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今日は人間ドックを受診して参りました~。 前にも書きましたが、私は今年、この人間ドックにかけておりましてね。昨年よりいい数値を出すことに燃えているわけ。 で、今日受けたばかりですから、血液検査等の結果がまだ出ないものの、身長だの体重だの体脂肪率など、すぐに分かるものはもう分かっているわけ。そして・・・ 体重減った~! 4キロも! そして体脂肪率も30歳未満の平均値ですと。あ、それからへそ周りについても余裕で70センチ台をキープ。とりあえずの首尾としては、まずまずなんではないでしょうか。 これでね、血液検査の結果、肝臓関連の数値が良ければ、ばっちりなんだけどなぁ。 ところで今年に入ってから、そしてとりわけここ数カ月、今日のこの日のために涙ぐましい努力をし、健康体になることを目指してきたわけですけれども、なんかね、それが楽しくなってきてしまいました。そう、健康のために何かを我慢しながら努力する、というストイックな姿勢が心地よくなってきちゃった。 夕食後のウォーキングとか。毎晩風呂に入る前の腹筋100本、腕立て伏せ200本とか。今、これをやることによって脂肪は燃焼し、大胸筋と上腕二頭筋はいや増しに増し、お腹は板チョコ状態になりつつあるのだぁ~!などと空想しつつ。 それだけでなく、タウリンとかオルニチンとか、ショウガとか、身体にいいというものを摂取する快感とかね。そして「キノコキトサンがいいらしい」とか聞くと、「そのサプリも買っちゃおうかな・・・」とつい思ってしまったりして。 で、ふと思うに、そうか、これが「健康オタク」というものか、と。そういうのとは無縁の男だと思っていましたが、気が付いたらもうなってたよ・・・。 ま、それがいいのかどうか。その辺はやや微妙かも知れませんが、まったく不摂生、というよりはいいんでしょうなあ。 さて、とりあえず本日をもって人間ドックという目標を失った後、果たして私の「にわか健康オタク」ぶりは、継続するのでしょうか? 自分のことながら、興味津々です。
November 30, 2010
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大分寒くなってきたので、もういいだろうと地の厚い冬用のズボンを出してきてはいてみたら、あらま、何だか恰好悪いですな・・・。昨年までは平気ではいていたのだと思いますが、今日試しにはいてみると、やたらにダブダブして、とてもこれで仕事場に行く気になりません。最近のズボンってどれも細身のものばかりなので、そういうのを着慣れてしまった後、ちょっと前に買ったズボンが妙にダブダブに感じられるのでしょう。 結局、スーツに代表される男の仕事着って、定番過ぎて流行がないようではありますが、実は結構早いスピードで形が変わっているんですな。バブルの頃のソフト・スーツとか、当時はあれでカッコいいと思っていたわけですが、今見ると爆笑ものですからね。 昔はねえ、上等なスーツを買って長く着るのがオシャレで、長い目で見ればその方が得、なんてことが言われたもんですけど、今はそれは通用しないような気がしますなあ。むしろその時々の流行に合わせたリーズナブルなスーツを2シーズン、あるいは3シーズン位着てさっさと捨て、新しいのに替えてしまう方が得な気がする。得、というのは違うかもしれないけど、そうじゃないと何だか着心地が悪い感じがする。服なんぞのために嫌な気分になるというのも、つまらない話ですし。 というわけで、「もうはかない(はけない)」と判断した冬用のズボンを2本発見。こういうのを箪笥の肥やしにしていても場所ふさぎなので、これらは思い切って捨てて、今度新しいのに買い替えましょうかね。
November 29, 2010
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劇場公開時に観損なった『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』を観ました。以下、ネタばれ注意です。 とはいえ、あんまり書くこともないんですけどね。 ブラピ演じるベンジャミン・バトンは、老人として生まれ、成長と共に若返って行くという、まさに「数奇な人生」を歩むんですけど、この特殊な運命ゆえに、出会った人々と、共に年をとることができない、と。ま、それが結構つらい、という話ですね。 あれ? 簡単にまとめ過ぎました? ま、もう少し言えば、特に運命の人、愛する女性と出会ったとしても、何しろ二人の時間は逆に進んでいきますから、なかなかうまいこと二人がフィットすることがないわけ。最初は老人と少女として出会ったものが、やがて初老の男性と若さあふれる女性の関係となり、次にようやく両者適齢期となって関係が深まるものの、二人の時間はその後も逆方向に進み続け、やがて少年と中年女性、赤ん坊と老女という関係になっていくと。 だから、互いに愛し合っていながら、どうしてもすれ違って行く。その辺がね、まあ、悲しいと。 で、この映画に対するワタクシの評価は・・・ うーん、「65点」かな・・・。残念、見る価値なし、でした。 だって、そんなケッタイなシチュエーション用意しておきながら、それが内容の中で活きているかというと、そうでもないんだもの。段々若返る、というような運命を抱えた人でなくても、普通に生きていたって、やっぱり人は出会った人といつかは死別する運命にあるわけでね。その意味では、バトンだけがどうこうってことにはならんと思うんですよね。 それに、ヒーローとヒロインが互いに愛し合っていながらやたらにすれ違う映画といえば、同じく主人公の名前を冠した『フォレスト・ガンプ』のことが思い浮かびますけど、『ガンプ』の見事なストーリーと比べちゃったら、『バトン』は大分見劣りがしますからね。『ガンプ』って、何度見ても面白いし、泣けるのですが、『バトン』はちょっと・・・。二度見る気がしないです。 また『ガンプ』に「人生はチョコレートの箱」という決め台詞があるように、『バトン』には「人生に永遠なんかない」みたいな決め台詞があり、また『ガンプ』に「鳥の羽」という小道具があるように、『バトン』には「ハチドリ」「逆に回る時計」という小道具があるわけですが、前者がそれらの小道具を実に上手に使いきっているのに対し、後者ではそれらの意味づけが曖昧かつ中途半端で、意味不明。 また二つの映画とも、主人公に南部訛りがあるのですが、ブラピの南部訛り(彼はそれが得意らしくて、『イングロリアス・バスターズ』でも南部訛りのある人物を演じてましたが・・・)と比べると、トム・ハンクスの南部訛りの方がよほど上手いというね。 ということでこの映画、私個人としては、それほど感心もしない映画だったのでありまーす。ケイト・ブランシェットも嫌いだしね。ま、そんなこんなで、『ベンジャミン・バトン』、教授のおすすめはなしよ、のココロだ~!
November 28, 2010
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筋金入りのプリンス・ファンを辞任するワタクシとしたことが、プリンスが新譜を出していたことに気づいていませんでした。『2010』、あわてて購入しましたよ。昨年の3枚組のアルバム、『ロータス・フラワー』から1年にしてもう新譜とは、さすが殿下、相変わらずすごい創作力です。これこれ! ↓ で、昨日から聴き込んでいるのですが、なかなかいいです。このところ殿下が改めて追及している「ミネアポリス・サウンド」が全開。6曲目の「Lavaux」なんか、プリンスっぽくてワタクシは好きかな。 それにしても、この『2010』というCDのジャケットのそっけないこと・・・。紙ジャケットは紙ジャケットなんですけれども、ほとんど素人の自費製作みたいな出来。商業CDで、しかもプリンスほどのビッグ・ネームのCDにして、これほどいい加減なジャケットは見たことないです。プリンスはCDを売ることに、もはや完全に興味を失っていますね。っていうか、大手レコード会社と契約して、版権をとられるのが嫌なので、素人と同様の自費製作方式でやって行こうということなのかな。 ま、とにかくこの『2010』、気負いなく気軽に殿下のサウンドが楽しめるということで、おすすめです。プリンス・ファンならずとも、是非! ところで、今日はこれから長谷川穂積選手のタイトル戦ですね。格闘技ファンのワタクシとしては、もちろんテレビの前にかじりついて応援する予定。階級を上げての初チャレンジ、頑張ってもらいたいです。頑張れ、長谷川選手!
November 26, 2010
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このところ「ショウガ入り紅茶」をよく飲むのですけど、いいですよ、これ! 作り方は簡単、普通に紅茶を入れ、そこにショウガのすったものを適量入れる。で、これに砂糖などで少し甘みをつける。それだけ。 ま、本当はその都度ショウガをすりおろせばいいのでしょうけど、それだとちょっと面倒臭いですから、私はチューブ入りで間に合わせています。なるべく添加剤などの入ってないものを選んでますけどね。 で、これがね、温まるのよ。身体が。ポカポカと。それにショウガって、デトックス効果もあるらしいですし。 最初は夕食後のウォーキングの直前に飲んでいたのですけど、気に入ったので、最近では朝一番の紅茶とかもショウガ入り紅茶にしています。すると、朝からちょっとテンションが上がるような気が。ま、気分の問題かもしれませんけど。 それにしても、不思議なもんですよね。特定の植物の根っこに、そんな薬効があるなんて。ま、漢方なんてみんなそうですけど。また、その薬効を探し当てた人間もえらい。そういうのを「知恵」っていうんでしょうね。 今、身の回りに「知恵」を感じないことが多いので、こういう昔からの知恵に、なんかすっごく感銘を受けますなあ。 とにかく、ミルクティーやレモンティーばかりでなく、ショウガ入り紅茶、ぜひお試しを! 冬には、もってこいですよ!
November 25, 2010
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北朝鮮による白昼の砲撃、その映像はすぐに世界中に配信されましたね? ま、それが普通でしょう。 で、例の尖閣諸島沖の中国漁船体当たり映像、あれは何で秘密にして隠す必要があったのか・・・。私にはまったく分かりません。どなたか、二つの事例の違いを教えて下さいな。 それはともかく。 今日は何だか頭にくることが多かったなあ・・・。 特に頭にきたのは、大学出版会担当理事の言い草。 うちの大学の出版会が出した本が売れていなくて、在庫が溜まって仕方がないので、在庫処分のためにあちこちに無償配布していいか、と、出版会から本を出している著者宛に問い合わせてきやがって。 ま、確かにうちの出版会、私の本を含めた少数の例外以外、売れてません。それは事実。だけど、それはうちの出版会が取次会社やアマゾンと契約してくれないからで、そりゃ、一般の本屋さんで売ってない本が売れますかって。 おまけに、出版会のおかげで大学は重大な損害を被っているみたいなことをほのめかしてくる。ふざけるなって。 うちの大学出版会は、基本的に自費出版なので、執筆者自身が出版費の負担をしているんです。だから、その点で大学には一銭の迷惑もかけてない。 それでいて、その出版物が一部でも売れると、売れた本の定価の42.5%を大学が持って行ってしまうんです。42.5%ですよ。ほとんど半分だ。 ま、そんなですから、出版会の設立以来数年にして、大学は350万円くらいの利益を挙げているんです。それなのに「運営面から憂慮すべき事態」だとか言うのですから、頭にくるというもんじゃないですか。 というわけで、もちろん私は一執筆者として、大学側に猛抗議。 はあ~。 まったく、アホなのは文科省だけでなく、大学当局も相当なアホだね、まったく・・・。
November 24, 2010
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毎年この時期に人間ドックを受診しているのですが、今年も来週の火曜日に受診に行くことになっておりまして、つまり、人間ドックまで後、1週間となったわけ。 で、私、今年の人間ドックには、心ひそかに賭けるものがありまして。 ま、実は私、こう見えて満身創痍でございまして、心臓は悪い、腎臓は悪い、肝臓は脂肪肝気味、と、不健康この上ない。人間ドックでも、毎年ひどい数値が出て、再検査が目白押しになる。 しかし、先天的に悪い心臓と腎臓はともかくも、明らかに運動不足が原因の「脂肪肝」くらいは何とかしたいじゃないですか! で、今年ですよ。 このブログをお読みの方はご存知の通り、今年の私は例年とはちょいと違います。少なくとも運動という点については、去年までとは大違い。何しろ柔術の道場に毎週通って汗を流していますし、柔術の上達を期す意味もあって、日々、腕立て・腹筋などを鍛えています。 しかも、それらに加えてですよ、八光流が薦める「護身体操」も日々熱心に続けておりますからね。これは相当なもんだ。 で、かてて加えて、このところ脂肪肝の改善にいいと言われる「タウリン」や「オルニチン」もサプリ等の形で継続的に摂取しております。あ、それから体脂肪全般の消費を促す「ヴァーム」もね。 ということで、これだけやっているんだから、今年の人間ドック、きっと去年までとは異なる結果が出るだろうと、私が期待するのも無理はないでしょう? でね、これら一連の努力にさらに加えてですよ、人間ドックまであと1週間に迫った今日から、夕食後のウォーキングもやっちゃおうかな、と。 これ、夕食直後というのがミソらしくて、お腹が食事で膨れていると、身体の方も油断して、同じ運動をしても空腹時よりも余計にじゃんじゃんカロリーを消費するらしいんですね。ボーナスが入ったりすると、ついつい財布の紐が緩むのと同じで。 で、そのカロリー消費をさらに促進すべく、ウォーキング前にショウガ入り紅茶まで飲んじゃうというね。 実際やってみると、なかなかいい感じです。ショウガの効果もあるのか、歩き始めて10分もすると身体がポカポカしてきて、外の寒さが気にならなくなってきます。あ、もちろん、この間ユニクロで買った「ウルトラライト・ダウンジャケット」のせいもありますが。 そして、極めつけ! 今日は白元が出している『汗だしショウガ』ってすごい名前の入浴剤を入れた風呂にも入っちゃうという。もう、ショウガの波状攻撃ですわ。これこれ! ↓ゆったり温浴、たっぷり汗だしショウガ成分(保湿成分)配合でHOTな湯上り!汗だしショウガ 450...価格:418円(税込、送料別) ま、これだけ八方手を尽くせばね、なーんか変化はあるでしょう。いや、あってほしい。あって下さい。お願い、あって! というわけで、来週に迫った人間ドックに照準をあわせ、準備万端なワタクシなのでありました、とさ。
November 23, 2010
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別に何か理由があるわけでもないのですが、最近、ネクタイを結ぶ時に、セミウィンザーノットにすることがあります。 今、この結び方でネクタイを結んでいる人って、どのくらい居るのでしょうか? たいていはプレーンノットですよね。私自身にしたところで、もう何十年もプレーンノット以外の結び方をしたことがないという。ま、簡単だし、縦に細長い結び目は、スマートに見えますから。 だけど、先日、何となく気が向いて久々にセミウィンザーノットで結んでみたら、ちょっと新鮮で、面白かったもので、このところその日の気分によってプレーンで結んだり、セミウィンザーで結んだりしています。セミウィンザーノットですと、プレーンノットに比べてタイの結び目がちょっと太って横長になるため、繊細なイメージは薄れる一方、左右均等の形となり、しかも結び目に一切しわが寄らず、ピンと張ったような状態になるので、ネクタイの生地の美しさは強調されます。 私は、こう見えてネクタイ歴は長くて、なんとなれば、私の通っていた小学校は「紳士たれ」が校是のひとつでしたから、制服もネクタイ着用だったんです。だから、本当に子供の時から、朝、ネクタイを締めて学校に行っていたわけ。 で、私はその頃からプレーンノット派でしたけど、友達の中には(セミ)ウィンザーノット派が結構いました。割合から言うと、プレーン対ウィンザーが6対4位だったかしら。 ではなぜウィンザーノット派がそれなりにいたかというと、おそらく、当時の日本のサラリーマンの中にこの方法でネクタイを結ぶ人が今より多くて、それで父親からネクタイの結び方を伝授された子供も、当然、その結び方を継承することになった、ということではないかと。 あともう一つ、(セミ)ウィンザーノットノットで結ぶと、ネクタイを外す時、結び目がほどけない、というところも、子供にとってはメリットが多かった。というのも、とりあえず結び目をほどかないでループだけ緩めてネクタイを外し、翌朝は前の日に結んだまんまのネクタイを簡単装着出来るからです。要するに、無精できたわけ。ま、子供ですからね、毎日改めてネクタイを締めるのがまどろっこしかったのでしょう。 もっとも「無精者にはウィンザーノット」というのは、大人の世界でも結構あるのか、アメリカ映画『セヴン』の中で、服装にうるさい年長の刑事を演じたモーガン・フリーマンはプレーンノット、服装に無精な若手刑事を演じたブラット・ピットはセミウィンザーノットでネクタイを締めていました。ネクタイの締め方で、二人の性格を描き分けたわけですね。 ま、それはともかく、最初にも言いましたが、ずーっと長いことプレーンノットでネクタイを結ぶのを当たり前のように繰り返してきた中で、その習慣をちょっと変えてみると、思いのほか新鮮な感じがするもんです。結構、いいもんですよ。 どうでしょう、これをお読みの御同輩。たまには昭和レトロな感じで、(セミ)ウィンザーノットでネクタイを結んでみませんか。教授のおすすめ!です。なんかこう、たとえば田宮二郎とか、天知茂とか、そんな辺りの俳優さんたちの背広姿(スーツ姿ではなく)とダブって見えてきたりして、かなり楽しめますぞ!これこれ! ↓ネクタイの各種結び方
November 22, 2010
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今日は私が通っている柔術の道場で、「昇段演武」というのがありまして、私も見学がてら参加してきました。 昇段演武というのは、段位をとる人、あるいは昇段する人の試験みたいなもので、あらかじめ受験することが決められた昇段候補者が皆伝師範の前で技を披露し、それが正しい技の形になっているかどうかを見てもらって、合格であれば段が与えられる、あるいは昇段する、ということなんです。試験でもあり、一種の儀式でもある、という感じでしょうか。 で、私もいずれこれを受けることになるので、その前に、一連の試験・儀式がどんなふうに行われるのか、一度見ておこうと思いましてね。 で、今回、私の兄弟子たちのうち、3人が演武にチャレンジしたのですが、それぞれ座技3種、立技3種を披露、無事3人とも合格と相成り、めでたく昇段を果たしました。演武では、昇段候補者の技を受けるのは師範ではなく、その代理の方(上段者)ですが、何しろ3人の候補者から立て続けに技を受け続けるわけですから、最後の方は相当きつかったみたいですけどね。 それにしても昇段演武、和やかな中にも緊張感があり、見ているだけで気の引き締まるものでしたなあ。 そして最後に、師範からめでたく昇段した3人に対し、段位の授与と共に講話が与えられまして。曰く、段位というのは、決して「技の完成」を認めたことの証ではなく、一応、技の形を覚えたことを認めただけのことであって、これで卒業ということではまったくない。これからも慢心することなく、日々精進するように、と。 傍でその講話を聞いている私も、精進を心に誓いました。 で、その後は普通に稽古をしていたのですけど、稽古の終わりがけに師範から「釈迦楽さんも、来春くらいですかね~」と一言。 おー、そうすか! 頑張りますっ! ということで、今日は朝から気合いを注入された私だったのであります。今日も、いい日だ!
November 21, 2010
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レンタルDVDで映画『96時間』を観ました。以下、ネタばれ注意です。 この映画、『シンドラーのリスト』で名を馳せた俳優、リーアム・ニーソンを主演に据えたアクション映画なんですが、温顔のニーソンを敢えて使ってのアクション映画ということで、ちょっと話題になりました。 で、どんなストーリーかと申しますと、リーアム・ニーソン演じるブライアンは元CIAエージェントなんですが、そんな仕事柄、現役の時は家を留守にすることも多く、結局結婚生活は破綻。妻のレノアは大金持ちのスチュアートと再婚し、娘のキムは17歳の我がまま娘として何不自由なく暮らす身分なのに対し、ブライアンはしがない男やもめとしてしょぼい生活をしている。今のブライアンの望みは、ただ最愛の娘との関係修復を願うだけ、という状態。 そんなある日、キムは女友達と一緒にパリに遊びに行くことになり、未成年だけでの旅ゆえ、親の承諾が必要となり、キムにねだられてブライアンは不承不承、このパリ行きを許可すると。 ところが、ブライアンの心配した通り、パリに着いたキムは、現地で若い娘の人身売買を行っているアルバニア系のならず者たちに誘拐されてしまうわけ。で、それを知ったブライアンは、単身パリに乗り込み、CIA時代のコネなども強引に活用しながら、娘をさらった男たちを次々に片づけていき、最終的にその背後にいるマフィアにも立ち向かっていく、と。このマフィアの通常のやり方だと、さらわれた娘たちは96時間に救い出さないと、もはや手の届かないところまで連れていかれてしまうというのですが、さて、年をとって体力的な衰えが隠せない元CIAエージェントのブライアンは、果たして娘の奪還に成功するのか?! ってな話です。 で、この映画に対するワタクシの評価はと言いますと・・・ 「67点」でーす! 見る価値なーし・・・、うーん、でもないかな。ちょい微妙。 あのですね、この映画の何が悪いかと言いますと、とにかく娘のキムがまるで魅力がない、というところ。17歳といえば、もういい年なのに、何だか子供のように情緒不安定だし、外国で知らない男に声をかけられて、ほいほいついて行ってしまうというところからして馬鹿丸出し。この映画は、父親が最愛の娘を必死で助けるところが見所なのに、肝心の娘があまりにも魅力が無さ過ぎて、見ていて「いやあ、こんな娘、助ける価値ないよ。お父さん、そんな無理しなさんな・・・」と言いたくなってしまう。でまた、元妻であるレノアというのが、娘同様、えらく魅力のない人で、しかもその再婚相手の男も全く頼りにならない感じ。 しかも、キムが誘拐されるまでのシークエンスも、あんまりリアリティがないんだなあ。そもそも先進国の若い娘を誘拐して売春をさせる人身売買の組織があるなんてこと自体、リアリティがないし。いくらマフィアだって、今時、そんな危ない橋は渡らないでしょう。 つまり、存在するはずのない組織を相手に、救出する価値のない娘を助け出す、という映画なので、アクションを支える枠組みがすごく弱いわけ。ただ、ブライアンのアクションだけが面白いというね。それだけの映画。すべてリーアム・ニーソン頼みの映画であって、彼の孤軍奮闘になっちゃうんですよね。で、その孤軍奮闘だけを見れば、73点くらいはあげてもいいのですけど、その他の部分が足を引っ張って、見る価値なしの不合格映画になっちゃったという感じ。そういう意味で、厳しい評価になってしまいましたけど、頑張ったリーアム・ニーソンには申し訳ないな、と思うところはあります。その辺、私の苦しいところを察して下さい。 それにしても、リュック・ベッソンがプロデュースした映画って、いつもそういう傾向がありますなあ。中心となる話の筋立て(『96時間』の場合ですと、元CIAエージェントのしょぼい男が、娘を助けるために孤軍奮闘する、という部分)は面白いのだけど、そのストーリーを成り立たせるための脇筋の構成がものすごく下手、みたいな。そういう欠陥があるために、どうも彼の映画って「色モノ」っぽくなっちゃうんですよね。ま、『レオン』だけは、まあまあだけど。 その点、あれかな、同じ「色モノ」系監督であるクエンティン・タランティーノだと、むしろ脇筋の方をマニアックなまでに追及するところがあって、そこが面白いところなんですけどね。タランティーノの場合、むしろ細部を積み重ねることで全体が出来上がって行く、という感じかな。いずれにせよ、タランティーノの『イングロリアス・バスターズ』と、リュック・ベッソンの『96時間』、両者を比べると、「大分差がついたな」という気がします。 ま、とにかく、リーアム・ニーソンには悪いけれど、『96時間』という映画、ちょっとおすすめはできないかな、というところでございます。
November 20, 2010
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同僚の「伯父貴」ことO教授と「兄貴」ことK教授、それにワタクシの3人で「ザ・教授~ず」というユニットを組んでおりまして、よくこの3人で茶話会を開いてはくっちゃべっているのですけど、今日は雑談がたまたま「来世はあるか」ということに及びまして。 ちなみにK教授は強烈な来世信奉者で、魂の不滅を本当に信じているんですな。だから先生は死ぬのも、全然怖くない。また何か別な人に生まれ変わるだけだと思っていらっしゃるので。 実はK教授には、非常に霊感の強い奥様がいらして、人の霊魂も見えるし、前世も見えてしまうんです。昨年、K教授の御尊父様が亡くなった時にも、その魂がK教授の書斎に挨拶にいらしたのを見たのだそうで。それに、奥様によると、K教授と奥様とお嬢さんは、前世でも縁で結ばれていたんですって。ま、確かにそんな奥様がいらっしゃれば、魂の不滅を信じるようにもなりますわなあ。 で、その話に触発された伯父貴ことO教授、「そう言えば僕にも原風景があるよ」と乗ってきまして。それによると、先生は何か低い山並みに囲まれた盆地のような風景を見たりすると、その都度、強烈な既視感にとらわれてハッとするんですと。で、このことをK教授の説に沿って解釈すれば、おそらく、O先生は前世でそういう風景の場所に住んでいらしたのでしょう。ふうむ、なるほど。 となると、私も告白しなければなりませんが、実はワタクシも自分の前世の記憶がありまして。時は江戸時代、私は大きな商家の跡取り息子か何かでしてね、店の用事で京都に向かうのですが、その途中、箱根の関のあたりで強盗に襲われて命を落とすんです。その時、「ああ、俺がここで死んだら、家はどうなる・・・」と強烈な無念の思いに身もだえしたことをよく覚えております。 つまり、ザ・教授~ずのメンバー全員、実は密かに輪廻転生の信奉者だったという・・・。 で、霊魂不滅説の権威であるK教授によると、結局魂は、安住の地に安らぐ前に何回か生まれ変わって修行をするというのですな。で、その過程で他の人と縁が出来たりすると、来世でもまた別な形でその人との間に関係が生まれると。 で、生まれ変わっているうちに、たまにすごく厳しい人生を送る羽目にもなるのですが、その苦しみを嫌がって自殺しちゃったりすると、もう一度生まれ変わって、その同じ苦しもをもう一度、最初から味わわなければならないんですって。だから、自殺なんかするもんじゃないと。 と、そんなK教授の説をふんふんと頷きながら聞いていたO教授、「うーん、自殺を思いとどまらせるための言説の中で、今のが一番説得力があるなあ!」なんて、妙に感心したりなんかして。 で、そんな話の流れの中で、「じゃあ、来世では何になりたいか」ということになったのですが、他のお二人が別に何でもいいと思っているのに対し、私には実はなりたいものがありましてね。それは何かというと、 高圧電線の鉄塔です。あれは大きくて、すごくいいと思う。逆になりたくないのは「豆電球」なんですが。 で、現世で「ザ・教授~ず」を組んでいるくらいですから、おそらくO教授とK教授とワタクシは、来世でもまた何らかの縁で結ばれるのでしょうけど、ひょっとするとお二人の来世での家の近くにワタクシが鉄塔として立っていて、お二人の家に電気を供給しているかも知れません。だからお二人とも、もし何となく親しみのある鉄塔が家の近くにあったら、それ僕ですから! というようなオチがついたところで茶話会終了~。 ま、ザ・教授~ずの茶話会って、いつもこんな感じです。今日もいい日だ、ってことですかね。
November 19, 2010
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私の場合、世間と意見が合わないなと思うことがよくあるのですが、こと「英語教育」に関してもそうでして。 私はそもそも専門が文学研究ですので、英語教育というものにはほとんど興味がないのですが、しかし、英語教育を研究している人たちに対して不満だけは沢山ある。つまり、どうしてあの人たちは「英語学習の最善の方法は何か」、ということを確立しないのか、ということに対する不満ですね。明治維新以来、もう百数十年も日本人と英語の付き合いはあるのに、まだ「この手順で勉強すれば、英語ができるようになる」という方法を一つも確立していないのは、英語教育研究者の怠慢以外の何物でもないのではないかと、そう思っているわけ。 その不満が募るあまり、三年ほど前のことですが、専門でもないのに英語の教則本を書いてしまったことすらあります。これは「ベーシック・イングリッシュ」という概念を日本人向けに解釈し直したもので、私は外国人が英語を勉強するのだったら、この方法が一番いいと思っているので、それを積極的に推したわけですね。 でも、自分で書いてみて非常に勉強になったことは事実。つまり、教則本を書くとですね、そこに自分の英語学習に対するスタンスがものすごく鮮明に表れるんですね。ああ、自分は英語というものを、こういう風にとらえているんだな、と。 で、そんな自らの経験を踏まえまして、また今年、大学院の授業で英語教育を専門に勉強している人たちのクラスを担当することになったのを機に、その人たちに向かって「自分で『これが最善の方法論だ』と思う英語の教則本を作ってみなさい」という宿題を出したわけ。一度それをやると、自分の「英語哲学」がよくわかるから、と。 ところがね、私にはこれ以上明確なものはないだろうと思われるこの私の指示が、院生たちにはどういうわけか通じないんですな。 私が、「既存の英語教育のスタイルとか、指導要領なんかのことは考えなくていい。とにかく、自分で『この方法でやれば、英語を習得できる』と信じる方法を、ひとつ作ってみなさい」と言っているのに、どうしても既成の枠にとらわれてしまって、そこから飛び出すことができないようなんです。 私としては、それが英語学習の最善の方法だと思うのであれば、英語学習を始めたばかりの中学生向けの教則本の第一行目に「まずは以下に示す二万語の英単語を1か月以内にすべて暗記しなさい」という指示を出したっていいと思っていて、その場合、重要なのはその二万語の選択だと思っているですけど、そういう教則本を書こうとする院生は一人もいない。 じゃあ、彼女らがどんな教則本を書くつもりかというと、たとえば「最初から文字を導入すると、英語嫌いになる生徒が出てくるから、最初は文字を一切使わない」とか、そういう方針で行く、というのです。あるいは「英語学習には動機づけが重要だから、料理を作るという課題を与え、その目的の達成のためには英語で書かれたレシピを読まなければならないというシチュエーションを作り、実際に料理を作りながら楽しく英語学習をさせる」とか。 あるいは、小学生向けの英語教則本を書く、という目標を立てたある院生は、とにかく最初は英語の歌を歌ったり、自己紹介をしたりする、というプランを立て、しかも文字は一切使わない、という方針で行くそうで・・・。 で、そんなプランを聞かされた私が仰天して、そんな生易しい方法で英語が習得できると思っているの? と問うと、いや、生徒たちが一般に持っている英語学習への抵抗を減らすためには、こういうのが一番いいんじゃないかと思うのですが、ってなことを言う。 そこで私が、「いや、そもそも外国語を学ぶということはすごくキツイことなんだから、抵抗を減らすとか、そんなこと言っている暇ないでしょう?」と問うのですけれど、「英語教育」を専門に勉強している彼女たちには、私の言うことはさっぱり通じないわけ。相変わらず、「5時間かけて、英語のレシピ通りに料理を作る」なんて言っている。 私に言わせれば、英語のレシピで料理を作ったり、英語の歌を歌ったりすることは、英語学習でもなんでもない。ただの娯楽です。そんなの英語を勉強する最善の方法では絶対にないと思う。だけど、私のその意見は、どうしても彼女たちには伝わらないんだなぁ・・・。 で、そんな院生たちと激論を交わしながら私が遅まきながら気付いたことは、ですね、日本の英語教育の研究者たち、およびその卵たちが日夜研究していることは、「如何にしたら英語ができるようになるか」ではまったくない、ということです。彼らはそういうことを研究しているのではない。 彼らが研究しているのは、「英語学習者(初学者)が、いかに英語嫌いにならないようにさせるか」だったんです。 だから、いきなり文字を教えたらダメだ、とか、文法を教えたら英語が嫌いになる子が出てくるから、とりあえずそれは避けよう、とか、とりあえずは歌を歌おうとか、料理を作ろうとか、そういう発想になるんですな。 どんな茨の道でもいい、とにかく英語ってのは、どうやれば身につくのか。英語教育の研究者たちが作る「世間」には、どうやらワタクシのこのシンプルな問いは、届かないらしいのでございます。
November 18, 2010
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裁判員制度始って以来の死刑判決が出たそうで。ま、被告が行なった想像を絶する残忍な殺害行為に対しては、妥当な判決と思いますが。 しかし、私が妥当じゃないと思うのは、当該の裁判を仕切った朝山芳史裁判長の言動です。死刑を言い渡した被告に、控訴を勧めたんですって? こりゃまた一体、どういうことなんでしょうか。 「裁判員たちはみんな素人揃いだからこんな判決にしちゃったけど、控訴すれば無期懲役位には減刑されるかもしれないし、とりあえずやってみたら?」ということなんでしょうか? もしそうだとしたら、嫌な思いをして重責を担った当該裁判員の皆さんに対して失礼千万という他ないではないですか。 そうではなくて、彼は被告に控訴を勧めることで、死刑判決を出した裁判員たちの心の負担を軽減しようとしたのであって、これはむしろ裁判員たちの心の声を朝山氏が代弁したのだ、という見方もあるようで、新聞にもそう書いてありましたが、仮にそうだとすると、私に言わせれば、それは死刑判決を受けた被告に対して失礼千万ですよ。だってその場合、被告に対して「自信はないけど、とりあえずここでは死刑にしておくから。ま、後は好きなようにして」と告げたようなもんじゃないですか。そんな風にいい加減な態度で人に死刑を宣告すべきではないと思う。「あなたのやったことに対しては、死刑しかないんです」という確固とした信念をもって言い渡さなきゃ。 だから、朝山芳史氏の言動は、人を裁く者の物言いとして、非常に不適切だと私は思うのですが、読者諸賢のお考えや如何に? 一方、今回の判決に対する被告弁護側の見解というのも、私には理解できないんだなあ。曰く、今回の判決は「被害者の命日にお参りしたい」とまで言っている被告の反省と更生の可能性を汲まないものであるから不当である、というのですが・・・。 私思うに、裁判というのは、今、犯人がどう思っているか、どう反省しているか、これからどういう反省の日々を過ごそうと思っているか、を裁くものではなく、犯行時に何をどういうつもりでやったか、を裁くものなのではないかと。したがって、被告が現在とか未来にどう反省・更生するか、なんてことは、倫理上評価するとしても、裁判の場では情状酌量の対象にはならないのではないかと。 たとえば悪い奴が居て、こいつがもうすぐ結婚を控えた幸せいっぱいの若い女性を誘拐し、身勝手な欲望からレイプして惨殺し、犯行を隠すために死体をバラバラにして捨てたとする。で、その後、自分の行動を心の底からつくづく反省し、更生を誓っているとする。この場合、私はこの悪い奴に情状酌量の余地はないのではないかと愚考します。 一方、仮にこの悪い奴が結局無期懲役で済んで、10年ぐらい服役した後、娑婆に出てきたとする。で、それを先ほどの殺された娘さんのお父さんがとっ捕まえて、「娘の仇だ!」とか言って殺しちゃったとする。で、裁判になって、このお父さんが、「自分のやったことを全然反省していません。むしろ誇りに思います。もし同じような事態が今後再びわが身に起こったとしたら、何度でも同じことをします」と言ったとする。つまり全然反省してないし、ある意味、再犯のおそれもあるわけね。しかしこの場合、私はこのお父さんの行為には情状酌量の余地があると思います。 要するに、犯行後に反省するかしないかではなく、犯行当時の行動に情状酌量の余地があるかどうかを裁判は判断すべきなのではないかと、私は思うわけ。 しかし、多分、世論は私の意見の逆を真とするんだろうな・・・。反省し、更生しようとしている人を厳罰に処するというのは、日本人一般の感性に合わないのでしょうから。 ま、たまたま今日、こういうニュースがあったので、この話題を取り上げましたけれど、実は最近、別な件で、自分の意見と世間の意見の間にはやたらに深いギャップがあるなと思うことがありましてね。それについては、また後日書きますわ。
November 17, 2010
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40年近くにわたって日本のモータリゼーションの発展に寄与してきたホンダの名車、シビックがついに生産終了になるとのこと。 バイクで世界にその名を知らしめた後、まずは軽自動車で4輪の世界に進出、その後満を持して本格ファミリー・カーの市場に殴り込みをかけた時、ホンダの命運を背負って登場したのがこのシビック。そのずんぐりむっくりとしたハッチバック形式の愛嬌のあるスタイルは、トヨタ・カローラや日産サニーのようなセダンタイプのファミリー・カーとはまた一線を画した、新しい車の形を提示していたと思います。 でまた、登場してきたのが日本の高度経済成長期とバッチリ重なっていたこともあって、初めての愛車にシビックを選んだ人も多かったのではないでしょうか。そう言えば私が中学生の頃、当時20代、30代だった若手の先生方が競ってシビックを買ったため、学校の駐車場における「シビック率」が異常に高かったことを覚えています。あの頃、先生方は得意になってシビックを乗り回しておりましたなあ。あれはたしかシビックが2代目にモデルチェンジした頃で、ちょっと年上の先生方は、シビックよりも少し高級な上級車種として投入されたアコードを買って、若手に差をつけたものでした。 それに、シビックはエンジン内部に小さな副燃焼室を設け、そこだけ濃い燃料を噴射する形で実質リーンバーンを実現した「CVCC」という画期的なシステムを採用し、当時世界一厳しいと言われたカリフォルニア州の排ガス規制をクリアするなど、ホンダの「エンジン屋」としての技術力の高さも見せつけたハイテク・カーでもあったのでした。 そして「ワンダー・シビック」の愛称で知られた3代目シビックが登場した時の衝撃ね。あの頃はホンダ・デザインが絶好調だった頃で、世界のどこにも類を見ないようなそのスッキリとした造形の美しかったこと。またワンダー・シビックの発展形として誕生したバラード・スポーツCR-Xも素晴らしいデザインでした。この両車は、日本のカー・デザインの歴史の中でもベスト10に入るのではないでしょうか。 しかし、その後、シビックは長くホンダの屋台骨を支えたとは言え、そのことが逆に足を引っ張ったというべきか、デザインの点からは冒険性が消えて行った。そしてスポーツ性能に磨きをかけた「Type R」が車好きの心をくすぐったとはいえ、ミニバン・ブームやエコカー・ブームの影響をまともにくらって影の薄い車種となっていったことは否めず、さらにホンダの新たな稼ぎ頭となったフィット、そしてインサイトの登場によって、ホンダの入門車種としての存在意義自体が無くなってしまった。生産終了は時間の問題でした。 それにしても懐かしいクルマの名前が消えるというのは、ちょっと寂しいですなあ。ブルーバードも、サニーも、シルビアも、コロナも、カリーナも、べレットも、ジェミニも、シティも、みーんな無くなってしまった。そしてついにシビックも。 世界中で300万台も売れたクルマが生産終了になるのは、クルマの歴史の中では大事件。日本のモータリゼーション発展の一翼を担ったホンダ・シビックに、「お疲れ様、よく頑張ったね」の一言をかけてあげたいワタクシなのであります。合掌。
November 16, 2010
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またかよ、好きだねぇ、と言われそうですけど、先日古書として買った池田満寿夫の講演集『そこで夢はかなえられる (副題)人生の時を大切に アートに話そう』(青春出版社:1994年刊)を読了しました。 一昨日、このブログに記した同じ池田満寿夫の『親しい友への手紙』と比べると、こちらはぐっとレベルが落ちる。これ、池田さんが全国各地を講演して回った時のテープを起こして、それを原稿にまとめたものらしいのですけど、一般の方を対象にした講演会ということもあって、専門的な話はもちろん避けているようですし、市井のおっちゃん、おばさんが30分間聴いて飽きない程度の俗っぽい内容です。ですから、私のように池田満寿夫のエッセイ集をすべて読破することを決意している人間は別として、この本を敢えて古本で探してまで買ったり読んだりする必要はないと思います。 しかし、この本を読みながら思ったのですけど、どうしてこういう「講演」というものが成立するのかな、と。それは実に不思議です。 池田満寿夫と言えば、絵描きの中では断トツにTVへの露出の多い人でしたし、色々な意味で有名人だったと思いますが、例えば地方自治体とか、そういうのがその種の「有名人」を呼んで、何か話をしてもらうというような意味での「講演会」なるものは、今でも盛んに行われているのでしょうか? 行われているのだとすると、一体どこで? ま、多分私が知らないだけで、こういう講演会は、今もなお行われているのでしょう。そういう噂だけは、時々耳にしますからね。「芸能人の誰それの講演会は、講演料一回うん十万円だって・・・」なんて。 でも、池田満寿夫のこの講演録を読めば分かりますが、池田満寿夫ほどの人ですら、一般人相手の講演なんて、大した内容の話をしていないわけですよ。ましてやちょっと顔が売れた程度の文化人や芸能人なんかの講演ともなれば、ろくなものではないに決まっている。 しかし、それを聴きに行く人がいる、それも沢山いる、ということですよね。そんな高額な講演料が支払われるのだとすれば。それで採算がとれるだけの聴衆がいる、ということですから。それは一体何故なのか。 日本人がとにかく「有名人」というのが好きで、テレビに出ている人が来て話をするというのなら是非聴こう! というようなメンタリティーがあると、まあ、そういうことなんですかねえ。有名人の姿を見る、声を聴くということが主眼であって、話の内容なんぞは二の次、三の次。で、呼ばれた有名人の方も、小一時間ほど適当に話をすれば、しっかり講演料をもらえて、しかも足代・宿泊代にごちそう付きとなれば、行かないわけにはいかん、ということになるのでしょうな。 さて、翻ってわが身を顧みまするに、先月・今月の2ヶ月の間に、3度、講演をさせていただきました。一つは某大学大学院の学会、一つは一般の某学会、一つはつい最近の高校生向け。しかし、この3回とも、自分の専門か、あるいは専門に近い分野で、しかも十分なネタの準備がこちらにあることについて話をした、ということでありまして、自分で言うのもなんですが、どこへ出しても恥ずかしくない内容の話をしたと思います。 が! 実は最近、また別の学会からお誘いを受け、シンポジウムに出てくれと頼まれておりまして。しかし、その内容がですね、「アメリカ文化を学生にどう教えるか」ということについて話をしてくれ、ということらしいんだなあ。 これは昨年出版した、卒論執筆指南書の余波なんですけど、うーん、この話、受けるか、断るか・・・。 アメリカ文化について、最近の学生がほとんど興味を持っておらず、その結果、彼ら・彼女らにアメリカ文化についての知識がまるでない、ということは一般論として、というか事実としてあるのは分かっています。しかし、その事実を改善すべく、私が何か工夫をしていることがあるかといえば、別にないですもんね。もちろんアメリカ文化史の授業を一生懸命やるとか、卒論指導に力を入れるということはありますが、そんなこたぁ誰でもやるのであって、別に私が何か独創的なノウハウを持っているわけではない。 つまり、自信を持って聴衆に向かってお話するだけの、大向こうをうならせるだけのネタがない、わけですよ。 で、これでワタクシが有名人だったりすると、「ネタがあろうが無かろうが引き受ける」ということになるわけですが、そこがね、無名人の悲しいところであり、また無名人の矜持というところでありまして、ネタがないんだから断るべきだろう、という風に思うわけ。 とはいえ、自分の書いた卒論指南書を全国的に宣伝するチャンスでもあるしなあ・・・。なんかネタをひねり出せないもんかしら、なーんて邪悪なことも考えなくもない。 ということで、今のところお返事はペンディング。引き受けるべきか、引き受けざるべきか、それが現在のワタクシにとっての大問題なのでございます。あーん、無名人は辛いよ~!
November 15, 2010
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ワタクシは「大判焼き」と言われる和菓子、まあ鯛焼きの丸い奴だと思えばいいわけですが、あれが割と好きでありまして、特に秋から冬にかけて、段々寒くなってくる頃になると、あの素朴な味が恋しくなる。 ところで、前に実家に帰っていた時に、某デパートの地下の食品売り場で、何気なく「豆乳クリーム入り」の大判焼きというのを買いましてね。で、これを食べてみたところ、これがもう旨いのなんのって。 ま、小豆のアンコと乳製品の味が合うことは、特に名古屋人にはよく知られているところでありまして、「小倉ネオ」などという菓子パンなどもあるくらいですが、しかし、バターとかクリームチーズとかクリームといった動物性の乳製品ではなく、豆乳で作られたクリームとアンコの味がこれほどまでにマッチするとは、一体誰が予想しえたでありましょうか。 しかし考えてみれば豆乳もアンコも同じ豆製品なのでありまして、そういう意味では同系列。合わないはずがない。 ま、そんな理屈はともかく、抜群に旨いのよ、豆乳クリーム入りの大判焼き。で、それを売っていた店は「十勝大名」という店なんですが、まあ、あちこちのデパ地下なんかで見かける、いわばそこらじゅうにあるお店ですから、今度名古屋でも買おうと思っていたわけ。 ところが。 十勝大名という大判焼きの店、実はそこらじゅうにあるわけではなかったのであります。関東圏に住んでいるとよく見かけるのですが、ネットで調べてみたら、あれは北海道から関東までしか店舗展開していないのだそうで、中部地区以西ではお店自体がない、と。 ひゃー、そうだったの~・・・。 なんか、名古屋では食べられないのだと知った途端、余計に食べたくなってきた。 実は今日、やぼ用で街中に出たので、別な店の大判焼きをお土産に買ってきて、家内と一緒に食べ、それ自体はもちろんおいしかったのですが、うーん、やっぱり一度十勝大名の豆乳クリーム入り大判焼きを食べてしまうとねえ、他のがどうも物足りないような感じがしてしまって・・・。 次にあれが食べられるのは、暮れに実家に帰った時でしょうけど、あー、今すぐ食べたいよー。 というわけで、瞼に残る「十勝大名」の豆乳クリーム入り大判焼き、教授のおすすめ! です。関東地方より北に住んでるみなさーん、食べてみて~!
November 14, 2010
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先日実家に戻っていた際、神保町で買って来た『親しい友への手紙』という本を読了しました。 この本、本業の版画制作に加え、『エーゲ海に捧ぐ』で小説家デビュー、自ら脚本・監督をしてこの小説の映画化も果たし、八面六臂の活躍をしていた頃の池田さんの本。次から次へと舞い込む原稿執筆にてんやわんやだった彼は、毎月、親しい友人に手紙を書く、という体裁で、その友人に語りかける形でさまざまな主題についてエッセイを書く、という趣向を思い付く。この本はそんな趣向の元に書かれた『芸術新潮』での連載をまとめたものです。 この「友人宛の手紙形式」のエッセイについて、池田さん自身、うまいことを考えついたもんだ、と自賛しておりますが、まあ、こういう趣向が実行できるのも、池田さんの交友関係がスゴイからに他なりません。何しろ、手紙の宛先は、ざっと一部を挙げるだけでも「加藤周一宛」「澁澤龍彦宛」「西脇順三郎宛」「吉田秀和宛」「飯田善国宛」「佐藤陽子宛」「堀田善衛宛」「奈良原一高宛」といった感じですから。 で、そんな趣向が功を奏したのか、お手軽に思い付いたエッセイのスタイルの割に、内容はかなり充実しております。 ちょうどこの連載が書かれていた時期は、池田さんが芥川賞を受賞し、それを映画化するというので、当時の生活拠点であったニューヨークと、映画のロケ先のイタリア・ギリシャを行ったり来たりしている時期であり、しばし本業を離れて、映画監督というまったく未知の新しい体験を積み上げつつあった時期に当たります。それだけに、自分のホームである「美術界」をしばし離れ、いわば岡目八目的な立場から、改めて自分がやって来たこと、あるいはライバルのアーチストたちがやっていることを、冷静に見つめ直すことが出来たというところがあるようで、その辺の新たな自覚というのが、非常に興味深く綴られている。 例えばアメリカでは版画家として認められ、日本では『エーゲ海に捧ぐ』のおかげでむしろ「小説家」として非常な有名人になってしまった池田さんですが、映画を撮るためにイタリアに来てみたら、そんな日米における名声なんぞまったく役に立たず、単に得体の知れない無名の人として映画を撮らなければならない、という状況に投げ込まれるわけ。で、そんな中で彼は、「映画界」という世界では、現代美術のことなんかに興味を持っている人なんか一人も居ない、ということに気づくんですね。そして、そんな環境で馬車馬のように働いている中で、彼自身も現代美術への関心を一時失っていく。 いや、失うんじゃないんですね。いわばそこで、池田さん自身もどっぷりと関わって来た現代美術なるものが、一度ふるいにかけられるわけ。で、今まで重要だと思ってきたものの中で、本当は大して重要ではなかったものがどんどん忘れられ、本当に重要なものだけが残る。そういう仕分けが行われたらしいんです。 で、そんな風に一旦現代美術の最先端から離れたおかげで、彼はマチスやモネといったある種の印象派の画家たちの展覧会を、むしろ虚心坦懐に見ることができるようになるんですな。で、今までむしろ嫌いですらあったこれら印象派の画家たちが、如何に現代美術に深い影響を与えていたか、ということについて、池田さんは改めて発見する。特に朝倉響子氏に宛てた手紙の中で語られた、池田さんのモネへの新認識などは、ちょっと感動的ですらあります。 またこの時期は、私生活の点でも池田さんに大変革が起きていた頃で、具体的にはアメリカでのリランとの生活に終止符を打ち、新たに国際的ヴァイオリニストの佐藤陽子さんとの恋愛が始まっていたんですけど、この本には佐藤陽子さん宛の手紙が2通ありまして、最初の手紙の中では池田さんは佐藤さんに「あなた」と呼びかけているのに対し、2度目の手紙の中では「陽子」と直接名前を呼んでいる。こういうところにも、ああ、ここで二人の関係が決定的なものになったんだなということがよく出ていて、ある種快い感銘を受けます。しかし、その一方、佐藤さんとの関係が決定的になったということは、リランとの決別をも意味する(それは同時にそれまで活動の拠点としてきたニューヨークでの生活への決別をも含む)わけで、またゼロから出発しなければならないということへの恐れと、古いものを捨て去ることの爽やかな決意とを共に表明しているような川島猛宛の手紙もまた、実にすばらしい。 またこの本の中にはそれまでずっと世話になってきた南天子画廊の青木治男氏に宛てた手紙もあるのですが、どうやらその後、青木氏との関係が悪化したようで、彼に対する決別を表明する内容のことが、先の川島猛宛の手紙の中に書いてあって、その辺の人間関係の変化も、まあ、これはちょっと俗っぽい興味、という意味ではありますが、面白いことは面白い。 その他、池田さんが同じ版画家の棟方志功を語った海上雅臣宛の手紙なども、(そもそも版画というものをどうとらえているか、あるいは版画が社会的にどういうものとして受け取られているか、ということについて、池田さんがどうとらえているか、も含め)私にはかなり興味深く読めました。 ってなわけで、この本、小品とはいえ、池田さんのエッセイ集の中でもかなり完成度の高いものなのではないかと愚考いたします。池田さんの書いた膨大なエッセイの大半を読んでいるワタクシが言うのですから間違いない。池田満寿夫の『親しい友への手紙』(新潮社)、もちろん今は絶版ですから、古本として探すしかないわけですが、教授の熱烈おすすめ! と申しておきましょう。
November 13, 2010
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今日は研究日だったので、家内を連れてお昼を外食することに。 我々が向かったのは「ヒルズ・ウォーク徳重」というところで、これ、名古屋の郊外に最近オープンしたアピタ系(ピアゴ系?)のショッピングモールなんですが、ここに「サブウェイ」の店舗が入っていると聞き、久しぶりに野菜たっぷりのサブウェイ・サンドでも食べに行こうかなと。 で、サブウェイでお昼を楽しんだ後、どうせここまで来たからには、ショッピング・モールを一回りするかということになり、そのまま買い物モードに突入! で、いきなりユニ・クロに入って、噂のプレミアム・ウルトラライトダウンとか買っちゃったりして。いやあ、確かに206グラムというだけあって、羽織ってみても軽い、軽い。まるで着てないみたい。それでいて結構暖かいし。ダウン・ジャケットというと分厚くてモッコモコなイメージがあったけど、これはその概念を打ち破るものですな。これ、おススメですよ。 その後、あちらこちらの店でちょこちょこ買い物をした後、「カルディ・コーヒー」という店でコナ・コーヒーの「チョコレート・マカダミアナッツ」という奴を購入。そして今日のおやつ用に「アンティーク」というお店で売っていた「トロウィッチ」というケーキ・サンドイッチをゲット。すっかり満足して家路へと向かったのでありました。これこれ! ↓ロイヤルコナブレンドコーヒー チョコマカダミア 198g価格:950円(税込、送料別)Love Sweets ANTIQUEオリジナル新商品TOROWICHまさしくデザート・サンドイッチと呼べる驚きのNE...価格:1,050円(税込、送料別) で、帰宅後早速、コーヒーを淹れ、アンティークのトロウィッチをいただいたのですが、トロウィッチの方は、うーん、まあ普通かな・・・。可もなく不可もなし、というところ。ただ見た目サンドイッチのケーキというところがちょっと面白くはあって、友人の家に持って行くちょっとしたお土産なんかにはいいかも。 一方、カルディコーヒーのチョコレート・マカダミアナッツ、これは美味しかった! 家に居ながらにして本格的なカフェモカ(風味、という意味で、甘くはないですよ)が楽しめます。ケーキにも合うし、教授の熱烈おすすめ! です。 ということで、今日はヒルズ・ウォーク徳重にてちょっとした気分転換をしてきた私なのでありました、とさ。
November 12, 2010
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ここ数年、大学の周辺の高校へ行って「出前授業」をする、というのが一種の流行りでありまして、受験を控えた高校生に対し、「大学での授業ってのは、こんなもんだよ」というのを見せつつ大学の宣伝をする、ということが盛んに行われているのですけど、いよいよ私にもその順番が回って参りまして、今日は高校生相手に1時間半みっちり講義をしてきました。 私が行ったのは「豊田西高校」という、西三河地方屈指の受験校。ここの賢い生徒さんたちが私の講義に触発されて、うちの大学を受験してくれれば言うことなしなんですが。 で、最初頼まれた時は、「いいよ~」ってな感じで軽く受けちゃったんですけど、その後、豊田西高校の先生方とのメールでの打ち合わせをしているうちに、この高校がこのイベントにかなり真剣に取り組んでいらっしゃるんだということがひしひしと感じられてきまして。 さすがに受験校だけあって、今日、このイベントに参加する講師たち(十数人)は、この地域を代表する大学や大学院の教授ばっか。私もそのメンツ一覧を見て魂消ました。それが、それぞれの専門領域の最先端の知識を高校生に披露しようというのですから、相当アカデミックなイベントです。 で、ただ単に大学の先生に来てもらって一回だけ講義をしてもらうというのではなく、高校内部で事前授業というのをやって、それぞれの講師の先生方がどのような話をするかを前提とした準備学習もばっちりしているという・・・。まあ、大変な力の入れようでございます。 で、そんなすごいイベントで、すごいメンツの一人としてお話をする羽目になったワタクシ。若干ビビります。 が、まあね、そこは学会発表などで百戦錬磨のワタクシ。面白い話をして聴衆をひきつけるとなったら、そんじょそこらのヘナチョコには負けない構え。おーよ、一発はったりかまして、豊西高生の度肝を抜いてやろうじゃないの。 ってなわけで、準備万端整えまして、いざ、今日のイベントに臨んだと。 で、聞いてみると、ワタクシの講義だけダントツの人気で、60人以上の生徒が講義室に詰めかけているとのこと。そりゃ、そうでしょう。だってワタクシは「アメリカ映画の見方」という、何ともスカしたタイトルの講義をやると予告しているのに対し、他の講師の先生方は、「コンクリートの発展と機能」とか「ナノ粒子の作成と応用」とか、「タイの仏伝研究」「教育学とは、そもそも何か」といったような、堅い話ばっかりなんですもん。 しかし、ワタクシとて豊西高生を舐めているわけではありません。ぱっと見、入りやすそうなタイトルにしておいて、内容的にはアメリカ文化史とアメリカ映画史をドッキングさせたような、かなりアカデミックな部分にも踏み込みますから。しかも、それを抜群に面白く語る、というね。 で、実際に映画の映像を見せながらの充実の1時間半。講義が終わった時には、60人を超す生徒さんたちの間から「面白いっ!」「すごいっ!」という大歓声が。学習意欲のある受験校の生徒さん達をここまで唸らせれば、まあ、勝ったも同然でしょう。最後にちょっとだけ勤務先の大学の宣伝をして、「ここにいる皆さんは優秀だから、頑張れば東大・京大・阪大、どこでも行けちゃうんでしょうけど、言っておくけど、僕の話はうちの大学でしか聞けないからね」と言うと、生徒さんたちも喜んじゃって拍手喝采。 悪いねえ、他の講師の先生方。豊田西の優秀な受験生、うちの学科が貰って行くよ。 というわけで、今回の出前授業、予想外の大受けに、ワタクシも気分良く凱旋することができたのでした。今日も、いい日だ!
November 11, 2010
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尖閣諸島問題への政府の対応、グダグダですな。件のビデオ問題にしても、そんな恰好な素材があるのに、それを隠すってどういうこと? 「あいつらにこんなことされました~」って、最初から国内外に公開すれば良かったのに。あるいは、隠すなら隠すで、しっかりやればいいのに、相当無防備だったらしいじゃん? まあ、これが逆の立場だったらどうなんざんしょ。日本の漁船があちらの哨戒艇か何かに体当たりして逃げたとして、その一連の動きを写したビデオがあちらの手にあったとしたら、まあ、スゴイことになったでありましょうなあ。それを最大限利用するであろうことはもちろん、あちらの政府がそのビデオを隠すなんてこたぁ、あり得ないでしょうに。 悪いのはビデオを流した奴で、ぶつかってきたあちらの漁船はちっとも悪くない、と言わんばかりの日本政府の対応は、当然のことながらちょっとだけ世論の批判を受けているわけですが、ま、こういうことがあってもじっと我慢の子を通す政府、および横浜や神戸の中華街にデモ隊が押し寄せない日本の民度の高さを誇るべきなのかしらね。 しかし、まあ、そんなことはとりあえず放っておいて。 先日NHKの衛星放送でやっていた『ミス・リトル・サンシャイン』の最後に流れていた曲が割と気に行ったので、ネットで探して買ってしまいました。Sufian Stevens の「The Avalanche」というアルバムなんですが。ジャズ以外のCDを買うのなんて、久しぶりです。 で、このところこれをよく聴くのですが、なかなかいいですよ。繊細なコーラスと、独特のサウンドが。ちなみに『リトル・ミス・サンシャイン』でかかっていたのは、14曲目の「No Man's Land」という曲ですが、アルバムで聴き直してもなかなかよろしい。 残念ながら楽天では売っていないようですけど、アマゾンでは売ってますので、興味のある方は是非。教授のおすすめ!です。
November 10, 2010
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勤務先の大学では、またぞろ組織改革をしようというので、何年か前から検討に検討を重ねておるのですが、先月末、ようやく一応の改革方針を作り上げ、主だった方たちがその案を持って文部科学省にお伺いを立てに行ったらしいんです。「こんなん作るつもりなんですけど、どんなもんでしょうか(御認可いだだけそうでしょうか)?」と と、ここで解説ですが、今ある国立大学っつーのは、一応「独立大学法人」などと称して、文科省から独立した一法人になったようなふりをしていますが、それは表向きだけの話で、実は全然独立なんかしていません。国立大学が完全に独立しちゃうと、文科省としては仕事が無くなるというか、牛耳ったり苛めたりする対象が無くなってしまってつまらないので、そう簡単には手放さないわけ。 だから、何か組織を変えたいとか、そういう場合、いちいち文科省にお伺いを立てるわけですな。と言っても、別に正式に問い質すのではなく、非公式に、文科省の若い下っ端役人のところに行って、卑屈にもおべっかを使いながら、まさに「顔色を窺う」わけ。 そうすると、その30代だか40代だかの若い役人が、非公式に「御託宣」を出すわけですな。非公式に、ですよ。で、またその御託宣というのが、謎かけみたいな言葉、いわゆる「霞ヶ関文学」で発せられるので、それを大学に持ち帰ってから、「文科省にこう言われたけど、これはどういう意味なんだ?」と皆で頭を寄せ合って考えると、そういうアホらしい作業が待っている。 で、今回の御託宣ですが、「改革の理念は素晴らしいが、具体的な部分が見えてこない」とのこと。これが何を意味するかと言いますと、どうやら「こんな案ダメだから、もう一度、ゼロから検討し直していらっしゃい」ということらしい。 はあ~。 いつもそうなんですけど、文科省というお役所には、元来、なーんのヴィジョンもないんです。だから、「こういう風に改革しろ」という方向性はまったく出さない。ただ、個々の大学が、個々に考えた改革案を持って行くと、「こんなのダメ」とか言うわけ。で、ダメと言われた案は、もうまったく意味がないので、それを作るためにかけた時間とか労力はすべて無駄になると。しかし、「じゃあ、どういう風にすれば認可してもらえるんですか?」と詰め寄ると、文科省は「そんなの、自分で考えなさい」と答える。で、仕方なくまたまったく一から、暗中模索の改革案作りが始まる、と。 ところで、今回、「出直していらっしゃい」と門前払いを食ったうちの大学ですが、会見の最後に、文科省の下っ端役人から、「誰もが納得できる改革案を作って下さい。出る杭は打たれますから」と言われたというのですな。 「出る杭は打たれる」。この霞ヶ関文学用語を分かり易く言い直すと、「あんまり派手な改革はするなよ」ということなんでしょう。他の大学のやり方を見て、横並びにやれ、と。 しかし、何とまあ、お役人らしい言い方でありますまいか。「出る杭は打たれる」。きっと文科省はもとより、役人の世界では一般にこの言葉が金言というか、黄金律というか、はたまた不文律というか、浸透しきっているんでしょうな。何でも横並び、ちょっと目立つスタンド・プレーをすると、途端に破滅が待っているぞと。出世したければ、派手なことは慎め、と。地味にやれ、と。こういうことを、これから日本の政治の土台を担うべき若い世代の役人が言うんですからね・・・。 今回の改革に関わっている「伯父貴」ことO教授が、文科省の役人のこの発言を聞いて、「『出る杭は打たれる』か・・・。どうして文科省の役人連中は、『出る杭になって下さい』と言えないのかねえ・・・」と、しみじみ言ってましたけど、まったくその通り。誰かが「出る杭」になって、従来のやり方を大幅に改めるようなことをしない限り、日本の閉塞的な現状なんて打破できないじゃないですか。 まあ、ここでこんなことを愚痴っていても仕方ないのですけど、あまりにも日本的な、あまりにもお役所的な「出る杭は打たれる」の一言に開いた口がふさがらなかったので、ついご報告ということになった次第でございます。
November 9, 2010
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はーい、八ヶ岳から戻ってまいりました~。ということで、とりあえず八ヶ岳の紅葉でもお見せしましょうかね。 エコーラインにてアルファ越しに紅葉を観る ↓ 平地では紅葉はまだまだですが、秋の訪れの早い彼の地では、もう紅葉真っ盛り。カラマツの黄色、ドウダンツツジの赤をはじめ、様々な色合いとグラデーションを見せる紅葉風景は、日本の秋の美しさもなかなか捨てたもんではないわいと思わせるものでした。 ところで、将来的な移住を視野に八ヶ岳南麓に頻繁に出没している私でございますが、今回はですね、現地でちょっと面白い体験をしましたよ。それは何かと申しますと・・・ 馬に乗った。 まあね、馬に乗ったと言ったって、暴れん坊将軍みたいに「パカラッ、パカラッ!」と見事に疾走したわけではなく、単なる「引き馬」体験をした、ということなんですが、小淵沢ってのは乗馬のメッカでありまして、あちこちに馬場を備えた牧場が点在している。そのうちのひとつ、「八ヶ岳ウェスタン牧場」を訪れ、係の若いお姉さんに馬を引いてもらって、しばし馬上の人となったと、こういうわけでございます。 で、こういうところで引き馬に乗っている人っていうのは、大半は家族連れでして、たとえば若いお母さんが小さな子供を前に乗せた状態で馬に二人乗りして、それを引いてもらっているとか、そんな感じ。要するに、子供を遊ばせるためにやっているんですな。あるいは若いお嬢さんが友達と乗馬の体験をしているというのもある。逆に男、しかも中年のいいおっさんが引き馬に乗っているなんて、まあ、珍しい。引き馬を申し込んだ時からして、係の人から「あなたが乗るの?」的な視線を浴びてしまいました。 しかし、人の視線なんて気にしてられまへん。何せ、今年は「今までやったことのないことにチャレンジする年」と決めているんですから、「今まで本物の馬に乗ったことがないから、乗ってみる」という決意をしている私を、誰も止められません。 で、順番が回ってきて、私も生まれて初めて、本物の大きな馬に乗ってみた、と。 私が乗った馬は、「サクラ」ちゃんという名前の雌馬で、北海道の道産子と、フランスの何とかいう種類の馬とのハイブリッド。道産子ほど巨大ではないですけれど、体型的には足の太いどっしり型の、気性の穏やかなお嬢さんです。 しかし、そんな穏やかな馬であっても、やはり生き物の背中に乗るというのはある意味穏やかでないところがあって、はたで見ているよりはるかに大変。とにかく馬の全身の筋肉が動くのに従って前後左右に揺れますから、その動きにいちいち抗っていたら疲れてしまう。だから体幹だけはしゃんとしつつ、他はなるべく脱力して、波に翻弄される小舟のごとくずっとフラフラしていなければならない。その一方、坂道を下るときなどは、若干こちらの体を後ろに反らすようにして、うまくバランスをとらないとこれまたうまくいかない。馬に乗っていた時間はトータルで10分、15分のものだったと思いますが、降りた途端、全身が妙に疲れていることに気付きましたからね。乗馬ってのは、案外、ハードなスポーツというべきでしょう。 で、乗っている間、馬を引いてくれている係のお姉さんと話をしていたのですが、私が「車を運転するのと違って、馬には馬の意思があるから、それと折り合いをつけながら乗るというのは、相当難しいものなのでしょうね?」と問いかけると、お姉さん答えて曰く、「必ずしもそうではない」と。つまり、馬に乗るとなったら、あくまでも乗っている人間の意思で馬をコントロールすることが重要で、馬の意思を少しでも尊重したら、それは非常に危険なことである、というのですな。仮に乗り手が素人の下手っぴいでも、馬の背に乗った以上、その人がボスであることを馬に思い知らせなくてはならない。そこで遠慮なんかしていたら、それこそ危ないと。 ただ、馬が乗り手の思い通りに動いてくれたら、その時はうんと褒めてやる。やさしく声をかけながら、うんと体を撫でてやる。そうやって、馬と乗り手は、少しずつ波長を合わせていくものなのだそうで。 うーん。これは深いね。同じことが、たとえば親子の関係にも当てはまるでしょうし、先生と教え子の関係にも当てはまるかもしれない。「教育」ということの真髄を言い当てているではないですか。いやはや、馬を引いてくれている若いお姉さんに、ひとつ教わりましたよ。 それから、馬というのは大体25年位生きるという話をお姉さんから聞いた私が、「ならば、今、私が馬を買ってそれに乗るとしたら、私の乗馬人生をその馬一頭とともにまっとうできるわけですね」と尋ねると、そのお姉さん、「あら、馬をお買いになるおつもりなんですか?」とカラカラと笑った後、少し真面目な顔になって、「馬を買うというのは、大変なことです。馬だって年をとれば、もう人を乗せられなくなります。しかし、人を乗せられなくなってからも、馬は何年か生きる。だから馬主となったら、その使い物にならなくなった馬が最期の息を引き取るまで、面倒を見なくてはなりません。それができる覚悟がある方でないと、馬を買うというのは難しいのではないでしょうか」と。 うーん、またまた深い! 浮ついた質問をした私は、見事に一本取られましたね! というわけで、短い時間でしたけれど、馬の上で様々なことを教わった一日となったのでした。ほらね! いい大人の男が引き馬なんて、みっともないようなもんだけれど、実際にやってみたら、いくつも収穫があったではないですか。「初めてのことにチャレンジ」すれば、それをしなければ一生知らないで終わってしまう様々なことを学べるんですよ。 ちなみに家内も今回初めて馬に乗る体験をし、すっかり気に入ったようで、これから名古屋の自宅近くの牧場(うちの近くに愛知牧場というのがあるんです)に通って、乗馬のレッスンを受けるのだと張り切っておりますが、どうなることやら。私自身はむしろ、鉄の馬(=バイク)の方が性に合っているような気がしますが、私がバイクの免許を取るのが早いか、家内が乗馬をマスターするのが早いか、これから見もの、というところでしょうかね・・・。
November 8, 2010
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見るともなく、「料理王」選手権(?)をテレビで見てしまいました。 ま、料理ってのは、もちろん食べるのも楽しいですが、作っているのを傍で見ていても、結構面白いものですしね。芸能人の皆さんも達者な人が多くて、それぞれ工夫を凝らした料理を披露していましたし。 ちなみに「料理で対決をする」というのは、あれはかつての人気テレビ番組「料理の鉄人」の大発明でありまして、アメリカではあれそっくりの番組が放送されております。文字通り、「アイアン・シェフ」という番組だったと思いますが、鹿賀丈史さんみたいな感じのアジア系の方が総合司会をされていて、構成から何からもう「料理の鉄人」そのもの。でも、懐かしさもあってつい見ちゃうんですけどね。 で、今回、「料理王」を見ながら、私だったら予選を突破できるだろうか、なんて考えたりして。 とりあえず、決勝の「斬新なカレー対決」になったら、秘伝の「レモンカレー」を出すしかないな、と。これで割と当たり前な「リンゴカレー」を出したグッチ裕三に勝てるでしょう。 「肉じゃが対決」でも、必殺「ひき肉味噌肉じゃが」で小森純ちゃんに勝てそうだ、多分。 自由題だったら、これまた釈迦楽流のパエリアを出す。サラダ系でも負けないと思うのだけど。 ただ、「ご飯を使わないお弁当」ネタで脱落する可能性大。何を作るか、イマイチ思い付かない・・・。 ま、自分、芸能人じゃないですから、そもそも呼ばれないわけですが。 あ! 学会でこれやったら、どうなんだろう? 日本アメリカ文学会の各支部から代表を出して、戦わせるとか。学会後の懇親会でやったら、受けるかな? 中部支部代表・釈迦楽シェフ、みたいな。無粋な学会人の集まりだったら、絶対勝てそうだ。いや、北海道支部とかに案外強豪がいたりして。再来年、中部支部が全国大会の担当支部になるから、提案してみようかな。 さて。 今週末は、ちょっと旅行してまいります。山の上はもう晩秋ですからね。カラマツの黄葉をつかまえられるかどうか、というところですが、また帰宅したら旅の模様をアップしますので、お楽しみに~!
November 5, 2010
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今日は柔術の稽古の日。仕事帰りに汗を流して参りました。 ところで、私が通っている道場は、市が運営しているスポーツ・センターにある体育館の中にある柔道場を借りているのですけど、こういうところに通うようになって発見したことはですね、こういう市のスポーツ施設がいかに有効に使われているか、ということです。 事実、我々が使っている柔道場の階下にある剣道場では、やはりどこかの道場がここの施設を借りて稽古をしているらしく、子供から大人までが剣道の稽古に励んでいる。その他、体育館では新体操のチームが練習をしているようで、小学生から中学生くらいの女の子たちが一生懸命練習しています。 で、外へ出てみますと、広いグラウンドでは大学か社会人か、とにかく陸上の選手やサッカーの選手たちが皆で大きな声を出し合って練習しています。グラウンドの向こうにある別な建物からは和太鼓の音がドンドコ聞こえてきますから、きっとどこかの同好会か何かが、和太鼓の練習をしているのでしょう。 つまり、平日の夜といえども、市のスポーツセンターの施設はことごとく有効活用されているということですな。これは税金で賄われている施設が十分に市民の役に立っているということであり、大変喜ばしいことであるに違いない。 まさか自分がこの年になって、こういう市の施設に通うようになるとは思いませんでしたが、そういうふうになってみて初めて、こういう施設ってのが、決して「箱モノ行政」の産物じゃないということが分かりましたね。いいことでございます。 ・・・それに比べて、うちの大学と来たら・・・。 この時期、図書館関係の予算が余るのか、例えば「共通科目関連の資料の推薦をお願いします」とか、「大学院関連の資料の推薦をお願いします」なんて依頼がくる。それも各講座に20万円とか、そういう単位でくるわけ。「~関連で」という紐付きであるところが、そもそも使い難いところなんですが。 で、買う物があればいいのですが、急に言われたって思い付かないことも多く、そうなると大学に出入りの業者が持ってくるパンフレットか何かを睨みながら、「アメリカの歴史DVD全30巻」みたいなのを買っちゃったりするのよ。で、買って活用するならいいのですけど、結局、授業でも使い道が無くて、書架の肥やしになることが多い。かといって、「うちの講座は今年、その予算いらないです」などと答えると、来年からまったく予算が来なくなるので、やはり言われた額だけは使い切らないといけない。まあ、無駄な話です。 こういうパターン、日本中の大学で行われていると思うので、全部合わせると壮大な無駄遣いですよね。まじ、こういうのも仕分けしないといかんのじゃないかしら。 それにしても市のスポーツ施設の活用され方と、うちの大学の予算の無駄遣いぶりと、同時に知ると、何だかなあ、という気がしますなあ・・・。 ま、とにかく、市のスポーツ施設だけは有効に使われている。そういう気持ちのいい事実を知っただけでも、良しとすべきなんでしょうかね。
November 4, 2010
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今日は結婚(披露宴)記念日でした~! もうあれから11年も経ったのねん。 ということで、久しぶりに11年前の披露宴の時の写真なんかを引っ張り出してきて眺めたのですけど、ひゃー、さすが十年一昔。みんな若いわ。今はそれぞれ社会人と大学生になっている姪と甥なんか、当時はまだほんの子供ですもんね。 で、夜は外食することにして、家内とおめかししてお気に入りのフレンチの名店「プチ・ヴェール」へ。ここへ来るのも久しぶりですが、相変わらずシェフの腕のいいこと。フルコースのどれも皆美味しかったです。 おまけに、結婚記念日であることを知ったオーナー・シェフご夫妻から、記念のケーキまでいただいちゃったりして。お気づかい、ありがとうございます。 で、帰宅してから、昨年の今日、我々よりちょうど10年遅れて結婚した親友のTとしばし電話で歓談。彼は今、九州の門司で働いていて、なかなか会えないものですから、久しぶりに小一時間も話し込んでしまいましたよ。 ということで、今日はとりあえずのんびりと優雅に過ごすことができたのでした。このところ忙しかったので、ちょうどよかったかな~。
November 3, 2010
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先日参加した「朗読・音読」をテーマにした学会で、パネリストのお一人がインターネット上の朗読関連サイトを幾つか紹介して下さったので、今日、そのサイトを覗いてみたのですけど、これがなかなか面白いんです。 私が覗いてみたのは「The New York Review of Books Podcast」というサイトなんですけど、詩人が自作の詩を朗読していたり、ピアニストがショパンのことを語りながらショパンの曲を弾いていたり、本に関わりの深い人が有名作家の作品を論じていたりする。とにかく教養のある人が、教養のあることを語っているというサイトで、それ自体面白いですし、英語のリスニング練習にはぴったりかも。これこれ! ↓The New York Review of Books Podcast というわけで、興味のある方は是非! ま、学会というのは、こういうお土産があると、ちょっと得した気になりますよね。
November 2, 2010
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家内が指の爪にシールみたいなのを貼って、ネイル・アートってんですか? をやっていたのですが、それを見ていたら面白そうだったので、私もやってもらいました。 ま、さすがに派手なのは避けて、小さな白い花を小指に散らしてみた、と。すると・・・ あら、結構、いいかも・・・。自分で言うのもなんですが、可憐です。 そう、私は手の美しさが数少ない自慢のタネでして、指がスンナリと細く、長い。といって無骨ではなく、爪も縦長で、まさに繊細の極致。そこへ白く小さな花がその先端を彩ったのですから、これはもう可憐以外の何物でもありますまい。わっはっは! 中年男がネイル? なんておっしゃいますな。私はこういう点については案外、アヴァンギャルドなのよ。普通、おっさんはネイルなんかしないよ、などと言われれば、余計「上等だ、ならばまず俺がやってやる」という気になります。 むふふ。さーて、私のこのネイル・アートに、果たして誰が最初に気づくでありましょうか。楽しみですな。 今年は「初めてのことにチャレンジする」を目標にしているので、これでまた一つ、「初めてのこと」にチャレンジできたというもの。「冒険は、日常の中に転がっている(by 釈迦楽)」ってね。 御同輩の皆さま、若い女の子たちのデコ・ネイルに「あれでご飯が炊けるのか?」なんて顔をしかめてないで、いっそ思い切って自分の爪もデコって見ませぬか? 案外、面白いものですぞ!
November 1, 2010
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