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失われた独立心その3前回、自衛隊の人に「お国を守ってくれてありがとう。」と感謝して肩を叩いてはげます人は何人いるかというと、ほとんどいないのではないかと思うことを書きました。では日本を守っているというアメリカの軍隊に対して日本人は感謝しているかというと、そういう気配も見えません。この辺のところを日本人は考えることを投げ出してしまっているのですね。例えば、北朝鮮に核開発をやめさせることが6カ国協議の最大のテーマですが、日本政府は拉致問題を議題にすることを主張して北朝鮮と真っ向から対立しています。米中も拉致問題が会議の進展の障害になることを嫌っています。北朝鮮の核つきテポドンが落ちてくる可能性が一番高いのが日本なのに、なぜ日本はその問題よりも拉致問題を優先するのかと外国人は不思議に思っているようです。実は私もそう思うのです。ということは、日本人は北朝鮮のテポドンなどは落ちてきっこないと頭から考えているからです。それはそういう気配がある前にアメリカからの第1弾で北朝鮮は消滅してしまうだろうからそう思っているというふうでもないのです。とにかくそういうことはありえないと本能的に思っている。冷戦のときでも旧ソ連、中国は核をもっているから日本を攻撃しようと思えばできるわけですが、日本人は誰一人としてそんなことはありえないと思っていた。一方、アメリカは北朝鮮が核を持てば、米本土が攻撃されるとかなり真剣に思っている。あんなに距離が遠いのに。このちがいは一体何でしょうか。靖国神社参拝問題で、文芸春秋が常連の識者のアンケートをとった。この雑誌は六〇代、七〇代の保守的な意識の人たちむけの雑誌ですが、賛成が反対を若干上回っている程度でこの雑誌ならさもありなんの結果です。中国の内政干渉はけしからんという強硬論者の意見が目立っていました。中国の反日デモで日本人の死者が出なかったことはラッキーでした。事実、満州事変以後、日本人滞在者や日本の軍人で中国側に殺された事件が何件も起こり、それが戦争をあおりたてた。ところで、中国怪しからんの風潮がすさまじくなり、強硬論者たちが中国に宣戦布告せよと言い出したとしたとき、世論もそれについてきたときに、日本政府は宣戦布告の挙に出るかといえば、できないですね。それは日本に戦争能力がないからです。現在の自衛隊の戦力は外国軍が上陸しようとしてきたときに、水際で跳ね返す程度の戦力で、外国にまで行って叩くという戦力は持っていない。空母もなければ上陸用舟艇もない。戦争が長引いたときに兵器を補充生産する軍需産業もなく、シーレーンを防衛する海軍能力もない。戦争しても勝ち目がないとか言うのでなく、戦争をするかしないかを自主的に決定する国家としての能力が日本にはないということなのです。平和憲法というのとはちがいます。もし能力があるとすれば米軍とセットになって動くしかない。米軍が動く場合は、米国の国益が損なわれたと米国側が判断したときで、いったいどういう場合が想定されるかはわからない。今から10年ほど前に横須賀に米空母エンタープライスが来たときに、私は見学に行きました。私の少年時代、祖父が横須賀の陸軍要塞司令官をしていたので、横須賀の海軍基地に祖父につれて行ってもらったことがあります。そのときの横須賀の基地はすばらしかった。くろがねの軍艦が威風堂々とあちこちの埠頭に停泊していて、白布をつけた大砲がにょっきり天に向かって突き出していた。その姿はまさに国家の威信を象徴していました。港内を行き来する海軍将校や水兵たちの姿もかっこうよかった。このときのイメージがあったので、私は久しぶりに基地の中を見れるのだと思い、見学チームにすぐさま参加しました。見学者たちは炎熱の中を40分も待たされて入場しました。大きなホールのようなところに集められ、アメリカ軍の下級の将校が出てきて、「日本の皆様、ようこそ、わが国の基地においでいただきまして心から歓迎いたします」と挨拶しました。ちがう人によって構内におけるいろいろな注意事項を聞かされた後、マイクロバスに乗って現場に行きました。現場にいくまで実に広い基地内をひた走り、やっとエンタープライスが横付けされている埠頭に着きました。たしかに大きいので驚きました。甲板まで乗艦できるとの事前の予告と違い、乗艦は中止され、下から見上げるだけでした。20分もそこにいて撮影をし、また長い港内を巡って元のホールに帰りました。途中、海上自衛隊の基地が見え、小さな軍艦と潜水艦がありました。この日、私は激しい屈辱感に襲われました。東京都心からわずか2時間しかはなれていないこんなに広大なすばらしい基地がもはや日本のものでなく、アメリカのものになっていたからです。「ようこそ、日本のみな様、わが国の基地を・・」と言ったアメリカ将校の言葉がアタマに来ました。私はこの横須賀の基地がまるごと自衛隊の基地だったら満足したにちがいありません。しかし海上自衛隊の小さなフネはまるで裏庭のようなところにいるだけだった。こういう姿を見るにつけ、日本の自衛隊は完全に米軍の補助部隊にすぎなくなっていることを痛感しました。しかし、日本人の大部分、例の学者右翼の人々でさえ、こういう事実は見てみないふりをしている。小泉さんは横須賀の出身なのにこのことをどう思うのですか。私は沖縄の嘉手納空軍基地で働いている人の話を聞いたことがあります。「朝、ここに入って、夕方ここを出て自分の家に帰ってくると、まるで違う世界を行ったり来たりしているようだよ。基地のなかには映画館もあればスーパー、ボーリング場、ゲームセンター、レストラン、ホテル、プール、ゴルフ場から家族が住む芝生つきの庭がある家、などアメリカにあるものはそっくりあるよ。アメリカに行ったみたいだよ」。これを聞いたとき、まさに租界だなと思いました。(つづく)
2005/07/21
ここ数日、愛・地球博の瀬戸会場における当会関係の対話劇場に関わるため、失われた独立心シリーズからちょっとわき道します。地球博で愛知県の人は実によくやっているという印象を受けました。交通の連絡なども標識が徹底し、いたるところにボランティアの人が立っていて、言葉も親切です。JRも力が入っています。新幹線名古屋駅からそのまま万博八草行きの往復キップを買って、乗車時間約50分、万博八草からはすぐシャトルバスが出ています。これが一番早く着く。ここのところ、連日10万人から12万人の入場があり、混乱はない模様。さて、当会関係のプロジェクトの呼び物は瀬戸会場の市民パビリオンにおける対話劇場で未来創造「夢の共和国」と銘打っています。だしものは、14日、10:30~11:30 「モハメド君との対話とコンサート」13:30~14:30「夢の子どもたち、子どもたちの夢」橘川幸夫氏他、15:00~16:00「ベンチャーを夢で開け、一流を目指せ」西和彦氏、16:30~17:30「夢の次世代社会、都市山村共生社会づくり」曾根原久氏他。15日、10:30~11:30「図解思考であなたの人生は確実に変わる」久恒啓一氏、13:30~14:30「21世紀の世界の潮流と日本」寺島実郎氏、15:00~16:00「夢を実現する未来の学校」炭谷俊樹氏他、16:30~17:30「ゴミ(廃品)じゃない鳴らせば楽器」山口ともえ氏他。知研の展示も壁いっぱいにつくりました。15日いっぱいまで万博、名古屋にいます。
2005/07/13
さて、前回、国民は義務として兵役に従事し、戦時ともなれば命をささげる覚悟をもってもらうということは、国家が大変な責任を背負うことになることを書きました。戦前の役所で国民ともっとも深く接触した役所はどこかというと、警察もそうですが、陸軍と海軍がいちばん華やかでした。陸海軍は国民と親和するため、さかんに自己PRにつとめ、いろいろなイベントを企画して愛国心を盛り上げました。旗日には日の丸を家庭でも掲げ、軍隊に関係する記念日(陸軍記念日、海軍記念日)には華々しくパレードを行い、ふだんは入れない軍の施設に国民を招待して参観させ、兵隊たちの素人芝居を見せたり、福引をしたり、酒保でアンパンやらお汁粉などをサービスしました。海軍なら、ワンセットの軍艦に華々しく万国旗を飾って、軍艦マーチを軍楽隊が演奏し、観艦式をしました。航空隊はアクロバット飛行などをやって国民の喝采を博しました。こういうときにはいつも興奮してしまうのが子供たちや若者で、男の子は勇ましい姿を見て、大きくなったらぜったい軍人になるんだ、と思ってしまいます。女の子なら従軍看護婦です。陸軍は演習するたびに兵隊を民家に泊まらせます。街で軍服を着た兵隊や将校を見るのは日常茶飯事で珍しくありません。横須賀などに行くとかっこいい紺の海軍服を着た将校やセーラー服の水兵がたくさんいました。軍港の町に行くと胸のとどろきを覚えるほどでした。マスコミの記事で軍関係のものがのらない日はなく、演習観戦記とか新鋭の軍艦初搭乗記とか、戦車や飛行機の解説記事などが毎日のようにのり、子供むけはマンガもオモチャも軍隊ものが花盛りです。日中戦争中、祖父の家に御用聞きにきていた酒屋の番頭さんに赤紙が来て召集されました。祖母は座敷に上げて金一包を与えて励ましました。町内会は歓送会をやり、お得意さんたちもそれぞれ何がしかのお金を包んで「お国のためにしっかりお願いしますよ」と心づけをしました。出征のときは武運長久XXXX君と大書したのぼりを立てて、町内会の人たちがバンザイを叫んで送り出しました。本人は軍服に名を書いたたすきをかけ、「では行ってまいります」と凛々しい姿勢で敬礼し、拍手を浴びて去っていきました。駅ではおおぜいの人が日の丸を振って送りました。「歓呼の声に送られて、いまぞいでたつ国のため・・」なぜこういうことを思い出して書いたかというと、今の自衛隊とまるでちがうからです。自衛隊はすでに国際的にもかなりの戦力を保持していますが、一向に国民の前に姿を現しません。いるかいないかわからないのです。休暇になれば隊員は平服に着替えて街を歩いているので、自衛隊員だとはわかりません。国を守り、いざとなったら命を投げ出すのは自衛隊員です。したがって戦前戦時とは変わらないはずなのですが、国民は、では自衛隊に感謝の念を抱いているかというと、どうもそうとは思えません。街で会ったら、「国のためにしっかりやってくれよ」と肩をたたく人がいるでしょうか。迷彩服を着た人に会ったら、奇妙な違和感に襲われるだけではないでしょうか。マスコミの記事もほとんど自衛隊のことは書かない。イージス艦というすごい軍艦がどんな役目をするのか、そういうことを取材したり、解説した記事もお目にかかったことはありません。もっと言うと、日本では伝統的に、韓国、中国とちがって老人よりも若者を尊びます。それは若者が次代を担っているからですが、いざ戦争になったら若者がすすんで命を投げ出してくれるからです。ところが、今は若者は尊重されていない。尊重されているのは消費の対象としてだけ。若者にも次代を背負うという気概があまり感じられない。このことは自衛隊員がなんとなく疎んじられ、さわらないようにさせられている風潮と通底しています。私は何も戦前戦時のように軍隊がもっと張り出してくることを願って書いているのではありません。だけどこのことをものすごく奇妙に思うからです。(つづく)
2005/07/06
これから何回かにかけて、どこのマスコミにものらない、評論家が書かないことを書きます。論議を呼ぶかもしれません。長いこと考えてきたので、書くことにします。この国は、戦前と比較して極貧層といわれた人たちがいなくなり、一億総中流といわれるように、豊かさが行き渡り、民主主義もすすんだわけですが、一方で犯罪が増え、若い人たちに夢がなくなり、閉塞感が漂っているといわれます。なぜなのか。よってきたるところを私なりに結論を出します。抽象的な議論はいたしません。ぜひいろいろご意見をください。戦前生まれの人と戦後生まれの人の大きな違いは、戦争を経験したかどうかということがありますが、その前に「軍隊」を知っているかどうか、というのがあります。私は別に兵役経験はなく、学徒動員で軍隊の中で働かせられた経験しかありませんが、祖父が日露戦争、シベリア出兵に参加した陸軍中将、伯父がノモンハン事件でかならず名前が出てくる陸軍大佐で、子供のころ、祖父の家にはおおぜい軍人が出入りしていたこと、外地で育ったので、陸軍省の行政下で父の仕事も軍人との接触の仕事が多かった。そういうことから軍隊のにおいについては多少ふつうの方より知っていると思います。陸軍の軍人というと、まずこんなイメージを思い浮かべます。“汗くささ”と“革のにおい”。軍人さんは夏でも襟をきつくしめた軍服を着て、きちんとした身だしなみを心がけていますから、家に帰ってくるとか、くつろげるところに行くとまず襟のフックを外し、フウと息を吐きます。身体中に汗をかいていますから、汗くささがにおうのです。それから軍足というクツシタからくさいにおいが漂います。ドタグツという重たい軍靴、将校なら長靴をはいているので、油足のにおいが強烈です。軍帽を脱ぐと、頭はイガグリです。しかし演習などで日にやけているから顔は真っ黒です。しかし、軍帽をかぶっているから、額のところだけはやけていないのでおかしい感じです。それから大声、これはふだん演習とか教練で大声を出すからでしょう。職業軍人のものの考え方は、軍隊思考回路というものになっている場合が多く、戦後私が取材したり、会った旧軍人を総評すると、彼らは「戦争の専門家」でいわば戦争の技術者ということがいえます。自分が所属する兵科、たとえば歩兵とか工兵とか、砲兵とかいう専門分野については非常にくわしく知っているが、それ以外の兵科のことはあまり知りません。政治とかいう全体のことはほとんど考えない。日本人は明治以来、この軍人さんを大変敬いました。その主な理由は、国権を拡張するのに軍人の働きが大きかったという意識と、たぶん日露戦争でかくかくたる戦果を上げ、神様まで祀り上げられた(現実に神社がある)乃木大将と東郷提督の影響が大きかったと思います。大正時代に入ると、デモクラシーの気分が強くなり、軍人の姿はかすんだようです。それが満州事変が起こり、二二六事件が起こったころから、だんだん世間は軍事色が強くなり出します。画然と変わったのは昭和15年。軍人はお役人であり、陸軍省と海軍省はとりわけ大きく、国民に対する影響の大きい役所です。他の役所とちがうところは、国民が義務としてその組織の中にくりこまれる徴兵制度というものがあり、男子の国民は20歳になると徴兵検査を受けて五体健全な者は2年間兵営に入り、軍事教練を受け、軍務に服します。戦争になれば戦地に出され、命をささげねばなりません。だから軍隊は一般の国民をうむをいわさず巻き込むシステムです。これは日本だけでなく、各国とも同じような体制にありました。(つづく)
2005/07/03
当代きっての名経営者の一人である小倉さんの死を心から哀悼します。1976年に小倉さんがクロネコヤマトの宅急便を始めるまでに個人の小口荷物を送るのはそれはそれは大変でした。まず東京から九州の田舎まで個人の荷物を送るとしましょう。まず近所の薪炭店(こんなのがありました。夏は氷を売る)とか酒屋からリヤカーを借りてきて、それを国鉄(今のJR)の駅の裏のほうにある小荷物取扱室に持って行き、きちんと荒縄で縛ってあるかどうかをチェックされ、2枚のハリガネのついた荷札をくくりつけます。無愛想なオジサンが秤にかけて重さを量る。ブツブツ言われてやっとOK。いつごろ着きますかと聞くと、あんたの送り先は支線の駅だから早くて10日、遅ければ2週間だね、といわれます。受け取るほうは、そこの駅に荷物がついたかどうかを電話で問い合わせ、着いたと知れば、またリヤカーでとりに行きます。小倉さんはこんな面倒くさいことを解決して、コンビニまで持っていけば、あっという間に届けてくれる宅急便システムを開発してくれました。ほんとうにありがとう。ところがです。小倉社長がいよいよこの商売を始めようとしたとき、世間はもとより、当の会社役員は全員がこんな商売はぜったいなりたたないと絶対反対に回りました。個人の小口荷物の営業はぜったいに成立しないというのが業界の通説でしたから。小倉さんの会社は1919年に父上の小倉康臣氏が15人で大和運輸株式会社として、立ち上げ、東京小田原間小口貨物定期トラック便を始め、やがて関東一円にネットワークを広げ、戦時中は軍需輸送、戦後は三越などの小口配達、国鉄の通運事業などに参入し、やがて東京大阪間の定期便を始め、小倉さんは赤字を解消するために、いろいろ画期的な方策を考え出しました。トレーラーシステム、乗り継ぎ制、運転業務と積下ろし業務の分離、コンテナやフォークリフトを活用したユニット・ロード・システムなどです。しかし、70年代に入って、かの三越の岡田茂時代に百貨店の小口輸送はまったく割りに合わなくなり、撤退します。経営はピンチに陥りました。ここで小倉さんは起死回生の小口運送に賭けることになります。しかし、小口運送の採算性を証明するデータなんてまったくありません。中野区の2千世帯を調べたところ、各家庭で年間に出す小口荷物はだいたい2個というのがわかったほか、郵便小包は年間1億9千個、国鉄小荷物6千万個、かりに1個あたり5百円とすると、マーケットは1250億円という数字が出ました。しかし、どこで誰がいつ小口荷物を発送するのをどうしてキャッチするのか。考えれば考えるほど、絵空事に思え、成功の確率は低い。だから誰だってこんなことをやるはずはないのです。企業は採算性を予想するからこそ、事業を始めるのですが、小倉さんの偉いところは、とにかくサービスを徹底してお客さんを喜ばせれば、採算性は後からついてくるという信念を通したことです。このとき小倉さんを支えたのは、主婦は値切らないし、現金でその場で払ってくれるということと、吉野家が成功しているのは、メニュウを牛丼ひとつにしぼっているためコスト削減できることと、店員はアルバイト程度の人で人件費は安いから、あれを参考にしたことでした。こうして、米屋、酒屋を取次ぎ店にし、一個扱うごとに100円の手数料を上げ、ヤマト運輸はそこを回ってまずデポというところに荷物を集めます。デポからセンター(20キロ圏内に1個つくる)に集め、そこから都道府県に最低1箇所あるベースに集中するハブシステムを作りました。そしてベースからベースは大型トラックで運び、こんどは逆のコースでセンター、デポに送り、個人の家庭まで届けます。しかも翌日配送を原則にしました。この構想を発表したとき、役員は全員反対、こんなことをすれば会社は必ずつぶれると言って辞めていった人が多かったそうです。しかし、労働組合は会社がつぶれるよりはやってみようと協力を申し出た。小倉さんの語録は胸を打ちます。「サービスが先、利益は後」「車が先、荷物は後」「社員が先、荷物は後」。とにかくああだこうだと心配するより、サービス、車の数、人の数を先にふやして取り掛かれ、投資を惜しむな、営業や利益は必ず後からついてくるという考えでした。こうして商売がはじまると、面倒くささから解放されたお客さんは喜んで、1世帯あたり年間2個などという数字よりうんと増やすものであることが証明されました。しかし、小倉さんの前に立ちはだかった氷山のような冷たい壁は運輸省の規制でした。いちいち数えきれないほど不特定多数の小口荷物運送を規制する法律でいっぱいでした。不特定多数の小口荷物輸送は不特定多数の客がのる乗り合いバスと同じ扱いをされ、路線許可が下りません。それもそのはず、官業である郵便局と国鉄という商売の中に割り込むのですからがんじがらめに縛られたのです。これをひとつひとつ取り払っていく苦労は並大抵のものではなかった。小倉さんはワイロを使ったり、政治家に取り入ったりする人ではありませんから、以来血みどろの役所との戦いが始まりました。「官僚は虫歯、抜けばいい」。こういう明快な言葉を連発して、庶民の側にたった小倉さんは現代の快男子でした。
2005/07/01
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