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中国の反日運動が何時ごろから始まったかは、まず1915年に日本が中国政府に21カ条要求を出したときからでしょう。1914年に第一次大戦が始まると、日本はすぐドイツに宣戦布告し、1万6千の兵を出して膠州湾のドイツ権益地域を占領しました。表向きは戦争終了後、中国の袁世凱政府に返還すると言明しましたが、実際はこの権益を日本がひきつぐことを威嚇的に中国政府に認めさせていました。1915年に日本政府は21カ条の要求を中国政府に突きつけました。この21か条とは、実にたくさんの要求です。ドイツがもっていた山東権益をまるまる引き継ぐこと、旅順大連の租借期限を99年間に引き延ばすこと、南満州鉄道、安奉鉄道も租借期限を99年間に延長すること、南満州、内蒙古に日本臣民の商工業のための工場、社屋、商店などの建設を許し、租借権、所有権を認めること、現地で日本臣民が商売を自由にできるようにすること、中国政府は南満州、内蒙古に政治、財政、軍事に亘って日本人顧問を招聘すること、漢冶萍公司を両国の合弁とすること、中国沿海の港湾、島嶼を外国に貸したり、与えたりしないこと、中央政府にも日本人顧問を多数招聘すること、などなど実に細かく多岐に亘っており、日本の官、財、政、現地に出ていた商社や零細な商店主までが中国で儲けられるようにアンケートで要求を集めて政府に交渉を頼んだものです。日本でも欲張りすぎだと問題になったくらいですが、各方面の要求を絞りきれずにナンデモアリで出したものです。これが表ざたになると、案の定、中国国内で猛烈な反日デモ、ストライキが起こりました。中国はおくればせながら第一次大戦に参戦し、ドイツに対する賠償金の支払い停止、中国国内で連合国に労役夫や資材などを出して協力しました。戦勝すると、中国中で戦勝祝賀祭が行われ、ドイツの権益は当然帰ってくるばかりか、列国との不平等条約も解消されて、百年に亘る屈辱を晴らすことができるとパリ会議に期待し、粒よりの代表団を出しました。しかしふたをあけてみると、日本政府は袁世凱政府と密約してドイツ権益をひきつぐことがきまっており、英米仏伊ともその旨了解を得ていると主張し、中国側代表と正面からぶつかり、すったもんだの挙句、英米仏三国は協議して中国代表の会議参加をやめさせ、ドイツは山東権益を全部放棄すること、日本がそれを引き継ぐことに決めました。こういうトンビが油揚げをさらうようなことは、中国の学生はおろか、文盲の人が聞いても憤慨するだろうと思います。案の条、1919年5月4日、北京大学の学生がデモに立ち上がり、中国中の大学でデモ、ストの嵐が荒れ狂いました。私の父はこのころ、19歳で中国に亘り、三井物産の社員として日本製品の売込みをやっていましたが、いたるところで、反日運動にさらされ、日貨排斥で苦しんだ話を聞かされました。漢口でついに反日暴動に遭い、新婚当時の母と命からがら逃げ出しています。21か条はこうしたことでドイツ権益の継承以外は棚上げに終わりましたが、1931年に満州事変を日本が起こして、この問題の復活を果たしました。1934年に日本が満州国をつくり、張学良軍を締め出してからは、中国、満州国間の国境紛争が多発し、張軍をさらに南に締め出すために、日本はまた華北に傀儡政権をつくり、華北5省の本土切り離し工作を始めます。こうして一気呵成に戦争に突っ込み、泥沼にはまり、太平洋戦争まで行きました。中国の日本製品ボイコット運動の主役は学生で、その中には若き毛沢東も周恩来もいたわけですが、中国全土にひろがった反日運動の情景がどんなものであったかは、この前のテレビ映像でありありと想像することができました。中国歴史を見ても、中国で反乱の火があがると瞬く間に燎原の火のようにひろがり、どんな強力な政権でも収拾をつけることは困難になり、下手に弾圧すると、政権が吹っ飛ぶことになります。中国政府が小泉首相に靖国神社参拝をやめてくれというのは、「中国の人民を刺激するのはやめてほしい」というメッセージだと受け取るべきで、日本政府はこの面で中国政府を助けてあげるようにすべきです。小泉さんにはこの辺の事情をわかってほしいと思います。今日は、この辺で・・。
2005/04/29
さて、今日は中国上海の反日デモについてふれます。日本大使館に投げられた投擲物をみますと、ペットボトルが多く、石、卵とかトマト、ペンキ入りのビンなどがありましたね。ペットボトルは行進の間に飲むために携帯していたと思われます。石がすくなかったのは近くに石がなかったからでしょう。これで見るとデモ隊側にも計画的な実行ではなく、抑制の意向があったと思われます。本隊から離れてコース外の日本大使館のところに過激な一隊が無許可で流れてあのような不祥事になった。翌日に町村外相が訪日したときには大規模な再デモは起きなかった。日本でおきまりのような強硬論者が「中国、怪しからん、ヤッツケロ」という論調はあまり起きなかった。これは双方に理性が働いたからで、よかったと思います。こういうときに一番無責任なのは、強硬論者で、こういう人たちがあおって戦争に導きますから絶対にのさばらせてはいけません。しかし、日本人の大多数が反日デモの様子を映像でみたことは、歴史を回顧するうえで想像力がずいぶん広がってよかったと思います。中国の反日運動がいつごろから起こってそれが戦争に結びついたかの歴史はまた後で書きます。今日は、これで思い出したこと、私が経験した昭和27年に起こったいわゆる“血のメーデー事件”について書きましょう。日本が単独講和を結んで平和が回復し、独立祝賀式典が4月の末だかに皇居前広場で行われました。その数日後が総評主催のメーデーで、明治神宮外苑に20万人くらいの人が集まりました。実はその年まではメーデーは皇居前広場で行われていたのが、皇居前広場は皇居に近く、マッカーサーのいたGHQ(今の第一生命ビル)にも近いので不穏とされ、神宮外苑に移されました。これに対し、不当だとして裁判になり、禁止は憲法違反であるとして総評が勝訴しました。ところがメーデー近くなって吉田内閣は皇居前広場使用を再禁止しました。これに怒った労組、学生などのデモ隊約1万人がコースを外して日比谷公園に集まり、さらにそのうち4千人ほどのデモ隊が続々皇居前広場に移動していきました。「人民広場(当時そう呼ばれていた)を取り返せ」と口々に叫んで到着したときは、警官隊との小競り合い以外は何事も起こらず、デモ隊員たちは芝生にねそべって疲れた足を休めていました。私がそういう光景を眺めていたとき、急に木の幹をたたくようなボコボコという鈍い音があちこちでし始めました。何の音かと耳を向けると、それは警官隊がデモ隊員の頭を警棒でなぐっている音でした。隊員たちは頭を抱えて逃げ帰ってきました。見ると、いつの間にか黒雲でも沸いたかのように白いヘルメットの警官隊が続々増強されてきて数列横隊で対峙しました。その光景は実に恐怖でした。そのときに遅れて労組、在日朝鮮人と日雇い労働者たちの一隊が堂々と入ってきました。そのときにそれを排除しようとした警官隊と衝突が起こりました。デモ隊の過激な集団は衝突を予想してあらかじめ、各人がプラカードに作り変えていたのを解体して棍棒にし、それを振りかざして警官隊と殴り合いになりました。40分ぐらいの激闘だったと思いますが、誰が打ち鳴らしたのか、ドコドコドンドンという勇ましい太鼓の音がひびき、それにつれてデモ隊がワーと喚声をあげて突貫して警官隊を押し捲り、次に警官隊の逆襲、何度も何度も寄せては返す波のように、デモ隊が攻めていくと相手が引き、警官隊がピストルを発射しだすと、デモ隊はクモの子が散るように逃げてくる。最先頭で攻めていたツワモノが警官隊に取り囲まれて餌食になりました。やがて広場は負傷者の倒れた警官、デモ隊員が地面を埋めるほどになり、赤旗、旗指物、プラカードが強風にあおられた林のように揺れ動き、巻き上がる埃、ワーワーという喚声、怒号、警官隊のピストル発射音、太鼓の音などが入り混じって耳をつんざくようになりました。まさに戦争とはこんなものかと実感しました。あとで聞くと、有楽町駅、虎ノ門のあたりまでこの声が聞こえたといいます。わが外語大生約200人のデモ隊員は早速女子学生を後退させ、スクラムを組め、いやスクラムを組んだら手が空かなくなって戦えないなどの論争をやっていました。周辺のビルの窓にはどこも見物人が鈴なりのようになっていて、道路もヤジ馬でいっぱいでした。学生たちの一部は濠端にあったアメリカ人の大きな外車を4人くらいで横倒しにし、流れ出したガソリンに火をつけました。その煙が沖天していよいよ騒然たる光景になりました。消防車がきて赤い塗料の混じった水をデモ隊にかけました。赤く染まった衣服の者は帰途警官隊に尋問されました。中国の反日デモから、なんで血のメーデー事件の話になったかというと、デモ隊の中には一部の過激な、全体のおとなしい統制に我慢できない血の気の多い連中はどこの国にもいるということで、こういう一団は全体の何パーセントくらいかということで判断すべきですが、またこういう一団が大衆のポテンシャルな心情を顕在化してもいるということです。 勇ましい男がいまして、まだGHQの前に銃剣をもったMPがいる前で、GHQの窓ガラスを叩き割っていました。どこの大学の者か知りませんけど、驚きましたね。アメリカ人2名が濠に落っことされました。この日、デモ隊、警官双方の負傷者は800名、デモ隊の死者2名が出ました。死者の1名が東大生の樺美智子さん(外語大の教授の娘)だったので、女性にむかって発砲したことは警官隊にとって非常なマイナスになりました。今日はこの辺で、・・。
2005/04/28
これからブログを書き始めますが、まず私の経歴から。1931年生まれ。相当な年寄りです。15歳まで中国天津で生まれ、育ちましたので半分は中国人です。ただし血筋は純粋日本人。小学校、中学校時代は生物学者か農園経営者になろうと夢見ていましたが、終戦で両親が死んでから、引き揚げて麻布高校に入り、そこで中国関係のノンフィクションライターになろうと思い、東大の文2で東洋史をやろうとしましたが、落っこちて外語の中国学科に入りました。卒業後12年間食品会社で働き、1970年に会社をやめて知的生産の技術研究会というものを設立しました。以来、あれこれの副業をしながらこの会をつづけています。この会をつくった動機などの説明はまたの機会にゆずります。今は中国がらみの世界史に関心が深く、中国関係のノンフィクションライターの夢を復活しました。いろんなことをこれから書いていきたいと思います。ではまた明日。
2005/04/27
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