆の使用を言い出し、トルーマン大統領によって解雇。 しかし、中国軍の最後の人海戦術的な大攻撃は、徹底的なアメリカ軍の砲火、空爆などの火力による反撃で大きな損害を出し後退する。これが第4期。そして三十八度線で休戦となる。 朝鮮戦争は3年続き、朝鮮半島全土は戦火にさらされ、百万人を越える民間人が死んだというね。アメリカ軍も3万人を超える兵士が戦死。人海戦術で戦った中国兵は30万人を超える戦死者を出したという。私:朝鮮戦争は、私の世代では高校生時代だ。20年ほど前に韓国に仕事で行ったとき、通訳をしてくれた人は私と同年だった。 彼の高校生時代は3年続いた朝鮮戦争の真っ只中で、自動小銃の発射で青春が終わったと言っていた。彼は、最初は韓国軍にいたが後に北朝鮮軍に入り、最後はまた韓国に戻ったという数奇の運命を辿っていた。父母を失い、多くの親戚も失い、ついに正規の家庭を持つことはなかった。彼の最後の望みは、キャンピングカーで、韓国の田舎を流浪して暮らすことだったが、もう年だ。今、どうしているかね。身体は戦争で鍛えられていたから健康でいるだろうが。 いずれにせよ、戦争は一般市民が最大の被害者だね。
2006.06.02
コメント(2)
全270件 (270件中 251-270件目)