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黒田毅氏(武蔵豊岡教会資料整理委員会委員長)。
「明治中頃、農村地帯であった黒須村出身の石川和助が
東京の一橋商業学校に通っていた頃、キリスト教に触れ、宣教師ハリスから洗礼を受け、クリスチャンになった。
この素晴らしいキリスト教を故郷に伝えたい。川越まで行って船に乗らないと東京に行けないほど田舎だが。
家族、特に父親は大反対。
「西洋の宗教にかぶれてしまったのか。勘当だ!信仰を捨てなければ学費は出さない!」
和助は「信仰を捨てるわけにはいかないから、それならそれで構わない。」と。
母親は父親に「和助はあなたに似て頑固なんだから、このままでは変わるはずがない。
一度試しに教会に行ってみたら?」と勧める。
父親は、和助と一緒に教会に行ってみたら、素晴らしいと受け入れられた。
宣教師ドレーパルを呼んで、豊岡町で大演説会を開く。
扇町屋の長泉寺の境内の旅回り一座の芝居小屋霞座で。
たくさんの聴衆が集まり、
父親が洗礼を受け、入間での初めてのクリスチャンになったので、
この日が武蔵豊岡教会の設立日になった。
メソジストは、教会と教育を大事にする。学校を作るのも戦略だったが、この教会は家族伝道から。
教会の建物さえなかったが、礼拝堂が欲しい。
武蔵藤沢の澤田氏が「酒蔵を取り壊したら、小さな礼拝堂が作れるのではないか」と言いだした。
メソジストは禁酒運動をしていたから、あまり酒が売れなくなったと言って、
酒蔵を貸してた人も明け渡してくれた。
酒蔵の廃材で建てた小さな礼拝堂。今の原田病院のところ。
石川和助の兄の石川幾太郎が創業した石川組製糸がバックアップ。
工女も礼拝。入りきれないので、大きな会堂を建築しようと土地から寄付。
軽井沢に訪ねていき、ヴォーリズに依頼。
大正12年(1923)に豊岡の地にヴォーリズ設計で建築。
候補のスケッチ3点。3の塔をもう少し高く?と書き加えている。
どこに行っても見えるように高い塔を作りたかった。しばらくは入間市で一番高い建物だった。
当時のみやじり牧師。
神戸の教会に見学に行ってから軽井沢に行った。
清水組にも見積もりしてもらったが、工場を建てたところに頼んだ。
トラスと言って屋根裏を見せるのが教会建築だが、この教会には和風の天井がある。
ゴシック様式には天井がないと知らずにヴォーリズに天井の設計図を要求したが、もらえなかった。
青山大学の礼拝堂には天井があると聞いて、見に行き、天井を付け足している。
ヴォーリズが来て、なぜ天井があるのか?と言われたが、今更変えられないからとそのままになった。
会堂建築費用。当時2万くらい。今の金額だと4億近くかかっていた。
関東大震災、東日本大震災にも耐えたほど、耐震建築になっていた。
建て替えるときは土台が腐っていたけど、よくもった。
敵国の宗教として敵視されていたから、照明も金属供出して協力した。
戦争中も礼拝を休むことなく続けられた。
石川組製糸が解散してから、財政的にも厳しくなったが、日曜学校でキャンプに行ったりしていた。
青年への教育、伝道を大切にしたから、次代の教会員が育成された。戦死した若者もいた。
駐留軍も礼拝に来た。
自由学園などと幼稚園設立。
大銀杏も切った。
外装は耐震工事で変わったが、内装は昔のままを改築、再現。
「あなた一度教会に行ってみたらどうですか?」と和助の母親が言わなければ、この教会はなかった。
建物は使わないと駄目になる。戦争中も礼拝を続けたから保たれた。
ホールは和室で、襖があった。そこで日曜学校をしていた。
マイクないから、説教が聞こえるように音響が必要。
新しいオルガン。パイプオルガンの音色。
前のオルガンも取っておいてある。
照明器具の請求書が来ないと思ったら、寄付してもらっていた。」
さすが資料整理委員会委員長だけあって、お話もまとまっていて上手です。
私のはメモ書きそのままなので、まとまってませんが・・・
その上、後でパイプオルガンの演奏もしてくださるとのことでした。
それは、次の日記を見てくださいね。演奏も聴けます。
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