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17世紀の建国当時のアメリカ人が考えたことは、まず権力が強大になりすぎるのを抑えるため、州に権力を分散した上で、中央の権力を小さくするために立法、行政、司法の三権に分割し、それぞれを牽制し合うようにさせることであった。立法もまた二院に分けて、政治のハードルを高くした。しかしいくら民主主義の制度をつくりその入口をパスしてきたといってもいったん権力を握れば、権力者は民主主義とは無縁になる。出口は民主主義とは関係ないのだ。だから政府自身が民主主義だとか自由だといってもそれは自己矛盾なのである。権力者は民主主義をだましだまししながら政治を行うのである。政府を監視して民主主義の根幹である言論の自由を守るのが新聞社などのマスコミである。これは民の立場に立つ代表である。しばしば政府のやることを掣肘する。だから第4の権力といわれる。これに対抗して欧米で政府がまずやることは、政府の広報を行う新聞社を買収することである。日本でも新聞社は朝日、毎日などがなんとなく民側で、産経などが政府側というカラーである。支配する側、つまり行政側がまずこのマスコミを取り込む方法として有効なのは、役所の中に記者クラブを置いて、資格のある社の記者だけに限定してあれこれ世話を焼き、政府側の発表はここを通して流す。これだと新聞社は楽である。なんとか苦労して取材しなくても記事が作れる。実際に、日本の記者だった人がアメリカのマスコミに転職したら、どこに行って取材したらいいかわからず大変な苦労を強いられるようだ。長い時間をかけてやっと情報源をつかむが、情報源のグレードによって記事の質が左右される。記者クラブ制の弊は、しらずしらずのうちに発表者の代弁者になってしまうことである。だから政府は特別の新聞社を買収する必要なくやれる。新聞記者は書く権力を通じて、自分はすごい権力をもったと誤認してしまう。この権力を支配者側とか不公正なことを行っている既得権者に対して発揮するのでなく、自己組織の利益の追求とか権力者と癒着してなすべきスクープなどを行わず、筆を鈍らすようになる。いわば第4の権力が支配者側の監視と不正の掣肘に向かわず、それ自体の権力に酔うようになるのである。
2005/12/31
久しぶりに編集者の友人3人と語り合った。話は尽きず、こういう時間が実に楽しい。建築疑惑の話になり、この話はヒューザーとか木村建設にとどまらず、もっと果てしなく広がる可能性があるという話になったとき、友人の一人はいまローンを支払い中のマンションの耐震強度がどのくらいか調べた数字が出たら逆に困る、と言った。移動などしたくないと言った。この問題は悪徳商人の財産を没収したところで、住人の救済には足りないであろう。とどのつまりは、気の毒な被害者に対し、自然災害救助と同じ発想で税金をつかって助ける以外になくなるだろう。つまり国民全部が同胞を助けることを承知するわけである。そこに公共の幸福をみなで図るという尊いものがある。マスコミの使命というものは何かといえば、この公共性を守るということ以外にはありえない。国民の税金が無駄に使われているならば、天下りなどの不当な額の給与や退職金、無意味な職務を温存させて役人を飼っている無駄金、政治家の票田を利するだけの無駄な公共事業などを絶対に許してはならない。マスコミが第四権などといわれるのは、緊張関係の中で、平和と民主主義を維持するためにあるからである。報道に携わる者が比較的に高い給料を得ているのは、彼らがこういう使命を担っているからである。ところが、こういう高い給料と権力を持つと得てして庶民の味方という意識が薄れ、筆が鈍り、国民の意識と乖離してくる。欧米のマスコミはすぐれた言論人を抱えていて、彼らが記事やコラムを書き、大衆はそういう言論人の意見が読みたくて新聞を買う。実際にも大記者といわれる人が各社にいて堂々と論陣を張り、民主主義を担保している。だが、日本の新聞や放送にはそういう人がいないに等しい。いたとしても排除されている。マスコミが健全であるためには、常にそういう人が常在して、健筆を振るい、その後をつぐ無数の後継者が育ちつつあるという状況でないといけない。視聴率稼ぎ、大量放送とか大部数販売という時代は終わりつつあるのに、マスコミ人自身の意識は低調である。
2005/12/30
昨日、「男たちの大和」を観た。立派な映画で感動した。観客も多く、最後に拍手が起こった。辺見じゅんは千人以上の生き残りの大和乗組員に直接間接に取材して原作を書いたそうであるが、みごとに当時の水兵たちの状況を再現していた。セットもお粗末な張りぼてでなく、CGを駆使してリアルに戦艦のデッキを再現、戦闘場面も生々しく圧巻であった。話は、十数名の少年兵と兄貴格の下士官を中心にすすむ。戦争も末期になると、兵員の消耗が激しく、それで15,6歳の少年兵が補充要員として採用され、戦闘に参加する。まだ子供さのぬけきらぬ顔立ちをした彼らの従順さ、純粋さ、健気さ、国を思う心、敢闘精神の旺盛さの中も、子供っぽい稚気、腕ずくに訴える粗暴さなどが見られる。題名のように男たちへの賛歌となっている。昭和20年4月といえば、サイパンが陥落し、沖縄に米軍が上陸したときである。もう敗勢は明らかで、大和はたった1機の護衛戦闘機もなく、燃料も片道のみ積んで出撃する。九州南方海上で米軍は戦闘爆撃機延千機を使って襲いかかり、大和の兵員2千人は4月17日、艦と運命を共にした。戦後、沈没覚悟のこの出陣は愚行のきわみ、みすみす兵員2千名を海の藻屑としたと非難され、山本七平氏は、日本人は“空気”で動くという日本人論を展開した。当時、日本の連合艦隊はレイテ海戦でほぼ撃滅されていたが、大本営はそれを報道せず、国民は連合艦隊の主力は健在で、日本近海で本土上陸をはかる米軍主力を壊滅するものと期待していた。しかし国民は知らされないだけであった。天皇は「もうわが国には軍艦はないのか」と怒鳴ったそうだが、それにあおられてか、無傷で残っていた大和は出撃を決める。終戦の命令が出ていない以上、軍人は死を覚悟して上官の命令に服さねばならない。私は少年兵たちと同じ年齢層なので、突然60年前に帰ったような気がした。この頃の兵員たちの気持ちを思うと切ない。私の小、中学校の同級の友人だった最近亡くなった辻武翁君は小学校時代から暴れん坊で、中学に入るとぐれだしたが、頭のよい、きっぷのよい男であった。その彼が海軍兵学校に入って少年兵として人間魚雷を志願した。人間魚雷は中に入ると棺の中に入ったように寝返りもできず、うつむいて目の前の計器と窓を見るだけである。出撃したら、もう反転などできない。敵艦に当たるまでである。当たらなくても燃料切れで海中に沈み、そのままとなる。彼は決死の覚悟を固めて出撃を待っていたが、間一髪で終戦になって命令はとり消された。あのときは呆然となって何も考えることができなくなったと彼はそのときの心境を語った。戦争は食うか食われるかの土壇場になると、極限の人間性が発揮される。太平洋戦争も昭和十八年以降になると、聖戦だの大東亜解放のためだのというのは単なるスローガンにすぎず、血みどろの生存戦になった。アメリカ軍は優勢な空軍を使って、ルメイの日本人皆殺しのじゅうたん爆撃を行い、通常爆弾では効率が悪いため、1,2発で死命を制すことのできる原子爆弾を用いた。おびただしい罪のない非戦闘員が殺された。こういう状況はドイツでもソ連でも同じだったらしい。スターリングラード戦ではロシア人がドイツの戦車に対する自爆攻撃を行い、ドイツ兵もベルリン防衛戦で同じ抵抗を行った。社会主義祖国を守るとか、ナチズムへの忠誠とかいうのは理屈だけに過ぎず、もはや生きるか死ぬかの生存戦である。こういう過程で、戦艦大和の若い兵員や少年兵たち、神風特攻隊の若き兵士たちの国に殉じる美しい行為が行われた。粛々として南方に向かう戦艦大和は勝利を期して堂々と波を蹴立てる勇者の姿ではもはやなくなっている。白鉢巻をしめ、たすきがけで、死を期して行く悲壮な孤剣者の姿である。少年兵たちも「死に方用意」と黒板に書き、死の覚悟を決め、甲板で大声をあげて家族たちに別れを告げる。山本七平氏は、こうした無意味に近い大和の出撃は、今考えてもどうにも説明がつなかい“空気”のしからしむるところだと言ったが、もうそんな中途半端な説はやめるがよい。要するに戦争の末期状態になっても戦争をやめる決断ができなかった無能な最高戦争指導部のせいである。わずか4ヶ月あまりの遅疑逡巡の間に100万人の善男善女が死んだのである。
2005/12/24
テレビの言論番組についてテレビ各社は言論番組を土日の午前中にかなりの論客を集めてやっているが、これについて一言言いたい。民放各社に比べてNHKのこの種の番組はやはり面白くない。国の資本が入るとやはりこうなるのかという典型である。ただ、他のドキュメンタリー番組などにいいものがあるから、そういう点で視聴料を払うことに異存はないが、国民からもれなく視聴料を取る以上は、もっと政治監視、社会悪に対する摘発をもっと徹底する公共放送の義務があるのではないか。さて、民放各社であるが、そうそうたる論客のメンバーをそろえているにもかかわらずいつも隔靴掻痒の感じがしてものたりないのはなぜだろうか。まず論客同士が意見がちがう場合はもっと時間を惜しまず討論したらよさそうなのに、それをしない、させない、せいぜい刀の鞘がカチンとあたる程度。発言は横並びで一人数分程度かワンコメント。それぞれなんとなくもっと言いたそうな顔をしているが、キャスターに抑えられているのかどうか知らないが、あっという間に時間がきておしまいである。当会の顧問でよく話してもらっている寺島実郎氏はよくテレビに出てこられるが、寺島氏の話は1時間聞くと実によく世界の潮流がわかり満足するが、ワンコメントでは、そういうことが望めない。何事ももっと発言の時間が必要なのである。結局、テレビ局は多種多様な視聴者を相手にしているから、テレビ局自身はある程度の色合いがあるにせよ、特定の主張を出さないというのが本務なのであろう。常に収斂させず、分散させて、いろいろ見せるのが本務である。またいろいろな特定の方面で強い主張をする論者や専門家が出てくる。キャスターはそういう人をあらかじめ選んで出して、発言を適当にふって発言させる。 私は評論家を判断する場合、特定の分野だけ強く主張するが、それ以外のテーマになると沈黙する人は専門家ではあっても知識人でないと思っている。知識人ならあらゆる分野にわたって明快に自説を貫ける人である。それには確乎たる哲学が要る。だが、テレビ局は知識人はおよびにならない。専門家が好きである。発言をふっていって、複数の専門家にしゃべらせれば、キャスターはそこに何らかの言論空間を創りだしたような錯覚を視聴者に与えられる。だが単なる空間だけで、国民に明確なイメージを与えるというものではない。国民にものを考えさせる契機ということはあるかも知れないが、深く入らせないで、入口で迷いを継続させる役割を果たす。マスコミ各社は世論が常に分裂したままにしておくほうが都合がいいのである。
2005/12/21
新聞社も民間放送会社も株式会社である。したがって儲けて自主営業することにおいては普通の株式会社となんら変わらないが、メディアには公共性があるため、読者や視聴者の満足度を得るために公共的に価値あるものを常に提供しつづけていかなければならない立場にある。ここが普通の株式会社とちがうところである。媒体には、紙媒体、電波媒体、インターネット媒体の3つがあるが、このうち、放送局などの電波媒体は電波法、放送法などによって事業免許制になっており、政府の規制をもっとも強く受ける。まかりまちがうと事業免許を取り消されるおそれがある。この点、新聞社は政府の規制から相当独立している。かつて佐藤首相時代、政府とメディアとの対立が緊迫したことがあり、佐藤首相が、公式発表の場から、「新聞記者は出て行け、テレビだけは残っていい」と言った事件があった。これが新聞媒体とテレビ媒体のちがいをよく表している。新聞には社説というものがあって、ここに新聞社の主張を書いている。その他のコラム番組や記事の中にも新聞社の主張を反映している。新聞社にもカラーがあって、朝日、毎日、東京などはリベラル、産経、読売は保守傾向という違いがある。しかし、それぞれ何百万という読者を抱えているから、読者にもリベラル、保守といろいろいるから、多数者の満足を得るためには、あまり一方的な傾斜をさけるようになり、どっちつかずの言論、微温的な言論ということになりがちである。国論が2つに割れているような問題に対しては、判断や結論を避け、両論併記とかいう具合に配慮する。この結果、「成り行きが注目されます」「前途には厳しいものがあります」「・・岐路に立たされております」「・・国民全体が考えるときです」などという慣用句でしめくくるわけである。このように国論が割れているというのも、メディア報道によって割れてしまうという面がある。このことについてはまた書く。テレビには社説に相当するものがあるかというと、そういうものはない。あるとすれば、意見番組とか時局解説番組とかである。ニュースキャスターと系列の新聞社から論説委員級の人が出て話を運ぶ。あるいはいろいろな専門家や評論家などの人を集めてやる番組である。これが国民にどういう影響をおよぼしているのだろうか。
2005/12/17
立ち上がった霞ヶ関の若手官僚の話の前に一言。今日国会喚問が行われる建築疑惑のメンバーはさることながら、最近の人間の良心の頽廃ぶりには絶句するのみである。みずほ証券はジェイコム株の入力ミスで、1株61万円を61万株1円と誤入力してしまったため、400億円の損害を出してしまった。恐ろしいことである。こういうことがあるならこれからコンピュータの前に立つ人は戦慄ものだろう。誤入力した人は自殺ものであろう。しかしである。人間の良心があるならば、人の過ちでもうけた者は金を返してやれ!それが人間存在の証ではないか。商人道徳として恥を知るべきではないか!さて、霞ヶ関の30代の若手官僚30数人が「新しい霞ヶ関を創る若手の会」をつくって3年間ほどかけて討論した結果、このほど『霞ヶ関構造改革・プロジェクトK』(東洋経済新報社)という本を出した。読んでみると、これまで言われてきた霞ヶ関の内部事情があまりにも時代遅れであることを内部からありありと実証した本であることがわかった。霞ヶ関は「国民全体のためという視点が欠如している」「「霞ヶ関の商品である政策の質が低い」ということをまず挙げ、総合戦略本部の設置から、人事、任用制度の刷新まで、明快な構造改革を打ち出している。いままで沈黙していた霞ヶ関の内部からこういう動きが出てきたtことは特筆すべきである。かれらは霞ヶ関から飛び出さずに、内部でこういう改革を志していくという。NPO知的生産の技術研究会は早速反応して、12月21日、PM7時~9時まで朝比奈一郎代表と木村伸吾氏に話してもらうことにした。場所は霞ヶ関ビル裏の商工会館6F。ぜひ多くの皆さんに聞いていただきたいと思っています。
2005/12/14
民主党の前原代表がアメリカに行って演説した。聞いてびっくり。自民党より過激で、まるで中国に宣戦布告でもしそうな内容。アメリカと軍事同盟して集団自衛権の発動も辞さないとか。これではネオコンのラムズフェルドと同じ、自民党の吉田外相のほうがよっほど穏健ではないか。すくなくとも民主党には戦争にいく可能性をすこしでもセーブすることを国民は期待しているのに、こんなことでは国民は今度はいったいどこの政党に投票すればいいのか。どの軍事評論家に聞いてもアメリカと中国は戦争する可能性はほとんどないという。中国人にアメリカへの敵愾心はさほどないし、米中間でそれほど実際的な紛争の状態はない。米中の貿易も順調であるし、アメリカは日中間の摩擦を好んでいない。したがって日本と中国が険悪になったとしてもアメリカが日本を助けるつもりはないし、かえって迷惑に受け取るだろう。それなのに野党の民主党まで日米軍事同盟の虎の威を振りかざすなどは、世界から馬鹿にされるのがいいとこ。おそらく前原さんは靖国神社を内閣のトップが参拝しているのがネックだから、これをやめさせてほしいとアメリカにサジェスチョンに行ったのだろう。そしてそれ以外は政権交代しても日本はまったく変わりませんよ、と言いたかっらのだろうと思う。中国は半植民地時代からようやく百年たって実力をつけた。もし日本との戦争になるのであれば、日清戦争以来の恨みがこもっているから激烈な戦争になるだろう。こちらもやるかもしれないが、徹底的にやられる。アメリカは協力しないだろう。民主党はそういうことをよくよんだ上で、政権とりばかりに血道をあげず国民の声をよく聞くがいい。この前の選挙で負けたのは、郵政民営化に反対したからで、賛成しておればそんなに負けなかったのだ。だからそんなにがっかりしないでもいいのに、イメージチェンジを図ってハンサムボーイの前原氏を起用したのだろうが、お門違いだったのではないか。
2005/12/11
テレビの小泉劇場演出は困る!小泉首相はワンポイントトークだといわれるが、テレビで出るときは、時間が短いからコメントは一言である。だからよほど考え抜いた効果的なワンポイントを言う。要するにテレビ時代の政治家はこういうことを心がける。今の政治は条件付け政治で、いかにうまく国民を誘導するか、国民にその気にならせるかが勝負である。テレビ媒体は圧倒的な量的効果があるから、政治はテレビをうまく使おうとする。最近「人はみかけが九割」というような本が売れているというが、恐るべき時代になったものだ。日本人にはすこし前までは、巧言令色鮮き仁というふうに、人間は見かけはすこしくらいよくなくても中味が大事だ、という考えを持っていたが、今は180度変わってしまったのかと思う。そういえば自民党の武部幹事長は最初のダサイ感じから、最近はスタイリストがついた感じで着ているスーツも超高級ですごくカッコウよくなった。小泉劇場と名をつけた本人なら、そうするのが当たり前であろう。しかし、メディアは絶対に特定の政党や勢力に乗せられるようなことがあってはならない。この前の選挙のとき、刺客だとかで、次々に美女だの、ホリエモンだのを登場させて盛んに劇場を盛り上げ、これが選挙運動となってにわか議員を続々当選させた。こういうのは対抗する候補者に対し不公平であろう。今は杉村太蔵議員とか男好きの顔をした小池大臣をタレントみたいに使って若者を取り込もうとしているが、こういう特定議員を業績もないのにもちあげるのは公平の原則を踏みにじる。テレビはぜったいこういう政治のマーケティング化に加担してはならない。放映もしてもならない。終わりに評論家のような人が解説して、こういうやり方はよくないと批判させてバランスをとろうとしてもだめである。
2005/12/07
12月3日の10チャンネルの番組「終わりに見た街」は久しぶりにいい番組で堪能した。さすがに山田太一。昭和19年の時代雰囲気などは戦後生まれの人には想像もできないだろうが、これを映像的に再現し、今の時代とダブらせたところなど出色のアイデア。昭和19年の人たちは、今の人たちからみるとなんともいえない馬鹿らしいことをやっていた人たちに見え、そういう批判的な現代人の目で番組がすすんでいくが、最後になってニートだった若者が突然昭和19年の人間の意識に変身するくだりで突如圧巻となる。創作は、見えなくなった世界、見えない世界をありありと見せるところに意義がある。今は戦前、戦時中のことでもすべて戦後の視点、言葉で見、説明しようとするが、語るならその時代の言葉で語って見せ、その落差で考えさせようとしなければならない。あの番組はかなりこのことに成功していた。あの時代はあの時代でそれこそ日本人のほとんど全部が、健気に従順に必死に世界中を相手の戦争をやっていたというリアリティのものすごさ。3月10日の大空襲の予告を主人公たちが流そうとしても大衆は受け付けない。そして大空襲という壊滅が来る。廃墟となった東京の街が突然平成の東京の廃墟のシーンになっている。時代にどんどん流されていく人間の業は昭和19年も平成17年も同じだと作者はいいたかったのだと私は解釈した。さて、こういういい番組がたまにあるから、テレビを一概に批判できない。最近のマンション建築手抜き詐欺の告発などは、テレビはよくやっていると思う。だからテレビシステムは使い方さえよければ本質的にはいいシステムなのだ。いい番組はCMつきでなく、私はお金を払って見たいと思う。例えば、テレビ各局が今年はこういういい番組をいいスタッフ、いいキャストで、お金をかけてでも作りますと宣言し、視聴者がそれに賛同した場合にそのテレビ局に送金する。1所帯100円送金しても100万所帯からくれば1億円になり、これなら絶対いい番組ができるはずだ。豊かな社会はそれができるはずである。
2005/12/04
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