田崎正巳のモンゴル徒然日記

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2022.05.17
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1年ぶり以上の大阪です。コロナでなかなか関西に来る機会がないまま、結局昨年は一度も来ることができませんでした。せっかく大阪に来るのですから、なんとか時間を作って本ブログでもお伝えした「邂逅(かいこう)する写真たち モンゴルの100年前と今」を見に行きたいと思いました。

私がこの写真展をやっていることに気づいてからすぐに、たまたま私が時々寄稿しているWEB論文サイトの理事の方とメールでやり取りする機会がありました。その時その方が「先日大阪へ出張に行ったときに、モンゴル写真展見てきました。良かったですよ。」と言われたのです。

その方は、特段モンゴルと関係のある方ではないのですが、それでも気になって見に行かれたそうです。だったら私も行かないといけないと確信し、行ったわけです。

場所は万博会場のあった万博記念公園です。大阪には数百回は出張に来ていましたが、ただの一度も行ったことがなかったのです。千里中央駅経由のモノレールで行きます。

  • IMG_2181.jpg


ご覧の通り、千里中央駅には大きな電光ポスターがありました。モノレールの万博記念公園駅で降り、歩くこと15分ほどで公園入口に到着します。入園料を払って入ると、まず目に入るのが有名なこれです。

  • IMG_2183.jpg


岡本太郎で有名なこの塔は、私にとってはドリカムで何度も聞いた「太陽の塔見たいよ~♪」と吉田美和が歌う歌詞の方が頭に残っています。

ちなみに裏から見るとこんな感じです。

  • IMG_2227.jpg


会場はかなり広いです。修学旅行?課外授業?かと思われる学生の団体もいくつか見ました。暑いくらいの良い天気だったので、平日でしたが家族連れもたくさんいました。

10分ほど歩くと、例の写真が。

  • IMG_2184.jpg


民族博物館へ向かう道ですが、同じ写真が大きいです。やはり民博の目玉なんでしょう。

そして入口です。

  • 67445486309__5961CFAF-B2F8-4CED-8603-974978063399.jpg


他の民族関係の展示もあるのに、まるでモンゴル専門博物館みたいです。

最初に出てきた写真は、ボグドハーン夫妻です。

  • IMG_2187.jpg


ボグドハーンとは、1911年12月29日にモンゴルが清朝から独立した時の最初の元首です。

この12月29日は非常に大事なのです。辛亥革命のあったこの年の12月29日に孫文が中華民国大統領に選出されたのですが、孫文が南京で中華民国成立の宣言をしたのはモンゴルが独立を宣言したわずか3日後の1912年1月1日なのであり、最後の清朝皇帝溥儀が退位したのは、1912年2月12日なのです。つまりこの3日間の違いが重要で、モンゴルは清朝から独立したのであり、中華民国から独立したのではないのです。。

それを知らない日本人などの外国人は、「モンゴルは中国からロシアの助けをもらって独立したんでしょ?」と思い込んでいる人が多いのですが、事実は、独立相手は清朝であって中華民国ではないのです。なぜ、そんなことがモンゴル人にとって重要なのか?

清朝は満州人の国であり、モンゴル人はある意味「共同統治者」の地位にいました。その時の被統治者の大半は漢人(ほとんどの中国人)でした。満州人は民族的にはモンゴル人と同じグループの遊牧系民族であり、満州文字もモンゴル文字が伝わったものだったのです。

つまり、モンゴル人にとっては「同じ民族グループの中で、満州人が統治していた」というレベルなのです。これは遊牧民同士では歴史的にもよくある話でした。

それに対して、漢人・中国人は全く違います。数千年もの間常に戦ってきた相手なのです。モンゴル人は言います。「私たちモンゴル人は過去にただの一度も漢人・中国人に支配されたことはない。支配したことは多くあったが、されたことは一度もない!」と。

もちろん、現在の内モンゴルの状況は悲しい事実ですが、北のハルハ・モンゴル人にとっては「漢人・中国人に支配されたことがない」事実は、強調してもしきれないほど重要なことなのです。モンゴル人と会う機会がある方は、この辺のことは頭に入れておいてください。

話を写真展に戻しましょう。

次の写真は、貴族の女性です。

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やはり時代もあってか、写真の被写体になるのは一般庶民よりも貴族の方が多いです。モンゴル女性貴族はこうした頭部への飾り物が多いです。

恐らく最初は耳飾りやヘアバンド的なものから始まったのでしょうが、地位や家柄を象徴するためか、どんどん大きくなっていったようです。この写真の女性も、飾りの部分が顔の5倍くらいはありそうです。

100年前のウランバートルです。

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ガンダン寺を中心とした仏教街のような存在でした。ウランバートルの名前はちょっと複雑です。

元々は宮殿の意味を持つオルゴーだったらしいですが、ヨーロッパ人がそれをウルガと訛って、それが広まったのです。しかもオルゴー自体が、寺院の意味を持つフレーに変わったのです。現地ではフレーに変わりましたが、ヨーロッパではオルゴーのままでした。更に漢字では庫倫と書かれ清朝からはクーロンと呼ばれていたのです。

というわけで、ボグドハーンが独立国の元首になった時は、国内ではフレー、ヨーロッパではオルゴー、中国ではクーロンと呼ばれたいたものと推定されます。いずれにしても1924年にモンゴル人民共和国となり首都がウランバートル(赤い英雄)になってからは、世界的にこの名前となったというわけです。

これは当時の漢人街です。

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当時は、モンゴル人のエリートの多くは僧侶でしたので、いわば寺院街でした。ボグドハーンも神権政治としてのトップであり、自身がチベット仏教での活仏でしたから、まさに宗教国家だったのです。

私のモンゴル人の知人にも、知識人と思われる人の祖先には「おじいちゃんはお坊さんだった」という場合が多く、3代、4代前であれば親戚の男性うちに必ず僧侶はいたようです。そして貿易・商店は漢人が一手に担っていたのです。

次も当時の写真です。

  • IMG_2192.jpg


やはり女性の被写体は貴族が多いようで、頭の飾り物はとても大きいのがわかります。ゲルの前のカップルも貴族です。

こんな感じで、昔のモンゴルに出会えました。

(続く)





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Last updated  2022.05.23 23:00:27
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