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平成27年1月24日平成26年度NHK全国短歌大会 入選 持つところすれている杖昨日よりガードレールに立て掛けてある 後藤瑞義大玉のスイカを抱え持ちているまるで命を運ぶごとくに 後藤瑞義
2015.01.30
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鑑賞:歌集「悲しき玩具」(三十三)(下書き) 後藤瑞義 (注)歌の順序は歌集の順序によります。よごれたる手を洗ひし時のかすかなる満足が今日の満足なりき。 一首前の歌(「よごれたる手をみる――/ちょうど/この頃の心に対ふがごとし。」)が、「よごれたる手」を歌っていたので、連作的な趣があります。この歌の「よごれたる手」も単なる「よごれ」ではなく、やはり、印刷機のインクの汚れとして鑑賞したいと思います。 この歌も、東京朝日新聞社の校正係に勤めていた頃の歌として鑑賞しました。前作も、校正係としては、心ならずも活字の並べ換えなどをしてインクで手を汚したように鑑賞しました。啄木は十代の頃より、岩手日報などに短歌のみならず評論などを掲載していました。歌人塚本邦雄は啄木の十八歳の時の評論を読んで、まさに天才であると激賞しています。啄木は北海道での放浪生活を経て上京し、二十三歳のとき東京朝日新聞の校正係の職にありついたようです。 手の汚れについて、印刷機のインクの汚れと考えるのはわたしの独断です。新聞社での職種の不満を象徴的に「手の汚れ」として表現しているように私には思えたのです。啄木は校正係が卑しいとか、インクで手が汚れるのが卑しいこととか、そういうことではないと思うのです。それは、おのおの立派な仕事であると認識していたはずです。ただ、自分の適性として、もっと自分に適した仕事が、誰にも負けないくらいに自信のある職種につかせてもらえたら自分の考えをしっかり発表できるんだが、記事の内容ではなく誤字を探すような仕事をしている自分がなさけなく思えてしかたがなかったのではないでしょうか。そのような状況のなかで生活している啄木、インクで汚れた手を洗ってきれいになったとき、現在の境遇から文字通り手を洗った、あるいは足を洗った感じがしたのではないでしょうか。現在の境遇から一瞬だけでも脱出できたような錯覚を覚えたのではなかったでしょうか。その錯覚の満足感、それが、今日の満足だった、そんな感慨をあるいは蒲団のなかで思ったのではなかったでしょうか。 なお、蛇足ですが、「満足なりき」の「き」は、文語の過去の回想の助動詞です。単に「満足だった」というより、振り返り、回想するような感じで鑑賞したいと思います。よごれたる手を洗ひし時のかすかなる満足が今日の満足なりき。
2015.01.29
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短歌鑑賞(前田夕暮の一首) 後藤瑞義 向日葵(ひまはり)は金の油を身にあびてゆらりと高し日のちひささよ前田夕暮「生くる日」 上の句の「金の油を身にあびて」あたりに、ゴッホの絵画を思い浮かべました。と同時になにかぎらぎらした、エネルギーといいますか、活力を感じました。「ゆらりと高し」で眼前に向日葵が大写しされたように感じました。とくに「ゆらりと」という表現に相撲取りのような大きなひまわりをイメージしました。「日のちいささよ」という結句の対比がすごいと思います。それにしましても、「向日葵は」の「は」が妙に心に響いたのです。これは「日のちひささよ」との対比、太陽は小さく見えるけれども「向日葵は大きい」といった図式です。しかし、わたしにはそれだけではなく、作者自身が小さな存在に思えてくるのです、くよくよ悩んだり、迷ったりしている作者自身がいて、しかし、「向日葵は」こんなに生命力が強く、太陽に真正面に向って咲いている、なんて頼もしい活力に満ち満ちているのだろう。そんなことを感じている作者の姿を想像するのです。いやいやそれは、実は作者でなく多分わたし自身のことなんでしょう。
2015.01.23
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平成27年1月20日(火)よみうり文芸(静岡版) 篠 弘選 入選する廃業のビニールハウス枯れ草のなかに錆びたるフレーム曝す
2015.01.20
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二十七年一月号歌評下書き 後藤瑞義原 明男ほとほとと老妻の薪割る音きこゆ片言まじりのシグナルか風 薪を割る音を「ほとほと」と表現しています。ここに作者のある思いがこもっているようにおもいます。なにか心もとない感じがする「ほとほと」という表現、これを「片言まじりのシグナル」と感じた作者でしょう。「ほとほと」という擬音語がなにかつぶやきのようにも感じたでしょうか。なにをつぶやいているか分らない、片言のようにも感じたのでしょうか。それが、なにか奥さんの体調に対するシグナルのように感じた作者、誰にともなく、いや誰も身の回りにいなかった、風が吹いているだけなので、つい風に、呼びかけた作者だったのではないでしょうか。「風よ妻の体調は大丈夫だろうか…」と。渡辺つぎ長生きの秘訣は何と問われたりたった一言「自己にきびしく」 作者は満百三歳、今年の三月で満百四歳となられます。誰であっても「長生きの秘訣は何でしょう」と問いたくなるでしょう。長生きの秘訣として、語られる言葉を色々と思い出しますが、「自己にきびしく」というような言葉はあまり聞いたことがありません。この意外な言葉にまずはっとしました。 自己に厳しいとはどういうことでしょうか。逆に自分に甘いということは、どういうことでしょうか。 自分に甘い人というのは、なにか自分自身に、自分の内部に権威のようなものを持っている人ではないでしょうか。権威、自分をこれでいいんだと、甘やかしを許す権威、そんなものがその人の内部にあるんじゃないでしょうか、そんなことをぼんやり考えました。 作者は一歳のときに父親を亡くしたようです。だから、「父親の代わりに自分自身が自分に厳しくする習慣ができたんじゃないだろうか」という考えも浮かんできます。しかし、私自身はこの考えに疑問を思うのです。作者には父親の代わりは永遠に出来ない、作者にとって父親は遠くにいる存在、常に遠くより見守っている存在、そんな気がするのです。作者の外(そと)にいて常に見守っているであろう父親を思いこがれる心が自分自身に厳しくさせていらっしゃるのではないだろうか。 作者の他の作品から、強い愛国心を感じることがあります。それは明治生まれの人の受けた教育のためなんだろうと思っていました。しかし、あるいは作者の生い立ちからくるものではなかろうかと、漠然と思ったのです。父親に対する思慕、それは権威に対する思慕を生むのではないでしょうか。自分を常に弱い、あるいは小さい存在と考え、父親のような偉大なものをつねに求める気持ではないでしょうか。「自己にきびしく」することによって、自分を見守っているであろう父親の愛を求めているのではないでしょうか。偉大なる父親への思慕、極論すればそれは、神への思慕に通じないでしょうか。作者は常に大きな権威によって見守られていることに自信がある、だから自分に厳しく出来る、短絡的な考えかもしれませんが、そんなことを思ったのです。その精神的な安心感、それが作者の長生きを支えているのではなかろうか、そんな気がしたのです。鈴木菊江うす昏きしぐれの庭に石蕗(つわ)の花光となりて巡りまぶしきどんより曇った冬の日にしぐれがしとしとと降っている。これは作者の目の前の風景です。しかし、わたしには作者の心もなにか晴れない感じではなかったろうかと想像します。そして、これも実景なんですが、石蕗の花が咲いている。その石蕗の黄色い色が雨に打たれて色あざやかになったのでしょうか、光のようになってあたりを照らしているように見えたのでしょう。そして、その光は作者自身のうつうつとした心をも明るくしたのではなったか、そんな気持ちがつたわりました。 黒田幸子乾く道を人っ子一人通るなし師走はやばや寒気団来る 「乾く道」という把握に感心します。師走の道を「乾く道」と作者は把握しました。それにもまして「人っ子一人通らない」と表現しています。師走の忙しさとある意味相反する状態ではないでしょうか。だからこそ作者の目にとまり、その乾いた無人の師走の道と寒気団とが響きあっているようです。早く正月が来ないか、娘や息子たちが早く来ないかといった思いもあるのかもしれません。早々来たのは寒気団というのもたいへん皮肉で、いっそう寒々しさを感じさせます。 後藤早苗広告を何度も見てはこれと決め明日は伊東のユニクロに行く下田にはなかなか良い洋品店がない、あるいは値段的な問題もあるかもしれません。そこで伊東まで買いに行くのでしょう。広告を見てと書いてありますから、広告に気に入ったものがあったのでしょう。「何度も見てはこれと決め」と書いてありますから、ただ無目的で店に行って良いものがあったら買って来ようということではないのです。なにしろ前の日に広告を何度も見てこれと決めて買いに行くという作者のオーバーに言えば決死の覚悟みたいなものを感じます。女性は、いや女性に限らないかもしれませんが、買い物ひとつにもこれほどの情熱をこめられるのかと感心します。 藤井美智子一月のニシイズ・タウン・カレンダー富士山高処に新年を寿ぐ西伊豆町が製作するカレンダー、風光明媚な西伊豆を撮影した写真によるカレンダーです。毎年歌友の藤井美智子さんよりいただくのを楽しみにしています。そのカレンダーを歌っています。伊豆からの富士山はどうしても距離がありますので、小さくなります。確かに「高処に」とあるように、高い場所に小さな富士が鎮座ましましているように見えます。今述べましたように、「ニシイズ・タウン・カレンダー」という言葉があるために「富士山高処に」が納得でき、その神神しさが「新年を寿(ほ)ぐ」ように感じたのでしょう。富士山の写真を一月に選んだことに敬意を表します。 鈴木きみ風情ある薄群れ咲く高原に季節の風はほゝにさびしいまず薄が群れ咲いている高原に作者はいます。枯れたすすきが穂をつけているのでしょう、それが群れている高原です、作者は思わず風情を感じたのだと思います。「風情ある薄群れ咲く」がそれです。ただ、高原ですから、風が強かったのだと思います。「季節の風」がどういうふうな風かちょっとわかりませんが、台風のことでしょうか。「ほゝにさびしい」とはどういうことでしょうか。風情ある情景を台風のような強い風がぶちこわし、わたしの頬をさびしくさせるといったことでしょうか。この歌の新鮮なところは、風が頬に冷たいとかいいう感覚ではなく、「さみしい」という感情の表現をしたところだと思います。「さびしい」といった感情語は、使わないようにとよく初心のころ注意されます。しかし、ここでは、「頬」という具体的な言葉があるために、単なる感情語でない響きをもたらしたと思うのです。 土屋文恵昇りくる朝日に染まる雪の富士臥せるベッドの楽しみと言う「昇りくる朝日」という初句、朝日は昇りくるものといった思いは下の句を読んで消えました。下の句の「ベットの楽しみ」は重いことばとして受け止めました。と同時に、やはり「昇りくる朝日」ということばに納得しました。「昇りくる」ということばに何か生命力のようなものを感じるのです。そういう活力あふれるような朝日に染まる「雪の富士」、富士山自体も赤々と活力を得たように聳える、それを病に臥せって見ている、病人にも活力を与えるような光景かもしれません。そのすばらしい光景をあるいは多少得意になって語っているかもしれません。見舞いに来て、それを聞いた作者は多少うらやましさを覚えたかもしれません。そんな余韻を感じました。
2015.01.19
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白浜短歌会一月分歌評下書き A子さん清清し新年迎え御目出度う家族揃って雑煮いただく葉を散らし裸木となりし庭の梅蕾ほころび開花待つ小鳥1.新年らしい、お目出度い歌です。「清清し」は、形容詞(文語)の終止形です。新年につなげるためには、「清清しき」としないといけないでしょう。口語では、「清清しい」です。仮名にすると柔らかくなります。参考:すがすがしい新年迎え「おめでとう」と家族に言って雑煮いただく2.「葉を散らし」というのは、新鮮な表現に思えます。普通は「葉を落とし」だと思いますので。風が強かったイメージがします。蕾のほころびと開花はダブっているように感じます。梅の蕾の開花を自分だけでなく小鳥たちも待っているにちがいないと思っている作者でしょう。参考:葉を散らし裸木となりし庭の梅の開花を待つや小鳥たちさえ B子さん 休詠 H子さん(新人)心して一期一会を暖めむ大切なものこぼさぬように何げない「今朝はとっても冷えこむね」かけたしことば我に返せり娘(こ)の入院助けの電話午前四時苦手な都会半月暮らす1.「一期一会」、一生にもう二度と会えないかもしれない出会い、それをおろそかにしないように注意したい。「暖めむ」という言葉に作者としては思いを込めているでしょう。たしかに、この言葉は一首のなかで光っているように思います。「大切なものこぼさぬように」にも作者は工夫したかもしれません。「一期一会」という言葉に対する作者なりの思いを込めた作品と思いました。「暖める」「こぼさぬ」という言葉に作者が出ているようです。2.前作がどちらかというと観念的な感じがしますが、この歌はそのまま表現したような歌ですが、思いはしっかりこめられていると思います。余韻とか、言葉になっていない思いの深さを感じるのです。何げない言葉が言えない。そういうことは、わたしなど同感します。だからこそ、短歌を作っているとも言えるのではないでしょうか。1. この歌は、よく分る歌です。娘さんから緊急の電話が入った、内容は不明ですが、尋常なことではないようです。「助けの電話」ということですから。それで、至急東京に行かれたのでしょう。それからもう半月が経ってしまった。そんなことでしょうか。注意事項として、今月お渡しする歌誌「白浜短歌会」五十二号の十一頁に安永蕗子さんの次の言葉があります、参考にしてください。「寝覚めから、豆を挽くまでの時間が長すぎる。長い時間の経過があると歌は説明になる。今の現実を。」プライベートの部分に関わることの表現は難しいところがあります。ただ、瞬間を切り取るようにするとよいと思います。C子さん肩の辺にふとんをせりあげ冬の夜一咳きゴホンと目がさめにけり(たりぬ)晝ごはんコンビに弁当買いに行く暖めますかと声をかけくるまだ若き娘の友の死をききて病に勝てず無念と思ふ1. まず、「目がさめにけり」がよいと思います。冬の夜の寒さがあります。それにもまして、一度の咳で目がさめる、それくらいシーンとしていた独り暮らしだったのでしょう。2.時間が入っています。コンビニに昼の御飯を買いに行った。そこで、コンビニの店員が暖めますかと声をかけてくれた。「暖めますか」というたぶん若い店員の声に作者は感激したんではないでしょうか。参考:コンビニに弁当買えば店員が暖めますかと声かけくれる 3. 娘さんですから、年齢は六十台でしょうか、その友達が病気で亡くなった。事実を具体的に歌にしたいように思います。参考はあくまでも参考です。参考:六十歳(ろくじゅう)の娘の友は乳癌を病みて無念の死をとげにけり D子さん新築の槌音たかくひびきたる笑顔と活気もらう年の瀬伊勢エビのみそ汁すすり娘(こ)が発す「この味これを飲みたかった」と 1.「たる」は、文語「たり」の連体形です。ですから、「笑顔」に繋がります。ここは、終止形「たり」にしてこ こでいったん終止にしたほうがいいでしょう。 参考:新築の槌音たかくひびきたり笑顔と活気をもらう年の瀬2. これは、これでいいと思います。故里の味、お袋の味でしょう。「すすり娘が発す」がいいか、「みそ汁に 娘が発したり」がいいか。 E子さん四日間ミクラの里で頑張るぞ淋しさつのり短歌出来ずに靴紐をむすばなくてもいゝ靴をはく時孫に感謝の心ぞ 1.「ミクラの里」は「みくらの里」のほうが良いと思います。 参考:四日間みくらの里で頑張るぞ淋しさつのり短歌出来ぬも 2.お孫さんへの感謝の歌です。「靴紐をむすばなくても」と具体的に表現したのがよかったと思います。「感 謝の心ぞ」と強調しています。参考は自然に湧いてくるといった感じです。 参考:靴紐をむすばなくてもいゝ靴ぞはく時孫に感謝湧きくる F子さん足腰の筋力強くせねばとて今日も杖つき歩む山道眠られぬまゝに百人一首をば思ひ出しては指折り数ふ(数える)水仙を手に持ち山を下(お)り来たる青年われに声かけて過ぐ1.言葉通りのよく分る歌です。結句を「歩む山道」と名詞止にしたところが、作者としては工夫したのでしょうか。結句をかちっと名詞で止めて余韻を残す方法です。ただ、内容的にいいますと、動きを出したほうが良いという意見があるでしょう。「山道歩む」と動詞で止めるわけです。「杖つき」という言葉、作者にとっては事実を書いたというかもしれませんが、この言葉があることによって歌全体が力強くなりました。 2.「指折り数ふ」(文語的表現)でも、「指折り数える」(口語的表現)でもよろしいと思います。ただ、この指を折ってかぞえるという動作はちょっと分りずらい感じがしました。たぶん、五七五七七と指を折って歌を確認しているのだと思うのですが、あるいは何首思いだしたか数をかぞえているのでしょうか。なにか別の動作の方がいいようにも思う。参考:眠られぬまゝに百人一首をば思ひ出しつつ指折りてゐる3.こういう歌は作者には非常に感じるものがあるのでしょうが、読者にはそれほど感じられないのではないでしょうか。作者にとってその青年は清清しい感じだったのではなかったでしょうか。なにしろあまりにも事柄が多すぎるのです。焦点がしぼりにくいのです。「水仙を手に」「山を下り来たる青年」「われに声をかけて過ぐ」なにが、一番作者の心をとらえたのでしょうか。それを中心に詠んでください。水仙は一本なのか、沢山なのか、知っている青年か、見知らぬ青年か。青年の表情はどうか。いろいろあると思います。 G子さん待ちわびし黄水仙の花ほころびて天に向いてよろこび祈る買いおきの葉書にうさぎの切手貼り増えゆく税の先ゆき思う(憂う)1.「待ちわびし」に思いが深いかんじがします。それも黄色い明るい水仙の花です。その水仙が天に向って喜び祈るようだといっています。喜んで祈っているのは作者自身でもあるような感じです。2.昨年四月より消費税が八パーセントになりました。葉書は五十円から五十二円になりなした。古い五十円の葉書には二円の切手が必要となり、二円の切手がうさぎの絵柄となっているのです。この二円の切手を貼る行為につくづく税金のことを意識したのでしょう。また遠からず八パーセントから十パーセントになるようです。それを重く受け止めている作者、目の前のうさぎの一枚の二円切手から税の重さ思うところが作者らしいのでしょう。 山茶花梅雨 原 明男原石と思いてゐしに小保方よ山茶花梅雨の音なくしぐるたそがれしわれの五感をゆすぶりつ運転免許の更新を済(な)す1.「山茶花梅雨」とは、秋と冬の境目に降る長雨のことだということです。加工する前の宝石である原石、そのようにこれからすばらしく輝くだろうと期待していた小保方さんの不正が発覚し落胆している作者なのでしょう。しかし、表には出さず心の内で泣いているのかもしれません。まるで山茶花梅雨が音なくしぐれるように…。2.自分の五感がたそがれたと作者は言っています。夕方どきのたそがれ、それを人生にあてはめているのでしょうか。その、年老いた五感をゆさぶってなんとか運転免許の更新を済ませた。なにか、よくぞやったと自分をほめているような余韻があります。
2015.01.18
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編集より(同人誌「賀茂短歌」平成二十七年一月号)下書き 後藤瑞義 毎年、年の初めに渡辺つぎさんの前年度の各種の入選歌を一年分掲載しています。今年度も「平成二十六年度渡辺つぎさんの秀歌(百三歳の歌)」として掲載させていただきました。ご覧のようにすばらしい作品の数々です。昨年は歌集「一日一日はたからもの」を出版されたり、新聞、雑誌、テレビなどにも出演されお忙しい日々であったことと推察いたします。なにか、ここにきていっきょに花開いた感もあります。百三歳での開花、ますます勇気を与えられる思いがします。 (後略) 平成二十六年度渡辺つぎさんの秀歌(百三歳の歌) 後藤瑞義 (角川書店雑誌「短歌」他の入選歌より) 電線に並ぶ雀もゴミ箱をあさる烏も少なくなりぬ(雑誌「短歌」平成二十六年一月号題詠「鳥」入選 中地俊夫 選) 百人のクラスメートのかくれんぼ一人も出て来ず鬼もつかれた(雑誌「短歌」平成二十六年一月号公募短歌館 秀逸 久々湊盁子 選)大日本帝国と敗戦国わが百二年の明暗きびし(雑誌「短歌」平成二十六年一月号公募短歌館 佳作 三井ゆき 選) おむかえがなかなか来なくてと言えばこちらでお迎えしますと主治医(第五回角川全国短歌大賞 奨励賞 ・馬場あき子 選 佳作 ) このいのちさし上げたしとけんめいに祈りし百歳 八月十二日(第二回河野裕子短歌賞 入賞 永田和宏選賞 産経新聞社主催) 日だまりで居眠りしながら次の世に行けたらいいなあ百二歳われ(雑誌「短歌」平成二十六年三月号 題詠「陽だまり」 小林幸子 選)百二歳喜怒哀楽をくぐり抜けぼんやりゆっくり終焉を待つ(雑誌「短歌」平成二十六年三月月号公募短歌館 秀逸 久々湊盁子 選)(評)これまでに人生の喜怒哀楽はおおよそ経験したという百二歳の作者。心静かに「ゆっくり」その時を待つという。かくありたいものと感歎する。長命をほめられながら自らは生きて恥多き百と三歳(雑誌「短歌」平成二十六年三月月号公募短歌館 佳作 三井ゆき 選) 居眠りしながら次の世に行けたらいいなあ百二歳われ(雑誌「短歌」平成二十六年四月号 題詠「陽だまり」 小林幸子 選)おそろしきまでの長命百三歳幼児退行日日すすみつつ(雑誌「短歌」平成二十六年四月号公募短歌館 特選 楠田立身 選)(評)百三歳の長命を「おそろしきまで」と表現したのは恐怖ではなく感謝と驚愕だろう。幼児退行を歎いておられるが、応募ハガキの小さな桝目に歌を清書して応募する意慾は退行ではない。 百三歳の春ともなればはなやぎにあらずひそかに四方を拝す(雑誌「短歌」平成二十六年五月号 題詠「春」 入選 小林幸子 選)おびえいし百三歳はどんときてわれの鼓動の高まり止まず(雑誌「短歌」平成二十六年五月号公募短歌館 佳作 松坂 弘 選) おびえいし百三歳にとらえられめでたくもありおそれでもあり(雑誌「短歌」平成二十六年六月号公募短歌館 佳作 松坂 弘 選)気の遠くなりそうな長い年月も波に消されし足跡のごと(雑誌「短歌」平成二十六年六月号公募短歌館 佳作 秋山佐和子 選) 春よ来い百三歳だ杖持たず一歩一歩と地面をふんで(雑誌「短歌」平成二十六年七月号公募短歌館 秀逸 三井 修 選)(評)百三歳という年齢に無条件に敬意を表したい。初句の柔軟さ、下句の力強さが、全く年齢を感じさせない。春よ来い百三歳だ杖持たず一歩一歩と地面をふんで(雑誌「短歌」平成二十六年七月号公募短歌館 秀逸 一ノ関忠人 選)春よ来い百三歳だ杖持たず一歩一歩と地面をふんで(雑誌「短歌」平成二十六年七月号公募短歌館 佳作 春日真木子子 選) 百三歳を祝い下さる方方のかんばせすべて観音菩薩(雑誌「短歌」平成二十六年八月号公募短歌館 佳作 春日真木子 選)百三歳を祝い下さる方方のかんばせすべて観音菩薩(雑誌「短歌」平成二十六年八月号公募短歌館 佳作 三井 修 選)山の端を出づる朝日にみまもられ百四歳の一歩ふみ出す(雑誌「短歌」平成二十六年八月号公募短歌館 佳作 田宮朋子 選)百三歳を祝い下さる方方のかんばせすべて観音菩薩(雑誌「短歌」平成二十六年八月号公募短歌館 佳作 一ノ関忠人 選) スッと立つ百歳さんと詠みくれし友よ百三歳はテコでも動かぬ(雑誌「短歌」平成二十六年九月号公募短歌館 佳作 春日真木子 選)スッと立つ百歳さんと詠みくれし友よ百三歳はテコでも動かぬ(雑誌「短歌」平成二十六年九月号公募短歌館 佳作 一ノ関忠人 選) 百三の誕生日なり大空も山川草木色濃くぬくし今日よりは父母あまわししこの足で百四歳のいのちをはこぶ(日本歌人クラブ主催 第三十五回全日本短歌大会 秀作 )介護不要百四歳へ歩みいる抱きいるもの落とさぬように古りてなおなしたきことのあまたあり長命のあかし乏しきゆえに(日本歌人クラブ主催 第三十五回全日本短歌大会 優良賞 ) クラスメート一人も居らず教え子ら卒寿を越ゆとわれは何者(雑誌「短歌」平成二十六年十月号公募短歌館 特選 花山多佳子 選)(評)百四歳の作者。教え子が卒寿というから驚く。「われは何者」という結句が卓抜だ。ただ者でないセンスがあっておかしみを誘う。 苦を越えて楽が訪れ苦に追われ楽な日日来て百と四歳(雑誌「短歌」平成二十六年十一月号公募短歌館 秀逸 花山多佳子 選)介護不要百四歳への一日なりとりこぼさぬよう生きねばならぬ(雑誌「短歌」平成二十六年十一月号公募短歌館 佳作 花山多佳子 選)
2015.01.09
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編集より(白浜短歌会平成27年1月号下書きより) 後藤瑞義 本年もよろしくお願いします。早速ですが、十七頁に安永蕗子先生の次のような添削例があります。原作:輝きて吾子をかたる女の顔羨(とも)しと見つつバスに揺れおり添削:己が子を語り輝やく女の顔羨しと見つつバスに揺れおり コメントとして『「吾子」の一語、短歌は一人称ですから、作者の子とまちがわれやすい。』 この、「短歌は一人称ですから」という言葉に注意したいと思います。そうです、短歌は「私」です、「私たち」ではないのです。「一般的」でも、「常識的」でも、「普通は」でも、…そうです、あくまでも短歌は、「わたしは」なのです。このことを時々忘れることがあります。どうしてか、と考えますに、やはり他者を意識して作るためではないかと思います。それを、気配りなどと言うかもしれません。そうして私たちは社会生活をしているのだと思うのです。社会とうまくやっていく、人とうまく交際していく知恵なのでしょう。そうしたことを、子供のときからいろいろと教えられ、大人になっていくのだと思います。短歌を作る場合は、そうしたことを一度すべて忘れて、心のなかを真白にしてみるのもあるいは良いかもしれません。あくまでも、「私は、こう思う」「私はこう感じる」、「ちょっと他の人とは違うので、言うのははばかるけれども本当はこう思う、こう感じる。」それこそが、短歌で一番大切なことだと思います。ご一考してみてください。
2015.01.07
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