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後藤早苗の入選歌(同人誌「賀茂短歌」より)27年度 4月号より 猿の群近くに居るや甘夏が食べちらされて地面を覆う(読売新聞静岡版 よみうり文芸 四月二十一日 入選 篠 弘 選) 5月号より 休耕田次々増えて家の回り獣が出ても何もおもわぬ(雑誌「短歌」平成二十七年五月号公募短歌館 特選 安田純生 選) (評)休耕田が増えて、いわば一帯が山野化し、たとえば猪、鹿、狸などといった獣が家の周囲に出没するようになったのであろう。「何も思わぬ」といっているが、不思議には思わないという意味の「何も思わぬ」であって、この語に、むしろ思いがこもっているのである。 携帯を手から離さず帰省児がろくに話もせずに帰りぬ(雑誌「短歌」平成二十七年五月号公募短歌館 佳作 森山晴美 選) 会社では優秀賞など受けている娘の早き結婚のぞむ(読売新聞静岡版 よみうり文芸 五月三日 佳作 篠 弘 選) 一日ごとに大きくなりゆく玉葱を見廻る事が今日の始まり(読売新聞静岡版 よみうり文芸 五月十九日 佳作 篠 弘 選) (評)逞しい植物の生命力を見守ることから、自分の現在を思う。欠かさずに早朝から見回るよろこびがにじむ。 6月号より 水槽の金魚が立つる石の音咥(くわ)えては出すさまくり返す(読売新聞静岡版 よみうり文芸 六月九日 秀逸 篠 弘 選) (評)見落としがちな小さな発見がみずみずしい。瑣末な事実だが、生きる小動物のリズミカルな姿に、躍如なる生命力をつかむ。 施設へと帰らん朝に新しき靴出しやればすっぽりと穿く(読売新聞静岡版 よみうり文芸 六月十六日 佳作 篠 弘 選) (評)ホームステイを終えて帰る母親か。その心くばりもさることながら、心温まる場面が描出されている。それに惹かれる作者。 (つづく)
2017.08.31
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後藤人徳入選歌(読売新聞静岡版よみうり文芸) 子を預け施設を去るとき職員の明るき声が見送りくれる 下田市 後藤瑞義 (読売新聞静岡版 よみうり文芸 八月三十日 佳作 秋山佐和子 選) (評)子供を施設に預けて去る親。一、二句の事実のみの表現がかえって心情を伝える。職員の明るい声や見送る気遣い。どんなにか救われたことだろう。
2017.08.30
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後藤早苗の入選歌(同人誌「賀茂短歌」より)27年度 1月号より 中東のイスラム国では透析の我は生きてはいけないだろう(雑誌「短歌」平成二十七年一月号公募短歌館 佳作 沖ななも 選) 2月号より 勤めいる会社の業績あがりたれど子は転職を考えている(読売新聞静岡版 よみうり文芸 一月二十七日 入選 篠 弘 選) 3月号より おばあちゃん本も入れてと言う孫に野菜と一緒に雑誌を送る(雑誌「短歌」平成二十七年三月号公募短歌館 佳作 杜澤光一郎 選)
2017.08.30
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後藤早苗の入選歌(同人誌「賀茂短歌」より) 26年10月号より 本屋にて化石の本を読みふける幼が我の孫なら買いたい(読売新聞静岡版 よみうり文芸 十月十二日 入選 松平盟子 選)
2017.08.29
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後藤早苗の入選歌(同人誌「賀茂短歌」より)26年度26年6月号より 花畑にオートバイ止めツーリンツの若者達が匂い嗅ぎおり (読売新聞静岡版 よみうり文芸 六月三日 入選 松平盟子 選) 聞こえくる蛙の声に外は雨が降ってるらしい静かな雨が (読売新聞静岡版 よみうり文芸 六月十日 入選 松平盟子 選) 26年7月号より 下手だなと思いて見ている皿まわし腰のあたりに初心者マーク (読売新聞静岡版 よみうり文芸 七月八日 入選 松平盟子 選) 蜜蜂が南瓜畑を飛んでいる嬉しいこれで受粉が進む (読売新聞 読売歌壇 七月十四日 入選 栗木京子 選) 26年8月号より 午後からは透析あれば畑仕事ここらでやめんかシャワーをあびる (読売新聞静岡版 よみうり文芸 八月十六日 入選 松平盟子 選) (つづく)
2017.08.28
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鑑賞:歌集「悲しき玩具」(五十四)下書き 後藤瑞義 (注)歌の順序は歌集の順序によります。 すっぽりと蒲団をかぶり 足をちぢめ、 舌を出してみぬ、誰にともなしに。 描写が具体的で、細かく、ただ事実を述べたようにも思われます。上の句は身を隠そうとしている、自分の姿をだれにも見つからないようにしている感じです。問題は下の句です。「舌をだしてみぬ、誰にともなしに。」が難しいのです。むずかしいというより、わたしにはそうした経験がありませんでした。もっとも、啄木もあるいはそうした経験はなかったのかもしれません。「舌を出した」というのではなく、「(試みに)舌を出してみた」ということではないでしょうか。誰かはっきりした相手があって、その相手に向かって陰で「舌を出した」、というのではなく、「誰にともなしに、舌を出して見た」のです。 この歌は、あるいは啄木の晩年の作品ではなかったでしょうか。病が重くなってベット生活が続いているような状況をわたしは考えました。健康ならあれもしたい、これもしたいとしたいことが頭の中を駆け巡っているいるかもしれません。手持無沙汰といいますか、退屈な入院生活、療養生活を思い浮かべたのです。気が滅入ることもたびたびあったことでしょう。そうした時に、気分転換といいますかそんか感じで、誰にも見つからないように、蒲団をかぶって、舌を出して見たのではないでしょうか。 苦しい今の状況は、みな嘘なんだ、私は病人のようなふりをしているだけなんだと舌を出したかったのではなかったでしょうか。そのような啄木の悲しい姿をわたしは思い浮かべるのです。 すっぽりと蒲団をかぶり 足をちぢめ、 舌を出してみぬ、誰にともなしに。 石川啄木 (新潮日本文学アルバム)
2017.08.27
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後藤早苗の入選歌(同人誌「賀茂短歌」より)26年度 26年4月号より 烏賊大根の時期も終わりと思いつつ味わい食べる最後の一個(読売新聞静岡版 よみうり文芸 四月十五日 入選 松平盟子 選) 東名に渋滞しているトラックの中に我が家の新聞がある(読売新聞静岡版 よみうり文芸 四月八日 入選 松平盟子 選)(評)二月の大雪で新聞配達が滞った日、テレビニュースに映るトラックを見て、思わずガックリ。社名も出ていたのかどうか。真剣なのにどこかユーモアも。 畑を打つ我をバスから見ているは桜まつりの観光の人等(読売新聞静岡版 よみうり文芸 四月一日 入選 松平盟子 選) 26年5月号よりおたまじゃくしいたかと問えばいたという無骨な夫がつまらぬ顔して(読売新聞 読売歌壇 五月五日 入選 栗木京子 選)26年6月号より 花畑にオートバイ止めツーリンツの若者達が匂い嗅ぎおり(読売新聞静岡版 よみうり文芸 六月三日 入選 松平盟子 選) 聞こえくる蛙の声に外は雨が降ってるらしい静かな雨が(読売新聞静岡版 よみうり文芸 六月十日 入選 松平盟子 選) (つづく)
2017.08.27
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後藤早苗の入選歌(同人誌「賀茂短歌」より) 26年1月号より 大中小三匹蛇と出くわした急な寒さにあわてているか(読売新聞静岡版 よみうり文芸 一月十四日 秀逸 小高 賢 選)(評)三匹もの蛇に出会ってしまう。驚いたのだろう、下の句でややおどける。口語体の効果も加え、今年の寒さを実感させておもしろい。 26年2月号より なぜか今日朝からいらいらしていれば子供を連れて夫が出てゆく(読売新聞静岡版 よみうり文芸 二月十一日 秀逸 小高 賢 選)(評)そういうことがよくある。長年そばにいる連れ合いは、するどく気配をキャッチ。難を逃れるのである。ユニークなおもしろい作品。 書こうかと思うと漢字が消えてゆくしばらくすると浮んでくるが(読売新聞静岡版 よみうり文芸 二月十八日 入選 小高 賢 選) 26年3月号より 一時間草取りをして今年また畑が出来る余力がありぬ(読売新聞静岡版 よみうり文芸 三月四日 入選 小高 賢 選) (つづく)
2017.08.26
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後藤早苗の入選歌(同人誌「賀茂短歌」より) 25年10月号より 聞えない耳に足音響かせてタップダンスを踏む子達明るし(読売新聞静岡版 よみうり文芸 十月八日 佳作 三枝昻之 選) もう蟻がきているさっき無花果(いちじく)のシロップ漬けを落としたところに(読売新聞静岡版 よみうり文芸 十月十八日 入選 三枝昻之 選) 25年11月号より ダム周辺大雨だったはずなのに七十%の貯水率とは(読売新聞静岡版 よみうり文芸 十一月五日 佳作 三枝昻之 選) 順調に秋蒔き野菜が芽を出して冬越しのしたく出来たと思う(読売新聞静岡版 よみうり文芸 十一月十九日 入選 三枝昻之 選) 25年12月号より あと一切残った柿を食べようか食事制限の身には迷える(読売新聞静岡版 よみうり文芸 十一月二六日 入選 三枝昻之 選) 芋掘りを今は喜びはしゃぐ子もやがては別の楽しみみつける(読売新聞静岡版 よみうり文芸 十二月十七日 入選 三枝昻之 選) (つづく)
2017.08.25
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後藤早苗の入選歌(同人誌「賀茂短歌」より) 25年7月号より 主(あるじ)無き農作業小屋カタカタとさみしい音して誰を待つのか (読売新聞静岡版 よみうり文芸 七月二日 入選 三枝昻之 選) 一斉に蛙(かえる)鳴きだしひさびさの雨に草木と喜びわかつ (読売新聞静岡版 よみうり文芸 七月九日 入選 三枝昻之 選) 25年8月号 知事選の広報カーが一回も回ってこない我の住む村 (読売新聞静岡版 よみうり文芸 七月二十五日 入選 三枝昻之 選) 縁薄き娘に何も出来ぬ吾(あ)を苛立(いらだ)ちている雨の降る午後 (読売新聞静岡版 よみうり文芸 八月十三日 入選 三枝昻之 選) 草刈機持ちてゆっくり草を刈る透析の身にさわりがないよう (読売新聞静岡版 よみうり文芸 八月二十日 入選 三枝昻之 選) 25年9月号より パラパラと地面も濡れる雨なれど雨だといえり天気予報は (読売新聞静岡版 よみうり文芸 七月二日 佳作 三枝昻之 選) (評)お湿りにもならないのに発表は雨。暮らしの感覚と気象台の尺度の違いを通して雨を待つ心を表現をしたところがおもしろい。 (つづく)
2017.08.24
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後藤早苗の入選歌(同人誌「賀茂短歌」より) 25年5月号より 買うものを忘れてしまい買ったのを忘れてしまう六十五歳は (読売新聞静岡版 よみうり文芸 五月一日 佳作 三枝昻之 選) (評)同じ本を二度買ったりこの種の失敗は私にもよくある。繰り返しの表現から苦笑いをしている作者の姿が浮かんできて楽しい。 新婚のあの頃買いたるこの皿は今も欠けずに食卓にのる (読売新聞静岡版 よみうり文芸 五月二十一日 入選 三枝昻之 選) 25年6月号より 朝になりホッと一息霜は無く芽ぶき始めたジャガ芋は無事 (読売新聞静岡版 よみうり文芸 六月四日 入選 三枝昻之 選) 強風にバリバリ音して耐えている築三十年の我の住む家 (読売新聞静岡版 よみうり文芸 六月十一日 入選 三枝昻之 選)(つづく)
2017.08.23
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後藤早苗の入選歌(同人誌「賀茂短歌」より)25年度 25年1月号より 木の中で鳥のさえずり聞く時は伸び放題の庭をよろこぶ(読売新聞静岡版 よみうり文芸 一月二十二日 入選 三枝昻之選)25年3月号より正月に帰る子の無い友あれど帰る子に我振りまわされる(読売新聞静岡版 よみうり文芸 二月二十六日 秀逸 三枝昻之選)(評)帰ってこなければ寂しいが来ればペースを乱される。悩ましいところだが、これも正月ならではの暮らしの実感だろう。やわらかくいか大根が煮えていて二人静かに食事始める(読売新聞静岡版 よみうり文芸 三月十九日 入選 三枝昻之選) 25年4月号より荷台より猪の足はみ出させ軽トラが行くゆるりゆるりと(読売新聞静岡版 よみうり文芸 三月二十六日 入選 三枝昻之 選)運転手がガイドもつとめ笑わせる伊豆大島の椿まつりは(読売新聞静岡版 よみうり文芸 四月九日 秀逸 三枝昻之 選)(評)ガイド兼任という点がいかにも身近で親しみやすく、車内のにぎやかな笑い声が聞えるようだ。椿まつりの盛り上がり満点。 (つづく)わが家の天使 歌集 [ 後藤瑞義 ]
2017.08.22
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鑑賞:歌集「悲しき玩具」(五十三)下書き 後藤瑞義(人徳) (注)歌の順序は歌集の順序によります。やみがたき用を忘れ来ぬ――途中にて口に入れたるゼムのためなりし。 前から、この歌の鑑賞には諦めていました。「ゼム」の意味が分からなかったのです。それでもう鑑賞を諦めたのでした。 「ゼム」とは、なんのことだろう、ジャムやガムでは迫力がなく意味が通じないと思うのです。「やみがたき用を忘れ」るくらいのものでなくてはならないでしょう。 聖書に「マナ」というものが出て来ます。神が作った超自然的なものだとされています。聖書には、「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。」(出エジプト記16:4)と記述されています。しかし、そのようなすばらしい天からの食べ物ならば、はっきり「マナ」と書くでしょう。 久し振りにこの歌を読みまして、「ゼム」のことは以前と同じようによく分からないのですが、「やみがたき用を忘れ来ぬ」というところに目が止まったのでした。 「やみがたき用」とはなんでしょうか。大事な用事であることは分かりますが、結局忘れることが出来たのでした。これに関連して啄木の次の歌が浮かんだのでした。 「何故かうかとなさけなくなり、/弱い心を何度も叱り、/金かりに行く。」という歌です。「やみがたき用」とは「金を借りに行く」ことではなかったかと思ったのです。生活に窮乏している啄木にとって「借金」はやみがたき大事な用事のはずです、しかし、出来ることなら行きたくない、行く事を忘れたいというのが本音ではなかったでしょうか。 そうしてみますと、借金をするのを忘れた言い訳が必要となります。借金するのを出来るなら忘れたい、あるいは忘れてなくても忘れたと言い訳したい啄木ではなかったでしょうか。ですから、「ゼム」であろうが、「ジャム」であろうが、「ガム」であろうが、子供が言い訳するときの、下手なこじつけにしか聞こえないので、それは何でもよかったような気がしたのでした。 「お金借りて来たでしょうね」と奥さんにあるいは母親に言われて、「あ、ごめん、途中でゼムを食べたら、すっかり金を借りるのを忘れてしまった。」と言い訳にもならない言い訳をする啄木の姿が浮かんだのでした。やみがたき用を忘れ来ぬ――途中にて口に入れたるゼムのためなりし。
2017.08.12
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後藤早苗の入選歌(同人誌「賀茂短歌」より)24年10月より12月24年10月号より取り忘れのオクラがたった一日で二十センチになる天候の良さ(読売新聞静岡版 よみうり文芸 九月二十五日 入選 藤井常世選)花畑いろんな虫で賑わいて小人がひそんでいるかと思う(読売新聞静岡版 よみうり文芸 十月二十三日 入選 藤井常世選)24年11月号より朝夕に抱卵の雉見に行けば雉も馴れたか顔を上げたり(読売新聞静岡版 よみうり文芸 十月三十日 秀逸 藤井常世選)(評)雉は腹がすわっているのか、いよいよ危険が迫らなければ動かない。顔馴染みになったからかと思うのも楽しい。手の甲にバッタを乗せたまま歩む少しやさしい気持になって(読売新聞静岡版 よみうり文芸 十一月六日 佳作 藤井常世選)(評)たまたま乗ったのか、乗せたのか、手の甲のバッタをそっとかばうような思い。「やさしい気持」に納得。24年12月号より五十パーセントの降水量に期待して秋蒔野菜の種蒔き終る(読売新聞静岡版 よみうり文芸 十一月二十七日 秀逸 藤井常世選)(評)予報の降水量、五十パーセントなら期待出来るかも。秋蒔野菜の具体性が活きて、前向きの生きかたに共感。大工にも個性あるらしあの家とこの家は同じ大工が建てた(読売新聞静岡版 よみうり文芸 十二月十一日 入選 藤井常世選)叔母を連れ待合室に座りおれば亡き母と居る心地してくる(読売新聞静岡版 よみうり文芸 十二月二十三日 入選 藤井常世選)
2017.08.12
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二月号歌評(同人誌「賀茂短歌」)下書き 後藤瑞義(人徳)原 明男をさならの声の弾めり年用意「ヨイショ ヨイショ」を搗くキネの音(評)下の句『「ヨイショヨイショ』を搗くキネの音』が良いと思います。確かに、「ヨイショ」の掛け声の後「ペッタン」と搗くわけです、まさに「ヨイショを搗く」ということになります。上の句の「をさならの声の弾めり」もよく雰囲気が出ていると思います。今は珍しくなりました餅つき風景が目に浮かびます。渡辺つぎかえりみれば長く短い一世なり精一杯に生きてきたから(評)百五歳の作者、三月で満百六歳になります。その作者の言葉「かえりみれば」は重く響きます。「長く短い一世なり」、確かに長い人生だったことでしょう。と同時に人間は今を生きるしかありません、この一瞬にしか生きられないのです。そんなことから短いという言葉が浮かんでくるように思います。下の句「精一杯に生きてきたから」、ご自分の百五年の人生をかえりみるとき、作者は長かったようでもあり、短いようにも思える、しかしながら「精一杯に生きてきたから」、悔いはありません、そんな感慨を述べているようです。鈴木菊江水仙の香りほんのり漂ひて祖先の墓は静かに灯る(評)祖先の墓が出て来ます。墓参りに出掛けたのでしょうか。水仙を持って行って供えたように思います。「祖先の墓は静かに灯る」は水仙の花が明りのように見えたのでしょうか。それが、「静かに灯る」となったのではないでしょうか。水仙の香りと静かな灯りが一首のなかによく溶け込んでいる感じがします。 黒田幸子切れそうな鎌の形の三日月が下界見下す正月の空(評)上の句の「切れそうな鎌の形」と鋭い表現になっています。三日月を鎌にたとえる比喩はそう珍しくはないのですが、「正月の空」となるとちょっと違ってくるように思います。正月の空に鋭い三日月の姿、なにか作者の心の一面を見せているようにも思ったのです。それは、読者の私自身の心であるのかもしれません。 後藤早苗子供らに野菜を作りて送るのもいつまで続くか心もとない(評)都会に住んでいるであろう子供たちに野菜を送っている作者です。ここで注意したいのは、単に子供たちに「野菜を送る」のではなく、「野菜を作りて送る」ということです。「作りて」が重く響きます。野菜は種からあるいは苗から育てて何か月もかかるわけです。その大変さが「いつまで続くか心もとない」というつぶやきに変ったのだと思います。この作品を作ったあと十日も経たずに亡くなった不運を思うとき、なんともいえない作者の心持ちを感じるのです。 藤井美智子朝風(かぜ)を止め富士を写せる芦ノ湖をあっという間に過ぐる健脚(評)箱根駅伝の一コマを切り取っています。特に芦ノ湖の描写が秀逸でした。芦ノ湖がまるで自分が主役でもあるように、風を止め富士の雄姿を湖面に写しているわけです、さもわたしをよく見てくださいと言わんばかりに…。それなのに、選手はあっという間に走り去っていったのです。選手のみならず応援の人も、見物人も湖面に写る風景を見ている人はなさそうです。それにしても、作者はよくこの風景を切り取って歌にしました、お手柄でした。 小池美恵子門前を列なし歩む幼児等の声高らかに静寂の町(評)家の前を整列して歩く幼児等がいます。小学校低学年でしょうか、幼稚園児でしょうか、甲高いにぎやかな声が聞こえます。しかし、この歌はこの子供たちのにぎやかさを詠っているのではないのです。静寂な町を詠っているのです。住宅地なのでしょう、子供たちの声が響けばひびくほど、町の静寂さが際立ってゆくそんな感じでしょうか。なかなか味わいのある歌と思いました。 鈴木きみ先祖から引き継ぎ置きし石臼のどかんと家を守りおわする(評)作者の家には、先祖から引き継いでいる石臼があるようです。「引き継ぎ置きし石臼」としてありますので、ただ引き継いでいるのではなく、その石臼には役割があり、定位置ががあってそこに置かれている感じがします。そして、その石臼の役割が、「どかんと家を守りおわする」なのでしょう。「おわする」という古風な言い方が、祖先などという言葉とあいまって独特な味わいをだしているようです。 土屋文恵わが家のお節の味は格別と娘はいそいそとパックに詰める (評)娘さんが正月に帰省なさった。そして、再び都会に帰られるとき、「わが家のお節の味は格別おいしい」と言ってパックにつめているのを見ての一首です。一首は状況の描写だけで止めてあります。それが、よかったと思います。作者の気持ちとしては、嬉しい気持ち、あるいは誇らしい気持ちもあったかもしれません。そうしたいっさいの気持ちを抑えて娘さんの姿をただ描写しているのです。その沈黙のなかに滲み出るものがあります、それが歌の深みになるのでしょう。一日一日はたからもの【電子書籍】[ 渡辺 つぎ ]
2017.08.11
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白浜短歌会歌稿(一月十八日)下書き 後藤人徳A子さん寒い日に我が部屋迄も恵の陽お礼述べつつ温陽頂く連休に昔の客人尋ね来て涙しながら安否気遣う1.これからは、太陽の日差しが恋しくなります。まことに、「恵みの陽」ということです。「温陽」とはあまり聞かない言葉ですが、作者の造語と思われます。もっとも、「温風」は、よく使われています。「お礼述べつつ」「頂く」という言葉遣いのなかに、なにか神に対するような雰囲気を感じます。「我が部屋迄も」に思いがこもっています。2.なつかしい人が訪ねて来たようです。相手の「安否」は、お元気だったのでしょう、ですから訪ねて来られたのでしょうから。でも、「お元気でしたか」と気遣ったのでしょう。個人的には「涙しながら」という、あからさまな表現は避けるのですが、作者の偽らざる言葉として受けとめました。「連休に」というのは、ぼやけれいます、「元日に」とかですとはっきりします。「昔の客人」と言う表現もわかりづらい感じです。「昔の友」「昔の隣人」とかですとはっきりします。「客人」とはどんな関係でしょうか。それにしても、その特別な言葉遣いが、金指さんの個性、味わいなのでしょう。B子さん憧れの神話の道を今歩く熊野の古道いにしえ誘う景色より知らぬ人中そわそわす初めてのこと団体旅行トリセツが理解できずに孫に問う取扱説明書冗談じゃない1.世界遺産にもなった熊野古道を旅した作者です。「憧れの」ということですから、長年の夢が叶ったのでしょう。「神話の道」というのは、神武天皇東征のおりの八咫烏(ヤタガラス)の神話のことなどでしょうか。「熊野の古道」は「熊野古道」とくっつけたらどうでしょうか。「熊野古道はいにしえ誘う」。しかし、「熊野の古道」も、「熊野古道」より作者の側に立った、そんな感じもします。2.これも、熊野古道の旅行での一首。バス会社が募集した団体旅行とのことです。見知らぬ客が多かったのでしょう。「景色より知らぬ人中そわそわす」がそれです。「人中(じんちゅう)」は、人のなかです。「初めてのこと」は団体旅行のことでしょうから、「初めての団体旅行」のことだと思います。参考:初めての団体旅行景色より見知らぬ客の中そわそわす3.「トリセツ」が「取扱説明書」のことですか。齋藤さんでなくてもやはり怒りがこみあげてくる感じがします。昔、映画俳優などの名前を愛称で縮めて呼んでいました。坂東妻三郎が「ばんつま」、嵐寛寿郎が「あらかん」ほかにもいっぱいあったと思うのですが、今思いつきません。現代でもそういったことはしていると思います。就職活動を「シュウカツ」と言います。「トリセツ」も、そんな感じの言葉でしょうか。作者のストレートな表現「冗談じゃない」に怒りが滲み出ています。「孫に問う」がよいでしょう。職人などの言葉ではなく、孫たちの言葉の感じです。 C子さん初土俵お相撲さんの太鼓腹ハッケヨイやと行司はしきる新年の朝刊届き短歌の部われらの短歌も讀まれていたり独り居の新年迎えまた一つ歳を貰いて健康祈りぬ1.初場所が始まりました。「初土俵」はそのことを表しているのでしょう。一般的な相撲風景として遠くからながめている感じは出ているでしょう。具体的な力士の名前を入れますと、ぐっと臨場感が出て来ると思います。参考:初土俵千代丸天風(あまかぜ)太鼓腹ハッケヨイやと行司はしきる2.伊豆新聞に新年詠が掲載されたことを感動的に歌っています。「讀まれていたり」というのは、どなたか、たとえばお嫁さんとかが作者の作品をを読んでいたのでしょうか。「讀まれていたり」という表現に特徴を感じました。参考:元日の朝刊に載る短歌欄われの作品子等が読みおり3.九十を過ぎている作者、それも一人暮らしです、「健康祈りぬ」は、切実な問題でしょう。結句は「健康祈る」とすれば七音です、「祈りぬ」と字余りにする必要はないと思います。「歳を貰いて」という表現に、一年間の命を貰うような感じも含まれているかもしれません。D子さんそうじ終え香華手向けし仏前のくゆらす香も新年祝う荒れし海浜辺に築くごみの山海の中には幾多のゴミが?1.「香華」ですから、線香とお花を仏壇に供えたのでしょう。「くゆらす香」、「くゆらす」は他動詞ですから、「くゆる」「くゆれる」「くすぶる」など自動詞がよいと思います。「くゆれる香も新年祝う」という、もやっとした感じは悪くないと思います。 参考:掃除終え香華手向ける仏壇のくゆれる香も新年祝う2.海が荒れて浜辺に沢山のゴミが打ち上げられたのでしょう。本来はそれだけで一首の歌になるし、すべきだと思うのですが。そのごみの山を見て、海中にもたくさんのゴミがあるだろうな、と思ったのでしょう。ゴミは川から海に流れてきてそれが浜辺に打ち上げられるわけですから、海の中に沢山のごみがあるという発想は、面白いと言えばおもしろいのかもしれませんが。「荒れし海」は説明的で、主題はゴミの山ですから、省いてもよいと思います。参考:砂浜に打ち上がられしゴミの山海の中にはいかほどあらんE子さんさゞ波のようなる耳のメロディを聞き流しつゝする日向ぼこ年賀状にデイサービスの介護士の寄せ書のありこころ温(ぬく)もる(こころにしみる)1. 作者を知っている人は「耳のメロディ」が耳鳴りのことだと分かりますが、作品だけからは分かりずらさがあるでしょう。耳鳴りとはっきり表現したいと思います。それにしましても、耳鳴りをメロディと聞き流すまでの作者の歳月がこの作品には織り込まれているわけです。それが貴重です。日向ぼこまで入れる必要はないと思います。日常のおだやかさを演出したいのだとは思いますが、本質をぼかさないようにしたいと思ったのです。参考:さゞ波のごとくり返す耳鳴りをメロディとして聞き流しおり2.これも、よいと思います。「年賀状」は、「賀状」でよいと思います。「温もる」がよいか「こころにしみる」がよいか。「温もる」のほうが、いまの時季では、よいのではないでしょうか。温もるのほうが明るい感じがします。「しみる」も、リアルな感じがしていいですので、最後は作者の気持ちを大切にしたいところです。参考:賀状にはデイサービスの介護士の寄せ書きありてこころ温もるF子さんこの頃は葱よりせりを好むわれ七草の日もその香たのしむ危うげな事やりかけてふと思い八十路の婆(ばあ)が迷惑かけるな1.七草がゆを楽しまれたのでしょう。ねぎもせりもどちらも体には良いようです。「この頃は」と言っていますから、なにか心境の変化があったのでしょうか、芹の素朴なかおりが昔の思い出につながってくるのかもしれません。2.「危げな事やりかけて」と言っています。やりかけたのですから、気持ちはやれると思ったのでしょう。肉体は年齢と共に、目や耳や歯や、あるいは膝や腰やいろいろと若い頃とは違って変調が起ります。個人的なことかもしれませんが、精神の方は、案外若い頃と変わらない気がします。そして、若い時の気分で何かをしようとするのです。そのようなときに、下の句のように、自分に言い聞かせている作者なのでしょう。言葉づかいから、近くにお孫さんでもいそうな雰囲気を感じました。花の道 原 明男疎まれし毛虫も早やに冬仕度姥目(バメ)の葉裏にほっこりと黄繭赤青黄のリュック連なる花の道声のおちこち七色に咲く 1.だれもが敬遠する毛虫に作者は目を向けています。ここが、ひとつのポイントでしょう。「疎まれし毛虫」と作者もそのことを十分承知しているのです。それでもなにか気になったのかもしれません。「姥目」は、「ウバメガシ」のことでしょうか。「黄色い繭」と色を出したのも、なにか温かい感じ、あるいは黄金に通じる意外な感じもあるでしょうか。 2.「赤青黄のリュック連なる」というのですから、子供たちの遠足かなにかそんな風景を浮かべます。「花の道」ですから、花園、近くであれば河津バガテル公園のようなところを連想します。子供たちの黄色い声も聞こえているのでしょう。花だけではなくて声まで七色に咲いているようだと言った感じでしょうか。孫のかわいらしさを、直接あらわに表現しないで、こういったふうにまとめているとしましたら、非常に素晴らしい事です。
2017.08.11
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鑑賞:歌集「悲しき玩具」(五十二)下書き 後藤瑞義(人徳) (注)歌の順序は歌集の順序によります。手を打ちて眠気の返事きくまでのそのもどかしさに似たるもどかしさ!「もどかしさ」について歌っています。「もどかしさ」も辞書を引きますと、二つの意味が書いてあります。その中で、「②思うようにならなく、気がもめる。はがゆく思う。じれったい。」という方をこの歌では採りたいと思います。 それでは、どんなじれったさかといいますと、「手を打って眠気の返事きくまでの、そのもどこしさに似たるもどかしさ」だと啄木は言っています。 朝起しに行き、眠っているとばかり思っていたら実は死んでいた。そのような経験のある人がこの歌を読む時、同感するところがあるのではないでしょうか。 「朝だよ」、と手をパンパンと打って「起きなよ」と言ったのに返事がない。一瞬「まさか」と言った思いに襲われるでしょう。それが、たとえ、「眠気の返事」であろうが、それを聞いた時やれやれ生きていたかと安堵したことでしょう。 「そのもどかしさ」は、「早く返事をしてくれよ、生きているのか死んでいるのか、はっきりしてくれよ」といった「もどかしさ」ではなかったでしょうか。 わたくしごとですが、最近、朝妻を起しに行って、妻の死亡しているのを発見した時の衝撃を思い出したのです。手を打ちて眠気の返事きくまでのそのもどかしさに似たるもどかしさ!
2017.08.11
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後藤早苗の入選歌(同人誌「賀茂短歌」より)24年7月号より丸のみにされた鰯が八匹も出てきて鯖も生きていたんだ(読売新聞静岡版 よみうり文芸 七月二十四日 入選 藤井常世選)24年8月号より草刈機の刃先に当り息絶えたる蝮(まむし)が体をくねらしている(読売新聞静岡版 よみうり文芸 八月十四日 入選 藤井常世選)24年9月号より猪(いのしし)に猿に雉にと荒されて待合室の話題はつきぬ(読売新聞静岡版 よみうり文芸 九月十一日 入選 藤井常世短歌の〈文法〉 歌あそび言葉あそびのススメ [ 藤井常世 ]選)
2017.08.11
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鑑賞:歌集「悲しき玩具」(五十一)下書き 後藤瑞義(人徳) (注)歌の順序は歌集の順序によります。ぢつとして、蜜柑のつゆに染まりたる爪を見つむる心もとなさ! 「よごれたる手を洗ひし時の/かすかなる満足が/今日の満足なりき」という歌とか、「よごれたる手をみる―/ちょうど/この頃の自分の心に対ふがごとし」という歌を思い出します。啄木には手に思いを寄せる歌がほかにもあります。ただ今回の歌は手ではなく爪です。啄木の爪の歌は他にあったかは今浮びません。ただ何か気分的に通じるものがあるような気がしたのです。啄木には、潔癖症的な性癖があるのではないかと思うわたしです。 さて今回の歌について考えます。まず、「ぢつと見る」と「ぢつとして、」はだいぶ内容が異なるでしょう。「ぢつとして、」にはなにか気持がちじこまったような、恐れているような、そんな心持を感じるのです。それが、結句の「心もとなさ!」に通じているように感じます。そして、「心もとなさ!」には、なにか不安な気持ちを感じるのです。 問題は、「蜜柑のつゆに染まりたる爪を見つむる」です。言葉や意味自体になんら難しいところはありません。つまり、「蜜柑を剝いて、汁が爪につき、(黄色い)色の染まった爪を見つめた」ということでしょう。それが「ぢつとして、」と「心もとなさ!」とどう関わるかなのです。 まず、「剝く」という行為からの連想があります。動物が爪で皮を引き裂いて肉を食う行為などを私は連想したのです。血に染まった爪を連想したのです。インターンの医師が手術の血を見て嗚咽したり失神したりするようなことも聞きます。 啄木はふと黄色に染まった爪から、血に染まった真赤な爪を連想したのではなかったでしょうか。そうした荒々しい野生の生命力、そうしたものの連想に身震いをしている潔癖症の啄木を想像したのです。とても自分には、荒々しく、野生的に生きる生命力はないなあ、こんなことで自分はこれから生きて行かれるだろうか…、「心もとなさ!」に実感がこもるように思うのです。ぢつとして、蜜柑のつゆに染まりたる爪を見つむる心もとなさ!一握の砂/悲しき玩具改版 石川啄木歌集 (新潮文庫) [ 石川啄木 ]
2017.08.10
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鑑賞:歌集「悲しき玩具」(五十) 後藤瑞義(人徳) (注)歌の順序は歌集の順序によります。それとなくその由るところ悲しまる、元日の午後の眠たき心。この作品は、この前におかれている「過ぎゆける一年のつかれ出しものか、/元日といふに/うとうと眠し。」の連作としてすーと入って来ました。一年の計である元日なのに眠い、それは過ぎた年の疲れを引きずっている、その負い目が、「元日というに」でしょう。さて、今回の作品、ここでも、「眠たき」と歌っています。そして、その原因が悲しくなると歌っています。それもまず、「それとなく」と言っています。啄木は「なんとなく」とか「なにかなし」とか「それとなく」とか言った言葉が好きなようです。特に「なんとなく」はよく出て来ます。そういった、ぼやっとした、はっきりしない、ふっと心に浮ぶような些細なことを歌にすることが出来る証拠でもあるのです。これは、実作者のわたしとしてはたいへん羨ましいことです。正直な心の内を表すには、そういった言葉を使うしかなかったのでしょう。はっきりしないものは、やはり「なんとなく」であり、「それとなく」が正直な言葉でしょう。ですから啄木のこの正直さをわたしは愛するわけです。たとえ、本人は自分の事を嘘つきと何度も歌っておりましても。啄木の行分けは、やはりそこに間を置いて読み味わうことが必要でしょう。「それとなく」で間を置いて、「その由るところ悲しまる、」でまた間をおいて、「その」とは何のことかとかというと、「元日の午後の眠たき心。」だということになります。「それとなく」「その由るところ」の「そ」の韻を踏んだところも個人的には好きです。それにしても、「元日の午後の眠たき心」がなんで悲しいのだろうと首をかしげます。いや正確に言いますと、眠くなる理由が悲しくなるということでしょうか。まず、一年の計である元日だということ、時刻は夜でなく午後であること、眠いのは体ではなく心だということ、それがなぜ眠気をもよおす原因となるかを啄木は、少なくとも彼自身は承知しているのでしょう。心の微妙な問題をまさに問題にしている啄木なのでしょう。それとなくその由るところ悲しまる、元日の午後の眠たき心。
2017.08.09
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後藤早苗の入選歌(同人誌「賀茂短歌」より)24年1月号より獣らを花火で威す音がする家に籠りて息をひそめる(読売新聞 よみうり文芸 短歌 静岡版 入選 藤井常世選)24年3月号より順調に育ちいるらし白菜が防虫ネットを押し上げている(雑誌「短歌」平成二十四年三月号公募短歌館 秀逸 三井ゆき選)生きていてやらねばと思う施設より帰りてわれにとびついてくる(雑誌「短歌」平成二十四年三月号公募短歌館 佳作 栗木京子選)24年4月号より姑(しゅうとめ)を施設に入れたと友言いてうつろな顔で空を見ている(よみうり短歌 静岡版 平成二十四年三月二十日 入選 藤井常世選)もみくしゃにされつつ豆を拾う時皆んな笑って取り合いている(よみうり短歌 静岡版 平成二十四年三月二十七日 入選 藤井常世選) 歌会へと出かける夫を送り出し一人畑でじゃが芋植える(読売歌壇 平成二十四年四月十六日 入選 栗木京子選)(評)夫婦ともども短歌を詠んでいるが歌会に出席するのは夫だけなのだろうか。あるいは別々の会に所属しているのか。下の句が寂しそうでもあり、充実しているようでもある。ひよどりと目白が交互に蜜を吸う一緒に来ない野鳥の争い(よみうり短歌 静岡版 平成二十四年四月十七日 入選 藤井常世選)
2017.08.09
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後藤早苗の入選歌(同人誌「賀茂短歌」より)26年1月号より大中小三匹蛇と出くわした急な寒さにあわてているか(読売新聞静岡版 よみうり文芸 一月十四日 秀逸 小高 賢 選)(評)三匹もの蛇に出会ってしまう。驚いたのだろう、下の句でややおどける。口語体の効果も加え、今年の寒さを実感させておもしろい。26年2月号よりなぜか今日朝からいらいらしていれば子供を連れて夫が出てゆく(読売新聞静岡版 よみうり文芸 二月十一日 秀逸 小高 賢 選)(評)そういうことがよくある。長年そばにいる連れ合いは、するどく気配をキャッチ。難を逃れるのである。ユニークなおもしろい作品。書こうかと思うと漢字が消えてゆくしばらくすると浮んでくるが(読売新聞静岡版 よみうり文芸 二月十八日 入選 小高 賢 選)26年3月号より一時間草取りをして今年また畑が出来る余力がありぬ(読売新聞静岡版 よみうり文芸 三月四日 入選 小高 賢 選)(つづく)
2017.08.08
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鑑賞:歌集「悲しき玩具」(四十九) 後藤瑞義(人徳) (注)歌の順序は歌集の順序によります。過ぎゆける一年のつかれ出しものか、元日といふにうとうと眠し。「過ぎ去った一年のつかれがでたのだろうか」と内省しています。どういうことかというと、二行目の「元日というのに」ということに続くわけです。これから新しい一年が始まるのです。その大事な年の初めというのに、といった思いなのでしょう。そして三行目、「うとうと眠い」と己の姿を描写しています。「寝正月」という言葉がありますから、元日そうそう「うとうと眠し」というのも別にことさらとりたてて、歌にするほどのこともないように思いますが。啄木にとっては、「元日というのに」と見過ごせないのでしょう。元日、「一年の計は元旦にあり」ともいいます。その大切な新年の初めの日に眠いとは、ああなんてだらしのない、たるんだ精神なんだろうと自らを責めているように思うのです。新しい年の初日、前を向いて今年こそは有意義な一年にするぞの意気込みをみせたい大事な日なのに、過ぎ去った一年を引きずっている、悔やんでも取り返しのつかない過去、その過去にとらわれて、切り替えの出来ないでいる自分に気がついたのではなかったでしょうか。過ぎ去った一年が充実していたなら、多分このような歌は作らなかったでしょう。軽い感じで歌っているこの歌は、啄木の苦しい胸の裡を吐露しているように感じたのでした。過ぎゆける一年のつかれ出しものか、元日といふにうとうと眠し。
2017.08.08
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短歌鑑賞(大伴家持の一首) 振仰(ふりさ)けて若月(みかづき)見れば一目見し人の眉引(まよびき)おもほ ゆるかも 「万葉集」大伴家持 月をしみじみ眺めることなどない私です。今日の三日月が新月からの月か、新月 に向かっての月かなど思ったことはありません。まあ、無風流の私をここにもってくる必要はないでしょう。家持は、満月に向っての若い三日月だと認識しています。 まず、初句の遠くを仰ぎ見る動作に、作者のなんらかの心理的な思いを感じまし た。その思いを持ったまま、二句目の「若月」を「みかづき」とルビを振っていのを見て、若い頃のなにか感傷のようなものを感じたのです。そして、一目見ただけの 人、その人の眉を思い出しているのに驚いたのです。初恋の人なのでしょうか。一目惚れの人なのでしょうか。それにしても、一目だけで、眉の形を覚えているの は、家持にとってよほど印象深い人だったのではないでしょうか。 この歌、かなり年輩になってから、若い頃を思い出して作ったように感じました。ところが、調べてみますと16歳の時の作といいます。満年齢なら15歳かもしれません。たいへん驚きました。言霊 大伴家持伝/篠崎紘一【2500円以上送料無料】
2017.08.08
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鑑賞:歌集「悲しき玩具」(四十八) 後藤瑞義(人徳) (注)歌の順序は歌集の順序によります。何となく明日(あす)はよき事あるごとく思ふ心を叱りて眠る啄木らしい一首です。特に結句の意外性がそう思わせます。啄木は小説家をこころざしましたが、それで身を立てることは出来ませんでした。しかし、啄木の歌には作家志望らしいところが随所にあるように思います。三行書きについても、瞬間の文芸である短歌になんとか時間を入れたい、そして物語風にしたいというような意志が見えるのです。今回の短歌にしましても、ただ瞬間的な思いとしてみますと、単なるへそ曲がり、ひねくれものの思いのようにもみえますが、ほんとうはそうではないと思うのです。体調が良かったのでしょうか、なにか心に充実をおぼえて眠りにつこうとしていたのでしょうか。「明日はきっと良いことが起るような気がするなあ」と眠りについたのでしたら、なにも言うことはないのですが、そう思う心を叱って眠りにつくというのです。この「心」も一考を要しますが、ここではあまり詳しく述べることは控えます。「叱りて眠る」に時間が入っているのです。たぶん、啄木は過去に何度もこのような経験をしたのではないでしょうか、「明日はきっと良くなる」と思って何度か寝に付いた経験があったのではないでしょうか、そしてその都度その思いに裏切らていたのではなかったでしょうか。ですから、そんな夢みたいなことを考えてまたみじめな気持ちになるにちがいない、そんな考えはするなと自分の心を叱って寝についたのではなかったでしょうか。よく読めば「なんとなく」と啄木は言っています、確証もなく「なんとなく明日はよき事あるごとく」と思ったのでしょう、そんな思いは啄木としては、過去のにがい経験から叱らなければならなかったのです。何となく明日(あす)はよき事あるごとく思ふ心を叱りて眠る
2017.08.07
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六月号歌評(同人誌「賀茂短歌」)下書き 後藤瑞義(人徳)原 明男若き女(め)の未練を断ちて去るらしも沈む夕日に続く風紋(評)若い女性の後ろ姿を見ている作者なのでしょう。その女性は「未練を断ちて去るらしい」と作者思っているようです。それは、何か根拠があるらしいですが、この作品だけではわかりません。ただ、「沈む夕日」や「風紋」という言葉に余韻があり、「未練を断ちて」と言う言葉に響き合っているようです。今月の五首は連作となっており、一つのドラマのようになっていました。渡辺つぎ夢に逢う「まだ生きてたの」と故き友目をまるくする夜の訪れ(評)「夢に逢う」、誰とでしょうか。「故(ふる)き友」に夢で逢った作者は、百六歳になります。それで、「まだ生きてたの」といわれたのです。もちろんその友は亡くなられているわけです、「旧き友」でなく「故き友」と「故」の文字を用いているところなど工夫されている感じがします。結句の「夜の訪れ」が暗示的です。朝まだき朝刊待ちて折々のうた楽しみし朝のありしよ鈴木菊江(評)朝日新聞の一面に、コラム「折々のうた」が掲載されたのが一九七九年一月でした。それより二○○七年3月まで二十八年余り続いた有名なコラムです。その内容は、短歌はもちろん俳句、詩、川柳など広範囲にわたっていました。その執筆者である大岡信氏が今年の四月七日に亡くなられました。三島市の出身であるのもわれわれ伊豆に住んでいる人間にとっては親しみが湧きます。作者の一日はあるいは早朝の「折々のうた」を読むことから始まったのかも知れません。大岡氏に「ありがとうございました」という感謝の歌として読みました。栗と柿無花果の苗裏庭に孫のためにと息子植えおり 黒田幸子(評)「桃栗三年柿八年」といわれます。無花果は三年くらいでしょうか。どちらにしましても、実が成るのは先の話です。息子さんにしても、ましてお孫さんにとっては、これから洋々と開ける未来が待っていることでしょう。作者も多分そのような洋々とした未来を思い浮かべてたかも知れません。息子さんがお孫さんのために果樹の苗を植えいる姿、それを眺めている九十歳に近い作者になんとも言えない思いがしたのでした。新幹線つまらないと云いし息子(こ)と二時間で着く京都の駅へ 藤井美智子(評)「新幹線はつまらない」というのは、作者の言葉ではなく、まだ現役の仕事をなさっているであろう息子さんの言葉であるのが以外でした。それにしましても、京都まで二時間で行ける時代になったのですね。多分作者は早く京都に行きたかったのでしょう。今回の京都行きは京都大学の大学院に入られたお孫さんに会いに行くためだったようです。作者は一刻も早く京都に行きお孫さんに会いたい気持ちがあったのでしょう。それに対して、息子さんの方は、休みでもあるし、ゆっくり外の景色を見ながら鈍行で行きたい気分だったのかも知れません。花咲けど愛でる主(ぬし)なきお向かいは空家となりて三度目の春 小池美恵子(評)「花咲けど愛でる主なきお向かいは」の「お向かい」という言葉にまず好感を持ちました。最近聞かない言葉だと個人的に思ったのでした。「お向かい」なんともあたたかい感じの言葉です、そういったご近所との交わりが薄れている世相を思ったのです。お一人で住まわれていて亡くなられたのか、何かの事情で引越されたのか分かりませんが、季節が巡ると花が咲きます。花はさくらの花をイメージしました。多分ご近所同士、毎年さくらが咲くとその花を話題にしていっときを過ごしたことがおありだったことでしょう。現在、庭は草で覆われているのではないでしょうか、荒れはてた庭を眺めながらああもう三年になったのだとしみじみお向かいさんの不在を思う作者なのでしょう。秋に行く天城の山の裾模様芽吹きし季節(とき)のそれも胸うつ 鈴木きみ(評)作者はまず、「秋に行く天城の山の紅葉の景色」が頭に浮んだのではないでしょうか。今は、芽吹きの季節、春です。その新緑の景色にもあらためて心を打たれた作者のようです。今回五首のうち四首に「裾模様」という言葉を入れています。着物についての知識が乏しいわたしには、この「裾模様」が何を暗示しているかはっきり分かりません。裾ですから主要な部分ではなさそうな気がしますが、その裾の模様です。そうした主要でない模様に目を向けているところは注目に値するでしょう。また、五首目に、「春蘂(はるしべ)」という言葉を使っています。この言葉にも、何か作者の心を捉えたものがあったようです。辞書にも出ていない言葉ですが、天気予報士が使っていたと言って、大胆に使っています。この大胆さは学ぶべきだと思ったのです。ほこほこと盛り上がるごと山芽吹く吾もほっこり春野に座せり 土屋文恵 (評)山の芽吹きを、「ほこほこと盛り上がる」という擬態語を使ったのが印象的でした。そうしたなかで、春の野に「ほっこり」座すというこれも擬態語を使っていて、「ほこほこ」という擬態語と響き合っているように感じました。擬態語をうまく使って、冬山から新緑の春山への移り変わりをうまく歌っていると思います。「ほこほこ」、「ほっこり」といった、ふっくらとした感じがいかにも春らしさを表していると思いました。これからも、擬態語、擬音語を工夫されたらよいかと思いました。
2017.08.06
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後藤早苗の入選歌(同人誌「賀茂短歌」より)(注)妻早苗は平成29年1月28日未明急性心不全にて死亡しました。享年69でした。25年6月号より 朝になりホッと一息霜は無く芽ぶき始めたジャガ芋は無事(読売新聞静岡版 よみうり文芸 六月四日 入選 三枝昻之 選)強風にバリバリ音して耐えている築三十年の我の住む家(読売新聞静岡版 よみうり文芸 六月十一日 入選 三枝昻之 選)25年7月号より主(あるじ)無き農作業小屋カタカタとさみしい音して誰を待つのか(読売新聞静岡版 よみうり文芸 七月二日 入選 三枝昻之 選) 一斉に蛙(かえる)鳴きだしひさびさの雨に草木と喜びわかつ(読売新聞静岡版 よみうり文芸 七月九日 入選 三枝昻之 選)25年8月号知事選の広報カーが一回も回ってこない我の住む村(読売新聞静岡版 よみうり文芸 七月二十五日 入選 三枝昻之 選)縁薄き娘に何も出来ぬ吾(あ)を苛立(いらだ)ちている雨の降る午後(読売新聞静岡版 よみうり文芸 八月十三日 入選 三枝昻之 選)草刈機持ちてゆっくり草を刈る透析の身にさわりがないよう(読売新聞静岡版 よみうり文芸 八月二十日 入選 三枝昻之 選)(つづく)
2017.08.06
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後藤早苗の入選歌(同人誌「賀茂短歌」より)(1)(注)妻早苗は平成29年1月28日に急性心不全にて死亡しました。享年69でした。25年1月号より 木の中で鳥のさえずり聞く時は伸び放題の庭をよろこぶ(読売新聞静岡版 よみうり文芸 一月二十二日 入選 三枝昻之選)25年3月号より正月に帰る子の無い友あれど帰る子に我振りまわされる(読売新聞静岡版 よみうり文芸 二月二十六日 秀逸 三枝昻之選)(評)帰ってこなければ寂しいが来ればペースを乱される。悩ましいところだが、これも正月ならではの暮らしの実感だろう。やわらかくいか大根が煮えていて二人静かに食事始める(読売新聞静岡版 よみうり文芸 三月十九日 入選 三枝昻之選)25年4月号より荷台より猪の足はみ出させ軽トラが行くゆるりゆるりと(読売新聞静岡版 よみうり文芸 三月二十六日 入選 三枝昻之 選)運転手がガイドもつとめ笑わせる伊豆大島の椿まつりは(読売新聞静岡版 よみうり文芸 四月九日 秀逸 三枝昻之 選)(評)ガイド兼任という点がいかにも身近で親しみやすく、車内のにぎやかな笑い声が聞えるようだ。椿まつりの盛り上がり満点。25年5月号より 買うものを忘れてしまい買ったのを忘れてしまう六十五歳は(読売新聞静岡版 よみうり文芸 五月一日 佳作 三枝昻之 選)(評)同じ本を二度買ったりこの種の失敗は私にもよくある。繰り返しの表現から苦笑いをしている作者の姿が浮かんできて楽しい。新婚のあの頃買いたるこの皿は今も欠けずに食卓にのる(読売新聞静岡版 よみうり文芸 五月二十一日 入選 三枝昻之 選)(つづく)
2017.08.05
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短歌鑑賞(大西民子の一首)下書き 後藤瑞義(人徳) かたはらにおく幻の椅子一つあくがれて待つ夜もなし今は 大西民子『幻の椅子』 まず、先入観なしにこの一首だけに心を集中したいと思います。何度か読んでるうちに、この歌は、下の句と上の句を倒置して解釈したほうが良いの ではないかと思ったのです。 つまり、「あくがれて待つ夜もなし今は」、けれども「かたはらにおく幻の 椅子一つ」という感じです。 昼は勿論、寂しい夜も、今夜こそ今夜こそと思いこがれて待つことは、今 はなくなってしまった。しかし、わたしのかたわらには、目には見えない幻 の椅子を一つ置いている。彼がもし帰ることがあったならいつでも座っても らうようにと…。 「あこがれて待つ」となっていることから、死別ではなく、男性のほうが一 方的に冷たくなって別れた感じです。そんな男性を、自分を裏切った?男性 を、まるで母親が駄々っ子を、あるいは出来の悪い息子を遠く見守るような 感じで心に留めている。そんな女性のいちずさ、あるいは強さを感じ、感動 いたしました。 かたはらにおく幻の椅子一つあくがれて待つ夜もなし今は【太田書店】風水 大西民子歌集 / 大西 民子【中古】【中古本】
2017.08.05
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短歌鑑賞 歌集「悲しき玩具」(47) 後藤瑞義(人徳) (注)歌の順序は歌集の順序によります。青塗の瀬戸の火鉢によりかかり、眼閉ぢ、眼を開け時を惜めり。火鉢などもすっかり見かけることがなくなりました。わたしの少年時代の記憶のなかにある火鉢も、そういえば瀬戸の火鉢で、青色をしていたのです。もっと温かい色が良いと思うのですが、やはり青色だったのです。外側は青色に塗られている瀬戸物の火鉢、そのあやふさ、一方内側はカッカと赤い炭が燃えている、その情熱。それらを想像したとき、わたしは何か青春時代を暗示しているようにも思えたのでした。さてその火鉢に作者は寄りかかっております。ぽかぽかと良い気分でいる啄木の姿が浮かびます。「眼を閉じ」はまさにうっとりとして火鉢に寄りかかっている感じです。ただ、気になるのは、やはり結句の「時を惜しめり。」です。うっとりとしているところに、突如冷水を浴びせられたような感じです。温かい火鉢によりかかってうっとりしているだけの歌でもよいように思うのですが、啄木は何を考え何を感じたのでしょうか。青春を暗示するような青塗りの火鉢の温かさによりかかって、このようにうっとりとして時を費やしていてよいのだろうか。いやいや、自分にはそんな余裕はないのだ、こんなことで時を費やしていてはいられないんだ。「眼を開け、/時を惜しめり。」がそれを物語っているのではないかと思うのです。物事が思うようにはかどらない感じの啄木、自分は長くは生きられないだろうと悟っているような啄木、「時を惜しめり。」が哀しく胸に迫ってくるのです。青塗の瀬戸の火鉢によりかかり、眼閉ぢ、眼を開け時を惜めり。
2017.08.05
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短歌鑑賞(前田夕暮の一首) 後藤瑞義(人徳) 向日葵(ひまはり)は金の油を身にあびてゆらりと高し日のちひささよ 前田夕暮「生くる日」上の句の「金の油を身にあびて」あたりに、ゴッホの絵画を思い浮かべました。と同時になにかぎらぎらした、エネルギーといいますか、活力を感じました。「ゆらりと高し」で眼前に向日葵が大写しされたように感じました。とくに「ゆらりと」という表現に相撲取りのような大きなひまわりをイメージしました。「日のちいささよ」という結句の対比がすごいと思います。それにしましても、「向日葵は」の「は」が妙に心に響いたのです。これは「日のちひささよ」との対比、太陽は小さく見えるけれども「向日葵は大きい」といった図式です。しかし、わたしにはそれだけではなく、作者自身が小さな存在に思えてくるのです、くよくよ悩んだり、迷ったりしている作者自身がいて、しかし、「向日葵は」こんなに生命力が強く、太陽に真正面に向って咲いている、なんて頼もしい活力に満ち満ちているのだろう。そんなことを感じている作者の姿を想像するのです。いやいやそれは、実は作者でなく多分わたし自身のことなんでしょう。 【太田書店】白秋追憶 / 前田夕暮【中古】【中古本】
2017.08.04
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短歌鑑賞歌集「悲しき玩具」(46) 後藤瑞義(人徳) (注)歌の順序は歌集の順序によります。ぢりぢりと、蝋燭の燃えつくるごとく、夜になりたる大晦日かな。現在では蝋燭もあまり見かけない生活になってしまいました。わたし個人的には、仏壇があり毎日蝋燭に火を点す習慣があります。「ぢりぢりと」はまさに蝋燭の芯が燃え尽きるときの音を連想させます。この蝋燭の「ぢりぢりと燃えつくる」といった、リアリティのある表現を啄木は比喩として使っています。即ち、「ごとく」がそれです。啄木はこの比喩を使って何を表現したかったのでしょうか。大晦日ですから、一年が、蝋燭がじりじりと音をたてて燃え尽きるように終るんだといった感慨でしょうか。確かに、蝋燭を使ってリアリティのある表現になっています。つまり、大晦日、一年の終り、それが、蝋燭の芯の燃え尽きる比喩によって鮮明にイメージされているのです。ただこの歌は、それだけではないように思うのです。この歌の最もすばらしいのは、「夜になりたる」という言葉ではないかと思うのです。実作者としてわたしが、いつも啄木に感心するのがこういう表現なのです。「夜になりたる」、なんということもない言葉です、またなんということもないような表現です。この「夜になりたる」の言葉があることによって、「蝋燭の燃えつくるごとく」の比喩が非常に効果的になります。単なる「大晦日」の歌ではなく、「夜になりたる大晦日」なのです。それに、「かな」の感嘆の言葉がついているのです。「夜」です、暗闇をイメージする夜です、蝋燭が燃え尽きる夜、暗闇です。「夜になりたる」という言葉によって、いよいよ今年も終わるんだという緊迫感が伝わります。と同時に、単なる一年の終りではなくて、一生の終りをも連想させるだけの緊迫感をわたしは感じるのです。ぢりぢりと、蝋燭の燃えつくるごとく、夜になりたる大晦日かな。
2017.08.04
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短歌鑑賞(山崎放代の一首) 後藤瑞義(人徳) ま夜中をひとり静かに茶をたてて心の中をあたためておる 『迦葉』 「ま夜中をひとり静かに茶をたてて心の中をあたためておる」、ひとり暮しの作者なのでしょう。ま夜中に目が醒めたのか、それとも眠れなかったのか。お茶でも飲んで心を鎮めようとでも思ったのでしょう。「茶をたてて」といった表現、「心の中をあたためる」といった表現に注目しました。あたためるという言葉から、あるいは季節は冬ではないでしょうか。 「静かに茶をたてる」という整った表現とともに体を温めるのではなく心の中をあたためるといった表現、そのなんとなくアンバランスな感じにむしろ一種のユーモアを感じたのです。 孤独感といいますか、寂寥感といいますか、そういったものをあらわに表さない作風。なにか人生を達観しているような余裕さえ感じられました。それとともに、歌を作ることが楽しくてしょうがないといった感じも受けたのです。それがどことないユーモアになっているのでしょうか。 もしもし山崎方代ですが 歌・エッセイ・対談 [ 山崎方代 ]
2017.08.03
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短歌鑑賞 歌集「悲しき玩具」(45) 後藤瑞義(人徳) (注)歌の順序は歌集の順序によります。いつまでか、この見飽きたる懸額(かけがく)をこのまま懸けておくことやらむ。「いつまでか、」は、非常に強い調子の言葉、感情的な言葉と思います。二十七年足らずの生涯を終えた啄木を思うとき、この言葉は重く響きます。「いつまでか、」、いうまでもなく期限を問うております。それでは、誰に対して問うているのでしょうか。それを詮索する前に、二行目に目を移してみたいと思います。「この見飽きたる懸額を」、文字通り見飽きた懸額があるのです。「見飽きた」ということは、何度も見たということでしょうか。無視していて、たまたま今日懸額があったのに気が付いた、思えば、長いこと懸けてあったような気がする、と言ったことではないでしょう。最初の頃は、熱心に見入ったことでしょう、何度も何度もその懸額を見たのでしょう。その熱意が逆に見飽きた原因にもなったのかもしれません。さて、場所が気になります。この懸額はどこに懸けてあったのでしょうか。行きつけの食堂でしょうか。それで、いつも見ていて、「この店はいつまで同じ懸額を懸けているのだろうか、もっと違うものを見たいのに」ということも考えられなくはないでしょう。しかし、いくら行きつけの店であっても、「いつまでか、…」と言ったきつい言葉にわたしは違和感があります。この言葉遣いはむしろ自分の家で、自分に対して言っているように感じるのです。啄木は、なにか、惰性で生きていているような、時間を無駄にしていたような気になった、その反省が「いつまでか、」の激しい言葉になったように思うのです。懸額ですが、そこに何が描かれていたか分かりませんが、ひょっとして懸額は、何かのたとえ(メタファー)ではないだろうかとわたしには思えてならないのです。話は飛躍しますが、金田一氏の回想に「晩年の石川啄木」(「昭和二年一月「改造」)という文章があります。それは、各方面に物議をかもした一文でもありますが。それによりますと、啄木の死亡する三か月ぐらい前、啄木が金田一氏宅をわざわざ訪ねて来たというのです。杖にすがるようにして歩いてきたというのです。玄関で出迎えた時の印象を金田一氏は、「石川君というより石川君の幽霊といいたいようだった。」と書いています。そして、啄木が「実に愉快でたまらない」と言い、「思想問題(社会主義思想への傾倒のことでしょう)で随分心配かけましたが、安心してください、…今幸徳一派の考えに重大な過誤があることを明白に知った。」というよなことをはっきり言ったというのです。この歌がいつ頃作られたかわたしには分かりません。ただ啄木の心に一大転機をもたらしたものがあったように感じたのです。「いつまで、俺はこんなことをしているんだ」といった自分自身へのいらだち、怒りがこの歌を作らせたようにわたしには思えたのです。いつまでか、この見飽きたる懸額(かけがく)をこのまま懸けておくことやらむ。
2017.08.03
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短歌鑑賞(窪田空穂の一首) 後藤瑞義(人徳)鉦鳴らし信濃の国を行き行かばありしながらの母見るらむか 『まひる野』 あまりにも有名な歌でわたしがあれこれ言うまでもないのですが、わたしなりのなにか今の気持ちが出ればいいがと思いながら読んでいます。 空穂の若い頃の作品なのでしょう。母親を亡くされたようです、まだ間がないときの作品のように思います。母親が亡くなられたとき、東京にいてすぐに故郷の長野へ行くことが出来なかったのかもしれません。そんな悔いのようなものも若干感じられるような気がします。 それはともかく、この歌は、現実にはありえないと思われるのですが、空穂が巡礼になって故郷を訪ね歩けば、昔のままの、生前のままの母に会えるだろうかというのです。そんなこと有り得ないことは百も承知の空穂だったはずです。そこがなんとも切ないのです。 母を亡くした空穂、少年のような純な心持ちとなって亡き母を一途に思う空穂、その切ない空簿の心が偲ばれます。窪田空穂歌集 (岩波文庫) [ 窪田空穂 ]
2017.08.02
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短歌鑑賞 歌集「悲しき玩具」(44) 後藤瑞義(人徳) (注)歌の順序は歌集の順序によります。人がみな同じ方向に向いて行く。それを横より見てゐる心。 大きく、二つのセンテンスからなっています。「人がみな同じ方向に向いて行く。」と「それを横より見てゐる心。」の二つの文章です。最初の文章を「人がみな」と「同じ方向に向いて行く。」と行を分けているのにもそれなりの意味はあると思います。「ひとがみな」ということと「同じ方向に向いて行く。」ということをはっきり分けたい意図があったのでしょう。 それにしましても、私たちは(私ではなくあえて私たちと言わせてもらいます)、この世の中で社会生活をするうえで、なるべく角がたたないように、なるべくスムーズに世渡りが出来るようにと必死になっているのが常識だと思います。そのために、目立たず、みんなと同じような行動をとって身を守っているのです。たとえ少しばかり違和感のあることでも自分を抑え必死に世の中の流れに乗るように努力しているのです。これは当たり前のことです、常識です。もっとも、最近の若い人は多少変わってきているかもしれませんが。 この常識を啄木は問題視しているわけです、なんでみんな同じようにするんだろうか、同じ方向を向いて行くんだろうか。ここに啄木の啄木らしさがあるのだと思います。個人主義が叫ばれ、個性が尊ばれるようになった昨今でさえやはり私たちは、あるいは、私は同じ方向に向いて行こうとしている自分に気が付くのです。まして、明治時代ですので、啄木のこの個性といいますか、先進性を高く評価したいとわたしは思います。ただ、「それを横より見てゐる心。」に啄木の哀しみが滲み出ているのを感じるのです。なぜ、自分だけこうなんだろうか。そんなうめきにも似た啄木の深い孤独感をわたしは感じるのです。人がみな同じ方向に向いて行く。それを横より見てゐる心。一握の砂・悲しき玩具ー石川啄木歌集ー【電子書籍】[ 石川啄木 ]
2017.08.02
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短歌鑑賞:紀貫之の一首 後藤瑞義(人徳)人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける 紀貫之 百人一首の有名な歌でいまさら鑑賞といわれても困ります。インターネットでも色々(解釈は大差はないと思いますが)書かれていますから参照にしてください。 ただ、あらためて読み返しまして多少目に止まったところがありました。たとえば、「人」とか「心も」の「も」とか、「花」とか「香ににほひける」の「香に」とか、実作者の私としては、興味をもったのでした。 作歌を始めたころは、なにも分からず、誰かの真似をして歌らしくしていたのを覚えています。そのうち、一般化はいけないのだ、具体的に、あるいはリアリティがあるような歌がいいというようにぼんやりと思い始めたのです。そうしたわたしの考えからして、「人」という表現、あるいは梅ではなく「花」という表現にまず注目したのです。これは、いわゆる一般化ではないでしょうか。「あなた」とか「君」とか「汝(なんじ)」とかでなく「人」という表現です。花もしかりです。花では桜と間違えられます。 正岡子規が「古今集」をけなし、その選者である紀貫之をけなしていることは有名な話です(「歌よみに与ふる書」に書かれています)。子規が何をもって貫之をけなしたのかは分かりませんが(私の勉強不足で)、たしかにこの一般化は子規の、写生やリアリティに重きを置く子規にとっては許せないことかもしれません。ただ、貫之は貫之で子規とは別の基準、写生やリアリティとは別の基準で歌を作っていたのではないでしょうか。この歌なども、なにかおおらかさのようなものを感じるのです。 人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける高野切第三種 【伝紀貫之】 日本名筆選 5
2017.08.01
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短歌鑑賞(154)歌集「悲しき玩具」(43) 後藤瑞義(人徳)正月の四日になりてあの人の年に一度の葉書も来にけり。 はがきが明治になって発行され年賀状が盛んになったような記述がありました。ですから、この歌も現在と同様の感覚で読みました。正月の三ケ日を過ぎて、つまり「四日になりて」年賀状が届いた。それも「あの人の」とことわっています。なにか女性らしい感じがします。それも啄木のほうが一方的に思っている感じもあります。 「正月の四日になりて」は、現在のわたしの経験的な感じからしますと、こちらからの年賀状を元日に受け取って、「お年賀有難うございました」というような返信が先方より四日に届いたというように想像します。実際はそうではないかもしれませんが、年に一度の葉書があの人から来たことに感激しているようです。こちらの年賀状の返信だとしても、無視されるよりどれほど有り難かったか知れません。 今日も来ない、今日も来ない、今年は来ないだろうか、色々思い悩む三日が過ぎたことも想像されます。少しオーバーに言えば、「これで今年も頑張るぞ」といったくらいの感激を感じます。 啄木に常に感心するのですが、一握りの砂の話の時にもふれましたが、啄木の些細なことを大切にする姿勢、「年に一度の葉書」が来た、それも遅れて四日に来たことをこのように感動的に歌にできる啄木に、わたしはいつも感心しているのです。正月の四日になりてあの人の年に一度の葉書も来にけり。
2017.08.01
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