デフレの正体 0
原発 0
体罰 0
糖質制限食 0
全270件 (270件中 51-100件目)
ベルリン・オリンピック1936私:近代オリンピック創始者のクーベルタンは、普通のスポーツ選手権とオリンピックの違いは、近代オリンピックは荘厳な儀式が行われることだとした。 その点で、ベルリン・オリンピックは非の打ち所がなかったという。A氏:1936年8月1日に開会しているね。私:10万人を超すベルリンの学童が市内の校庭で行進しながら集合し、団体体操、障害物競走、団体バトン・トワーリングをした。 それは、きわめて組織化され軍事化された児童の姿だったという。A氏:独裁国家の一種のマスゲームに近いね。私:8月1日の正式な開会式は午後4時から予定通りにヒトラーが出席して行われた。 ヒトラーの姿を見た観衆は耳を聾するような歓声をあげたという。 世界各国の入場式があって、次にヒトラーの短い開会宣言があった。 それを合図のように、すごい勢いで式典と儀式が開始された。 ヒトラー・ユーゲントの団員が鳥かごを開けて2万羽の鳩を放した。A氏:しかし、ヒトラーの警備も厳しかったようだね。 2週間にわたる大会開催中、警備上の最大の心配は誰かがヒトラーを襲うかもしれないということだった。 40人の特別警備隊が編成され、必要なときには150人の刑事警察官を追加できるようになっていたという。 スタジアムの貴賓席は防弾ガラスで保護されていた。 しかし、この防弾ガラスの高さは胸までで、ヒトラーが喝采しようとして立ち上がるたびに危険な状態だったという。 水泳スタジアムでは、アメリカの老女がヒトラーが素敵だというので、彼のサインを求めに彼に近づき頬にキスしたという。 ヒトラーは後で護衛の数人を解任した。A氏:この警戒のひどさの反動で、後の1972年のドイツのミュンヘン・オリンピックのとき、ベルリン・オリンピックのときのイメージを全面的否定した運営となる。 このため、選手村も警備をきびしくしなかったね。 それが選手村をテロリストが簡単に襲う原因となったようだね。私:競技初日の8月2日には、オリンピック史上最大の11万人の観衆が集まった。 最初の競技は男子百メートル競争の予選で、アメリカのジェシー・オーエンスが出た。 彼はすでに世界的に有名な選手で、次々と世界新記録を塗り替え、「世界最速の男」として皆に知られていた。 ヒトラーは初日の優勝者を自分の貴賓席に招き、一人一人と握手して自ら祝った。 しかし、その後、オーエンスも含め、アメリカの黒人選手とは握手をしなかった。 ヒトラーは、ユダヤ人に我慢できなかったと同様に、黒人にも我慢できず、肉体を接触することを嫌った。A氏:しかし、オーエンスはヒトラーの悪口を言っていなかったそうだね。私:著者は、それはオーエンスが、アメリカでの黒人差別から、アメリカを嫌い、ヒトラーをむしろ尊敬していたからだという。 ところで、ベルリン・オリンピックのマスコミ活動で革新的なことはラジオ放送だね。 テレビ放送も実験されていた。A氏:ラジオ放送と言えば、例の「前畑頑張れ」という放送だね。私:この本では前畑のことは出てこないが、男子日本は水泳で圧勝するね。 そして、オリンピックのハイライトの男子マラソンは、日本の孫基禎選手が優勝するが、孫は韓国人で、優勝の後、反日的な発言で、その後、日本政府は、陸上競技に出ることを禁じた。 戦後、韓国のスポーツ界で活躍し、88年のソウル・オリンピックでは聖火リレーの最終ランナーとなるね。A氏:3位も韓国人の南昇竜だね。私:8月16日に、最後の競技が終わると、各国のメダル獲得数が明らかになった。 ドイツが33個の金メダルなどをとり1位、アメリカ2位、イタリア3位となった。 大会の閉会式は、平和と国際親善を讃えるものというよりも、ナチの党大会にそっくりに見えたという。 それは、この3年後、ドイツ軍がポーランドに侵攻し、第2次大戦ヘと拡大するのを暗示しているようだね。 明日は、ベルリン・オリンピックの今でも残る名映画といわれる「オリンピア」の話だ。
2008.10.17
コメント(0)
ベルリン・オリンピック1936私:実は、一度、IOCは1912年に1916年のオリンピックはベルリンで行うことを決定している。 当時、ドイツは実質的に皇帝政治体制だね。 この準備にとりかかったドイツの役員のうち、カール・ディーム(ドイツ帝国オリンピック委員会事務総長)と、政府の高官で政界にコネを持ち、後に36年のベルリン・オリンピックの委員長になったテーオドール・レーヴァルトの2人がベルリン・オリンピックで重要な役割を果たすことになる。 ディームは聖火リレーのアイデアを出した人だね。 しかし、レーヴァルトは半分ユダヤ人だった。A氏:ナチ政権下では問題だね。私:しかし、逆に、彼を重用したことで、反ユダヤ主義体制は、表面上は公明正大だという宣伝に使えることになった。 ところで、1916年のベルリン・オリンピックは、1914年に起きた第1次世界大戦で流れる。 特に、ドイツが毒ガスを使ったということで、反対が拡大し、IOCは1915年にオリンピックを中止することになる。A氏:近代オリンピックは、まさに「政治臭まみれ」だね。 だから、戦争後の1920年のアントワープ・オリンピックのときは、ドイツなどの戦敗国は参加できず、革命直後のソ連も不参加なのも「政治臭まみれ」だね。 1924年のパリ大会でもドイツは参加できなかったね。私:ドイツが参加できたのは、1928年のアムステルダム大会のときからだね。 カール・ディームはアムステルダムの大会参加をドイツ国民に呼びかける。 そして、アメリカについでメダル獲得数が2位となる。 当時、アメリカのオリンピック委員会の会長は、マッカーサー将軍であった。 マッカーサーはオリンピックを「武器なき戦争」と考えていたという。 しかし、獲得メダル数は1位とはいえ、華々しい戦果は得られなかった。 しかし、ドイツは、その活躍が認められ、さらに、テーオドール・レーヴァルトの招致活動が成功して、1931年にIOCが、ベルリンでのオリンピック開催を認めるまでこぎつけることができた。A氏:1932年のオリンピックはロスアンゼルスだね。私:この大会は、経済恐慌にかかわらず、今までにない広大な競技施設や「オリンピック村」の建設など斬新なものを生み出した。 ディームとレーヴァルトはこれらを見て、感心するとともに、ベルリンはもっとそれ以上のものにしようと決心する。 しかし、最大の問題は、その年に登場したナチ政権だった。A氏:ナチは民族差別がひどいから、理念として民族の祭典の意味など認めていなかっただろうね。 特に1932年のロスのオリンピックにはアメリカの黒人選手が大活躍したので、ナチは黒人と競うのを嫌っただろうね。私:それをディームとレーヴァルトはいろいろなテクニックを使って、ヒトラーに協力を頼むようにする。 次第に、ヒトラーは、それがナチの宣伝に使えるという点に価値を見出し、積極的になるんだね。A氏:しかし、一方で1933年、政権をとったヒトラーは反ユダヤ人運動を開始するね。私:これがアメリカでのベルリン・オリンピックのボイコット騒動まで拡大する。 この本によると、そのボイコット運動はすごいね。 しかし、ユダヤ人の差別を問題にしているアメリカが、黒人を差別しているではないかという議論もあったようだね。A氏:民族問題は北京オリンピックのチベット騒動と似ているね。私:だから、ドイツのギリシャからの聖火リレーも途中でいろいろな国を通過するのでいろいろトラブルもあった。 しかし、幸いなことに、ベルリン・オリンピックの前にドイツで開かれた冬季オリンピックでは、反ユダヤの表向きの姿は消えたし、ナチは報道統制をして一応成功した。 これが、夏のオリンピックのボイコットは最小限に抑えることができる一因となったようだね。 ヒトラーは冬季オリンピックには、開会式と閉会式に出席しているね。 夏のオリンピックには、ヒトラーは陸上競技場の設計まで口を出し、強力にオリンピックを推進して行くね。 明日は、そのオリンピックの話に移ろう。
2008.10.16
コメント(0)
ベルリン・オリンピック1936私:北京オリンピックは一応、トラブルなく、終わったね。 しかし、終わる頃から、去年から始まっていた金融恐慌が急速に深まったね。 この翻訳本は、北京オリンピック直前の刊行なんだが、図書館で借りたんで、待ちが多く、北京オリンピックが終わってから読むことになった。 原書の題名は 「NAZI GAMES THE OLYMPICS OF 1936」とあるので、直訳すると「ナチの競技 1936年オリンピック」とうことになるかね。 著者は、ドイツ史専門のアメリカの大学教授だね。 原書は昨年刊行されている。 A氏:1936年のナチのベルリン・オリンピックについては、すでに多くの本が出ていると思うが、ここで、また、出版され、翻訳されるというのは、一党独裁下の北京オリンピックがナチの独裁政権下でのベルリン・オリンピックを連想させるからかね。私:その通りだね。 著者は、北京オリンピック決定ともに、いろいろ論議を呼んだので、それに対して出版社の依頼で、この本をまとめたようだね。A氏:今月の文藝春秋(11月号)のトップの短編エッセイのはじめに毎回登場する阿川弘之氏の「北京五輪私感」では、氏はこのエッセイの冒頭で次のような趣旨を書いているね。 「中国がその威信を内外に誇示し、昔年の屈辱(阿片戦争、日清戦争以降度々経験済)から立ち直るための極めて政治的な祭典、そう感じていたので見たいという気が起こらなかった」私:そういう見方でヒトラーのオリンピックを見直すのも知的興味があるね。A氏:阿川氏は、この短いエッセイの最後で、イギリスのオリンピック担当大臣が「ロンドン五輪を国威発揚型の大会にはしない」と産経が報じているのを評価しているね。 そして、「ロンドン大会は北京五輪と正反対の政治臭のない、地味で落ち着いた『昔ながらの』オリンピックになるだろうと心が晴れた」とあるね。私:しかし、この本を読むとオリンピックの歴史は政治臭まみれだね。 『昔ながらの』オリンピックはほとんどないね。 この本は、500頁を越える大著だが、単に、近代オリンピックだけでなく、その裏にあった政治情勢、関係者の駆け引き、1900年代から、2000年代にかけての1世紀にわたる歴史的な変化、スポーツの変化など、多様な内容であきないね。 まず、トップは聖リレーから始まるね。A氏:ベルリン・オリンピックまでは、聖火リレーはなかったそうだね。私:実は、ナチの思想には古代ギリシャ人はドイツ系だというものがあったようで、ヒトラー自身、古代ギリシャの熱烈な崇拝者で、北からギリシャに移住したドーリス族こそ、ドイツ人の血を引いていると言い張ったという。A氏:そこから、ギリシャから聖火リレーをするというのは自然に生まれる発想だね。 その後、オリンピックで行われる聖火リレーとは趣旨が違うわけだね。 漢民族がギリシャ民族とは血縁関係はないだろうからね。 形だけ、引き継がれたのだね。私:ベルリン・オリンピックの次の1940年オリンピックの予定地は東京だった。 しかし、日本政府は軍の圧力で、1938年7月12日に1940年にオリンピック招致地になることを放棄する。 もう、政治臭いね。A氏:1938年というと例の「国民政府を対手とせず」の「近衛声明」が出た年だね。 5月には広田弘毅が外相を辞めさせられているね。私:当時の、オリンピック委員会は慌てて、開催地をヘルシンキに変更したが、1939年9月1日にドイツのポーランド侵攻で、第2次大戦へと走り出し、開催されなかったね。A氏:しかし、国際オリンピック委員会(IOC)はヒトラーのドイツのベルリンでオリンピックをやることに最初から問題を感じていなかったのかね。私:ベルリンでのオリンピック開催は1931年にIOCで決まっていた。 ナチが権力を握るのは1933年だね。 ナチは、最初、オリンピック運動の理念を軽蔑していた。 それがどう変わるのか、それは明日の話題にしよう。
2008.10.15
コメント(0)
広田弘毅 私:1937年12月2日、日本軍が南京に迫ろうとしているとき、蒋介石は日本の和平条件を基礎として交渉に入る用意があるとトラウトマン大使に伝えてきた。 これに対して、陸軍が南京に成功裡に進行しているので広田は、蒋介石に提示した和平条件を厳しくつり上げ出す。A氏:南京陥落の前に世論はわきあがるね。私:1937年12月13日、南京は陥落する。 東京では市民40万人もの行進がはじまる。 戦勝気分に酔いしれた国民の多くは、これで蒋介石との戦いは終わったと錯覚したろうね。A氏:しかし、これは、日中戦争の泥沼化、太平洋戦争突入、そして大量の死者、原爆投下という敗戦への道とつながる序曲だったんだね。私:南京陥落に気を強くして、広田は蒋介石との交渉条件を厳しくする。 蒋介石の回答が遅れているうちに、世論の高揚を背景に、1937年12月24日に、近衛内閣は、南京政府との交渉に期待せず、華北に傀儡政権を成立させる方向に転換し出す。 その頃、南京事件の情報が外務省に入った。 これを何故か、広田外相は閣議に提起しなかった。 これが後に東京裁判で問題なる。 広田の死刑判決の一因とも言われているね。A氏:蒋介石の回答が遅れているうちに、ついに、日本側はトラウトマン工作を打ち切る。私:それは1938年の1月16日で、同時に、「今後、国民政府を対手とせず」という有名な「近衛声明」となる。 ここで注意すべきは、「『相手』とせず」は「対手」となっていることだね。 これはあいまいな官僚用語だったが、後で内閣は、「相手」もよりも否定の意味が強いと説明を付け加える。A氏:このような強気は、南京陥落のせいかね。私:この本ではそういう説明だね。 しかし、「満州事変から日中戦争へ」1、2では、違った見方をしているね。 あまり、トラウトマン工作に日本がこだわると、海外から日本は弱腰だと思われ、対外為替相場と公債消化率に悪影響を及ぼすという見方だね。 戦争継続に欠かせない海外からの経済的補給の安定が必要だったという。 養老氏・竹村氏のいう、歴史を下部構造から上部構造を見る見方だね。 スパイ・ゾルゲも日中戦争を通じて、日本には近代的な戦力が強化されてきたことに気づいていたという。 今の北朝鮮のように、国民は苦しんでも軍備には莫大なカネをかけていたんだね。A氏:1938年6月には駐日中国大使館員が全て引き揚げ、日中間は断絶する。 近衛は「対手とせず」の脅かしが失敗だったことを知る。 そして戦争も泥沼化し出す。私:1938年5月に近衛に勇退を迫られ、広田はあっさりと外相を辞任する。 後任の外相となる宇垣一成は、広田を「無為無策」と酷評する。 後に政治学者猪木政道はその著書で 「ドイツに条件を示して和平のあっせんを頼みながら、南京占領後、真っ先に条件のつりあげをするなど、無定見、無責任である。 城山三郎の『落日燃ゆ』は広田のよい点が強調されているが、1936年のはじめころから、広田は決断力を失っていたのではないかと思う」 と述べているという。 これは後の話だが、1986年(昭和61年)に昭和天皇は「猪木の書いたものは非常に正確である。特に近衛と広田についてはそうだ」と宮内庁を介して当時の中曽根首相に伝えていたという。A氏:東京裁判での広田に死刑判決は、11人の判事で6対5の僅差だった。 他の死刑判決は7対4であるのと比較すると、すれすれだね。私:南京事件を知りながら、閣議に出さなかったというのが、特に判事の心証を害したのではないかという。 ところで、話は現時点にもどるが、麻生首相が決まったとき、中曽根さんが「首相になることは、後世の歴史にさらされることになることだ」と言っていたが、首相広田弘毅もそうだし、外相としても「後世の歴史にさらされた」ことになったね。A氏:東京裁判があったからね。私:昨日は、株価が8千円台に暴落。 麻生さんも、アメリカの金融危機で多事多難のときの首相だが、どうなるかね。 この本を読みながら、広田弘毅を連想したね。
2008.10.11
コメント(2)
広田弘毅 私:広田を首相にと重臣たちが推したのは、その頃、ソ連との関係に不安があったので、広田なら安心だという読みがあったようだね。 しかし、広田内閣は1936年11月、ドイツとの間で日独防共協定を締結する。 大義名分は、共産インターナショナルの破壊活動に対する防衛で協力するというものであった。 広田は、この防共協定に中国を参加させ、日中関係を改善しようとしたと考えられるという。 また、広田は軍事同盟にすると英米を敵に回すことになるので、軍事同盟にならないように強調したという。A氏:しかし、結果的には後の日独伊軍事同盟への道を開くことになるね。 広田はそのとき、閣外にあり反対したがね。私:蒋介石は、日独防共協定に不参加を表明し、ソ連は当然反発する。A氏:1ヵ月後に、張学良の「西安事件」で、蒋介石が中国共産党との内戦を停止して、抗日に転ずる。 広田が描いた防共を名目とする「日中提携」は完全に期待できなくなるね。私:日本国内は軍事費の増税で、農村の疲弊は進む。 1936年11月末には広田暗殺予備事件が起こるなど、広田内閣は内外で行き詰まってきた。 1937年1月の国会で、政友会の浜田国松議員と寺内寿一陸相との間に激論があり、「腹切り問答」に発展し、寺内が怒り、国会の解散を広田に要求する。 広田は抵抗して解散を選択せず、1月23日、内閣総辞職をする。A氏:在職10ヶ月半だね。私:紆余曲折があって、1937年6月、国民待望の近衛内閣が誕生。 近衛文麿は45歳。 近衛内閣の外相に広田の名前があがるが、広田は最初断る。 しかし、強く説得されて、引き受ける。 これが、この人の運命の岐路になったね。A氏:近衛内閣の誕生の翌月の7月7日、盧溝橋事件が起きる。 偶発的なトラブルだったので、現地では7月11日に停戦協定が成立した。 ところが、日本陸軍中央は、中国への派兵を主張し、近衛と広田は、これを簡単に認めてしまう。 停戦協定が成立する数時間前であったという。 陸相が近衛をひきずり、そこに広田も引きずられた。A氏:一方で、近衛は陸軍に対して、後手にならないように、華北への派兵を声明して、新聞、財界人に協力を要請するね。 俗に「先手論」というものだね。 近衛流ポピュリズムだね。私:7月20日の閣議で内地3個師団の派兵が決まる。 当初は反対だった広田も最後は賛成にまわる。 この広田の甘い態度に外務省の部下2人は、広田に辞表を叩きつける。 一方、戦線は華北だけでなく南に拡大して行く。A氏:8月15日に近衛内閣は、南京政府の反省を促すため、「断固たる措置をとる」という声明を出す。 8月17日に近衛内閣は「不拡大方針」を放棄することを決定するね。 11月12日に日本軍は上海を占領し、南京に向かい出す。私:この日本の動きに対して、国際社会は日本への批判を強める。 外相である広田は、なんとか日中交渉を行うように、個人的に親しかったドイツ駐日大使ディルクセンに日中の仲介を依頼する。 この広田の意向がトラウトマン駐華ドイツ大使に伝わり、日中の和平工作が始まる。A氏:これが有名な「トラウトマン工作」だね。私:明日はその話題から始めよう。
2008.10.10
コメント(2)
広田弘毅 私:広田の描く「日中提携」とは、日本陸軍とは一線を画しながら、汪兆銘らの親日派と連携し、政治と経済の両面から緊密な関係を構築しようというものだったという。 しかし、アジア主義ではなかった。 広田はケースバイケースの柔軟外交であって、特定の主義や理念によるものではない。 それだけに時代の波に流されやすい。A氏:幣原外交は対米英協調という基軸がしっかりしているし、重光は理詰めであるのと異なっているわけだね。私:広田外交のおかげで1935年の上半期は満州事変から太平洋戦争に至る間で、おそらく日中関係で最も明るいきざしがみえていた時期だという。 その象徴が1935年5月の駐華公使館から大使館への昇格で、これも広田の功績だね。 しかも、イギリス、アメリカ、ドイツにも駐華大使館への格上げを勧めた。 これにより、中国の国際的な地位は引き上げられた。A氏:対米英関係の改善と「日中提携」を同時に進める広田構想が結実した瞬間だね。私:汪兆銘は泣いて喜んだという。 しかし、これは広田が直接活動したもので、かねてから昇格に反対だった陸軍軍人は先に根回しがなかったとして、激怒する。 これが広田の中国政策の転落のはじまりとなる。A氏:広田は「対中国政策、すなわち対陸軍政策」であることを思い知ることになるわけだね。私:陸軍の反発は華北分離工作を始め出す。 満州だけでなく、中国北部を中国の国民政府から切り離して、勢力下に置こうとする陸軍の工作だね。A氏:広田対中外交の後退だね。私:汪兆銘らの親日派も没落する。 1936年になると広田外交に明るいきざしはみえなくなる。 広田が行き詰ったとき、2.26事件が起きる。 これがまた、広田の運命を大きく変えるね。A氏:この事件で岡田内閣は総辞職。 次期首相として、近衛文麿が推薦されるが、彼は健康上の理由で断る。私:そこで白羽の矢が広田弘毅に向けられた。 近衛は広田と外務省同期の吉田茂を広田の説得に行かせる。 こうして、1936年3月5日、天皇から組閣の大命を受ける。A氏:しかし、近衛が断ったほどの内外で難題をかかえているときに、首相の座をなんで広田は受けたのだろうね。 「火中の栗を拾う」ことになるのは明らかなのにね。私:東京裁判の記録によると、それは2.26事件を起すような陸軍に対する怒りであったという。 しかし、組閣人事に陸軍が介入し出す。 吉田茂を外相にしようとしたら、親米派だということで陸軍が反対。 これは諦める。 なんとか、妥協しながらも押し切って一応組閣を終える。 2.26事件による政治的な空白を12日で埋めた広田の功績は大きい。 広田内閣の活動がどうであったかは明日の話題にしよう。
2008.10.09
コメント(2)
広田弘毅私:この新書版は何かの書評を見て、図書館に予約してかなり待って借りたよ。 広田弘毅は、作家城山三郎氏の「落日燃ゆ」で有名だね。A氏:東京裁判で、絞首刑を宣告された7名のうち、広田弘毅だけが文官で、後は東条英機を始め全部陸軍軍人だね。 その広田弘毅の高潔な生き様を描いたのが「落日燃ゆ」だね。私:「落日燃ゆ」が出たのが、1974年で、毎日出版文化賞を受賞しているね。 ところで、この新書版の著者の服部氏は、1968年生まれだが、この本を高校時代に読んで、広田弘毅に感銘を受けたという。 しかし、日本外交史など、自らの研究が進むと、違和感を覚えるようになり、やがて、「落日燃ゆ」ヘの畏敬の念は薄らいだという。 俺は「落日燃ゆ」は読んでいないのだが、高潔な昭和の人物の代表例としてよくあげられえることが多いので、興味をもったね。A氏:城山氏は昨年3月になくなっているが、生きていて、今、この本を見たら驚くかもね。私:この本は、著者の研究成果として広田弘毅の生まれから、絞首刑になるまでの歴史的な事実を詳細にまとめ、広田弘毅のいわば、虚像と実像を明らかにしているね。 広田弘毅は、昭和の外交に深く関わっていたので、この本はある意味で昭和の日本の姿が国際的な視野で知ることができるね。 昭和外交史だね。 特に日中関係のところは詳しいね。A氏:広田弘毅は、福岡県の石屋の長男として生まれたね。 極貧だったそうだね。私:ところが、著者は資料をもとにそれほど貧困でなかったのではとしているね。 1895年、三国干渉が起き、これが軍人志望だった広田を軍事よりも外交が強くないとダメだと感じさせて、外交官志望に変わった転機となる。 福岡には国家主義的な団体で右翼の草分けと言われた「玄洋社」があったが、高校時代は、この柔道道場に通った。 外交官になるには大学に行かなくてはならない。 その学資を玄洋社の平岡浩太郎からの援助で得る。 後に外交官となって、名家との縁談を断り、この玄洋社の月成功太郎の次女静子と結婚する。A氏:敗戦の翌年、東京裁判開始とともに、妻は自害するね。私:外務省の系譜からすると、広田は傍系であり、満州事変がなければ、外務大臣にすらなっていなかっただろうという。 時代の波が彼を押し流したのだろうかね。A氏:1932年(昭和7年)に5.15事件が起こり、犬養首相が射殺される。 これが政党内閣の最後となった。 次の首相は斉藤実海軍大将で外務大臣は内田康哉。 内田大臣のときに満州国を承認し、国連を脱退する。私:老齢の内田大臣は、過労気味だったので、当時、外務次官の重光葵に適切な後任に誰かいないか質問したら、広田弘毅の名前が出た。 そこで、内田は、斉藤首相に辞意を表し、広田を後任の外相に推した。 別に有力な候補がいたが、広田が主流の幣原派の系譜でなかったから推薦したという。 親米派の幣原派と距離を置いていたことが幸いして外務大臣となったとみられる。 こうして、広田は1933年、昭和の日本の政界の中心に登場することになった。A氏:1934年、斉藤内閣は帝人事件という汚職で総辞職し、岡田啓介海軍大将内閣となるね。私:広田は留任。 1935年、ソ連から北満鉄道を買い取ることに成功して、満州国の鉄道が満鉄で一元化する。 これは広田の外交による功績だね。 次に功績があったのは、「日中親善」だね。 これは明日にしよう。
2008.10.08
コメント(0)
A氏:昨日の朝日新聞の国際経済面では、アメリカ政府と議会が、金融業界に対する規制や監督を強化する方針であることを報じているね。 「金融救済法」が成立したのを受けているね。 オバマ、マケイン両大統領候補も同じ考えだね。 君は、「ドル帝国の黄昏が始まった」のブログで、「先週のサンディーモーニングをちらと見たが、コメンテーターの田中秀政氏が、『これらのカネには檻が必要だ』と言っていた」とあったね。 「2008マネー潮流」でも榊原氏が同じことを言っていたね。 自分勝手な動きをしていた「マネー」をアメリカは檻に入れるようだね。 私:ついに「檻」に入れないとダメか。 この「檻」の話が出たのは昨年の11月だから、どんどん、アメリカの金融危機は悪化して、ついに政府が乗り出すまでになったね。 昨日の朝日新聞の一面で、朝日新聞の主筆の船橋洋一氏が長い論評を書いているが、今回の金融危機の問題点がよくまとまっていると思うよ。A氏:俺も読んだが、出だしが「これは明らかに何かの終わりと1つの時代の終わりを告げている」と始まっているね。 見出しが、「無極化する世界」とあるように、アメリカの「一極」時代から、「無極」化時代に入ったと言うことだね。 君のこの知的街道は一昨年の非正社員の拡大、派遣社員の増大など「賃金格差の背景」から始まったね。 その源流に「市場原理主義」があることにたどり着いて、そこから「グローバリゼーション新自由主義批判事典」、「悪夢のサイクル」、「国家の堕落」、「働くということ」などとつながる。 榊原氏はこの「市場原理主義」の行き詰りが出たと言っているね。 共産主義が失敗したと同様だね。私:船橋主筆は、減税と規制緩和を2本柱とする1980年代のレーガノミックス(新保守主義経済政策)は根本から見直しを迫られるだろうと言っているね。 今、アメリカはイラク・アフガニスタンの泥沼と「レーガノミックスの崩壊」を前にぼうぜんと立ちすくんでいるという。A氏:すぐ11月は大統領選挙だね。私:アメリカがどういう選択をするかは分からないが、大きな時代の転換の舵取りをする大統領になるだろうね。
2008.10.06
コメント(2)
江戸の御触書 私:この本は、「日本人のリテラシー・1600-1900」1.2.3の知的街道の流れだね。 江戸幕府のときに、庶民に幕府は法令を文書で示していたが、その内容と庶民にどのように伝えられたか、関心が生まれたね。A氏:映画やテレビの時代劇を見ると、庶民が「高札」の前に集まるシーンがよくあるね。 人相書きも掲示されたりしているね。 中には、字が読めない者がいて、読める者に読んでもらっているシーンもあるね。私:江戸幕府が庶民に公布される法令や規制を伝達するのが「御触書」だね。 「御触書」は老中から出された「惣触(そうぶれ)」と町奉行から出された「町触(まちぶれ)」とに分かれるが、庶民に伝わるのはすべて町奉行経由だから、庶民は区別がつかず、すべて「町触」と呼んでいたという。A氏:「町触」が町奉行から庶民に伝達されるのは「高札」に貼り出す方法なのかね。私:いや、基本は次の経路だね。 町奉行→町年寄→名主(なぬし)・月行事(がちぎょうじ)→家主(いえぬし)→店子(たなこ・庶民) 名主は今の町内会長、自治会長。 月行事は、5人組の月当番。 家主までは、文書だが、店子には家主が口頭で伝えていたようだね。 店子には文字が読めない者がいたからだね。A氏:「高札」はどこにいったのかね。私:重要なものは「高札」を併用して使ったらしいね。 江戸には40箇所くらいあったという。 この本は、江戸時代に出た「町触」の例を約100くらいあげているが、まさに、違った角度から江戸時代の庶民の姿を詳しく知るには重要な史料だね。 とにかく、経済問題、いろいろな犯罪、風俗、飢饉、天災からあらゆる庶民の生活に「町触」が出ていてそれが残っている。 原文では読みにくいので、この本では現代語に直しているので分かりやすい。 1853年(嘉永6年)にペリーが浦賀沖に4隻の黒船で来たときには、庶民は陸はもちろん、船まで出して野次馬見物をしていたようで、それを禁止する「町触」が出ている。A氏:庶民は、黒船を恐れなかったらしいね。私:犯罪捜査には、懸賞金がやたらに出ているね。 内部告発も奨励されている。 ところで、江戸後期になると、幕府は農村の荒廃を恐れ、農村から江戸への出稼ぎを制限しはじめる。 その「町触」が出ている。 出稼人のなかでも相模国出身の「下女(げじょ)」、信濃国出身の「下男(げなん)」が有名だったという。 冬になると町に出てきて、春作になると山に帰って行く。 だから、「椋鳥(むくどり)」と呼ばれた。A氏:「日本人のリテラシー」によると、江戸から明治にかけて信濃国が山国なのにリテラシーが高いのは、そのせいかね。私:リテラシーと言えば、「寺子屋」についての「町触」がある。 「寺子屋」は上方での言い方で、江戸では「手習師匠」と言われたという。 その「手習師匠」に「寺子屋に来る子どもをえこひいきするな」という「町触」が1843年(天保14年)に出ている。 要するに、武士の子であろうと町人の子どもであろうと平等に教えよということだね。 親の自己責任にするなということだね。A氏:さすがに、江戸期は、教育重視だね。 教育に「士農工商」はないね。 フィンランド方式だね。 ところが、今の日本は、先進国で教育予算は二十何位かで最低だという。私:教育格差も自己責任となってきているようだからね。
2008.09.21
コメント(0)
日本人のリテラシー私:明治期の徴兵試験のときの読み書きの試験結果は、「陸軍省統計年報」がある。 1899年から1904年のものが掲載され、分析されているね。 1904年には、日本全国が54連隊に分かれていて、その連隊別のデータがある。 連隊は大体、県の区分に似ているね。 1899年のデータによると非識字率が高い(リテラシーが低い)連隊区は、沖縄、高知、鹿児島、大村、松山、丸亀。 逆に、低い(リテラシーが高い)連隊区は仙台、津、長野、福島、静岡、豊橋、福岡だね。A氏:ここにも山国の長野が登場するね。私:非識字率は年とともに低下するが、その低下率も地域差があるね。 大阪、京都については、さらに郡部レベルの細かいデータがある。 大阪は総合では非識字率は高いが、もっと細かい地域別に見ると、商業地区の非識字率は極めて低く、工業地区が高いため、平均では高くなっている。 これらのデータについては、著者はいろいろ原因を推測しているね。 こないだの全国学力テストで大阪府は点が低かったので、橋本府知事は、学校別に発表すべだと言っていたが、この明治期と同様に、大阪府内でも地区による格差はあるのではないかね。A氏:ところで、明治の頃、試験は具体的にどのような問題が出たのかね。私:国語は漢字交じりの1行の文章の意味の理解だね。 例えば、高等小学校卒程度だと次のようになる。 これは京都での試験問題だね。 国語は 「我ガ神聖ナル相宗ノ遺訓ト我ガ光輝アル国史ノ成跡トハ炳トシテ日星ノ如シ」 算術は 「12人の職人がかかって12日に出来る仕事を人数を三分の一に減らしてするときは幾日で出来るか」A氏:当時だからだろうが、漢字は難しいね。 大卒の俺は「炳」など、漢和辞典をひかないとわからないね。私:高等小学校2年修了、すなわち、学校教育8年未満の人に対する問題は次のようだね。 国語は 「知能ヲ啓発シ徳器ヲ成就ス」 算術は 「五分利附額面20円の国庫債券7枚を所有している人は1年幾らの利子を得るか」 これが、小学校6年修了程度になると、もっと簡単になる。 国語は「• 拝啓、本日午後1時より学校に於いて報徳講演会開会候間御出席相成度候也• 売捌所は、韓国及満州にも設けたり• 勅語、呼吸、加藤清正、米価下落、京都府知事」算術は 「米2石五斗売り、さらに1石8斗売れば初めの有高の半分になるというとき、最初は幾らあったか」 小学校2年程度(やや読み書きが出来る者)では次のようなレベルの問題が出ている。 国語は 「カラダ、おほさかし。人。赤十字しゃ。青年会。日本のこっき。金銭出入帳。無用のもの入るべからず。」 算術は 「1週間に4円20銭のちんせんをとる人は1日ならし、いくらちんせんをとることになるか。」A氏:問題に時代背景を感ずるね。 しかし、このようなテストをして、国をあげて教育に熱心であったのだね。私:リテラシーは著者のいうように、20世紀初めまでは日本では一律でなかったようだね。 それにしても、明治維新を起こした薩長の地元である、鹿児島は非識字率が高く、山口は低いのは、薩摩は武士や村落上層部が中心で、長州は奇兵隊など民衆のレベルが高かったのだろうかね。 専門書だが、シロートの俺も知的興味をひかれたね。
2008.09.09
コメント(0)
日本人のリテラシー私:18世紀には、17世紀同様、リテラシーの中心は村落の指導層であったが、その質が、大きく変わった。 元禄時代以後、急速に発展した大都市の文化に近づこうと、そのリテラシー能力を発揮した。 儒教や仏教・国学や医学・和歌や俳句の学者になり、都市と農村の重要な文化的な架け橋となる。 また、寺子屋の支援者で、その師匠となり、19世紀には普通の農民にまでリテラシー能力を浸透させる。 しかし、一方では、普通の農民とのリテラシーの格差も拡大する。 著者はこれを「2つの文化」としている。A氏:寺子屋はまだ、拡大しなかったのかね。私: この時期は、学ぶということは、家の私事だったので、後の寺子屋のように身分の低い人々と共有するのは、17世紀末から18世紀まで待たねばならなかったという。 民衆の学びと文化の点で19世紀と18世紀とをはっきり区別するのは、寺子屋の興隆であるという。 寺子屋は大阪、江戸、京都といった都市に集中し、また信濃のような特定の地域にも多くみられたという。A氏:長野県は教育県と言われることがあるが、原因は何かね。私:この本ではそこまではふれていないようだね。 問題は就学率よりも、中味だという。 農村では、農繁期には寺子屋に就学しても、子供は畑仕事で寺子屋にいけない。 だから、寺子屋が多く、就学率が高いからといって、リテラシーが高いとは言えないという。 また、女性の就学率は地方に行くほど、低い。A氏:1856年の開国以降、日本に来た欧米人の紀行文は、大抵、日本人のリテラシーが高いことを記述しているね。私:著者は、それをあまり評価していないようだね。 19世紀になると、農民の多数を占める小農までリテラシーが求められ、向上することになる。 しかし、村落指導者とのリテラシー格差はまだ残っているという。A氏:1871年、文部省が設置され、1872年に全国的な学校制度を定めた「学制」が発布される。私:当時の文部省が調査させたリテラシーの調査がある。 明治期のリテラシーに関する調査資料で最も早いものは、1877年から1893年にかけての滋賀県のもの、1887年から1893年にかけての岡山県のもの、そして1884年から1889年にかけての鹿児島県のものの3つがあるという。 これによると、非識字率が高いのは80%台の鹿児島、40から50%台の次に岡山、滋賀は30%台と低い。 いずれも年毎に非識字率は低下している。 男性の非識字率が高いところは、女性も高い傾向にあるという。 このデータを見ると、リテラシーは地理的要因が決定的であることになる。 この調査で、1872年に義務的な民衆教育が始まって数十年まで、日本の各地で全く読み書きができない人々が存在していたこと。 そして地域的な差異が大きいことがわかる。 ところで、1873年に政府は徴兵令を発布する。A氏:徴兵令とリテラシーと関係があるの?私:徴兵令には、新兵のリテラシーに関する試験を行う規定があった。 このデータが重要だね。 後に文部省は、このデータの利用を考える。 これが日本の組織的学力試験の嚆矢だという人もいるそうだ。A氏:昨年の小学校、中学校の全国の学力テストも歴史は長いね。私:明日はその陸軍の新兵試験のデータから、日本人のリテラシーをみてみよう。
2008.09.08
コメント(0)
日本人のリテラシー私:何かの書評で興味を持って図書館から借りたよ。 借りてみたら日本の教育史の専門書で、約300頁と厚い。 しかし、訳者が平易な訳をこころがけているせいか、読みやすいね。 著者がアメリカの学者である点が特徴だね。 日本の研究者の盲点をつくようなことを書いているようだね。A氏:リテラシーとは「読み書きの能力」だね。 明治維新の成功の一因として、日本人の「読み書きの能力」が高かったことがよく言われるね。 それが江戸末期の多数の「寺子屋」と関係があることがよく指摘される。私:この本は、16世紀最後の20年間にかけて行われた豊臣秀吉の兵農分離の頃から、20世紀のはじめの日露戦争あたりまでの、日本人のリテラシーを詳細に論じているね。 データが示されているので分かりやすい。A氏:戦国の武将の手紙などが今も残っているから、武士はかなりリテラシーが高かったのではないのかね。私:そういう研究は日本の研究者がかなりやっているらしいが、著者が興味を持っているのは、農民階層のリテラシーだね。 それも貧農だね。A氏:そういう昔の農民などの民衆のリテラシーはどのように調べるのかね。私:まず、署名や印鑑だね。 よく武士の書いた文書の後に、サインがあるね。 日本では花押(かおう)と言っているが、漢字をもじって真似のできないように独自の形にしているね。 ところで、庶民がサインをするチャンスが日本にはあったんだね。 その資料が残っている。 世界的にも珍しいという。 それは「宗門改帳」というもので、17世紀初期から19世紀半ばまで用いられた。A氏:1639年、幕府の鎖国令でキリスト教は禁制される。 1665年、幕府は全国の藩に、全ての人がキリスト教徒でないことを記録することを命じ、1671年には、それを毎年報告するようにさせた。 これが「宗門改帳」で、あらゆる人が寺院に属し、キリスト教徒ではないことを証明することを目的としていたものだね。私:これは、明治の初めの戸籍の基礎になり、現在に至っている。 この「宗門改帳」がまだ、多く古文書として残っているらしい。 また、キリスト教を棄教する誓いとしての「南蛮起請文」というのもある。 これが研究の対象になるんだね。A氏:しかし、貧農まで「花押」をサインできないだろう。 サインするにはある程度、読み書きができないと不可能だからね。私:ところが、17世紀中頃から、日本では署名や花押の代わりに文書に印鑑を多く用いるようになる。 これは欧米がいまだに、サインを用いているのと大きく相違しているね。 著者は日本で印鑑がサイン代わりに使われるようになった理由を2つあげている。 1つは、商取引などのときの便利さ。 もう、一つは、上から何かを民衆に通達するとき、理解した証拠として、印鑑を名前の後に押させたためという。A氏:「宗門改帳」に「花押」が多ければ、リテラシーが高いということになるのかね。私:「宗門改帳」などの署名資料を手がかりにすると、世帯主がかなりリテラシーが高いという。 城下町ができ、都市化が進むとさらにリテラシーは拡大する。 農村でも指導層のリテラシーは高い。 しかし、著者は、貧農や女性のリテラシーは高くないとみているね。 印も花押でなく、筆の頭が円形なので、それに墨を塗って丸印として押しているのもある。 明日は、18世紀の農書や家訓、地方の文人に話題を移そう。
2008.09.07
コメント(0)
私:幼稚園年長組の孫が夏休みで泊まりこみで遊びに来ていたので、17日のTBSテレビの関口宏のサンディーモーニングの録画を今日見たよ。A氏:俺は当日見た。 最初、敗戦直後の8月17日に組閣された東久邇宮内閣のメンバーの写真が掲げられて、コメンティターの意見が述べられていたね。私:敗戦直後の敗戦処理内閣だね。 普通、よく見る組閣時の閣僚の写真は、ひな壇に並ぶ正面からの写真だが、何故か、この写真は、ひな壇を斜め横から撮っている写真だったね。 白黒写真のせいもあるのか、暗い感じだね。 閣僚の姿勢はやや下向きの感じで、呆然としている感じだったね。 首相の東久邇宮殿下はアメリカ留学経験もあり、アメリカの技術力はよく知っていたというね。A氏:俺も見たが、数人のコメンティターのほぼ一致した意見は、まだ、この戦争の総括を日本はしていないというものだったね。私:俺はおかしいのは、立派な大人でしかもコメンティターとしてテレビに出ている人も、個人的に総括をしていないということだね。 何か総括していないことを他人事のように批判しているね。 評論家の最悪の一面を見た気がしたよ。 コメンティターの一人ひとりに「では、あなたはどう総括しているのか」と聞きたいね。 司会の関口宏氏は聞いていない。 ご本人も総括していないだろうか。A氏:その点、自民党の古賀誠議員の「靖国問題」に対する意見は明快だね。 当日、続いて見たテレビ朝日の田原総一郎のサンディプロジェクトに出て発言していたが、 A級戦犯の分祀をして靖国神社を国の追悼施設として位置づける、というものだね。 良し悪しは別にして、これが彼なりの戦争の総括だね。 だから、別に無宗教の国立墓地を立てることに反対だね。私:古賀氏の父親はレイテ島で戦死しているね。 東久邇宮殿下は、この内閣で「敗戦の一億層懺悔」として太平洋戦争を総括して、物議をかもしたね。 しかし、そういう一面もあったね。 ドイツだって、ヒットラーの総括は難しい。 何故なら、彼を選挙で選んだのは当時のドイツ国民の多数だからだ。 ユダヤ人の虐殺だって、多くのドイツ国民にあったユダヤ人嫌いが根底にある。A氏:歴史はそう簡単に総括できないということかね。私:多面的な事実を知り、今後に生かすしかないと思うね。 しかし、歴史は繰り返すという。 グルジョアでまた、戦争が起きたね。 人間の「業」かね。
2008.08.21
コメント(2)
私:先週、なんとなく、テレビ・チャンネルを回しているうちに、NHKTVで日本のフォークの特集をやっていたのがひっかかった。 フォークの聞きなれた歌が次々に登場するので、興味がなく、他にチャネルを回そうとしたら、司会のアナウンサーが「後で、フォークの神様の岡林さんが出演する」と言っていた。 俺はこの歌手の名前を知らない。 あわてて、新聞のテレビ番組を見ると確かに「フォークの神様・岡林信康出演」とある。 そこで、どういう歌手かと知的興味をひかれ、途中から見たよ。A氏:俺も知らないね。 フォークと言うと、谷村新司、南こうせつ、堀内孝雄などしか知らないね。 俺たち世代は、彼らフォーク時代の1つ上の世代だからね。私:岡林信康は、番組の後のほうで登場したね。 「山谷ブルース」をはじめ、いくつか歌ったね。 初めて聞いたが、なるほど、フォークの神様と言うだけあるね。 現在、成功している多くのフォークの歌手が彼の歌を聞いてショックで、その影響を受けたという。 もっとも、本人は神様が一番売れなかったと笑いながら言っていたね。A氏:ウィキペディアによると岡林信康は1946年生まれだから、敗戦の翌年生まれだね。 だから、戦争体験はないが、全共闘世代、団塊の世代だね。 だから、もう60歳代だね。 谷村新司が1948年生まれ。 堀内孝雄と南こうせつが1949年生まれ。 これら世代の小泉首相、竹中平蔵が、後に格差拡大、ワーキングプアを生み出す。私:ところで、昨夜9時頃、なんとなく、TV番組を見ていたら、NHKの衛星放送のほうで岡林信康のライブの再放送をやっていた。 すでに7時から始まっているから、後、15分くらいしかない。 あわてて、チャンネル回す。 「えんやとっと」というのと、もう一つ、似たような曲を歌っていたね。 三味線、笛、和太鼓がバックにあるね。A氏:フォーク歌手としては変わっているね。 いろいろインターネットで調べたけれど、まさに、波乱万丈の音楽人生だね。 途中、演歌にも関係し、美空ひばりの歌も作っていたという。私:昨夜のは、日比谷野外音楽堂のライブの録画の再放送だった。 多くの観客が来ていたね。 若い人も多かった。 今、小林多喜二の「蟹工船」が売れているそうだが、この人の初期の歌は、山谷の労働者や部落民などを扱った歌が多いね。 当時、人生に悩んでいる人を勇気付けた歌かもしれないね。 岡林信康は今年デビュー40年ということで復刻版が売れているらしいね。A氏:秋葉原無差別殺人事件の加藤被告は、こういう音楽を知らなかったのかね。私:人生は孤独で悩みも多い。 だから、人は娯楽を考え出した。 祭り、演芸、芸術だね。 芸術家は、生産しないが、生産する人にそのエンターテイメントで勇気を与える。 そういうミュージシャンが減ってきたのかね。 歌も消費物資になってしまったのかね。 若い岡林信康2世が登場し、ネットカフエ難民や派遣社員を勇気付ける歌を歌ってくれないかね。 この世の中、そういう本格的なエンターテイナーが必要だね。
2008.08.15
コメント(2)
アフリカ苦悩する大陸私:アフリカのエイズの蔓延は、なかなかやまない。 それが働き手に蔓延しているので、経済的にも問題が大きいようだね。 ところが、ウガンダとセネガルでは、エイズは抑制されつつあるという。 特に、ウガンダは貧困国にかかわらず、抑制に成功している少ない例だという。A氏:ウガンダは、有名な暴君アミンがいたのではないかね。 1970年代から80年代にかけて、80万人の国民が殺され、また、兵士に農作物を略奪されて餓死したという。 その国がどういう手をうったのかね。私:ムセベニ大統領になって、エイズの脅威が問題になった。 幸いに、1980年代に識字率が51パーセントだったのが、1998年には65パーセントになったので、エイズの脅威のポスターの掲示などは、効力を発揮するようになった。 エイズ予防のためのNGOの活動の自由も保証された。 学校での性教育も盛んになった。 1992年から2002年の間に、エイズ感染率は30パーセント近くから、約5パーセントまで急落したという。A氏:カネの問題でなく、やはり、政府の力の入れ方の違いかね。 ところで、アフリカでは民族・部族問題もネックになっているようだね。私:伝統的にアフリカは民族の多い大陸だが、植民地化が進むまでは、部族間の紛争はあっても基本的に話し合いで解決してきた。 それが、今になって、血で血を洗う争いになってきているね。A氏:ルワンダのフツ族とツチ族との殺し合いはナチのホロコースト以上の虐殺を生んだね。私:著者は、部族主義は、それ自体悪いものではなく、郷土愛、部族への帰属意識は必要だという。 郷土愛、民族への帰属意識を失いつつある日本の問題点を考えると、それは確かだね。 しかし、全国民を代表する政府となると話は別で、特定の部族を優遇すれば、とたんに国家の理想は破綻する。 政治経済が部族の対立をあおることになる。A氏:部族対立にも政府のやり方がからんでいるんだね。 政教分離が必要かね。私:著者は、タンザニアが比較的、部族と国家の分離に成功している例だという。 タンザニアには120の民族集団があり、それぞれの文化を持って暮らしているが、独立して数十年たっても、殆ど、民族対決による流血がない。 初代大統領のニエレレは、民族問題を政治に持ち込めば、国が分裂することを見通していたようだという。 多くのアフリカ諸国の首脳は、権力の座に居座るために、部族対立をあおった。 しかし、ニエレレ大統領は、逆に対立をなだめようとして、スワヒリ語を唯一の国語とし、民族を対立させるような言動を閉め出したという。 もっとも、これができたのは、彼の一党独裁政権だったからという理由もあるという。A氏:アフリカでは、複数政党制は階級的な利害や理想をめぐって政策を争うのでなく、民族問題が政治化することになってしまうのだね。私:この本の最後で、あるアフリカの19歳の青年の話を紹介して終わっているね。 その青年は「一生懸命働けば、日本のように豊かになれる」と著者に言ったという。 日本をよく研究していた著者は、この青年に「日本人は西洋に追いつくまで1世紀も苦労を重ねたのを知っているか」と忠告した。 しかし、その青年は、ただ肩をすくめて言ったという。 「僕らだってできるさ。 それになんといっても、戦いなんかしているよりも、ニワトリを育てているほうがずっといい」 この青年は、兵士で多くの戦闘をしてきた後、ニワトリを育てて商売を始めるようになったのだね。A氏:日本人は西洋に追いつくまで1世紀もかかったというが、それは明治維新からのことだろうね。しかし、その前に、寺子屋など江戸時代の力が大きいことを著者はあまり意識していないようだね。私:アフリカには、まだまだ、多くの解決すべき大きな問題があるね。
2008.08.12
コメント(0)
アフリカ苦悩する大陸私:原書は2004年の発行なので、訳では、注でその後の変化もふれているね。 原著のタイトルは「The Shackled Continent」だから、直訳すると「鎖でつながれた大陸」とでもいうのかね。 著者は、アフリカ専門のジャーナリストだけあって、アフリカの現地を飛び回り、よく知っているね。 その点でアフリカを具体的に知るにはいい本だ。 しかし、300頁の大著だから、ちょっと通読するには時間がかかるね。A氏:アフリカは、50を超える国があり、それぞれに個性があるので、問題は多様だろうね。私:貧しい国は、どうやったら、豊かになるか。 それを知るために、著者は日本に来ているね。 大学で日本語と経済学を学んだ。 日本に来て、明治維新から敗戦で奇跡的な経済成長を遂げた歴史を知るためだね。 しかし、著者は、アフリカ現地の実態を見ないとわからないということで、アフリカ取材に回ることになる。 そして、多くの国をまわり、アフリカが今、貧しいのは政府に問題があるからだというのが著者の総括的な意見なようだね。A氏:君が以前、「ジンバブエ選挙強行」ということで、ブログでとりあげていたジンバブエの政治などはその例かね。私:アフリカの多くの政府は、国民を食い物にしている。 多くの場合、国で一番の大金持ちは大統領だという。 地位にものを言わせて、富をためこんできたという。 ジンバブエはその代表的な国として、ムカベ大統領の政治の問題をこの本のトップで扱っているね。 ジンバブエの食糧危機は天候のせいではなく、政治のせいだという。A氏:大統領になって冨をためこんだら、地位を手放すことはしないだろうね。 人間は性欲と食欲に限界があるが、カネの欲望には限界がないからね。私:ジンバブエの大統領は選挙で選ばれる。 だから、政治が悪ければ、選挙で落される。 しかし、それでは大統領は富を失う。 だから、野党の徹底的な攻撃と、不公正な選挙の実施となる。 一応、ジンバブエは国連決議で大統領選挙が公正でないと指摘されている。 ようやく、先月末に、ムカベ大統領が、南ア大統領の仲介で、野党党首と話し合いをするところまで、こぎつけたようだが、解決は難しいというのが一般の見方のようだね。A氏:アフリカは天然資源が豊富だから、本来、カネは入ってくるのではないのかね。 それに先進国からの援助もあるしね。私:そのカネが一部の人の贅沢に集中して、国家としての道路、教育、法制度などのインフラ整備に使われない。 著者は例外として、ボツナワの例をあげているね。 1966年に独立したボツナワは世界でも1、2を争う貧困国だった。 独立とともに、ボツナワの砂漠の地にダイヤモンドが発見された。 ボツナワ政府はこの偶然を無駄にしなかった。 ダイヤモンドでかせいだカネは、インフラ整備、教育、保健医療に使われた。 大臣たちは、他のアフリカ諸国と違い、大邸宅やヘリコプターを買うこともなく、大統領が自分で買い物をしている姿を見かけるほど質素だという。 こうして、ボツナワは世界随一の経済成長を記録する。 日本で官僚が国が経済的に厳しいのに、タクシー代にせっせとカネをかけるのと違うね。A氏:隣国には、世界有数の銅鉱山を持つザンビアがあるね。 しかし、ここの経済は、逆に、泥沼だね。 その差はどこから来るのかね?私:著者は、ボツナワが優れた経済政策を立案して、堅実に実行したのに対して、ザンビアはそうしなかった点に原因があるという。 ザンビアでは海外援助は浪費に使われているという。 明日は、民族問題や、エイズの問題についてもふれてみよう。
2008.08.11
コメント(0)
私:偶然とは面白いものだね。 昨日朝、堺のホテルをチェックアウトして、用事の場所まで、タクシーで行ったんだ。 タクシーに乗って、オヤッと思った。 この運転手は、俺のブログで「家系」・「家紋」・DNAというタイトルでとりあげた運転手だったんだよ。 これが3月だから、5ヶ月たっているね。 そのときは、話題の例のグッドウイイルの折口会長の話が出て、その運転手の名前が折口だったことから、話が展開したのを思い出した。 運転手の名前は助手席のところに貼り出してあるので、確認すると確かに折口だね。A氏:むこうは覚えていたかね。私:多くの客を乗せるのだよ。 覚えているはずがないよ。 5ヶ月もたつしね。 俺だって、ブログのネタにした運転手だから、覚えていたんだよ。 この地区では、このタクシー会社を指定するので、同じ運転手にあたる確率は、流しのタクシーを拾うよりははるかに高いね。 俺が、家紋の話を前にしたと言ったら、「あぁ、それなら私です」とその運転手は言ったね。A氏:君の家紋は確か「桔梗」の紋だったね。私:今回も、また、そう言ったら、「桔梗は明智光秀の家がそうですね」と説明があったね。 「鷹の羽のぶっちがえ」という紋があったのを、ふっと、思いだしたので、聞いたら「それは浅野家の紋ですね」という説明だった。A氏:忠臣蔵に出る家紋かね。私:今は、「できちゃった婚」というのが多いが、それ以前は、嫁をもらうときは、興信所を使った。 興信所は、家柄を調べるには、呉服屋に聞くのが一番、早く家系がわかったという。 家紋が家系を示すからだね。 しかし、今は「紋付はかま」というのはなくなっているので、この伝統はすたれつつあるね。 残したいね。
2008.08.07
コメント(0)
アメリカ大統領の権力私:本来は、行政権の象徴的存在だった大統領が、今、1800人にのぼる大統領行政府に囲まれている。 その下に、財務省、商務省、教育省などの省が存在する。 大統領府は、まず、10人あまりの補佐官や顧問。 それぞれのスタッフがホワイトハウスで働くので、「ホワイトハウス・オフィス」で働く人は400人あまり。 このオフィスの外側に、経済諮問会議のように、各分野で諮問を受けて政策提言や助言を行う約10の組織がある。A氏:日本でもそれのまねをして、経済財政諮問会議のようなものができたのかね。私:歴史的に、行政の頂点に立つ大統領の相談役は各省の長であって、このような直属の大きな組織ができたのは、フランクリン・ルーズベルト大統領以来だという。 そのルーズベルトのときも、最初はホワイトハウスは事務職を入れて50人弱だったという。A氏:ルーズベルトがスタッフを必要としたのは、経済恐慌から脱出するための法案作成があったからだろうね。私:ルーズベルトの政策で大きな政府ができるようになる。 行政府の長だった大統領は、立法のへの影響力を強めるね。 ところで、「ホワイトハウス・オフィス」を制度化したのは、アイゼンハワー大統領で、さらに首席補佐官と国家安全保障会議を担当する特別補佐官を置いたことだね。 大統領は、当然、「ホワイトハウス・オフィス」の力の影響を受ける。 ブッシュ大統領の時期には、「ホワイトハウス・オフィス」はネオコンが支配することになるね。A氏:誰が真の大統領なのかね。私:この本では、ケネディ以降ジョンソン、ニクソン、カーター、クリントンなどの活動を詳しくあげている。 議会との力関係もある。 拒否権の発動もあるね。 システムがあっても、大統領の個人的なリーダーシップの特性も影響する。A氏:権限というのは、「影響力」だという人もいるね。私:「形式的な権限者」と「実際の権限者」の違いだね。 サインするのは「形式的な権限者」。 しかし、サインせざるを得ない「陰の権限者」が「真の権限者」だね。 それは、助言者であったり、マスコミであったり、世論かもしれないね。 この本を読むと、アメリカの大統領は世界的にも強大な権限を持つが、その「陰の権限者」が多様であることを示しているね。 もし、、オバマ氏が大統領になったなら、彼の大統領府のメンバーは誰になるのだろうね。 それにしても、著者は、ネオコンの影響力のせいとはいえ、ブッシュ大統領のイラク攻略には憤慨しているね。
2008.08.02
コメント(0)
アメリカ大統領の権力私:この本は古い本だが、「マイ・ドリーム、バラク・オバマ自伝」、「大統領はカネで買えるか?・50000億円米大統領選ビジネスの全貌」、「中傷と陰謀・アメリカ大統領選狂騒史」と続いたアメリカ大統領選の知的街道に位置するね。 「アメリカの行動原理」で、州中心のアメリカ政治では、大統領の権限はたいしたことはなく、だから、歴代の大統領には優秀な人物が少ないとあったね。A:しかし、ブッシュ大統領は、ヨーロッパ諸国の反対を押し切って、イラクに戦争を仕掛ける。 アメリカの大統領は、すごい権限を持っていると誰しも考えるね。私:しかし、アメリカの大統領の権力構造は、そう、単純なものではないようだね。 歴史がある。この「アメリカ大統領の権力」を読むと、建国時には大統領の役割は限定的なものだったことが分かるね。 19世紀のアメリカの連邦政治の中心は議会であって、偉大な政治家の多くは上院議員だったという。 合衆国憲法は大統領が国家元首であると明記はしていないという。 独立した行政府の長--大統領という職を作り、大統領に大きな権力を与えて政治を主導する意図は持っていなかったという。A氏:しかし、大統領はアメリカ軍の総司令官だね。私:外国に戦争を宣言する権限は連邦議会に与えたが、戦争時は、緊急な活動を要するので、対外戦争に従事しているときの大統領職を「戦時大統領制」として通常の大統領制とは区別しているという。 これが拡大解釈されて利用されるようになった。 著者は、その例として、19世紀前半に活躍した11代大統領ジェームズ・ポークの例をあげているね。A氏:彼は、メキシコに軍隊を派遣し、テキサス、カリフォルニア、ニューメキシコなど、最大の新領土をアメリカにもたらした大統領だね。私:このメキシコとの戦争は、アメリカ軍をテキサス・メキシコ国境に進め、軍事挑発をして、米軍側に死傷者が出ると、自衛のためと称して、戦時大統領制となり議会の宣戦布告の承認を得てメキシコを侵攻するね。 著者は、ポークの戦時大統領制が示したのは、大統領が自分勝手に軍を動かし、対外武力紛争を作り出し、それを口実に外国との戦争を始めるという危険性がアメリカの制度に内在していると指摘しているね。A氏:緊急の対外危機に対して、自衛上、反撃する権限を実質的に大統領に与えた憲法制定者の想定が甘かったということか。私:しかし、好戦的な大統領であっても、大統領を支える政治連合や、世論が形成されるような事件がないと対外戦争開始の可能性は低いという。A氏:イラク戦争の開始には、ネオコン連合と9.11以来のテロのトラウマが世論にあったのだろうね。私:戦後では、トルーマン大統領の例がある。 朝鮮戦争でアメリカ軍の派遣はアメリカ議会の承認を得ていないで、軍の総司令官としての戦争権限を一方的に行使した最初の大統領だという。A氏:トルーマンの大義名分には当時の冷戦の論理と反共主義が背景にあるね。私:ベトナム戦争拡大のときのジョンソン大統領は議会の事前承認を求めているが、問題はその理由だね。 ベトナムのトンキン湾にいたアメリカ艦船が攻撃を受けたと虚偽の報告を流し、反撃の議会承認を得る。 この議会承認をジョンソンは拡大解釈し、北爆の開始など戦争を拡大するね。 背景に、共産主義の世界的な拡大を阻止するという大義名分があるね。 ドミノ理論だね。A氏:イラクの大量破壊兵器の存在が、テロの温床となるという恐怖感と同じだね。私:しかし、ソ連が崩壊し、冷戦が終わると、世界最大の軍事国家となったアメリカが「世界の警察官」としての役割が期待されるようになるね。 冷戦後のアメリカの軍事介入は単発的テロに対するものだったが、9.11テロに対する対応は「悪の枢軸」国家を名指しした攻撃であった。 しかし、著者は、これはブッシュ個人の判断によるものでなく、ブッシュを囲むブレーンであるネオコンの影響が強いと見ているようだね。 明日は、大統領に強い影響を与える巨大なスタッフの活動に目を転じよう。
2008.08.01
コメント(0)
アメリカの行動原理私:日本が開国したのはペリーがきたときだが、その前にロシアが頻繁に来ていたね。 日本が何故、ロシアを嫌い、アメリカに好意を寄せていたかというのを著者は疑問に思っているね。A氏:しかし、君のブログの「幕末・維新」によると、当時、徳川幕府はオランダを通じて、かなり詳しく国際情勢を知っていたので、アメリカが「自由」を掲げて独立した国であることを知っていたのではないかね。私:アメリカが開国で日本に来た頃は、インドはイギリスの完全支配下であったが、中国については西欧の列強が牽制しあっていた。 アメリカの態度はヨーロッパ本土に対する姿勢と同じで、適当に列強が牽制しあっているのを静観し、自分の大陸には干渉してもらいたくないというものだね。A氏:イギリスと同様に、日本が弱い間は支援して、ロシアの支配下にならないようにする。私:アメリカは、スペインと戦争をしてフィリピンを植民地化するが、他の列強と違い、他には拡大はしていない。 日本は台湾、韓国の併合のときも、こういう国際的な駆け引きを理解して、国際的な裏交渉をしていたようだね。 問題は日露戦争からだね。 日本があまり強くならないように、アメリカは講和条約のときもいくぶんロシアの肩を持つ。A氏:この辺の駆け引きは微妙だね。私:著者は、日本が満鉄を建設しているとき、アメリカがやってきて一緒にやらせてほしいと頼んだので、政府内で検討し、一緒にやることになりかかったが、軍部が警戒して潰したとしているね。A氏:これは、君のブログでふれている「日露戦争に投資した男・ユダヤ銀行家の日記」1、2のアメリカのドイツ系ユダヤ投資銀行家ジェイコブ・シフのことだろうね。私:著者は、これが日米の歴史の分かれ目で、このとき、満鉄をアメリカと共同して運営していたら、日米二大資本で中国の植民地支配が成功していたかもしれないという。 後の日米戦争はなかったかもしれないとしているね。 著者は、もう一つの日米戦争の伏線は、1936年12月の西安事件ではないかという。A氏:西安事件後に、日本に対して国共合作が行われるんだね。私:著者は、この西安事件の密議の内容がいまだに明らかにされていないのは、国際的に何かあるのではとみているね。 スターリンも関係していたらしい。 とにかく、この事件以後、中国、日本、アメリカの運命が決定されて行くことになる。 戦後のアメリカの占領は、天皇を温存し、官僚政治を利用して、間接統治を行ったことが成功したね。 この点、イラクと全く違うね。 著者は、次に重要な占領政策として農地改革をあげているね。A氏:今後の日米問題はどうかね。私:アメリカにとっては、米中関係が一番根本にある。 敵対関係になるか、協力的関係になるかは不安定。 その状況に合わせて、アメリカは日本カードを切りたい。 これに対応して、日中関係も決まる。A氏:複雑だね。私:来年からアメリカの大統領も変るが、さらに問題は複雑化しそうだね。 それに加えて、1990年以降は、アメリカの金融資本の活躍が激化する。 社会学や政治学だけではだめで、アメリカの行動原理を知るには、経済学が不可欠になってきたね。
2008.07.29
コメント(0)
アメリカの行動原理私:アメリカ文化を考えるときに、アメリカには、アメリカ人という人種はいないということがポイントだね。 いろいろな国の人が、その国のカルチャーを持ってくる。 スポーツでもそうだが、アメリカのコミュニティ内では、そのコミュニティの伝統的なスポーツで遊んでもいいが、学校に行くとアソシエーション内だから、教育のためのスポーツを考えないといけいない。 著者は、これが野球、アメリカン・フットボール、バスケットボール、アイスホッケー、プロレスなどのアメリカ生まれのスポーツが生まれた因だという。A氏:今まであった、伝統スポーツだと、その国出身の子どもは優位だから、「平等」ではない。 だから、今まで誰もやったことのないスポーツを発明するというわけだね。私:ハンバーガー、コーラ、ジーンズも同じだね。 これもアメリカ文化の発明だね。A氏:そういう意味で、どの人種が移民してこようと、「平等」で「自由」という行動心理が支配しているね。私:料理についてだが、ドイツ料理、イギリス料理はおいしくないというが、それは宗教改革で、ピューリタニズムでは、現世は享楽を避けるという禁欲主義であったからだという。 逆に、イタリア料理やフランス料理がおいしいのは、カソリックだからだという。 アメリカはピューリタンだから、おいしくないことになるね。A氏:ジャズやミュージカルもアメリカ発だね。私:ジャズは白人の楽器を黒人が手に入れて、自分流に演奏した。 これを白人が面白いと聴き始める。 ヨーロッパにはそういう黒人はいないし、いても白人は聴こうとしない。 ミュージカルもヨーロッパのオペラと違い、伝統社会の階層的な文化と結びついていない。 「自由」に「平等」に楽しめる。A氏:アメリカ文化の中心に自動車があるね。 郊外住宅もアメリカ型だね。私:だから、アメリカの人口は世界の5パーセントなのに、世界総エネルギーの約40パーセントを占めるという資源消費的になる。 これがアメリカのライフスタイルだね。 アメリカの資源消費の半分以上が個人消費だという。A氏:アメリカには貴族や身分制度はないから、持っている商品で階層が分かる。 ヨーロッパではルイ・ヴィトンとかグッチとかは、貴族出入りの商店だね。私:アメリカでもアジアでもブランドブームは、ヨーロッパのそういう制約がないから起こるんだね。 ブランドブームはアメリカ的といえるね。 ところで、アメリカを知るというのは、日本はどう対応したらよいかというためとも言えるね。 ペリーの開国以来、日米関係は複雑な国際関係の中を過ごしてきたね。 明日は、そのほうの話に移ろう。
2008.07.28
コメント(0)
アメリカの行動原理私:著者は19世紀のフランスの社会学者トクヴィルのアメリカの観察記を引用して、アメリカの特徴をよくまとめているね。 まず、アメリカは旧大陸のヨーロッパに対して「平等」だという。 フランス革命も「平等」を掲げたが失敗している。 彼は、その原因としてアメリカの「相続法」をあげている。 アメリカでは建国時に、イギリスと異なり相続税を厳しくして、子どもに財産がわたらない制度にした。 土地所有制度がヨーロッパなどと本質的に異なるんだね。A氏:日本でも戦後、アメリカが相続税を厳しくし、農地解放を行ったね。 大金持ちはなくなった。 この相続制度と土地所有の不平等問題は、南米などの格差、アフリカの政治不安定の背景にもあるね。私:アメリカの「平等」は、大統領が辞めると「ただの人」になることだね。 「平等」のために、アメリカでは、ありとあらゆる公職を選挙で選ぶ。 検事も選挙だね。 選挙してダメなら、次には投票しなければ、「ただの人」に落ちる。A氏:だから、巨大な官僚組織も天下りもないんだね。私:社会主義のソ連も「平等」を目指したが、独裁的なやり方で「自由」を犠牲にして一応は成功していたね。 アメリカは、「自由」を重視して、かつ、「平等」も重視しようという考えだね。 それに、日本では、国の法律や県の条例に合致する範囲でしか市町村の条例を制定することができないが、アメリカは逆だね。 その意味で、民が主権を持っているといえる。A氏:こないだ、日本のある地方の村に行ったんだが、立派な道路に、3、4人並んでも歩けるくらいの歩道が両側にあるんだね。 誰も歩いていない。 通学路でもない。 国の補助を受けるためには、国の規格で作らないといけいないらしい。 村の人の民意はないね。私:トクヴィルは、さらに「アメリカは『団体』をもっともよく利用している国である」といっている。 著者は、その団体を、目的を持って集まった集団である「アソシエーション」と、共同体や地域社会など自然に発生した「コミュニティ」と分けていて、これがアメリカ社会の基本だとしているね。 いわゆる、共産国家や独裁国にない「結社の自由」をうまく生かしていると言える。A氏:アメリカの特徴と言えば、南北戦争という内戦以外に、外国に征服されたことがないことだね。私:トクヴィルも似たようなことを言っているそうだね。 ヨーロッパのように常に侵略しあっている歴史をもっていない。 地政学的にも孤立している。 だから、モンロー主義が出てくる。A氏:トクヴィルは19世紀の人だが、その後、アメリカ本土ではないにせよ、真珠湾を攻撃され、最近では、9.11のテロでニューヨークをやられ、これはその後、アメリカ社会の大きなトラウマとなっているね。私:トクヴィルの頃は、連邦政府は重要でなかったが、アメリカ軍が外に出るようになったり、例の恐慌で、連邦政府の公共投資が行われたりしてから、連邦政府や大統領の重要性が生まれるね。 ベトナム戦争時代から生まれた反政府的な動きの反動として、今、アメリカは保守化の傾向にあるという。 ブッシュ大統領の単独行動主義は、アメリカは新大陸の国家である、旧大陸の文明の価値観に妥協する必要がどこにあるか、アメリカはやりたいようにやるというものだと著者は言っているね。 ネオコン発想だね。A氏:しかし、この本が出た05年以降、イラク占領の長期化、ネオコンの退陣、サブプライムローン問題、アメリカの金融資本への批判など、急激にアメリカの単独行動主義を変化させる要因が増加してきているようだね。私:それでも残るのは世界に拡大したアメリカ文化かね。 これについて明日は考えてみよう。
2008.07.27
コメント(2)
アメリカの行動原理私:「YouTube民主主義」で、著者は「アメリカは広大で多様なのだから、アメリカ体験は群盲が象をなでているに過ぎない」としていたが、この「アメリカの行動原理」の本では、それと逆で、「象であるアメリカ」を、社会学の立場から、判りやすく、うまく捉えているように思うね。A氏:アメリカは広大でつかみにくいというが、ヨーロッパとも違うし、アジアや日本とも大きく違うものが明らかにあるね。 マクドナルドなども、今は世界に広がっているけれど、アメリカ文化の象徴だね。 ヨーロッパ文化でもアジア文化でもないね。私:いろいろなアメリカ論はあるだろうが、著者は、2つの大きな異なった視点から捉えているようだね。 1つは、キリスト教がどのようにアメリカの価値観と思考パターン、行動様式に影響与えているかという視点。 もう一つは、新大陸に生まれた国家であり、欧州のように強力な他国と国境を接することのなかった地政学的な視点だね。A氏:アメリカは、キリスト教でもピューリタンだね。私:これは個人主義だが、他人にも価値を認める個人主義でなく、罪を犯した個人として神と直結する個人主義だという。 だから、基本的に自己中心だという。 そして、次第に俗化して、信仰の中身よりも勤勉、夫婦の中の好さなどの外見が重要になってくるというね。 これがアメリカ資本主義の基礎だという。 それにピューリタンは大きなグループを作れない。 町(タウン)も教会もバラバラにある。 50近い宗派があるという。A氏:しかし、同じタウンにいる以上、宗派が異なっても政治は共通だね。私:だから、政教分離となる。 これがアメリカの政教分離の原点だという。 アメリカの政治の目的は、根源的にはそれぞれの教会の信仰の自由を守ること。 ヨーロッパなどの宗教戦争による信仰の自由の崩壊はない。 次に、道路、教育、福祉というのが、二の次、三の次としてある。A氏:1925年にモンキートライアルというのがテネシー州で起こったね。 公共学校で「人はサルからの進化だ」と教えるのは、「神が動物とは別に創った」とする聖書の教えと矛盾する。 政教分離になっていないというわけだね。 判決は、進化論が正しいという人は別に私立学校で教えてくださいということになったというね。私:アメリカは、最初、イギリスの植民地として、イギリス王の特許状をもらった会社が経営する。 会社経営は、社員の会議でいろいろ運営を決めて行く。 これが広がって、選挙で自治政府を作る。 それが本国のイギリスと税金などともめているうちに、独立した。 人民個々人が合意の上で、憲法を決め、法律を作ったというのが「デモクラシー」の原点だね。 だから、アメリカの建国というのは、新大陸にゼロから作ったから、明確だね。 日本はいまだにあいまいだね。A氏:アメリカ政治の特徴として、その名が示すように、州が中心だね。 日本はいまだに、地方分権だともめているが、アメリカは基本的に地方分権だね。私:アメリカ政府の段階は4段階で、一番下が市町村にあたるタウン、それからカウンティ(郡)、そしてステイト(州)、そしてユナイテッド・ステイツ(連邦)がある。 もともと、州は独立した植民地で、イギリス国王から特許状をそれぞれもらってできた「会社」だから、それぞれの宗教、法律や州兵もあった。 その後、イギリスから独立するために、これらのステイツが結束して、ユナイテッド・ステイツ(連邦)に一本化した。 だから、離脱規定のない憲法だという。 ところが、ソ連も、連邦だが、アメリカと違って脱退できるという条項があったという。A氏:実際に脱退が起きたね。私:だから、個人の自由を保障する最終的な根拠は、国家権力で、だから、国旗も国歌も歌われる。 日本人は企業や学校でいじめられているのに、また、国旗や国歌を歌えとなる点が全く違うね。 明日は、アメリカの官僚嫌いの制度に話を移そう。
2008.07.26
コメント(2)
中傷と陰謀アメリカ大統領選狂騒史私:かって、評論家の大宅壮一は、テレビ文化を称して「一億総白痴化」と言ったが、この本は、テレビによるアメリカ大統領選の堕落の歴史を描いているとも言えるね。 この本は「大統領はカネで買えるか?・50000億円米大統領選ビジネスの全貌」1.2.3の知的街道に属するね。 この本は4年前の出版だから、古いね。 しかし、昨日の「YouTube民主主義・メディア革命が変えるアメリカの近未来」より、アメリカの大統領選を通じて、アメリカのメディア革命による民主主義の変化を捕らえるのに、はるかに興味がわいたね。 テレビの登場によって、政治と政治家が堕落していく様子が克明に書かれているね。 特に、選挙にテレビコマーシャルが使われるようになってから、選挙は広告キャンペーンになり、政治家は商品になってしまったようだね。 選挙にテレビ放送のカネもかかるようになった。A氏:いつ頃から、そうなったのかね。私:最初は、1952年のアイゼンハワー大統領のときだね。 このときから、選挙キャンペーンは広告キャンペーンになり、候補者は商品になったという。 このときは、まだ、アメリカのTV普及率が34パーセント。 これが1956年の選挙の時には72パーセント。 1960年の選挙のときには88パーセントとなるね。A氏:1960年の大統領選は、有名なケネディとニクソンとの戦いだね。私:テレビ時代では、政治家がどのような人間か、何をするかではなく、テレビでどのように見えるか、あるいはどのように見せるかが重要になる。 その意味で、1960年の大統領選挙は、アメリカの政治と政治家を変えた分岐点だという。 この選挙でニクソンがテレビをあまり重視しなかったのは、この頃、ブームだったクイズ番組でインチキがあり、テレビの信用度が落ちていたことが影響したようだ。 これは後に「クイズ・ショウ」という映画にもなっているね。A氏:しかし、この頃から、テレビの選挙コマーシャルが大きな影響を与えるようになるんだね。私:1964年のジョンソン大統領のときは、相手のゴールドウォーターを攻撃するために「ひなぎく」というコマーシャルを流した。 これは今もアメリカでは有名はコマーシャルで、3歳の女児がひなぎくの花弁を1から10まで数える。 数え終わると大人の声でミサイル発射のカウントダウンが始まり、それが終わると轟音とともにキノコ雲があがる映像が出る。 そしてナレーションは、子どもが生きるか、闇に沈むか。 闇に沈まないためには、選挙にはジョンソン大統領に投票しましょうとなるね。 これはあたかも、相手のゴールドウォーターに投票すると核戦争でも起きるようなコマーシャルだね。 著者は「ジョンソンの最も汚い『ひなぎく』」としているね。A氏:1968年選挙にはケネディに負けたニクソンが再登場するね。私:ニクソンは、テレビ映りに負けた反省から、イメージを変える戦略に出る。 そして当選する。 この後、カーター、レーガン、パパ・ブッシュ、クリントン、息子のブッシュと大統領選におけるテレビを中心とするマスコミの戦いが具体的に語られていて、興味が沸くね。 コマーシャル戦術は、次第に高度化し、商品の宣伝のように大衆への効果的な心理効果を狙う。 候補者の人格を疑うようなネガティブ・コマーシャルもある。 特に、1988年のパパ・ブッシュと民主党のデュカキスとの間に展開されたネガティブ・コマーシャルは、史上最も汚い選挙だといわれているという。 最初、デュカキスはネガティブ・コマーシャルを嫌い「王道作戦」を打ち出していたが、パパ・ブッシュのネガティブ・コマーシャルに巻き込まれてしまう。A氏:インターネットとの関係はどうかね。私:著者は、まだ、大統領選では中心はテレビで、インターネットは補助的な時代が続くだろうと見ているね。 ただ、イー・メールは効果があるようだね。 今年の11月4日まで、どのようにアメリカの大統領選が展開されるか、オバマとマケインの間のテレビコマーシャルの戦いはどうなるのか、そのウラを読むには参考になる本だね。
2008.07.23
コメント(0)
エコノミック・ヒットマン私:1980年代、「経済の殺し屋(EHM)」はイラクのバグダットで活発に活躍していた。 サダム・フセインが暴君であることは無関係であった。 イラクが継続的原油供給を約束し、オイルダラーで手に入れた米国債の利子で、米企業を雇って国内のインフラを整備し、新しい都市を建設し、砂漠をオアシスにするという取引をすれば、アメリカは喜んで応じたはずだ。A氏:兵器も供給できるね。私:しかし、1980年代終わりには、フセインは「経済の殺し屋(EHM)」の筋書きに乗る気がないことが明白になる。 ブッシュ政権の失政だった。 ところが、フセインは思う壺にはまった。 隣国のクウェートに侵攻したことだね。 ブッシュ政権は、待っていましたと国際法違反を理由にイラクを非難し、ついに、軍事攻撃をした。A氏:ブッシュ政権は国際法違反でパナマを侵攻していたのにね。私:イラクの話はご承知の結果でこれで終わりだ。 次に南米にもどり、ベネズエラの話題に移ろう。 ベネズエラは2002年には世界では世界第4位の石油輸出国で、アメリカへの供給量は第3位だという。 1973年の石油高騰でベネズエラの国家予算は4倍になった。 ここで「経済の殺し屋(EHM)」が活動し始める。 国際銀行がこの国に貸付を殺到させ、インフラ整備、建設などの資金となった。 こうした産業基盤ができると、企業タイプの「経済の殺し屋(EHM)」がやってくる。 ベネズエラの中産階級の一部は成長して市場は豊かになったが、貧困層は依然とて多かった。A氏:例によって格差拡大現象かね。私:ところが、その後、原油価格が崩壊して、ベネズエラは債務が返せなくなった。 1989年、IMFは厳しい引き締めを行い、債務返済のための圧力をベネズエラ政府にかけた。 ベネズエラの民衆は貧しくなり、暴動が発生した。 中産階級は貧困層に滑り落ちた。A氏:アメリカと日本の中間層の崩壊、貧富の2極化と似ているね。私:民衆は、チャスベ大統領を選出した。 チャスベ大統領は、ブッシュ政権に挑戦する行動をとった。 「経済の殺し屋(EHM)」は失敗した。A氏:チャスベ大統領の命は大丈夫だったのかね。私:彼は軍部を抑えていたので、アメリカ主導のクーデターに屈しなかった。 そして、9.11テロでアメリカがアフガニスタンやイラクで手一杯となったことで救われたようだね。 アメリカから本当の「殺し屋・ヒットマン」は来なかった。 しかし、南米も朝日新聞の5月13日の社説「南米の政治・『米国の裏庭』はいま」でふれているように、今は、親米政権は南米ではコロンビアだけになったという。A氏:今日、TVで映画「ボビー」を見たよ。 この映画は、例のケネディ大統領の弟のロバート・ケネディが大統領選挙戦に出て、暗殺されるまでの映画だね。 彼が殺されたのは、もう、40年前だが、彼の演説を聞いていると、今の民主党のオバマ大統領候補も同じことを言っている。 アメリカはこの40年間何をしてきたのかと思うね。 カネで世界を巻き込んだだけかね。 むしろ、次第に、力を失ってきているようだね。 ブッシュ政権後のアメリカはどう変わるのかね。 とりあえず、今、図書館に頼んでいるアメリカの今後に関する知的街道に関する本は、次の5冊。1.「壊れゆくアメリカ」 2.「米国はどこで道を誤ったか・資本主義の魂を取り戻すための戦い」3.「YouTube民主主義・メディア革命が変えるアメリカの近未来」4.「アメリカの行動原理」5.「大統領はカネで買えるか?・5000億円米大統領選ビジネスの全貌」
2008.07.14
コメント(0)
エコノミック・ヒットマン私:20世紀初頭、パナマはコロンビアの一部だったが、パナマ運河の工事が始まり、アメリカはコロンビア政府にパナマ地峡の行政権の委譲を含む条約に調印するように要求したが、コロンビアはこれを拒否した。A氏:アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領は、戦艦を送り込んでパナマを占領し、パナマを独立国であると宣言した。 この傀儡政権と米国はパナマ条約を結ぶ。私:パナマは親米の独裁政権が続く。 しかし、1968年、独裁者アリエスがクーデターで倒され、クーデターに積極的に関与していなかったにもかかわらず、トリホスが指導者として登場する。 彼は、パナマの中流階級や下流階層から高い支持を得ていた。A氏:国民的な政策を実行し、人口わずか200万人の小国パナマは社会改革のモデルとされたというね。私:トリホスは、運河はパナマのものであり、米陸軍の訓練施設があるのも嫌った。 しかも、パナマには、パナマの法律や税金の対象外のアメリカ人だけ入れる地域があり、国家の中の国家があるという。A氏:沖縄の基地みたいだね。私:1972年、著者はトリホスと面談する。 そのとき、トリホスは新しい運河の建設を検討しており、アメリカのベクテル社に対して、運河をよく使う日本に工事を任せることを考えているという話が出る。A氏:パナマは石油が出ない代わりに、パナマ運河という強力な武器があるのだね。私:トリホスはアメリカからパナマ運河の支配権を得る交渉を始める。 当時、アメリカは、カーター大統領だね。 1977年、アメリカとの間でパナマ運河の支配権をパナマに委譲する新条約が締結され、アメリカ議会では、わずか1票差で批准される。A氏:しかし、その直後、アメリカ政権はカーターからレーガンへとがらりと変わる。私:レーガン政権は、運河条約をもとに戻すべく再交渉を要求する。 しかし、トリホスは脅迫には屈しなかった。 エクアドル大統領がヘリコプター事故で死亡してから、2ヵ月後の1981年7月31日に、トリホスは飛行機事故で命を落す。 52歳だった。 トリホスはノーベル平和賞の呼び声も高かったという。 新聞はまた「CIAによる暗殺!」と書きたてた。A氏:イギリスの著名な作家グレアム・グリーンの著書「トリホス将軍の死」では、爆弾が仕掛けてあったような記事があるそうだね。私:ノリエガが大統領の地位を引き継いだ。 ノリエガはトリホスの遺志を継承しようとした。 1989年12月20日、米軍はパナマを大空襲する。 別にパナマはアメリカに敵対行動をとったわけではなかった。A氏:イラクよりもひどい戦争開始だね。 先制攻撃ともいえない、一方的な攻撃だね。私:パナマ運河の支配権が日本の援助を受けた独立主権国家パナマになりそうだという筋書きをアメリカが力で拒否したことになる。 アメリカの戦争の大義名分は、ノリエガ個人の「犯罪的な邪悪」であった。 ノリエガは逮捕されアメリカの刑務所で服役という異常さだね。A氏:その話を聞くと、本当にノリエガが「極悪人」だったのか疑問に思えるね。私:結果的にアメリカは再び運河を支配した。 明日は、イラクとベネズエラに話題を移そう。
2008.07.13
コメント(0)
エコノミック・ヒットマン私:エクアドルでは1960年代に、大規模な石油の採掘が始まる。 この国の一部の有力者は、国際金融機関の術中にはまり、石油の収入に安心して、大きな借金をして、インフラ整備を行う。 ここで、注目すべきは、アメリカに本部を持つ福音派の伝道団SILの活動だね。 エクアドルのある地域の地下に石油が埋蔵されている可能性が高いと地質学者が企業の本社に報告する。 すると、SILがその土地にやってきて、先住民にその土地から伝道組織の居留地に移動するように勧める。A氏:キリスト教を伝道するのではないのかね。私:居留地へ行けば、衣食住が無料で提供され、教育も受けられる。 もちろん、彼らの土地を石油会社に譲渡するという条件だ。 伝道者たちは、あらゆる手を使って、住民を居留地に移動させる。 1978年、ロドルフがエクアドル大統領候補として立候補したが、彼は、SILがロックフェラーから資金を得ていると主張した。A氏:ロドルフは、自国の石油をアメリカ大企業から取り戻したかったのだね。私:ロドルフは、愛国主義者だが、カストロのような反米主義者ではなかった。 ロドルフの大統領選の時期には、アメリカはカーター大統領だったせいか、選挙に介入はなく、ロドルフが大統領に当選した。 これがカーターでなかったら、介入があっただろうと著者は言う。 1979年8月、ロドルフは正式に大統領になる。A氏:しかし、1980年のアメリカ大統領選で、カーターがレーガンに敗れるね。私:カーターはアメリカの石油への依存度を軽減させようとして、ホワイトハウスの屋根にソーラーパネルを設置していたというが、レーガンは大統領就任とともに、それを撤去した。A氏:その意味では、カーターは異例な大統領というべきで、「経済の殺し屋(EHM)」の世界観とは一致しないね。私:1981年はじめ、ロルドスの政府は、石油や天然ガスなどの炭化水素にかかわる法案を正式に提出した。 アメリカの石油会社はあらゆる手を使って対抗した。 ロルドスも強硬に対抗して、福音派の伝道団SILの締め出しを命じた。 彼は、石油会社にかかわらず、外国企業でもエクアドル国民のためになる計画を実行しない限り、強制的にこの国から追い出すと警告した。 しかし、1981年の5月24日、彼はヘリコプター事故で命を落す。A氏:暗殺ではないの?私:ラテンアメリカは激怒して、新聞はこぞって「CIAによる暗殺!」と怒りの記事をのせたという。A氏:「経済の殺し屋(EHM)」ではなく、最後は、本当の「殺し屋・ヒットマン」が登場したのかね。私:ウルタド大統領が後を引き継いだ。 彼は、SILとその資金提供者である石油会社を元通り復活させた。A氏:アメリカはケネディ兄弟の暗殺など、怖いね。私:明日は、パナマの話に移ろう。
2008.07.12
コメント(0)
エコノミック・ヒットマン私:グアテマラでは1800年代終わりに創設されたアメリカ企業のユナイテッドフルーツ社が中米最大企業になった。A氏:ウィキペディアによると、グアテマラは19世紀末には、コーヒーの輸出が中心だったようだね。 1893年(明治26年)には、日本で初めてのラテンアメリカ移民が行われたとあるね。 日清戦争の頃には、日本の南米移民は始まっていたんだね。 1944年から1954年にかけては、グアテマラの春と呼ばれ、かってないほど、自由な空気のもとに、各種の民主的な社会改革が進められたとある。私:そういう民主主義的な基盤があったんだろうね。 1980年代には、民主主義の模範として西半球全体で高く評価された選挙で、改革派のアルベンス大統領が選ばれた。 当時のグアテマラでは、全人口の3パーセントにも満たない少数の人々が、国土の70パーセントを所有していた。 そこで、アルベンス大統領は、選挙後に広範囲な農地改革を実施した。 問題となったのは、グアテマラで絶大な力を誇る最大の土地所有者のユナイテッドフルーツ社との対立だね。 ユナイテッドフルーツ社は、グアテマラ以外に、パナマ、コロンビア、コスタリカ、キューバ、ジャマイカ、ニカラグア、サントドミンゴにも広大な農園を持っていた。A氏:そうすると、グアテマラで譲歩すると連鎖反応を起こすね。私: 怒ったユナイテッドフルーツ社は、アメリカで大規模な広報活動をくりひろげる。 アルベンス大統領は共産主義者の手先であり、グアテマラはソ連の前哨基地だという宣伝だね。 こうしてアメリカの一般大衆や議会を信じさせた。A氏:イラク攻撃のとき、イラクが大量破壊兵器を持っていて、テロの危険性があるという大宣伝と似ているね。 あのときは、9.11のトラウマでアメリカ国民も議会もその宣伝を信じたね。 日本政府まで信じてイラク戦争を支援する。 プーチンは信じていなかったがね。私:グアテマラのことにもどるが、1954年、CIAがグアテマラのクーデターを支援。 米軍機が首都を爆撃し、民主的な選挙で選ばれたアルベンス大統領は亡命した。 冷酷な右派の独裁者アルマスが政権についた。 新政権は、ユナイテッドフルーツ社から絶大な恩恵を得ており、その見返りとして、農地改革を帳消しにした。 外国投資家が投資に有利なように税金を撤廃した。A氏:今の韓国のように国民は怒るだろうね。私:しかし、弾圧が行われた。 新政権は無記名投票を廃止して、政策を批判する人を投獄した。 こうして、暴虐とテロリズムが、その後、何年もグアテマラを苦しめることになる。A氏:ウィキペディアによると、人口1千4百万人のグアテマラで、一般の犯罪や暴力団による殺人で、2006年は6000人が死亡しているという。私:アメリカ政府と多国籍企業のユナイテッドフルーツ社の共同作戦で、企業の利益は確保されたがね。 しかし、グアテマラの庶民は、社会不安に陥ることになる。 ところで、ユナイテッドフルーツ社の持ち主は誰か知っているかね。A氏:?私:ブッシュ・パパだとこと。 当時は、アメリカ国連大使だが、後にアメリカ大統領になる。 明日は、エクアドルに話を移そう。
2008.07.10
コメント(0)
エコノミック・ヒットマン私:原書の題名は「あるエコノミック・ヒットマンの告白」で、2004年の刊行だね。 まだ、アメリカ経済がサブプライムローン問題で火がついていないときだね。A氏:エコノミック・ヒットマン(EHM)とはどういう意味だね。 ヒットマンは「殺し屋」という意味だろう? 「経済の殺し屋(EHM)」?私:途上国を近代化するために、土木・建設工事の重要性をその国の政府に説得し、そのために巨額の融資をする。 それらの工事は、アメリカの多国籍企業が行うので、融資の資金はアメリカ大企業に還流する。 そして、融資先の国の経済を破綻させ、永遠に債務者であるアメリカの多国籍企業の言いなりにならざるを得ないような状況に追い込む。 その国の経済を殺してしまう。 だから、この活動を行うアメリカのビジネスマンを「経済の殺し屋」だというわけだ。 そして、多国籍企業の言うことを聞かないと、本当の「殺し屋」がくる。 それでもだめだと「アメリカ軍」がイラクのように先制攻撃で来るというわけだ。 著者は、その「経済の殺し屋」の一人であったというわけだ。A氏:そう言えば、内橋克人著「悪夢のサイクル」によると、開発途上国における多国籍企業による支配指数というのがある。 2002年の国連貿易開発会議のデータによるとトリニダード・ドバコ44.1パーセント、チリー28.4パーセント、パナマ28.2パーセント、ホンジュラス27.5パーセントなど、中南米のラテンアメリカの諸国が突出しているという。私:市場原理主義の拡大とダブル部分があるね。 著者は、この「経済の殺し屋」だったというが、具体的な「殺し」までの話は少ないね。 この本の前半は一般論と「経済の殺し屋」になった経緯で占められている。 著者は、この多国籍大企業、アメリカ政府、世界銀行・IMFなどの大銀行の3本柱の結束を「コーポレートクラシー」と言っているね。 餌に食いついた途上国の搾取による飽くなき利益追求だね。A氏:日本の政官財の癒着なんて、屁みたいなものだね。私:この本は、随筆的に書かれているので、あちこちに話がとんで、まとめようとすると大変だ。 そこで、俺は一応、時系列的にまとめてみた。 まず、サウジアラビアだが、これはこの本の主題と違うね。 まだ、「コーポレートクラシー」が確立する前の話だね。 例の第一次オイルショックから始まる。A氏:1973年の第4次中東戦争が起きる。 ニクソン大統領は、すぐにイスラエルに対して、22億ドルの援助を決定するね。 これに対応して、中東の産油国が輸出禁止を行い、石油が一挙に値上がりする。 今の値上がりと原因が明らかに違うね。私:これでアメリカ政府、多国籍企業、大銀行がトラウマとなり、3本柱の結束が強化される結果となる。 アメリカは、サウジの石油ドルの還流を狙い、サウジの近代化のための工事を売り込む。 これには「経済のヒットマン」はないが、ドルの還流というモデルができる。 これは、サウジの経済を混乱させるという「経済の殺し屋」の話ではないが、アメリカ政府、多国籍企業、大銀行が結束して「コーポレートクラシー」が確立したという例としてあげているんだろうね。 明日は、グァテマラの話から始めよう。
2008.07.08
コメント(0)
「今のロシア」がわかる本私:9.11のテロでプーチンはアメリカのテロ戦争支援を即座に表明する。 しかし、実は、アメリカとロシアが共同して、テロ対策に乗り出そうというのは、冷戦が終わった1991年にソ連のプリマコフがアメリカに提唱していたことなんだね。 しかし、アメリカでは、当時、冷戦終了を受け、ネオコンは「ユーラシアに新たなライバルを出現させない」という戦略目標を立てる。 これとプリマコフの提案が対立して棚上げとなる。A氏:クリントン政権下では、ポーランド、ハンガリー、チェコの東欧3ヶ国がNATOに加盟する。 ネオコンのNATOを中心とする東方拡大政策の展開だね。 当然、ロシアいじめとなるね。私:冷戦終了後、ソ連の原子力産業は瀕死の状態となり、アメリカとの平和利用での共同を提案する。 しかし、これをアメリカは蹴る。 ソ連はそこで、イラン、中国、インドに市場を求める。A氏:今のイランの核開発問題もそこから始まっているのかね。私:しかし、このプリマコフの米ロ「対テロ」共闘路線は、イラクとの対応でまた対立する。 ネオコンはイラクの民主化を大義名分に、イラクに対する武力行使を考える。A氏:プーチンはイラクへの対テロ戦争の拡大には猛烈に反対するね。私:プーチンは大量破壊兵器保有の有無もあいまいなフセイン政権の打倒は、むしろ中東地域全体を不安定化させ、本来の意味での対テロ戦争を阻害すると考えたからだね。 プーチンは、いろいろな外交戦術を展開するが、ネオコンの力には及ばなかった。 イラク戦争は開始される。A氏:しかし、プーチンの予想通りになったね。私:著者は、ネオコンのNATOを中心とする東欧の展開と、イラク、イランなどの中東の展開とはつながっていると見ているね。 特に対ロシアの戦略では一体だね。 東欧でのアメリカとの対立はすでに、カラー革命でふれているし、NATOによるミサイル防衛で、「中国・ロシア同盟がアメリカを滅ぼす日・一極主義vs多極主義」1、2、3、4で、このブログでもふれているね。 この約10年の間に、アメリカはブッシュで力を落とし、一方、ロシアはプーチンで力をつけたね。 リーダーの力とはこわいものだね。 プーチンは、大統領から首相になり、明日からのサミットには来ないが、今後もタフな仕事ぶりを発揮するだろうね。
2008.07.06
コメント(0)
「今のロシア」がわかる本私:昨日、ふれた通り、「ロシアの新興財閥・オリガルヒ」は、儲けたカネをマネーロンダリングして自分のフトコロをふくらませていた。 ロシア国家のことを考えていない。 それが一部、アルカイダなどのテロ資金ともなるという国際的なシステムができていた。 ロシアの石油で儲けたカネは国に落ちない。A氏:国際資本にロシア国家が乗っ取られる危機だね。私:プーチン政権誕生に繋がる重要な歴史的転換点は、98年8月のロシア金融危機だと著者は言う。 これを契機に、ロシアの政財界で隠然たる影響力を行使していた「オリガルヒ」の影響力が急低下。 これにより、「オリガルヒ」に反対のプリマコフが同年9月に首相に就任。 翌年99年4月、「オリガルヒ」筆頭のペレゾフスキーへの攻撃を開始した。 ペレゾフスキーのスイスでのマネーロンダリング疑惑で逮捕寸前まで追い込む。 しかし、ペレゾフスキーらエリツィン大統領の周辺の策動でプリマコフ首相が解任され、内相ステパーシンが首相となる。A氏:すさまじい権力闘争だね。私:そして、その後、チェチェンのイスラム武装勢力が隣国ダゲスタン共和国に侵攻すると、ステパーシン首相が解任され、昨日のブログのようにFBS長官のプーチンが首相となる。 11月の下院選挙で、プリマコフとペレゾフスキーが対立する。 プーチンはペレゾフスキーが主導する政党「統一」への支持表明をし、同党は下院選挙で勝利。 そして、エリツィン大統領の辞任で翌年の大統領選でプーチンが選ばれる。A氏:「オリガルヒ」のペレゾフスキーはプーチンを使って、天敵プリマコフを潰したのかね。私:ところが、プーチンはひとたび大統領に就任するとプリマコフと同様にペレゾフスキー攻撃を開始し、彼を国外亡命までにおい込む。 著者は、プーチンとプリマコフは、表面は対立したように見せかけ、裏で手を握っていた可能性が高いと推測しているね。A氏:KGB仕込みの高度な政治的謀略かね。私:プーチンとしては、エリツィン時代に著しく弱体化した国家権力の再強化というねらいがあった。 当然、「オリガルヒ」との対立となる。 ロシア最大の石油会社ユニコスとの戦いが典型的だね。 ユニコスは石油を外国に輸出することで莫大な利益をあげていた。 最初、ロシアの税制は「オリガルヒ」に有利で国家が税金を徴収しにくくなっていた。A氏:ロシアは石油で国家財政が豊かというのは、その当時はそうでなかったんだね。私:プーチンはこの税制度の根本改革を試みてきたが、「オリガルヒ」の一つである石油企業のユコスを中心とする石油ロビーの影響力でうまくいかない。 ついに、03年7月にユコス攻撃を開始し、ユコスのトップのホドルコフスキーを脱税・横領容疑で逮捕する。 これで石油ロビーの影響力は低下する。A氏:KGB出身のプーチンらしい対応だね。私:04年2月には、石油ロビーの最大の理解者とみられていたカシヤーノフ首相を解任する。 彼が、税制改革を引き延ばしたのがプーチンの怒りを買ったからだという。 そして、4月に石油輸出税と石油採掘税の増税法案が圧倒的多数で、たった1日の審議でスピード採決される。A氏:これでようやく石油のカネが政府の財政を潤し、ロシア国家のカネになったのか。 ロシアが現在までに、たどり着くまでプーチンの努力があるね。 単に石油の値上がりだけではないね。 「株式会社ロシア」1、2の登場だね。私:次は、ロシアの大国復帰を望まないアメリカのネオコンとプーチンの対立だね。 これは「中国・ロシア同盟がアメリカを滅ぼす日・一極主義vs多極主義」1、2、3、4でもふれているね。 これは、視点をネオコンとプーチン・プリマコフの関係に置いて明日のテーマとしよう。
2008.07.05
コメント(0)
「今のロシア」がわかる本私:ソ連のアフガン侵攻に対する武装勢力の活動へのCIA秘密資金は、マネーロダンリングの国際銀行を利用して調達された。 この銀行はイギリスにあったが株主にはサウジやアブダビの王族が名を連ねていたという。 最初、チェチェン問題は、ロシア国内の一民族紛争でしかなかった。 これが、アフガニスタンなどを経由して、チェチェン内にこれらのマネーとイスラム原理主義が浸透して、チェチェン紛争はロシアとイスラム原理主義勢力の戦いへと変容する。 チェチェンのテロ主導者は、オサマ・ビーラーディン同様、アフガン義勇兵の1人だったという。A氏:カネと人が、20年程前のアメリカがとったソ連アフガン侵攻対策の裏工作と繋がっているんだね。私:1999年、チェチェンのイスラム武装勢力が、隣接するダゲスタン共和国に侵攻。 ここでFSB(ロシア連邦保安庁)長官だったプーチンが首相になる。 その直後、モスクワなどで住宅爆破事件が相次いで発生。 プーチンはこれをイスラム武装勢力のテロと判断して、ロシア軍をチェチェン共和国に派兵。A氏:第2次チェチェン紛争の勃発だね。私:ところが、奇々怪々なのは、エリツィン大統領周辺の「オリガルヒ(ロシア新興財閥)」の筆頭であるペレゾフスキーが、チェチェン武装勢力の中でもイスラム原理主義者のウドゥゴフと特に近く、チェチェン共和国周辺で続発していた誘拐事件では両者はパートナーの関係にあったという。 誘拐事件が起こると、ペレゾフスキーがロシア政府を代表して身代金を準備し、ウドゥゴフがチェチェン側を代表して人質の解決交渉をする。 身代金は二人を含む関係者で分配されるのが常だったという。 ペレゾフスキーなどの「オリガルヒ」と国際テロ組織「アルカイダ」は、米ソ冷戦時代の国際資金のマネーロンダリングネットワークでつながっていたことになる。A氏:エリツィン時代には、ロシアは国として崩壊状態だったんだね。 これを短期に建て直すにはプーチンも大変だったことがわかるね。私:いろいろプーチンの外交努力もあって、04年、ロシアとサウジの関係は正常化し、サウジは自国のNGO経由でチェチェンのイスラム勢力に資金が流れないようにする。 これで、チェチェンのイスラム武装勢力の力は徐々に低下する。 明日は、プーチンと「オルガヒ」との国内の戦いに目を転じよう。
2008.07.04
コメント(0)
「今のロシア」がわかる本私:この本については、日経ビジネスの書評を見たと思うが、図書館を検索したけれどなかった。 たまたま、本屋でちょっと立ち読みする機会があった。 中身が濃そうだし、600円の文庫本なので買ったよ。 書き下ろしの文庫本だね。 著者は4年間、モスクワに留学したロシア専門家だ。A氏:変わった苗字だね。 この本は、君のロシア知的街道に属するね。「ロシア世界を読む」、「プーチンは"皇帝"になるか」、「プーチン圧勝」、「アジアに接近するロシア・その実態と意味」、「ロシア後継大統領」、「株式会社ロシア・混沌から甦るビジネスシステム」1、2、「中国・ロシア同盟がアメリカを滅ぼす日・一極主義vs多極主義」1、2、3、4と続いた。私:一読して、ロシアの動きが深い点でよくわかったし、プーチンの功績は単に石油の高騰の偶然に恵まれただけではないことが分かるね。 KGB出身だけのことはあるね。 ロシアは同じ大陸の多くの国に囲まれているので、伝統的に地政戦略は重要で、その視点からロシアの動き、あるいは、プーチンの動きを捉える必要があるとしているね。 そのために、いろいろなテーマが重なっており、理解は出来るが、これをまとめるのが大変だね。A氏:君のこの知的街道は、単なる感想だけでなく、知識を自己の街道記録として残すことが主目的だからね。私:この本はロシアの「地政戦略」を「テロをめぐる米ロ関係」、「対欧州戦略」、「中東との関係」、「マネーロンダリング」の4つに大きく分けて扱っているね。 しかし、これらは独立しておらず、複雑にからみあっているので、俺流にまとめることにしたよ。 まず、チェチェン問題だね。A氏:確か、プーチンはチェチェン内乱に対して断固とした態度を認められ、昇進したんだね。私:このチェチェン内乱というのが、また、地政学的に複雑だね。 まず、米ソ対立時代から始まる。 1979年末、ソ連軍がアフガニスタンに侵攻。 1981年、レーガン時代のアメリカのCIA長官ケーシーは、アフガン義勇兵に武器や資金を提供した。A氏:これが後にアルカイダを育てる原因になるのは皮肉だね。私:明日は、これがチェチェン問題の背景になっていることにふれよう。
2008.07.03
コメント(2)
私:今、規制緩和が見直され始めているね。 小泉改革がバックしている。 この規制改革を目指し、規制緩和小委員会の座長を10年間務めたのが、オリックスの宮内氏だね。 規制改革で産業は活性化し、日本経済の新陳代謝が良くなると信じていたようだね。A氏:でも、タクシーの規制強の後戻りに象徴されるように、そう簡単に日本経済は活性化していないようだね。 むしろ、派遣労働など弊害が出てきて規制強化の後戻りをしだしたね。私:小泉首相、竹中氏、宮内氏のトリオが規制緩和を進めた形だが、小泉首相が退き、竹中氏が議員をやめとともに、宮内氏も規制緩和小委員会の座長を降りている。 そして、規制強化の波が逆にオリックスの業務に押し寄せているという。A氏:座長時代は、座長でありながら、規制緩和でオリックスは儲けているとして、公私混同を言われたくらいなのに、今は逆だね。私:俺がこの日経ビジネスの特集の記事を読んで驚いたのは、宮内氏は敗戦で教科書に墨を塗った世代であることだね。 1935年生まれだね。 宮内氏は敗戦時は、小学校4年生だったが、日本は最後まで戦いぬくと小学生ながら叩き込まれていた。A氏:軍国少年だね。私:だから、戦後、教科書に墨を塗りながら「国や権威なんて信じられるか」と子ども心に思ったそうだ。 一種のトラウマだね。A氏:それが、権威の象徴である官僚が行う規制に反対する動機になっていたのかね。私:この特集は、大きく3つの部分に分かれている。 1つは、オリックスが日本では先駆けてアメリカを真似て、金融に乗り出したこと。 2つは、国内での活躍。 3つは、国内で限界に来たので、インドなど、今後の途上国での活動開始。A氏:アメリカ流の株主・市場経済重視を万能と見る考え方の徹底だね。私:その考えが今、次第に世界的な問題になってきているね。A氏:例の村上フアンドについてはどういうコメントかね。私:最初は、日本の会社の運営を変えてくれると期待して支援したようだが、次第に疑問に思う行動が気になっていたようだね。 しかし、巷間言われているような後ろめたい部分はないと答えているね。A氏:例のエンロン破綻で20億円の損をしているね。 不幸中の幸いで、日本の電力は市場原理主義の罠から救われた。 それ以降、サブプライムローンなど、モデルとなったアメリカ型が崩壊してきている。私:そこで活路を、高度成長をしているインドなどに求めているようだね。 日本の規制緩和とはなんだったのか。 結果的に日本社会の崩壊の10年ではなかったのか。 根強い官僚政治との対決はどうなったのか。 残念ながら、この10年のアメリカ式の反省の弁はなかった。 教科書に墨を塗った世代には、年齢的にも後がない。 宮内氏の今後の活躍はどうなるのだろうか。
2008.06.30
コメント(2)
孤塁の名人私:佐川名人は、平成10年に、96歳で他界。 その後、高弟たちが後をついで国分寺の道場で活躍している。 著者はその弟子たちと「合気」の謎について話をする。 まず、高橋賢氏が「手の内センサー説」を言う。 佐川名人は敵が100の力で手首につかみかかると、右足をわずかに引き、やや半身となり、手首を後上方にあげる。 その動作で敵の100の攻撃力を5に減らし、その上で「手の内センサー」で相手の骨格、筋肉を推測して「合気投げ」をする。 相手の5の力をわずかに上回る7か8の力で敵を倒すことができるという説明だね。A氏:どうも、相手の力の100が5に減る理屈がピンと来ないね。私:弟子の中に、東大を出て、筑波大学の数学の先生をしている木村達雄氏がいる。 木村氏は、平成17年、「合気修得への道・佐川幸義先生に就いた20年」という本を出している。 その中で木村氏は、体を鍛えているうちに、あるとき、ハット気がついたと言う。 鍛えているのは筋肉でなく、筋肉に近い体の内部にある何かを鍛えていると。A氏:気のエネルギーでないというわけか。私:強いて言えば、「合気」は「意識」の技術だという。 意識の世界は、非物質的なもので、普通は物質に影響を及ぼさないが、「合気」はそれを結びつける鍵のようなものだという。A氏:非物質的なものとは何かね。私:木村氏は、その本でさらに次のように説明を続けているという。 「人体は『物質的システム』である肉体と、目に見えない『非物質的システム』で構成されている。 『非物資的システム』で、肉体は動きの安定、強さを得られる。」A氏:「非物質的システム」で赤ん坊は両足で立っていられるようになるわけか。私:そして、体を鍛えれば、物質としての肉体だけでなく、「非物質的システム」も鍛えられる。 「合気」は、相手のこの「非物質的システム防御スイッチ」を切ってしまう技術だという。A氏:なるほど、それで相手は大男であろうと、バランスを崩し、立っておられず倒れて飛ぶのか。私:スイッチを切る技術にはエネルギーの必要はない。 あるとき、著者は木村氏から一度道場へきてみないかと言われ、出かける。 著者は、道場にいた極真空手の世界チャンピオン大山氏と対決するように言われる。 著者は、いやいや対決する。 大山氏が突いてくる。 著者が手のひらで突き返すとき、木村氏は背後にいて著者の右の背中に手を置いた。 とたんに、相手の空手名人の大山氏はあおむけにドシンと転がってしまった。 木村氏が手を離すと、松井氏は堂々と突いてくる。A氏:木村氏は、著者の体を通じて「合気」を大山氏にかけ、大山氏の「非物質的システム防御スイッチを切ってしまった」というわけか。私:もっとも、それもまだ仮設に過ぎないだろうが、科学的な追及は続けられるだろう。 著者は、柔道は文明であり、「合気」は文化だという。 日本民族特有の文化を消滅させては国の損失であると著者は言う。A氏:ハリウッド映画でスチーブン・セガールが「合気道」で敵を倒しているね。 しかし、ほとんど飛ばしていないようだね。私:セガールは、日本にいた頃、「合気道」を修得したらしいが、「合気道」でもいろいろ流派があるらしいね。 木村氏の言うように、「合気」によって、敵の「非物質的システム防御スイッチ」を切って、相手をマネキン人形にしてしまえば、どんなに力がある大男でも倒せる。 この「合気」の技術は、人体についての深い認識がもとになっている。 「古武術」というより、「未来の武術」だという。 人体の不思議さは無限であると言って、研究を続ける武術家甲野善紀氏の活動とともに、日本文化のこの分野の深い伝統を滅亡させないで、さらに向上していくことを期待したいね。
2008.06.19
コメント(0)
孤塁の名人私:この本はどこかの書評にあったので図書館から借りた。 ちょっと、ご無沙汰したが、日本人の武術を中心とする身体文化の知的街道だね。 「『密息』で身体が変わる」、「希望のしくみ」、「密息」「骨盤後傾」とサッカーW杯?、 「身体感覚を取り戻す:腰・ハラ文化の再生」、「呼吸入門」、「椅子と日本人のからだ」、、愛国心と身体文化、「身体から革命を起こす」と続いた。A氏:秋葉原無差別殺人事件で象徴されるように、何か日本人が弱くなっているね。 「身体から革命を起こす」では、その弱さを指摘しているね。私:この本ではやたらに、「合気」で人が飛ぶシーンが出てくるね。 この本の著者は有名な作家だが、佐川幸義の伝記を書いてくれということで、昭和63年、85歳になる佐川氏の道場に行くが、そこで小柄な佐川老人が、若い大男の手首に触れたとたん、その大男が何メートルも吹っ飛ぶのを目撃する。 次から次に簡単に吹き飛ぶのを見て衝撃を受け、「魔法を見た」と書いている。A氏:著者の津本陽氏は、「柳生十兵衛七番勝負」を書いているが、たしか佐川名人の師である武田惣角の伝記「鬼の冠」を書いているね。私:その前に、同じく武田惣角の弟子で、戦後、合気道会を組織した植草盛平の伝記小説「黄金の天馬」も書いているね。 だから、話に「合気」で人が飛ぶという話は聞いていたが、目の前に見たのはこのときが始めてらしいね。 著者は佐川名人を知ってから、講演会などでその見た話をする。 あるとき、知り合いの紹介で、プロ野球の王氏をつれて佐川道場に行く。 王氏は、小柄な老人が大の男を軽く飛ばすシーンを見て、一言、「ただふしぎだと思います。私には理解できません」と言ったという。A氏:体力と異なる何かのエネルギーなんかね。私:そうかといって、体力と無関係ではないらしい。 事実、85歳当時の佐川名人は、毎日、腕立て伏せなどを何百回もしているという。 その肉体を鍛えながら、あるヒラメキが出るらしい。 佐川名人は、90歳のとき、心筋梗塞の予後を調べるために、病院で運動心電図を計るので、何か運動をしてほしいと医師に言われ、即座に腕立て伏せを300回やってみせ、医師を驚かせたと言うね。 96歳でありながら、現役で聖路加病院で働いている日野原氏も、エレベーター、エスカレーターを使わず、階段を2段飛びで駆け上がるし、毎日、筋力トレーニングをしていると言うね。A氏:武芸家の甲野氏が新しい技は無限だと言っていたね。 その意味では、科学的追及と同じだね。私:「合気」の発想はスポーツと違うね。 勝たないと意味がない。 一瞬の油断が負けを生む。 そのために、相手の動きより早くないといけない。A氏:空手なんかでも、突くときに、一旦、腕を後ろに引く。 それだけ、突きが遅れるから、「合気」の発想では、その間を遅れとして嫌う。 これは甲野氏も同じことを言っていたね。私:しかし、今度の水着の問題も、イギリスのメーカーは勝つために徹底的に考えて開発されたと言うね。 日本のメーカーの「勝つための」科学的な追求力が甘かったようだね。 この本の題名の「孤塁」は佐川名人が団体を作ると、雑事で個人的な追及ができないということで、「孤塁」を守ったという。 これは、佐川名人の師の武田惣角は明治期から昭和18年まで、武道にかかわる人々、すべてに敬遠されながら世を去った天才であるのと同じだね。 武田惣角は無教育で字を書けなかったという。 だから、東大を出て国際的に通用するスポーツである講道館柔道を創始して、オリンピック競技種目とした嘉納治五郎と表裏をなす生涯だったという。A氏:佐川名人も「合気」をビジネスにせず、「合気」の修得だけに心を傾けた天才だと言うわけか。 結局、著者は、なんで「合気」で人が簡単にとぶのか解明したのかね。私:それは明日考えてみよう。
2008.06.18
コメント(0)
私:用事で大阪に2泊、今、帰ってきたよ。 ブログ16日分は、後からアップだね。 帰りの新幹線で、新幹線の社内誌「ひととき」をパラパラめくっていたら、静岡県の茶という文字が目に飛び込んだ。 それが、この半藤一利氏の2頁の短いエッセイだね。A氏:半藤氏は最近「昭和史」で有名だね。 ところで、何か静岡茶に関心があるの?私:20年くらい前に、静岡に仕事でちょくちょく行っていたんだが、そのとき知り合った人がいまだに、毎年、新茶を送ってくるんだね。 それで関心を惹いたんだね。A氏:題名が変わっていて興味があるね。 サムライと茶畑とどういう関係があるの?私:それが俺もはじめて知ったんだが、静岡が茶で有名になるのは、明治になってからなんだね。 明治維新で敗れた幕府軍のサムライたちが、明治2年に荒れ果てた静岡県の金谷原に移住してきた。 彼らは、刀の代わりに鍬や鋤を使って、茶畑を作ったんだね。 坂本竜馬暗殺団の一人と言われる見廻組の今井信郎という人もその中にいたという。 彼は後に村長にもなっているという。A氏:金谷というと、東海道線の島田の次の駅だね。私:そうだね。 半藤氏は金谷駅で降りて、大きく広がる茶畑を見に行く。 大井川の西から、御前崎にかけて、大きく牧の原台地が広がる。 ここが茶畑の中心だね。 静岡県は、今は、茶の生産は日本の半分を占めているという。A氏:最初、サムライたちはなれない農作業で苦労したろうね。私:明治11年に勝海舟が、彼らをたたえた手紙を半藤氏が引用しているね。 その頃、すでに茶畑の開発に成功したんだね。 それが、この茶畑の背景にある歴史だね。 今、地方分権というけれど、このように人が地方に移動しないと意味がないと思うね。
2008.06.17
コメント(0)
私:氏は酒が強いらしく、贈ってくる日本酒を台所の一角に床の間のようにして並べて賞味しているという。 日本酒は銘柄が漢字である。 並んでいる酒の名前が幻の瀧、天狗舞、招徳、澤乃井、酔鯨、香露とある。A氏:皆、漢字だね。 それも旧漢字だね。私:氏は、酒を飲みながら、その漢字からイメージをふくらましながら、このエッセイを書いている。 これが、はやりのひらがなだと豊かな想像を掻き立てないという。 まだ、味わったことのない福島の酒で「蔵粋」というのがあり、「クラシック」と読ませるのだそうだ。 しゃれている。A氏:思わず、飲みたくなるね。私:俺は酒をやらないが、確かに、これらの漢字は想像力をためされるね。 氏は、このエッセイの最後に漢字が美しいのは、絵画や彫刻と同じく、見る人の想像力を刺激するからであるという。A氏:そう言えば、漢字に書道があるが、アルファベットにはないね。私:それにしても、考えてみれば、ワープロ、パソコンと30年余、漢字はパターンで選択しているが、いざ、手で書くとなると、きれいに書けないね。 ホテルなんかでチェックインするとき、名前を書くが下手に字で恥ずかしいね。 それに、正しい筆順を忘れる。 そこで、1昨年、通信添削で毛筆漢字をやったよ。 しかし、毛筆は墨で書くので、手軽に練習できない。 そこへ任天堂のDSが登場したね。A氏:DSの「美文字」というやつか。私:そうだよ。 手軽に練習でき、添削までしてくれる。 1画づつ書くので、筆順や画数が違うと警告してくれる。 点数を付けてくれるから、上達しようという気になるね。 筆順や画数の意識が美しい漢字を書くための基礎になっているんだね。A氏:般若心経の写筆のDSもあるらしいね。 これは読経の声も出るらしい。私:それも挑戦してみるか。
2008.06.14
コメント(0)
私:この本で、映画「靖国」以外でもう一つ、興味をひいたのは、「宮中祭祀」の問題だね。 「宮中祭祀」は原武史氏の「昭和天皇」1、2、3、4、5で「宮城のお濠」の「内」と「外」の対比で詳しく述べているね。 われわれは、テレビなどでの皇室の「外」の活動を見ているが、「内」のことは案外知らない。 この「日本を弑(しい)する人々」の本では、原氏を糾弾する人にあげているね。 氏は最近、「宮中祭祀」廃止を提唱しているからだという。A氏:理由はなんだね。私:俺は今月の月刊誌「諸君」を本屋で立ち読みしたんだがね。 今月は皇室特集だね。 そこには20人くらいの論者が意見を述べていたが、その中に原武史氏の意見が1頁ほど載っていた。 原氏は「お濠の内(宮中祭祀)」と「外」とが、今の平成天皇の青年期まで、農業社会で大きなギャップはなかった。 それが、今は、それぞれが、別の世界になっているということを強調して、「内」を「外」にあわせるか、すなわち、「宮中祭祀」をやめるか、「外」を「内」に合わせるか、すなわち、「宮中祭祀」のような祭りを「外」でも行うかの選択が必要だと言っているね。A氏:、昨日、「お濠の外」の秋葉原で考えられないような若者による無差別殺人があったからね。 「お濠の外」はどんどん変わっているね。 雅子妃の問題も純粋の「外」で育った雅子妃が、「内」への対応ができないための症状だというわけだね。 「内」を「外」に合わせるという方法は具体的にどういうものがあるね。私:この本によると原氏はある論文で「浮浪者をお濠の内側に招いて一緒に食事をする」「皇太子夫妻が『ネットカフェ』を訪問し、彼らと同じ食事をする」と書いているという。A氏:この本の3人の著者はもちろん反対だろうね。私:本来、「宮中祭祀」は「民安かれ、国安かれ」という伝統的な意味があるので、これによって国民の福祉を図るという意味だと反論しているね。 これは万世一系の天皇家の祭祀と関係するから、当然、「女系天皇」問題と関係するね。 「象徴天皇」なら女系天皇でもいいが、「皇祖・皇宗」に祈りをささげる「宮中祭祀」に重きを置くとなると、「男系天皇」が重要になるという伝統の重みだね。A氏:皇太子夫妻が投げかけた問題は大きいね。私:「男系天皇」と「宮中祭祀」は関連しながらどう展開していくだろうかね。
2008.06.09
コメント(0)
コーヒーハンター私:インターネットで見ると、コーヒーのUCCの昨年07年4月のニュースリリースに次のニュースが載っている。 「仏領レユニオン島で65年前に途絶えた幻のコーヒーをUCCが再生 『UCCブルボンポワントゥ(豆)100g』世界初限定発売! 日本のコーヒー市場最高水準の販売価格(7,350円)で4月12日(木)から予約受付開始」 「UCC上島珈琲株式会社(本社/神戸市、資本金/49億6千万円、社長/上島達司)は、フランス共和国レユニオン海外県と共同で研究開発に取り組んできた幻のコーヒー『ブルボンポワントゥ』の再生に成功しました。 その初出荷コーヒーを限定プレミアムパッケージ入り「UCCブルボンポワントゥ(豆)100g」として世界で初めて発売します。 販売価格は、日本のコーヒー市場最高水準7,350円(税込)に設定し、完全予約販売で明日4月12日(木)から予約受付を開始します。」 今年も同様のニュースが載っているね。 この「幻のコーヒー」を数年かけて商品化し、同時に、レユニオン島の庶民に経済的な収入源を与えた功績者が、この本の著者だ。 著者は、まだ、50歳台そこそこ。 それなのに、世界をマタに、コーヒー一筋に偉大な事業を成し遂げた半生はすばらしいね。 この本は、そのコーヒー一筋の半生の人生記録だ。A氏:レユニオン島というのはどこにあるの?私:俺の世界地図にないので、ウィキペディアで調べたら、インド洋上の島といってもマダガスカル島の東にある小さい島だね。 著者の父親は静岡でコーヒー焙煎卸業をやっていて、子ども時代からコーヒー漬け。 コーヒーをさらに追求したくなり、高校をでるとともに、中米のエルサルバドルの有名なコーヒー研究所に単身飛び込む。 そこで、レユニオン島で昔、ブルボンポワントゥという非常に香が高い素晴らしい品質のコーヒーが栽培されていたことを知る。A氏:その好奇心がスタートとなったわけか。私:しかし、あまりに生産性が低いため、消滅した。 著者は、この種がまだ、痕跡を残していないかと、レユニオン島を訪ねるチャンスをさぐっていたが、1999年8月に同島にその探索の旅に向かう。 最初、島側も何を探しにきたのかと、思ったらしいが、目的を知り、島の産業を起すために積極的に動き出す。A氏:著者の訪問がなかったら、気がつかなかったわけか。私:現在、著者は、生産現場とマーケットをつなぐ役割を行っているという。 コーヒー豆の国際価格が下がると喜ぶのは消費国の業者。 一方、生産者である農民は低価格の毒性の強い農薬を使用したり、肥料の回数を減らしたりしてコストを下げようとする。 さらに価格が下がると、担保の土地を奪われ、一家離散の憂き目にあう。 借金のかたにコーヒー園を手に入れた銀行などの債権者は、価格が安く手間のかかるコーヒー園を整地して、牧草地として牛を飼い始める。A氏:そして、また、コーヒー豆が高騰すると、農民ばかりか、都市の資本家まで参加して原始林を伐採して、コーヒー栽培をはじめるんだね。 農民は貧困から抜け出せないし、コーヒーの供給は不安定だ。私:そういう状況を見てきた著者は、「維持可能なコーヒー栽培」を目指しているわけだね。 これは「フェアトレード」の考えと同じだね。A氏:それにしても、このコーヒーは高いね。 それでも品質がいいから売れるんだね。私:フランスの管理下にあるのか、レユニオン島の労働者の時給は発展途上国のコーヒー農園で働く労働者の日当を上回るし、週の労働時間はEU規格で週35時間に決められているという。 こういう生活を継続できる価格でないと「維持可能なコーヒー栽培」は無理だね。 アフリカのカカオ農園のように、児童の長時間労働で支えているような栽培では、供給は不安定だね。 「フェアトレードの冒険・草の根グローバリズムが世界を変える」の「マックスハベラー・コーヒー」のブランド品も、メキシコのコーヒー豆に目をつけ、メキシコの貧しい生産者を組織化して、有機栽培をして、公正なコストで買い、そしてオランダのマーケットに売り出して成功した。 それを推進したニコ・ローツェン、フランツ・ヴァン・デル・ホフの二人は、搾取する大企業と戦いながら、グローバルに活動する。 その活動エネルギーはすごいね。 川島氏も同様でそのエネルギーはすごいね。 こういう人材をアフリカ支援に投入されるべきだね。
2008.06.05
コメント(0)
私:戦後、日本の総理大臣による最初の靖国神社の「公式参拝」はGHQ占領下の昭和26年(1951年)に、時の吉田首相によって行われている。 佐藤栄作は11回、田中角栄は5回、「公式参拝」している。 もっとも、8月15日ではなく、春秋の例大祭の参拝だがね。A氏:靖国神社にとっては、8月15日は特別の日ではないから、特別の祭りもないね。私:靖国神社にまつられている「御霊(みたま)」を慰める祭りは、春秋の例大祭と月に3回の月次(つきなみ)祭(毎月1日、11日、21日)の2つしかないという。 映画「靖国」は、これらの祭りをとりあげず、8月15日の風景だけをとりあげているらしいね。 何かの意図を感ずるね。A氏:8月15日に行き出した首相は誰かね?私:首相の「公式参拝」をややこしくしたのは、昭和50年(1975年)の時の三木総理が8月15日に参拝し、しかも「公人」でなく、「私人」として参拝したことだ。A氏:靖国神社に祀られている「御霊」は、数は圧倒的に多いとは言え、太平洋戦争の犠牲者だけではないのにね。 遺族会の圧力かね。私:三木首相以降の総理は8月15日を「私人」として「参拝」することが慣例となる。 ところで、A級戦犯の合祀は、この3年後の昭和53年(1978年)だ。 翌昭和54年(1979年)に新聞がこれを大々的に報道する。 ところが、これに対して、中国からはなんの抗議も批判もない。A氏:抗議は、6年後の昭和60年(1985年)8月15日に中曽根首相が「公式参拝」したことで発生した。 中国の「人民日報」は最初、中曽根首相の参拝を「総理大臣による初めての『公式参拝』」であるかのように報道し、抗議したね。私:ところが、先に言ったように、吉田首相以来、多くの首相が「公式参拝」しているので、ミス報道だということが分かるね。 引っ込みがつかなくなったのか、中国は、抗議のホコ先を6年前のA級戦犯の合祀に向けてきた。 なんで、6年前に問題にしなかったのか不思議だね。 いかにも、中国らしいやり方だね。 ギョウザ農薬問題のように、いつまでたっても相変わらずの幼稚な強引さだね。A氏:7年前には、とう小平が日本を訪問しているね。 この当時の中国主導部の内部問題と関係があったのかね。私:このときの中曽根首相は「政教分離」の原則を守るとして、神式の参拝を簡素化した。 これに対して、松平宮司は非礼として、挨拶に出ようとしなかったという。 この本の最後に、若き日の周恩来の「19歳の日記」の紹介がある。 大正7年(1916年)、周恩来は19歳で日本に留学していた。 その4月30日と5月1日の日記に靖国神社の例大祭を見た文があるという。 そこには、「例大祭を見て、はなはだ大きな感慨を催す」と書いてあるという。 著者は、この周恩来の「感慨」に感情移入できる中国人は今いるだろうかと疑問を投げているね。
2008.05.31
コメント(0)
私:明治期の靖国神社の側面に今では考えられない観光的な要素や、アミューズメントセンター的な側面があるね。A氏:それに靖国神社には例大祭という祭りがあるね。私:これは東京招魂社時代からあるという。 しかし、最初は、人気のない神社だったようだ。 それが、明治4年に九段に近代的な灯明台ができてから、人気が出てきたという。 ところで、君は靖国神社境内が競馬場でもあったことを知っているかい。A氏:まさか、境内を使うとは考えられないね。 もっとも、神社だから、祭りの要素はあるからね。 相撲もそうだね。私:相撲は、明治2年の鎮座祭から境内でやるようになったという。 相撲は、両国国技館ができるまで、本場所を靖国神社の相撲場でやっていたという。 競馬の方は、明治4年の5月の例大祭から始まる。 日本人主催による最初の近代的な競馬競技会だったという。 これは「九段競馬」と言われ、明治31年に中止されるまで、毎年、例大祭、臨時大祭のたびに開催されたという。 明治20年の例大祭の競馬では皇太子(後の大正天皇)まで見に来ていたという。A氏:開かれた靖国神社だね。私:明治4年の例大祭には、日本最初の博覧会である「物産会」が東京招魂社境内で開かれる。 明治14年には立派な西洋風の「遊就館」ができる。 この設計はお雇い外国人のイタリア人がやった。 もっとも、この「遊就館」は関東大震災で大破する。 明治21年には大鳥居(現在の第2鳥居)ができる。 明治26年に大村益次郎の大きな像ができてから、さらに東京名所としても紹介される。 九段下は後に百貨店のもとになるような「勧工場(かんこうば)」が盛んになる。A氏:敗戦後は、力道山のプロレスもやったね。私:実は、戦前の大正十年にアメリカのプロレスと日本の柔道との試合が靖国神社境内であったんだね。 このような靖国神社の姿があったことは興味あることだね。 敗戦後、靖国神社は一時、財政難で、娯楽センターを考えたことがあるね。A氏:その話は「靖国戦後秘史・A級戦犯を合祀した男」2.でふれたね。 こここでは、靖国神社は1944年に73万人、1945年が40万人の参拝客があったが、戦後「GHQににらまれた神社」として46年は3万人程度まで激減したという。 その上、一宗教法人となったので国費も出なくなった。 敗戦後から筑波宮司がくる半年くらいの間、占領軍との交渉はナンバー2の横井権宮司が当たるが、一時は収入を得るため、娯楽センターの建設も考えたとあるね。私:この本は靖国神社が九段にあるという立地から、いろいろな山手、下町の関係や芸術家や作家などの人物に焦点を当てている。 これが、この本の半分くらいを占めるが、これは、俺は興味がなく、読み飛ばしたね。 しかし、この「靖国」の本はA級戦犯合祀のことはほとんどふれていないね。 「文庫版『靖国』の『あとがき』に代えて」で多少ふれているがね。 これを明日の話題にしよう。
2008.05.30
コメント(2)
私:靖国神社については靖国問題、靖国問題の視点、「靖国問題の原点」、「靖国戦後秘史・A級戦犯を合祀した男」1、2、3、表現の自由・ドキュメンタリー映画「靖国」・NHK国際放送、映画「靖国」上映中止と街宣車、映画「靖国」上映中止問題、「映画『靖国』が隠していること」と知的街道が続いてきたね。 A氏:この「靖国」の著者は、文芸春秋の「映画『靖国』が隠していること」の筆者だね。私:この文藝春秋の坪内氏の記事で、氏の「靖国」を読みたくなって、図書館から借りたんだ。 約350頁の厚い文庫本だ。 靖国神社の歴史を、東京招魂社時代から詳細に調査しているので、いろいろな新知識が得られたね。 しかし、話があちこち飛ぶので、いざ、まとめるとなると大変だね。A氏:靖国神社の母胎が東京招魂社であることは、日本人で靖国神社に興味がある人は常識ではないの?私:それが映画「靖国」では、映画のキャプションで「明治2年靖国神社設立」とあり、間違っているという。A氏:国から金を貰いながら困った映画だね。私:日本は徳川幕府の平和時代を経て、戦国時代以来、初めて、幕末の尊皇攘夷運動の中で多くの死者を出す。 その死んだ志士を弔う目的で招魂社が各地で建てられ、明治維新の前後では、官祭のもので105社、私祭のものが33社あったという。 尊皇攘夷が裏にあるから、すでにナショナリズム的な感じがするね。 だから、東京招魂社で祭られたのは「官軍」戦没者だね。 「賊軍」は「邪霊」で合祀されない。 複雑なのは会津藩で、蛤御門の変では天皇を守ったということで、その戦死者は招魂式で祀られたが、戊辰役の戦死者は「賊軍」なので「邪霊」とされたという。 後に日露戦争中、沖ノ島近くでロシアの軍艦に撃沈された日本の民間船の船長は英国人だったが、機関長など2名とともに、3名の英国人が靖国神社に合祀されているという。A氏:その意味では合理的だね。 しかし、明治政府は攘夷でなく、開国したわけだから、攘夷派を合祀するのは一貫性がないのではないの?私:福沢諭吉もそれに疑問を持っていたというね。A氏:しかし、日本人は死んだら悪人も仏だという考えがあるというが、明治の招魂社ではかならずしもそうでなかったんだね。私:これは東京招魂社の立地でも問題になったらしい。 最初、上野につくるという案があったが、上野は「賊軍」の彰義隊が戦った後で、「邪霊」の後地というので反対論があったようだね。 それに今の九段は、下町と山手の中間にあって、適切な地であるとして著者は評価しているね。 この立地に対する著者の思い入れは、勤務先の近くにあって、しばしば、訪れているだけに深いものがあるね。 俺はその説明にはついていけなくて、かなり読み飛ばしたがね。A氏:明治2年に東京招魂社ができてから、明治10年に西南戦争に多くの戦死者を出す。 明治維新の功労者である西郷を始め反乱軍の死者は合祀されていない。私:西南戦争は明治政府最大の内乱で、戦死者も多く出すが、その間にいろいろな内乱があり、その都度、多少の戦死者を出している。 だから、西南戦争の戦死者の招魂式は第8回の招魂式になる。 興味があるのは、この8回にわたる招魂式の祭主は軍人であり、神官は一切無関係なことだね。 第7回の招魂式は海軍少将が祭主となっている。 これが明治11年の第10回の合祀まで続く。A氏:ちょっと、神社という印象と違ったね。 明治12年に東京招魂社は別格官幣社となり、靖国神社となるね。 ここで、祭主も宮司となり、神式になるんだね。私:このとき、管轄が陸軍省、海軍省だけでなく、内務省も加わった3省合同の管理になったので、靖国神社の祭祀は国家的な性格を得ることになる。 その意味で映画「靖国」のキャプションは「明治12年、神道のもと、国家管理の靖国神社設立」とすべきだろうね。 明日は、多様な靖国神社の面にふれよう。
2008.05.29
コメント(0)
私:日韓併合は1910年で、韓国に対する日本の植民地化が始まるね。 「創氏改名」はその30年後の1940年に実施される。 この年は、日本の紀元二千六百年で、「創氏改名」はその紀元節(現在の建国記念日)である2月11日に開始される。A氏:戦後、日本の首相で、具体的に「創氏改名」を具体的にあげて韓国に謝罪の意を示したのは細川首相だね。 その後、橋本首相がふれている。 最近、問題が大きくなったのは、2003年の当時自民党政調会長だった麻生太郎氏が講演で「『創氏改名』は朝鮮の人が『名字をくれ』と言ったのがそもそもの始まりだ」と発言。 謝罪したが、発言は取り消さなかった。 戦後、「創氏改名」は強制でなかったという立場の人がいるが、麻生氏はその立場をとっていたわけだね。私:この本は「創氏改名」に焦点を当てて、詳細に歴史的な事実を明らかにしているね。 まず、一言で「創氏改名」と言っているが、正確には「創氏」と「改名」はとは違う。 日本が韓国に特に強く求めたのは、「創氏」のほうだね。 最終的に、「創氏」をした韓国人は80パーセントくらいになったが、「改名」した者は10パーセントくらいで終わったことでも明らかだね。A氏:日本も1870年(明治3年)の「平民苗字許容令」、1875年(明治8年)の「平民苗字必称令」で平民に「氏」がつけられた。 家の称号として「氏」が法制化されたのは1898年(明治31年)で、それ以前は夫婦別姓が一般的だった。私:明治民法は、家の長としての戸主に大きな権限を与えた上で、国家が家を通じて個人を把握するというシステムを作った。 家が直接天皇と結びついているという観念が形成され、天皇を頂点とする国家体制がつくられた。 だから、家の継続性を示す「氏」が重要なんだね。A氏:その天皇家も男系の万世一系だね。私:韓国は結婚しても、女性の氏は変わらない。 要するに「血族」を重視するシステムだね。 これを日本式の天皇を頂点とする「イエ」制度の導入を図ろうとしたのが「創氏改名」だね。 当時の朝鮮総督の南次郎は 「朝鮮には血族団体の名称として、李とか朴とかいう姓はあるが、日本古来の称号たる『氏(うじ)』がない。 一家内にあっても夫と妻が別々の姓を称している。 この血族中心主義から脱却して、国家中心の考えを培養し、天皇中心の国体の本義に徹せしめる趣旨のもとに『氏』を付けることが許されるようになった」と言っている。A氏:やはり強制だったのかね。私:「日韓合併」から、「創氏改名」の実施まで30年もたっているように、日本側内にもいろいろ意見の相違もあったようだね。 日本人と韓国人は顔や肌の色で区別がつかないから、名前で区別していたのが、名前も日本式になると区別がつかないので、日本の警察側では最後まで積極的でなかったようだね。 しかし、日本国内の軍国主義化が次第に強くなると、皇国同化政策が強化される。 たしかに、最初は「創氏改名」は、表向きは強制でないということでスタートした。 最初は半年期限の任意届け出し制だったしね。A:韓国の一般の人はあまり、必要を感じていなかったのではないの?私:3ヶ月たっても申請登録したのは、4パーセントくらい。 日本側はあせるね。 だから、韓国の議員、官僚、教師、警官などは「創氏改名」に先頭に立つべきだとか、各道の登録成績を競争させるなどの大々的なキャンペーンや圧力が行われた。 これは強制ととられても、仕方がないね。 最終的に6ヶ月間で「創氏」は、80パーセントまでいくね。 一方、「創氏改名」に反対の意思表明をした者には、国家の転覆を図るということで懲役になった。 日本での「治安維持法」と同じ「保安法」があったようだ。A氏:日本の敗戦後はどうなったの?私:1946年に韓国では「朝鮮姓名復旧令」が出てもとにもどる。 北朝鮮でも同様らしい。 日韓関係の対立感情を残して、「創始改名」は5年ほどの短い歴史を終えるね。 一体、何のバカ騒ぎだったのか、日本人として深く反省すべき問題だね。
2008.05.24
コメント(2)
私:葬儀に向かう列車中で読んだトランベール5月号の巻頭エッセイの話は昨日、話したね。 この号の特集は秋田県の小坂町だが、俺は始めてこの町を知ったね。 特集のタイトルは「『近代遺産』の町、秋田・小坂を旅する」とある。A氏:近代化遺産とは何かね?私:昨年、経済通産省が近代化産業遺産群33をあげているのがもとだね。 明治期の近代化の国策に貢献したいくつかの鉱山があげられていて、小坂鉱山もその一つだね。A氏:ウィキペディアで小坂町をひいたが、そんなことは書いてなかったね。 地図では十和田湖の西岸が、この町になるんだね。 東岸は青森県十和田市だ。私:小坂鉱山は江戸時代末期に銀山として有名で、銀生産量が日本一だったという。 だから、江戸期は小坂銀山と言われていた。 しかし、明治になって銀山としては衰退し、明治30年代半ばに銅山に生まれ変わる。 これには、久原房之助が関係している。A氏:久原房之助と言えば、戦前の政財界の大物ではないかね。 鉱山王とも言われたとあるね。 まさに、日本近代化の大人物だね。私:しかし、弱冠29歳の久原房之助が小坂町の鉱山事務所長に抜擢されたのは、銀山閉山処理のためだった。 当時、小坂鉱山は銀鉱石以外に、黒鉱という銅、鉛、亜鉛を含んだ膨大な鉱石が眠っていたが、製錬が困難だということで膨大な黒鉱が放置されていた。 これに目をつけた久原房之助が専門家を登用し、明治33年(1900年)に世界ではじめての黒鉱の製錬に成功する。 明治39年(1906年)に世界一の溶鉱炉が完成し、翌年、小坂鉱山は、金、銀、銅の総生産額日本一になる。 2位の別子銅山、3位の足尾銅山に比べて約3倍という生産価格だったという。A氏:秋田、青森の県境に、そんなすごい鉱山があったとは、知らなかったね。 しかし、明治の日本人はすごい近代化技術をすでに持っていたんだね。私:小坂鉱山の「鉱山町」は全国的に見ても文化の先頭を走っていたという。 久原房之助の「理想社会を作りたかった」という思いが強く反映されていたという。 小坂町の人口は最盛期には3万人を超えていたそうだ。A氏:鉱山の運命は、鉱脈の枯渇だね。私:平成2年に幕を閉じる。A氏:ウィキペディアによると、今は、6千5百人くらいだね。私:実は、小坂鉱山の歴史は、これで終わらない。 金属資源リサイクルに乗り出す。A氏:「メタル・ウォーズ」で日本は天然資源に乏しいが、「都市鉱山」といわれる工業製品の廃棄物が多く存在すると指摘している。私:そのリサイクルで、貴金属やレアメタルが製錬できる。 小坂製錬所では、伝統的な製錬技術を発展させ、金属リサイクル事業を成功させているという。A氏:まさに技術革新が町おこしになっているね。私:小坂町は、銀山の衰退を黒鉱の製錬技術の革新で克服し、今、銅山の衰退を金属リサイクルという製錬技術で克服しているね。 処理が進まないアジア圏内の使用済み携帯電話を回収し、リサイクルする事業に取り組み始めたという。 「近代化遺産」の観光の町というより、「先端技術の町」といったほうが適切とも言えるかもね。 夕張の町も廃坑の後、町を発展させるためには、観光に多くのカネをかけるのでなく、このような技術的な開発にカネを使っていたら救われたかもね。 いや、カネでなく、まず、久原房之助のような人物が必要だったのかもしれないね。
2008.05.07
コメント(0)
私:すごい本だね。 久しぶりに圧倒された本だね。 さすがに、黒人で初代大統領を目指すだけある人物であることを実感したね。 この本の題名は「マイ・ドリーム」だが、これは原文の題名と違うね。 誤解されやすい題名だね。A氏:元の題名はなんていうの?私:「私の父からの夢・Dreams from My Father」だから、正確に言うとオバマ氏のドリーム(夢)ではないね。 副題として「ある人種と継承の物語・A Story of Race and Inheritance」とあるね。 だから、「夢を語る」という明るい本では、全くない。 深い人種差別と貧困に悩む青年の姿を描いた本だね。 和訳の本は540頁からなる大著だが、大きく、3つに分かれている。 第1部は、ハワイで生まれ育ち、ついで6歳から10歳までは母親の再婚先であるインドネシアに暮らし、ついでオキシデンタル・カレッジからコロンビア大学までの大学生活の生活記だね。 第2部は、大学卒業後、シカゴのNPOで活動する内容が中心だね。 第3部は、父が生まれ育ったケニアに「ルーツ」を求めて旅する紀行だね。A氏:ウィキペディアによるとオバマの父は黒人だが、母親は白人だね。私:混血だが、肌の色は黒いから、いわゆるアフリカ系アメリカ人だね。 アフリカ系アメリカ人が肌の色から、自分のアイデンティティに悩み出すのは、物心がつく4、5歳くらいだね。 オバマもその年くらいになって、肌の色が意味するものを次第に知るようになるね。 この本を読んで、アフリカ系アメリカ人が人種差別で悩むことの深さが、これほど、深いとは知らなかったね。 日本の題名からくる明るいイメージとは違い、アフリカ系アメリカ人の深い悩みが、繰り返し登場する。 貧困問題が解決しないで放置され、深刻化していることも悩んでいる。A氏:アフリカ系アメリカ人の不幸を嘆いても仕方がないが、簡単に救いも見えないという深刻さがあるね。私:この厚い本では、その解決の結論は出ていない。 それほど、深い問題だね。 一応、大統領選挙運動では、彼は、アメリカは白人対黒人の国家でなく、アメリカはアメリカで一つだと言っているが、まだ、解決をしていない深い問題であることも、同時に知っているのだろうね。A氏:日本人は、日本にいる限り、そういう皮膚の色による深い人種差別体験はないが、「私小説・from left to right」で著者の水村美苗が12歳で渡米し、日本人という黄色人種がいかにアメリカの白人社会で差別されるかを体験する話が出てくるね。 日本人社会のぬるま湯で育った少女にとってはショックだろうね。私:アフリカ系アメリカ人のほうのショックはもっと深いね。 第3部で、オバマははじめて父親が生まれ、そして死んだケニアを旅行するが、あるレストランで、ケニア人ののウエイターやウエイトレスが、白人にはサービスがよく、食事もどんどん出してくるのに、黒人である彼には注文を聞きにこないし、料理の出も遅いという体験をする。 ケニア人がすでに、同じ黒人を差別しているわけだね。 同じ民族という感覚がすでに欠落している。A氏:そういう差別は日本人にはないかもしれないね。私:イラク戦争にも最初から反対し、レーンガンの市場経済主義にも批判的な彼が、もし、大統領になったなら、どういう政策を推進するのだろうか。 彼が大学を出て、シカゴでNPOをしていたとき、シカゴ市長は始めての黒人市長のハロルド・ワシントンだね。 しかし、その彼が急死して、いろいろな改革も中途半端で終わるね。 それはやはり、バックするコミュニティがなかったためかもしれないね。 今年、48歳を迎えるオバマ氏は、その点をよく見ているだろうね。A氏:格差社会のモデルとして、日本の先を進んでいるアメリカがどう変わるのか、アメリカ人の多くもオバマ氏に期待しているのではないかね。私:しかし、クリントン女史との戦いで、共和党のマケインに負けるかもしれないね。 目を離せないね。
2008.04.27
コメント(0)
A氏:いよいよ、明日、北京オリンピックの聖火リレーがまわりまわって長野市にバトンタッチだね。 長野の善光寺がオリンピックの聖火のスタート地点を辞退したね。 その一つの理由に同じ仏教徒として、チベット仏教への同情を明らかにしたね。 それを20日の日曜日のサンデイーモーニングでコメンテイターの寺島氏が高く評価していたが、浅井氏は、同じ仏教徒で対立し、殺し合いをしているスリランカの問題にもコメントをすべきだと手厳しかったね。私:ところで、19日の土曜の朝日新聞で田中教授が「真実の歴史 まず理解を:チベット問題を考える」というエッセイを掲載しているね。 興味があったのは、中国周辺の仏教徒が多くいるところは、チベットだけでないんだね。A氏:俺も読んだよ。 チベット仏教は16世紀に内モンゴルに入るんだね。 さらに北上して、ロシアのバイカル湖に広がる。 現在、「ブリヤート共和国」になっている。 ブリヤート人は日本人の祖先ではないかといわれているようだね。 ウィキペディアでは、この国が仏教と関係あるということは書いていないね。私:さらにロシア内のボルガ下流に「カルムィク共和国」がある。 これも仏教共和国だという。 ウィキペディアではチベット仏教の国だとあるね。 このような「モンゴル系の国々」が今まで、ソ連時代、日本の侵攻時代、ドイツの占領時代といろいろな圧制時代を生き延びてきているね。 そういう観点から、チベット問題を考える必要があるかもね。A氏:もう一つ、チベットの独立を中国政府が認めないのは、いろいろ、大義名分は言うが、本音は広大な面積と地政学的な位置と、それに豊富な金属資源に恵まれているからだと思うね。 そのためには、本音は人権侵害とか文化や宗教破壊とか自然破壊などと無関係。私:昨日のブログで、中国の兵器を搭載した船がアフリカの近海で「漂流」しているニュースにふれたね。 中国はジンバブエ国向けにカラシニコフ銃弾300万発、追撃砲弾3千発などを船に積んで送り出したが、先週、南アフリカのダーバン港に入ったときに、港湾労働者に荷下ろし拒否され、これに対して、アメリカは「政治的激動が起きているジンバブエに武器を供給して事態をあおるのは不適切だ」と指摘した。A氏:どうやら、中国は引き下がるようだが、中国外務省関係者は「中国の武器輸出はアメリカの10分の1くらいだ」と反論したという。 「お前のほうがもっと悪いことをしているのだから、俺がやっても文句をいわれるのはおかしい」という論理だね。 呆れたね。 わかっていないね。 日本では、これを「盗人猛々しい」という。私:本音は、政治不安があろうとなかろうと、強引にジンバブエの金属資源が欲しいのだが、それは言わない。 堂々と屁理屈をいうね。A氏:このブログの「「昭和天皇」の佐藤優氏の書評」で、佐藤氏は「国家は神話なくして存在しない」として、米国の自由と民主主義、中国の科学的発展観、欧州の統合思想、ロシアの地政学など、いずれも現代の神話であり、いずれも「創られた伝統」であるとしている。私:中国の行動を見ていると、佐藤氏の言う「中国の科学的発展観」の意味が分かる気がするね。 儒教や仏教は消えて、「科学的発展観」が中国の「創られた伝統」となっているようだね。
2008.04.25
コメント(0)
私:テレビをついに買い換えたよ。 今まではブラウン管式のもので映りが悪くなったようなので、思い切って、デジタル地上波対応の液晶テレビに代えたよ。 スペースをとらなくなったね。A氏:俺のところはまだ、ブラウン管タイプだよ。 そろそろ、代えなくてはとは思っているんだがね。 デジタルは映りはいいかい?私:画は実にきれいだね。 俺の女房は女優も気をつけないと、顔だけでなく手のシワまできれいに映るといっていたね。 このテレビは内蔵のHDDがあるのでかなりの時間の録画ができる。 いろいろ、試しに操作しているうちに、気がついたら、シベリア鉄道の取材のドキュメントが録画されていたよ。 別に、見る意図で録画したのではないのだが、今日、録画を整理するのでみてみた。 これが結構、面白かった。 ちゃんと録画していなかったので、最後まで録画してなかった。A氏:シベリア鉄道というとモスクワからウラジオストックまでの長い旅だね。 約1週間、乗っていることになるね。私:列車は、一等と二等に分かれているが、取材は両方しているね。 興味があるのは、同じTVドキュメントを1982年にやっていることだね。 ときどき、そのときの映像が比較のために映される。 だから、この25年間のロシアの変化がよく理解できるね。A氏:ソ連の崩壊、自由化、経済危機、そして経済復興、大国としての復権と、この25年を過ごした世代の人の経験はめまぐるしかっただろうね。私:この7年間でロシア人の平均所得は4倍になったという。 プーチン人気もここからきているんだろうね。 きれいになり、人の多いショッピング街が映し出されるが、25年前の映像とガラリ変わっているね。A氏:日本の高度成長の所得倍増なんか消しとんでしまうね。私:それに宗教もソ連時代は抑圧されていたのが、自由になったので、ロシア大正教は民衆に広まり、今はロシア人の半数が信者だという。 TVは教会のシーンを25年前と比較しているが、今は、多くの人で教会は一杯だね。A氏:経済の自由化でストレスも増えているのではないの?私:格差も拡大したようだね。 このTVドキュメントはある町の孤児院を取材している。 母親が育てられないで、孤児院で引き取る数は増えているという。 市場原理が生み出す、世界共通の現象だね。A氏:ロシアはバレーで有名ではないのかね。私:これも前回のソ連時代との比較映像を出しているが、かっては国の援助で世界的に優れたロシア国技といわるバレーは、自由化で財政難となり、下火になっているようだ。 バレリーナとなっても収入もそんなに多くないので、人もそちらに流れていくという。 しかし、スカウトの人が全国を回り、才能がありそうな子どもをスカウトしているのは25年前と同じだね。 何か、日本の伝統芸の相撲の運命と似ているね。 日本のほうが先行しているかもしれない。A氏:しかし、1週間の汽車の旅は退屈だろうね。私:ソ連時代の映像では、チェスとかそれぞれゲームとか暇つぶしに興ずるシーンがあったが、今、多いのは携帯電話だという。 途中、石油の産出地であるチュメニに停車するが、石油の増産で、多くの出稼ぎの家族が降りていく。 石油で経済大国になったロシアの姿を直接感ずるね。 このドキュメントはシベリア鉄道の沿線の著名な都市を取材しながら、ロシアの今をとらえていて、興味があるね。 しかも、ときどき、25年前の映像と比較する。 時代の流れを感ずるね。 残念ながら、終点のウラジオストックまで行かないうちに録画は終わった。 DVDには落せないので消した。 しかし、「ロシア世界を読む」、「プーチンは"皇帝"になるか」、「プーチン圧勝」、「アジアに接近するロシア・その実態と意味」、「株式会社ロシア・混沌から甦るビジネスシステム」1、2、と続いてきたロシア知的街道にはつながったね。
2008.04.17
コメント(4)
私:例のテロによる大韓航空機爆破事件が起きたのが、1987年11月29日だから、20年以上にもなるんだね。 ウィキペディアでは、犯人の金賢姫(キム・ヒョンヒ)は消えたとあるが、このアエラでは、その後の彼女についての取材をしているね。A氏:何故、今頃、金賢姫が登場するの?私:韓国の10年ぶりの保守政権登場で、金賢姫が、いつ、北朝鮮に送還されるかという恐れがなくなったからだという。A氏:彼女は多くの韓国人をテロで殺している。 それを北朝鮮に返すというのかね?私:彼女が1987年12月1日に逮捕された直後の12月16日に韓国大統領に選出されたのは保守の盧泰愚(ノ・テウ)だ。 その後、これも保守の金泳三(キム・ヨン・サム)が大統領となる。 問題は、1997年12月28日に、長い間、続いた保守政権をひっくり返し、左派の金大中が大統領になってから、北朝鮮との接近政策で、金賢姫の送還話が出てきたことだね。A氏:金大中は北朝鮮接近でノーベル賞までもらっているから、どこまで北朝鮮に尻尾を振るか分からない。私:これが、2003年になると、同じ左派の盧武鉉(ノ・ムヒョン)が大統領となり、「大韓航空機爆破事件は北朝鮮の犯行でなく、韓国の安企部が仕掛けた」という陰謀論が出て、「真実究明委員会」が作られるまでになる。 金賢姫は証人出頭を求められたが拒否したという。A氏:明らかに北朝鮮に対する低姿勢の政治対応だね。私:昨年、大統領選挙が左派に不利となってから、3年に及んだ調査の結果、10月に「陰謀論は事実無根」と結論付けられたという。A氏:当然なのにね。 金大中、盧武鉉と続いた左派政権の10年間は、彼女には不安定な人生だったんだね。 しかし、今度は、新政権で北と南はまた対立だね。 送還の不安はなくなったが、彼女の運命はどうなるかね。私:ところで、この大韓航空機爆破事件は、北朝鮮がソウルオリンピックに反対し、東側社会主義国に対して不参加を呼びかけるための行為だと言われているね。 今、北京オリンピックでもチベット問題で、開会式に出席しない大統領など、オリンピックはいつも政治がらみだね。 この大韓航空爆破事件も金賢姫は日本人名のパスポートだから、逮捕されて、北朝鮮人ということが分からなかったなら、日韓の外交問題にもなっただろうね。A氏:ウィキペディアで大韓航空爆破事件をみると、当時のソ連始め東側社会主義国は、大韓航空爆破事件が北朝鮮のテロ行為によることをすでに知っていたんだね。 だから、最初、参加をあいまいにしていたソウルオリンピックに、このテロを機に正式参加するという、金日成の期待と逆効果となった。私:翌1998年6月には金日成が中ソ両国を訪問したが、その場で「これ以上ソウルオリンピックの妨害工作をするのであれば、北朝鮮が1989年に開催する世界青年学生祭典に参加しない」と圧力をかけたという。 その3ヵ月後、ソウルオリンピックは成功裡に終わる。 これも政治がからんでいたね。 その中国がいよいよ北京オリンピックだね。 どこまで政治色を排除できるかだね。
2008.04.16
コメント(0)
私:ペリーズのマヤ人のカカオ豆に目をつけたのはチョコレート大手企業のハーシーが早かった。 アメリカに近いし、政治も安定している。 1980年代後半、ハーシー社とベリー政府は共同で「カカオ促進プロジェクト」を推進する。 カカオ生産促進のために、農民は農薬が必要となり、農薬の負担とともに環境問題を起こす。 1990年代初めハーシー社による交配種が収穫時期を迎えたとき、カカオ豆の相場は急落した。 農民は債務を抱えることになった。 マヤ人は他の農産物の収穫で借金を返さざるを得なくなった。 マヤ人の祖先が2000年前に育てた奇跡の作物カカオで貧困を脱するという夢は崩れたかにみえた。A氏:コートジボワールと似ているね。私:クレイグ・サムズは1960年代、アメリカ生まれのイギリス人で、環境意識の高い消費者に売れる新商品を模索していた。 サムズの妻、フェアリーは「オーガニックチョコレート」を考案し、ブランド名称を「グリーン&ブラック」とした。 「オーガニックチョコレート」の原料探しは難航した。 最初は、アフリカからカカオ豆を入れて、環境にやさしい高級チョコを作って売り出した。 しかし、アフリカの政治情勢の不安定から、1993年に材料供給が停止した。A氏:そこで供給が安定しているマヤ人のカカオ豆が登場するわけか。 そして、マヤ人側には、昨日のブログでふれたハーググローブが登場するわけか。私:グリーン&ブラック社は「マヤ・ゴールド」というブランド名で売り出す。 そして、児童労働、奴隷制が使われていない「フェアトレードの認証スタンプ」が商品に表示される。 「マヤ・ゴールド」は1994年3月に発売された。 「オーガニックチョコレート」であるばかりでなく、イギリスで最初の「フェアトレード基金」のロゴがついた製品となった。 マヤ人は伝統的な栽培方法に戻り、化学薬品を使わずに栽培した。 こういう「緑」の商品を大手企業は軽視していたが、多くの消費者が大量生産品に代わるものをもとめるようになってきたことを知って、大手企業は動き出す。 2005年、多国籍企業キャドバリー・シュウェプス社はグリーン&ブラック社の株式の過半数を取得する。A氏:グリーン&ブラック社の今後はどうなるだろうかね。 それはマヤ人の生活にもかかっている。 殺虫剤を使わず、子どもたちを学校へやれるというのは以前の経験よりはいいが、後、どのくらい続くだろうかね。 多国籍企業の市場原理の餌食にならないだろうかね。私:著者は最後にこう言っているね。 「著者が取材であったアフリカのマリー人少年は仕事と冒険をもとめて隣国のコートジボワールに行き、人生の一部をカカオ農園の強制労働に費やした。 何百人という子どもを奴隷にするというコストがチョコレートに含まれている。 しかし、彼らは、チョコレートの味を知らず、これからも知ることはないであろう。 チョコレートの歴史は、何世代にもわたって、多かれ少なかれ、彼らのような人々の血と汗で書かれてきた。 未来を見通してみるとすれば、ずっと昔から続くこの不公正が正される見込みはほとんどない。」 この本を読んで、俺たちも「甘い」チョコレートを食べるとき、そのカカオ豆はどこから来たのか、児童が働くカカオ農園の「苦い」イメージを想像することになるね。
2008.04.01
コメント(0)
全270件 (270件中 51-100件目)