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後藤早苗の短歌(4) (注)後藤早苗は私の妻である。(平成29年1月28日死亡)結社誌「賀茂短歌」より転載。 芋畑 (14.8) 芋畑天地返しと言うごとく草取りし後の蔓のみだれよ 千切り絵を部屋一杯に飾るよとリハビリはげむ若き隣人 母の日に貰いしバック華やかでわれの求めし服と似合わぬ 生きているだけでよいらしわれに子は何もするなと強く言いたり 物置のおもちゃは家計の苦しき日子らに与えた思い出の品 (14.9) 高校球児 勝敗は時の運など簡単な言葉は言えぬ高校球児に 目ざめれば待ちわびおりし雨の音名曲のごとうつとりと聴く 一歳の顔そのままに迎えけり無事におわせば二十四の子を 見栄はりて買いたる海老も卓にのり値を知らぬ子ががつがつと食う 透析を今日からしようと若き医師軽く言いたりわれ胸打つに
2017.10.31
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後藤早苗の短歌(3) (注)後藤早苗は私の妻である。結社誌「賀茂短歌」より転載。 吾子(2) 後藤早苗(14.12) 1.声を出し笑っているから三十歳の吾子と見ているクレヨンしんちゃん 2.西方に植えれば金運呼ぶという黄の花夫は真顔に植える 3.意味のある囀りなるかピーピーとスズメ騒いで風と遊べる 4.天城山の肥沃な土地に濾過されて生きいるごとく滝下る水 5.自家野菜形小さく虫もをり無農薬野菜と自慢すれども 原先生 後藤早苗(15.1) 1.醤油つけスズメを焼いて食べし日を思い出しおり群なしおれば 2.水青く波穏やかな下田湾寝姿山を歩みつつ見る 3.長生きをせねばと主治医ボソと言う透析治療にたよる吾が身に 4.賞味期限近きを棚の前に置くを知りつつ前の品物を買う 5.原先生無事におわせばどのように添削(なお)しくれるか吾の駄作を 入院 (14.6) あのお菓子おいしかつたと子に言えばまたもってくと声はずませる 落ち込みし後の心の平静さ透析する日近きというに 限りなき守銭奴となれる我れが居るクイズ番組始まる時間 どこにでも笑いは常にあるものよ病室の中話ははずむ この腕にシャント手術のメスいれる医師の指先ジッと見ている 娘 (14.7) 温泉に吾子と入りてまぶしかり娘ざかりの体みつめる 平静を装いおれど初めての手術台にて血圧あがる 施設へと帰る朝には黙もくと食いだめのごと食べるわが子は いつもより多弁となりて夫食べる就職せし子の帰れる夕べ 雑草に負けじと伸びし瓜のつるたどればまさに食べ頃の実が(つづく)
2017.10.30
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後藤早苗の短歌(2) (注)後藤早苗は私の妻です。結社誌「賀茂短歌」より転載です。 吾子 (14.11) 1.施設より帰りてすぐに冷蔵庫覗く吾が子よ何でもお食べ 2.ホットカーペット電源入れればあたたかし二十三年目の冬も健在 3.藁を敷きかぶとの幼虫育ていしが食べられたるか狸の足跡 4.長きこと触らぬおもちゃがふいに鳴り離れ住む子の顔浮びくる 5.荒波にもまれて丸くなりし石かくのごとしか人の生きるも
2017.10.29
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後藤早苗の短歌(1) (注)後藤早苗は私の妻である。結社誌「賀茂短歌」より転載。 看護師 (14.10) 1.小声にて未熟をわびて針をさす看護師額に汗をかきいる 2.体には良いといわれる苦瓜も好みにあわず熟れて落ちたり 3.山里の話題は畑の事ばかり変化を求め町に出てみる 4.足音にバッタやイナゴが飛び出して秋の散歩はにぎやかなりし 5.透析も二ヶ月過ぎて血管の硬くなりしを看護師告げる
2017.10.27
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白浜短歌会九月歌稿(九月二十七日) A子さん 暑さ過ぎ海行く避暑客人影まばら波の音さえ淋しくきこえる 施設にて寒暖感じず部屋の中脳トレ勉強で一日過ごす 1.素直な詠みぶりです。暑さが過ぎ、海辺の人影がまばらになって、なんだか波の音まで淋しく聞こえる、といったことでしょう。ただ、「避暑客」という言葉に目が向きました。作者は前月の歌でも、「避暑の客」という言葉を使っていました。私などは、避暑というとやはり軽井沢とか、涼しいところをイメージするわけです。白浜も海水の中は涼しいでしょうが。それより、なにか作者のなかに暑さを逃れる、暑さを避ける地への願望があるのかもしれません。それが、「避暑」という言葉を何度も使うのではなかろうか、そんな気がしたのです。 2.デイサービスに通っている作者でしょう。「施設」はデイサービスの建物で、冷暖房の設備が完備していて、職員が常に快適な温度に調節しているのでしょう。「寒暖感じず」というのがそれです。そうした、環境のなかで認知症にならないように、パズルなどで脳のトレーニングをしている。作者にとってはそれは、勉強のようなものなのでしょうが、快適な環境で時間の経つのも忘れ、一日がすぐ経ってしまう。そんな感じを詠んでいるように思いました。 B子さん 肌寒い朝に一輪アサガオの咲いてくれしはエールのようで 本二冊クロスワードで日が暮れたせめて寝る前ラジオ体操 物置きに見つけし赤いフラフープかんの戻りし得意にまわす 1.結句の「ようで」は、「言いさし」(文章を途中で止める)の方法です。結句は、名詞止とかいくつか止め方があり、その一つの方法に「言いさし」で結句を止める方法があるわけです。結句が「エールのようだ」では物足りないのでしょう。「咲いてくれし」の「し」がいつもながら気になります。「し」は、正しくは過去の回想の助動詞「き」の連体形です。単純な過去なら「咲きくれたるは」が正しいでしょう。ただ、単純な過去に「し」を使っている例もしばしば見かけます。歌自体は、素直な詠みぶりです。アサガオが咲いたのを「エール」のようだと感じたところに個性が感じられます。 2.今日は、一日中、家に籠って読書とクロスワードをしていて、気がついたら日が暮れていたといったことでしょう。こんなことでは、体に良くないないと思い立ち、ラジオ体操を寝る前にしたのでしょう。ラジオ体操というのは、楽しいとかいうものではなく、なにか規則正しさを象徴するように感じます。ラジオ体操は、体を動かしてもちろん体にいいのでしょうが、個人的には心にもなにかよい影響を与えるのではないかと思ったりします。 3.物置のなかにフラフープを見つけて、何年ぶりかで回してみたのでしょう。体がしっかりコツを覚えていて、得意になって回したのでしょう。フラフープを回しながら、若いころに戻ったような、何とも言えないなつかしいひとときを過ごしたことでしょう。「赤いフラフープ」の「赤」は若さ、情熱といったものを感じさせます。それだからこそ、余韻としてちょっと寂しさを感じたのです。 (参考)「見つけし」は、「見つける」あるいは、「見つけた」とし、「かんの戻りし」は、「かん(勘)の戻りて」くらいにしたい。 C子さん 新車にて松本目差しまっしぐら車窓に光る金色の田 通り雨雷鳴らし行き過ぎる見上ぐる空は陽の眩しかり 突然の強き雨にもまけぬよう足踏ん張りて傘強く持つ 1.事実であるにしても、「新車」がいいですね。オーバーに言えば、新しい世界の幕開けを感じさせます。いっさい感情表現はしていないで、「目差しまっしぐら」「光る」「金色の田」などの言葉で、気分の高揚感を感じさせます。 2.時間の経過があります。つまり、歌に時間が入っているのです。明治以降、アララギ派を中心に短歌は瞬間を歌うこと、写生を重んじることが唱えられました。逆に、和歌では、時間を歌に織り込んだり、枕詞、縁語とか技巧を駆使していました。そろそろ、和歌のよさも見直されていいのかもしれません。「過ぎる」を、「過ぎて」とすると瞬間的な思いになるでしょう。 3.「足踏ん張りて傘強く持つ」は、これはこれでよいと思います。ただ、これは、「(雨に負けないように)傘を強く持つ」ということが強調されています。「雨にもまけぬよう足を踏ん張り傘強く持つ」とすると「雨に負けぬよう」が強調されるようです。「突然の強き雨にも」の「にも」が微妙です。なにかこの歌は、作者の人生の問題がひそんでいるように読めなくもありません。 D子さん 弁当を買って来たよと息子(こ)の声に独り昼餉をおいしくいたゞく 足あげて山の影背に散歩する手押し車の夕暮の道 晩年を短歌に生きたつぎさんも百六才の長寿逝きたり 1. ちょっと不思議な感じの歌です。作者は昼食を今一人おいしく食べています。問題は「弁当を買ってきたよと息子の声に」、というところです。「息子の声に」というところが、声を聞きながら食事をしているようにも思われるのです。実際は、多分息子さんの買って来た弁当を食べているのでしょう。息子さんの買ってくれた弁当なのでおいしくいただいたといった思いがこめられているのでしょう。「独り昼餉を」を「独り昼餉もおいしくいたゞく」とすると、多少息子さんへの思いが出るような気がしました。 2.散歩をしている作者です。「足上げて」とわざわざ言っています。それは、足が重くて歩行が大変な感じを受けます。手押し車を押しながら散歩している姿が浮かびます。結句の「夕暮の道」が、単なる風景でなく、作者の人生を感じさせます。 3.最近亡くなられた、渡辺つぎさんの挽歌でしょう。満百六歳でした。七十二歳で短歌を始めたと聞いています。「晩年を短歌に生きた」がそれを表わしているのでしょう。「つぎさんも」の「も」はあるいは、「わたしも(晩年を短歌に生きている)」という思いがあるのかもしれません。「百六才の長寿」で一拍休んで「逝きたり」に続くのでしょう。 E子さん 天城越え友に連れられショッピング広き店内すこしとまどう 我の髪カットしながらSさんは彼が出来たの笑顔で告げる 1.天城を越えてのショッピング。アピタあたりでしょうか。たしかに、下田あたりのスーパーと比べると、「広き店内すこしとまどう」が実感されます。「天城越え」は、わざわざ「天城越え」という感じがします。「友に連れられ」が、必要かどうか。自分の意志では行かないが、友に誘われたのでやって来たという感じでしょう。来てみたら、広い店内で圧倒され戸惑ったのでしょう。「連れられ」というより、「誘われ」といった感じではないでしょうか。 2.美容院に行って髪をカットしてもらったのでしょう。多分なじみの美容師さんでしょう、つい隠し切れないで「彼ができたの」と告げたのでしょう。「言う」のではなく、「告げる」という言葉もなにか告白のイメージがあってぴったりです。プライベートなことなのでSさんとしています。作者とあるいは同年配の人なのかもしれません、驚きとともに、なにかうらやましいような気持ちもあるのかもしれません。 F子さん 来年も出来るかなあときゅうりを手に老いの手仕事ピクルス作る 老いゆくは難儀と亡き母いいしこと夏をようやく越して思いぬ 1.私はピクルスを作ったことがありませんが、作者は老いの手仕事と言っています。それほど力はいらないのでしょう。それであればなおさら、「来年もできるかなあ」という初句、二句が重く響きます。今年の夏の異常な暑さなどを考えますと、作者も体力に自信を失っているのかもしれません。 2.前作に引き続いた連作の一首です。「老いゆくは難儀」と言った亡き母親の言葉が身に沁みる作者なのでしょう。「夏をようやく越して」あたりに実感を感じます。亡くなられた母親の年齢に近づいたか、あるいは過ぎたのか、母親の年齢に思いをはせているようにも思ったのです。 かんばせ 原 明男 しあわせをかんばせにして師の遺影満ち足りしがに夕日の沈む 過疎深む里の老舗(しにせ)の灯の消えてこぼれ落ちそな青い柿の実 1.9月6日に亡くなられました渡辺つぎさんへの挽歌です。すばらしい遺影の写真でした。まさに、「しあわせをかんばせにして」という表現がぴったりしました。その逝去のようすを自然現象の沈む夕日に例えているところが、技巧的でありますが、無理なく受け入れられます。 2.「過疎深む里」、今まさにどこでも問題になっていることです。しかし、この里は、作者の住んでおられる白浜のことでしょう。そこに昔から商売を営んでいた、昔は繁盛していたであろう商店が店を閉じたのでしょう。若いころから作者の馴染みの店だったのかもしれません。 問題は下の句です。柿の実が木から落ちるように店が閉じたという単純なことではなさそうです。柿の実は青いのです。青い柿の実、それは作者の青春時代を象徴しているのかもしれません。青春時代のいろいろな思い出、記憶も消えてしまう寂しさを表現しているように思ったのです。
2017.10.26
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後藤人徳の入選歌(読売新聞「静岡版」) 生きおれば日照不足を嘆くらん野菜作りを愛せし妻は 下田市 後藤瑞義 (読売新聞静岡版 よみうり文芸 十月二十五日 入選 秋山佐和子 選)
2017.10.25
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十月号歌評(同人誌「賀茂短歌」10月号) 下書き 後藤瑞義(人徳) しあわせをかんばせにして師の御影満ちたりしがに夕日の沈む 原 明男 (評) 九月六日に亡くなられました渡辺つぎさんへの挽歌です。すばらしい遺影の写真でした。まさに、「しあわせをかんばせにして」という表現がぴったりでした。そして、その死は百六歳の大往生でした。それは、満ち足りたように夕日が沈むようだというのでしょう。 随筆集歌集あまたのたからもの百六歳の貴きご生涯 鈴木菊江 (評)この歌も渡辺つぎさんへの挽歌です。渡辺さんは六十歳で随筆を学び、日本随筆家協会賞を受賞しており、随筆集も何冊か出版されています。短歌は七十二歳でわたしたちの賀茂短歌会に入会され、歌集も何冊か出版しています。「随筆集歌集あまたのたからもの」は、そのへんのことを歌っているのでしょう。そして、その随筆集なり歌集を開きますと渡辺つぎさんの百六歳の貴きご生涯が詰まっているように思えたのでしょう。「たからもの」という言葉には、渡辺つぎさんが百三歳のとき出版された歌集、「一日一日(ひとひひとひ)はたからもの」が頭にあったのかもしれません。 彼岸入りより早目に開きし彼岸花山かげに白がひそやかに咲く 黒田幸子 (評)彼岸入りにまだならないうちに咲いた彼岸花に作者は目を止めました。山かげにそれも白い彼岸花がひっそり咲いていたのです。今回の五首は、渡辺つぎさんの挽歌でした。そうした、一連のなかで、文字通り「ひそやかに咲く白い彼岸花」のような一首でありました。 来る夏をがんばり通しし百六歳またの快方待ち待ちし日日 藤井美智子 (評)今年の夏はことのほか体に応えました。七月が特に暑かった記憶があります。「来る夏をがんばり通しし」はこのへんのことを言っているのでしょう。あの厳しい7月をがんばり通した百六歳の渡辺さんだから、きっと快方に向かってくれるだろうと思っていたのでしょう。「またの快方待ち待ちし日日」にそのへんの気持ちが表れています。しかし、九月六日に亡くなられたことを知らされた作者、その落胆の気持ちが余韻として残ります。 収穫の赤きトマトの籠の中夫の添えたる白き口なし 小池美恵子 (評)「収穫の赤きトマト」、ご主人は家庭菜園で野菜(トマト)を作られているのでしょうか。収穫したトマトを籠に入れて作者に渡したのでしょう。「口なし」は、梔子の花でしょう、「白き」によってそう推察されます。「クチナシ」や、「梔子」でなく、「口なし」としているところに何か意味があるようにも思いました。手作りの採りたての赤きトマトの籠におかれているクチナシの白い花、その夫の無言のさりげない行為に感じ入った作者ではなかったでしょうか。 野良小猫道端脇にのびのびとおそれもしらぬ寝姿のどか 鈴木きみ (評)野良猫ではなく、「野良小猫」とするとなんともかわいらしい感じがします。「道端脇」とは、あまり聞かない言葉ですが、「道」の端のその「脇」と細かく言っています。なにか、疎外された感じ、かたわらに追いやられた感じが出ています。「野良小猫」と「道端脇」が響き合う感じがします。しかし、そこに作者が注目をしたのではなかったのです。野良猫はのびのびとのどかに寝ているのです。そこにこそ作者は感動したのでしょう。どんな境遇にも負けない力のようなものを感じたのかもしれません。 おはじきにぼうずめくりや婆ぬきと遊び懐かし生活学校 土屋文恵 (評)「生活学校」ということばを初めて聞きました。これは作者の少女時代の思い出でしょうか。おはじきをしたり、百人一首の絵札を使ってするぼうずめくり、トランプの婆ぬき、みな懐かしい遊びです。それとも、お子さんが小学生のとき「生活学校」というような集まりがあって、子供さんと一緒になって遊んだのでしょうか。「昔の遊び」などといって、年寄りが昔の遊びを子供に教えながらいっしょに遊ぶ。そのような催しがありました。そんなことをイメージしたのです。それにしましても、「生活学校」という言葉に何か戦後のある時期の雰囲気を感じたのです。今は、「生活学校」という言葉はあまり聞かないですので、昔を懐かしんでいるのでしょう。そこに物質的ではなく、心の豊かさがあったのかもしれません。
2017.10.24
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白浜短歌会八月歌稿(休会) 後藤瑞義(人徳) A子さん 炎天下水着姿の避暑の客楽しさ求めて海辺に急ぐ 夏本番海辺も賑わう白き浜ちらほら埋まる人影多く 1. 猛暑続きです。「炎天下」という言葉がそれを示しています。作者は白浜海岸の近くにお住いのようです、「水着姿の避暑の客」を見かけるのでしょう。それを見て作者は、「楽しさ求め海辺に急ぐ」のだろうと思っているようです。炎天下ですから、涼しさ求めは、やはりしっくりこないのでしょう。涼しさ求めであれば、海に入らないといけないので、「海辺」ではしっくりこないでしょう。作者は海辺で遊ぶ、ビーチバレーとか、砂遊びとかを思い浮かべ「楽しさ求め」としたように思います。そこには、あるいは作者の「楽しさを求める」願望もあるかもしれません。 2.「夏本番」です、「海辺も」は、「海も」の含みがあるでしょうか。海辺で遊ぶ人、海を泳ぐ人さまざまです。「ちらほら埋まる人影多く」という言い方がちょっと目をひきました。「ちらほら」と「多く」がアンバランスな感じに思えたのです。浜辺が人で「ちらほら埋まる」のが実際に作者の見た光景なのでしょう。そして、「人影多く」は、「人影が多いから、これからますます埋まるだろう」と言った含みのある表現のように理解しました。 B子さん 夏富士へ登頂夢に鍛えるも節ぶし痛み年には勝てず 病から半年を過ぎ我身体(からだ)良くぞここまで回復なるや ひとつづつ目標を決めクリヤして生きる毎日楽しからずや 1. 夏の富士山であれば登頂も夢ではないかもしれません。作者のご年齢は分りませんが、夢としているところは、若い頃からの夢だったのでしょうか、多少年齢的に不安があってのことでしょうか。「鍛える」は、体操をしたり、散歩をしたりすることを日課にしているのでしょう。しかしながら、つい強くすると節々が痛くなる、つい弱音が口からでるのでしょう。「年にはかてない」という弱音が実感として伝わります。 2.「病から半年を過ぎ」、作者は初期の癌の手術を受けられたと聞いています。その手術から半年が過ぎ、今の体調を思う時、「良くぞここまで回復なるや」と驚きとともに感謝の気持が湧いたようです。 参考:手術から半年を過ぎわが身体よくぞここまで回復なるや 3.一つづつ目標を定め、達成するように努力する。そのようにして一日一日を生きて行く作者。「楽しからずや」の、「楽しからず」は、言うまでもなく、「楽しくない」という否定文ですが、それに、助詞の「や」が付いて反語になるわけです。「毎日毎日が楽しい」ということになります。多少観念的ではありますが、和歌的な感じを受けました。 C子さん 私より華奢(きゃしゃ)な手足の君に似た孫と墓前に花をたむけん 1.一首のなかに作者、ご主人、お孫さんの三人がうまく登場しています(もちろん、息子さんなり娘さんの存在も暗示されています)。三人(ないし四、五人)に共通のキーワードは、「華奢」という言葉です。なにか「華奢」という言葉に上品な感じがあるわけです。ご主人のその上品さがお子さんからお孫へ、しっかりと受け継がれているようです。お墓にお孫さんと花をたむけながら、「安心してください、子供も孫もあなたの血をしっかりうけついてますよ」と心の中で呼びかけている作者の姿が浮かびます。 D子さん 日焼した夏のパート旗を振り駐車場へと客をつれゆく 新聞は大きな文字をみるだけで今日のニュースはテレビが教える クリニック順番待ちの患者たち待ちくたびれて居眠りている 1. 夏の炎天下に駐車場の係りの人はまさに大変な仕事になります。「お疲れさま」と心で思いつつ眺めている作者の姿が浮かびます。パートですから、それも夏のパート、学生であったら、アルバイトとしたいところですが、年輩の人かもしれません。あるいはやる人がいないために、年輩の人が駆り出されたのかもしれません。パートに対する同情心のようなものも感じました。 2.政治にしろ事件にしろ、昔はラジオや新聞の報道を頼りにしましたが、今はテレビの時代です。もっと云えば、インターネットの時代になったのかもしれません。政治、経済その他のニュースを微に入り細に入りテレビが教えてくれます。目から耳から同時に知識が得られますのでたいへん楽なわけです。そこを作者は歌っています。時代の移り変りに対する思いも感じます。 3. 病院はなんでこんなに混んでいるのだろう。たまに病院に行った時のわたしの感想です。作者もそれを歌っているようです。第三者的に患者さんたちを見て歌っていますが、作者もそのなかの一人なのでしょう。クリニックは日本語では、診療所と訳すようです。 E子さん そう麺を茹でて我をば待ちくれし白赤緑に食欲そそる 我の足守りてくれし靴洗う感謝をこめて祈りも込めて 1.コメントですと、白赤緑は、そう麺の白、トマトの赤、キュウリの緑のようです。素麺の上に、トマトやキュウリやしその葉などを千切りにしてのせてあったのに感動したようです。上の句で作者の感謝の気持がでています。下の句になりますと「食欲」がでてきて、ちょっと場面が変わる感じがします。短歌はひとつのことに集中して歌うのが、原則です。気持はよく出ていると思います。 参考:そう麺を茹でて我をば待ちくれしトマトキュウリの彩り添えて 2.これもよく分る歌です。語順を上の句と下の句を変えて、「靴洗う」という具体的な姿を下の句にしたほうが、読者にはっきりと作者の姿が余韻としてのこるでしょう。 参考:感謝込め祈りも込めてわが足を守りくれたる靴洗いたり F子さん 夕あかね夜のとばりはまだ薄く初ひぐらしの声すみわたる 淋しさのありて短歌を読みし日はただそれだけで心みたさる 1. 「夕あかね」は、夕茜空か夕茜雲のイメージでしょうか。どちらにしましても、「夜のとばりがまだ薄く」ということはまだ明るい茜色の西空を想像します。そうした夕暮れに初ひぐらしの声が澄みわたるように聞こえるというのです。「夕あかね」「初ひぐらし」といい、「夜のとばりまだ薄く」といった言葉が「すみわたる」を納得させます。 2. 「淋しさのありて」は、具体的にどのようなことか分りません。ごく個人的なことなのでしょう。それは別に具体的に言わなくてもよいと思います。「淋しさ」は、誰しもあり、それはその人その人の淋しさなわけです。作者の言いたいのは、淋しさの内容ではなく、「短歌を読みし日はただそれだけで心みたさる」ということでしょう。淋しさの対処法は、人それぞれにあると思います。旅行したり、買い物したり、好きなスポーツで汗をながしたり、映画やテレビ、あげだしたらきりがありません。ただ、作者は、短歌を読むだけで心が満たされるというのです。短歌に対する感謝のようなものも感じました。 もどり鮎 原 明男 群なして里の小川にもどり鮎追いて燥ぎしともどちの声 炎天下頭をたれて咲くカンナもっとも辛い日を過すらむ 1.「もどり鮎」、鮎は稚魚の間は海で育ち、成長すると生まれた川に戻ってくると言われます。上の句は、その「もどり鮎」を歌っているようです。一方下の句の「燥ぎしともどちの声」は、昔その「もどり鮎の群」を追って、あるいは捕まえようとして、友達とはしゃぎまわったことを思い出しているようです。人間は鮎のようにはいかず、生まれた里を離れると、帰ってくることがまれになりました。特に最近はその傾向が多いのではないでしょうか。そんな含みもあるように感じます。 2.真夏の太陽を好むように咲く花がいくつかあります。百日紅、夾竹桃、まだまだありますが、そんな花のひとつにカンナを思い浮かべます。「炎天下」「頭たれ」「もっとも辛い日」ということばから、どうしても終戦の日、八月十五日を思い浮かべます。そんな、ことも作者のこころにはあったでしょうか。カンナに向かってこれからもっともっと暑く辛くなるがお互に頑張ろうと呼びかけているようにも感じます。
2017.10.23
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鑑賞:歌集「悲しき玩具」(五十四)下書き 後藤瑞義(人徳) (注)歌の順序は歌集の順序によります。 神様と議論して泣きし―― あの夢よ! 四日ばかりも前の朝なりし。 この歌は、以前鑑賞している記憶があります。ただ、今日は、今日の気持ちで鑑賞してみたいと思います。それほどの違いは無いかも知れませんし、あるいは違ったところがあるかもしれません。以前の鑑賞文はちょっと見当たりません。 「神様と議論して」、まずのっけからどっきとさせられるところ、啄木らしいと思います。それに続く、「泣きし」がやはりすばらしい、と思います。「負けし」などとすると神と議論するだけの力を誇示しているような、不遜な感じがします。 「泣きし」も悔し泣きも感動の涙も色々ありますので、複雑です。そして、「――」ダッシュに余韻を感じます。 「あの夢よ!」、ここで夢であったことを告白しています。ただ、「あの」と、「この」でなく、「それ」でもなく「あの夢」とちょっと遠くを思う感じがしました。啄木は、いろいろな夢を記憶しているのかもしれません。その証拠といいますか、啄木の記憶力の良さを示すものが、「四日ばかりも前の朝なりし」なのかもしれません。 啄木は記憶力が良かったのではないかと、わたしは推察したのですが、あるいは、「神様と議論して泣いた夢」が、あまりにも強烈な印象の夢だったことも考えられます。 ですから、四日ばかり前の夢であってもありありと思い出せるのかもしれません。今日は、この考えを採りたいと思います。 神様とは、具体的にどういうイメージだったのでしょうか。やはり、漠然とした「神様」でしょうか、それとも「キリスト」のような具体的なイメージだったのでしょうか。 啄木の作品に以下のようなものがあります。 「わが村に/初めてイエス・クリストの道を説きたる/若き女かな」 「クリストを人なりといへば、/妹の眼がかなしくも、/われをあはれむ。」 キリストについて啄木の書いたほかの短歌や詩などがあるかもしれませんが、今はこれしか浮かびません。 わたしの空想では、啄木は夢でキリストと議論をしたのではなかったでしょうか、そして…「泣いた」のではなかったでしょうか。西洋に、西洋思想に非常に関心のあった啄木が、キリスト教やキリストに無関心だったとは考えられないのです。啄木が夢でキリストに何を言われ、何に感動して泣いたのかは分かりません。しかし、キリストの前で赤子のようになって泣いたのではなかったでしょうか。そんな空想をしたのです。 神様と議論して泣きし―― あの夢よ! 四日ばかりも前の朝なりし。
2017.10.22
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編集より(同人誌「賀茂短歌」10月号)下書き 今日、十月二十一日(土)、渡辺つぎさんの四十九日の法要があり参加しました。そして法要後の会食のとき下田岳精会の会長杉江精寛氏が詩吟を披露されました。 それは、下記の短歌三首でした。 渡辺つぎさん作 追い風よ心して吹け百歳をとうに越えたるこの小さき背に からっぽの記憶の箱よ泣くなかれこれからためるたのしみがある 御子息渡辺 紘氏作 あどけなく唇うすく紅(べに)さして明治生まれの母は旅立つ 短歌作品の良さはもちろんですが杉江精寛氏の吟詠のすばらしさに正直胸にこみ上げるものがありました。それは、わたしだけではなく近くの男性も涙をふいておりました。 会が終わり、外にでましたら小雨が降っておりました。渡辺さんの心からの笑顔を思い浮かべながら帰路についたのでした。
2017.10.21
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編集より(同人誌「白浜短歌」10月号より) 渡辺つぎさんがお亡くなりになりました。満百六歳と六か月でした。渡辺さんは、七十二歳の時に賀茂短歌会に入会されたました。それにしても、三十四年短歌を作っているわけです。最近の作品では、次の歌が心に残りました。 知恵袋満タンにして逝きたしと今日もうた詠む百六歳のわれ 古来より死を旅にたとえてきました。「知恵袋満タンにして」にガソリンを車に満タンにして旅立つイメージを受けました。あたかも死後の長い作歌生活に備えるようです。この前向きの姿勢こそ渡辺さんの真骨頂です。とともに、わたしたちが学ばなければならない大切な教えだと思っています。 (後略)
2017.10.20
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白浜短歌会七月歌稿(休会) A子さん 庭に咲く紫陽花の花鮮やかに大りん重みで地に伏し哀れ 梅雨時海行く来客姿無く白砂埋まる大浜広々 1.作者の家の庭に紫陽花の花が咲いているようです。それは鮮やかな大輪の花のようです。大輪なるがゆえにその重みで花が地に伏しているのです。その矛盾に対する作者の思いが出ているでしょう。作者としては、一番言いたいと思われる「哀れ」については、意見が分かれるところでしょう。言い過ぎ、そこまで言わずともと言った意見があるでしょう。 2.「梅雨時(ばいうどき)海行く来客姿無く」、来客というのは観光客なのでしょう。雨で観光客もなく、白砂に埋まる浜辺がいつもより広々と見える。「大浜」というのは、白浜の浜辺の名前でしょうか。一首目と違ってこちらは、感情語を一切入れていませんが、作者の寂しいような気持ちが出ているでしょう。 B子さん 簡単なタイムスリップレコードで今宵はシカゴ「君こそすべて」 酔いしれるガーファンクルの歌声に明日に架ける橋を歩かん 1.前月、作者は「七十年代シカゴ聴く夜」と歌っています。短歌もやはりそうですが、昔の自分の作品を読みますと、作った当時の思いがよみがえってきます。「簡単なタイムスリップ」とはうまく表現しました。この短歌の内容は、若い頃に聞いていたレコードを夜聞いている、それはシカゴというグループの「君こそすべて」という曲名ですといったことでしょう。しかし、それは、表面的なことであって、なぜ若い頃の歌を聴いているのか、聞きたいのか、その隠れている作者の心境が実は重要なのでしょう。カラッとした言葉のなかから心を澄ませますと作者の隠れた思いが伝わって来るように思うのです。 2.「ガーファンクル」は、「サイモンとガーファンクル」というグループで、『明日に架ける橋』という曲が爆発的に流行したことを思い出しました。作者は今、若い頃の思い出に浸っている、あるいは浸っていたい心境なのかもしれません。それは、過去に目を向ける、後ろ向きな生活態度、現実からの逃避とも受け取られるものかもしれません。しかしそれを踏まえて、「明日に架ける橋を歩かん」という前向きな言葉に救われた思いがしたのです。 C子さん 桃狩りに洋裁仲間五人等とツアーに参加初夏を楽しむ 空青く緑さやけくバス旅行長きトンネル四キロも有り トンネルをぬけるとそこは甲州路着いた目の前桃狩りなるぞ 1.まず、「桃狩り」と具体的に書いています。「洋裁仲間」、これも具体的です。単に、ご近所の五人と行ったのではなく、洋裁仲間五人という具体的な表現がいいと思います。多分昔洋裁を習ったのでしょう、苦労を共にした良き仲間のイメージを受けます。 2.内容が、少しごたごたした感じがしました。空の青、緑の草木に対してトンネルが出て来ます。それも四キロもある長いトンネルです。そうした、プラス(明るい)の要素とマイナス(暗いトンネル)の要素が一首の中に入っているところが、何か複雑な作者の心理状態を表わしている様にも思えたのでした。 3.ここにも、トンネルが出て来ますが、こちらは、それを「抜ける」という表現があります。この「抜ける」という言葉が重要で、現実のトンネルを「抜ける」ことであるとともに、作者の心理的なトンネルを「抜ける」感じもしたのでした。 E子さん 城山のアジサイ祭デー仲間はなやぐ山を車は登る 海辺より風吹きくれば賑やかな夏の浜辺の客の声きこゆ 幼な児と夫を残して麻央さんは愛しているよの言葉つげ逝く 1.下田城のあじさい祭をデイサービスの車に乗って見に行ったのでしょう。「デー仲間」は、表現としてはどうでしょうか、仲間内だけに分ればいいという歌であれば、これでもいいと思いますが。一般的には通用しない略語のような気がしました。「はなやぐ山を車は登る」という表現は不思議な魅力があるように思いました。 2.「海辺より風吹きくれば」浜辺の客のこえが聞こえるという表現が独特です。「夏の」は省略してゆったり歌ったらどうでしょうか。 参考:海辺より風吹きくれば賑やかな浜辺の客の声が聞こえる 3.市川海老蔵の奥さんで、先ごろ34歳の若さで亡くなった小林麻央さんのことを歌ったのでしょう。事実だけを述べ、作者の感想が入っていないのが良いと思います。 F子さん 竹の子の皮をつぎつぎ剝ぎゆけば幼きあの日甦りくる 仏壇に供えし紫陽花生(い)きいきとピンクの色が彩りそえる 1.自分だけにはよく分る、それでいいという考えもあるかもしれません。この歌は作者にとっては大切な一首のはずです。「幼きあの日」に何があったのでしょう。作者にはありありと今蘇っている大事な思い出のはずです。コメントによりますと、竹でお人形を作ってもらった思い出のようです。竹をたたいて作ってもらったと書いてありましたが、「たたいて」というところがどのようになるのか想像できないのですが、よい題材の歌だと思います。 参考:竹たたき人形作ってくれし父物の乏しきころの思い出 2.仏壇に紫陽花の花を供えた、その花が生き生きとしているように感じたというのです。その色がピンク色で、仏壇に彩りをそえている。仏壇に対して「生きいき」ということば、「ピンクの色」も仏壇とは対比的なことばで、それが一首のなかに不思議な感じを与えています。 G子さん 七人の兄姉みな逝きわれひとり残りて思う子供の頃を あかときの静かな雨を聴きておりこころのおくの声きくごとく 1.昔の人は兄弟が多かったですね。作者は七人兄弟で、兄と姉ですから一番下のようです。ですから当然順番的には作者が最後に残ることになるわけです。子供の頃を思うというのも悲しみが増します。子供の頃は、兄さん姉さんにいろいろ教えてもらったり、頼りにしていたことでしょう。それが年と共にいわば逆転するようになってゆくわけです。それがなんとも悲しいのです。 2.明け方の静かな雨をきいています。それが一転して「こころのおくの声きくごとく」としています。一首目と思い合わせますとなおさら心にしみます。 折鶴 原 明男 しあはせの片(かけら)をけふも拾ひたき術後五年の再検の朝 「七夕があなたの願い叶へます」と彼(か)の病院食(スタッフ)の折鶴のメモ 1.上の句は、「しあはせの片(かけら)」という言い方、それを今日も拾いたいといったくだけた言い方ですが、下の句「術後五年の再検の朝」でぐっと重い歌になっています。重い歌を軽めに歌うことで、かえって思いが強くなります。 2.入院した時の思い出でしょうか。折から七夕の頃だったのでしょう。病院食のお盆かなにかに、折鶴が入っていてメモが書かれていたのでしょう。「七夕があなたの願い叶えます」と書かれていたのでしょう。その後毎年七夕の時期になりますとそのメモのことを思い出すのではないでしょうか。あるいは実際に七夕の短冊に願いを書いたかもしれません。「病院食」に「スタッフ」とルビをつけているのはなかなか大胆な表現です。
2017.10.19
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白浜短歌会六月歌稿(六月二十一日) A子さん 庭に咲くあぢさいの花美しく色とりどりで周囲賑わす 椅子にかけ引きずり乍ら雑草(くさ)を取る庭はきれいに我は筋肉痛 1.庭にあじさいの花が咲いています。その花はいろとりどりで美しく周囲をにぎやかにしているようだと感じています。ほっとした、気持ちで庭を見回している作者なのでしょう。次の作品を見ますと、その庭は作者が雑草を取っているのです。そうしたことによってなおさらあじさいが美しく見えるのでしょう。ですから、多少満足感も感じられます。それが「周囲賑わす」という言葉になったのかもしれません。 2.「椅子にかけ引きずりながら雑草を取る」という表現に、九十歳の作者の苦心がにじんでいます。「庭はきれいに」なった満足感とつい無理してしまって体が痛いという反省とが複雑にからんでいます。ただ、それほど深刻ではなく、多少ユーモアも感じました。「バカだなあ、筋肉痛になるほど夢中で草取をしなくてもよかったのに」といった軽い感じです。 B子さん 受けつけぬことばとメロディー多くなる七十年代シカゴ聴く夜 パソコンが起動しなくてイラッとすお気楽なミケ(ネコ)ひざで居眠り ミニダリアレモンイエローが雨に映え下手なスケッチ挑戦したり 1.世の中が様変わりしています。音楽界も同様で、歌詞といいメロディーといい作者には受け付けられないものが多いようです。作者は昔を、1970年代、(昭和45年から昭和55年)を懐かしく思っているようです。その当時、作者は何歳ぐらいであったでしょうか、夜になって一人静かにシカゴ(バンドの名前ですか)を聴いていると若い頃の色々なことが甦ってくるのでしょう。バンドシカゴの曲で「素直になれなくて」というのがあるようです。 2.パソコンが起動しない、パソコンをやる人間であれば何度か経験することです。これは、パソコンだけではなく車などもそうですが、メカニズム(機械装置)とソフトウェア(操作手順)とがあって、私などは操作方法はある程度わかるんですが、メカニズムの方の知識があまりありません。ですから、機械的な故障などですと、すっかりお手上げで、パニックを起こしてしまいます。作者もたぶんパニックを起こしたのでしょう。ただ、表現は「イラッとす」と軽めに抑えているようです。こんなときは、可愛がっているミケにさえ当たりたい気分ではないでしょうか。「お前は気楽でいいね」とひざで居眠りをして頼りにならない猫に当たりたい気分なのでしょう。 3.ミニダリアにも色々な色があるようです。作者の家にあるミニダリアの色は、レモンイエローのようです。そのレモンイエローが折からの雨に映えてなんとも美しく見えたのでしょう。雨で外出もままなりません、そうだこの美しいダリアをスケッチしよう、そんな明るい気持ちになった作者ではなかったでしょうか。花の美しさとともに花の力を感じる歌です。 D子さん 有り難き先輩の誘い有りて我気持ち新たに短歌の会へ 只々と病に向う我のいて日々を支えし短歌と俳句 今は只感謝感謝の日々の中傷痕残し命頂だく 1.鈴木絹代さんが、白浜短歌会に戻って来てくれました。有難うございます。 この歌は、そんな鈴木さんの挨拶の歌と受け取りました。正岡子規がよく挨拶の歌を詠んだようです。ご自分の気持ちを素直に歌うのが短歌だと思います。こうした感じでどしどし詠んでいただけたらよろしいかと思います。 2.具体的に、どのような病を患らっていらっしゃるのかはわかりませんが、日々ご苦労されていらっしゃるようです。そうした日々の苦しみを短歌や俳句を作くることによって、なぐさめられているのでしょう。短歌で支えられた具体的な一瞬を詠んでいただくと、もっと強烈に読者に届くものがあると思います。 3.二首目も「日々」という言葉があり、三首目のこの歌も「日々」という言葉が使われています。短歌の基本は瞬間を歌うことです。「日々」というようなまとめかたには、注意が必要が必要ですので、念のために申し添えて置きます。作者の気持ちは「感謝感謝」「命頂く」といった言葉通りであろうと推察します。ただ、多少観念的であるように感じます。短歌は、(俳句も同様であろうと思いますが)写生からと言われますので、写生に心掛けられると歌がもっともっと生きてくるように感じました。(これは私自身が常に気をつけていることです。)作者の気持ちは原作でも十分読者には通じると思いますが。 E子さん 草むしりきれいになった庭ながめ瓜の間の土を洗いぬ 五月豆今年もサルに食べられたにくいと思うも利口に負けた 若者のウインドサーフィンからふるに波風に乗り春の海すべる 1.作者も九十歳を過ぎていられる、草むしりしてきれいになった庭を眺めているようです。しかし、それだけではなく、(採りたての)瓜の土を洗っているというのです。仕事をするのが好きな作者かもしれません。「瓜の間の土を洗いぬ」が少し分かりにくいと思いました。「瓜に付いたる土を洗いぬ」ということだと思います。草をむしってきれいになった庭をながめることと、(採り立ての)瓜を洗う事と二つのことを歌っていますが、どちらか一つで十分歌になると思います。 2.せっかく作った五月豆を猿に食べられてしまった。「今年も」とありますから、去年もそうだったのでしょう。ですから、今年こそはと、食べられないような工夫をこらしたはずです。しかし、猿のほうがそれを上回って、五月豆は食べられたのでしょう。憎いと思う以上に猿の利口さにお手上げの作者の姿が浮かびます。 3.白浜海岸でウインドサーフィンをしている若者たちを詠っています。カラフル(色あざやか)な服装をして波に乗っている姿、おりしも季節は春、遠い若い日を思い出している作者なのでしょうか。「波風に乗り」という表現はどうでしょうか、「波風を受け」としたいところでしょう。 F子さん 伊豆地区の高齢化率報道にいかに生きるや夫と語りし 芝の上カラス一羽がスキップす伴侶を得たか偶然なのか 1.確か、西伊豆町が県下で一番の高齢化率が高かったように記憶しています。高齢者が多くなり、介護が受けにくくなるとかの問題が浮かびます。そうした問題をご主人と話し合ったというのでしょう。まず、「夫と語りし」の「し」は過去の回想の助動詞ですので、「夫(つま)と語りぬ」あるいは、「夫(おっと)と語る」とかのほうが良いと思います。「いかに生きるや」の「や」は相手に疑問を投げかけるときに普通使います。自分自身が疑問である場合は「いかに生きるか」となります。この場合「語る」となっていますから、ご自身が色々悩んでいることをご主人に語ると言った感じで、「いかに生きるか」のほうが良いように思います。ご主人に、「どのように生きますか」と疑問を投げかけるのであれば、『「いかに生きるや」と夫に言いたり』とかでしょうか。 参考:伊豆地区の高齢者率高ければいかに生きるか夫(おっと)に語る 参考:伊豆地区の高齢者率高ければ「どう生きます」と夫に言いたり 2.短歌は心に感じたこと、感動したこと、あるいは心配ごとでも困ったことでもいいのですが、作品にはこころの動きが必要となるでしょう。頭の問題、考えの問題ではないのです。ですから、「偶然なのか」は不要に思いました。だだし、歌に理(理性、昔はことわりといいました)の部分を入れ込むことが作者の個性なのかも知れません。 参考:芝の上カラス一羽がスキップす伴侶を得たと喜ぶように G子さん 草をしき温き畑に里芋(いも)ねかせ春の陽光(ひかり)を静かに待てり やわらかな小さなかたちのかまきりが芝生の上で春の陽をうく 1.里芋を植える手順を語りつつ、その成長を見守る様な作者の眼差しを感じます。「草をしき温き畑に里芋ねかせ」と丁寧に表現しています。そして「春の陽光を待つ」というのです。春の陽光を待つのは里芋だけでなく、作者自身も春を待っているような感じを受けたのです。 2.「やわらかな小さなかたちのかまきり」とこれも対象を見る目が細かく丁寧で、優しい感じがします。それと同時に、そのあやうい生命体が無事に成長するようにと祈っているようにも感じました。歌の内容とともに作者の人柄が感じられます。 さくらの花 原 明男 追ひかけて追はれて児等の笑い声さくらの花も風に馴じめり 祖のこころ律儀に耕こす若者の笑顔の清がしはつなつの風 1.花見でしょうか、子供たちが、追いかけっこしたりして、はしゃいでいます。それに合わせるかのように桜の花も揺れているようです。それが、「さくらの花も風に馴じめり」という表現になったのでしょう。お孫さんでしょうか、見ている作者の視線、風になじんでいるのはさくらの花だけでなく、作者も同様だったのではなかったでしょうか。 2.「耕こす」は、「おこす」と読むのでしょうか。先祖代々営んで来た農業を継いでがんばっている若者がいたのでしょう。その若者の清々しい笑顔、それははつなつの風のように、さわやかに作者の心を吹き抜けたのでしょう。
2017.10.18
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白浜短歌会五月歌稿(五月十七日) A子さん 加齢ゆえ頭脳働き衰えて忘れがおおく今日も指折る 家の庭油断大敵休む手に雑草芽吹き緑の庭に 1.年を重ねてもの忘れが多くなったという嘆きを歌っています。「今日も指折る」が、少し謎めいていて深みを感じます。この具体的な表現がいいのだと思います。何のための指折りなのでしょうか。歌を詠むにも指を折ります。指と脳とは大変関連があると言われています。せいぜい指の運動をして(指を折って)、長生きをしてください。 2.家の庭の雑草を取るのは、作者の仕事のようです。少し油断して手を休めると、すなわち草取をしないでいると、雑草がみるみる生えて庭は雑草だらけになってしまう。だから、今日もせっせと草を取っているのだといった思いを述べているのでしょう。九十才の作者の役割がしっかりここにあるのです。それが生きる力になっているのかもしれません。 B子さん 食べさせたい思うヒトなく立つキッチン主(ぬし)なき茶碗今日は命日 酉年のピー子(インコ)二度目の酉年でスゴイことだよ十二才だなんて スカイプに互いを写しあれやこれネット嫌いも恩恵受けし 1.「人」でなく、「ヒト」と片かなで表現しているのはどういうことでしょうか。「主(亡きご主人)」との対比もあるかもしれません。ご主人の茶碗をいまだにキッチンに置いてあるのでしょう。それは、いつも伏せてあるのでしょう。今日は命日ひとしおその茶碗が目についたのでしょう。 2.二度目なら、十二才ではなく、もっと多い、最大二十四才となるでしょうか。しかし、十二才ということは、酉年に孵って十二年経ったということでしょう。インコの寿命はどのくらいか分かりませんが、人間なら高年齢なのでしょう。インコとの十二年間の色々なことも思い出していたのでしょう。家族同様のインコなのでしょう。インコに対する労わりのような気持もあるようです。 3.「スカイブ」は、正直に言いまして、まだ経験したことがありません。調べますと『Skype(スカイプ)は、マイクロソフトが提供するインターネット電話サービス。』と載っていました。料金も無料で、互いに写真を送りあったりすることが出来る様です。家族同士離れていても、一体感がもてていいように思いました。たしかに「恩恵受けし」の気持ちがわかります。複雑になってゆく社会ですが、そうしたなかで知恵を出して人間関係、家族関係を保つ工夫をしているようです。 C子さん 誕生日四月一日(エイプリルフール)ほんとだよおばあになったと白髪をなでる 春の畑トマトにキュウリナスの苗元気に育てと袋でかこう 冷蔵庫娘は一ぱい買いこんでちゃんと食べてと言って帰りぬ 1.作者は、四月一日に、「今日はわたしの誕生日」とでも言ったのでしょうか。おまけに年齢も話したかもしれません。「九十三才になった」と話したかもしれません。相手が「ほんとですか」とか言ったかもしれません。「今日は四月一日でエイプリルフールの日だけど、ほんとだよ、でも、わたしもおばあさんになってしまったよ」と白髪をなでたのでしょう。そんな想像が出来ます。 2.夏の野菜の苗を四月の畑で植えつけているのでしょう。四月は、まだ寒い日があります。遅霜の危険があります。そこで苗にビニールのキャップを被せる作業があるのです。夏の収穫を夢見て苗を大事に植え付けている作者の姿が浮かびます。 3.娘さんが買い物袋を下げて訪ねて来たのです。そして、冷蔵庫に買って来たものをいっぱいに入れて、ちゃんと食べないとだめだよと言って帰って行ったというのです。娘さんの母の身を案ずる気持ち、それに対する作者の感謝の気持ち、歌の表面には言葉として表現されていませんが、そういう気持ちが伝わってくるのです。 D子さん コンクリのすき間をぬって笹竹が(は)空に向ってまっすぐ伸びて 下手ながらゴルフ楽しむ金曜日「ナイス」「惜しい」と仲間にもらう 1.まず、言い差しの歌(「伸びている」の「いる」が省略されていて、途中で終わっている歌)の歌は余韻をもたせる効果がありますが、できたら省略しないようにしたらいいと思います。上の句も「ぬって」と次に続いていますので、下の句は終止形にしたいと思います。つまり、「まっすぐ伸びる」とします。「が」と「は」の違いがあります。「が」は自然体で、笹竹のそのままの描写です。「は」は、笹竹に作者自身が思い入れして、強調している感じです、(わたしにはそんな力がないのですが、)「笹竹は」(力強く)空に向かって伸びているといった感じです。 2.まず、「グランドゴルフ」とはっきりさせたほうが良いでしょう。あとは、何をカットし、何を残すかの問題になるでしょう。「ナイス」と「惜しい」と二つ言葉を出しています。気持は分かりますが、時間が入っているのです。「ナイス」があったり、「惜しい」時があったのでしょう。そのつど仲間が掛け声をかけてくれたのでしょう。それは、作者にとって励ましの言葉なのです。ただ、短歌の基本は瞬間を詠うことです。「ナイスショット」の時だけの瞬間の気持ちを歌うのが基本です。参考:下手ながらグランドゴルフするわれに「ナイスショット」と仲間の言葉 E子さん われの手をにぎり連れ来るる介護士の手の温もりが胸を突きあぐ 黒々と裂けたる幹は枝を張りあんず古木は泰然と生く(咲く) 1.感動を言葉で表現する、あるいは表現したいという思いがあります。ただ、感動が日常生活にいつもあるとは限りません。無感動に時が経過するのが多いように思います。そこで、ちょっとの気持ちの動きを増幅して感動にもっていって、そして短歌にしたいと考えるのです。「胸を突きあぐ」という強い言葉、オーバーにみえる言葉にそんなことを思いました。「手の温もりが伝わってくる」くらいの抑えた歌い方ではものたりない気持ちが作者にあるのでしょう。これは「温もりが胸を突きあげる」ことを詠いたいのではなく、介護士への感謝を詠いたいのだと思うのです。 2.「泰然」という、抽象的な、観念的な言葉を使っています。「泰然」は辞書に、「落ち着いて物事に動じないさま」と書いてあります。これが、きいているか、きいているとして、「泰然に生きる」がよいか「泰然に咲く」がよいか、という選択です。「泰然に咲く」はどうでしょうか。この歌は、あんずの古木のことを詠っているのですが、実は人間の生き方みたいなものが背後にあるように思うのです。「古木は」の「は」にそれを感じるのです。「古木は、幹が強風で裂けてもなお、泰然と生きている。自分はそんなに強くはないが、なれるものなら、あやかりたいものだ。」そんな、気持ちなのではないでしょうか。「泰然と生く」をわたしは、すすめます。 F子さん ひとひらの木の葉のごとく舞い降りて小雀しきり餌あさりおる 恙なく九十才を越えし夫今日もいそいそスーパーめぐる 1.小さな雀が地面を啄んでいるのを見つけたのでしょう。見過ごしやすい小さなことがらです。こういうちょっとしたことを歌にしたことがよいと思います。「ひとひらの木(こ)の葉」のたとえも無理なく「小雀」のイメージを出していると思います。「餌ついばみておる」でなく、「餌あさりおる」と小雀の必死さをさりげなく出しています。自分はもちろんのこと、小雀も必死に生きているのだという発見があります。 2.「恙なく」というところは大事だと思います。それも九十歳を越えたというのです。作者は体がご不自由と聞いています、作者にかわってご主人が買い物をしてくれるのでしょう。作者が健康な時代はたぶんご主人にとって、買い物は抵抗のあったことと思います、しかし奥さんがご不自由の体になって、今は自分の役割として、むしろ喜んで、いそいそとスーパーを巡っていらっしゃる。その御主人への感謝の気持ちが一首となったように思いました。 春木立 原 明男 囀りに口笛合はす春木立気負ふ音色も緑に和めり 広広と千潟は声で埋りいて予告なきかに里も夏めく 1.「囀り」は、小鳥でしょう、それでは「口笛」は作者でしょうか。いえいえ、「春木立」のようです。まずこの辺から詩の世界に入って行きます。「気負ふ音色」という擬人化、それがすべてが、新緑の世界に溶け合っているというのでしょう。春は風が強く、口笛のように聞こえます、鶯の囀りも聞こえるでしょう。時はまさに新緑の春です。 2.潮が引いて広広とした砂浜に人があふれている状態を「声で埋りいて」としています。この辺の表現がなかなかたくみです。「予告なきかに」に驚き、感動があるのでしょう。「里も夏めく」、もう夏になるか、あの喧騒の夏が近づくことに対する作者の複雑な思いがあるようです。それが、「声で埋りて」と響き合っている様にも思うのです。
2017.10.17
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白浜短歌会四月歌稿(四月十九日) A子さん 施設より眺むる山並美しく樹木の間に間に桜花らんまん 小鳥達庭に舞降りちよろちよろと餌を探して奪い合いする 1.「施設」は、デイサービスに通っている施設でしょうか。美しい山並が多分遠くに見えたようです。出来たら、それに集中したいところです。近くに木が何本か視界をさえぎっているようです。その木々の枝の間に、らんまんに咲いた桜が見えたということのようです。ちょっとイメージしにくい感じがしました。遠景と近景と二つのことを詠んでいるのです。出来たら、一つに集中したいと思います。 2.小さなことにこだわって申し訳ありませんが、「餌を探して奪い合いする」というのは、どうでしょうか。「餌を拾って(餌を見つけて)奪い合いする」なら分かります。短歌は出来るだけ瞬間を歌いたい、「探して」は、「奪い合う」との間に時間が入ります。「ちょろちょろ」という表現がなんとなく面白く感じました。 B子さん 母逝きし手を握りしめ指切りすあなたの子としまた逢わんこと 薫風に山の緑が清々し目に映るものすべてが愛し 1.寺山修司が短歌から演劇の世界に行ったことは、しばしば話しました。短歌にはそういう、演劇的な側面があるのでしょう。この歌を読んでそのことを思ったのです。舞台だと感動的な場面となるのでしょうが、短歌となるとどうでしょうか。芝居がかっているという批評があります。 参考:命なき母の手握り指切りすあの世もあなたの子となりますと 2.「薫風」「清々し」と風と山の緑を言っているかと思えば、「目に映るものすべてが愛し」と言っています。言葉の先行が目につきます。言葉でもって気持ちを表そうとしている感じです。「目に映るものすべてが愛し」という心境をなんとか表現しようと苦心しているのは分かる気がします。「薫風」という言葉は、良い言葉ですが、個人的には使いたくない、使いこなせない気がしています。 参考:生きている生かされている薫風に目に映るものすべてが愛し C子さん 健康は土からもらう春野菜喰べてくださいと小さな芽を出す わたくしは知りませんでは済まされぬテレビは日々のニュース伝える 霜雨にデーサービスは恒例の桜の花見の車走らす 1.「健康は土からもらう」とは、いい言葉ですが、作者の発想でしょうか。それとも何かに書いてあったことばでしょうか。「春野菜がまるで食べて下さいというように小さな芽を出している」という見立てもなかなかすばらしいと思いました。 2.「わたくしは知りませんではすまされぬ」という言葉、何かの事件のことを言っているのでしょうか。「テレビは日々のニュース伝える」をもう少し具体的にするとよくなると思います。豊洲問題ですか、安倍首相の奥さんの問題ですか。ただ、社会詠は、自分に引き付けて歌うことが大切です。 3.「霜雨」という言葉はあるのでしょうか。氷雨はありますが。寒い日であることを印象付けたいのでしょう。そんな寒い日でも、恒例になっていたのでしょう、桜(河津桜でしょうか)の花見につれていってくれたのでしょう。その有難さを一首にしたのでしょう。 D子さん 師に唱う御詠歌をミスした我に「練習不足」師の声きこゆ おどろきの部屋もきれいに片づきて留守なる部屋に目頭あつく ごみの中ひときわ目だつピンク色桜の花びら数枚まじりて 1.コメントに住職様が亡くなったとなっていました。その亡くなられた住職様に御詠歌を唱えられたのでしょうか。それとも生前最後の御詠歌の集りでの失敗だったのでしょうか。 参考:亡き師への御詠歌なるにミスしたり「練習不足」師の声きこゆ 2.「おどろきの部屋」とはどういうことでしょうか。「留守なる部屋」とおなじ部屋なのでしょう。かって散らかっていた孫の部屋。今日、訪ねると留守だった、しかし部屋がきれいに片付いていた。そこで感動して目頭が熱くなったということでしょう。目頭があつくなるというようなことは言葉にしないで、もっと正確に状況を描写することを学んでください。 参考:大学に入り成長したる孫留守なる部屋の片づきてており 3.「ごみ」と「さくらのはなびら」とを対比して、さくらのあでやかさを表そうとしたのでしょう。ただ描写がいまひとつのようです。「ごみの中」という言い方、「中」ではなくて「上」ではないですか。ごみはどのようなごみでしょうか。ごみのある場所はどこでしょうか。ごみにさくらのはなびらがついているのを切り取ったのは良いと思います。「ひときはめだつ」などと言わなくても目立つでしょう。 参考:側溝の泥の山には桃色のさくら花びら数枚がつく 山村ハツ子 木の下の落葉の上に丸まりて陽射しを浴びて野良猫眠る 朝々に日暦めくり新聞と茶を楽しみし亡父なつかしや 1.まず情景がよく分ります。「丸まりて」といった細かい描写がいいと思います。それも「野良猫」です。「あわれ」とかいった感情語を一切使わず、なんとなく野良猫のあわれさみたいなものが感じられます。 2.亡父をなつかしんでいる作者ですが、多分作者自身が日暦を毎朝めくり、新聞を読み、お茶を楽しむ心境になったのではないでしょうか。 祖父の酒 原 明男 高らかに外に向いて豆つぶて八十四年のまた春が来る 一滴を舐めるがほどの祖父の酒せめてと憶ふ寒鰤のトロ 1.「高らかに」は、声高らかに「鬼は外」と豆をまいたのでしょう。その省略が見事です.「豆粒手」もいいと思います。「八十四年のまた春が来る」もぴたっと決まっています。 2.お祖父さんは、あまり酒をたしなまなかったのでしょうか。「一滴を舐めるがほど」と言っています。せめてと、おいしい寒鰤のトロをお供えしたのでしょうか。
2017.10.17
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白浜短歌会三月歌稿(三月十五日) A子さん 春の庭芝生の中よりあちこちに雑草芽生え大空仰ぐ 庭の梅つぼみふくらみ重々とやがて開花し人目を求む 1.「春の庭」という表現を一度考えてみるとよいと思います。「芝生の中よりあちこちに雑草が芽生える光景」を歌っています。春とことわらなくてもよいように思うのです。この歌の特徴は、結句だと思います。視線を落して雑草の芽生えを見ていると思っていたら、突然「大空仰ぐ」というところです。雑草に春の来たことを教わった感じでしょうか。春の解放されたような気分が空を見上げさせたのかもしれません。 2.この歌も結句に特徴があります。庭の梅が主人公です。つぼみがふくらんできて重々となりやがて開花するだろうと作者は想像しています。その想像は一般的でとりたてて言うほどのことはないのですが、結句の「人目を求む」というところです。梅が人間の目を求めている、見てもらいたいと思っているというのです。毎年のことで作者はこの梅のすばらしさを十分承知しているための断定なのでしょう。 B子さん 感傷を少し控えて深呼吸 花吹雪舞う退職の朝 この日まで幾多の折り合いあったろうパソコンにペンみんなにグッバイ とりあえず昼寝などもす仕事終え芭蕉真似るもあるやなしかと 1.まず、「感傷」という言葉に注意しました。観念的な「感傷」という言葉、便利な言葉で、気持ちはよく分る言葉です。「深呼吸」「花吹雪」「退職の朝」の具体的な言葉に助けられているように思います。まるで、舞台の一コマのようです。劇団「天井桟敷」の主宰者は、天才歌人寺山修司でした。短歌と演劇は通づる所があるのでしょう。 2.連作としますと、「この日まで」というのは、退職の日までということになります。「折り合い」すなわち、妥協のことでしょう。職場の生活はたくさんの妥協があったのでしょう、それはストレスの原因にもなるのです。しかし、明日からはもうそれから解放されるのです。事務職だったのでしょうか、パソコンにボールペンにそれから職場のみなさんにお別れしますということでしょう。軽い「グッバイ」がほっと肩の荷をおろした作者の気分が伝わるようです。 3.これも連作として読みます。退職をしてとりあえずのんびり昼寝でもしようということでしょう。「仕事終え」は退職のことでしょうから、「仕事退き」とか「職を退き」ということでしょう。「あるやなしかと」という表現がなんとなく、面白かった。「ありやなしやと」などという常套句を使わないところ、そのぎこちなさに実感がこもるのかもしれません。「昼寝などもす」の「も」というあいまいな感じもここでは生きるように思いました。 C子さん 光陰矢の如しと云うけれど携帯電話も身体の一部に いくつですか九十二才と答えれば元気ですねと肩たたきゆく 送迎の車に乗ってデイに行く仲間もできて一日楽しむ 1.「光陰矢の如し」ということわざと「携帯電話が体の一部になってしまった」ということを結びつけている、その意外性が面白いと思います。携帯電話が自分の体の一部となるまでには、長い年月がかかったのでしょう。しかし、今振り返ってみると昨日のことのように思うのでしょう。それが「光陰矢の如し(月日が早く過ぎること)」に結びつくのではないでしょうか。 2.「肩たたきゆく」というのですから、何かデイサービスの職員のようにも思えます。職員と言うよりもっと所長とか地位の高い人を連想しました。短歌に励んでますます若返ってください。 3.デイサービスの有り難さが滲み出ています。送り迎えをしてくれるし、仲間も出来て一日楽しく過ごすことが出来る。こんな素晴らしいことはないということでしょう。 D子さん 時の(を)経たりんごを割れば水気あり「年だから」の言葉つつしもう 我の名を呼んでる母の夢をみた何か用なの遺影に語る 1.「時の経た」とすると、時が主役になります。「時を経た」としますと、りんごにかかりますからりんごが主役になります。この場合「を」のほうがいいように思います。下の句の飛躍がこの歌の生命でしょう。長いこと置いておいたりんごでさえこのように水気があるのだから、年のせいには出来ないなと感じたのでしょう。未来に向かっての決意表明もわるくはないですが、現状をそのまま歌う事も出来ます。 参考:時経たるりんごを割れば水気ありわが口癖は「年だから」なり 2.夢のなかで亡き母が自分の名前を呼んでいたというのです。目が覚めてもそれが思い出されて、遺影に向かって何かわたしに用があるのと語りかけたというのです。 何か用があって自分の名前を呼んだという感じ方は作者のものです。亡くなられてもなお自分の身を案じているのかという感じ方もあるでしょう。 参考:われの名を呼びいる母の夢見たり死してなおわれを案じくれるや E子さん 誕生日デイサービスの人達の「ハッピマシテ・テゴさん」と祝福受ける 春よ来い早く来いよと口づさみ今日もジョギング杖をお供に 春嵐過ぎたる後の篁はみな深深と垂れて動かず 1. 「ハッピマシテ」というのは、「ハッピバースデイ」を短くしたのでしょうか。「マシテ」は、「初めまして」とか「明けまして」の「まして」のように思うのですが。この歌もデイサービスの楽しさを歌っているようです。 2.まだ外は寒いのですが、健康維持のためにジョギングをしている作者なのでしょう。九十を過ぎている作者を思えば、涙ぐましい感じがします。「杖をお供に」としていますが、杖を頼りにといった感じでしょう。「春よ来い早く来い」の軽さも効果があるように思います。 3.「春嵐」「竹藪」「深々と垂れる」、竹藪のある光景を切り取っています。なかなか感じはつかまえていると思います。嵐の最中でなく、過ぎた後を歌っているのも特徴があるように思います。「春嵐過ぎたる後の篁は」が、少し強調しすぎているようのも感じました。 F子さん 大寒というに路傍の犬ふぐり小さな春をみつけてなごむ 早春の光をあつめ桜木のかたき花芽は日々につやめく 1.大寒の日に外出した作者、この寒さのなかに健気に咲いている犬ふぐりの花を見つけたのでしょう。それは、あたかも小さな春を見つけたように感動した作者でしょう。結句の「なごむ」は少しダメ押しのようにも感じます。「小さな春を見つけた感じ」ぐらいでは弱いのでしょう。作者の感動の強さは分かります。 2.「日々に」と期間を入れています。いま「つやめいている」とすることも出来るでしょう。しかし、「日々に」と入れることによって、待ち遠しい感じは出ているでしょう。「花芽」というあたりは、細かいところに神経が行き届いている感じを受けます。 虎落笛 原 明男 遠吠のごとくと聞こゆ虎落笛今だ昭和に向き合いてゐる 「あと百」と風呂焚きながら祖母さんが茹で蛸にせしあの虎落笛 1.「遠吠え」「虎落笛」と「昭和」との取り合わせに特色を感じます。まるで、昭和が遠吠えをしているような感じ、昭和が虎落笛のような感じに思われる作者かもしれません。太平洋戦争を知っている年代の人の感慨かもしれません。 2. これも入浴、それも茹で蛸になるくらいに数をかぞえて風呂につかっていたことと虎落笛との取り合わせです。お祖母さんが出て来ますから、少年のころの思い出でしょうか。それがなんとも不思議な感じにさせるわけです。虎落笛はまるで作者の悲鳴のようにも感じます。
2017.10.16
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白浜短歌会二月歌稿(二月十五日) 後藤瑞義(人徳) A子さん 有難き晴陽背に浴び心地良く衣類の整理たちまち終了 節分に孫曾孫集い賑いて我先掻き分け(拾う)幼の欲望 1.「有難き」は、「温かき」などと描写するところを、気持ちを表しているのです。「晴陽」は、晴れた、雲のない、さんさんとふりそそぐ太陽を、意味の分かる漢字を使って、単純化しているのでしょう。ここは、良し悪しは別として、作者の個性が現れているようです。そして、この歌のもっとも大切なところは、「衣類の整理たちまち終了」です。この一番大切なところで、作者は淡々としています、なぜ衣類の整理をするのかとかを説明していません。そこが、いいのです。それは、読者が想像をする所だからです。「たちまち終わる」のでなく、「終了」とぶっきらぼうに終わっているところも、さっぱりしていて良いと思います。「衣類整理」という重いテーマなだけに良いと思います。 2.「孫曾孫」とどうしても言いたい作者の思いを感じます。それを誇っているようにも感じます。このへんは、評価が分かれるでしょう、これも作者の個性なのかもしれません。「拾う」は不要でしょう、入れるとすれば「我」を省いて「先を掻き分け拾う幼ら」などとして、「欲望」は説明的で省いていいと思いますが、これも作者の個性を強く感じるところではあります。 B子さん ラジオしかなかった下宿の四畳半大切なことあふれていたな ナツメロを聴く母のこと嘲笑(わら)ってた今なら解るレコード聴きつ 「キリンの子」セーラー服の乙女あり紡ぐ短歌に血の騒ぎたる 1.若き日の、多分耐乏生活の思い出でしょう。それが、今になって懐かしく、貴重なものと感じるようになっているのでしょう。「大切なことあふれていたな」という思いは、貴重な思いですが、もう少し具体的な描写がほしいと思います。「大切なこと」とは、具体的になんでしょうか。 参考:ラジオしかなかった下宿の四畳半未来の夢にあふれていたな 2.作者は、若い頃の思い出に浸っている母親、過去に生きているような母親を嘲笑っていたのかもしれません。しかし、自分が母親と同じような年齢になった今、つまり「今なら分る」と作者はつぶやいているようです。「今なら解る」は、具体的にどういうことでしょうか。参考は一例です。「レコード」で古さを表現していると思いました。「聴きつ」は、「聴きつつ」の意味でしょう。 参考:ナツメロを聴く母のこと嘲笑(わら)ってたわれがしみじみレコードを聴く 3.この作品によって、歌集「キリンの子」を初めて知りました。次のような広告文を紹介しておきます。 『母、友人が目の前で自殺した。児童養護施設で虐待を受け、学校にも満足に通えず、ホームレスを経験した。過酷な世界を生きてきた女性は「生きづらさ」を独学で学んだ短歌に昇華させ、このほど初の短歌集『キリンの子 鳥居歌集』(KADOKAWA)を出版した。「短歌には孤独を癒やす力がある。苦しんでいる多くの人に私の歌で生きる勇気を与えることができれば」と話す。』 齋藤さんはこの歌集を読んで感動し、それを短歌にしたようです。ただあまりにもテーマが重く深いために、一首の短歌にまとめることがむずかしいでしょう。 参考:過酷なる運命に生き紡ぎたる歌集「キリンの子」わが血騒がす C子さん マイナンバーわからぬ言葉にとまどいて確定申告息子を連れゆく 人ごとに祈る言葉は違うけど朝な朝なに家族の健康祈る 又トイレ暗闇電灯ほの暗く仕方がないとポータブルを買う 1.マイナンバーが一人一人に義務付けられて、色々な申請をするときに必要になります。作者は、「マイナンバー」という言葉がそもそもなんのことか分らず、以前は一人で行っていたであろう確定申告を息子さんを連れて行ったというのでしょう。淡々としたなかに、なんとなく味わいを感じます。 2.人ごとに祈る言葉は違うでしょうが、わたしは朝な朝なに家族の健康を祈ります。文章にすれば、このようになるのでしょう。これを短歌に単純化することが問題です。 参考:人ごとに祈る言葉は違(たが)うらんわれは家族の健康祈る 3.「ポータブル」は何を意味するのでしょうか。小型の懐中電灯のようですが、違いますか。夜中にトイレに行きたくなる、寒いし暗いしたいへんのようです。「仕方がないと」が強くひびきます、「ポータブル」の意味が重要です。 D子さん おぼつかぬ歩みの男(お)の子焼える火をどんどどんどと興味を示す 七島の上にぽっかり白き雲海の蒼さに良く調和して 1.「焼える」は、「燃える」のことだと思います。「興味を示す」が説明的です、具体的な描写がほしいと思います。 参考:おぼつかぬ歩みの男の子燃える火にどんどどんどと近づきて行く 2.七島と大きな景を切り取っています。「海の蒼さに良く調和して」の「調和」とはどんな感じでしょうか。何か具体的なものがほしいのです。 参考:大島の上にぽっかり雲浮きてあまりに蒼き海をおさえる E子さん 頬かむりして手袋に杖をつき九十二才ジョギングに行く 穂すすきの枯れたるままに折れもせず強風(かぜ)の吹く度お辞儀している 二年ぶり逢うた弟われを見て亡母(はは)の顔だと涙ぐみ言う 1. なにか痛々しい出(い)で立ちですが、「九十二才」とあれば、さもありなんでしょう。「ジョギングに行く」がやはり輝いて感じました。 2.まずまずよろしいのではないでしょうか。「お辞儀している」あたりに、個性が出ているように思います。枯れても、へりくだる心を失わないといったふうにも思われます。作者自身の願い、人生観のようなものを感じました。 3.「二年ぶり」でこの感慨が湧くのかどうか、「二年ぶり」が生きているかどうかがひとつ問題です。事実なのでしょうが…。あとは描写だけで良かったと思います。あるいは、弟さんが二年のあいだにだいぶ気弱くなったのでしょうか。それなら、「二年ぶり」が生きています。 F子さん 昨夜(きぞ)の雨名残りとどむる水溜り落ちし病葉ゆらゆらと浮く 八十を過ぐるに染髪もうやめて歳相応の髪にすべきか 1.描写だけで、よく出来ていると思います。ただの「葉」ではなく、「病葉」をもってきたところに作者の思いを感じました。 2. 「すべきか」ですから、現在はしているということでしょう。髪の毛のことを詠んでいますが、なにかもっと深い、含みを感じました。 孫 原 明男 生意気に「爺に負けぬ」と七才が米十キロを横取りてゆく 子孝行こころに決めて妻と踏む行き交ふ人も風も優しき 1.描写だけで詠んでいて、お孫さんの成長の喜びがあふれています。「生意気に」とか、「横取りてゆく」などの言葉も生きていると思います。 2.これは、師走に行われる(と記憶しておりますが)茅輪神事(縄の輪をくぐる 神 事)のことを詠んでいるのでしょうか。儀式のような、「妻と踏む」に思いがこもっているようです。「子孝行」も新鮮でした。「子孝行こころに決めて」という言葉。なにか生まれ変わったような気分が、「行き交ふ人も風も優しき」に出ているように思いました。
2017.10.15
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白浜短歌会十月歌評(十月十八日)下書き 後藤瑞義(人徳)A子さん 目覚し時今日の日程決めたのに忘れが多く計画むなし 庭のヤシ元気に育ちのびのびとそよ風受けて葉をなびかせる 1.作者は、目が覚めるとその日の行動計画をたてるようです。しかし、一日が過ぎてみると、あれも忘れていた、これも忘れていたと全然予定通りになっていない。こんなことでは、計画をたてるのもむなしいと嘆いています。しかし、計画をたてること、また計画通りいかないことを反省していることがすばらしいと思うのです。 2.作者の庭には、ヤシの木があるようです。「のびのびと」はヤシの木のすらっとした姿を想像させます。「元気に育ち」と作者は思ったのでしょう。「そよ風受けて」とそよ風を連想したのは、「元気」「のびのび」と言った言葉の流れを受けて使ったようにもおもいますが、実際はどうだったでしょうか。わたしのヤシの葉のイメージはとても固く、強風でないと靡かないように思うのですが。作者にはそよ風に感じたのでしょう。ヤシの葉のゆれているのが、作者にとって心をなごますように思ったかもしれません。 B子さん 草むしり蝉のぬけがら見つけたりつかぬ間の生たのしんだかと 秋深くいよいよ星が冴えわたる全てを包む真夜中の宙(そら) ふるさとの祭り懐しゆかた着て顔ほどもある綿あめなめた 1.草むしりをしていて、蝉のぬけがらを見つけた作者です。それに対しての作者の思いが下の句の「つかの間の生をたのしんだのかと(問いかける)」になったのでしょう。「ぬけがら」が、作者の琴線に触れるものがあったのでしょう。蝉そのものの死骸ではなく、抜け殻ですので、脱皮した蝉は今生きて鳴いているかもしれません。七年も地中に暮らし地上では十日足らずで死ぬといわれる蝉、「蝉のぬけがら」でなく、「蝉の死骸」でも良いかもしれません。ただ作者は、あくまでも「ぬけがら」だと言うかもしれません。 2.この歌は、秋の真夜中の星空を見て作っているのでしょう。少し肌寒いかもしれません。「いよいよ星が冴えわたる」、神秘的な光景が展開している感じです。星空を見ていると、「全てを包む真夜中の宙」という感慨を持ったのでしょう。この歌のよいのは、多分作者は眠れない夜を、星空を見てまぎらわしているのかもしれません。しかし、そうした負の面を覆い隠して、神秘的な夜空の光景を真夜中に見ている歌にしていることだと思います。 3.多分、子供のころの祭りの思い出でしょうか。「綿あめ」に焦点を当てているところが、やはり作者の特色なのでしょう。綿のようにほわほわとした、あまい思い出といった感じでしょうか。なにか、頼りない感じでもあるし、夢のふくらむ感じもあるし、作者の少女時代の心を表現している「綿あめ」とみることも出来るかもしれません。 C子さん 十五夜を二日前寄せ月見会月よりだんごハーイ乾杯 我病守りくれたり白浜の神社大祭今年も来れし(行けし) 嫁ぎ来て白浜神社氏子なる四十と五年月日の過ぎる 1.十五夜を二日前に前倒しして月見の会を開催したのでしょう。料理や飲み物が用意されているようです。「月よりだんご」さあ、乾杯して食事を頂きましょうといったところでしょうか。なにか、十五夜さんを口実にして、食事会をなさった感じがよく出ています。作者の高揚感が伝わってきます。 2.確か作者は大病をなさったように聞いています。病気の快癒を願って白浜神社お参りもしたこともあったでしょう。そのお陰か病気も大事に至らずにすんだようです。その白浜神社の年に一度の大祭が今年もやって来る。「今年も来れし」の「来れし」はどう読むのでしょうか。ちょっとどういうことか戸惑いました。文語の文法的には、「し」は過去の回想の助動詞「き」の連体形ですが。「今年も来たれり」などとするのが普通だと思うのですが。 3.作者は、白浜に嫁いで来て四十二年が過ぎたと思い返しているようです。と同時に、白浜神社の氏子となり白浜神社との関係も四十二年がたったとしみじみ思ったのでしょう。多分作者は、この白浜神社になにかと支えになってもらったという気持ちもあるのでしょう。 D子さん 関節の痛みに耐えず整形へ医者は老化とこともなげに云う 十五夜の空だいだい色の月昇りまんまるの中うさぎ餅つく しのびよる老のあかしか誤字多く辞書をくりつつ文を書けり 秋ふかみ祭太鼓の音きこゆ夜ごと練習の若者思う 1. 作者は、九十三歳となるようです。関節の激痛におそわれ、整形外科へ行ったのでしょう。そして、多分原因は何でしょうかと聞いたようです。そしたら医師が、老化現象ですよとでも言ったのでしょう。老化現象では、この痛みを解決する方法がないと言われたのと同じことです。それも、何事もないように医師に言われたわけです。作者の失望した思いが伝わります。 2.古くから月に兎が住んでいて、餅をついていると言われています。これは中国からの伝承のようですが、いろいろな国で月にうさぎがいるという伝承があるようです。望月(もちづき)は、「餅を搗く」ということを掛けているという説があります。それはともかく、作者は幼き日に月にうさぎがいて餅をついていると教えられ、信じていたことを思い出したのかもしれません。事実そう思ってみると、月の模様がうさぎが餅をついているように見えたのでしょう。 3.白浜神社の祭りが近づいてきたのでしょう。祭太鼓の練習の音が夜ごと聞こえます。白浜神社の大祭のために、何度も何度もくりかえし練習をしている太鼓の音が聞こえる。作者は、汗を流して練習している若者のことを思っているのでしょう。若者が少なくなっているこの頃、祭太鼓を練習している若者をたくましく思っているのではないでしょうか。 E子さん 磯浜の岩に腰かけ空仰ぐ時はゆったり我を置いて行く 道々に群れなして咲く彼岸花子らと拝まん彼岸会の朝 村じゅうに深まる秋を告げるかに祭だいこの音が響きたる 散歩をしていたのでしょうか。ちょっと一休みということで、岩に腰をかけた。そして、ぼんやり空を眺めた。そんな情景が浮かびます。ただこの歌は、そのことを歌っているのではなく、もっと哲学的なことを歌っているようです。つまり、「時はゆったり我を置いて行く」ということです。こういった哲学的な歌は、なかなかむずかしいのです。それに挑戦した勇気はほめたいと思います。「時」ではなく「雲」とするとぐっと歌に具体性が生まれ、映像が浮かびます。参考になりますかどうか、わたしの歌で恐縮ですが、「妻の亡き時の流れてわれのみが影のごとに留まりている」、この歌は「時」を川にたとえて、川に映る影は流れないといったイメージです。「シクラメンのかほり」でも、「疲れを知らない子供のように時が二人を追い越して行く」というのがあります。これも「時」を疲れを知らない子供にたとえています。 2. 「道々に」というのは、行く道行く道といった感じでしょうか。「拝む」のは、お彼岸でお寺に行ってお墓参りをすることのように思ったのですが。「彼岸花子らと拝まん」と続いて、彼岸花を子供(息子あるいは娘)たちと拝むような錯覚をします。彼岸花を拝むというのは、ちょっとおかしいでしょう。作者は彼岸花の咲いている光景を上の句で序詞(じょことば)のように出しているように感じました。「彼岸会」というのも、いろいろ考えられますので具体的なイメージがわかないのです。お墓参りなのか、お寺で法事があったのかちょっとわかりません。いろいろ内容が分散している感じがします。「道々に群れなして咲く」には、時間が入っていると思います。「彼岸会の朝」は、朝の一点を感じます。「拝まん」は、「これから拝もう」ということでしょう。自分の気持ちをいれないで、瞬間を写生するのも短歌の勉強には大切なことです。 3. 「音が響きたる」の「音」は「ね」と読むのでしょう。「音(おと)」と読むのであれば、「音響たる」と七音にすべきでしょう。わたしは、「音(おと)」と読みたいと思いました。「響きたる」の「たる」は、「たり」の連体形です。「響きたる音」とするのが普通でしょう。それか、「音響きたり」とするのが、普通です。ただ、言いさしという方法があります、つまり、結句を終止形で納めない方法です(この場合は、連体形で止めている)。「告げるかに」は「がに(…するように)」が普通だと思います。「たいこ」も仮名でなく「太鼓」とカチッと力強く漢字にしたほうがよいと思います。内容的にはよく分かる歌です。 F子さん 西窓の藍の朝顔色まさり小さくなりて秋をむかへる ゆつくりと薄茶を点てて自服せりだれにも言はぬわが誕生日 省みて凡そ足りたるわがくらしみ社の前ひとり額づく 1.「西窓」と方角をわざわざ表現しているのは、なにか意味があるのかもしれません。夏の花である朝顔、秋になると色が濃くなるのでしょうか、「小さくなりて」は、よくわかる気がします。季節の移り変わり、秋となった思いを、まず朝顔に焦点を当てて表現している所がよいと思います。西は西方浄土を連想させるかもしれません。小さくなるのも、人間の老化を連想させるかもしれません。ただ、「秋を迎える」で、「冬」でなく「秋」であるところが救われます。ただ、作者には一抹の冬に似た終末の感情が湧いたのかもしれません。 2.「自服」とは、茶をたてる役の亭主自身が、自分で薄茶をたてて客の前で飲むことのようです。作者は誕生日を迎えたようです。9月生まれでしょうか、10月生まれでしょうか。「だれにも言わぬ」と言っています、逆に誰も知らない、あるいは忘れているさみしさがあるかもしれません。 晩夏 原 明男 体中つかひて手話の親子らが夏の渚を楽しみてゐる 一ケ月預け放なしの松盆栽帰へる道々ちくちく尖る はためける幟りに秋の光たけて里に豊かな千年の風 1.作者は、暑い夏の渚に手話をしている親子(らしい)二人の姿に目を止めました。よく観察しますと、まるで体中を使って話しているように見えたのでしょう。その表情をみると楽しんでいるように見えたのでしょう。この暑い夏の渚ではあるのですが、親子がまるで浮き浮きとしているように見えたのでしょう。それによって、作者もほのぼのとした心持ちになったのではないでしょうか。 2. 作者は日々、盆栽の手入れを楽しみにしているようです。しかし、なにかの都合でその手入れが出来ず一ケ月間知り合いに預けられたようです。盆栽についての知識のないわたしですが、盆栽の手入れについてもやはり個人個人個性があるのではないでしょうか。一ケ月も預けてあればやはり自分の思いと違ったところもあったのではなかったでしょうか。「帰る道々ちくちく尖る」に作者の気持ちが表れています。それは、盆栽が不満をいっているようでもあり、作者の反省の気持ちもあるように感じました。 3. 祭りの幟がパタパタはためいています。「秋の光たけて」の「たける」が平仮名となっていますので、「闌ける(たけなわになる)」なのか「猛る(たかぶる)」なのか、またはその他なの多少迷うかもしれません。まあ、素直に「秋の光が(秋)たけなわになる」でよろしいかと思います。そうした白浜の里に千年余りつづく神社があり、豊かな稔りをもたらす風が吹いていることだ…といったことだと思います。白浜神社の奉納歌にふさわしい歌と思います。
2017.10.14
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平成二十九年一月号歌評(同人誌「賀茂短歌」より) 後藤瑞義(人徳) 原 明男 芳ばしき新藁の香のしみじみとこの一年を掌に取りてみむ (評) 作者は、新年に向けて注連縄を作ろうとしているのでしょう。それは、今年米を収穫した後の藁、新藁で作るのです。「芳ばしき新藁の香」というのがそれです。その芳ばしい香りの新藁を手にするとき、新しい年を迎えられる喜びとともに、今年一年のいろいろなことが思い出されたのでしょう。「この一年を掌に取りてみむ」という表現が独特です。注連縄を綯(な)いながらの感慨でしょう。 渡辺つぎ いのちとは自分のものでもままならずまだ生きていた越年近し (評) 「いのちとは自分のものでもままならず」、まさにその通りだと思います。生きたいと思ってもままならいのが人の世の定めでしょう。ただこの歌はそういった常識的なことをうたっているのではないのです。それは、次の「まだ生きていた」ということばです。作者が満百五歳で、もうじき百六歳になると聞けばうなづけるでしょう。結句「越年近し」に思いがこもります。また一つ歳を貰うんだといった思いです。その思いが、上の句に返って「いのちとは自分のものでもままならず」にエンドレスのようにつながってくる感じがします。 鈴木菊江 北国の光たっぷり艶やかに微笑む如くりんご届きぬ (評) 「如く」は、比喩の助動詞「ごとし」の連用形ですから、「届きぬ」につきます。ですから、まず、「りんごが届いた」のです。どのように届いたかというと、「微笑むように」届いたのでしょう。その微笑みは、北国の光りをたっぷり吸って、つややかであったのではないでしょうか。 「北国の光りをたっぷり吸って、艶やかに微笑むようにりんごが届いた」というのでしょう。直接「微笑むごときりんご」とはしていませんが、結局そのりんごは北国の光りをたっぷり吸っていて、艶やかだったのだろうと想像ができるのです。その背後には勿論送り主の笑顔も連想されるように思うのです。 黒田幸子 真四角な日当りのよき宅地なり新しき歴史始まりてゆく (評) 「真四角な日当りのよき宅地」は、作者の家の隣という別の歌もあることからしますと、分譲地ではなさそうです。そして、「真四角な日当たりのよい宅地」には、なにか明るい希望の様なものを感じさせます。それが、「新しき歴史はじまりてゆく」という表現になったのでしょう。現在一人で住んでおられる作者、心強いお隣さんを得る気持ちもあるでしょう。 後藤早苗 足もとに落葉を敷いて葉ぼたんが冬の日ざしに白く輝く (評) 主役は、「葉ぼたん」ですので、「足もとに落葉を敷いて」と葉ぼたんを擬人化しています。落葉を敷いて暖かそうな葉ぼたん、そのうえ日ざしを浴びているのです。作者のこころも温かく感じたのではないでしょうか。葉ぼたんが白く輝いている情景は、新年に向けての作者の気持ちを一新するような感じもあったことでしょう。葉ぼたんがただ輝くではなく、「白く輝く」としたところが良かったと思います。 藤井美智子 小春日を思わす歳晩白浜に詩吟発表会咳込み案じ (評) 「小春日を思わす歳晩」は、暖冬の穏やかな年の暮れを感させます。「白浜に詩吟発表会」、作者は喘息の持病があり、それを改善させるために詩吟をしていると聞いています。その晴れの発表会が、白浜の伊豆急ホテルで開催されるのでしょう。「咳込み案じ」ですから、完全に喘息が良くなったとは言えない状態なのでしょう。それでも出席するというのは、やはり詩吟が喘息に効果があったのでしょう。そして、多少無理してでも出席するのは、やはり詩吟に対する感謝、詩吟をやって良かったということを人に知らせたい気持ちもあったのかもしれません。 小池美恵子 自販機のボトルの水を分ち飲む秋晴れの午後の夫との散歩 (評) 「秋晴れの午後」ご主人と散歩をした作者です。多少汗ばむ感じの日差しだったのでしょうか。自販機でペットボトルを購入し、その水を分ち飲む作者とご主人。なんということもない日常のなかに、初老の御夫婦の愛の姿が垣間見られるような歌で、そこに感動をしたのでした。 今、わたしはご夫婦でする散歩を「なんということもない日常」と表現しましたが、夫婦で散歩をするというのは、田舎ではなかなか見られない光景です。その感動もわたしにはありました。 鈴木きみ 映像で紅葉に染まる八ケ岳見ただけなのに満足するわれ (評) 和歌に歌枕というのがあります。地名が多く、その地名にちなんだ歌の本歌取りをしたり、あるいは屏風絵などでその地名の絵を見て、その連想で歌を作ったりしたわけです。それは、実際に旅に行くことが困難な時代背景もあったのでしょう。あるいは、情報不足もあったかもしれません。一方現代は、実際に行くことが出来なくても、たくさんの情報、それも映像で見られるわけで隔世の感があるわけです。ただ、この膨大な情報過多の状態のなかで、逆にそれを歌にまとめることも今後は面白いのではないだろうかと思うのです。情報ばかり多く、何もかも実践することはますます難しくなっている現代です。そうした風潮のなかで、このような歌も増えてくるのではないでしょうか。 土屋文恵 もみじ葉の落葉足裏包むごと歩き疲れの足にやさしき (評) 「もみじ葉の落葉」という表現に目がとまりました。落葉は枯葉が多く、積って「足裏をつつむ」ように感じることは連想できます。降り積った枯葉が歩き疲れた足をやさしくつつむようだということだと思います。赤や黄色に色づいていたであろうもみじ葉、それがいまだ色新しく落葉となって降り積っていたのでしょう。作者はその鮮やかさに心打たれて、「もみじ葉の落葉」という表現になったことでしょう。「歩き疲れた足にやさしき」は、むしろ作者自身がやさしい気持ちになって、色あざやかなもみじ葉の落葉をやさしく踏んで歩いたのではなかったでしょうか。
2017.10.10
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二月号歌評(同人誌「賀茂短歌」より) 後藤瑞義(人徳) 原 明男 をさならの声の弾めり年用意「ヨイショ ヨイショ」を搗くキネの音 (評)下の句『「ヨイショヨイショ』を搗くキネの音』が良いと思います。確かに、「ヨイショ」の掛け声の後「ペッタン」と搗くわけです、まさに「ヨイショを搗く」ということになります。上の句の「をさならの声の弾めり」もよく雰囲気が出ていると思います。今は珍しくなりました餅つき風景が目に浮かびます。 渡辺つぎ かえりみれば長く短い一世なり精一杯に生きてきたから (評)百五歳の作者、三月で満百六歳になります。その作者の言葉「かえりみれば」は重く響きます。「長く短い一世なり」、確かに長い人生だったことでしょう。と同時に人間は今を生きるしかありません、この一瞬にしか生きられないのです。そんなことから短いという言葉が浮かんでくるように思います。下の句「精一杯に生きてきたから」、ご自分の百五年の人生をかえりみるとき、作者は長かったようでもあり、短いようにも思える、しかしながら「精一杯に生きてきたから」、悔いはありません、そんな感慨を述べているようです。 鈴木菊江 水仙の香りほんのり漂ひて祖先の墓は静かに灯る (評)祖先の墓が出て来ます。墓参りに出掛けたのでしょうか。水仙を持って行って供えたように思います。「祖先の墓は静かに灯る」は水仙の花が明りのように見えたのでしょうか。それが、「静かに灯る」となったのではないでしょうか。水仙の香りと静かな灯りが一首のなかによく溶け込んでいる感じがします。 黒田幸子 切れそうな鎌の形の三日月が下界見下す正月の空 (評)上の句の「切れそうな鎌の形」と鋭い表現になっています。三日月を鎌にたとえる比喩はそう珍しくはないのですが、「正月の空」となるとちょっと違ってくるように思います。正月の空に鋭い三日月の姿、なにか作者の心の一面を見せているようにも思ったのです。それは、読者の私自身の心であるのかもしれません。 後藤早苗 子供らに野菜を作りて送るのもいつまで続くか心もとない (評)都会に住んでいるであろう子供たちに野菜を送っている作者です。ここで注意したいのは、単に子供たちに「野菜を送る」のではなく、「野菜を作りて送る」ということです。「作りて」が重く響きます。野菜は種からあるいは苗から育てて何か月もかかるわけです。その大変さが「いつまで続くか心もとない」というつぶやきに変ったのだと思います。この作品を作ったあと十日も経たずに亡くなった不運を思うとき、なんともいえない作者の心持ちを感じるのです。 藤井美智子 朝風(かぜ)を止め富士を写せる芦ノ湖をあっという間に過ぐる健脚 (評)箱根駅伝の一コマを切り取っています。特に芦ノ湖の描写が秀逸でした。芦ノ湖がまるで自分が主役でもあるように、風を止め富士の雄姿を湖面に写しているわけです、さもわたしをよく見てくださいと言わんばかりに…。それなのに、選手はあっという間に走り去っていったのです。選手のみならず応援の人も、見物人も湖面に写る風景を見ている人はなさそうです。それにしても、作者はよくこの風景を切り取って歌にしました、お手柄でした。 小池美恵子 門前を列なし歩む幼児等の声高らかに静寂の町 (評)家の前を整列して歩く幼児等がいます。小学校低学年でしょうか、幼稚園児でしょうか、甲高いにぎやかな声が聞こえます。しかし、この歌はこの子供たちのにぎやかさを詠っているのではないのです。静寂な町を詠っているのです。住宅地なのでしょう、子供たちの声が響けばひびくほど、町の静寂さが際立ってゆくそんな感じでしょうか。なかなか味わいのある歌と思いました。 鈴木きみ 先祖から引き継ぎ置きし石臼のどかんと家を守りおわする (評)作者の家には、先祖から引き継いでいる石臼があるようです。「引き継ぎ置きし石臼」としてありますので、ただ引き継いでいるのではなく、その石臼には役割があり、定位置ががあってそこに置かれている感じがします。そして、その石臼の役割が、「どかんと家を守りおわする」なのでしょう。「おわする」という古風な言い方が、祖先などという言葉とあいまって独特な味わいをだしているようです。 土屋文恵 わが家のお節の味は格別と娘はいそいそとパックに詰める (評)娘さんが正月に帰省なさった。そして、再び都会に帰られるとき、「わが家のお節の味は格別おいしい」と言ってパックにつめているのを見ての一首です。一首は状況の描写だけで止めてあります。それが、よかったと思います。作者の気持ちとしては、嬉しい気持ち、あるいは誇らしい気持ちもあったかもしれません。そうしたいっさいの気持ちを抑えて娘さんの姿をただ描写しているのです。その沈黙のなかに滲み出るものがあります、それが歌の深みになるのでしょう。
2017.10.08
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平成二十九年三月号歌評(同人誌「賀茂短歌」より) 後藤瑞義(人徳) 原 明男 一病も病みそこないか五年目のあそび心がふと過(よぎ)りたり (評)「そこなう(損なう)」は本来マイナス(悪い)の意味で使われる言葉です。しかし、この場合は、「病みそこない」ですから、むしろプラス的な意味で使われています。そこが面白く思いました。作者は持病があり定期的に検査をしていると聞いています。癌なども、五年経過しますとひとまず安心するようですが、作者も同様の心理が働いたようです。つまり「あそび心が」よぎったということです。 渡辺つぎ 仏壇に供え眺めるアマリリス直径二十二糎みごとに咲けり (評)まず、「仏壇に供えたのでした」、それはアマリリスでした。この歌はただ仏壇にアマリリスを供えたというのではなく、それを「眺める」としているところに特色を感じました。「直径二十二糎」と具体的な大きさが示されています。確かにこれはすごい、すごい大輪です。それが、ただ供えるだけではなく、眺めることに通じたのでしょう。仏様もびっくりして眺めているかもしれません。 鈴木菊江 透析のない日は畑にいそいそと育てし野菜にふる涙雨 (評) 今年の一月二十八日未明に急性心不全で亡くなりましたわたしの妻への挽歌五首有難うございました。まさにこの歌のように、彼女は透析のない日は、待ちかねたように畑仕事に精を出していました。野菜作りが趣味の様な妻でした。今畑は白菜も何も皆菜の花畑のようになっております。 黒田幸子 久方の春の光は満つれども野は荒涼の枯草の色 (評)「久方の」は、枕詞で「光」にかかります。古典的なしらべを用いて優雅に歌い出しています。問題は「春」でしょう。立春という言葉があります。二月の四日頃ですからまだ寒い時期です。ただ、伊豆では早咲きの河津桜が開花を迎える時期でもあります。まさに春の光が満ちているという表現が当たるでしょう。しかし、野はいまだ「荒涼の枯草の色」なのです。その対照的な光景が心を打つのです。 順天堂長岡病院呼吸器科悪天候の今日も満席 藤井美智子 (評)漢字の多い歌です。齋藤茂吉の歌に、「電信隊浄水池女子大学刑務所射撃場塹壕(ざんがう)赤羽(あかばね)の鉄橋隅田川品川湾」という歌があります。初めて飛行機に乗っての歌であることを知ると納得します。この順天堂の歌もなにか遠くから見下ろしている、俯瞰しているような感じを受けました。ご本人は悪天候を押して病院に来たのですから、そんな余裕はないように思うのですが。なにわともあれ、悪天候をめげずに病院に押し掛けるのは、自分だけではないのだという驚きがあるようです。 小池美恵子 耳遠き喜寿なる夫の検査済み年相応と言われ安堵す (評)「耳遠き夫」と「喜寿の夫」、どちらかに絞るのではなく、並列したところにおかしみと特色を感じました。多分ご主人の耳の遠いことを心配されて検査をしてもらったのでしょう。それに対しまして、医師の言葉は「年相応ですよ」と言ったのでしょう。それで作者は安堵したというわけです。喜寿という目出度いことと耳が遠くなる年齢でもあるという相反することをたくみに一首に詠み込んでいるのが良いと思いました。 鈴木きみ 我武者羅に働いた母しのぶいま同じようには出来ない私 (評)「我武者羅」という漢字から男勝りに働いたお母さんの姿が浮かびます。そうしたお母さんを作者は偲んでいます。「いま」が微妙な感じを与えます。「しのぶいま」なのか「いま同じようには出来ない私」なのかと迷うのです。「今同じように出来ない」というのであれば、お母さんは作者のいまの年齢も一生懸命働いていたことになります。「同じように出来ない私」と現在形になっていますが、過去の同年齢のときも「同じようには出来なかった私」でもあったのでしょう。「同じようには出来なかったわれ」と過去形にすれば、「いま」は「しのぶいま」になるでしょう。 土屋文恵 波寄するごと眼裏に母浮ぶ巡る爪木の穏やかな午後 (評)「波寄するごと母浮ぶ」とは、どういうことでしょうか。まず波は大波もありおだやかな波もあります。下の句に「穏やかな午後」とありますから、波もおだやかだったことが想像されます。おだやかな波が繰り返しくりかえし寄せてくる、なにか眠くなるような、幼児を寝かしつけているような母親の姿を思い浮かべたりしました。「海」と母ではなく、「波」と母を結びつけたところに特色を感じました。
2017.10.07
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平成二十九年四月号歌評(同人誌「賀茂短歌」より) 後藤瑞義(人徳) 原 明男 老いたれば健忘症は人の常けふも命と向き合ひてゆく (評)「老いたれば健忘症は人の常」とご自分の最近の物忘れに対して、つぶやいているのでしょうか。これは、特別な思いではなくむしろ誰しもが抱く思いでしょう。この歌の特殊なのは、下の句です。「けふも命と向き合ひてゆく」、この飛躍がやはり特殊だと思います。作者には持病があり定期的に検査されています、その命と今日も向き合っていらっしゃるのではないでしょうか。それこそ作者が常に心に留めていることなのでしょう。 渡辺つぎ 立ち座るそのたび膝腰もの申す百と六年使いつづけて (評)膝と腰を擬人化しています。「もの申す」がそれです。それは多分、「痛い、痛い」ということではないでしょうか。もちろんそれは、膝や腰が言っているのではなく、作者ご本人の言葉であるわけです。「無理もないなあ、百と六年使い続けているんだから…」、それはある意味では、膝腰に対する労わりの心であり、感謝の心でもあるように感じました。 鈴木菊江 つなぐ手と手が仲なかに離れざるきさらぎなかば春はのんびり (評)「きさらぎ」を新暦2月で解釈してよいのか、旧暦の2月で解釈するのかでは、季節が一か月ぐらいずれが生じます。どちらにしましても、「春はのんびり」の気分は伝わるでしょう。それにしましても、「つなぐ手と手が仲なかに離れざる」という譬喩はすばらしいと思いました。ようするに、冬と春が手と手をつないでいて、なかなか離れない、なかなか温かくならないということでしょう。ですから、「春はのんびり」なのです。 黒田幸子 これからは野菜作りも楽しげに詠う貴女の歌に会えない (評)妻後藤早苗が一月末に突然亡くなりました。短歌と野菜作りがなにより好きな妻でした。その妻に対する挽歌でしょう。感情を抑え事実をそのまま伝えるようにして成功をしていると思います。 藤井美智子 夫の逝き五度(たび)の春を咲きほこる共に求めし桜の苗木 (評)まず、ご主人が亡くなられて五年が過ぎたようです。それを「夫の逝き五度の春」とさりげなく歌っています。そして、今桜が満開になっているようです。その桜は亡きご主人と苗木を求めた記念すべき桜であったのです。春が巡るたびに桜は咲きそれとともに、亡きご主人を思い出すのです。それは、懐かしくもありご主人の亡くなったことを思い出させる切ないものでもあるのでしょう。 小池美恵子 一本のワインを夕餉に夫とあく元気だった頃たった二年前 (評)「一本のワインを夕餉に夫とあく」というのは、正確には「一本のワインを夕餉に夫とあけし」と過去形にすべきところでしょう。ただ、ありありとその光景が現在形で浮ぶ感じなのかもしれません。それは、今の作者にとって「たった二年前」のことだと書いています。この二年間の作者の闘病生活は大変苦しいものだったと承知しています。いま小康状態を保っているのでしょう。「たった二年」という表現のなかに、その苦しみを乗り越えた感じがしたのです。 鈴木きみ 喜寿を過ぎ傘寿にむかうこの命ありがたきこと神のまにまに (評)七十七歳の喜寿を迎えた作者、八十歳の傘寿に向ってまた歩き出したのでしょう。その原動力となるものを、「この命」としているのでしょう。この命、生命、生命力、作者を生かしてくださっているものに対する感謝の念が自然と「ありがたきこと」と言わせたのでしょう。それは、大きな力、神と呼べるようなものを意識したのかもしれません。「神のまにまに」は、何もかも神様にお任せしますといった意味でしょうか。作者は今命の問題をかかえているのかもしれません。そして、自分なりの結論としての「神のまにまに」かもしれません。 土屋文恵 如月の寒さも忘る桜花河津の里に豊けさ招く (評)如月は、旧暦の2月の呼び名です。ですから新暦ですと2月の下旬から4月の上旬になりますが、この歌は新暦の2月として使っているようです。河津桜祭りが2月10日から3月10日まで開催されます。河津桜はこの歌のように、2月の寒さも忘れるほどの濃いピンク色のみごとな早咲きのさくらです。全国ネットで放映され、身動き出来ぬほどの盛況となります。文字通り、下の句「河津の里に豊けさ招く」です。 河津といえば、相撲の一手でもある河津掛け、その手を産み出した河津三郎、その子である曽我兄弟の仇討ちの話、徳川幕府を支えた御三家の祖の生みの親のお万の方、近くは伊豆の踊子が有名です。それに、知る人は知る河津の奇習、鳥精進酒精進(12月18日~23日)があります。貧しさからの正月前の精進のように思うのですが、それが千年以上続いていることに意義があるように思います。「豊けさ招く」からいろいろ想像がふくらみました。
2017.10.06
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平成二十九年五月号歌評(同人誌「賀茂短歌」より) 後藤瑞義(人徳) 原 明男 明星が今朝もくっきり凍て付けり帰港を待ちしおふくろの顔 (評)2月ごろでしょうか、東の空にくっきり凍りつくように金星が見えた。「今朝も」となっていますので、毎朝の散歩途上に見ているのでしょうか。しかし、今日はちょっといつもと違って思い出深く眺めたようです。「漁に出かけ早朝に帰港する父の帰りを心待ちにしている母親の輝く顔」を思い出したようです。明星、明るい星のイメージ、また金星、金の星のイメージに大漁の予感がします。寒さ厳しきなかに、父親の帰港を心待ちにしている母親の顔をなつかしく思い出している作者なのでしょう。 ようやくにきびしき冬をくぐり抜け春日のひかりに老い肌ゆるむ 渡辺つぎ (評)文字通りようやくきびしい冬が終わり、暦の上の春になったのでしょう。しかし、それは暦の上だけでなく、日差しが春のおだやかな光となったことが百六歳の作者に実感としてわかったようです。それは、「老い肌ゆるむ」に出ています。特に「肌ゆるむ」 に具体性があり、説得力があります。 足ぶみをしつつ春まつ福寿草冷たい風に黄をのぞかせて 鈴木菊江 (評)「足ぶみ」は、その場に留まって進まない状態です。それが春を待つことと関連しますと、何となく寒さのなかで暖をとるための足踏みをも連想させます。それは、作者自身の姿のようでもあり、もちろん、黄色い花を少しのぞかせて冷たい風に耐えている福寿草の姿であるわけです。春を待つ心情と福寿草の描写とがよく調和しているように思います。 七年忌修し終えたり再びの別れとなりしごとくさびしき 黒田幸子 (評)七年忌は通例では、亡くなられて満六年目あたりに行われるようです。その法要を取り仕切られた作者でしょう。いろいろご苦労があったでしょう、「修し終えたり」に、なんとか無事にすんだという安堵感が感じられます。それは、それとしまして、この歌の中心はなんといいましても下の句です。「再びの別れ」とはどういうことでしょうか。ご主人が亡くなられて早六年、もはや空気のような一体感をもつようになっていたのでしょうか。それが、七年忌ということで、亡くなって六年が経過したことを再確認することになったのでした。「再びの別れとなりしごとくさびしき」が実感として伝わります。ようやくご主人の死を意識しなくなっていた日々に、死の事実を意識させたのでしょうか。 不作云う竹の子届く掘りたての小ぶりの二個はひとりに充分 藤井美智子 (評)果物などもそうですが、豊作の年と凶作の年がありますが、竹の子もあるようです。今年は竹の子が不作だと聞いていたところ、竹の子が届いたのでしょう。小ぶりの竹の子が二本届いたようです。送り主が、ちょっと小さめですが、とかいうコメントがあったのでしょうか。作者はお一人で生活しています。「小ぶりの二個はひとりに充分」には、ちょうどわたし向けの竹の子を送って頂きありがとうございます、と言った気持ちが感じられます。 春一番ガーデンチェアを吹き飛ばし雨ひきつれて庭を大あばれ 小池美恵子 (評)「春一番」は立春後初めて吹く強い南寄りの風です、それが吹いたのです。庭に憩いのためでしょうか、ガーデンチェアが置いてあります、それを吹き飛ばしたというのです。そして、風ばかりでなく雨まで降ってきたのでした。「雨ひきつれて」「庭を大あばれ」などの言葉によって、春一番が、ジャックと豆の木にでてくるような巨人のような、その巨人が庭で大暴れしているような、そんなイメージをわたしは覚えたのでした。 長雨に負けず咲きけるしだれ桃そのけなげさに心うたれり 鈴木きみ (評)「咲きける」という表現がおもしろくおもいました。「咲きたる」とか「咲きおる」とかではなく、「咲きける」です。助動詞「けり」は、詠嘆もあります。詠嘆の気持ちを出したかったのかもしれません。そのしだれ桃を「けなげ」と見ています。「長雨に負けない」感じ、枝垂れている姿が自然と「けなげさ」につながるのでしょう。それで、自然と「心うたれり」となるのでしょう。和歌的、古典的なリズムを感じます。一首が、さらさらと流れるような自然なリズムです。それが、ことばに生命を与えるのでしょう。 山桜白さきわまり境内に静けさ深く和讃の流る 土屋文恵 (評)山桜の花の白さがきわまっています。あるいは、満開なのかもしれません。それでなくても静かな境内です。どこともなく和讃が聞こえてきます。それは日常生活を離れた、心なごます雰囲気を境内全体に漂わせていたことでしょう。「白さ」「静けさ」「和讃」などのことばに作者のおだやかな気持ちが伝わって来ました。
2017.10.05
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六月号歌評(同人誌「賀茂短歌」より) 後藤瑞義(人徳) 原 明男 若き女(め)の未練を断ちて去るらしも沈む夕日に続く風紋 (評)若い女性の後ろ姿を見ている作者なのでしょう。その女性は「未練を断ちて去るらしい」と作者思っているようです。それは、何か根拠があるらしいですが、この作品だけではわかりません。ただ、「沈む夕日」や「風紋」という言葉に余韻があり、「未練を断ちて」と言う言葉に響き合っているようです。今月の五首は連作となっており、一つのドラマのようになっていました。 渡辺つぎ 夢に逢う「まだ生きてたの」と故き友目をまるくする夜の訪れ (評)「夢に逢う」、誰とでしょうか。「故(ふる)き友」に夢で逢った作者は、百六歳になります。それで、「まだ生きてたの」といわれたのです。もちろんその友は亡くなられているわけです、「旧き友」でなく「故き友」と「故」の文字を用いているところなど工夫されている感じがします。結句の「夜の訪れ」が暗示的です。 朝まだき朝刊待ちて折々のうた楽しみし朝のありしよ 鈴木菊江 (評)朝日新聞の一面に、コラム「折々のうた」が掲載されたのが一九七九年一月でした。それより二○○七年3月まで二十八年余り続いた有名なコラムです。その内容は、短歌はもちろん俳句、詩、川柳など広範囲にわたっていました。その執筆者である大岡信氏が今年の四月七日に亡くなられました。三島市の出身であるのもわれわれ伊豆に住んでいる人間にとっては親しみが湧きます。作者の一日はあるいは早朝の「折々のうた」を読むことから始まったのかも知れません。大岡氏に「ありがとうございました」という感謝の歌として読みました。 栗と柿無花果の苗裏庭に孫のためにと息子植えおり 黒田幸子 (評)「桃栗三年柿八年」といわれます。無花果は三年くらいでしょうか。どちらにしましても、実が成るのは先の話です。息子さんにしても、ましてお孫さんにとっては、これから洋々と開ける未来が待っていることでしょう。作者も多分そのような洋々とした未来を思い浮かべてたかも知れません。息子さんがお孫さんのために果樹の苗を植えいる姿、それを眺めている九十歳に近い作者になんとも言えない思いがしたのでした。 新幹線つまらないと云いし息子(こ)と二時間で着く京都の駅へ 藤井美智子 (評)「新幹線はつまらない」というのは、作者の言葉ではなく、まだ現役の仕事をなさっているであろう息子さんの言葉であるのが以外でした。それにしましても、京都まで二時間で行ける時代になったのですね。多分作者は早く京都に行きたかったのでしょう。今回の京都行きは京都大学の大学院に入られたお孫さんに会いに行くためだったようです。作者は一刻も早く京都に行きお孫さんに会いたい気持ちがあったのでしょう。それに対して、息子さんの方は、休みでもあるし、ゆっくり外の景色を見ながら鈍行で行きたい気分だったのかも知れません。 花咲けど愛でる主(ぬし)なきお向かいは空家となりて三度目の春 小池美恵子 (評)「花咲けど愛でる主なきお向かいは」の「お向かい」という言葉にまず好感を持ちました。最近聞かない言葉だと個人的に思ったのでした。「お向かい」なんともあたたかい感じの言葉です、そういったご近所との交わりが薄れている世相を思ったのです。お一人で住まわれていて亡くなられたのか、何かの事情で引越されたのか分かりませんが、季節が巡ると花が咲きます。花はさくらの花をイメージしました。多分ご近所同士、毎年さくらが咲くとその花を話題にしていっときを過ごしたことがおありだったことでしょう。現在、庭は草で覆われているのではないでしょうか、荒れはてた庭を眺めながらああもう三年になったのだとしみじみお向かいさんの不在を思う作者なのでしょう。 秋に行く天城の山の裾模様芽吹きし季節(とき)のそれも胸うつ 鈴木きみ (評)作者はまず、「秋に行く天城の山の紅葉の景色」が頭に浮んだのではないでしょうか。今は、芽吹きの季節、春です。その新緑の景色にもあらためて心を打たれた作者のようです。今回五首のうち四首に「裾模様」という言葉を入れています。着物についての知識が乏しいわたしには、この「裾模様」が何を暗示しているかはっきり分かりません。裾ですから主要な部分ではなさそうな気がしますが、その裾の模様です。そうした主要でない模様に目を向けているところは注目に値するでしょう。また、五首目に、「春蘂(はるしべ)」という言葉を使っています。この言葉にも、何か作者の心を捉えたものがあったようです。辞書にも出ていない言葉ですが、天気予報士が使っていたと言って、大胆に使っています。この大胆さは学ぶべきだと思ったのです。 ほこほこと盛り上がるごと山芽吹く吾もほっこり春野に座せり 土屋文恵 (評)山の芽吹きを、「ほこほこと盛り上がる」という擬態語を使ったのが印象的でした。そうしたなかで、春の野に「ほっこり」座すというこれも擬態語を使っていて、「ほこほこ」という擬態語と響き合っているように感じました。擬態語をうまく使って、冬山から新緑の春山への移り変わりをうまく歌っていると思います。「ほこほこ」、「ほっこり」といった、ふっくらとした感じがいかにも春らしさを表していると思いました。これからも、擬態語、擬音語を工夫されたらよいかと思いました。
2017.10.04
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後藤人徳の入選歌(読売新聞「静岡版」) 枝々に雪の積れるごとくして咲きさかりたるさるすべりの花 下田市 後藤瑞義 (読売新聞静岡版 よみうり文芸 十月四日 入選 秋山佐和子 選)
2017.10.04
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七月号歌評(同人誌「賀茂短歌」より) 後藤瑞義(人徳) 館内が灼熱(るつぼ)に暮れて両国のビルの谷間に上弦の月 原 明男 (評)「両国」とありますから、「館内」は国技館のことでしょう。作者は相撲観戦をされたようです。館内は熱戦に次ぐ熱戦だったのでしょう、「灼熱に暮れて」がそれを物語っています。ただこの歌は、熱戦のことよりは、相撲が終わってビルの間に見た上弦の月を歌っています。上弦の月は、新月から満月に至る中間的な半月です。そこにこの歌のしみじみとしたところがあると思います。作者自身のなかにまだなにか燃焼しきれないものを感じたのかもしれません。 百六歳の五尺のからだ異例なり故障あらずも衰えてゆく 渡辺つぎ (評)作者はご自分のことを、「百六歳の五尺のからだ異例なり」と歌っています。確かに、百六歳は、「異例」のことでしょう。百六歳の長寿は、作者の精進もあるでしょうが、体に悪いところがなかったからだったのでしょう。しかし、そうはいっても、だんだん衰えてゆく体はいかにせん止めようがないといった哀しみを感じます。 突然におそひし突風大切な息子さらひてゆきし病魔よ 鈴木菊江 (評)ご長男が最近逝去されました。七十代でまだお若い別れとなりました。「突然におそひし突風大切な息子さらってゆきし」はまさにそのことを歌っています。最近の不安定な気象現象「突然におそひし突風」がそれを表わしています。「息子さらひてゆきし」と「病魔よ」との間に間を置いて読みました。「病魔よ」が強く余韻として残ります。 人の起源は海より来るものと聞く海に向えば和むものあり 黒田幸子 (評)まず作者に、「海に向えば和むものあり」という思いが浮かんだのでしょう。今作者は海に向かっているのでしょうか。この心をなごます海の力はなんだろうか。と不思議に思ったのかもしれません。「人の起源は海より来る」というのは、生命の起源といったほうが正しいかもしれませんが、そういった科学的といいますか、学問的といいますか、そういったむずかしい事でもなく、なにしろ海に言い知れぬなつかしさ、親しさを感じている作者なのでしょう。 手相にはあるとうわずかの金運を信じて八十路大病もせず 藤井美智子 (評)今回作者は「手」という題で五首作っています。その最初の歌がこの歌です。手相には、運命線、感情線、生命線、知能線などがありますが、金運の線もあるんですね。昔だれかに「あなたは金運があるよ」と言われた、そしてそれを信じてきた作者なのでしょう。そのために大病もしないで八十歳になれたと思っているようです。面白いのは、「金運」と「大病しなかった」こととを結びつけているところでしょう。「金運」も「わずかの金運」としているところにもなにか作者の心持が出ていると思います。 遠方の友気にかかるも会えず過ぐ友も老いたり我も老いたり 小池美恵子 (評)遠方の友達を気にかけている作者です。会いたいと思っているようですが、会えずに時だけが過ぎて行くといった状況のようです。作者は病後のこともあり遠くへ行く事ができません。今のことですから、電話などで近況を告げ合っているのかもしれません。そうしたなかでの下の句「友も老いたり我も老いたり」というリフレインが哀しみを増します。 久々に喜寿を迎えし友々とむかしにもどり若々語らう 鈴木きみ (評)今月は、同窓会ということで五首作られました。その五首目にこの歌があります。久し振りに会ったようです。そしてみなさんは「喜寿」を迎えられました。文字通り喜びが一首のなかに感じられます。「久々」「友々」「若々」といったリズムにそれが感じられました。特に「若々語らう」という表現が新鮮でした。 えごの花天蓋のごと咲き溢れ無垢なる母のやすらぎ覚ゆ 土屋文恵 (評)えごの花が咲いている状態が天蓋(お寺で和尚さんが読経するときの頭上に吊るされている、金色に輝く笠)のようだとたとえています。それから作者の思いは、無垢な母のやすらぎにに飛躍しています。たぶんお母さんは亡くなられているのではないでしょうか。すでに昇天されていることから、無垢なる母という連想が起ったのではないだろうかと想像したわけです。えごの花の白色がなおさら無垢につながるのでしょう。「えご」という名は、実を食べると喉や舌を刺激してえぐい(えごい)ことに由来するようです。ただ花とはイメージがだいぶ違いますのでそのアンバランスさも隠し味的な趣があるように個人的には思います。まして英語のエゴ(エゴイスティック)などを連想しますと複雑な感じがします。
2017.10.03
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後藤早苗の入選歌(同人誌「賀茂短歌」より)29年度 2月号より 冬眠を忘れているのか蛇一匹師走の庭を横切りてゆく (読売新聞静岡版 よみうり文芸 二月一日 入選 秋山佐和子 選) 3月号より 自動車の前にとび出てうりぼうが心細気に顔を上げたり (読売新聞静岡版 よみうり文芸 三月十五日 入選 秋山佐和子 選)
2017.10.02
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八月号歌評(同人誌「賀茂短歌」より) 後藤瑞義(人徳) 見えてゐるスカイツリーに寄れもせで後へ後へと車窓を過ぎる 原 明男 (評) 作者は、大相撲見学に奥さんと行かれたようです。「見えてゐるスカイツリー」というのは、両国からスカイツリーがよく見えたのでしょう。折角東京へ来たのですからスカイツリーにも寄りたかったのではないでしょうか。両国からスカイツリーが見えるのは、作者にとっては予想外のことだったのかもしれません。その結果日程上スカイツリーには寄ることが出来なかったのでしょう。下の句「後へ後へと車窓を過ぎる」に作者の未練の思いがよく出ています。何回も何回も振り返った作者の姿が浮かびます。 みそ萩の涼しくゆるるくれないのこの花手向くる身を嘆きつつ 鈴木菊江 (評)みそ萩は盆花として知られています。「涼しくゆるる」「くれない」「手向くる」「身を嘆きつつ」、言葉がなかなか複雑にからまっている感じがしました。それは、ご長男の死去という事実によって、統一されるようです。作者は、まさに「この花を手向くる身を嘆きつつ」という心境でしょう。ご察しします。 オレンジの造花みたいな顔をして凌霄花は鮮やかに咲く 黒田幸子 (評)夏は、百日紅であったり夾竹桃であったり、カンナであったりどちらかというと夏らしい強烈な花が多いと思いますが、たしかに凌霄花は、色もオレンジ色をしていて、言われてみれば造花のようにも見える、さらっとした感じを受けます。「オレンジの造花みたいな顔をして」は、凌霄花を巧みに表現していると感心しました。猛暑のなかでほっとさせられる凌霄花の花に作者の優しい目が注がれています。 百六年の人生行路を折々に話しくれたり母亡き吾に 藤井美智子 (評)作者は少女時代に母親を亡くされたように聞いています。「母亡き吾に」はそのことを指しているのでしょう。亡くなられたとき作者の母親の年齢は三十台くらいだったかもしれません。渡辺さんは今年百六歳になられたでしょうか、その長い人生行路を折々に作者に話されたのでしょう。それを作者は早世されたご自身の母親の姿と重ねて聞いておられたのではないでしょうか。 探し物へらしたしと整理せり元の記憶で新たに探しいる 小池美恵子 (評)「探し物へらしたし」という表現に目を向けました。単に「物をへらしたし」ではなく、「探し物」を減らしたいというところなのです。ですから、整理するというのは、物を捨てることではないのです。何はどこ、何はどこ、ときちんと整理して物の置き場所を決めたようです。そこまでは、非常によかったのですが、記憶の方がその整理に追い付かず、元あったところを探してみたり、新しい置き場所がどこであったか「新たに探している」というわけです。ユーモラスな歌ですが、誰しも身に覚えのある、単純には笑えない現実です。良い題材に気づかれたと感心します。 ぬれそまる木々生き生きと立ちどまりわれあきあきとながめせしまゝ 鈴木きみ (評)この作者の言葉遣いの大胆さにいつも驚かされます。「ぬれそまる」という言葉はあるでしょうか。作者の造語かもしれません。濡れて色が濃くなるような感じなのでしょうか。濡れてびしょびしょになる「ぬれそぼつ」という言葉がありますが、この言葉との混同でしょうか。それに、「ながめせしまゝ」というのも、ちょっと百人一首の小野小町の「花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせし間に」の「ながめせし間に」に関連があるのでしょうか。それはそれとしまして、上の句は濡れた木々が生き生きとしていることを詠んでいます。「立ちどまり」は作者の行動と思いますが、それでよいですか。下の句は「(立ちどまって)飽き飽きと長雨をながめている」といった感じです。ですから、上の句の感じと下の句の気持ちがちょっとちぐはぐに感じたのですが。それも、これも、梅雨のじめじめしたなかでの作者の複雑な心境をうたっているのでしょう。 武将等の幟はためく関ケ原今は平安緑こき地に 土屋文恵 (評)作者はこのところ歌が出来ない苦しみを味わっているようです。私なども同様で、一日一日が素早く去ってゆくこのごろを恐ろしく感じます。それは、それとしまして、作者は伊吹山方面に旅行されたようです。歌が出来ないときは旅をしなさいと言われます。 伊吹山は古くはヤマトタケルの伝説があり、伊吹麝香草は作者の歌にも出てきます。関ケ原も見下せるのでしょう。 旅をして昔に思いを馳せるのは、詩人のひとつのパターンのようにも思われます。西行も芭蕉もよく昔を思い歌を俳句を作っておりました。 今は平安な関ケ原、しかしそこで日本を二分する大戦(おおいくさ)があったのです。「今は平安緑こき地に」に実感があります。
2017.10.01
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