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シンガポール戦で忘れてならないのは、華人の犠牲者が多かったことです。シンガポール華僑は華僑の中でも成功して富を築いた者が多く、彼らは早くから孫文の辛亥革命を援助したり、亡命者をかくまったりしていました。抗日戦争になると多額の寄付を行い、重慶政府を応援していたので、日本軍の憎しみの的になっていました。シンガポール戦でも華僑の義勇兵5千人が前線で戦い、1万人が後方支援していました。山下・パーシバル会談で白人の生命は保護されましたが、それ以外は対象外だったので、日本軍は反日華僑5万人を処刑しようとしました。しかし、すでに平服に着替えていた義勇兵を判別できず、金持ち、英語教師、身体強壮な者、いれずみをした者を選び出して海岸で穴を掘らせた後、一斉射撃で殺してしまいました。犠牲者数は例によって誇大なものから少ないものまでまちまちですが、当時の日本大使館員の回顧談や日本人学者の良心的な調査で約1万から1万9千人というのが信憑性があります。ラッフルズホテルの近くに4民族の慰霊塔が立っています。工事中のため参拝できませんでした。話題を変えます。昭和17年も後半に入ると、ミッドウエー海戦を転機にして、ガダルカナルの激戦をへて日本軍は次第に窮地に追い詰められていきます。昭和18年になると、華々しいニュースは聞かれなくなり、百年戦争を覚悟しようなどという標語に変わりました。このころから国民は怪しみだし、敗戦に向かいます。私はそのころ、天津の日本中学の生徒でしたが、大連の日本中学の校長から天津日本中学の校長になった丸山先生という人という人が居ました。なんと勅任官でした。私と小学校は同級だったが、飛び級で1年上になったボリス・カラエフというロシア人の生徒が居ました。私たちは白系ロシア人だとばかり思っていたが、実は赤系だった。したがって彼は親が家で短波で聞いている放送を知っているわけです。丸山校長はしょっちゅうこの子を呼んでいまヨーロッパ戦線はどうだなどと聞いていた。丸山校長はリベラルな思想の持ち主で、決して軍国主義一点張りの教育をしませんでした。ある日、ボリスが「スターリングラードではわが軍が勝ちました」と言ったら、丸山校長は「ほう、君の国はよくやった」と頭をなぜてくれた。ボリスはそれで嬉しくなってそのうち、日本は負けるから、そのときの準備をしといたほうがいいぞと親切心で級友に言ったところ、上級生の猛者から呼び出され、柔道場で60回くらい投げ飛ばされて痛い目に合わされた。私が書いた『天津の日本少年』(草思社)をボリスが読んで、ロシアから問い合わせがあり、旧交が復活しました。さて、先の戦争は日本人にとって一体どういう意味があったのでしょうか。おびただしい兵が戦争のみでなく、補給が絶たれたため、餓死、病死し、銃後の国民も皆殺し的なルメイのじゅうたん爆撃と原爆投下で殺され、家を焼かれ、食うものもなくなり、すさまじい苦労を強いられた。それでも頑張って国民は健気に戦った。私は中国侵略はまちがった戦争だったと言っていますが、太平洋戦争の段階に入ると、今でも本能的に認識が変わるのです。日中戦争の時代は「永遠の東洋平和のために戦う」というのがスローガンでしたが、子供はもちろん大人でさえもその理屈がわからなかった。しかしいつまでも戦争が続いてどうにも息苦しくなってくるのですね。南京に汪精衛政権ができると、日本軍部も日満支親善と急速にムード演出を変えます。たとえば子供の世界では、のらくろマンガで中国人はブタ、満州人はヒツジというふうにされていたのが、友好国民を侮辱するようなことはけしからんと田河水泡が軍から怒られる始末。太平洋戦争になって、南方の欧米の植民地があっけなく日本軍によってひっくり返されると、今度は「アジアの欧米帝国主義からの解放」というふうに後付の理論が作られます。このときから、戦争に批判的だった人も一斉に転向し出します。日本になびいてくる国が増えるに従い、ルーズベルトはフィリピンの独立を認めると言い出し、チャーチルにイギリスも香港を中国に返し、インドやビルマを独立させたほうがいいと言い出します。そういう使命感高揚の時代はあっけなく過ぎて、戦争が土壇場になってくると、日本という国が滅亡するかどうかの危機段階に入ってきます。負けたら国がなくなる、自分たちの命もなくなるという存亡の段階に入った。ドイツとソ連がスターリングラードからベルリン陥落まですさまじい殺戮戦を繰り広げ、彼我3千2百万人の死者を出しますが、この段階になると、ドイツ人はヒトラーナチスへの忠誠のために戦うというようなものではなく、負けたらドイツという国がなくなる、男はことごとくシベリアにやられて強制労働をやらされる、女は皆レイプされるという恐怖感から死に物狂いで戦うようになった。ソ連兵も社会主義のために戦うというようなことではなく、ドイツ人に皆殺しにされる、自分たちの国がなくなってしまうという恐怖感から死に物狂いで戦う。このような状況を、アンソニー・ビーヴァーは敵味方の戦時資料から民間人の書簡まで調べて『スターリングラード』『ベルリン陥落』(翻訳書あり)に書いています。この戦争がすさまじさは身の毛がよだつほどで、ドイツは、ロシアの捕虜にドイツ兵の服を着せて前線に突っ込ませ、躊躇する者は後ろから容赦なく射殺する、ロシア側も同じようなことをする、両国とも占領地域での略奪破壊、女性に対するレイプはすさまじいばかりですが、おあいこなので表にあまり出ない。ドイツの共産主義者はソ連側について祖国と戦い、ロシアの反共主義者たちはドイツ側に立って祖国と戦ったが、この人たちは両国からも冷遇され、最後は自己矛盾で精神破産状態に陥ったとあります。これを読んで、あのときの日本人も同じだったのだなと納得しました。戦争は、目的と結果が違って出るのですね。日本がやった戦争の結果、何が起こったかというと、あまりにも簡単に欧米の植民地支配をひっくり返したので、現地の人たちが完全に目が覚めてしまったのですね。こんなやつらに首根っこを百年以上も抑えられていたのかと。それで東南アジアの国から始まって、インド、中東からアフリカまで民族主義が粋に一斉に噴出し、独立の気運がみなぎり、もう後に戻らなくなった。 したがって、あれほどの犠牲を出して日本国民があがなったものは、人類史的に見るならば、有色人種である日本人が白人帝国主義を終焉させたという偉大な歴史の転換をしたのですね。もうひとつは、反共を国是としていた日本の陸軍が、同じ反共で共産軍を延安まで追い詰めていた蒋介石軍を南に追い落としてしまったので、北のほうで共産軍が勢力をみるみる拡大し、国民党の支持基盤である地主層や紳士層、暴力団を根絶してしまった。それで戦後は二度と腐敗した蒋介石の支配はもどらなかった。日本国内での顕著な変化は、軍需産業によって重工業と技術が進歩した。官僚がものすごく強くなった。この戦争でバラバラであった国民がひどく団結するようになった。これは戦争直後の再建に役立つことになります。日本人は結果的に歴史の大転換を行ったのに、そのことを日本国民は理解していないのですね。あらゆる言説がそのことを意識させまいとした。死に死にの状態であったとき、マッカーサーから命を助けてもらったと思った瞬間にそれまでの価値観を転換してしまった。歌舞伎の演し物ではないが、昨日の仇と酒を酌み交わして、今日からは義兄弟のよしみを結ぶというのは日本人の特技なのですね。侵略戦争の部分を切り離して、アジア解放の部分だけ、それも結果としてそうなっただけで論理上なりたたないという説もありますが、歴史の現実としてまちがいなくそうなったのだから、日本人の自信回復のために、そういう考え方をしてもいい権利があります。しかし、A級戦犯は責任者として国を誤ったのですから、小泉さんはA級戦犯の合祀をやめさせて、参拝を自粛しないといけないのは当たり前です。明日からは、マラッカに行った話しをします。
2005/05/30
さて、いよいよシンガポール攻略作戦です。まず山下奉文司令本部はシンガポール島が眼下に見える高台のジョホールのサルタンの屋敷に取りました。まるで東郷平八郎が旗艦三笠のブリッジに上がったようなものです。ここから上陸した部隊の行動が手に取るようにみえました。2月8日から9日にかけての夜、日本軍は1万3千の将兵を上陸させ、さらに夜明けまでに1万名、計2万3千が上陸に成功しました。 チャーチルが驚いたことには、シンガポール島はマレー側には何の防備設備も構築していなかった。シンガポールの防衛は海軍基地を防衛するためであって、正面の海からの脅威には要塞砲で絶対の自信があるが、背後からの脅威はまったく考えておらず、要塞砲も180度回転はできなかった。戦争の危険が迫った後でも、気がついて注意した人が居ても、実行しなかった。まさかジャングルに覆われたマレー半島から敵がやってくるとは思っていなかったのですね。 したがって急場の散兵壕しか掘っていなかった。もちろんそこから小銃大砲で撃ってきたが、探照灯で海面を照らすと、日本軍に所在を知られるので、つけなかったためめくら射ちになった。日本軍は陸路をひそかに運んできた特別の上陸用舟艇に40人を乗せ、もうひとつは簡単に組み立てられ、船外機をつけた折りたたみ式木製のボートに12人をのせて海面を覆うようにしてやってきた。舟にのれない兵は頭に銃と背嚢をのせて泳いで渡ってきた。堤道は爆破されていたが、不完全な爆破のため、壊れたところは引き潮で約2メートル程度の深さだったので歩いて渡れた。こうして3万に近い兵が上陸し、ブキテマ高地を目指して攻めてきた。パーシバル中将の下にはまだ8万5千の軍隊がいたはずですが、インド兵、豪州兵はまったく戦意を失い、各個撃破されて、シンガポール市内に逃げこみます。市内は爆撃が絶え間なく、水道は止まる、逃げ出す避難民の雑踏、空を覆うばかりの石油タンクから立ち上る黒煙、敗残の英印兵による略奪暴行など阿鼻叫喚の状態をジェイムス・リーサーの筆は生々しく描写しています。パーシバル中将は大変有能な実務能力のある参謀あがりの軍人だったようですが、将の器ではなく、混乱を収拾できず、降伏を決意します。降伏調印はブキテマのフォードの工場で行われました。山下がこの工場を選んだのは、そこは東洋一の最新式工場で、現地人はその威容に圧倒されて、白人には到底敵わないと劣等感にうちのめされた場所だからで、ここで白人に降伏させて恥をかかせるならば、その演出効果は抜群だろうと思ったらしいのです。降伏の調印式には世界から報道陣が詰め掛けました。勝者と敗者の明暗を分けた表情が日本中の映画館でニュース報道されました。そのときの言葉のやり取りは有名です。山下「あなたは降伏するのかしないのか。イエスかノーか。もし降伏するなら無条件でなくてはならない。ご返事はどうですか。イエスかノーか」パーシバル「明日の朝までお待ち願えないか」山下「それは待てない。日本軍部隊は今晩総攻撃をかけることになっています」パーシバル「東京時間で18時30分までお待ち願いたい」山下「そういうわけなら総攻撃を開始します。それでもいいですか。イエスかノーか」パーシバル 無言山下「私は決定的な返事をうかがいたい。それもあくまで無条件です。ご返事は」パーシバル「わかりました」山下「それでよろしい。射ち方止めの命令は午後10時きっかりに出すこと。私はただちに市内の治安維持のために1千人の日本兵を派遣します。同意しますか」パーシバル「イエス」パーシバルは市内のイギリス人、オーストラリア人の生命の安全の保証について依頼し、山下は「それは安心してよろしい。私は明確に保証します」と答えています。このとき、山下がしつこいばかりに即時無条件降伏を迫ったのは、日本軍も武器弾薬が種切れで、英豪軍の増援部隊の到着まで時間を稼がれることを恐れたこと、この降伏も時間稼ぎのゼスチャアではないかと疑っていたことなどがあとで語られています。いわばスレスレだったのですね。不沈軍艦とうたわれたプリンス・オブ・ウエールとレパルスが簡単に沈められ、欧米帝国主義のアジア支配の象徴であったシンガポールが陥落したということは、白人の植民地支配がこの一戦によって終焉したという意味で、世界中を震撼させたのですね。山下中将はこの作戦の成功で一躍世界的英雄になり、日本で人気絶大になりますが、東条に嫉妬されて、満州に左遷されます。ふたたびフィリピンの激戦場に軍司令官として戻され今度は悲劇の将軍になります。そして刑場の露と消えます。一方、パーシバルは満州に捕虜として監禁され、終戦後さびしく帰国します。国王から第3級の勲章をもらって慰められ、イギリスの田舎で静かな老後を迎えます。この二人の役者立てがものすごくストーリー的なのですね。マレー・シンガポール作戦は、英印豪軍の損失は13万、内捕虜10万、日本軍は戦死3507名、負傷6150名ですが、相当量の兵器、物資を獲得し、厖大なゴム、錫、石油資源を連合国から奪い取りました。 シンガポールに続いて、ビルマのラングーン(ヤンゴン)も陥落し、コレヒドール要塞も陥血、マッカーサーはオーストラリアに撤退します。とにかく昭和17年前半は日本は連戦連勝で、日本中が旗行列、提灯行列続きで、国民は興奮で酔っ払ったような気分。おそらく日本国民の赤ん坊から老人までこんなに団結して高揚した日々はなかったでしょうね。このように書くと、私は戦争賛美者みたいですが、ありのままの歴史にせまろうと思っています。また明日書きます。
2005/05/28
さて、いよいよシンガポール攻略作戦です。まず山下奉文司令本部はシンガポール島が眼下に見える高台のジョホールのサルタンの屋敷に取りました。まるで東郷平八郎が旗艦三笠のブリッジに上がったようなものです。ここから上陸した部隊の行動が手に取るようにみえました。2月8日から9日にかけての夜、日本軍は1万3千の将兵を上陸させ、さらに夜明けまでに1万名、計2万3千が上陸に成功しました。 チャーチルが驚いたことには、シンガポール島はマレー側には何の防備設備も構築していなかった。シンガポールの防衛は海軍基地を防衛するためであって、正面の海からの脅威には要塞砲で絶対の自信があるが、背後からの脅威はまったく考えておらず、要塞砲も180度回転はできなかった。戦争の危険が迫った後でも、気がついて注意した人が居ても、実行しなかった。まさかジャングルに覆われたマレー半島から敵がやってくるとは思っていなかったのですね。 したがって急場の散兵壕しか掘っていなかった。もちろんそこから小銃大砲で撃ってきたが、探照灯で海面を照らすと、日本軍に所在を知られるので、つけなかったためめくら射ちになった。日本軍は陸路をひそかに運んできた特別の上陸用舟艇に40人を乗せ、もうひとつは簡単に組み立てられ、船外機をつけた折りたたみ式木製のボートに12人をのせて海面を覆うようにしてやってきた。舟にのれない兵は頭に銃と背嚢をのせて泳いで渡ってきた。堤道は爆破されていたが、不完全な爆破のため、壊れたところは引き潮で約2メートル程度の深さだったので歩いて渡れた。こうして3万に近い兵が上陸し、ブキテマ高地を目指して攻めてきた。パーシバル中将の下にはまだ8万5千の軍隊がいたはずですが、インド兵、豪州兵はまったく戦意を失い、各個撃破されて、シンガポール市内に逃げこみます。市内は爆撃が絶え間なく、水道は止まる、逃げ出す避難民の雑踏、空を覆うばかりの石油タンクから立ち上る黒煙、敗残の英印兵による略奪暴行など阿鼻叫喚の状態をジェイムス・リーサーの筆は生々しく描写しています。パーシバル中将は大変有能な実務能力のある参謀あがりの軍人だったようですが、将の器ではなく、混乱を収拾できず、降伏を決意します。降伏調印はブキテマのフォードの工場で行われました。山下がこの工場を選んだのは、そこは東洋一の最新式工場で、現地人はその威容に圧倒されて、白人には到底敵わないと劣等感にうちのめされた場所だからで、ここで白人に降伏させて恥をかかせるならば、その演出効果は抜群だろうと思ったらしいのです。降伏の調印式には世界から報道陣が詰め掛けました。勝者と敗者の明暗を分けた表情が日本中の映画館でニュース報道されました。そのときの言葉のやり取りは有名です。山下「あなたは降伏するのかしないのか。イエスかノーか。もし降伏するなら無条件でなくてはならない。ご返事はどうですか。イエスかノーか」パーシバル「明日の朝までお待ち願えないか」山下「それは待てない。日本軍部隊は今晩総攻撃をかけることになっています」パーシバル「東京時間で18時30分までお待ち願いたい」山下「そういうわけなら総攻撃を開始します。それでもいいですか。イエスかノーか」パーシバル 無言山下「私は決定的な返事をうかがいたい。それもあくまで無条件です。ご返事は」パーシバル「わかりました」山下「それでよろしい。射ち方止めの命令は午後10時きっかりに出すこと。私はただちに市内の治安維持のために1千人の日本兵を派遣します。同意しますか」パーシバル「イエス」パーシバルは市内のイギリス人、オーストラリア人の生命の安全の保証について依頼し、山下は「それは安心してよろしい。私は明確に保証します」と答えています。このとき、山下がしつこいばかりに即時無条件降伏を迫ったのは、日本軍も武器弾薬が種切れで、英豪軍の増援部隊の到着まで時間を稼がれることを恐れたこと、この降伏も時間稼ぎのゼスチャアではないかと疑っていたことなどがあとで語られています。いわばスレスレだったのですね。不沈軍艦とうたわれたプリンス・オブ・ウエールとレパルスが簡単に沈められ、欧米帝国主義のアジア支配の象徴であったシンガポールが陥落したということは、白人の植民地支配がこの一戦によって終焉したという意味で、世界中を震撼させたのですね。山下中将はこの作戦の成功で一躍世界的英雄になり、日本で人気絶大になりますが、東条に嫉妬されて、満州に左遷されます。ふたたびフィリピンの激戦場に軍司令官として戻され今度は悲劇の将軍になります。そして刑場の露と消えます。一方、パーシバルは満州に捕虜として監禁され、終戦後さびしく帰国します。国王から第3級の勲章をもらって慰められ、イギリスの田舎で静かな老後を迎えます。この二人の役者立てがものすごくストーリー的なのですね。マレー・シンガポール作戦は、英印豪軍の損失は13万、内捕虜10万、日本軍は戦死3507名、負傷6150名ですが、相当量の兵器、物資を獲得し、厖大なゴム、錫、石油資源を連合国から奪い取りました。 シンガポールに続いて、ビルマのラングーン(ヤンゴン)も陥落し、コレヒドール要塞も陥血、マッカーサーはオーストラリアに撤退します。とにかく昭和17年前半は日本は連戦連勝で、日本中が旗行列、提灯行列続きで、国民は興奮で酔っ払ったような気分。おそらく日本国民の赤ん坊から老人までこんなに団結して高揚した日々はなかったでしょうね。このように書くと、私は戦争賛美者みたいですが、ありのままの歴史にせまろうと思っています。また明日書きます。
2005/05/28
5月15日、マレーシアに渡りました。シンガポールとジョホールバルとの間には約300メートルくらいの堤道(コーズウエイ)があります。昔は鉄道が自動車道と並行してあったそうですが、今はありません。通関に約30分かかりました。ジョホールバルの工業団地には日系をふくめ各国の先進企業が進出しています。熱帯性の濃い緑の中に近代的なよそおいの工場が見え隠れしながら続いています。煙突の煙も騒音もなく、緑の中に静まりかえった感じ。まったく工場とは思えません。日本の著名な電機メーカーはほとんど出ています。息子の住んでいるアパート(日本で言うマンション)も立派で、すぐ回りがゴルフ場です。どこもそうですが、日本人は週末はゴルフで過ごす由。息子の友人の周さんの運転するヒュンダイでマラッカに向かいました。100キロ以上のスピードで飛ばしました。途中、昆虫博物館を見学。昆虫は蝶以外はあまり居ませんでしたが、ヒラヒラとかぼそい飛び方で飛ぶ蝶は私の少年時代を思い出させました。昆虫以外にもいろいろ動物が居ました。豊富なヘビ類が居り、朝青龍の太ももくらいある胴の大蛇や紐のように細い緑色の蛇がいてびっくりしました。それから高速道路をひた走り、周囲は行けども行けども椰子林やパイナップル、熱帯性の名を知らない植物林がどこまでも続きます。シンガポールからマラッカまで約2時間ですが、この道路を走りながら、小学校5年生のころを思い出しました。太平洋戦争が始まったばかりの1942年2月、紀元節までにフィリピンのコレヒドール要塞が落ちるか、シンガポールが落ちるか、手に汗をにぎる毎日でした。本間雅晴の第14軍は苦戦でしたが、山下奉文の第25軍は快進撃でした。密林の中を走る道路を日本軍は自転車で行き、戦いになると、ゴム林の中に自転車を隠し、それをマレー人の協力隊が守っていて、次の作戦に移ると彼らが大挙して日本兵のところに運んで行くという記事が当時の新聞にのって子供たちを興奮させました。このマレー・シンガポール作戦は辻政信が計画を立てたものですが、世界の戦史に褒め称えられるほど巧妙であったばかりか、欧米人のアジア支配の象徴であったシンガポールを落とすことによって世界史の流れを変えた偉大な戦績であったと戦争史家リデル・ハートも認めています。作戦の経過については、辻政信、アーサー・スウインソン、ジェイムス・リーサーの本がほぼ一致しています。あらましをいうと1941年の12月8日、真珠湾攻撃とほぼ同時に海南島の三亜港から上陸船団が駆逐艦の護衛の下に、マレー半島の細いクビのところにあるタイ領のシンゴラ、バタニに上陸、タイ軍と小ぜりあいの後に、英領マレーに入りジットラの防衛ラインを簡単に越えて入った。この上陸がうまくいったのは、チャーチルが派遣した戦艦プリンス・オブ・ウエールスと巡洋戦艦レパルスが日本の海軍機によって撃沈されていたからでした。このころ、大艦巨砲主義は何も日本だけでなく、外国も同じで、イギリスのZ艦隊には空母インドミタブルも居たのですが、途中ジャマイカで座礁して来なかった。それで航空機の護衛ナシでやってきた。ところあっけなく、日本海軍の水平爆撃機34機と雷撃機51機によって沈められてしまった。まさか航空機で沈められるとは思ってもみなかった。彼我の投入戦力は日本軍約4万、戦車120両、飛行機約600機、英印豪軍約8万5千、飛行機約280機、戦車はなかったようです。北部マレーのジトッララインで英軍は必死に抵抗しましたが、突破された後は、ときどき立ち止まって抵抗したものの、崩れる一方でシンガポールに退却していきます。追うほうは西海岸を第5師団と第18師団の主力、海岸沿いを小舟艇で近衛師団、東海岸をコタバルから上がった侘美、木庭支隊が攻めくだり、侘美大隊はクワンタンから主力に合流して、1月末に一気にジョホールバルに殺到します。このように一方的な勝利に終わった原因はいろいろ挙げられていますが、日本軍の航空機が優勢なことがまず挙げられます。陸軍の隼戦闘機、海軍のゼロ戦にイギリスの旧式なバッファロもハリケーンもかなわなかった。また英軍にはどういうわけか、戦車がなかった。兵員の訓練度も低く、豪州軍はわずか1ヶ月たらずの訓練でやってきた。将校も第一次大戦の旧式な経験者しか居なかった。英印軍は道路中心に守っていて、まわりのジャングルは通れないと決めていたが、日本軍は隙間を通り、ジャングルを迂回して背後から突くとか、夜襲をかけて虚を突いた。桶狭間の戦いではないが、とにかく戦争の常道をはずれた予想外のことをやると思われた。近衛師団は海を舟艇で先回りして背後に上陸して牽制した。日本軍の進行速度が速かったことが決定的で、崩れてきた英軍が立ち止まって態勢を立て直すひまを与えなかった。兵器弾薬食糧などの補給品を運び出す暇もなく、それはそのまま日本軍に渡り、チャーチルの給付品だといわれて、日本軍の補給品になった。こうして1月下旬、日本軍はジョホールバルからいよいよシンガポール進攻作戦に移るのですが、それはまた明日の続き。
2005/05/26
また、シンガポールの話をします。オーチャード通りに大きな高島屋があってびっくりしました。ものすごく立派ですね。中に紀伊国屋書店があってこれまたびっくり。東京でも新宿の店くらいの広さがありました。ただし1回フロアですが。日本語、英語、中国語の本がびっしりで、検索も案内も親切です。日本語のコーナーだけでも東京の中くらいの書店くらいあります。そこで息子にいったいこんなに本を買う日本人がどれだけいるのかと聞きましたら、シンガポール在住の日本人は約2万人、しかし周辺の国から出張してきた日本人サラリーマ ンが買っていくとのこと。アラブ人街、インド人街に行ってみました。やはりそれなりの雰囲気で味がありました。アラブ人街は衣料中心、インド人街は装飾品や衣料、果物がにぎやかでした。それぞれ若干の買い物をしました。チャイナタウンに行って中華料理がたべたいなと言ったら、息子は、ここは全体がチャイナタウンだから横浜の中華街みたいなものはないとのこと、なるほどと思いました。それで高島屋の中にある海鮮バイキングでけっこうたべて日本円換算したら、約1500円。やはり安かった。それからラッフルズホテルに行きました。ここはもとラッフルズがいた邸宅とのこと。実に瀟洒、中には一流のブランド店が出ていて、ちょうど東京の帝国ホテルみたいな感じ。ここのブランド品を買いに金沢から3人の若い女性が来ていました。東京で買うより半値で買えるからその分遊んで帰れるとのこと。来たのは3回目というからこれも驚きでした。さてラッフルズという人のことを知りたくて、帰国後図書館から参考本を借りてきました。戦前に出た信夫清三郎氏の『ラッフルズ伝』は有名ですが、これは手に入りませんでした。この本は戦争間際に出たところ、敵国のことをほめているというので発売1週間で禁止になった。そこで鶴見良行著作集5の「マラッカ」を借りました。この鶴見良行氏は鶴見祐輔氏の弟か従兄弟か忘れましたが、2人ともなかなかの人です。良行氏の本はきわめてよみやすく、これ1冊で東南アジアのことがだいたいわかります。さて、ラッフルズですが、貧しい家(父は船長)の出自で18歳でロンドンの東インド会社の給仕になり、大変な勉強家だったので、1805年にマレーのペナン島にある東インド会社の事務所の副事務官に昇進します。その後、欧州でナポレオンがオランダを併合しました。そのときにフランスがオランダ領の島に進出してきてはたまらないと、ジャワに侵攻して占領し、彼はジャワの副総督になります。その後、フランスとオランダが和平し、ふたたびジャワはオランダに返還されたので、ラッフルズのシンガポールづくりはその時点から開始されます。このころ、イギリスの東南アジアの拠点はスマトラ島の西海岸のベンコーレンとペナンだけでした。そのころ、インドネシアの島々や中国大陸との交易の拠点はシンガポールの東側のビンタン島でオランダが制していましたが、ラッフルズはマレー半島の先端のシンガポール島を発見します。小さな島で淡路島くらい。ときに1819年、この島は砂浜だけの島で住民は土人が150人しかいなかった。ラッフルズはジョホ-ルのサルタンからただのようなお金でこの島を購入し、近代的な都市の建設にかかります。すると、たちまち華僑が入り込んできて人口は1万人に急増、以来東南アジア随一の近代貿易港に変身します。ラッフルズは不幸にも、多大の借金をこしらえて、祖国に帰り、シンガポールの繁栄を見ずして44歳で死んでいます。シンガポールの中心部、ラッフルズが上陸したという地点にはラッフルズ像が立っています。この国の産みの親としてラッフルズは征服者とか収奪者でない恩恵者でたいへん尊敬されていることがわかりました。今日はここまでにして、これから出かけます。
2005/05/25
しばらくブログを休みましたが、5月12日から16日まで、シンガポールに行っていました。それから帰ってきて会誌の発送、農林研修所の図解講師などをやり、暇がありませんでしたので、ブログを休んでしまいました。そのかわりずいぶん材料を仕入れたので、これから10日分くらい書きます。5月12日、8年ぶりの海外旅行でした。息子がマレーシアに4年半くらい駐在していて、そろそろ帰ってくるので、その前にシンガポール、マレーシアと5日間旅行したのです。この間、ずいぶんいろいろ勉強になり、新しい発見がありました。シンガポールのメインストリート、まあ東京で言えば銀座ですが、オーチャード通りの裏手にあるヨークホテルというところにとまりました。シンガポールは77%が中国系、17%がマレー系、のこりがインド系とのことで、圧倒的に多いのが中国系ですからここは中国系住民の町といえると思います。接触した人たちは息子の友人や添乗員、ホテル、店員などほとんど中国系でした。シンガポールで添乗員の名前を聞くと、リチャードだとか、ヘンリーだとか、トーマスだとか、イギリス風の名前を言います。その下の名は何かと聞くと、ワン、だとかウエンだとかの中国姓です。どうみても、リチャードだとかヘンリーだとかトーマスだとかにはみえない中国人の顔だから滑稽ですね。ところがマレーシアにいくと中国系は27%くらいになり、イギリス色がなくなります。こういう中国系の人たちはどういう祖国愛をもっているのか関心が出ました。こういうことはあまりダイレクトに聞けない話ですから、息子との話の中で、こんな結論になりました。彼らの祖国は中華民族だと。私がフィリピンに1年いた経験からも納得しました。地図でインドネシアまで囲んだ範囲を大中華圏だといいますが、たしかに中国系の人たちが実権を握っているという点ではそういえると思います。そこにいる華僑の人たちは、同じ中国系でも大陸系なのか、台湾よりなのかというと、そういうことはいっさいノーコメントですね。ところで大中華圏でくくられる台湾の話ですが、台湾の人は、中国式の顔をし、北京語を話し、中国風の名前をつけていますが、いまや、これを中国系といえるかどうかということを考えました。日本が日清戦争で台湾を領有したとき、福建省、広東省などから渡ってきた人たちで日本領となるのを好まない人たちは帰しています。日本領下で住むことを受け入れた人やアミ族とか高砂族とかの原住民はもちろんそのまま居つきました。日本の領有時代は約50年間続き、戦後は蒋介石の国民党が敗れて台湾に逃れてきました。この人たちは外省人といわれ、日本時代から居た人やその子孫は内省人といわれ、対立があったようです。台湾の陳総統は台湾オリジナルの人で、台湾独立派です。この人たちは中国系とはいえない人たちです。しかし、外省人である人たちは台湾独立には反対であるか疑問をもっている人が多く、その点では大陸と共通しています。日本が戦った相手は蒋介石政権で、蒋介石は昭和9年頃までに共産党を追いつめて延安の洞窟地帯に10万人を押し込めるまでに行っていましたが、その後、満州事変が拡大し、日中戦争になって日本軍に重慶まで追われるようになりました。国民党からいうと、日本のおかげで国共内戦が挫折し、ついに政権を共産党に奪われることになったと考えている人が多いのです。日本政府は戦後、大陸に共産党政権が誕生し、ニクソン訪中につづいて田中角栄内閣が日中国交回復するまでは、台湾の国民党を擁護していました。私は、この時期は、迷惑をかけた台湾の国民党に日本が義理を果たしていた期間だと考えるようにしています。日本が、台湾問題に巻き込まれると、最悪の事態になるおそれがあります。私の分析では、将来、アメリカが中国と戦うという可能性はないと思っていますが、きわどいところまでいって、その間、日本がずっとアメリカに追随する態度を取ると、国民党系の人も共産党系の人も反日で徹底的に固まる可能性があります。日本に対する復讐心がかならず強まってくると思っています。このときに気をつけねばならないのは、台湾オリジナルの人たちの行動に対して日本がどうかかわるかということです。この人たちは、自分たちは中国とはまったく関係がないという意識ですから、他の華僑の人たちとはちがう言動をします。それでこの人たちを中国系とみたらいけないということです。台湾オリジナルの人には「黄」という姓の人が多く、私が天津で過ごした小学校にも中学校にもこの姓の子が居ました。言葉も中国なまりがなく、完全にネイティブな日本語を話していました。今、さかんに中国批判、韓国批判をして日本人を喜ばせるようなことを書いている黄文雄という人が居ますが、この人もその部類で、もともと中国とはきれているから、そういうことを遠慮なく書けるのです。このあたりを間違えてはいけないと思っています。これから、シンガポールを創ったラッフルズという人の話や、マラッカに行って見聞した話、日本軍のシンガポール攻略作戦の話などを書きます。今日はこれまで。
2005/05/21
ここのところ、知研フォーラムの編集で多忙になりブログをちょっとおやすみしました。昨日は久しぶりに吉祥寺に出て、伊勢屋という焼き鳥やでいっぱい飲みました。しめて千円足らずだが、私はこういう店がどうしても好きなんですね。30年代の雰囲気が残っているんです。ピカピカの店は嫌いです。汚いからいいっていうもんじゃないけど、何か私の青春時代の思い出みたいなものがそういうところにこもっているんですね。飲んだ後、井の頭公園をぶらぶら歩きました。吉祥寺のいいところは、すっごく高級なところ、都会的なところで楽しんだかと思うと、ものの五分足らずで、井の頭公園にくると木立が亭々としげっていて、まるで田舎の町にあるようなお茶屋さんがあるんですね。この落差を楽しむんです。そこでまた休む。それからまた公園が見渡せるコーヒーショップに行き、なんとなく公園を歩く人の波をみていました。私がいちばん落ち着くのは、詩を感じる時です。なんとなく詩的なものが流れている雰囲気がすきなのです。ピカピカなところには詩はないですね。すこしペーソスが漂っている雰囲気がすきです。ああ、そういう芸術が見たい!A・トクヴィルの「アメリカの民主政治」中巻をほぼ読了。どうしてこんないい本をこれまで読まなかったかくやんでいます。とにかくよくアメリカのことがわかる本で、トクヴィルのすごさがわかります。アメリカの民主主義とはアメリカ人の風習でできたという結論なんですけど、そのとおりなんですね。理屈じゃない。理屈は後付け。この本をよんで今のアメリカが実によくわかります。今、桐野夏生さんの『魂萌え』ほぼ読み終わりましたが、これってものすごくリアリティがあります。六〇歳前後の高齢者の女性の気持ちがよく書けています。高齢者時代を実によく書いています。
2005/05/10
今日は中央線の相模湖駅から石老山にのぼった。約700メートルの山。峰伝いに相模湖まで下り、約7キロ半の行程。山歩きはいろいろの面で実にいいことだと思っている。まず運動になること。よい空気が吸えること。それから意志の鍛錬になる。今日は、文庫本でトクヴィルの「アメリカの民主政治」中巻を持ってゆき、景色のよいところで休むたびに数ページをよみ、歩きながら読んだところを反芻しました。家で読んでいると眠たくなってしまうが、こういうところで読むと頭がさえて、いろんな発想がわいてきます。これは実にいい読書法です。1831年、26歳のフランスの青年貴族トクヴィルは約半年間アメリカを訪問して、それをレポートしているわけですが、洞察のすばらしさに驚きます。アメリカはいってみれば生まれつき民主主義ですが、この民主主義も「民」が主で、もうひとつ何かちがう階級が「従」だというふうになんとなく考えてしまいますが、そうではなくアメリカには「民」だけしかいなくて、「民」を抑圧するような「王」とか「貴族」はまったくいなかった、それも本国で自分たちの上にいて抑圧していた階級をものすごくきらっていたので、新大陸ではそういう階層の出現をぜったい許さない、自分たちでルールをきめて社会を築こうとしたのですから、それはどういうものになったかということを歩きながらあれこれ想像しました。そうしたら、だいたいトクヴィルの見たアメリカがよくわかりました。早速5月の知研フォーラムに解説を書きます。
2005/05/03
今、3月にやった寺島実郎先生と構想日本の加藤秀樹代表とのペア講演のテープ起こしをやっていますが、作業中にこんなことを感じました。この内容については5月発行の「知研フォーラム」に掲載しますから、それを見てください。お二人とも国際面と国内面で究極的に重要な視点を出され、何事もこれに尽きるなと思いました。今はそれと関係なくテープ起こし作業で感じたことを書きます。録音状況が悪いために寺島先生の言葉の聞き取れない部分がいくつかありました。録音状況がよくても、人によっては早口だったり、語尾を省略したりしますから、聞き取れない部分は必ずあります。テープお越ししているのですから、耳をそばだてるようにして何度も何度も繰り返してボリュームをあげたり、スローにしたりして聞きます。それでも聞き取れない部分があります。こういうときは著書や雑誌寄稿したものを調べたりして確認します。しかし、そういう部分があったとしても、発言の他の部分や、全体を読んでいるうちに、その聞き取れなかった言葉がパズルでも解くようにはっとわかるようになります。まさに個は全体にありで、全体を理解すると、部分がわかるようになる。これはすべてにいえることで、年をとると、いろいろなことを理解するようになるので、知らないことも推測したり、洞察したりして察しがつくようになる、というのはこういうことだと思います。今日は休みなので、これから山にでも行こうかと考えています。
2005/05/03
久恒さん、「合意学」にたどりつく知研フォーラム281号に久恒さんの「合意学入門」がのっています。久恒さんが図解にのめりこんでから、ずいぶんいろいろな啓示が示されました。これは久恒さんが発見したというより、図解が本来もっている力がどんどん久恒さんを奥の間に連れて行っているという感じですね。久恒さんはいつも問題解決という目的があって、それを行うためにたくさんの人からアンケートを取ったり、聞き取りをしたり、情報をまず集めます。それらの情報はそれぞれが個別独立的にちがっています。それぞれにリアリティがある。つまり定性情報です。こういう情報は一部は最大公約数をとるとかして定量処理して、統計資料をつくりますが、個々バラバラなのはどうしたらいいのでしょう。 しかし、それぞれの定性情報を深く見つめ、何を言おうとしているかその深みにまで想像を到達させていきますと、同じ情報の見方のちがいだとか、温度差みたいなものが見えてきます。そこでキーワードに要約して図解し、それらを全体の中で俯瞰してみる。結果としてすべての定性情報が相対化され、全体を構築するものとして関係と構造が姿を現してきます。 この場合の評価は、最終的、根本的視点をどこに置くかです。この場合、真理、公平、正義を最大価値として置くならば、最大多数の住民あるいは国民、消費者、生活者、お客様などの立場にたつことになります。 このような最終的に搾り出された真理、公平、正義に反対する人は少なくなります。郵政民営化がよいか悪いかなどという議論は、国民にとってそれがいいかわるいかを判断するのは簡単です。真理、公平、正義をしめせばいいだけです。意見がちがうようでも、それは、立場や利害のちがいとか、自分の本音は伏せておいて大勢に順応するとか、そういう不純な心理でなくても、ある情報を知らなかったためとか、誤った先入観だとか、考え違いだとか、コミュニケーション不足だとか、その場の空気にしたがわされたとかいう場合が多いです。こういうときはじっくり時間をかけて話し合うことが何よりです。人間には自分にとっては多少不利で損でも、長い目でみたり、大きな立場からみたらここは大義にしたがうことが正しいと理解する英知も持っています。このような人間の英知を引き出す準備作業のようなものが合意学といえるのかも知れません。 久恒さんの次の本は、「合意学」です。また石を投げますね。
2005/05/01
4月22日夕方渋谷で秋田さんの短時間講演をふくむ懇親会がありました。あつまった人は40名。和気藹々の会でした。毎度のことながら世話役の小石さんの面倒見のよさには頭が下がりますね。 この席で私は秋田さんに、当会の事務局長ですが、詩を献じました。以下にその詩を掲げます。 小倉の絶品 秋田英澪子さんに捧ぐ そのかみの熊本士族菊池家の出自と聞く祖父は台湾総督府の知事をつとめ、大判振る舞いの豪気は家の習ひ 祖母は折り目正しく、人にやさしくこころづかいし、武家の気品とほまれは高く十九の春まで小倉の風土でのびのび育ち小倉高校のお囃子応援名物娘の一人なりき青空の下、その騒々しきは今も変わらず姉ならずして、妹ぶりがよし おおきく、太く字を書く人に会うも恐れを知らず行動するにいささかの気後れもなし竹を割りたるがごとく、腹蔵するものなく、人をえらばず、まことをつくす本名を後に英澪子と改名せしは、小船の水路を示す澪標に感じ入りたるや君はビジネス・縁・プロジューサーを志すと聞く身をつくす君の天命というべきか 仕事熱心は尋常をこゆるものあり気働きよし、派手好き、すこしせっかち人を喜ばすを以って自らの喜びとする念熱く、人に物を贈るに時間と労を厭わず探し、花を贈るに、神機を逃さず、たくまずしてなす愛の深きは、神宿りて采配するが如しみどりごの業は、人事をこゆるものありて、君に会えてよかったと、誰しもが愛着すここに君の発展を祈りて、つたなき詩を贈る 八木哲郎秋田さんって非常にまれな、心身が美しい人なのですね。秋田さんを解釈するキーワードは先祖が小倉藩のさむらいであったかどうかはしりませんが、九州武士の家風で育った人なのですね。おじいさんが台湾総督府の知事で、大変大盤振る舞いをする豪義な人であったようです。そのかわり祖母は質素で気品高く、人にやさしい心遣いをする方でした。こういう血筋の家庭で、小倉という風土でそだったのが秋田さんです。高校時代は小倉高校が甲子園に出場したときの応援名物娘の一人だたっとか。秋田さんが人に贈り物をするとき、物を徹底的に吟味していちばんその人がよろこぶぴったりする、しかも格の高い品を厳選することや、相手の誕生日などを知ったときすかさず、花を贈る愛のこもった行為に私は注目していました。決して高価な物ではなく、人に贈ったからといって何かをひそかに期待するなんていうことはまったくないのです。ただただ人が喜ぶ顔がみたいだけなのです。これは九州武士の豪義と武家の折り目正しさ、足軽、小者などの使用人に対するやさしい心遣いを示した気品ある奥方のイメージが重なります。秋田さんはそんなことは自覚していないでしょうが、流れとして身についているんですね。だからここの部分を「たくまずしてなす愛の深きは、神宿りて采配するが如し」としたのです。神様は人に知恵を与えるにも、いちいち好き嫌いがあって誰にでもは与えないのですね。いやしい人には与えません。だが、秋田さんのような人には、無条件で与えます。そして「みどりごの業は人事をこゆる」ことになります。秋田さんはだんだん才能がみのってきました。大いにこれから急成長してください。
2005/05/01
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