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この世界はわけがわからないことだらけで、なんとかの法則だのという物理や化学の真理を理解するのも難しいし、人類の歴史の膨大な知識を覚えるのも大変だし、そのうえICTだのフィンテックだのの新しいテクノロジーがどんどん出てきてそれを理解しないと時代についていけなくなる。そもそも知識や理解とはどういうことなのか、なぜ我々は物事の知識や理解が必要なのか考えることにした。●知識と理解の違い知識とは物事を見分けて知ることである。知識を心に留めて覚えることを記憶という。理解とは道理がわかるということで、理解するためには知識がいる。例えば重曹でコンロを磨くと焦げが落ちるのはなぜなのか、クエン酸で水垢がとれるのはなぜなのかという道理を理解するには、酸性とアルカリ性についての化学の知識が必要になる。知識が脳の外部のハードディスクに保存されて複雑な計算をプログラミングやAIがこなすIT時代だからこそ、誰でも検索して手に入れられる知識を知っていることよりも、その知識を基にして物事の仕組みをどれだけ理解しているかのほうがが重要になる。学校の勉強だとたいてい正解がある問題の答えを当てるクイズばかりやるので、正答とされる知識を暗記するだけに注力して、なぜそうなったのかという道理を理解していない高学歴の馬鹿がいる。道理を理解しているなら自分の言葉で説明できるので、理解力を測るには記述問題が適していて、最近は暗記だけが得意な馬鹿をはじくためなのか入試に記述問題が増えたそうな。●知識を持つことのメリットとデメリット〇刺激への閾値が低くなる何かの知識があると、その知識に関連する情報に敏感に反応できるようになる。例えばファッションの知識がある人は髪型やメイクの情報にも反応するし、ボクシングの知識がある人はキックボクシングや総合格闘技の話題にも興味を持つかもしれない。知識が他の知識を呼び込んでいろいろな物事に詳しくなる。〇思考が深まる知識がある人は知識がない人よりも物事を深く考えるようになる。例えば将棋や囲碁の棋士はしばしば長考するけれど、限られた時間の中で深く考えて手筋を読み切るには相手の棋風や過去の棋譜などの予備知識を知っておく必要がある。〇新しい発想が生まれる例えば料理を作るためのレシピの知識と栄養学の知識の両方を知っていれば健康に良くておいしい料理が作れるように、異なる分野の知識があるとシナジー効果がある。しかし時間は有限なので何でも勉強すればよいというものではなくて、どの分野を勉強してシナジー効果を出すのかという学習プランが必要で、自分の仕事に活かせない知識を学習したところであまり役にたたない。例えばタクシーの運転手が分子生物学を勉強してゴルジ体がたんぱく質を運搬する仕組みを理解したところで効率が良いルートを探すアイデアに役に立つわけでもないし、それなら心理学を勉強して客との会話に活かして顧客満足度を上げるほうが仕事の役に立つ。×知識偏重になりかねない数学の法則とかの真理を発見した人は偉いかもしれないけれど、その知識を知っているからといって偉いものでもないのに、難しいことを知っていると頭がよくて偉いんだと勘違いしている人がいる。例えば大学教授や医師のように高学歴で社会的地位が高い人にはパワハラ気質で他人を見下して人格が伴わない人がしばしばいる。あるいは難しいことを勉強をするのが好きなだけで製品やサービスとして社会に還元する気がなかったり、衒学的な机上の空論に終始して現実を見なかったりして、高学歴でもあまり社会の役に立たない人もいる。官僚や裁判官のように知識を偏重する事務職の人は前例主義になりがちで、現実に対応して自分で考えて行動する能力を鍛えないので前例のない未知の事態にうまく対処できなくなる。●知識を持たないことのメリットとデメリット〇無駄なエネルギーを使わずに済む現代では脳よりも大容量で同期がとれて便利なハードディスクが知識の貯蔵庫になっているので、ネットで調べればわかることを全部記憶するのは無駄である。例えば西暦何年に何が起きたのかというのを詳細に暗記しても専門家以外にはあまり意味がないし、何世紀前半にあの出来事が起きたとかを大まかに把握して知識を検索するためのインデックスさえあれば、細部は後から調べて補うことができる。人間の脳は1万年前とたいして変わっていないと思っていたのだけれど、最近勉強したところによると3000年前から脳のサイズが縮小していて、集団認知や分業によって脳のサイズが適した大きさに縮小したという仮説があるそうな。個人の能力が衰えても、分業の協力体制があって社会全体の知識の総和が増えているのは悪いことではない。TEDにスーパーチキン方式についての動画があって、たくさん卵を産むスーパーチキンだけ集めたら他の鶏を攻撃して殺してかえって生産性が落ちて、人間でも優秀な人だけを集めたチームよりも助け合うチームのほうが良い成果が出たそうで、社会が発展するために必ずしも個々人が優秀でなければならないわけではない。×検索できない環境に弱い現代は検索さえできれば百科事典に書いてある程度の知識が瞬時に手に入れられて便利だけれど、逆に言えば大地震で停電した時やスマホが壊れた時とかのネットがつながらない環境に弱い。あるいは検索エンジンのアルゴリズムが変わって探している情報を見つけにくくなったりフェイクニュースとかの間違った情報を表示するようになったら、検索に頼っていた人たちもポンコツになる。パソコンやスマホを使えなくて検索する能力がない高齢者は新聞やテレビの情報を受動的に知ることしかできない情報弱者となって時代から取り残されている。×専門外の分野と連携がとれなくなる社会が分業で成り立っていると言っても、他の業界で何をやっているのか知らないと自分がどこを担当しているのか仕事の全体像が見えなかったり、他の分野とうまく協力できなかったりする。例えばプログラミングの専門知識だけあっても顧客の業界の慣習とかを知らないと顧客の役に立つ業務ソフトは作れないし、顧客もプログラミングの知識がないと相手に何の機能を作ってほしいのか具体的に指示できなくて何度も変更を要請して失敗する。この知識の差はコミュ力や想像力では埋められなくて、専門知識を持った相手を理解するには専門知識がいる。×専門家の不正や間違いに気づかなくなる取引をする人同士の知識が不釣り合いだと、専門知識を持つ側が持たない側を騙してカモにすることができる。たいていの客は自分が買おうとしている商品やサービスの専門知識がないので、高齢者がスマホの契約をしていらないオプションをてんこ盛りにされたり、リフォームでぼったくられたりする。分業体制はお互いに協力できる場合は社会の効率がよくなるけれど、お互いが騙し合うようになってしまうと社会が荒廃する。●人間はどこまで知識を持てばいいのか日常生活をするだけならたいした知識は必要ない。ほとんどの人が液晶ディスプレイが表示される仕組みやWi-Fiが通信する仕組みを理解しないままパソコンやスマホを使っているように、たいていの製品やサービスは客が専門知識がなくても使えるように作られたので客に知識がないのが当然で、それが分業するということである。たいていの人は何かの仕事に就いて生計を立てる程度の知識があれば、他の分野の知識がなくても十分と言える。そして機械や人工知能が進歩するほど個人に必要とされる知識の要求水準はどんどん低くなっていく。例えば機械翻訳の精度が上がれば外国語を覚える必要がなくなるし、冷凍食品が進歩すれば料理の知識や技術が必要がなくなって電子レンジのスイッチを入れるだけになるし、車が進歩すれば運転手が地図や道路交通法を覚えなくても自動運転で目的地に連れて行ってくれるようになる。それは便利には違いないけれど、その行きつく先が働かなくても楽に生きていけるユートピアかというとそうでもない。人類の特徴である二足歩行するがゆえに発達した手先の器用さと大きな脳の知性を失うことは人間性を放棄することでもある。中国が学習塾を取り締まったように独裁者にとっては国民が馬鹿なほうが統治しやすくて都合がいいけれど、民主主義国家では国民が馬鹿だらけだと衆愚政治になって民主主義が機能しなくなってしまう。一部の知識人と大衆が隔絶すると大衆が知識の価値を理解できなくなって、共産主義の中国やカンボジアで知識人の虐殺が起きたり、イスラム原理主義者が女子を教育する学校を襲撃して教師を殺害したりするように、無知な大衆が自分が何をしているかを理解しないまま自ら文明を退化させるようになってしまう。ダイヤモンドオンラインの「人類のIQは1975年以降、低下しつつある!?その原因は…」という記事によると、人類の知能指数は上昇し続けるとしたフリン効果と相反してノルウェーの研究だと75年を境にIQが低下した負のフリン効果が確認されたそうで、教育制度の変化や読書量の減少やインターネットなどの環境要因で便利になって情報処理や判断の必要が減って考えることを放棄した結果なのかもしれないと記事は結論付けている。日本でも読書量が低下して日本語が読めない日本人が三割もいるというのも問題になっているように、スマホとインターネットが普及したことで白痴化が進んでいるようである。SF的に考えると、便利になりすぎて脳が退化して馬鹿になった人類はやがてAIに管理されるようになって全知全能のAIを神としてあがめるようになるかもしれない。『小公女セーラ』でセーラが頭が鈍い子に対して馬鹿でもやさしいのが大事というようなことを言っていたように、私は知識の有無よりも善悪を理解することのほうが社会生活を営む上で重要だと思う。しかしソクラテスが「無知は罪なり、知は空虚なり、英知持つもの英雄なり」と言ったように、無知はたいてい間違った判断や行動を引き起こすので、無知なまま善良であることを両立させるのは難しい。というわけで私は人間には科学的に世界の仕組みへの理解と、民主主義を維持できる程度の政治経済の基礎知識は必要だと思うし、高卒レベルの物理や化学や歴史や公民の知識を義務教育として教えるのは理にかなっていると思う。●記憶と学習人間の脳の神経細胞は早いのは1か月で40%が入れ替わって遅いのは1年で入れ替わっているそうで、細胞が入れ替わっても同じ記憶を維持しているのは不思議な感じがする。富山大学の「脳内で神経細胞は新生している!」という記事によると、いったん海馬内で形成された学習や記憶が徐々に大脳新皮質に移行して、記憶固定が起きた後は思い出す際に海馬を必要としなくなって、新生した神経細胞が不要になった学習と記憶の痕跡を分断して新たな学習や記憶をしやすくしているという説があるそうな。同じ仕事を繰り返していて脳への刺激がない教師と公務員が認知症になりやすいそうだけれど、新しいことを学ばずに済む、考えずに済む、創造せずに済む環境は楽ができて幸福というよりは成長がないことが不幸になりうる。自動操縦モードで慣れたルーチンワークをこなしてぼんやり生きているとあっちゅうまに時間が過ぎて、何の仕事や家事をやったかを意識しないうちに一日が終わり、一年が終わり、ふと気づいたときには知力も体力も衰えた老人になって一生が終わる。それでは充実した人生とはいえない。一度きりの人生の一瞬一瞬に注意を払って丁寧に生きてこそ充実した人生といえる。仏教では正念として今の瞬間に注意を払う事を重視していて、現在に集中することで余計な空想からくる渇愛を制御しようとする。ジョン・カバット・ジンが提唱したマインドフルネスも曹洞宗の禅を元にしていてビジネスマンに取り入れられているけれど、これを実践している人は意識が高い人くらいで、庶民にはあまりいないようである。歩き方を見るだけでも注意を払っているかどうかわかるもので、都会にはスマホを片手にふらふら歩いて周りに注意を払っていない人が大勢いるし、駅のホームや踏切でスマホを使いながら電車にはねられる人さえいる。それに対してファッションモデルや社交ダンスをしている人みたいに姿勢を意識して歩いている人は所作からして美しいものである。この注意力がない人は有限の人生の時間を散漫に過ごしていてもったいない。じゃあどうすればよいのかというと、新しいことを学んだり難しいことをやったりするときは集中して注意を払わないとできないので、常に何か新しいことに取り組めばよい。何かに没頭することを心理学ではフロー体験といって、新しいスキルを習得しながら新しいチャレンジをしているときのように難易度と技能水準の両方が高いと没頭して幸福感を得られる。寿命が長くなった現代人にとっては成長マインドセットを持って何か目標を立てて目的達成のために学習し続けることが幸福になりうる。歳をとっても仕事を続けて考えたり創造したりしている人は若く見えるし、逆に退職してやることがなくなった人は急に老け込んだりする。テレビを見たりする程度の受動的な娯楽ではスキルが身につくわけでもなくてフロー体験にならないので、退職後に金と時間があっても物事への興味をなくして老人性うつになる人もいるようである。退職してチャレンジするような仕事がなくなった人は、小説を書けば記憶を活用して取材して新しいことを学んで創造性も付け加えることができて脳の刺激になってよいと思う。・記憶と時間私は割と記憶力がよいほうで言葉を覚えて周りの物の名前を認識し始めた4歳の頃からの出来事はいろいろ覚えていて、ついさっきまでかわいい幼稚園児で運動会のかけっこで一等になっていたのだけれど、いつの間にか走ったらすぐに息が切れて膝が痛むかわいそうなおっさんになっていた。この幼少期からの時系列順の記憶の積み重ねがあるから時間を主観的に認識できるし、過去からどれだけ成長して変化したかを認識できる。「少年老い易く学成り難し」という漢詩があるように、もし刹那的に今の瞬間だけ幸福であろうとして楽をして勉強をさぼっていたら、私は幼稚園児のような幼稚なおっさんになっていたのだろう。逆に言えば、時間の感覚を持って有限の人生の中で何を学ぶかを意識することが成長につながる。衣食に金をかけたところで自分の成長にはつながらなくて、服は数年で劣化して着れなくなるし、食べ物は高くておいしいものが安いものよりも栄養があるわけでもなくて結局うんこになるけれど、一度学んだ知識や技術は生涯の財産となる。10年でどれくらいのことを学べたのかという時間の感覚があれば、今後10年でどれくらいのことを学べるのかという予測を立てて計画的に勉強しやすくなる。学生時代までは学校側でカリキュラムを組むので何かしら学ぶことがあるしいい点を取ると褒めてもらえるけれど、大人は自発的に学ばないと誰かが教えてくれるわけではないし勉強しても褒めてもらえるわけでもないので勉強するインセンティブが少なくなって、目標を持って学び続ける大人と快楽に耽る大人ではだいぶ差がでる。禅の言葉に「潜行密用如愚如魯」というのがあるように、誰からも評価されなくて利益が出なくても良いことをひっそりと愚直に継続するのが大事である。若い人は周りにゲームや動画などの娯楽が消費しきれないほどたくさんあってSNSでちょっとバズればすぐ有名になれるので楽なほうや目立つほうに流されがちだけれど、若くて時間があるからこそこつこつ勉強を積み重ねていくことの重要性に気づいてほしいものである。・記憶と理解の可視化脳に記憶された情報は膨大なので、本人でさえ思い出すまでは自分が何を記憶しているかを把握していない。自分が何の知識があって何を理解しているかを把握するには文章でアウトプットするのがよい。絵でも記憶をアウトプットできるけれど、絵は描くのが難しくて他人に伝えにくい。過去を可視化するには写真や映像を使う方法もあるけれど、自分の生活を録画し続けている人はいないし、感情などの脳内の主観的な記憶は写真や映像では伝えられない。人類は文字を発明したことで口伝では伝わらない記憶や理解を伝えることができるようになって、例えば神話や宗教は科学がなかった時代の人にとっての世界の理解のあり方で、経典が記されたことで特定の集団で共通の世界の仕組みの理解として定着したように、文章が理解のアウトプットに一番適している。私はブログを書くことで自分が何を理解していて何を理解していないかを可視化して自覚して次の学習や思考につなげることができたので、ブログを書いていてよかったと思う。小説だと知識を書くことよりも作者が世界をどう理解したかを書くほうが重要である。現代の純文学作家は身の回りの小さな世界ばかり書いているけれど、そういう小説はたいした価値がなくて作者が死んだら読まれなくなる程度のものでしかなくて、よい作家は自分が生きた時代をどう理解したかを書いている。例えばトルストイは世界をキリスト教的に理解して、カフカは世界を理不尽なものとして理解して、ヘミングウェイは第一次世界大戦後の世界を従来の道徳規範を否定するニヒリズムで理解した。時代の様相を理解しているか、その時代に生きる人の思想や感情を理解しているか、それを文章で表現するための文学理論を理解しているか、それを読む読者の認知を理解しているか、という複合的な理解がないと独りよがりな小説になったり、取材した知識を羅列するだけの取扱説明書みたいな薄っぺらい小説になったりする。自分が理解していないものを他人に理解してもらおうとしても無理なので、作家は自分が書こうとしている世界を理解する必要がある。理解するには知識がいる。知識を得るには勉強しないといけない。そういえば私はYouTubeで小説の書き方を解説しているので、小説の書き方を勉強したい人はチャンネル登録をするとよいですよ。
2021.11.30
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宇宙は物理法則に基づいて万物が流転しているので、その法則や道理を理解していれば万事が予定通りに進むはずである。しかし社会では様々なものが矛盾しているのが不幸の原因になっていると思うので、矛盾について考えることにした。●矛盾とは何か矛盾とはどんな盾も突き通す矛とどんな矛も防ぐ盾を売っていた男がその矛で盾をついたらどうなるのか聞かれて答えられなかったという中国の古典の『韓非子』の故事に由来して、物事のつじつまが合わないことや一貫性がないことを矛盾と言うようになった。言動に一貫性がなくて何かを批判した時に自分の過去の言動と矛盾することをネットスラングでブーメランが刺さるという。●人間の心理と行動の矛盾・認知的不協和飲食店で昼食を注文しようとしたときに、刺身定食のマグロは好きだけどイカは嫌いというときは注文するかどうか迷って、マグロ丼がメニューにあったらそっちを頼めばいいので、選択肢があるときは好きなものだけ選べばよいので迷わない。しかし好きなものと嫌いなものが切り離せないときは認知的不協和が起きる。例えば美人に一目ぼれしたけれど彼女はなんとか学会の熱心な信者で宗教の勧誘が嫌いなときはひとつのものに好きな感情と嫌いな感情が混在して、自分もなんとか学会に入信して彼女となんとか学会の両方を好きになるか、あるいは彼女となんとか学会の両方を嫌いになって、その矛盾を解消しようとする。・建前と本音の矛盾「べ、別にあんたのためじゃないんだからね。勘違いしないでよね」というツンデレは建前と本音が矛盾していて、本音を隠したいから建前でごまかしている。中国共産党の広報担当者とかは本音と違う間違ったことを言わないといけない矛盾のストレスに耐えられずに精神を病む人がいるそうな。・感覚の矛盾視覚の映像と三半規管の平衡感覚が矛盾すると脳が混乱して自律神経の反応でめまいや吐き気が起きる。白いフォントで「赤」と書いたりすると、視覚的な色と言葉の意味が矛盾するので何色なのか脳が判断を迷う。冷たいものを触ったときに痛覚が刺激されて、脳がシグナルを誤解して熱いと感じることがある。・肉体と自己像の矛盾性同一性障害の人は体と心の性別が違うという矛盾に悩んで、性転換して戸籍上の性別を変えて矛盾を解消しようとする。・芸術的な矛盾絵画だとペンローズの階段とかの物理的には存在しない不可能図形を二次元で立体的に描いていて、その矛盾が面白さになっている。ポストモダニズム文学だと現実ではありえない矛盾した感覚を楽しむために作者が意図的にストーリーや描写を矛盾させることがある。「小さな巨人」とかの撞着語法や「この文は偽である」とかの嘘つきのパラドックスも矛盾した表現を楽しむためにたまに小説に使われる。・指示の矛盾組織だと矛盾した指示が来ることがあって、例えば部長はAをやれといって課長はAをやるなBをやれといってマニュアルにはA'をやるように書いてあって法律上はB'をやらないといけない場合は部下はどうすればよいのか困る。この矛盾を解決するには指示に優先順位をつけて、上位の指示と矛盾する下位の指示は無視しないといけない。・欲望と理性の矛盾食欲や性欲などの欲望は間脳の視床下部の生存維持のための本能的な欲求で、後から発達した前頭葉は理性で本能を抑制しようとして、脳の違う部位から相反する二つの指示が出てきて、どちらを優先するかで葛藤が起きる。食欲とかの原始的な欲望に対しては脳が満腹を感じて自動的に食欲にブレーキをかけるけれど、財産の所有欲や自己承認欲求とかの1万年前の農業革命以降に出てきた新しい社会的な欲望に対しては脳のブレーキが不十分なので欲望が際限なく膨らんでいって、その欲望を抑えられないと欲しいものが手に入らないストレスでアノミー的自殺をしたり、成功者になれない人生は生きる価値がないと極端な考え方をして理想と現実のギャップのストレスに耐えられずにうつになったりしてしまう。・愛と憎しみの矛盾恋愛というのはたいてい自分を認めて大事にしてほしいという自己愛で、相思相愛のうちはこの目的が達成されるけれど、長く付き合ううちに相違点が出てきて、自分を否定されたり自分をさしおいて他の異性と話しているのを見てないがしろにされていると感じたりすると好きな相手に対して憎しみの感情が出てきて、別れ話で刃傷沙汰になったりする。この矛盾を解消するには、自己愛を起点にせずに相手を幸せにしたいという自己犠牲を起点にすると好きな相手に憎しみが起きなくなって、別れるにしてもわしじゃおまんを幸せにはできんかったぜよ、すまんのうと後腐れなく別れられるかもしれない。・矛盾を許容する思考〇か×かというロゴスの思考の二分法で、なんでもかんでも好きか嫌いか賛成か反対かと判断を迫られると疲れるし、その選択肢自体が間違っていることもある。どっちでもない、どっちでもいい、わからないというレンマの思考を取り入れることで、矛盾からくるストレスを受け流しやすくなる。例えば好きな感情と嫌いな感情が半分ずつあって認知的不協和が起きたときに好きか嫌いかの二分法で物事をくくるよりは、どっちでもいい、どうでもいいと判断するほうが敵が少なくて済む。●理論と現実の矛盾・通説と科学の矛盾通説は世間に知れ渡っていても科学的根拠がなくて検証もしない一方で、科学的な思考だと現実を徹底的に観察したうえで理論とすり合わせて矛盾がないものを真理として確定する。フィクションだと暦について書いた冲方丁の小説の『天地明察』や、地動説について書いた魚豊の漫画の『チ。―地球の運動について―』に理論と現実の観測の矛盾に悩む人の様子が描かれている。科学的に正しくても通説と異なるものは最初は宗教や伝統の権威に抵抗されるけれど、世代交代するにつれて通説の影響が低い若者が科学的で合理的な解釈を選択するようになって、守旧派は馬鹿扱いされて権威がなくなって科学的な正しさが認められて通説が覆るようになる。例えば1633年にガリレオは宗教裁判で有罪になって軟禁されたけれどバチカンは公式に非を認めなくて、1965年に裁判の見直しが始まって、1992年にヨハネ・パウロ2世が裁判が誤りだったと認めて、2008年になってようやくローマ法王ベネディクト16世が公式に地動説を認めたそうな。手洗いを主張した医師のセンメルヴェイスや遺伝の法則を見つけたメンデルも科学的に正しい主張をしたのにすぐには認められなかった。・法律と現実の矛盾アメリカ独立宣言では全ての人間は平等に造られていると宣言したけれど、黒人の権利は長い間制限されたままで平等でなくて矛盾している。生物学的には遺伝的に同性愛の人が一定数生まれるし、その人も他の人と同じ人権があるはずけれど、法律で同性愛の結婚が認められていないのは人権侵害で矛盾している。この種の矛盾は差別と呼ばれる。憲法第九条には戦力を保持しないと書かれているので自衛隊が違憲だという主張がある一方で、自衛隊が国防を担っていて必要不可欠だという現実と矛盾する。この矛盾を解消して自衛隊の存在を合憲にするために改憲の議論がされている。刑務所の目的は更生と社会復帰だけれど、身体拘束の罰の期間が終わったら更生していない人でも釈放するので、出所後にすぐに犯罪をする人が出てくるし、更生の余地があるとして減刑した裁判官が更生しない責任をとるわけでもなくて、社会不適合者の生活保護施設のような居心地がいい場所になっていて更生施設として十分に機能していないし、望んで刑務所に行きたがる人に対して罰になっていない。・理想と現実の矛盾エシカルヴィーガンは動物から搾取しないという倫理的な理想を持って動物性たんぱく質をとらないけれど、たいてい栄養不足で体調不良になって、健康であるためには動物性たんぱく質をとらないといけないという現実に直面して医師に忠告されてヴィーガンをやめている。培養肉を低コストで大量生産する技術とかが開発されたりして理想が実現できるように現実を変えられるならヴィーガンの思想と健康が両立できるけれど、現状は無理である。エコ思想の人はソーラーパネルをクリーンエネルギーとして推進したがるけれど、実際は中国のソーラーパネルの製造過程で石炭火力発電の電力を使って温室効果ガスを排出して有害物質を川に流していて、ソーラーパネル設置のための森林伐採が行われて、リサイクルが進んでいなくて処分の際の有害物質の処理が不十分だったり不法投棄が行われたりして、環境への悪影響が指摘されている。脱炭素の理想を掲げるのはいいけれど、現実の害を検証しないと化石燃料と違うやり方で環境破壊を推進することになりかねない。EUはドイツを中心にして多文化共生とか可哀そうな難民への人道的な支援とかの理想を掲げてアフリカや中東からの移民を受け入れたけれど、不寛容なイスラム教徒に対して寛容な態度で臨んだら移民が法律よりも宗教的戒律を優先して道路を占拠して祈ったりして社会と同化しなくて、フランスでイスラム教を風刺した人が殺されたりテロがおきたりして治安が悪化して移民の受け入れを拒む極右政党が台頭して、イギリスのようにEUを離脱する国も出てきた。ベラルーシがEUへの嫌がらせで中東の移民を集めて隣のポーランドに送り込もうとしてポーランドが国境で可哀そうな移民を放水車や催涙ガスで撃退しているのがEUの理想と現実の矛盾を端的に表している。・経済理論と実体経済の矛盾マクロ経済学の主張があまり信用されないのは、政策として採用されないと理論と現実のすり合わせができなくて科学的な観測できなくて机上の理論のままだからである。逆に言えば経済政策として採用されたときが様々な現象が理論と一致するか矛盾するか検証する唯一の機会で、ちゃんと検証しないと間違った政策をいつまでも続けることになる。アベノミクスで日銀が異次元の金融緩和を8年続けてETFを買って株価を上げてマイナス金利にしてもトリクルダウンが起きずにインフレ率が一度も目標の2%を達成できなくて経済対策がバラマキだのポピュリズムだの財政破綻するだのと騒いでいる一方で、アメリカはバイデン就任後に雇用創出のインフラ投資や現金給付や失業給付とかで2000兆円のGDPの35%に相当する700兆円の経済政策をしたらすぐに経済対策の効果が出て、消費者物価指数が6%以上のインフレになったけれどコロナで抑制された消費が増えた分の一時的なものだと静観していて、それでドルの信用が落ちてアメリカ国債の買い手がいなくなってハイパーインフレで財政破綻するような事態にはなっていない。クルーグマンなどの経済学者はアベノミクスが失敗したのは金融緩和だけして財政出動が足りないからだと結論付けている。この現実を見たら普通の知能がある人なら経済の専門家でなくても日本の失われた30年の経済政策が間違っていたと気づくし、ましてや政治や経済の最前線にいる人ならこの矛盾に気づかないはずがないわけで、例えば経済学者で元内閣官房参与の浜田宏一やオリックスの宮内義彦やジャーナリストの田原総一朗はMMTに考え方を変えて自国通貨建ての国債で財政破綻はしないから積極的な財政出動が必要だと言っている。日本の経済政策が間違っていると思わない人は、現実を見ていないか、理論と現実の矛盾を理解できない馬鹿か、意図的に嘘を流布している悪人かのどれかだろう。日銀の黒田総裁は「デフレの影響が人々のマインドセットに残っている」と袖がない服を着ている庶民に責任転嫁して現実を見るのをやめた。ワニの口が広がって財政破綻すると主張した矢野財務事務次官やそれを支持したマスコミは馬鹿だとカミングアウトしたようなものである。陸軍軍医の森鴎外がなまじ医学の知識と地位があるがゆえに脚気が細菌感染症だという自説にこだわって海軍が麦飯を取り入れて脚気をなくした現実を無視して陸軍の軍人を3万人以上脚気で死なせたように、組織の上層部が現実を見なくて理論と現実の矛盾を理解できない馬鹿だと甚大な被害が出る。論語で「過ちて改めざる是を過ちという」とあるように、人間は完璧でないのでいろいろ間違うのはしょうがないし、間違いを認めて改めないといけない。若者は間違いを認めても失って困るような地位も名声もないので素直に間違いを認めて失敗から学んで柔軟に考えを変えられるのでどんどん成長していくけれど、歳をとるにつれて地位を得て思想が固定されて頑固になって間違いを認めない老人が多くなる。浜田宏一(85歳)や宮内義彦(86歳)や田原総一朗(87歳)は長年のキャリアと地位があるにもかかわらず現実に対応して柔軟に考え方を変えられるのは立派で、日本を良くしようという意思があるから高齢でも考え方を変えられるのだろう。それに対して間違っても改めずに社会に害をなすのは悪人である。日本の成長に必要なイノベーションは技術革新とかよりもまずは間違った財政破綻論を基にしたプライマリーバランス黒字化規律から脱却することで、国家運営の根本的な方針が間違っていたら小手先の対策ではどうにもならない。小泉政権の新自由主義グローバル化路線で安い賃金の移民を増やして低賃金競争をして、派遣や多重請負の中抜き規制をせずに格差を拡大させて可処分所得を減らして貧乏な人が結婚できなくして少子化を推進して、2014年に消費税増税をして2015-17年頃の原油安の消費のボーナスステージをセルフ経済制裁で潰して、ずっとデフレ推進格差拡大政策をやっているのだからデフレ脱却しなくて少子化が深刻化して当たり前だけれど、官僚や政治家は私利私欲のために間違った方向に全力で突っ走るようである。自ら誤りを正せないのなら辞めさせるしかないだろうし、そのためには選挙で間違った主張をする議員を落として正しい主張をする議員を当選させて、間違った主張をする官僚を更迭しないといけない。結局は国民の民度が上がらないとどうしようもない。・どうしたら矛盾を防いで目的を達成できるか現実には真理が内包されているので、常に現実の現象に基づいて物事を考えないと間違った理論を基に間違った行動や判断をするようになってしまう。それに人間には処理流暢性のバイアスがあって、直感的にわかりやすいものが正しいものだと認識してしまう。この矛盾を防ぐには、真理に対して謙虚になって自分が先入観や間違った前提を基にして考えている可能性があることを頭の片隅に置いて、エポケーして通説とされている判断をいったん保留して一から物事の道理を考え直したり、新しい理論を実践する時はまずは仮説に留めておいて現実の反応を分析して理論を修正したりする必要がある。例えばお笑い芸人がお笑い理論に基づいて演繹法でこれをやったら絶対うけるはずだと思ってコントをしても客にうけなかったときに、ぼくのかんがえたさいきょうのお笑い理論は完璧なのに笑いの感度が低い客が悪いと責任転嫁して現実を無視したら客を笑わせる目的は達成できないので、笑った客と笑わない客の違いをケーススタディーとして分析して帰納法で理論と台本を修正する必要がある。あとは欲望を判断基準にせずに理性を判断基準にしないと、欲望を優先して非合理的な判断をしかねない。財務省が財政破綻論を言うのはその方が政治家や他の省庁に対して影響力を強めて出世して権力を握れるからで、評論家が財政破綻論を言うのはノストラダムスの大予言みたいに不安を煽るほうがマスコミに仕事をもらえて儲かるからで、個人的欲望のために間違った財政破綻論を主張して庶民を貧しくして国益を損ねている。矢野論文で「答えは一つであり異論の余地はありません」と一方的に主張して議論を拒むのは学究的な思考態度ではなくて、もはや財政破綻教を信奉する宗教である。●生と死の矛盾人間は生物に寿命があることは知識として知っているけれど、病気になったり余命宣告されたりして死ぬ直前になるまで自分が死ぬという事実を理解していない。惑星にも寿命があって50億年後には太陽の寿命がきて徐々に地球上の水分が蒸発して生命が滅亡することを知識としては知っているけれど、それでも人類は本能的に子孫を残そうとする。死ぬために生きるという矛盾に直面した時に現代人は生き方がわからなくなって、それまで取り組んでいた仕事や趣味への情熱をなくしたり、自殺したりしてしまう。あるいは逆に生きることに執着すれば、そのぶん避けられない老化や死が怖くなる。この矛盾についての考えが足りていないがゆえに現代人は苦悩しているようである。特に自分が生きた痕跡を全部消してから自殺する縁切り死や、親が子供を道連れにする無理心中や、文明を破壊するテロは人生そのものの否定といえる。しかしそんな手間をかけなくても、放っておいたら皆いずれ死ぬのだから、わざわざ自殺したり他の人を殺したりして死に急ぐ必要はないではないか。私はこの時代に自分の体で何がやれるのか、自分の頭で何を理解できるのか、自分の限界を確かめてみたいし、死ぬ直前まで何かしらやりたいことがあると思うので、貧乏でもあまり苦労しているという感覚はないし死にたいとは思わない。私がやっていることや考えていることが正しいのなら私が死んだ後でも誰か私の思想の後を継ぐ人がいるかもしれないし、間違っていたとしても反面教師として役に立つこともあるかもしれないし、私を踏み台にした人が私よりも立派な人になったりよい作品を作ったりするなら私が道半ばで死んでも別によいと思うので、死ぬのが嫌とも怖いとも思わない。そうして個人の死の積み重ねの上で思想や文化や学問や技術は継承されて洗練されていくもので、死んでいった先達に感謝して後進に希望を託すのが生と死の矛盾に対する私の考え方である。万物は流転するし、知識や技術といった情報も宿主を変えながら流転していく。歴史観や真善美の判断基準や信念がなくて欲望のままに個人的な利益や名声や権力を追求した人は、死んだらせっかく貯め込んだ財産を他人に奪われて、脳に貯め込んだ情報が失われて、名声が世間から忘れられるのが嫌で死ぬのが怖くなるのだろう。秦の始皇帝は不老不死の仙薬を求めて水銀を飲んで死を早めて、一人で権力を独占して後を継ぐ人がいなかったのでせっかく中華統一をしたのに始皇帝の死後に秦は権力争いの内部分裂が起きてすぐに滅亡した。不老不死を求めずに自分は死ぬものだと理解して後継者を育てていれば秦はもっと長続きして繁栄したかもしれない。いずれ人類が滅亡して文明が廃墟になるにしても、人間はすばらしい生き物だといえるくらいの矜持を持って最後に高度な文明を築けたら、宇宙の歴史の中でもっとも賢くて真理を理解して創造力にあふれた知的生命体として有終の美を飾って、人類が滅亡してから何億年か後に誕生するかもしれない知的生命体へプレゼントを残せるのではなかろうか。原始人よりはちょっとましな程度の文明で本能の欲望にまみれてウホウホと銃を振り回して富と権力を奪い合っているうちに資源が枯渇して痴的生命体として人類が滅亡するのではあまりにみっともない結末で、その痴的な争いで誰が勝とうが不毛である。出家して修行して執着を捨てて解脱するまでしなくても、富の奪い合いのゼロサムゲームに参加するのをやめて価値を創造して価値を継承する側になる程度でも死ぬために生きるという矛盾を乗り越えてそれなりに楽しく生きることができると思う。
2021.11.21
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最近はバットマンの敵役のジョーカーが人を平気で殺す姿に憧れた服部恭太容疑者が京王線でテロをした。さらに包丁を持った男が宮城県のこども園に侵入したり調布で刃物を持った男がうろついたりして〇〇ジョーカーと呼ばれる事件が多発している。こういう事件が起きるとフィクションが悪いもののように言われるので、これについて考えることにした。・犯罪者はたいてい頭が悪い京王線の事件の前に小田急線にサラダ油を撒いて火をつけようとした男がいたけれど、これは犯人がアホなおかげで火がつかなくて火事にはならなかった。京王線ジョーカーはこの小田急サラダ油男の失敗から学んだようでオイルライターで火をつけたけれど、結局は詰めが甘いおかげで重体の被害者は出たものの死者は一人も出ずに済んだ。テロ犯に知恵をつけるつもりはないので具体的なことは言わないけれど、無差別で誰かを殺そうと思ったら確実に殺人できる場所や手段があるし、ミステリ好きな私から見たら本気で殺人する気がなくてやったふりをしただけで満足したようなずさんな手口に見える。他の犯罪もたいてい何かしら頭が悪い行為をしている。京王線ジョーカーを真似て熊本で九州新幹線に放火した男も出てきたけれど、こっちは火が燃え広がらなくて放火未遂事件で終わって犠牲者は出ていなくて、「火を放って自殺しようとした」と供述したそうだけれど、自分は怪我したわけでもないし報道を見て衝動的に真似したレベルで何をしたかったのかよくわからない。京都アニメーションに放火した男はガソリンの危険性を理解していなくて、犯人が馬鹿だったせいで犯人の想定外に被害が拡大して犯人も瀕死の重傷を負った。こうしたテロは詐欺みたいに犯人が得するわけでもないし、革命と違って庶民を殺したところで社会が変わるわけでもない。被害者だけでなく犯人も損をする不毛な犯罪である。・なぜ死刑になりたいのか死刑になりたいという理由で無差別殺人をする人が数年おきに出てくるけれど、なぜ自殺ではなく死刑になりたがるのか疑問である。社会への報復をした後は自分は死刑になっても構わないという理由なら、「死刑になりたい」ではなくて「社会に報復したいので死刑になってもかまわない」という動機になるはずである。死刑になるために死刑に相当する犯罪をやるのは目的と手段が逆転している。京王線ジョーカーは「仕事で失敗し友人関係もうまくいかなくなり死にたいと思ったが、自分では死ねず死刑になりたかった」と供述したけれど、「自分では死ねず」と「死刑になりたかった」に飛躍があるように見える。自殺志願者が座間に呼び出されて殺害された座間9人殺害事件や、警察官に襲い掛かって射殺された人がいたように、自分で死ねないなら他人に殺害を頼むほうが社会への被害が少ない。京王線ジョーカーがテロを企てたのは、死にたいというよりも社会に迷惑をかけることで自分に注目してほしいという自己愛が動機なのではないかと思う。平凡な人でも殺人をすれば全国のニュースで報道されるので、無名な敗者としてひっそり自殺するよりも、やばい悪人として有名になりたかったのだろう。子孫や仕事や作品を残せず友人もいなくなった人が存在を証明しようとした最後の悪あがきのようなものである。2015年の東海道新幹線火災事件でガソリンをかぶって焼身自殺した老人や、2019年の川崎市登戸通り魔事件で犯行後に首を刺して自殺した男みたいに、自暴自棄になった犯人は死刑になりたい(生き残って裁かれたい)と言わずに犯行現場で死亡している。自殺したら自分が有名になったかどうか確認できないので、京王線ジョーカーは犯行現場で自分が死ぬ気はなくて逃亡もせず警察に抵抗もせずに足組して煙草を吸ってさっさと捕まっていて、これも逃げまどうみっともない姿を見せたくないという他人の評価を気にするがゆえの行動だろう。・自己愛モンスターの暴走人間には自分を大事にしてほしい、認めてほしいという自己愛がある。これは大事には違いないけれど、自己愛が肥大すると社会に害をなすようになる。店で自分を優先してほしくてわめきちらすモンスタークレーマーになったり、学校で自分の子供だけを重視するモンスターペアレントになったり、自分の進路を邪魔したと激昂して煽り運転をしたり、目が合っただけで馬鹿にされたと曲解して喧嘩をふっかけたり、社会通念に反する非常識な行為で注目を集めて金儲けする迷惑系YouTuberになったり、自分に注目してほしくて掲示板やブログのコメント欄にコピペスパムをまき散らしたりする。この自己愛をどう制御するのかが社会的な課題になる。2018年にはてなブログに「低能」という荒らしコメントを投稿しまくって低能先生というあだ名をつけられた人が有名ブロガーのHagexに馬鹿にされて刺殺した事件が起きて懲役18年になったけれど、馬鹿にされて当然の行為をしておきながらそれを馬鹿にされると激昂するという理不尽なことをしている。社会通念よりも自己愛のほうが強いので自分が悪くても反省しなくて、他人に迷惑をかけることでしか自分の存在を主張できないのである。・自責か他責か自責する人は上手くいかなければどこが悪かったのか反省して分析して改善できるけれど、他責する人は自分は悪くないと思考停止して原因を他人のせいにして反省しないのでそれ以上成長しなくなる。冬が寒いのは地球のせいだと他責したところで寒くなくなるわけではないし、状況を変えたかったら厚着するなりこたつを買うなりして自分が行動して変わらないといけない。不幸な状況を変えようとしないなら不幸のままなのは当然である。国の政策の失敗で失われた30年の不況になったように他人の責任も当然あるけれど、それでも自分がやれる限りのことをやらないと状況は良くならない。自分が不幸なのは親や社会や国のせいだと他責するだけなら楽だけれど、そうして自分に責任を持とうとしない生き方をした挙句に死刑になりたいと死ぬ方法や時間まで他人任せにしようとする人が出てくる。2018年東海道新幹線車内殺傷事件の犯人が典型的で、「自分で考えて生きるのが面倒くさかった。他人が決めたルール内で生きる方が楽だと思い、無期懲役を狙った」と供述して人生を他人に丸投げしている。宮城県のこども園に侵入した犯人はひきこもりで「2人以上殺せば死刑になると思った」と供述したそうで、自分で考えて行動する意思がないのだろう。自分で考えて行動できず、こつこつ生活を改善しようとせず、行き詰って死刑になりたがるのが馬鹿のマインドセットになっているようである。・大きな物語がなくなった時代に馬鹿はどう生きるべきか中世のヨーロッパの庶民はキリスト教の教義通りに生きればよいと教会で洗脳されて生き方を強制されてきた。ところが活版印刷で聖書が大量に印刷されて個々人が神と対話するようになると、神に何とかしてくれと祈りを捧げても神が救ってくれなかったと恨んでも物事は変わらず、自分で考えて行動しないといけないと気づき始める。そして学問が発展するにつれて聖書の科学的な間違いが明らかになって、神は死んだと言われるように宗教の権威と影響力が少なくなった。かつては神話、宗教、イデオロギーといった社会全体で共有していた大きな物語が道しるべになっていたので馬鹿でも進む道を決められたけれど、大きな物語がなくなった現代では個々人が自分がどう生きたいか決めて進むべき道を見つけないといけなくなって、馬鹿は生き方に迷うようになった。しかしどう生きるにしても結局は善を成して悪を避けるという根本原理なしでは社会は成り立たない。何が善で何が悪かは主観的な判断になるので、その判断基準を持たない人は欲望のままに行動して悪事で社会を害しうる。上座部仏教では神を信じれば救われるとかお経を唱えれば極楽浄土に行けるとかの信仰を否定して、自由な人間に信仰は必要ないとして自分で考えて行動することを促しているので、神が死んだ現代向きの哲学である。それゆえにキリスト教圏の欧米人でも仏教や禅を学ぶ人がいる。仏教では貪瞋痴が三毒と呼ばれて、自分の好むものをむさぼり求める貪欲、自分の嫌いなものを憎み嫌悪する瞋恚、ものごとに的確な判断が下せずに迷い惑う愚痴が悪とされる。その逆の無貪、無瞋、無痴を善の根源になる三善根という。釈迦の教えを理解せず物事の道理がわからない愚か者をサンスクリット語でmoha(痴)といって、日本ではmohaの当て字で愚か者を莫迦や馬鹿という。この仏教の基準で見ると社会には馬鹿や悪人が大勢いる。自分の利益だけを追求して社会に還元しない新自由主義者は貪欲な悪人である。政治が悪いと無駄な愚痴を言うだけで投票に行かず政治家に陳情もせずに社会を良くするための行動をしない人は馬鹿で、権力者や社会を憎んで壊そうとするのは悪人である。善悪の判断基準を持たずに悪人に憧れるのは馬鹿で、悪人の真似をして悪事を成すのは悪人である。低学歴だから馬鹿で高学歴だから馬鹿ではないわけではなくて、高学歴にも馬鹿や悪人が大勢いる。ソクラテスが自分が無知であることを自覚しているがゆえに一番賢いと言われたように、まずは自分がいかに無知な馬鹿なのかを自覚しないことには物事の道理は理解できないけれど、暗記だけが得意で物事の道理を考えないままペーパーテストで高得点をとって高学歴を身に着けた賢いふりをした馬鹿もいる。参議院議員の西田昌司が財務事務次官の矢野論文が馬鹿のあぶりだしだと言ったように、マスコミとか経済学者とかで矢野論文を支持する人は財政破綻論の間違いを理解できないでいて高学歴でも馬鹿をさらしているし、間違った財政破綻論を理由にやる必要のない増税をして庶民を苦しめて福祉を削減して弱者を見捨てる政治家は悪人である。馬鹿な人が自分で物事の道理考える能力がなくて判断を下せないなら、せめて自分よりも立派な人の考えや判断を真似るべきである。身の回りに立派な人がいないなら歴史上の人物でもよいし、フィクションの立派な人を真似るのでもよいではないか。例えば高倉健に憧れる人がいるけれど、そういう人は高倉健のプライベートを知っているわけではないし高倉健という個人に憧れているのではなくて高倉健が演じた硬派な男らしい人物像に憧れているわけで、フィクションでも十分模範となりうる。アクリフーズ農薬混入事件の犯人は『ONE PIECE』の海軍の「正義」と書かれたコートを着ていたけれど、正義とは逆の悪事をなしていて、うわべを真似るのではなくて思想や行動という道理を真似しないと意味がない。人間は模倣で知識や技術を得て成長するし、人生も仕事も芸術も良いものを真似れば良くなるし、悪いものを真似れば悪くなる。それゆえにまずは善悪正誤の判断基準を知るのが肝要である。フィクションは現実よりもはっきりと価値を提示するので馬鹿にもわかりやすいだろうし、大まかな方針としては役に立つと思う。・フィクションの役割現代では文学部廃止論をいう人がいるようにフィクションは単なる娯楽や役に立たないものとしてとらえられがちだけれど、実際はフィクションは小さな物語を通じて学校や親が教えない善悪の倫理観を教えている。どんなに大きなビルを建てようが爆破テロをされれば瓦礫の山になるように、社会の役に立つ知識や技術を教える教育だけでは不十分で、社会を害さない人に育てる教育も必要で、フィクションはそこを担っている。我々が映画の『ジョーカー』を楽しめるのはそれが虚構の世界で殺人は悪だという倫理を理解しているからで、普通はゴッサムシティみたいな汚職と犯罪だらけな街にしてはいけない、ジョーカーを生まないように弱者の苦しみを理解しないといけないという反面教師として映画をとらえる。ジョーカーだって悪党になる前は普通の人で、他人に優しくされていたらブチ切れずに踏みとどまれたかもしれないのである。『ジョーカー』を楽しんだ人でもISISの処刑みたいに実際の殺人を記録した動画なら楽しめないだろうし、虚構だからこそ娯楽として成り立つのであって、虚構を規制したところで反社会的思想の人がいなくなるわけではない。フィクションを理解していない人ほどフィクションを危険視してやたらと規制したがるけれど、暴力的な話がだめだというならフィクションだけでなくニュースも歴史も伝えることができなくなるし、そうしたら悪という概念すら理解できなくなる。京王線ジョーカーは『ジョーカー』がなかったとしてもヤクザやナチスやボコ=ハラムに憧れたかもしれないし、オイルライターを規制されても別の凶器を使うかもしれないし、目先の物に原因をなすりつけてそれを規制したら事件が起きないと考えるのは短慮である。国民が幸福でお互いに助け合って弱者にも居場所がある社会を作らないことには犯罪やテロはなくならないし、根本的な問題は解決しない。そしてフィクションだからこそ教えられることがある。たいていのフィクションは主人公がいて、主人公は自分の判断で自由に人生を開拓していくがゆえに物語の中心人物となる。自由とは自分に由るということで、自分の責任を考えるから自責して成長するし、他人任せで他人が悪いと他責する人は物語の主人公にはならない。例えばもし『鬼滅の刃』で炭次郎が鬼殺隊が鬼を退治しないせいで家族が殺されたと他責して自分で妹を守る力をつけようと思わなかったらそこで炭次郎の物語は終わってしまう。誰しも自分の人生の主人公で、社会がどうなろうが他人がどうだろうが自分の命をどう使うかは自分で決めて責任を持つことをフィクションは表現している。それにフィクションは自分の周りの家族や近所の人や同級生や同僚以外の環境も年齢も思想も異なる人に対する理解と共感を促していて、この他者への理解がないと自分勝手な人だらけになって社会は形成できなくなる。生得的に共感能力が欠如したサイコパスが生まれるのはしょうがないけれど、そういう人が反社会的な思想にならないように人間の価値を伝えねばならない。
2021.11.12
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人間は何かしらの価値判断をしながら生きているけれど、その価値に無自覚なまま変な判断をして、人生や社会がしばしば間違った方向に向かう。個々人が価値を自覚すれば判断しやすくなると思うので、価値について考えることにした。●ものの客観的価値・経済的市場価値人間は貨幣という概念を創造して客観的な価値を共有することで非効率な物々交換をしなくて済むようになった。たいていの物は何かの目的に使うために製造されて、需要と供給で市場価値が決まって、価値は金額ではっきりと示される。たいてい高品質で数が少ない物の価値が高くなって、低品質で数が多い物の価値が低くなる。鶏の糞とか観葉植物とか用途があるものは値段が付くけれど、猫の糞とか雑草とかの用途がないものは誰も欲しがらなくて値段がつかないので市場価値がない。・時間的価値天気予報を検索して先月の天気予報を表示されても役に立たないように、同じ情報でも最新のものだけに価値があって時間がたつと価値がなくなるものがある。食べ物も賞味期限や消費期限があるので時間がたつほど価値が落ちて割引される。その一方でウイスキーや美術品や古着のように時間がたつほど価値が上がっていくものもあって、価値の持続性に応じて時間と相関して価値が変わる。時間も数字で定量化して客観的に価値の大小を比較できる。●ものの主観的価値・個人的価値例えば何かの賞を受賞して記念品として時計をもらって、それを他人の不注意で壊されてしまったとき、同じ値段の別の時計に交換するのでは納得できない。物自体よりも愛着や思い出や記念などの物にまつわるコンテクストのほうが重要なわけで、これが所有者にとってどれほど重要なのかは数値で定量化できないし、他人とはその価値を共有できない。・芸術的価値芸術作品には一応市場価値がついているけれど、どうしてもその作品がほしくてしょうがない人がその値段を出すというだけで、その作品を好きでない人には値段ほどの価値がない。美術史の中でのその作品の重要性とかである程度価値は共有できるけれど、価値判断は主観的なものになる。・文化的価値明治時代の農具とかは中古の実用品としては値段がつかなくて市場価値はないし、美術品でもないけれど、歴史的資料としての文化的な価値があるので博物館で展示されている。メモ帳は何も書いていない紙に道具としての市場価値があるのに対して、本は紙自体にはあまり価値がなくて紙に印刷された情報に文化的価値があるし、本と同じ情報を持つ電子書籍にも価値がある。・学術的価値たいていの人には何の変哲もない石ころにしか見えないものでも、歴史学者や地質学者にとっては学術的な価値がある貴重な化石や鉱石かもしれない。深海魚は魚市場で売れなくて食用としては市場価値がなくても水族館の研究員にとっては標本として価値がある。・宗教的価値キリストの遺体を包んだと言われるトリノの聖骸布は偽物だという説があるけれど、それでも本物だと信じている人には価値がある。仏像や地蔵は単なる木や石の塊に過ぎないけれど、それを信仰の対象にしている人には価値がある。・新規性の価値生物に突然変異が起きなければ進化も起きなかったように、今までと違う新しいものには新しいこと自体に価値がある。新しいものの中には淘汰されたもののほうが多いけれど、淘汰されたからといって価値がないわけではなくて、その失敗が次の進歩への手掛かりになったりする。●人間の価値・経済的市場価値人間も物と同様に、持っている知識や技術に応じて転職市場で価値が決まる。現代人が必死に勉強して仕事のキャリアを積むのは自分の市場価値を上げて高い給料をもらって価値が高いものを買ったり価値が高い人と結婚したりするためである。・個人的価値人間は他の人間に対して友情とか愛情とかの好きとか嫌いとかの定量化できなくて他人と共有できない個人的な価値を感じている。家族の仲がいいとか、倫理観が高くて性格が良いとかも幸福に寄与する個人的な価値観である。・生物的価値イケメンとかセクシーとかの異性に好まれて生存に有利になる遺伝子に生物としての価値がある。病気になると活動が鈍って治療に金が必要になるので、健康であることにも価値がある。臓器移植に適合するとか希少な血液型だとかで人体に物としての価値もある。・政治的利用価値人や物や金を動かすことができる権力を持つ人間には利用価値があって、これは個人の能力だけでなくて家柄にもよる。小室眞子は個人として何か成し遂げたわけでもないし絶世の美女というわけでもないけれど、警備がついてマスコミが恋愛や結婚を報道するのは皇族という家系の権力に価値があるからである。企業が取引先の子供をコネ採用するのは個人の能力がほしいというより親の人脈から仕事がほしいという政治的価値判断である。・価値の継承の期待人間は権利としてはみな平等だけれど、事故が起きた時はたいてい子供と女性を優先して避難させたり保護したりしているし、そこには価値の判断がある。子供は現時点では何の技術も知識も持っていないけれど、これから技術と知識を身につける時間の伸びしろがあるし、伸びしろがない老人よりも将来への期待がある。女性はいずれ子供を産むことを期待されるし、子供が価値を受け継がないことには文明は崩壊するので、将来価値を継承する期待があることに価値がある。●社会は複合的な価値から成り立っている・価値観が似た人が社会を作る人間は自分と類似点が多いほど共感しやすくなる。アニミズムとか王権神授説とかの同じ神を信じて宗教的価値観が同じ集団が発生したことが人類の社会形成の起源で、国家は貨幣を統一して国民があれはいくらという同じ経済的価値観を持つことで貨幣を通じた売買が成立する。・価値観は個人によって違う同じ国の国民は大まかに似たような宗教的・経済的価値観を持っていても、詳細な価値判断は個人によって違う。マズローの欲求階層のようにたいていの人間はまず生理的欲求と安全の欲求を満たしたがって、それから社会的欲求や承認欲求を求めて何かの仕事をして自分の価値を上げようとする。しかし人間は寿命が合って時間が有限なので全部の欲求を最大限に満たそうとしても無理で、どの価値を優先するかが個人によって違って、その価値観によって生き方が異なってくる。金がないと安心できないという人は必死に働いて金を貯めようとするし、すでに安全の欲求が満たされていてそれ以上物があっても幸福になれないと思う人は生きがいを追求するようになるし、自分を愛してほしいという渇愛がある人はマッチングサービスに大金を払ってでも恋人を見つけて承認欲求を満たそうとする。・価値観が異なる人が新しい社会を作るイノベーションは組織が起こすのではなくて個人が一つの事に情熱をもって長期間取り組んで起きるものなので、社会を変えようと思う人はユニークな人を理解する必要がある。諸葛孔明が蒼天は円蓋のごとく陸地は棋局に似たり、世人には黒白の分ありて往来して栄辱を争えり云々という詩を残しているように、目先の利益に右往左往する人たちとは違う価値観を持っていたからこそ手ごろな仕官先を探そうとせずに隠居して無職の晴耕雨読の生活をしながら伏竜と呼ばれるほどの力をつけて天下三分の計という壮大な計画を立案できた。その一方で科挙のように管理職として既存の価値観に順応することに邁進してもシステムの部品になるだけで、そこから偉業を成し遂げる人は出てこない。学問だと効率よく受験勉強だけして正解とされている知識だけ詰め込んで昆虫観察とか天体観測とかの無駄な知識を仕入れなかった人は受験では有利で学歴こそ高くなるけれど、自分の成長を重視する成長マインドセットよりも点数で正解が数値化される他人の評価を重視する固定マインドセットを持つようになって、発想が平凡なので新しい発見や発明をしにくくなる。ヘミングウェイが芸術家は孤独でなければならないとどこかで言っていたような気がするけれど、ユニークであろうとしたら他人に理解されずに孤独になる覚悟が必要である。日本人は先祖がほとんど農民で長い間政治を武士任せにしてたせいなのか同調圧力が強くて自律意識が低くて、価値観が似ていて従順なのは労働集約型の産業には有利だけれど、そのぶん変化が乏しくなってイノベーションは起きにくくなる。企業は社長と同じ価値観の従業員を集めたがって奇人変人稀人を排除して組織が硬直してVUCA時代に対応できなくなったりしている。・異なる価値観を理解しないと社会は荒廃する社会が複合的な価値から成り立っているにもかかわらず、異なる価値観を理解せず、価値を一元化しようとすると社会は荒廃したり衰退したりする。例えばキリスト教の教会の権力が強かった中世ヨーロッパは宗教的価値に一元化されたら学術的価値が無視されて、聖書と異なる地動説が異端扱いされて研究することさえ禁じられて天文学の発展が遅れたし、中国共産党は無宗教の共産主義に一元化しようとして宗教的価値をなくすためにウイグルやチベットや法輪功を弾圧して人権侵害して、教育を通して子供を洗脳して年長者を尊敬する儒教的な価値判断を変えて親よりも毛沢東を尊敬させて子供が親を密告して家庭が崩壊している。日本だと高度経済成長やバブルの拝金主義の後は新自由主義が蔓延して価値判断の基準が金の有無だけになって、金があれば勝ち組金がなければ負け組と人間を一元的な価値で判断するようになって人間観が薄っぺらい人だらけになって、金のために長時間労働して心身を病んで、社会的弱者に対して自己責任として突き放して共感も同情もしなくなって、社会が分断されて無差別殺人やテロが起きるようになってもはや平和な国とは言えなくなった。さらに経済的合理性だけを価値判断の基準にして、文学部廃止論みたいに直接生産活動に役に立たなくて儲からないものの価値を無視すると、日本らしさというアイデンティティが失われて移民と価値観を共有する同化教育ができなくなるだけでなくて、移民の価値観を理解することもできなくなって対立や分断が深刻になる。・価値を一元化するとレジリエンスがなくなるレジリエンスとはしなやかさを意味していて、困難や逆境から立ち直って回復する力のことである。現代人は資本主義社会で生まれたのでそれが唯一無二の社会だと思い込んで、資本主義社会から排除されないために儲かるか儲からないかという経済合理性だけを気にして右往左往して、失職したり金がなくなったりすると自分は生きる価値がない役立たずだと絶望して自殺してしまう。金の切れ目が縁の切れ目ということわざが典型的で、価値を一元化して同じ価値観の人同士で人間関係を作ると一元化した価値が失われたときに孤立する。あるいは行政が新自由主義的な考え方に一元化されて儲からないものを無駄と考えていのちの電話とかのホットラインをなくしたり有料化して採算をとろうとしたりすると自殺が増えかねない。価値観を一元化しなければ、宗教的価値観を共にする人と助け合ったり、芸術的価値観を共にする人と一緒に遊んだりして、失敗しても多様な交友関係から自身の価値を確認して立ち直ることができる。しかし各分野の仕事が高度専門化してそれについていくだけで精一杯になって、他の分野の価値を学ぶ時間がなくなるのが現代社会の問題である。企業だとチェーン店は対応をマニュアル化することでどの支店でも同じ商品とサービスを提供できる反面で従業員を個性のない量産型作業員に仕立て上げてマニュアルに定められた価値観が成長の上限値になってそれ以上伸びないので、ボトムアップの自発的変化が起きなくなって好景気や不景気で環境が変わったときに柔軟に対応できなくて一気に廃れたりする。・フィクションの役割人間が他の動物よりも複雑な言語を持ったことで虚構を理解して神の概念を創造して宗教的価値を共有できるようになったように、言葉は単に情報伝達の手段ではなくて価値を共有手段でもある。良いフィクションは社会にある様々な価値を発見して共有したり価値を再確認したりする役割がある。例えば『鬼滅の刃』を単なる子供向けバトル漫画とは言えなくて、家族を大事にして弱者を助ける日本の伝統的な価値観を強調している点では他のバトル漫画とは異なる。それゆえにクリエイターには人間や社会を見て誰がどんな価値観で行動しているかを判断する観察眼が必要となるし、編集者や評論家は作品の複合的な価値の良し悪しを判断する審美眼が必要になる。神話とかの物語は国家を作るほどの影響力を持っていたけれど、ポストモダンの現代はイデオロギーとかの大きな物語がなくなった。だからこそ個人には自分がどう生きるかという価値を自覚して価値観を形成するための小さな物語が必要になる。フィクションには読者が独覚仏陀みたいに悟りを開くほどの影響力はないけれど、人生の大まかな方向性を決める道しるべ程度には役に立つ。しかし純文学や邦画が衰退して小さな物語を作ることさえままならなくなって芸術志向の良い物語が十分に提供できていない。最近はSTEM教育にARTが加わってSTEAM教育をするようになったように、芸術とリベラルアーツの創造力が科学技術や数学と同様に社会の発展に必要なものとして認知されつつあるけれど、芸術といえる水準にまでフィクションの質を高めないと、あまり重要でない娯楽として教育から除外されかねない。オックスフォード大学の機械学習の専門家でテクノロジーと雇用の関係を研究しているマイケル・オズボーン教授が発表した2030年に必要とされるスキル(The Future of Skills : Employment in 2030の62ページにランキングがある)で心理学、社会学、人類学、哲学とかの文系の学問がアメリカで将来必要になるものとして上位にランキングしていて、批判的思考や文章表現や文章読解も物理学やプログラミングや数学より上位に挙げられているように、今後は機械やAIができる作業よりも人間の心理や文化を理解したり正解がないことを考えたりする能力が重要になるだろうし、フィクションの創作は社会を考察して心理を分析して独創力や発想の豊かさや文章力が必要なのでそういう能力を鍛えるのにちょうどよいと思う。というわけで混迷した時代を切り開くにはフィクションが重要なので、フィクションに詳しい私を雇ったり創作のスポンサーになったりするとよいよ。私はYouTubeで小説の書き方を解説しているので、私のYouTubeチャンネルを登録するとお金をかけずに私を支援できるよ。
2021.11.06
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