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知的生産の技術シリーズ3今日は東京工科専門学校長の芦田宏直さんの講演をテープおこしした機会に、彼の画期的な授業評価法を紹介しましょう。芦田さんはもともとハイデッガーを専攻した哲学の先生だった人ですがどういうわけか、東中野にある東京工科学校の中のテラハウスICA事務局長として迎えられ、10年間ほど社会人むけのIT講座を開設し、ピ-ク時は千講座ほど増えて、大変盛況でした。そして3年前にこの社会人講座を閉じて、自動車整備士の養成科以外の情報処理科、建築科、バイオ科などの学科を統括する校長に就任されました。さて、話は社会人向けのIT講座をやめたところから始めます。社会人が休暇を取ってこの学校にくる場合は、たとえば文系を出た人が仕事上エクセルを使い出して、数字に興味を持ち、統計解析を勉強したいと思ったとき、いまさら大学の統計学科に入るのもなんだしということで、この学校でエクセルコースを取るわけです。しかし、実際はこのコースで役にたつのは20コマのうちせいぜい2,3コマしかない。したがって10万円の授業料と受講時間は無駄なわけです。しかも講師はコマ全体のシラバス(授業計画)ではいろいろ書いているけれども、コマごとの授業計画はなく、聞きたいコマがいつあるかは事前にはわからない。こういうことで社会人受講者の不満が高まりました。それで芦田さんは全コマのスケジュールを公開し、それぞれのコマで何を教えるか、日にちはいつかを前もってきめて案内を出すように改め、5万円払えば何コマでも聞けるようにしました。これで社会人の不満は解消されました。この社会人講座が成功したので、芦田さんはここで得たシステムを専門学校の正課に導入するために校長に抜擢されました。専門学校というところは高等教育の中に入れられていますが、文科省の予算措置を得ているわけではなく、いわば埒外にあり、自動車整備士の資格をとりたい人が、学校の教師にいろいろサゼスチョンをもらって免許試験前3ヶ月で猛勉すれば2年間も通わなくてもなんとか免許がとれるような学校です。そこで教師がいろいろ本物の学問的な知識を入れ込んで教えているわけではなく、試験も甘い採点をしてなんとか卒業させてしまおうという学校が普通です。それに専門学校というところは、実習に傾き勝ちで、理論なんかは二の次、体と手さえ動けばいいみたいなところがあって、そっちばかり教えるので、自動車整備士になって器用に仕事ができても、科学的な原理だとか理屈に弱い人材しか育たない。したがっていつまでたっても理論をきちんと身に着けた学卒社員の部下に甘んじなければならない。芦田さんは、こういうことでは卒業生が一生不幸だとして、専門学校の教育改革に乗り出しました。それにはまず学校当局と教師が2年間でどういう人材を育てるのかという目標の共有と教え方の改革から始めなければなりません。学校当局と各科担任者と教師がまずこのことに合意し、それができたら、教師が決めたとおりの教え方を実行しているかどうかを直ちにチェックでき、学生がその日の授業を受けたら、それがちゃんと学生の頭の中にインプットされているかどうかを直後テストして確かめ、その結果のデータを学校当局、各科担任、教師が直ちに共有できるよう、授業シートと正解表を教師につくってもらうようにしました。テストの結果、学生の頭の中にインプットされ方が弱い場合は、落伍率が高いわけですから、次のコマでの調整や補修を手がけられるようにし、こういう情報を蓄積して、いわば学生個人個人のカルテを作り、その学生の2年間の教育過程で運用する方式を決めました。このような一連の改革にともなう作業は、まず年間のシラバスだけではチェックが働きませんから、前期で90分授業が20コマあるとすれば、それぞれのコマごとのシラバスを創り、それと全体シラバスとの関係、コマ主題、コマ主題細目、コマ主題細目深度、次コマとの関係を教師がつくるようにしました。これと授業シート、カルテの3つが3点セットで、こうしてコマごとの授業評価が一目でわかるようになり、教師の任意性に傾かない客観的な授業方法と授業評価法が確立しました。得点分布グラフが正常曲線を描かない場合は教師がやさしい問題を出した結果であることがすぐわかるようなチェック方法も考え、教師の教え方の任意性から脱却する方式を確立しました。芦田さんの教育改革の結果、学校は大変な信頼度を獲得し、全国トップレベルの学校になり、今では芦田さんは各学校から講演などを依頼されて多忙です。芦田さんの開発した教育方式はどんなレベルの学校でも応用できる画期的な教育法だということが出来ます。
2005/06/28
「ベアテ・シロタの贈りもの」と題した岩波映画を見た。まずベアテ・シロタという80歳を過ぎたアメリカの女性が訪日し、講演するシーンから始まり、あとは連綿として戦後の日本の女性解放運動の歴史の紹介があり、次々になつかしい闘士や著名人たちが現れ、労働省の婦人少年局がずっと女性の管理職で続けられたこと、民間会社でも高島屋の石原一子さんが専務の地位まで上昇したこと、国連の難民救済委員会に緒方さんが就任したことなどの事例が紹介され、最後に男女共同社会の確立というしめくくりで終わっている。まずベアテ・シロタという女性はどういう人であったかというと、GHQの日本国憲法の草案づくりにたずさわった24人のスタッフ(女性は4人)の中の1人だった。経歴が非常に変わっている。父レオ・シロタはロシア生まれのユダヤ人で、ストラビンスキーの演奏をよくする名ピアニストであった。ベアテはレオが活躍していたウイーンで生まれた。レオの名声が上がり、パリで山田耕作に日本での演奏を頼まれ、はるばる日本にやってくる。日本での滞在予定はほんの1年足らずであったが、東京音楽学校の教授を委嘱され、17年に及んでしまった。シロタ一家は東京の乃木坂に住み、ベアテはドイツ人学校に通っていたが、父レオはナチスの影響を受けることを嫌い、彼女をアメリカン・スクールに転校させた。このような関係でベアテは4カ国語に長じるようになった。日米戦争が始まる直前にシロタ一家はアメリカに長期旅行した。ベアテはそこでミルズ・カレッジに入る。両親は開戦直前にやっと日本に帰るが、ベアテは戦後まで親の許に帰ることができなくなった。戦時中は米国海外放送諜報サービスと米陸軍戦時情報部で日本語のプロパガンダの台本を書くなどの仕事をし、「タイム」誌の日本担当の仕事もした。戦争がおわったときも、すぐ日本に行けず、軍属の資格をとって行き、GHQの仕事をするようになった。両親は戦時中は軽井沢でスパイ監視の下で不自由な生活をしていた。ベアテが日本国憲法草案をわずか1週間でつくるスタッフの一人に選ばれたのは、彼女が日本語が堪能で通訳がつとまるばかりでなく、長年日本に住んで日本人の生活習慣や日本女性が圧迫されている現状などをよく知っていたからである。マッカーサーがとくに婦人参政権を重視したのは、日本の封建制を突き崩すには女性に選挙権を与えることしかないと意識したらしい。ベアテは日本の女性の気の毒な事情を子供時代からよく知っており、また外国人をしょっちゅう監視し、訪れてきた日本人は誰かとかどういう話をしたかなどを常に捜査に来る思想警察の状況などを知っていたから、婦人解放の部分を担当させる適任者だと見られた。通訳をかねた上、22歳という若さも全体に花を添えた。ベアテはあちこちの図書館などで各国の憲法を調べ、法的な男女同権の原則を打ち出した。世界でもかなり先進的なものだったらしい。これを日本人の政治家や役人に見せると、とんでもないという否定的な反応が返ってきて驚いたという。ベアテは占領軍という権力で男女同権を日本の旧支配層に押し付けることができたが、ベアテ以前にも日本では明治大正の昔から女性解放の長い歴史があった。平塚らいてふや山川菊枝、市川房江、神近市子などという人たちは解放の闘いがあった。彼女たちは女だてらにとか、女のくせにだとか、ひどい女性蔑視と偏見の中でつらいことを経験しながら闘ってきた。そういう血みどろの長い歴史があったので、日本国憲法の素地が作られており、戦後急速に民主主義が発展した。日本は自由と民主主義をアメリカから与えられたという解釈は間違っている。最初マッカーサーが日本人に憲法草案を作らせたところ、松本ナニガシという馬鹿な学者のチームは明治憲法の字句訂正でいどでいいといい、主権在民にも反対であったが、憲法研究会というリベラルな学者のチームや他の民間の団体は今の憲法とほぼ内容が変わらない草案を出していた。マッカーサーが1週間で作成を急がせたのは、馬鹿チームに業を煮やしたためと、極東委員会のソ連やオーストラリアなどが占領行政に加わって、マッカーサーが占領上必須とした天皇制の維持に水をさされる恐れがでてきたので、機先を制してリベラルなものを作っておき、彼らに介入させないためであった。私が子供のころにみた戦前の映画は女性の悲哀を描いたものが多く、画面でみる女性はいつも泣いていた。戦後もかなり長い間、母ものといわれる映画では「ハンカチをご用意ください」「4人の母が登場します。4倍泣けます」などという宣伝文句があったものだ。母もの映画は観客が画面の不幸な女性主人公に同情して、自分はまだああいう女性よりも幸せだとほっとするために見に行くなどと言われた。そういう時代から40年以上経ち、いまでは女性は各界でめざましい活躍をしている。しかし、女性管理職の比率割合でいうとまだ日本は46位だという。とにかく女性が今日ほど解放され、活躍するようになるまでには長い長い血みどろの先輩たちの闘いがあったことを改めて知らされた。当時は絶望的だと思われていたことでも30年、40年の年月がたてば、努力の集積で変わってくるものであることを感じた。
2005/06/22
海辺のカフカを読む村上春樹の『海辺のカフカ』には驚嘆しました。なんと才能のある作家でしょう。全編にみなぎっている詩情の豊かさ、絵画的なセンスの鮮やかさ、音楽についての教養の深さ、自然描写のうまさ、深い内面をもつ人物を描写する力、そして小説の舞台回し、ストーリーテラーとして、エンターテナーとしての技術はすばらしく、おそらく夏目漱石、太宰治などとならぶ大作家、いやもっと世界的に並ぶ大作家ではないかと思います。中国、ロシアでベストセラーになっているのもむべなるかなです。最初はストーリーを楽しんで一気に読みました。巻を擱く能わずという感じでした。つぎに、私も物書きの端くれですから、構成の技術を知ろうと思ってもう一度読み返しました。これから読む方は筋を語ってしまいますからこれ以上読まないでください。読んだ方は私の解釈についてあとでコメントしてくだされば有難いです。この小説のサブテーマは記憶の重たさ、残酷さですね。ある事件のトラウマにより記憶を喪失してしまったタナカという老人が出てきます。この老人と15歳の少年の主人公の母親との関係は明らかにされていませんが、おそらく失われた記憶の中にあったのでしょう。主人公の母親である佐伯さんという人は記憶の重みで死に至る病のトラウマの中で、地方の図書館の館長として世を忍んで生きています。佐伯さんがなぜ4歳の子供をおいて出て行ったかは、過去にあまりにも深く恋人を愛してしまったがゆえに、結婚した夫を愛すことができずに家を去ります。残された子供は15歳の少年に成長し、母と母が連れて行った姉を恨み、父からお前は母を犯し、姉を犯す運命にあると予言を受ける。まるでギリシア神話の世界です。小説は、カフカという聡明な15歳の少年の主人公が家出をする描写から始まります。少年は母に捨てられたトラウマをひもどくために、運命に導かれるようにして母が勤めている高松の図書館に行き、そこで雇われます。もちろん母は少年の「あなたは僕のおかあさんかもしれない」という仮説を微笑み返して相手にしません。少年が寝泊りしていた部屋は母がかつて愛していた恋人がいた部屋です。その恋人は20歳ちょっとで偶然の事件で殺されてしまった。母は悲しみのあまり歌手として売り出していた人生を中断してしばらく消えてしまい、故郷に帰ってきて図書館の司書となって静かに暮らすようになる。カフカという少年の寝室に15歳のときの母の亡霊が出てきます。少年はその少女と交わります。少女は少年をかつての恋人と思って愛します。そしていつしかその少女は母親である佐伯さんに変ります。少年は父を殺します。自分で殺すのではなく、自分の分身であるタナカという老人が代わって殺す。母を苦しめたこの野心家の父を許せなかったのでしょう。タナカというネコの言葉を解する老人は少年と母親のトラウマの解消役を負って登場します。彼はホシノというよくあるタイプの青年の助けを借りて、高松にやってきて、「入り口の石を開く」。こうして図書館にたどり着き、母親と会います。母親の手に自分の手を重ねて、そこから彼女の苦しかった過去の記憶をすいとってしまう。彼女は眠るように死ぬ。同じころ、カフカという少年は罪の深さにたえかねて森の中に入り、死をえらぼうとする。森の中にいる二人の兵隊が入り口の石を現しています。少年は兵隊に導かれて幽界の中に導かれてゆく。そこで死んだ母に会う。子供を捨てた罪をそそぐために死んだ母親を少年は許す。母は死んだらいけない、生きていきなさいと命じ、少年は幽界を離れるが、母に別れるのが辛くて一時踏みとどまろうと迷う。入り口の石が閉じられたらもう幽界から出ることはできなくなります。ちょうどこのころ、アパートで死んだタナカさんの口からニュルニュルとヘビのような怪物が出てきます。ネコの言葉がわかるようになったホシノ青年はこの怪物が出てくる前に入り口の石を閉じます。そして怪物をバラバラに切り刻んで殺してしまう。このニュルニュルの怪物は何かというと、タナカさんが母親から吸い取った記憶の固まり、トラウマの正体でしょう。そして少年はこの世にもどってくる。とにかく源氏物語に出てくる生霊のアイデアを使ったり、タナカさんとかホシノ青年、ジョニー・ウオーカーだとかカーネル・サンダースとか滑稽で面白い脇役が出てきて、楽しませる一方、芸術的なカタルシスまで引き上げてくれる語り口に堪能しました。古くから数々の物語のテーマになっているように、愛憎のトラウマを解消するのは並大抵のことではありません。それほどに重たい。村上さんはこの古くて新しいシリアスなテーマを詩のような美しさときわめて現在的なリアリティのある面白さで語ってくれました。
2005/06/18
前の日記で、学校教育では知識を教えることにのみ専念していることを書きました。学校という制度は国全体が枠組みをつくって私立学校も指導し、国のためになる国民を育成することに主眼があります。学校教育はそれに沿って行われますから、これは国家運営論であって、教育の根本とは別個に考えなくてはなりません。でも、どうしても日本では国主体になってしまう。話を変えてみます。日本国憲法では私たちのことを「国民」としていますが、アメリカの憲法では「ピ-プル」です。日本国憲法を作るとき、「ピープル」を最初「人民」と訳した。しかし、共産党が「人民」ということばを多用していたので、これは避けて「国民」とした。戦前は「臣民」だった。つまり私たちは天皇の臣下だった。この「臣民」が「国民」になり、これは妥当な言葉として受け入れられたのですが、やはりこの言葉では国という意識が先行します。アメリカのようにピープルとすれば、これは個人になります。すると自然に教育は個人を対象とするようになる。もちろんアメリカでも国家統合の大事さを強調していますが、もとにあるのは個人です。日本でも個人という観念が先行すれば、学校は個人が長い人生を生きていく知恵や力をどこかでつけてやらねばならないという思いが生まれたはずです。私は30歳過ぎたサラリーマン時代に、大宅壮一のマスコミ塾というところに入りました。たまたま会社でわりと暇な部署に異動になり、夕方はあまり残業がなくなったので、夕方の時間を活用しようと思っていたときに、会社から数百メートルしか離れていないところでこの塾が開かれていました。私は高校時代から物書きになりたいというのが志望でした。しかし、いざ、原稿用紙にむかうとどうしても書けないのです。破っては捨て、書いては捨てで、原稿用紙20枚以上書くことがどうしてもできませんでした。いったいどうしたらもっとすらすらと物が書けるようになるだろうかと必死で苦しんでいたところ、大宅壮一、草柳大蔵といったそうそうたる物書きたちが懇切丁寧にマスコミ志望の青年を指導するというので、躊躇することなく入りました。週に2回講義があり、それが6か月か7ヶ月続いたと思います。同級生は50,60人でいろいろな人がいました。講師は物書きが一番多くて、大宅先生以下、草柳大蔵、扇谷正造氏など著名人がそろっていて一番若い講師が永六輔氏でした。それから写真家、漫画家、編集者、学者など多彩でした。それぞれの人が自分はどうやって世に出たか、それまでの苦労話や勉強した方法、チャンスを物にしたときの体験談などをあけすけに話してくれました。ふつうなら手の内を明かすといって、ライバルには秘密にしておく話ですが、それをけっこう詳しく話してくれました。編集者はこうすれば編集者は応じるというような話をしました。大宅氏はノンフィクションの具体的な書き方、文章のメリハリのつけ方、一番大事なことは、文章は商品だぞということでした。扇谷氏は文章は短文がよい、それは新聞記事の書き方は短文だぞ、それで行け、というもの。いちばん印象に残ったのは渡部氏というはやりのカメラマンで、文芸春秋のグラビア写真をとっていた人ですが、4枚の見開き写真だけで百万円という話に驚きました。私は写真なんてパチッととればいいだけじゃないか程度の理解しかなかったのですが、東芝の土光社長をグラビアに4枚とるために1月くらいかけたという。まず社長の伝記を調べ、書いた本を読み、最近の新聞談話を読み、東芝の業績を調べ、土光さんの社長室で取材し、自宅まで行って、ドテラ姿で奥さんと差し向かいでメザシのおかずで食事をとっている写真をとったりしている。なんで写真だけのためにそんなに手間ひまをかけるのかというと、土光さんという人物像を正確に把握していないと、土光さんという人物を最高度に表現できないからだと渡部さんは言いました。この塾の特色は講義だけでなく、著名な先生方と膝を交えて質問したり、議論したりする機会がありました。日ごろなら雲の上のような人と2,3メートルくらいの距離で対面し、話ができるのですからこれは大変な感激でした。こういうのは、オーラがすぐ伝わってくるのです。というわけで、私はこの塾に6ヶ月行っただけで、目からうろこが落ちたというか、こんな教育はまったく過去18年間受けたことはなかったなとつくづく思いました。ここでの塾で受けたものは明日からでもすぐ生きていく上ですぐ役に立つ話です。教育とはほんらいこういうものではないかと頭をぶん殴られたような気持ちになりました。おれがこれまで受けてきた教育とはなんだったのかという気持ちになりました。
2005/06/16
12日に札幌のYOSAKOIソーランまつりを見に行きました。最終日、日曜、快晴とあって札幌の大通りドンチャカドンチャカはものすごく盛り上がっていました。この祭りには全国からの参加団体が来るらしく、和歌山や福岡や島根、東京、大阪など日本各地から来た団体のおどりのパレードが引きも切らずに続き、観覧席や沿道は黒山の人です。どこも元気いっぱい、鉦太鼓笛に合わせて、揃いの衣装で一糸乱れず、宙に舞う足、空に伸びる手、縦に横に体の位置を変えると思いきゃ、くるりと回り、顔を傾け、激しく乱舞し、ドタドタ走り、次の瞬間に見事に型を決める美しさ、凛々しく、いなせで、一心不乱、ひたむきに舞う姿に堪能しました。聞くところによると5日間の参加者は4万人におよび、見物客はその100倍とかで、長谷川さんという北海道大学の学生が、高知にヨサコイおどりを見に行って感動し、学生仲間で高知のヨサコイ節と北海道のソーラン節をくっつけて始めたイベントが10年たらずでこんなにも膨れ上がった。長谷川さんの話によると、最初は道路の使用許可がなかなか下りなかった由。それで窮余の一策で、誰かが、デモなら警察は憲法の表現の自由を犯すことはできないから許可するだろうと言い出してうまくいった。普通ならデモはなかなか許可されないだろうと考えるところを、デモなら許可せざるを得ないだろうと逆転の発想をしたのですね。このまつりは札幌で成功したばかりでなく、以来、東京はじめ全国各地でまねするところが増え、全国的展開になった。長谷川さんは偉大なことをやった!です。その日の夕方、札幌支部の人たちと図解による合意学の演習をしました。終わっていっぱい飲んでたのしく語らいました。この支部ができてからおよそ20年くらいたっています。20代だった原さんがもう50歳近く。雪の権威として博士号を取っていて、大学の先生もやっています。英語の塾を始めてうまく成功している須釜さん、経営コンサルタントの吉見さん、文章が達者な松本さんとグラフィックデザイナーの奥さん。二次会を楽しんで散会しました。翌日は、麻布高校時代の友人の皆藤君がホテルに訪ねてきました。コーヒーをのみながら50年ぶりによもやま話が弾みました。この人は早稲田を出て北海道テレビに勤め、かれこれ40数年もこの札幌に住み、すっかり根を生やしたと言っていました。『「森と湖のまつり」をめぐって』という近著を頂戴しました。この人は身長、体重とも並みの人より一回り大きく、学生運動でも猛者ぶりを発揮し、麻布を出てから会ったときは、デモの先頭にいました。「イールズ帰れ」とか、「マックやめろ」とかの学生デモで私のいた外語大はせいぜい2~300名くらいの小集団ですが、早稲田ときたら2千名とか3千名の大部隊で、角帽に学生服の真っ黒い一団が「ミヤコノセーイホオク、ワセダーのモリニイ」と歌いながらやってくるのですから圧巻でしたね。百万の援軍を得たような感じ。そしてなんとその最先端に大旗を振りかざしていたのがこの皆藤君でした。思えば、高校時代は懐かしい。次々にトモダチの話が出ました。なにしろあのころは高校生のくせに毎日あきもせず、言論戦をやっていた。いわゆる左のグループのリーダーをしていたのが共産党の幹部を父にもっていた中西君で、なんと全国唯一の高校の共産党細胞をつくっていた。それに対抗する形でクリスチャンのグループだの、仏教グループだの、白樺派だの、実存主義だの、社民だの、厨川白村だの、ドストエフスキーだのが入り混じって、生齧りに議論に泡を飛ばしていた。霞町、赤十字下から、渋谷、新橋方面に三々五々熱中して議論しながら歩いて帰った。議論が決着しないままにすぐ目的地についてしまい、物足りない感じで分かれた。翌日はあいつを負かしてやろうと図書館に本を読みに行った。この皆藤君とはまたちがう思い出があります。当時麻布には不良グループがのさばっていた。私はそのころ、親に死なれて荒れていましたから、やったろかというので、拳骨で瓦などを割る練習をしたり、刀のつばを懐中に潜ませて、対抗心を燃やしていました。ラグビーの試合のときに不良の親玉を後ろから蹴っ飛ばしてやったら、さっそく呼び出しがきて屋上で決闘をした。私が柔道で首をしめて、そのまま壁に頭をぶっつけてやろうとした段になって、レフェリー役の上級生が引き分けだということにした。この話が広がって、クラスでやったろうという空気が出てきて、国語の教師だったテラカンこと寺田先生がお前と皆藤が組んでやれば勝つなどとたきつけられた。相手が決闘日を言いにきたので、私はさかんに瓦割りの練習をし、皆藤君は棒やチェーンなどを用意していた。この決闘日には、別な組の不良のナニガシも加わって、ドスを振り回しだしました。屋上に大勢の見物人が集まりました。私と皆藤君はドスはヤバイから素手にし、外部の者は帰れといい、なかなか話が合わず、とうとう決闘をやめることにした。向こうも不思議にそれに応じた。見物人たちは大立ち回りを見られなくてガッカリしたようです。とまあ、私と皆藤君とはこんな思う出がありました。皆藤君を分かれた後、運河の詩情がもう一度見たくて、小樽に行きました。相変わらず、この町には詩が残っています。でも古い倉庫群を改造した喫茶店がすくなくなって運河の風情が変わっていたのが残念でした。北の硝子などを回り、安いお土産を孫に買って夜の飛行機で帰りました。あの大型ジェット機がYOSAKOI帰りの人たちで満杯でした。体
2005/06/14
これからいろいろな分野ごとに書いてみようと思います。今日は、そのひとつの分野である知的生産の技術や広く教育問題についてのシリーズの皮切りで始めます。私は、一応大学を出ました。小学校、中学校、それから新制に変わった高校、大学と18年くらい(2年留年した)学校に行きました。小学校では読み書きソロバンを習いました。中学校ではそれ以外に歴史とか地理とか化学、物理、生物、英語など、私の場合は中国に滞在していましたから中国語、それから戦時中でしたから教練などがありました。新制高校に転学したのは戦争直後で、東京の麻布高校です。いまでこそ麻布は有名進学校ですが、当時は学区制で誰でも入れたので、私は信濃町に住んでいましたから、卒業生である叔父がタマゴ20個持っていって、OKになりました。高校で習ったのは、基礎教育により専門性が加わったもの、大学に行くとこれは教養と専門を学ぶということになります。学校教育で一貫してあるのは、知識を教えることです。小学校から大学までの教育は、国民として子供が大人になるにつれて社会性をつける、公民として社会生活を十分送っていける能力をつける、職場で働くのに不自由しないだけの基礎知識や現場作業や事務作業を習得する能力をつける、などが文部省によって学制として行われます。しかし、文部省がするのは、あくまでも全体としてやるのですから、しつけとか、生きていくための知恵の出し方とか、情報を判断する力とか、ものを創造するための方法とか、世の中を住みやすくするために選挙でどういう人を選ぶべきかとか、そういうものはやりません。大量な数の児童生徒に教えるためには先生が必要になり、その平均的な先生たちが一定の期間内に教えられる内容というものはだいたい決まっています。先生たちの教える能力の範囲内になります。したがって大学まで出たからと言ってもたいしたことはない、大海の中の一滴を学んだ程度に過ぎない。そこで学校で教わらないものは、親とか先輩、社会から学び、自分から進んで学ぶ以外にありません。人間関係をスムースにし、自分のまわりの人間環境をよくするすべは、伝統的には親が家で教えていました。わがままを行ってはならない、他人を傷つけてはならない、言動に注意する、人の誤解を受けないようにするなどの知恵や、言うべきことは主張する、自分をはっきり持つ、など場合によっては他人と衝突してもやむをえない場合の勇気などということもあります。こういうことは生きる力の中に入るでしょう。しかし、今の親は子供を教育する能力が非常に下がっているということがいえます。伝統の力が弱くなってきた、きれてきたということがあります。もうひとつは、自分が生きていくうえで他人が教えてくれないことがあります。特に一般的なことがらから一歩入って自分が専門的な役割をもつ人間になるために勉強する方法、情報はどこでどんな情報を得るべきか、公表されていない情報をどこで得、想像力をどのように働かせるか、どのような場合にどのような判断をするか、他人が開拓していない分野をどう切り開くか、などのことは自分がその気になって学ぶ以外にありません。伝統的に、この方面のことを学ぶには、先達の弟子になって、その人に密着して盗みとるしかなかった。こういうプロの先達は誰でもいらっしゃいと懇切丁寧に教えてくれません。また懇切丁寧に教えられたから身につくというものではない、自分からタックルしていかないと身に着かないということがあります。知研ではこういう方面のことについてずいぶんいろいろな先達から学びました。こういうことをこれからこのシリーズで書いていこうと思います。
2005/06/10
今日は小泉さんの靖国神社参拝のことについて述べます。この問題もいよいよ国益問題として討議されるようになり、中曽根元総理を含む総理大臣経験者、公明党も危惧を表明し、朝日、毎日も参拝はやめたほうがよいと社説に掲げました。この問題は、要するに、あそこにA級戦犯が合祀されていることに絞られます。昨日はフジテレビの番組で東条首相のお孫さんが出てきて、極東裁判の不当性を論じておられました。戦勝国の一方的な裁判だという点では正論です。しかし、300万におよぶ死者を出した戦争を始めた責任を当然、当時の国家最高責任者が負わねばならないのは自明の理です。国民に対して。だから極東裁判を非難することで責任回避するのはスリカエです。負けるにしても、昭和18年の半ばかおそくとも20年3月、ドイツの敗戦が明らかになった時点で戦争をやめれば、損害は非常に少なくてすんだ。終戦のタイミングについても間違った。東条さんは極東裁判で矛盾したことを言いました。自分は臣民として天皇の命令に逆らったことは絶対にないと。これを聞いたキーナン検事はあわてました。そうなると天皇の命令で戦争を始めたことになり、マッカーサーが日本占領を効果的に進めるために天皇の戦争犯罪を一切問わないことにするというアメリカの大方針にもとるわけです。それで巣鴨に元首相の米内光政氏を行かせて東条さんに2度とそういうことを法廷で言わないように釘をさした。他の戦犯も喜んで天皇を守るために口裏をあわせるようにした。東条さんはかしこまりましたと謹んで受け、それからあの戦争は天皇が反対しても自分は独断でやったと言うようになります。これは見え透いた話で、天皇は軍隊のトップの統帥者ですから、この最高トップに反して首相が独断でできるわけはありません。当時の日本人官吏として。A級戦犯の分祀についていちど遺族の承認を求めて回ったことがあって、6人の戦犯の遺族は同意した。しかし東条さんの遺族だけが同意しなかった。そうすると侵略戦争の罪を認めることになり、あれは自衛のための戦争だったという持論に反するからです。最高責任者の遺族としてはそう言わざるを得なかったかもしれません。それで分祀は沙汰止みになった。小泉さんもA級戦犯の霊にお参りに行っているのではないといい、極東裁判の結果を受け入れているといいました。ではなぜ参拝をやめないのか、あるいはA級戦犯を分祀するように動かないのかというと、中国の言うことに従う形でやめることはできない、中国に屈してはならない、ここで屈したら中国はまたちがうカードを出してきて、日本をおどしてくるという強硬論者の勢力が背後にあるからです。こういう強硬論の根拠を例えば読売新聞で岡崎久彦氏が連載していますが、要するにバランス・オブ・パワーの観念に拠っています。大昔のギリシア時代、ペロポネソス戦争というのがあったことを教科書で習いました。だけどあのときの理論がまだ生きているとは知りませんでした。あのころ、アテネが一番強かった。ところが、アテネに対抗する国が現れ、アテネに脅威を与えた。それで、この国が力をつけてくればこちらはやられる可能性があるから、やられないうちにやっつけてしまおうということで戦争を仕掛けます。そうして勝つ。アテネはますます強くなる。これを見て今度はスパルタが怖くなり、このままいけばこちらがやられると思って、バランスを保つために軍備を増強し、先手を打ってアテネに戦争をしかけるわけです。結果はご存知のようにスパルタが勝った。これがバランス・オブ・パワー論の始まりで、第一次大戦もドイツがつよくなる前にやってしまえとフランスが立ち上がった。第二次大戦も冷戦もこの論理で行われました。ヨーロッパは2度の大戦を経験して、もういいかげんこういうバランス・オブ・パワー思考はやめようという機運で冷戦が終わったのですね。しかし、相変わらずこの理論は一部で生き続けています。アメリカは冷戦後、軍事予算を36%も減らしましたが、最近また増やしています。これは中国が軍備拡張しているからだという。公式発表より2倍から3倍あるというが、その証拠はあいまいです。一方、中国はアメリカが脅威だから軍備を強化するというでしょう。これは完全にアテネとスパルタと同じです。要するに、厖大な軍事予算のメリットを受けている人たちがいるとすると、その状態をいつまでも続けておきたいためにいろいろな脅威論がつくられるのではないでしょうかね。日本におけるバランス・オブ・パワー族も日本を防衛するためにアメリカの軍事力と同盟し、中国が強くなる前に抑圧し、叩いておけ、靖国で文句を言わせるな、ということで強硬論を張っている。靖国で負けたら、中国はすぐまた次のカードをきってくるから負けられないと言っていますね。こういうことで行くと、とどのつまり、日本と中国がふたたび戦争になる危険があります。おそらく最大の危機は台湾に関して日本が手を出した時でしょう。そうなったときの惨禍は想像もできないほどになります。強硬論者の大学の先生たちは自分の言論に責任が持てるのですか!?
2005/06/06
マラッカのオランダ広場からセント・ポール教会につづく道の途中にふと絵になる光景を見つけました。熱帯の陽光がさんさんと照りつける白壁の家の前の芝生、真っ赤な花が咲いていました。そこだけが時間が止まっているような一角。そこに灰色のシャムネコが歩いていました。北に行くと詩があるが、南に行くと絵がある。ふとこんなことを考えました。さて、前回、マラッカからフランシスコ・ザビエルが発ったことを書きましたが、一行をのせた特別にチャーターしたジャンクはどのくらいで日本に来たのか。途中、事故でもたもたして香港で行こうと進路を変えていたとき、にわかに風向きが変わって順風になり、船はすべるように台湾の北に出て一路鹿児島を目指したといいます。したがってマラッカを出て50日で鹿児島に着いた。当時はやはり航海は大変危険で海難もさることながら、海賊による危険も大きかった。ザビエルの舟はポルトガルの護衛船もついていなかった。こういうときに、どういう覚悟で人は臨むのでしょうか。「今日まで私が遭遇したどんな危険にも増してはるかに大きな苦難が確実に待ち受けているにしても、私は行くのだ。なんとなれば、われらの主なる神が、あの東方の国において聖なる信仰にかくかくたる勝利を与えてくださることを信じきっているからである」とザビエルは言っています。ぜったいに自分は死なない、神がついているという信仰がザビエルを支えていたのですね。私は、1980年の正月を海上で迎えました。三井造船の千葉工場で作った石油探査船を中国の海南島のそばにある湛江という港にとどける旅でした。私は中国語の通訳というわけ。この航海は実に楽しいもので、ハノイの沖で石油の探索訓練もしました。この航海で感じたことは東シナ海は穏やかな海だったということ。鏡のようなというか。風とか海流さえなければ、海はおだやかだということがわかりました。九州沖が荒れるということも体験しました。このときはものすごい船酔い。ザビエルの舟は九州沖もクリアしてすべるように来れたのだなと思いました。知研でもう20年以上前、太平洋ヨット横断で一躍有名になった堀江謙一さんを講演によんだことがあります。堀江さんはあんな小さいヨットのマーメイド号で無線もつけずに海を渡った人ですから、ものすごいロマンチスト、冒険家だと思っていました。しかし会った途端に、「あ、この人はものすごい実務家で普通の人だな」とまっさきに感じました。話を聞いて、なるほどそうだ、綿密な計画と準備、技術、経験がなければあんなことはできないのだなとよくわかりました。堀江さんはそれまでに八丈島往復や日本近海一周のヨット旅をしているのですから、マイレージは十分高かったのですね。それをアメリカまで直線にのばせばいいだけだという自信があったようです。堀江さんに「死ぬとは思わなかったのですか」と聞いたら、いちばん恐れたのは、自分より早く誰かに先がけされることだったといい、日本を出るときは誰にも黙って出たのですね。海上で一番怖かったのは何かと聞いたら、想像力だと答えた。このまま行ったら海が荒れて転覆するか、ものすごいナギで何ヶ月も海の上で止まってしまい、食料や水がなくなってしまうとか、想像しだすと恐ろしさで眠れなくなり、そういうときはウイスキーを飲んで酔うことにしたと言いました。もうひとつは果たして行く手にまちがいなくアメリカがあるのだろうか、とんでもない方向にそれているのだろうかと心配したそうです。道標になるあるべき島にいつまでもつかないのでますます心配になった。たえず六分儀で位置を確かめているにもかかわらず。途中でやっとアメリカの貨物船に遭遇して、位置が正しかったことを確認したときはバンザイをしたといいます。ヨットの上で作業をするときはいつも体にロープを巻きつけていたそうです。足を滑らして海に落ちた場合に、ヨットは風にのってすいすいいて行ってしまうが、海に落ちた自分は「オーイ、待て」と呼んでも泳いでも追いつけないという笑い話みたいな恐怖。堀江さんはグループで航海したことはまれで、ほとんど一人だけの航海だといいます。複数の仲間で長い時間航海するとやはり何事かがおこり、ストレスがたまるのだそうです。自分がしっかり責任をもって他の仲間は「お客さん」だとみなしていたという。いろいろ実体験者でなければ聞けない話を聞きました。海は恐怖心をそそるが、なれを積み重ねることによってそれが地球無寄航一周などの快挙につながっていくのですね。
2005/06/04
昨日、東中野のBOXで、『海女のリャンさん』という独立プロの映画を見ました。ここではひっきりなしに小さな独立プロダクションがつくった映画を上映しています。入ってみても観ている観客は少ないですが、日本にはこういう映画を次々につくる良心的な人たちがいることはうれしいですね。リャンさんというのは韓国の済州島から1941年に20歳ちょっとで日本に働きに来て、54歳になるまで対馬や三重県の尾鷲でサザエやトコブシ、アワビなどを採っていた海女。朝鮮籍の小学校教師と結婚して7人の子供をもうけた。戦時中、戦後の極貧時代から7人の子供を海女の仕事で育ててきたお話でした。4人の男の子は日本では職がないため、北朝鮮に渡り、2人の男の子は大阪に残り、一人の女の子は韓国というふうに離れ離れに暮らしています。リャンさんの夫は朝鮮人学校の維持に東奔西走してほとんど収入がない。それでリャンさんは深さ100メートルまでもぐる重労働で金を稼ぎ、一家を養ってきた。リャンさんは朝鮮籍のため、北朝鮮には行けるが、韓国に行けなかった。それがやっと数年前の南北対話で1週間行けることになり何十年ぶりに娘と涙の再会。こういったリャンさんの人生模様を過去のニュースフィルムや写真などを挿入し、密着取材してとっています。出てくる人はリャンさん本人と家族などすべて素人ですが、リャンさんの迫力には驚きました。別にリャンさんがカリスマ性をもっているとかいうのでなく、過ごしてきた人生があまりにも苛酷で重たいために、それが見る人をして圧倒させます。だからといってあっさりとその人生を受け入れていて、それでよかったのだと動じない。そんじょそこらの俳優の演技では出せない迫力は、いかに実物のコンテンツが強いかがわかります。政治的な問題は抜きにして、たった1時間半か2時間くらいで行けるところに住んでいる人たちが自由に行けないということの悲劇をまのあたりに感じました。なんとかしないといけないですね。さて、マラッカに行った話しに転じます。前回、シンガポールからマレーシアに渡るコーズウエイに汽車が通っていなかったと書きましたが、見誤りで間違いでした。どう考えてもそういうことはなく、元旅行会社におられた近藤さんからご注意を頂きました。息子に問い合わせたら、3時間に1本くらい通っているという返事でした。まちがったことを書いてしまい、おわび申し上げます。マラッカはジョホールバルから約1時間半です。マラッカは白っぽい階建て商店街が続き、漢字の広告がずっと並んでいました。中央の繁栄から取り残されたすこしさびれた地方の中都市といった感じ。食事の後、20分ほど車を駆って昔の砦を見に行きました。青銅製の大砲が数基あり、マカオで見たのと同じです。この要塞砲はポルトガルがオランダ船に対して撃ったもののように思いましたが、海辺までかなり距離があるので、これでは弾がとどかなかったのではないかと思い、これは地上戦闘の防備用ではないかと思いました。それから旧市のオタンダ広場という一画に行きました。大きな教会風の建物があり、これはオランダ時代の政庁だったようです。今は歴史博物館になっていて、マラッカ王国時代からポルトガル、オランダ、イギリス、最後の日本時代まで歴史に沿ってなかなか立派に資料などの展示がなされていました。中庭に鄭和の大きな像が立っていて、その前に井戸があった跡があり、なにか鄭和にまつわる有名な伝説が残っているらしいのですが、インド系マレー人の英語の説明がよく聞き取れませんでした。鄭和は15世紀はじめの中国の艦隊提督でマラッカを補給地にしてインド、アラビア、アフリカまで友好訪問していたらしい。華僑が南洋各地に広がったのはこの時代かららしい。さて、マレー人の建てたマラッカ王国は1400年ころから大変な繁栄をとげていたらしい。それが1511年にポルトガルに占領されて、王国のサルタンはジョホールに逃れ、そこにジョホール王国を建てます。ポルトガルの支配も1641年までですが、やがてイギリスが出てきて1795年にマラッカを占領します。それでオランダはジャワに移り、今のインドネシア全域を支配します。イギリスはフランスとの対抗上、対岸のオランダとは仲良くしておきたかったらしくトコトン戦争はしないのですね。ナポレオン戦争のときは、オランダ領にフランスが入ってくるのを嫌って、ラッフルズはジャワを攻めますが、戦争がおわるとそれをオランダに返しています。ポルトガル、オランダは東南アジアで胡椒などの資源をとって儲けるのが主眼でしたが、イギリスはまっすぐ中国に向かう中継基地にマラッカを置くのですね。少し小高い丘の上にセント・ポール教会の跡がありました。ポルトガル時代のものですが、四周の壁が残っているだけで天井はなく、ポッカリ熱帯の青空が広がっていました。なかにポルトガル語かラテン語か知りませんが、500年前の当時の石碑が10基くらい立て掛けてありました。私はこういうのを見ると、想像力が広がってぞくぞくします。この教会にフランシスコ・ザビエルが居て、ここから日本人アンジローを含む6人の従者を連れて日本に来るのですね。マラッカを出帆したのは1548年6月24日です。
2005/06/01
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