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1月31日短歌入門(今からはじめる人のための)(30)(抜粋)岡井隆著 昭和23年9月25日発行名詞をつかむ(2)例歌:ひと山の砂けふ子等に与へられ幼き髪とこゑ光りあふこの歌で注意したいのは、名詞の把握です。「砂」であり、「ひと山の砂」であり、「髪」であり「こゑ」です。これらの名詞を、しっかりつかむことです。絵画の「デッサン」とは、歌では名詞の選択ということです。<型>を習得するなら、まず、五・七・五・七・七の定型を厳しく守ること。次に、一首の核心となるべき「事物」を据え付ける習練をなさってください。「事物」つまり名詞です。名詞をさがし、最良の名詞を選ぶのです。(つづく)
2022.01.31
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1月31日(月)岡井 隆「私の文学」(52)(対談:聞きて田中和生)三田文学(2003年夏季号)より虚構と韻律――前衛短歌運動の遺産(3)田中:じゃあ近代文学としての水準に近くなったということですか。岡井:そう思いますね。だから一周回りぐらい遅れて歩いているわけだけれども、しかし僕なんか時々思うのは、『源氏物語』のなかに和歌がたくさんありますね。『伊勢物語』もそうですし、『土佐日記』もそうです。じゃああれはなんなんだということになるわけですが、あれはみんな物語の歌。(つづく)
2022.01.31
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1月31日(月) 長塚 節歌集(26)中公文庫:日本の詩3より昭和五十年九月十日初版明治三十八年(4) 羇旅雑詠(2) 八月二十三日、雨、房州に航す相模(さがみ)嶺(ね)はこの日はみえす安房(あは)の門(と)や鋸山(のこぎりやま)に雲飛びわたる秋雨(あきさめ)のしげくし降れば安房の海たゆたふ浪(なみ)にしぶき散るかも (つづく)
2022.01.31
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1月31日(月)閑吟集(5)新潮社: 昭和五十七年九月十日 小歌の作(おこ)りたる、独(ひと)り人の物に匪(あら)ざるや明(あき)らけし。風行き雨施すは、天地の小歌なり。流水の淙々(そうそう)たる、落葉の索々(さくさく)たる、万物の小歌なり。しかのみならず、龍唫虎嘯(りようぎんこせう)、鶴唳(かくれい)鳳声(ほうせい)、春にして鶯(うぐひす)あり、秋にして蛬(きりぎりす)あり、禽獣・昆虫の歌も、自然の小歌なるものか。而るを況(いは)んや人情をや。五千余軸(ごせんよぢく)は迦(か)文(もん)の小歌なり。五典三墳(ごてんさんぶん)は先王の小歌なり。風を移し俗を易(か)へ、夫婦を経(をさ)め、孝敬を成し、人倫を厚うす。吁(ああ)、小歌の義たるや大なるかな。(つづく)風行き雨施す:風の音も雨の音も天地の:自然界の孝敬を成し:君臣父子の道を成し人倫を厚うす:道徳新を厚くする
2022.01.31
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1月31(月) 昭和萬葉集(巻十一)(323)(昭和三十年~三十一年の作品)講談社発行(昭和55年) Ⅳ(48) 愛と死(31)母を(1)島田幸造常になく父の煽(おだ)てば哀れにも泪するまで母は笑へり新堂広志息あらくはきつつ母は吾が乗れる躄車を押して坂ゆく堀畑貴絵足萎(あしなへ)の吾を支へし母がよろけ共にころびし夕べがありき大内須磨子共に来て観音講の昼の斎(とき)いただくに食の細き母かも (つづく)
2022.01.31
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1月31日(月) 「選択本願念仏集」(法然著)(350)岩波書店:1997年4月16日発行(十六)釈迦(しゃか)如来(にょらい)、弥陀の名号をもつて慇懃(おんごん)に舎利(しゃり)弗(ほつ)等に付属したまふの文(もん)(32) 静かに以(おもん)みれば、善導の観経の疏は、これ西方(さいほう)の指南(しなん)、行者(ぎようじや)の目(もく)足(そく)なり。しかれば則ち西方の行人、必ずすべからく珍敬(ちんぎよう)すべし。なかんづくに、毎夜に夢の中に僧あつて、玄義を指授す。僧とはおそらくはこれ弥陀(みだ)の応(おう)現(げん)なり。しかれば謂(い)ふべし、この疏(しょ)はこれ弥陀の伝説(でんせつ)なりと。(つづく)西方:西方にまします阿弥陀仏の極楽浄土を指す。応現:仮りの姿となり現れること。伝説:伝えられる教え。
2022.01.31
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1月31日(月)内村鑑三「一日一生」より(注)文語は口語にし、意訳しています(後藤)。発行:昭和39年教文館冒険と信仰冒険のない人生には興味がありません。また、信仰のない生涯には意義がありません。あらゆることが科学化されて、あらゆることが計算的に予知されるならば、人生も機械化され、生きる甲斐のないものとなります。生命が生命である間は、科学化は永久におこなわれないでしょう。信仰は生命にとって必然的な付随物です。生命というのは、大いなる冒険です。死が決められている物質界に自己の存在を維持するために信仰が必要となります。この宇宙に生れた以上、冒険はまぬがれません。ですから、信仰は廃してはいけないのです。
2022.01.31
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1月30日短歌入門(今からはじめる人のための)(29)(抜粋)岡井隆著 昭和23年9月25日発行名詞をつかむ(1)定型の五・七・五・七・七を厳密に守ることから、短歌は始まる。例歌:石川不二子『定本歌集 牧歌』より水恋ひてからす揚羽のおとづれしはげしき夏も過ぎゆかむとす(山の中に入植して開拓者の生活をしている農業者が、はげしい夏を経験した作者の歌)解釈:からす揚羽が水をしたっていくたびもやって来た、あのはげしい(暑さの)夏もすぎようとしている。(注意)作者は、「からす揚羽」という虫をもってきて、(「はげしい暑さ」というような)大まかで抽象的な言い方ではなく、具体的に表現の中心に到達することに成功した。ここで、「名詞」が重要となります。作歌には、適切な(具体的な)「名詞」を探す作業があります。この場合は、「からす揚羽」です。(つづく)
2022.01.30
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1月30日(日)岡井 隆「私の文学」(51)(対談:聞きて田中和生)三田文学(2003年夏季号)より虚構と韻律――前衛短歌運動の遺産(2)岡井:やっぱり平凡だけど、近代文学あるいはモダンというのは今評判が悪いけれども、世界の詩歌の文学の常識というものが短歌のような伝統的な詩型の世界にすらだんだん浸潤しちゃって、今は穂村さんみたいに性転換やって女性として歌うというようなことを詠んでいてあまり驚かれない。それは穂村さんが最初じゃないんですけれども、何人かの人がそんなことをやるとか、それからそういうところにはそういうものはないということが明白なのに、あたかも自分がそこへ行ってそれを見たかのごとく歌をつくって、それに対して昔だったら叱られるという感じがあったのが、今はみんなニコニコしながら「そういうの、おもしろいね」とかなんとか言う。やっとそういう水準のところまで行ったのかなという感じはするんですね。(つづく)
2022.01.30
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1月30日(日)長塚 節集(23)中公文庫:日本の詩歌3より昭和五十年九月十日初版明治三十八年(3) 羇旅雑詠 八月十八日、鬼怒川を下りて利根川に出づ、濁流滔々たり、舟運河に入る利根川(とねがは)やみなぎる水に打ち浸(ひた)る楊(やなぎ)吹きしなふ秋の風かもおぼほしく水泡(みなわ)吹きよする秋風に岸の真菰(まこも)に浪(なみ)越えむとす (つづく)
2022.01.30
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1月30日(日)閑吟集(3)熟(つらつ)ら本邦の昔を思ふに、伊(い)陽(やう)の岩戸(いはと)にして七昼夜の曲を歌ひ、大(おほ)神(かみ)罅(か)隙(げき)に面し、神の戸(と)擘開(はくかい)して霄壌(せいじやう)明白なり。地祇(ちぎ)の始め已(すで)に神歌(かみうた)あり。次いで催馬楽(さいばら)興るなり。催馬楽再び変じて早歌(さうか)となる。その間、今様(いまやう)・朗詠(らうえい)の類数曲あり。三たび変じて近江(あふみ)・大和(やまと)等の音曲あり。或いは徐々として精(こころ)を困(くる)しめ、或いは急々として耳に喧(かまびす)し。公宴に奏(そう)し下情(かじやう)を慰むるものは、それ唯(ただ)小歌(こうた)のみか。 (つづく)伊陽:伊勢の国のこと。 岩戸にして七昼夜の曲を歌ひ:岩戸の前で神々が七日七夜の神楽を奏し。大(おほ)神(かみ)罅(か)隙(げき)に面し、神の戸(と)擘開(はくかい)して霄壌(せいじやう)明白なり。:天照大神が岩戸の隙間(すきま)から顔を覗(のぞ)かせたところを手(た)力男(ぢからおの)命(みこと)が扉を裂き開いて天地は再び明るくなった。催馬楽再び変じて:鎌倉時代に至り三たび変じて:室町時代に入るや
2022.01.30
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1月30日(日) 昭和萬葉集(巻十一)(322)(昭和三十年~三十一年の作品)講談社発20行(昭和55年)Ⅳ(52)愛と死(40)父を偲ぶ(1)吉田和気子暮れおちし車窓に吾の映りをり亡くなりし父に似たる顔して裏山に上れば昏れし山なみの遠き頂に夕陽照りゐる疲れたる吾が車窓に映りゐる亡くなりし父に似たる顔して 飯田住義父逝きて仕事着のみが遺りたりその仕事着をうから分けあふ(つづく)
2022.01.30
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1月30日(日) 「選択本願念仏集」(法然著)(349)岩波書店:1997年4月16日発行(十六)釈迦(しゃか)如来(にょらい)、弥陀の名号をもつて慇懃(おんごん)に舎利(しゃり)弗(ほつ)等に付属したまふの文(もん)(30) 菩堤の眷属(けんぞく)として、真の善(ぜん)知識(ちしき)とならむ。同じく浄国に帰して共に仏道を成(じょう)ぜむ。この義已(すで)に、証を請(こ)ひて定め竟(おわ)んぬ。一句一字も加減すべからず。写さむと欲(おも)はば、一(もつぱ)ら経法(きょうぽう)の如くすべし。まさに知るべし」と。(已上)(つづく)浄国:阿弥陀仏の浄土。
2022.01.30
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1月30日(日)内村鑑三「一日一生」より(注)文語は口語にし、意訳しています(後藤)。発行:昭和39年教文館生涯の幸福はわたしはかって旧約聖書のエレミヤを読み、エレミヤの心境となり歎きました。「ああ!わたしはなんと禍(わざわい)でしょうか。人がみなわたしと争います、またわたしを責めます、またわたしを呪おうとします。しかし、わたしは今振り返って感謝します。ああなんとわたしは幸福でしょうか。人々がみなわたしと争い、わたしを責め、わたしを呪いさえしましたので…。そのために、わたしは神様と結ばれて神様の救済をえることが出来たのです。人に捨てられるのは、神様から拾われることです。人ににくまれるのは、神様から愛されることです。人に絶交されるのは神様に結ばれることです。今になってやっと分かりました。わたしの生涯にあったもっとも幸福なことは、世の中にあなどられ、嫌われ、辱(はずかし)められ、退けられたことでした。
2022.01.30
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1月29日短歌入門(今からはじめる人のための)(28)(抜粋)岡井隆著 昭和23年9月25日発行型について(3)万葉集から:たまきはる宇(う)智(ち)の大野(おほぬ)に馬(うま)並(な)めて朝(あさ)踏(ふ)ますらむその草深(くさふか)野(ぬ) (巻一・四)五・七・五・七・七の音数律を正しく守っています。五句三十一音の定跡は正しく守ること、特に初心者は絶対守るべきです。 ころがりしカンカン帽を追うごとくふるさとの道駈けて帰らん 寺山修司 かの山をひとりさびしく越(こ)えゆかむ願(ねがひ)をもちてわれ老(お)いむとす 斎藤茂吉 短(みじ)か世のつまと思へばうら愛(かな)しひとりのときの涙しらすな 中村憲吉 以上、どの歌も五句三十一音の定跡を守っています。このことは非常に大切なことです。 (つづく)
2022.01.29
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1月29日(土)岡井 隆「私の文学」(50)(対談:聞きて田中和生)三田文学(2003年夏季号)より虚構と韻律――前衛短歌運動の遺産(1)田中:前衛短歌論のところで僕が一つおもしろいなと思ったのは、虚構が入ってきたということで、それが入ってきたのはどうしてなんだろうと思ったんです。写実から少しずらして、そちらの方が魅力的だというのもあると思うんですけれども、たとえば最初に伺ったような樋口一葉がビン・ラディンに会いに行くというぐらいまで虚構の度合いが高まってくると、ずらすという程度ではもうおさまらなくなっている。虚構が入り込んできたということに関して、なにか必然性というか、そういうものをお感じになったことはありますか。(つづく)
2022.01.29
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1月29日(土) 長塚 節歌集(22)中公文庫:日本の詩歌(3)より昭和五十年九月十日初版明治三十八年(2)春季雑咏杉の葉の垂(たり)葉(は)のうれに莟(つぼみ)つく春まださむみ雪の散りくも棕櫚(しゅろ)の葉に降りける雪は積みおける真木(まき)のうへなる雪にしづれぬ木(こ)の葉掻く木(こ)の葉返(はがへ)しの来てあさる竹の林に梅散りしきぬ梅の木の古枝(ふるえ)にとまる村(むら)雀(すずめ)羽がきも掻かずふくだみて居り小垣(をがき)外(と)のわか木の栗の枝につく枯葉は落ちず梅の花散りぬ (つづく)
2022.01.29
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1月29日(月)閑吟集(3)新潮社: 昭和五十七年九月十日 詩は志(こころざし)の之(ゆ)く所なり。詩変じて謡(うた)となり謳歌せらる。尤(もっと)も三代以前は物として宋廟侶(そうべうりょ)隣(りん)の詠ならざるはなし。「井(せい)を鑿(うが)ちて飲み、田を耕して食(くら)ふ」とは堯(げう)の時の歌なり。易(えき)水(すい)の秦(しん)に於(お)ける、大風(たいふう)の漢(かん)に於ける、一句の歌あるは、素(そ)錬(れん)白馬(はくば)、寿(ことほ)ぎて是を成すを得しなり。接與(せつよ)は鳳兮(ほうや)を歌ひ、寗戚(ねいせき)は牛(ぎう)角(かく)を扣(う)つ。楚(そ)王(わう)の萍実(へいじつ)、陳(ちん)主(しゆ)の後(こう)庭(てい)花(くわ)、僉(みな)民間に言はざるはなし。易(えき)に曰(いは)く、缶(ほとぎ)を鼓(こ)して歌ふと。豈(あに)至徳要道に非(あら)ざらんや。異方斯(か)くの如し。(つづく) 詩は志の之く所なり:志(感情)が発露して詩となり、それに曲節が付されて謡となるという三者の関係を説く。
2022.01.29
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1月29日(土) 昭和萬葉集(巻十一)(316)(昭和三十年~三十一年の作品) 講談社行(昭和55年) Ⅳ(51)愛と死(39)父を偲ぶ(2)清水房雄思ふさま生きしと思ふ父の遺書に長き苦しみといふ語ありにき木村玄外朱を好み用ひし父の面影が朱を練り合せをれば浮かび来武川忠一亡き父の遺物(かたみ)をわが着て着古せば妻は裁ちおり子のものとして日根野直芳朝鮮より移したる連翹をわが花と愛でにしものを父はいまさず石岡義太郎錆ふきし鑿(のみ)を砥(と)にあて惜しみをり父在りし日のことのさまざま (つづく)
2022.01.29
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1月29日(土) 「選択本願念仏集」(法然著)(348)岩波書店:1997年4月16日発行 (十六)釈迦(しゃか)如来(にょらい)、弥陀の名号をもつて慇懃(おんごん)に舎利(しゃり)弗(ほつ)等に付属したまふの文(もん)(29) 既にこの相を蒙れり。敢へて隠蔵(おんぞう)せず。謹(つつし)んでもつて義を申(の)べ呈(あらわ)して後(のち)に、末代に聞えられむ。願はくは含(がん)霊(れい)をして、これを聞かしめて信を生ぜしむ。有識(うしき)の覩(み)む者、西に帰せよ。この功徳(くどく)をもつて衆生に廻施(えせ)して、ことごとく菩薩心を発(おこ)して、慈心をもつて相ひ向ひ、仏(ぶつ)眼(げん)をもつて相ひ看(み)む。(つづく)隠蔵:かくしもつこと。含霊:心ある人。
2022.01.29
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1月29日(土)内村鑑三「一日一生」より(注)文語は口語にし、意訳しています(後藤)。発行:昭和39年教文館キリストを信じる者の希望とはわたしたち、キリストを信じる者の希望は、死後この世を去って直ちに天国へ行くことではありません。それは、確かによいことですが、もっともよいことではありません。わたしたちの希望は、死後再びよみがえって、聖められたこの地で、キリストとともに正しい生涯を楽しむことです。この地はもともとは汚れておりませんでした。人類が汚したのです。その罪をキリストによってあがなわれ、元の神様の造られた楽園にして、そのなかで聖く正しい生涯を送ることです。これが真のキリスト信者の希望です。
2022.01.29
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1月28日短歌入門(今からはじめる人のための)(27)(抜粋)岡井隆著 昭和23年9月25日発行型について(2)斎藤茂吉の考えた定跡:一、短歌の形式は、五音、七音、五音、七音、七音の五句、三十一音律(五つの句から成り、全部で三十一の音によって、律(リズム)をととのえている、という意味)だから、この五句の構成と、各句の音数を厳密に守ることを学ぶ。二、万葉集巻一の歌、できれば巻二までの歌をくりかえし学べば、短歌の「調べ」を自分のものにすることができる。さしあたり、万葉集巻一の歌を「大体の定跡と考えて好い。」茂吉の警告:定跡(注:万葉集巻一を手本にして体得した型)を体得したものは、作歌力量はずんずん伸びるし、定跡を体得しないものは、形態がくづれて、いつまで経っても素人の域を脱することが出来ない。生を写すべき大切な技法も、「おたのしみのお道楽で満足すべき程度に終始して、終りを告げることになる。(つづく)
2022.01.28
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1月28日(金)岡井 隆「私の文学」(49)(対談:聞きて田中和生)三田文学(2003年夏季号)より前衛短歌運動をふり返って(7)田中:二つのバランス、革新する方向に広げていくものと、それを教育的にコピーするという機能が両方機能しているのが、本当は理想的なんですかね。岡井:そうだとすれば、今はわりあいにいいところに来ていますね。田中:短歌という制度がですか。岡井:そう。僕らは両方かもしれません。その辺のところが毎日混乱するところなんだけどね。本当は片方だけやっていればいいだけれども、どうしても両方やらされるでしょう。(つづく)
2022.01.28
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1月28日(金)長塚 節歌集(23) 中公文庫:日本の詩歌3より昭和五十年九月十日初版明治三十八年(1) 霜 綿の木の畝間(うねま)にまきし蚕豆(そらまめ)の三葉(みは)四葉(よは)ひらき霜おきそめぬかぶら菜に霜を防ぐと掻きつめし栗(くり)の落葉はいがながああr敷く此(この)日ごろ霜のいたけば雨のごと公孫樹(いてふ)の黄葉(もみぢ)散りやまずけり冬の田の霜のふれれば榛(はり)の木の蕾(つぼみ)のうれに露垂れにけり(つづく)
2022.01.28
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1月28日(金)閑吟集(2)新潮社: 昭和五十七年九月十日 これを嗟嘆(さたん)して足(た)らざれば、これを詠歌す。これを詠歌して足らざれば、手の舞ひ足の踏むを知らざるなり。治世の音(おん)は安(やす)んじて以て楽しむ、その政(まつりごと)和すればなり。乱世の音は怨みて以て怒る、その政乖(そむ)けばなり。得失を正し、天地を動かし、鬼神を感ぜしむるは、詩より近きはなし。 (つづく)これ:思い 嗟嘆:心を激して吟ずること。 詠歌す:うたとして口ずさむ手の舞ひ足の踏むを知らざる:手も足も自然と動き出し舞い踊るようになる詩より近きはなし:手段としてうた以上のものはない
2022.01.28
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1月28日(金)昭和萬葉集(巻十一)(330)(昭和三十年~三十一年の作品) 講談社行(昭和55年)Ⅳ(50)愛と死(38)父を偲ぶ(1)葉山志保死に近き父のラッセル聞きおけと医師はわが手に聴診器置く内田さち子冷えとほるなきがらとなりし父なるかしろき夜明けをひばりが鳴けり清水晴代冷たさはなににたとへむ父のなきがら髭(ひげ)のみが温みたもちて 滝川愛親うけて継ぐものの寂しき一つにて父在りし日の父の座にゐる(つづく)
2022.01.28
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1月28日(金)「選択本願念仏集」(法然著)(347)岩波書店:1997年4月16日発行(十六)釈迦(しゃか)如来(にょらい)、弥陀の名号をもつて慇懃(おんごん)に舎利(しゃり)弗(ほつ)等に付属したまふの文(もん)(28)第三の夜に見らく、両(ふたつ)の幢杆(はたほこ)、大きに高く顕(あら)はれて、幡(はた)五色を懸(か)けたり。道路縦横に、人(ひと)観(み)ること礙(さわ)りなし。既にこの相を得已(えおわ)りて、即便(すなわ)ち休止して七日に至らず。上より来(このかた)、所有の霊相は、本心(ほんしん)、物(もの)のためにして己(こ)身(しん)のためにせず。(つづく)両(ふたつ)の幢杆(はたほこ)…懸(か)けたり:二つのはたざおに、五色のはたのかかっていることであるが、それが何を意味するかについて、良忠は、五色の幡は五念門、或いは五種正行、両の幢杆(はたほこ)は定散二善をあらわすものとみている(『散善義記』巻三)。
2022.01.28
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1月28日(金)内村鑑三「一日一生」より(注)文語は口語にし、意訳しています(後藤)。発行:昭和39年教文館患難とは人々に起る患難(うれい。心配。難儀。)は、種々さまざまです。そして、各人に起る患難は、その人にとって必要である患難でず。その人をきよめ、その人を鍛え、その人を神様の前に立って恥ずかしくない人間にするために、ぜひとも必要とする患難です。そして、ある人は家庭の患難を必要とし、ある人は病気の患難を必要とし、ある人は失恋の患難を必要とし、ある人は貧困の患難を必要とし、ある人は失敗し落ちぶれる患難を必要とするのです。たとえば、病気になった時、その病名によっていろいろな薬が調合されるのと同じように、各人の欠点を補うために、各人にふさわしい患難が必要なのです。ですから、艱難は前世の報いなどではありませんし、刑罰でもないのです。むしろ、恩恵なのです。わたしたちは、わたしたちに起る患難によって、天国に入る人間になるために磨かれるのです。また、飾られ完結するのです。人々は、自分に起る患難を感謝して受け入れるべきなのです。
2022.01.28
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短歌鑑賞(石川啄木)歌集「悲しき玩具」(百四)下書き 後藤瑞義 (注)歌の順序は歌集の順序によります。 病院に来て、 妻や子をいつくしむ まことの我にかへりけるかな。 一行目、「病院に来て、」というのは、病院に入院してということでしょう。二行目、「妻や子をいつくしむ」というのは、妻や子のことを愛おしく思うという当然と言えば当然のことですが、あらためて書いている心境を思います。いままでは、いつくしんでいなかったという若干の反省がうかがえます。 入院して、横になりながら心細さもあったでしょう。いかに奥さんや子供さんが大事な存在かも再確認されたのかもしれません。三行目、「まことの我にかへりけるかな。」、病院に入院し自分の来し方をつくづくと顧みるとともに、色々後悔することもあったでしょう。素直な心がよみがえってくるとともに、妻や子に対するいつくしむ心が湧いて来たのでしょう。それを「まことの我にかへりけるかな。」と詠嘆しているのだと思います。 「まことの我」といった表現がなんとも啄木らしい感じがしました。文芸に夢中になっている天才啄木は、「まことの我」ではない、平凡に妻や子をいつくしむのがわたしの本当の姿なのだと言っているようです。 病気は啄木を、金銭的な窮乏と共に苦しめました。しかし、病気になって、「まことの我にかへりけるかな。」の心境を得たのであれば、良かったと前向きに考えられるかもしれません。啄木自身はどのような心境でこの歌を作ったかは分かりませんが、この歌を読みましてそんなことをわたしは思ったのでした。
2022.01.27
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1月27日(木)短歌入門(今からはじめる人のための)(26)(抜粋)岡井隆著 昭和23年9月25日発行初句と結句(3)型について(1)斎藤茂吉(昭和17年)に「定跡」という文章: 「将棋や碁には定跡があり、柔術、剣術にも型があり、相撲にも手といふものがあって、その道に入って、専門家として飯を食ふやうになるには、是非ともこの定跡・型・手から学んでゆかねばならなぬ。」斎藤茂吉は、続けて 「そんなら、歌や俳句には、定跡に当るやうなものはあるかどうかといふに、歌や俳句は勝負がはっきりしてゐないものであるから、従って、定跡のやうなものの有無もはっきりしてゐないが、やはり定跡に当るものがあると考えていいやうである。」(つづく)
2022.01.27
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1月27日(木)岡井 隆「私の文学」(48)(対談:聞きて田中和生)三田文学(2003年夏季号)より前衛短歌運動をふり返って(6)田中:その短歌運動のときは、結社式のものを壊してどういものにしようということは、特に考えてはいらっしゃらなかったんですか。岡井:結社をぜんぶなくして、同人雑誌がでてはつぶれ、出てはつぶれのあの形でよかったと思ったんですよ。ところが結社は強固に残りましたね。それはたぶん、さっきいった普通人、つまり文学者とか文学的な才能、文学的教養をプロ的にもっている人じゃない人々の集団を基礎にもっている短詩型文学だからでしょう。今はそっちの方も非常に栄えていますけれども、そういう一種の大衆性、「大衆性」というのは平凡な言葉だけれども、万人に受けいれられやすいところがあって、俵万智さんとか石川啄木さんとか寺山修司さんとかの作品がありますけれでも、そういうものが片一方にあるということが、宿命かもしれない短歌というものの全体で、僕自身もこの世界のなかにいるんですから、いやおうなしにこれはそうである。そうすると、次から次へと生起する同人雑誌だけでよいというのは無理だなと。(つづく)
2022.01.27
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1月27日(木)長塚 節歌集(22) 中公文庫:日本の詩歌6より昭和五十一年四月十日初版明治三十七年(8) 秋冬雑詠(2)こほろぎのころろ鳴くなべ浅茅生(あさぢふ)の蕺(どくだみ)の葉はもみぢしにけり桐(きり)の木の枝伐(き)りしかばそのえだに折り敷かれたる白菊の花朝なあさな来鳴く小雀(こがら)は松の子(み)をはむとにかあらし松葉たちぐく掛けなめし稲のつかねを取り去れば藁(わら)のみだれに淋(さび)し茶の木は(つづく)
2022.01.27
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1月27日(木) 閑吟集(1)佐佐木信綱校訂新潮社: 昭和五十七年九月十日 夫(そ)れ謳歌(おうか)の道たる、乾坤(けんこん)定まり剛柔成りしより以降(このかた)、聖君の至徳、賢(けん)王(わう)の要道なり。これを異域に温(たづ)ぬるに、其(そ)の来たること久し。先(せん)王(わう)の五声を和するや、以(もつ)て其の心を平らかにし、其の政を成すなり。五声・六(りく)律(りつ)・七音(しちいん)・八風(はつぷう)、以て相(あい)成(な)すなり。清濁(せいだく)・小大(せうだい)、短長(たんちやう)・疾(しつ)徐(じょ)、以て相(あい)済(な)すなり。君子はこれを聴き、以て其の心を平らかにす。心平らかなれば徳和す。故(ゆゑ)に詩に曰(いは)く、徳音瑕(か)けず、と。 (つづく)謳歌の道:うたの道。 乾坤:天と地。剛柔成りしより:万物が生成してから。 これを異域に:その例を中国に。来ること久し:源流は甚だ古い。 五声を和する:音声の調和を図った。其の心を平らかに:世の人の心を和やかにし。其の政を成すなり:それを治世の基とするためであった。心平らかなれば徳和す:心が和やかなら自然と徳も備わる。
2022.01.27
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1月27日(木)昭和萬葉集(巻十一)(324)(三十年~三十一年の作品)講談社発行(昭和55年)Ⅳ(49) 愛と死(37)父を(3)千葉 甫父の手に風車青く廻りゐき松葉杖つく吾が持てぬゆゑ福田たの子猟銃のとどろく前の山浅く滅ぶる家に父は病みゐて太平千枝子常臥の父の欲り給ふリンデンバウム子に和し歌ふ涙ぐみつつ宮 柊二病み床に日中ねむれば尖りたる父喉仏冬の日を浴ぶ(つづく)
2022.01.27
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1月27日(木)「選択本願念仏集」(法然著)(353)岩波書店:1997年4月16日発行 (十六)釈迦(しゃか)如来(にょらい)、弥陀の名号をもつて慇懃(おんごん)に舎利(しゃり)弗(ほつ)等に付属したまふの文(もん)(27) 第二の夜に見らく、阿弥陀仏の身は真(しん)金色(こんじき)にして、七宝樹(しっぽうじゆ)の下(もと)の金(こん)蓮華(れんげ)の上にましまして坐したまへり。十(じつ)僧(そう)囲遶(いによう)して、またおのおの一の宝樹の下に坐せり。仏樹(ぶつじゆ)の上に、乃ち天衣(てんえ)ありて挂(かか)り遶(めぐ)れり。面(おもて)を正(ただ)しくし西に向って、合掌して坐して観ず。(つづく)十僧:良忠は、十地の菩薩をあらわすといい(『散善義記』巻三)、深励は十は満数で、無数の義であるとしている(『選択集講義』巻五)。
2022.01.27
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1月27日(木)内村鑑三「一日一生」より(注)文語は口語にし、意訳しています(後藤)。発行:昭和39年教文館平民とはなにかイエスは平民です。わたしは、平民の模範としてイエスを仰ぎます。そうはいいましても、わたしはイエスを現在いわれる意味の平民であるというのではありません。平民といいますのは、位が有る無し、富が有る無しによって定められるものではないということです。ですから、貴族のなかにも平民はおりますし、平民の中にも貴族がおるということです。わたしが言うところの平民というのは、自己を貴ばない人のことです。自分を貴い人間であるように思う人、こういう人が貴族です。ですから、わたしはイエスは平民であるというよりは、むしろ平民というのはイエスのような人だというべきでしょう。すべてイエスを主としてあおぐ人、イエスに罪をあがなわれようとする人、これらの人々はみな平民です。つまり、平民とはイエスを神の子としての尊さを認めるほかは、いかなる貴尊もことごとく拒否する人のことです。そうですこの人こそ真の平民です。
2022.01.27
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後藤瑞義 入選歌茶柱の立てる茶碗をのぞきいて金繰りのことしばし忘るる 下田市 後藤瑞義(読売新聞静岡版 よみうり文芸 一月二十六日 佳作 渡 英子 選)(評)番茶を注いだ時に縦に浮かぶ茶柱を見るのは嬉うれしい。古来、良い事のおこる吉兆とされる茶柱にしばし浮世うきよの苦を忘れる瞬間を掬すくい上げている。「金繰り」という現実と茶柱の対比が切ない。
2022.01.26
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1月26日(水)短歌入門(今からはじめる人のための)(25)(抜粋)岡井隆著 昭和23年9月25日発行初句と結句(2)岡井:初句は、なるべく軽やかに踏み出す、結句は往きて帰る部分、出発点に一気にひきかえってくるこころ。わたしたちは、歌を作りながら、無意識のうちに、言葉を取捨選択をしています。紙の上で、消したり加えたり顚倒したり挿入したりする作業はしていなくても、頭の中でそれをしています。作歌はそうした細かい点検作業の、地味なつみ上げになされる手づくりの仕事です。気に入った作品にならなかった場合、初句を置き換えたり、結句を点検してみることです。(つづく)
2022.01.26
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1月26日(水)岡井 隆「私の文学」(47)(対談:聞きて田中和生)三田文学(2003年夏季号)より前衛短歌運動をふり返って(5)岡井:あの後、「アララギ」から飛びだしていろいろやりましたでしょう。あのときは「短歌」とか「短歌研究」といった総合雑誌の編集者が、中井英夫さんや杉山正樹さんという優秀な人だったものですから、バックアップしてくれました。案外ああいうところが、われわれの同人誌の親玉みたいなところになって、今おっしゃったような、表現の可能性を自分のやれる範囲内でとことんやってごらんよという雰囲気を作り出してくれたのは「短歌」と「短歌研究」です。それを旧結社的制度とぶつかっていたんですから、表現的な改革というのはものすごくたくさん行われました。 それはぜんぶ成功したわけじゃありませんけれども、少なくとも、たとえばさっき話に挙がった虚構的なもの、そういうものが表現のなかには含まれるんだ、そんなことを言うけれども物とか事とかいうのはけっこう大事だ、とかいってそれこそ何千年来言われてきている文学というもの、あるいは文学表現のオーソドキシーみたいなものがそこで確かめられた。今若い人たちが百花斉放であらゆることをやって、だれもなにも言いませんよね。ああいう雰囲気、もちろん自分は写実だといって頑張っている人もいて、そういう人もこちらの人を十分認めた上でやっているというようなごく普通の雰囲気ができていて、あれはひょっとするとわれわれがああいうことをやったために生じたのかもしれないから、よかったかと思います。 (つづく)
2022.01.26
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1月26日(水) 長塚 節歌集(21)中公文庫:日本の詩3より昭和五十年九月十日初版明治三十七年(7) 秋冬雑詠(1)秋の野に豆曳(ひ)くあとにひきのこる莠(はぐさ)がなかのこほろぎの声稲(いな)幹(がら)に束(つか)ねて掛けし胡麻(ごま)のから打つべくなりぬ茶の木さく頃秋雨(あきさめ)の庭はさびしも樫(かし)の実も落ちて泡(あわ)だつそのにはたづみ (つづく)
2022.01.26
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1月26日(水)梁塵秘抄佐佐木信綱校訂岩波書店: 1933年8月30日発行、神社哥 六十九首(35)阿耨多羅三藐三菩提の佛(ほとけ)達(たち)、我(わ)が断(た)つ杣(そま)に冥加(みょうが)あらせたまへ。 五百六十五何時(いつ)しかと君(きみ)にと思(おも)ひし若菜(わかな)をば、法(のり)の為(ため)にぞ今日(けふ)は摘(つ)みつる。 五百六十六 (終了)次は:閑吟集
2022.01.26
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1月26(水) 昭和萬葉集(巻十一)(318)(昭和三十年~三十一年の作品)講談社発行(昭和55年) Ⅳ(43) 愛と死(26)父を(2)藤井逸馬堆肥(こえ)負ひに疲れはてたり父と酌む焼酎はじん(・・)と唇にしむ平野寿美子僅かなる種付料を貯めし金店を飾れと義父は持ち来る畑井政雄点字覚えし今のこよなき倖せよ見えざる父と一つつながり小谷心太郎並び寝(い)ねし父の手が吾手を握りしめきその夜すがらの水車の音 (つづく)
2022.01.26
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1月26日(水) 「選択本願念仏集」(法然著)(345)岩波書店:1997年4月16日発行(十六)釈迦(しゃか)如来(にょらい)、弥陀の名号をもつて慇懃(おんごん)に舎利(しゃり)弗(ほつ)等に付属したまふの文(もん)(27)忽ちに一人(いちにん)あつて、白き駱駝(らくだ)に乗じ、前に来たつて見て師に勧む、「まさにゆめゆめ決定(けつじよう)して往生(おうじょう)すべし。退転をなすことなかれ。この界は穢(え)悪(あく)にして苦多し。労(いたわ)しく貧楽(とんぎょう)せざれ」と。答へて言く、「大きに賢者の好心(こうしん)の視誨(じげ)を蒙りぬ。某(それがし)、畢命(ひつみよう)を期(ご)として、敢へて懈慢(けまん)の心を生ぜず」と云々。(つづく)一人:阿弥陀仏を指すか、釈尊とするかの両説があるが、良忠は弥陀仏説を支持している(『散善義記』巻三)。貧楽:むさぼり願うこと。好心の視誨:懇切な教訓。
2022.01.26
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1月26日(水)内村鑑三「一日一生」より(注)文語は口語にし、意訳しています(後藤)。発行:昭和39年教文館伝道宗教というのは、人類と神様との間の関係を明らかにするものです。このことを世の中に伝えることは、人類の最も幸福なことです。この教理を世の中に伝えることは最高の善です、また最高の博愛事業です。伝道は徳のある君子の務めで、これ以上のすばらしいことはありません、この伝道は、人類を神様に立ち返らせる事業で、その範囲は広大です。言語をもって教理を説明するのもその方法の一つです。しかし説教したり書物をあらわしたりして伝道するのが全てとみるのは、大変な誤りとなります。伝道はすべての人を、あらゆる方法を駆使して神様に立ち返らせることなのです。
2022.01.26
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1月25日(火)短歌入門(今からはじめる人のための)(24)(抜粋)岡井隆著 昭和23年9月25日発行初句と結句(1)若山牧水の歌:けふもまたこころの鉦(かね)をうち鳴(なら)しうち鳴らしつつあくがれて行く幾山河越えさり行かば寂しさの終てなむ国ぞ今日も旅ゆく初句と結句けふもまた……あくがれて行く幾山河……今日も旅ゆく初句:はじめにあらわれる詩句、そこに大きな意味があります。初句と結句を辻褄をあわせてはいけないということです。牧水の歌も決して辻褄をあわせようとしては、いないはずです。それでいて、なんとなく調和されている。それは初句が結句を呼びよせると思っていいでしょう。無意識のうちに、初句と結句が呼応しているのです。初句の一歩の踏み出しにはじまり、行くところまで行き、結句で自分に帰ってくる。そんな関係が大事なポイントです。(つづく)
2022.01.25
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1月25日(火)岡井 隆「私の文学」(46)(対談:聞きて田中和生)三田文学(2003年夏季号)より前衛短歌運動をふり返って(4)田中:それは封建性というよりは、半分社会性のようなものとして成立しちゃっているものだったということですね。岡井:そう思います。近代結社というのは、江戸時代からずっと来た封建主義の思想によるものではなくて、結社の自由からはじまって明治以来新しく作られた近代的なものですからね。それが成立して、しかもどうしても主催者や神格化される指導者がどこの世界にもうまれたということは、案外大事なことではないか。かつての改革運動を担ったとされている人間が五十年たって振り返ると、そういう気がします。田中:ただ、逆説的なことですけれども、ああいう改革運動のなかで生まれてきた表現の可能性を探究したものは、そういう仕組み、だれかが選ぶことで運営されている宗匠主義的なもののなかでは発表できなかったということになりますよね。(つづく)
2022.01.25
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1月25日(火)長塚 節集(18)中公文庫:日本の詩歌3より昭和五十年九月十日初版明治三十七年(6) 夏季雑詠(2) やまべといふうをの肉も骨も一つにやはらかなるは五月雨のふりいづるまのことなり鬼怒(きぬ)川(がは)の堤(つつみ)におふる水蝋樹(いぼたのき)はなにさきけりやまべとる頃(ころ) やまべは網してとり、鯔は糸垂れてとる忍冬(にんどう)の花さきひさに鬼怒川にぼら釣る人の泛(う)けそめし見ゆ 即事鬼怒川の高瀬のぼり帆ふくかぜは樗(あふち)の花を揺らがして吹く (つづく)
2022.01.25
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1月25日(火)梁塵秘抄佐佐木信綱校訂岩波書店: 1933年8月30日発行梁塵秘抄巻第二(280)神社哥 六十九首(34)近江(あふみ)なる千(せん)の松原(まつばら)千(せん)ながら、君(きみ)に千年(ちとせ)を譲(ゆづ)る譲(ゆづ)るみな譲(ゆづ)る。 五百六十三極楽(ごくらく)は遥(はる)けき程(ほど)と聞(き)きしかど、つとめて到(いた)る處(ところ)なりけり。 五百六十四 (つづく)
2022.01.25
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1月25日(火) 昭和萬葉集(巻十一)(317)(昭和三十年~三十一年の作品)講談社発20行(昭和55年)Ⅳ(47)愛と死(35)父を(1)西田敏子うつむきて制帽小脇に歩み来る夜勤帰りの父と出逢いぬ 若宮貞次大工道具負ひて出稼ぎに出でてゆく議員の任期終りたる父石川 信かめぬ歯にゆつくりかみて父は食ふ幼子寄れば皿をかくして岩田 正職失せし父の靴しばし靴ぬぎにありしがある日箱にしまはるかかと減りしまま磨かれて光りをり職得たる日の父の古靴(つづく)
2022.01.25
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1月25日(火) 「選択本願念仏集」(法然著)(344)岩波書店:1997年4月16日発行(十六)釈迦(しゃか)如来(にょらい)、弥陀の名号をもつて慇懃(おんごん)に舎利(しゃり)弗(ほつ)等に付属したまふの文(もん)(25) 後の時に、本を脱し竟已(おわ)りぬ。またさらに心を至し、要(かなら)ず七日を期(ご)して、日(にち)別(べつ)に阿弥陀経十遍を誦(じゅ)し、阿弥陀仏三万遍を念じ、初夜(しょや)・後(ご)夜(や)に、かの仏の国土の荘厳(しょうごん)等の相を観想(かんそう)して、誠心(じょうしん)に帰命(きみよう)して、一(もつぱ)ら上(かみ)の法の如くす。当夜(とうや)に即ち三(さん)具(ぐ)の磑(がい)輪(りん)の、道の辺りに独(ほと)り転ずるを見る。(つづく)本を脱し竟已(おわ)りぬ:脱稿した。初夜・後夜:一日を六時(日没・初夜・中夜・後夜・晨朝・日中)に分けた一で、初夜は午後六時から十時、後夜は午前二時から六時までの時をいう。三具の磑(がい)輪(りん):磑(がい)は石臼のことで、訓馬の法として道に磑(がい)輪(りん)を立てて馬をつなぐことをいう。茶臼ともいい、ここでは三箇のそろった石臼のこと。
2022.01.25
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