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この歌は、森田公一の作ったもので、後に歌謡曲のヒットメーカーになる前の、まだ無名時代の作品だったと思う。時代が書かせた傑作という感じのする歌だ。愛する人を戦争で殺された母親の悲痛な叫びのような子守歌だ。こんな悲しい子守歌を、その子の時代には、決して歌わせないで欲しいという願いがこめられた子守歌だ。この歌は、もう30年も前に作られた歌なのに、いままたこの歌を歌わなければならない人々をたくさん作り出している。本当に殺されるだけの理由があるのだろうか。たぶん、この戦争に反対している人は、基本的には、「なぜ殺されなくてはならないのか」ということに疑問を感じ、その理不尽さに抗議をしているんじゃないかと思う。ブッシュ大統領は、最初の作戦通りに迅速な進撃をするといっていた。軍事専門家でさえ、慎重にやらなければならないといっているのに、無理矢理突き進めば、人為的なミスがますます増えるに違いない。いくらハイテクの武器があっても、人為的ミスは防げない。僕は、無理な運転さえしなければ、自動車というのは大変安全な乗り物だと思っている。かなりの部分で制御が出来るからだ。しかし、無理をすれば制御の出来ない部分が出てきて、ミスのために事故を起こす可能性が高い。ミスをしないためには、無理をしてはいけないのだ。イラクは、圧倒的な武力の差からいって、ゲリラ戦法をとるのは軍事的に見て当然で、アメリカはそれを計算して作戦を立てなければならない。ゲリラか民間人かを区別するのは大変に難しい。無理をして早急に結論を出してしまえば、疑いだけで民間人を処刑してしまうミスが起こりかねない。今度の戦争が、アメリカの主張通りに、正義の戦争であるならば、このミスは致命的なものになるだけに、その主張が本当ならば、慎重に慎重を重ねても避けなければならないと思う。しかし、無理をすれば必ずミスが起こる。かつて、ベトナムで<ソンミ村虐殺事件>が起こったような、そんな事件が起きないように祈る。アメリカの不当性を訴えるには、今のままの事実でも十分だ。これ以上の悲しみを生む必要はない。この歌を歌わなければならない人を、これ以上増やしてはいけないと思う。世界は、出来るだけ早く、この戦争を止めなければならない。そう思う。
2003.03.31
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女々しい男の、力強い反戦宣言としてのこの歌が、もっともふさわしい時を得てしまった。この歌がかつて人々に聞かれていたのは、ベトナム戦争に反対していた頃だっただろうか。あの頃のベトナムは、沖縄の基地から米軍の攻撃がされていたという意味では、日本が直接関わっていた戦争であったにもかかわらず、多くの日本人には自分自身の問題として考えられていなかったのではないだろうか。今回の戦争は、遠いイラクで行われているのに、これはまさに僕たちの戦争なんだという思いが強くなるのはなぜだろう。それは、国家権力の不当な弾圧というのは、ねらわれたら最後、たとえどんな道理があろうとも無理が押し通されてしまうと、僕たちが感じるからじゃないだろうか。イラクは、石油があるということでねらわれてしまったけれど、僕たちだって、何かねらわれるだけの理由があったら、同じような目に遭うんじゃないかという恐れを抱いてしまう。この歌では、命は一つしかないのだから大切にしなければならないという言葉から始まる。その一つしかない命を、「お国」のために使ったからといって、それで「お国」は、何かをしてくれるわけじゃない。僕たちが死んでも、「お国」は何もなかったように明日も同じことを繰り返していく。それは、ただの一兵卒が死んだくらいでは、「西部戦線異状なし」と電報を打たれるようなものだ。戦争の時は、勇敢な男がほめられる。でも、この歌では「女の腐ったの」でかまわないと言っている。女の人には、ちょっと失礼な言い方だ。でも、女は腐っても美しい。それに対して男が腐るととても近くにはいられないから、僕も腐るなら「女の腐ったようなの」がいいな。それで、戦争に行かなくてすむのなら、僕は大歓迎だ。僕は、昨日の歌のように、武器は取らないから、撃ちたければ撃つがいいとかっこよく言えるだけの勇気はないものな。でも、男のまま腐るんだったら、撃ち殺される方を選ぶだけの誇りは僕の中にはまだあると思うんだ。男のまま腐るのだけはまっぴらだな。今日の引用は、繰り返される次のフレーズだ。 青くなって尻込みなさい 逃げなさい 隠れなさいなんかこれは、イラクのゲリラ戦術の教訓のような気もするな。逃げて、隠れて、相手に隙が出来た時だけ反撃をするという。女々しい戦い方だよな。でも、正面から行ったら、男らしくてかっこいいかもしれないけれど皆殺しにされてしまうものね。あんな情けない武器しか持っていないイラクが、簡単に全滅しないというのは、意外に彼らは賢いんだね。昨日の毎日新聞では、アメリカの歴史学者のダグラス・ポラーという人が、こんなことを語っていた。「可能性は乏しいが、仮に、米英軍がイラク全土を占領し、フセイン大統領を殺害、あるいは拘束した上で、何も発見されなかったとしたら、どうなるのだろう。さらに、フセイン大統領が真実を語り、イラクが大量破壊兵器を保有していなかったとしたら、どうなるだろう。 米英支持者には、そのような事態は恐ろしすぎて想像も出来ないだろう。米国の道徳的、法的、政治的立場は、その輝かしい歴史の中で初めて地に落ちることになる。」この戦争が、どのような形で終わるかは分からないけれど、いずれにしても何かが明らかにされることだろう。それは、悲しい真実であるかもしれないけれど。
2003.03.29
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米英は、修正決議案を提出するのを断念したというニュースが報道されている。それは、賛成を得られる可能性がほとんどなくなったからだ。つまり、世界にはまだ賢い人々の方が多かったということが証明されたことになる。無理が通らず、道理が持ちこたえた。このイラクの問題に関する新聞報道は、その言葉の選び方がひどいものだといつも感じる。「断念」といえば、正しいことをしているけれどやむを得ずあきらめたというニュアンスが伝わってくるが、ひどい暴論が通用しないで、無理が通らずに道理が残ったという言い方が正しいのに、新聞はそのように報道をしない。まっとうな論理を通しているフランスを非難する、米英の暴論をそのまま垂れ流すだけだ。この一連の流れを見ていると、歴史は、かつてマルクスが発見した唯物史観の法則に従って動いているんだなということがよく分かる。正義が反戦の側にあることは、ほぼ明らかであるのに、正義では戦争を止めることが出来ない。ほんの一部の金儲けが出来る経済基盤を持っている人間たちの意志が、戦争への道を突っ走っている。それは、ほんの一部だけで、大多数の人々はひどい状態が待っているだけであるのに。今回の戦争は、その費用が1000億ドルと試算されているようだけれど、だいたいどの戦争でも始める時の試算は低く見積もっているそうだ。そして結果的にはその10倍くらいの金がかかる。しかも、今回の場合は、その復興費用は、いったいいくらかかるか分からないくらいらしい。おまけに、理不尽な戦争だから、恨みを買ってテロという手段に訴える人が出てくることも予想される。テロというのは、正当な手段をすべて奪われた人々が、その怨念をはらすために残された最後の手段だから。そうすると、おそらくテロ対策の金も膨大なものになる。アメリカでは、テロの標的にされそうな航空業界の失業が70000人は出るといわれている。観光地は特にねらわれやすいから観光産業も冷え込むだろう。武器を作って売っている連中以外は、おそらく金儲けの当てがはずれるに違いない。石油を独占したい人間たちだって、その思惑通りになるかどうか分からない。すべての希望がなくなったと見たら、イラクの油田のすべてを破壊して自爆するという道をフセインは歩む可能性だってある。そうしたら、おそらく石油価格はかつてないくらいに暴騰するだろう。もっとも、暴騰したら、石油を持っている連中にはいいのかもしれないけれど、そうやって得た利益はとんでもない形で跳ね返って来るに違いない。すべては、やってみないと分からないが、やってみてから分かるのでは手遅れだ。願わくば、侵略者の側にも賢い人間が生まれて、唯物史観の正しさを証明してくれる人間が出てくることを望む。この戦争は、儲からないからやめようと考える人間がでてくれないものかと思う。戦争を回避する道は、ほとんどそれしか残されていないような気もする。史上まれに見る無能な大統領をいただいたアメリカの不幸が実現されないことを望む。歌に関して何も言っていなかったけれども、僕も「戦争を知らない子供たち」の一人だ。それは戦争そのものを実体験していないということで、追体験なら、僕はたぶん同世代の中でもかなりたくさんの追体験はしていると思う。この「知らない」という言葉は、戦争そのものを知らなくてもいいんだということではないんだと思う。戦争の実体験は、今後永久に知らなくていい、戦争そのものを決してやらない子供たちでなければいけないと語っているのだと思う。戦争をやらないという決心をするためには、戦争の醜さ、残虐さを本当に知らなければならない。戦争を知らないでいるためには、戦争をよく知らなければならない。僕たちの世代は、戦争を支持するような世代になってはいけないと思う。最後に次の一節だけ引用しよう 青空が好きで 花びらが好きで いつでも笑顔の すてきな人なら 誰でも一緒に 歩いてゆこうよ世界中の戦争に反対する人間たちは、きっとステキな笑顔を見せてくれる人たちだと思う。イラクの若者たちを見てそう思った。一緒に歩いていく人が圧倒的多数になり、侵略者たちが、自分の間違いに気づく日が来ることを祈る。
2003.03.18
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昨日は、この歌で日記を書こうと思って用意していたのに、楽天がメンテナンスで、しかも僕は午後から出かけてしまったので日記が書けなかった。果たして昨日と同じ気分で書けるかな。この歌は、「再発見」というテーマで書いている。昔はあまり聞かなかったからだ。ある意味では、今の時代だから感じるイメージが浮かんで来るというような印象を受ける。これは<うたまっぷ>ではなく、<歌ネット>というところで検索出来る。お家へかえろう僕は、反骨精神を持った人間が好きなんだけれど、長渕剛にもそれを感じる。率直に思ったことを口にするんだけれど、それが、どちらかというと保守的な人間には、今までの秩序に反するような、わがままなやつに見えるようなので、かなりたたかれたこともあったように感じる。それでも、言いたいことを言わなきゃ気が済まないという、そういう雰囲気が伝わってくる歌として、これも好きな歌だな。まずこんな所から引用しよう。 東の空では若者が 自由と戦っているのに 原宿ホコ天通りじゃ 自由をもて遊んでる何かに抵抗をする時に、ただ強がるんじゃなくて、抵抗する相手を正しく選ばなければならない。日本の若者は、何か間違っているんじゃないのか、というメッセージを感じてしまうのは、僕が年をとったせいなのかな。総じて、物質的に豊かな西の若者の方が、何となく心の豊かさは失っているように感じる。土曜日には、イラクの若者とアメリカの若者の議論を見た。イラクの若者の方が立派に見えるのはなぜだろう。もちろん、選ばれた若者だからとも言えるだろうけれど、置かれた状況が厳しいもので、その厳しさが彼らを鍛えているというふうにも見えた。これに続く次の歌詞もちょっと引用しておこう。 「これが若者ですか?」と 日の丸をすかしてみりゃ しらけたニッポンが ああ アメリカに溶けてゆくアメリカとの関係を、もう一度見直してみないと、若者だけに限らず、日本人というものはやっぱり自立した考えが出来ないんじゃないかと、今度のイラク問題で僕はさらに強くそう思うようになった。アメリカに溶けてゆくようじゃダメなんだと思う。今朝のテレビでも、アメリカを擁護し、政府のアメリカ支持に理屈をつけている評論家が出ていた。いったい何人の日本人が、この評論家のいうことを信じているだろうか。信じてはいないけれど、長いものには巻かれていた方がいいという判断で、だまされたふりをしているんだろうか。でも、アメリカという長いものに巻かれていて、本当に安心していられるんだろうか。我々のひとりひとりが、本当に長いものに巻かれて助かる種類の人間に含まれているのかどうか、イラクの一般民衆のように、手段を選ばない目的の前に殺されてしまう方の種類の人間ではないのか、日本人の多くもそれを自分に問いかけた方がいいと思う。評論家は、相変わらずイラクの危険を言い立てて、もう武力を使って武装解除する以外に方法がないと繰り返していた。いったいイラクとアメリカの武力の差をどう認識しているんだろう。イラクには、ほとんど戦争をする能力は残っていない。それは、世界中がよく知っていると思うんだけれど、それでもまだこんな嘘を繰り返すんだろうか。アメリカの歴史をちょっと調べてみれば、史上最悪の残虐兵器で、大量に殺戮した歴史を見つけることが出来る。そのアメリカが、このような正義を言い立てることのばかばかしさを、まだ気づかない日本人がいるんだろうか。テレビは全く当てにならないというのにまだ気づかないんだろうか。アメリカがイラクに戦争を仕掛けるというのは、侵略に他ならないんだけれど、今までのアメリカの侵略戦争は、表向きはその開戦をごまかす工夫が一応は出来た。だいたい、相手がけしからんという理由をつけて戦争を始めることが出来た。ベトナム戦争の時には、それがでっち上げであることがばれてしまったけれど、だいたいは、アメリカ自身が裏で原因を起こして、大義名分をつける。それが、今度のイラク相手に対しては、ことごとく失敗している。誰の目にもかなり明らかに侵略であることがはっきりしてきた。だから、この戦争を阻止出来るかどうかは、殺される側の我々の運命にとって大きなことになるだろう。圧倒的多数の殺される側の人間は、もっと賢くなって、この歌のように開き直る気分を持たなければならないと思う。
2003.03.17
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今日、毎日新聞の一面に「最後の外交努力」という見出しを見つけて、この歌が浮かんできた。毎日新聞というのは、マスコミの中ではもっともリベラルだと僕は思っている。リベラルだから部数を伸ばすことが難しく苦労している。その毎日新聞でさえも、戦争に結びつく行動を「努力」と表現してしまう。何かいいことをしているのではないかと錯覚させる。この「努力」は、殺す側の努力であって、殺される側にとってはして欲しくない「努力」であって、「努力」を無条件にいいことだと思い込んでいる多くの日本人を誤解させることになりそうな気がしていやな気分になった。僕のように「努力」が嫌いな人間は、こういう嘘に対しては、思いっきり皮肉っぽくそれをほめあげて馬鹿にするという、こういう歌を歌いたくなってくる。この歌はどちらも30年以上も前の歌じゃないかと思えるようなものだが、この歌に歌われている状況はほとんど変わりがないみたいだ。大まじめに正義を振りかざす殺す側を笑い飛ばしてやりたいものだ。高田渡の歌は、勘違いした自衛隊関係者が、自衛隊の宣伝の歌にしようとしたくらい、自衛隊をほめあげているのだが、そのほめあげているところをよく考えると、そんなことしかほめるところがないのかと、そう思えてくる歌だ。スポーツをやりたい人、鉄砲や戦車や飛行機に興味がある人、学歴や年齢も問わないということだから、そういう人材は大歓迎ですよ、というセリフを勘違いしたのか、自衛隊員の募集に使えると思ったんだろうか。でも、よく考えてみると、あまり深く考えない、体さえ丈夫だったら、戦争というゲームのいい駒になる、という呼びかけに聞こえるんだけれどな。平和を守るために武器が必要で、アメリカに頼らなければならないんだというのはまさに今の状況と同じだ。30年以上この状況は変わらずに来たわけだ。でも、これが嘘だというのをどうしたら多くの日本人が理解するようになるのかな。アメリカの歴史を見たら、「アラモの砦」なんかで象徴されるように、大義名分を作るためなら、平気で自国民でさえ犠牲にする国なのに、そんな国が本当に守ってくれると本気で信じているんだろうか。アラモの砦というのは、先住民族を皆殺しにするための大義名分を作りたいために、わざと孤立させて、先住民族に襲わせて、先に彼らに皆殺しにさせたところだ。彼らが先にやったのだから、どれだけ残酷なことをしてもいいのだという理由付けのためにやった。それ以上に残酷なことは、日常的にやっていたにもかかわらず、最後の仕上げには、そういう演出を行ったわけだ。安保条約というのは、アメリカの利益がある限りで日本を守るという安全保障条約に過ぎないのに、それがなければ日本は安全でないと思い込んでいる日本人はたくさんいる。だから、日本は安保条約がある限り自立した外交が出来ないでいるんだと思う。アメリカの利益にならないことをしたら、守ってもらうことが出来ないからだ。実際には、アメリカぐらいテロにねらわれている国はないのだから、日本にとって戦争という可能性が限りなくなくなってきた現在という時は、むしろアメリカにべったりすり寄っていることで生じるテロの危険の方が大きくなるんじゃないかとも思ったりする。この歌の時代と一つ違うのは、この時代は「悪いソ連や中国をやっつけましょう」ということだったけれど、それがアフガニスタンやイラクに変わってしまっただけなのかな。でもこれはひどい変わり方だ。ソ連や中国なら、一応の驚異は、嘘の中でも本当らしさがあったけれども、アフガニスタンやイラクは、アメリカにとっては全然驚異でもなんでもないのに。戦闘能力からいったら、プロレスの世界チャンピオンが、なんの優れた運動能力を持たない男と戦うようなものだ。もう一つの「戦争小唄」は、戦争の楽しさを歌い上げる歌で、戦争の好きな人間は、みんなこういう人間なんだよということを教えてくれる痛快な歌だ。まともな思考力と、人の心を感じることの出来る人間だったら、戦争を好きになれるはずがないと確信させてくれる歌だ。この歌では、「待ちに待った戦争」が始まったことを喜び、国が認めた戦争だから、みんなで殺そうと呼びかけている。欲求不満のやつや、ストレスを解消したいやつには、一番だと勧めている。次のセリフは、絶対に放送に載ることはないだろうな。 いくら殺しても 大丈夫 何を盗んでも 平気さ やればやるほど ほめられる 鼻血だしだし それすすめ戦争というのは、最悪のモラルが出てくるところだ。どんな大義名分があっても、それはほとんどが嘘であるから、その場にいる人間のモラルは最低のものになる。すべての暴力の中で、やむを得ないと理解出来るのは正当防衛の時のみで、それも正当であるという証明は非常に難しい。先制攻撃の暴力に正義があると考えるのは、侵略者の勝手な殺す論理だ。僕が知っている限りでは、モラルの高かった軍隊は、毛沢東の八路軍と、ホー・チ・ミンのベトナムの解放戦線だ。いずれも侵略者に対する抵抗の軍隊だった。このような軍隊でない限り、モラルの高い軍隊は存在しないと思う。ましてや、侵略軍であるアメリカ軍が、どれだけひどいことをするかは、予想するのさえ怒りがわいてくるくらいだ。もしアメリカが戦争を仕掛けるならば、それは、悪魔のようにののしっていたイラクの軍隊を抵抗軍にし、モラルを高めるという皮肉な結果をもたらしてしまうだろう。アメリカのやっていることは侵略であり、最悪の弱いものいじめにしか映らない。まっとうな意見のフランスを世界の人々が支持し、応援することを願っている。
2003.03.15
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僕の好きなものは、音楽と映画と読書で、日記に選ぶのはこの中のどれかだけれど、音楽が圧倒的に多くて、今日は久しぶりの読書から選んでみた。この本のあるセリフがとても印象に残ったので、そこから連想するものを書きつづってみたい。ストーリーは話さないので、まだこの本を読んでいない人にも許してもらえるだろう。印象的なセリフは二つあるけれど、まずは次のセリフだ。これは、主人公が、子供の頃から心を寄せていた女性に言うセリフだ。彼女が、「きっとあなたは私にうんざりする」、というふうに語ったあとに主人公はこんなことを言う。「そんなことはあり得ないんだよ。僕は君にうんざりしたりはしなかったと思う。なぜなら僕と君の間には何か特別なものがあるからだよ。それが僕にはよく分かるんだ。言葉では説明出来ない。でもそれはちゃんとそこにあるし、それはとても貴重で大切なものなんだ。そのことはきっと君にも分かっているはずだよ。」いいセリフだな。若い頃にこのセリフに出会っていたら、きっとどこかで使っていたはずなのに。まあ、若い頃は、こんなことが言える人間じゃなかったから知っていてもダメだったかもしれないけれどね。今ならもう少し図々しくなって、これくらい言えるんだけれど、残念なことに相手がいない。この主人公は、ある種の「吸引力」というもので、特別に引きつけられる女性を感じるんだけれど、僕もそんなものを感じることがあった。それは決して美人ではない、というと今までの相手に失礼だけれど、いわゆる世間でいうような美人とは違うんだ。特別な魅力、僕だけが見つけることの出来る特別な魅力があると思える人で、それが「吸引力」として感じられるんだな。でもこれだけかっこいいセリフはあの頃は浮かんでこなかった。これに続くセリフもなかなかいい。引用させてもらおう。「僕は別に立派な人間じゃない。他人に自慢出来るほどのものも持ち合わせていない。それに昔は今よりもっとがさつで、無神経で、傲慢だった。だからあるいは僕は君にふさわしい人間とは言えなかったかもしれない。でもね、これだけは言える。僕は君にうんざりしたりはしない。そういう点では僕は他の人間とは違うんだ。君に関していえば、僕は本当に特別な人間なんだ。僕はそれを感じることが出来る。」「君に関していえば」というところがすごく気に入った。「君だけに」それを感じるということが好きだね。世の中に男の数も女の数もたくさんいるけれど、こんなふうに感じることの出来る相手は、もしかしたらただ一人しかいないかもしれない。そう思って、自分の相手を見ることが出来れば、きっと幸せなんだろうけれど、その代わりに、そういう相手を失うという時は、その喪失感も深いものになるんだろう。こういうセリフに出会うと、やっぱり村上春樹はいいねと感じるな。同じように感じる人もきっと多いんだろうな。
2003.03.14
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昨日は忙しくて日記が書けなかったが、今日はなかなか歌が見つからなくて書くのに時間がかかった。そこで、思い出したのがビートルズだ。そういえば、ビートルズこそが、嫌いなものが一つもないというものの最初だった。好きなものを好きといおうと思ったのだから、その原点のビートルズをやっぱり探そうということで目についたのがこの歌だ。これはアルバム<リボルバー>に入っているジョージの歌ということで、ビートルズファンでないと知らないかもしれないけれど、ビートルズファンとはぜひ、同じものを好きだったら語り合いたい地味な歌だ。題名も歌詞も、中学生でも分かるような英語だ。とにかく、君に話したいことがあるんだけれど、君に逢うと言葉が出てこないという、あの頃の僕にはぴったりの歌を思い出した。僕は、だいたい想像力で生きているような所があって、相手を目の前にしていなければ、どのような会話をして、どのように展開するかをかなり細部にわたって想像出来ちゃうところがあった。ところが現実には、相手を目の前にすると、思っていたことと反対のことを口走ったり、どうでもいいことを楽しそうにしゃべったりしてしまう。そんな気持ちを思い出させてくれる歌だな。きっとジョージもそういうはにかみやの男だったんだろう。僕は、書き言葉はかなり得意だ。結婚する前も電話はほとんどかけなかったけれど、ラブレターばかり書いていた。相手がすぐに応えないでいい手紙は、自分の想像で書き進めるから得意だったのかな。僕は今でも話し言葉は苦手だ。話し言葉では、あまり本心を言ったことがないかもしれない。話し言葉では、心を閉ざしている人間に見えるかもしれない。この歌でも、「僕がつれなく見えたとしたら」というセリフがあって、そんな気持ちに通じるような感じがして気に入っている。最後にちょっと引用して締めくくりにしよう。 I don’t mind, I could wait forever I’ve got time I’ve got time …僕は、「永久に待てる」というセリフは、自分でもなんかそんな気がして好きなセリフだ。僕は待つのは得意なんだ。待ち合わせで、僕が遅れていくというのは滅多にない。デートの待ち合わせはいつも30分は早く行っていた。いつも待たされていたから、場所を間違えたことに気づかないで、間違えた場所で1時間待っていたこともあった。永久なんてのは、ほんのちょっとの間くらいにしか感じないかもしれない。待っているときにも、楽しいことを想像していられれば、待つことも楽しくなる。待つための時間なら、僕にはいくらでもあると思えるからね。待っていることは楽しいものだ。もう待たなくてもいいと分かるときが来なければね。
2003.03.13
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さだまさしは、「精霊流し」という小説を書いたらしい。さだまさしの歌詞は、昔から物語性の強い感じがしていたから、小説という物語は、さだまさしにはふさわしい表現かもしれないな。ただ、歌詞なら短い時間の表現だから、センチメンタルもうっとりする気分で終われるけれど、小説になると、長時間甘すぎる気分に浸りそうな感じがして、まだ小説の方は見ていない。そのうっとりするセンチメンタルな気分で忘れられないのが、この歌だ。アルバム<風見鶏>の中の一曲で、僕がさだまさしを一番聞いていた頃の歌だ。この歌は、映画でいえば切ない別れのラストシーンを思わせる。ラストしか描いていないのに、そのラストにつながる物語が想像出来るのだから、センチメンタルの中に浸りきれるんだろうな。空港の表示板に君が乗る飛行機の出発時刻が示されると、いよいよ別れの時が来たという感じが胸に迫ってくる。別れの時が来たのを、「別れ」という言葉を使わずに感じさせるのだから、粋でしゃれていると思う。ここが物語性に優れたところなのかな。あとわずかの時間のうちに、「引き留めたい」という気持ちを持ちながらもそれが出来ない。頭に浮かんでくるのは、「止まれとさえ祈った時間」を持った過去の出来事ばかりだ。手荷物が吸い込まれていくのを見ると、これで本当に終わったんだなという感じがしてくる。このとき流れてくるのが「最終案内」だ。うっとりするような一シーンだね。背中を向けて、君が飛行機に乗り込んでいくのを見て、僕の目に浮かんでくるシーンというのがまた美しい。今日はここを引用しよう。 君は今スポットを浴びたスターのように 滑走路というステージに 呑み込まれてゆくここで「呑み込まれてゆく」と「呑む」という漢字を使っているのがまた詩を感じさせる。これは「丸飲みにする」とか「受け入れる」というイメージがあるそうだ。このイメージが、次の歌詞の「赤や緑のランプ」と重なっていくと、その色彩と光の重なりがさらに美しさを高めてくれる。さだまさしは、「檸檬」の中でも、電車の色と檸檬の黄色とのコントラストのイメージでその美しさを感じさせてくれたけれど、色彩のイメージの見事さというのをこの曲を聴いたときも感じた。さだまさしの物語性の美しさは、想像力の世界の美しさだろうとずっと思っていた。あまりにもきれいにまとめすぎていて、現実には、このままではあり得ないと思えるからだ。似たような経験はあるのかもしれないけれど、美しくまとめ上げるのは、想像力のたまものだろうと思う。その楽しさを感じさせてくれるあの頃のさだまさしが好きだった。想像力の世界の中だったら、いくら別れが悲しいものであっても、悲しさよりも美しさの方が強く感じられてしまうから切なくなりすぎない。拓郎が、率直でストレートな良さを与えてくれたのと、全く違う個性としてかえって好きだったな。
2003.03.11
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3月の第2日曜は毎年ディズニーランドに行く日となっている日で、三井生命につとめる人からもらった招待券でそこの組合主催のイベントに代理で行く日になっている。それで昨日は、朝早くから運転手になり、夜も遅くなってから帰ってきたので日記が書けなかった。僕は、日記にこういうプライベートなことを全く書かないので、どうしたんだろうと思わせてしまった人もいるかもしれない。こんなことがあったり、歌やテーマが見つからないときは、これからもきっと日記を書かない日があるだろうと思う。そういう日は、こんな理由なんだと思ってください。さて、くるくるよーこさんのところで、「好きな映画を好きといおう」というコメントを書いてから、僕自身も、好きなものを素直に好きと、もっと言えるようにしようと思った。だから、今日も拓郎の歌を選んでしまったのは、最近ますます拓郎が好きになってきているからだなと感じる。元々僕が楽天のような所に自分の文章を書き始めたのも、自分が好きだと思うものを同じように好きだと思ってくれる人が一人でもいれば、その人と、いかに好きかということを話し合いたいと思ったからだった。一人で好きだと思っていてもいいんだけれど、誰か一人でもそういう人がいるとやっぱり楽しくなるから、その誰かを探したくてここに文章を書き始めた。好きなものを語り合うというのは楽しいことだ。だから、自分の好きなものを好きと素直に言えるようにしようと、くるくるよーこさんの所に書き込んだときに、自分自身にもそう言っているように感じた。さて、この歌だけれど、初めて聞いた子供の頃はコミックソングのように面白い歌だと思っただけだったけれど、今聞くと何かそこに深い意味を読みとってしまいそうな自分を感じる。この歌は、馬の姿をおもしろおかしく歌っている。走っている馬、笑っている馬、飛んでゆく馬、手を振る馬、歌っている馬だ。走っている馬は普通だけれど、他の馬は、想像してみると笑いたくなってくるような楽しさを感じる面白い歌だ。この馬はおそらく拓郎自身なんだろうな。馬というのはエネルギッシュなイメージがあるけれど、そのエネルギーで、全力で走り、笑い、飛ぶように快調に動き、手を振るお茶目なところがあったり、競走馬のように全力で何かをしている姿が目に浮かぶ。僕は、今まであまり聞いていなかった80年代後半からの拓郎を最近よく聞いている。どの歌も僕の好みに合う。つまらない歌が一つもないと思えるくらいになった。同じような歌もたくさんあるのに、飽きない。たくさんありすぎて、全部覚えることは出来ないけれど、どれも好きになれる。だから、これから拓郎の歌ばっかりが日記に登場するかもしれないけれど、素直にこう言おう。僕はやっぱり拓郎が好きなんだな、と。
2003.03.10
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今日は、昨日の「揺れるまなざし」に続けて、瞳つながりの連想で、拓郎のこの歌を選んでみた。これは、<サマルカンド・ブルー>というアルバムに入っているもので、このアルバムは全曲安井かずみの詞で作られたアルバムだ。古代エジプトを舞台に「ネフェルタ」という女性が登場してくるので、この「ネフェルタ」がどんな女なのか調べてみようと思ったのだが、具体的には分からなかった。神秘的なイメージだということは確かなようだけれど。「君の瞳に入りたい」というのは、いつでも君の視線の先に僕がいるということなんだろうと思う。いつでも僕だけを見ていて欲しいという贅沢な願いだ。それをこういう言い方をするというのは、やっぱりとってもかっこいいし粋だなと思う。さすがにプロフェッショナルな詩人だ。拓郎自身の詞は、もっとストレートであまりこういうテクニックを弄することはない。僕はどっちも好きだけれど、テクニックを使う詞は、それがあまり鼻につくと陳腐なありふれたものになってしまう。でもこれはなかなかいい感じだ。これは<うたまっぷ>でも検索出来ないので、知らない人はなかなか想像が難しいけれど、古代エジプトを舞台にした神秘的な雰囲気の中で繰り返される次のセリフからちょっとイメージをしてもらおうか。 俺 以外のものを 決して君が見ないように この愛で塞ぎたい 瞳に入りたい実際にはこれはとても難しいだろう。しかも、世の中はうまくいかないというか、よそ見ばかりをしている「浮気娘」に心を惹かれるという歌もたくさんあるので、人生には波乱が付き物なのかもしれない。相手がよそ見をするから、よけいにこんな気持ちが浮かんでくるということもあるのかな。灰谷健次郎の「風の耳朶」という小説に、老境に入った仲むつまじい夫婦が出てくる。しかしその夫婦も、長い人生の中では相手以外の人に心を揺り動かされたということを話す場面がある。その時に、女性の方が、「この人は自分がいなければダメになってしまう」と思ったときに心を揺り動かされたと告げるところがある。そう思うときというのは、きっと自分が必要とされていると心から思える瞬間なんだろうな。そうすると、何もかも平穏無事に過ぎていくような時間というのは、情熱は冷ましてしまうのかもしれない。少し波乱があったり、心配があったりする方がいいんだろうな。僕は手のかからない子供だったから、心配させるということがなかった。それが最後の決め手に欠けていたのかな。もう少し手のかかる人生を歩んでいればよかった。まあ、でもそんな人生だったから、心配させる方じゃなくて、心配する方の道を選んでいるのかもしれない。君の瞳を引きつける存在じゃないけれど、「君の瞳に入りたい」存在になっているかもしれないな。だから、こういう歌が心に残るのかもしれない。
2003.03.06
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吉田拓郎の「君の街に行くよ」という歌に、「恋をしているスリルな気分、忘れた人が不幸な人さ」というフレーズがあるけれど、青春を感じていられるのは、こんな気分を持ち続けていられるときだろうね。小椋佳の歌は、そんな気分をいつも感じさせてくれるステキな恋の歌が多い。この歌は<うたまっぷ>で歌詞を見ることも出来る。まず印象的なところは、 めぐり逢ったのは 夢に見た人ではなく 思い出の人でもないの部分だ。「めぐり逢った人」は、まさにめぐり逢った人で、それは今までに「夢に見た人」や「想い出の中にいた人」ではなく、ましてや「理想の人」ではなかった。という感じがする。小説の世界だったら、めぐり逢った瞬間に何か感じるものが自分の中に生まれてくるんだろうけれど、現実ではそれはちょっと後になってから感じてくる。だいたい「理想の人」というのが本当に自分の心にいるものなのかな、と僕は感じることがある。「理想の人」という言葉があるものだから、その言葉に従って頭の中に想像が浮かぶけれど、それは言葉だけで実体のないもののように感じてしまう。人間に関する限り、僕には理想なんてものはないような感じがする。人間として感じるのは、そこに生きている誰かであって、「理想の人」という抽象的な人間は僕には存在していない。「人類」という種は考えることが出来るけれど、一人の人間として考えるときは、いつもそれは現実に存在する誰かさんだ。僕は、かなり適応能力のある人間だから、巡り逢いさえすれば、いつでも恋に落ちることが出来るくらいの自信があるんだけれど、そういう人間には、なかなか巡り逢いを生んでくれないというのは、運命はうまくできているものだなと思う。映画のような出逢いなんてのは、映画だからあるんであって、現実にはそうあるものでもない。だから、せめてこんな歌を聞いて、気分だけでも巡り逢いを感じるというわけだ。こんなふうに、今まで頭の中に存在していなかった人にめぐり逢うわけだから、その人は めぐり逢ったのは 言葉では尽せぬ人というわけだ。言葉では尽くせぬから、またそのイメージを鮮やかに覚えておこうとする。言葉で表せる人だったら、言葉を覚えておけばいいわけだから。言葉を覚えるのは簡単だけれど、イメージを覚えるのは、かなり好きにならないと覚えられそうにない。このイメージの中で一番強いものが「揺れるまなざし」なんだろうな。このまなざしは、僕の心も揺らして、いろいろなものを揺さぶるそんなまなざしなんだろう。そのまなざしだけが心を占めるようになったら、この歌のイメージも本当に、目の前に見るように鮮やかに浮かんできそうだ。こんな気分が、「スリルな気分」なのかな。
2003.03.05
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この歌は、<うたまっぷ>にも見つからないので、ちょっとマイナーな歌なのかなと思う。メロディーもリズムもその歌詞も、それが本当にぴったりと調和したようなすばらしさを持っているだけに、この歌を知らない人に、この歌の良さを文章で伝えるのは難しそうだ。歌詞も全文の雰囲気を知らなければ、その良さが伝わらない感じもするので、<うたまっぷ>で見つからなかったのは残念だ。果たして、この歌のステキさが伝わるか、最小限の引用だけで努力してみよう。この歌は、ラブソングだけれど、初期の長渕剛にあるような切なさのあふれたラブソングじゃない。愛する女性への讃歌という感じのする歌だ。これ以上ないくらい、相手のことをすばらしいと思いながら、その喜びにあふれた自分の気持ちからあふれてくる言葉で相手をたたえているような感じを受ける。愛する人がいかに美しいか、いかにすばらしいか、そしてどれほど愛を感じているかが伝わる歌詞だ。これは、全部を読まないと、それからこのメロディーとリズムに乗って長渕剛の歌声で聞かないと、そう感じられないかもしれない。歌詞を書けないので、そのイメージだけ、歌詞の中で使われている言葉の引用で描いてみようか。とてもしゃれたかっこいいイメージが浮かんできて、相手のすばらしさが浮かんでくるイメージだ。美しいお前が「回り始めた」という言葉がある。頭の中を駆けめぐる愛する人のイメージというのが、この言葉で生き生きと動き始める感じがする。そして、窓から見える港から、「遠い大陸の果て」というイメージが浮かんできて、そこへ愛する人と一緒にたどり着くというイメージにつながる。そこは、二人だけの世界で、何ものにもじゃなされないというイメージだ。ここにつながるセリフも、粋な言葉でつながれているんだけれど、それを書くと引用が長くなってしまうのが残念だ。「冷えたワイン」を飲んだあとの口づけというのも、おしゃれな言葉だと思うし、シャワーを浴びたあとの髪からたれてくるひとしずくのイメージも、清楚な美しさを感じさせてくれる。締めくくりに近い最後の方のフレーズで、このおしゃれな感覚を、余韻を残すように感じながら、このステキな歌は終わる。そこだけ文章として引用して、今日の日記は終わることにしよう。 壁に掛かった シャガールにもたれながら 見おろすハーバーライトの数を数えたらというフレーズだ。映画の一シーンを見ているようなステキなイメージが浮かんでくるような気がするんだけれど、ステキな雰囲気が伝わったかな。
2003.03.04
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この本はちょっと前に読み終わった。これもなかなか面白かった。この本を読み終えて、僕の頭の中に浮かんできたのは、「羊」で象徴される何ものかだ。以前、河合隼雄が好きになって、そのカウンセリングの本や児童文学に関する本を読んでいたことがある。河合隼雄も、最初のスタートは高校の数学の教員で、基本的な考え方は論理を中心にした理科系的な発想なので、それが気に入っていた。その河合隼雄が、実在はしないけれど「魂」というのがあると思って考えてみると、いろいろなことがうまく説明が付けられる、といっていた。数学をやっているものにとっては、2乗すると-1になるという虚数のイメージを浮かべると、それがあると思って論理を組み立てると役に立つというイメージがよく分かる。僕も唯物論者だから、「魂」というものが実在するとは思わないけれど、それがあると考えると、人間がなぜ何かに夢中になったり、限界を越えてがんばったりすることが出来るのか、その説明がつきそうな気がする。誰かを好きになるのも、「魂」が何かに触れる、と説明づけると何となく納得出来る。その「魂」のイメージと、村上春樹の「羊」のイメージが何となく重なってきた。それは、どちらも人間に大きな力を与える。コントロールがきかなくなって、あまりにも大きな力を出しすぎると困ってしまいそうなところも似ている。村上春樹の「羊」は、最初からそこにあるもので、それを探しに行くものだったけれど、河合隼雄の「魂」は、発見し育てるもののようにも感じた。最近はとても注目されているスポーツにおけるメンタルトレーニングなんてのは、「魂」を鍛えている、あるいは強い「羊」を見つけにいっていると考えると面白いかもしれない。強い「魂」である「羊」を見つけた人は、緊張の中にあっても自分を見失うことのない強い自信を持つことが出来そうな気がする。そういう意味では、「魂」を鍛える、「羊」を見つけるというのは、人間にとって、永遠の憧れでありテーマであるかもしれない。僕にとって子供の頃「魂」に結びついていたのは数学だったようだ。これがすべての自信の支えになったし、なぜあれほど好きになったか分からないくらい好きだった。今では、その「魂」がちょっと弱まっているようなので、「羊」に逃げられてしまったんだろうかとも思う。「羊」に逃げられた人間は、その空虚な喪失感を強く感じるようだ。「羊」と「魂」というのはなかなか面白いテーマだと思う。しばらくは、このことを考え続けていられそうだ。かつての哲学熱がよみがえってきたみたいだな。最近は、教員の間では河合隼雄はあまり評判がよくない。「心のノート」というのを作った中心にいるのが河合隼雄だからだ。これは、かつての修身の復活だという批判を浴びている道徳の教材だ。僕も道徳教育には大いに疑問を持っているので、これはちょっとつらいところだけれど、河合隼雄の善意が空回りしちゃったのかなとも思う。それでも、かつて好きになった河合隼雄を嫌いにはなれない。今でも、カウンセリングや児童文学の本を読むとやっぱりそこに学ぶべきものは多いと思う。善意の先走りすぎというのは、河合隼雄のようにステキな人でさえも間違いを犯してしまうのだろうか。戒めとしなければならないと思う。昨日の日記が遅くなったのは、実は昨日は夜間中学の遠足でした。上野動物園と科学博物館で一日過ごしてきました。僕は、そういう日常的なことを全く書かないので、ご心配をかけた方もいたみたいですね。今度は、ちょこっと書き添えておきます。
2003.03.03
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サザンオールスターズは、フォークソングの範疇には入れないという人もいるだろうけれど、僕はそんなに厳密に分類しているのではなく、とにかく気に入ったのはフォークソングということにしてしまうことにしよう。僕の日記に遊びに来てくれる人は、それでなんとか了解してもらう心の広さを持ってくれると期待して。これは、レンタル店で借りたCDで改めて聞き返して気に入った曲なので、<再発見>ということにしている。桑田佳祐は、たぶん同い年じゃないかと思うんだけれど、僕がテレビを見ないラジオを聞かないという生活に入ってから、彼らの絶頂期が始まったので、彼らの歌をじっくりと聞いたことがなかった。この歌は大ヒットして、確かその年のナンバー1ヒットになったんじゃないかと思うので、たぶん知っている人はたくさんいるだろう。メロディーも歌詞もともにすばらしいと思う。<うたまっぷ>でも検索出来る。アーティスト検索でサザンオールスターズで探したら、ものすごくたくさん歌があった。彼らの人気の高さを示しているなと思った。好きな人への切々たる思いを、美しいメロディーと、美しい言葉で伝えるこの歌は、切なさの美しさを深く感じさせてくれる。印象的な言葉から、また連想をふくらませてみよう。最初は、 見つめ合うと素直にお喋り出来ないというところかな。「見つめ合う」というのは、何かをしゃべろうとするときにやっぱり困るものだ。こっちが見つめているだけならいいんだけれど、相手からも見つめ返されるとちょっと目をどこに向けていいのか分からなくなってくる。やっぱり、こっちが見つめているときは、目を閉じていてもらえた方がいいのかな。愛の言葉を耳元でささやくというのも、あまり大声で言えないということもあるけれど、耳元に口を持っていけば、自然と目と目は合わなくなるからいいのかもしれない。見つめ合うのは嫌いじゃないけれど、いつまでもそうしているのは、なかなか緊張するものだ。どっちが先に目をそらすかな。まあ、その緊張感が、後で振り返ると嬉しかったりするんだけれど。この雰囲気は、よく分かる気がするので、まずこの歌詞が気に入ったな。それから次に印象的だったのは、 めぐり逢えた瞬間から死ぬまで好きと言ってというところだ。このセリフは、男が言っているんだろうか、それとも女のセリフだろうか。僕としては、女の方に言ってもらいたいセリフだな。もし言ってもらえたら、僕はすぐに、こんなふうに言えちゃうんだけれどな。本当は、その気持ちが始まったのは、「めぐり逢えた瞬間」ではないかもしれないけれど、その瞬間からだと思った方がかっこいいし、気分もその方が盛り上がる。それに、本当は意識していなかっただけで、心の底では「めぐり逢った瞬間」から好きだったかもしれないしね。「死ぬまで」というのはこれからのことだから、これは、言葉にしても嘘ではない。本当のことというのは、いつでもあとになってから分かるものかもしれないから、これだけ好きになった人には出会ったことがないと思えたら、「めぐり逢った瞬間」から好きだったといっても嘘じゃないような気もする。女性から、こういう風に言ってとお願いされたら、「めぐり逢えた瞬間から死ぬまで好き」と言うのはいい気分だろうね。男の場合も、こういう風に言われたら嬉しいかな。嬉しくないことはないと思うけれど、僕の場合は、「めぐり逢えた瞬間」からでなくてもいいという感じはある。僕の中にある「何か輝くようなものを見つけてくれたとき」からでもいいと思う。それは、たぶん瞬間では分からないくらい隠れているものだと思うから。瞬間に受け取るようなものは、もしかしたら錯覚かもしれないからね。じっくりと見つけてくれたものを好きになってくれた方が嬉しいかもしれないな。女性は、この引用したセリフを言ってもらった方が嬉しいのかな?それとも、僕と同じように、やっぱりじっくりと見つけてもらったものを好きといってくれた方が嬉しいだろうか。瞬間のインスピレーションで見つけたものの方が、死ぬまで好きと言えるのか、それとも、じっくりと見つけた方が死ぬまで好きと言えるのか。どっちだろうね。
2003.03.02
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今日は吉田拓郎の懐かしいマイナーな歌だ。「旅の宿」がヒットしている頃の絶頂期に出したアルバム<元気です>に収められていた。だから、拓郎ファンだったらきっと覚えているだろうと思うけれど、子供だった僕は、どちらかというとこういう傾向の拓郎の歌が好きだったような気がする。自分の生き方に特別不満があるのでもなく、それなりに生きてきたと思っているのに、なぜかめいった気分になって、それで何とかしなくちゃと思いながら、「まにあうかもしれない」と思うそんな感じの歌かな。めいった気分になった理由はないといっているけれど、もしかしたら 思ってることと やってることの 違うことへの いらだちだったのかと歌っている。でも、だいたい「思っていること」というのがよく分かっていないから、それも本当にそうなのかは自信がないような言い方だ。こんな気持ちでいるときに、拓郎は まにあうかもしれない今なら 今の自分を捨てるのは今なんだとも歌っている。この歌では、「捨てる」というのがテーマになっているような感じがする。青春の頃は、誰もがいくらかの自己嫌悪の中に生きているけれど、その嫌っている自分を捨てるというのが、「まにあうかもしれない」ということなのかなとも思う。もう青春の頃を過ぎてしまった今の自分が、そのころを振り返ってみると、あまりうまく捨ててはいなかったような気がする。捨ててしまった方が幸せだったんだろうか。今はそれほど不幸には感じていないので、捨てていなくても幸いなことに不幸にはならなかったようだ。もっと幸せになっていたかは、実際には捨てられなかったから分からない。でも、僕の好きな言葉に従って考えると、「どっちに転んでもしめた」だから、捨てることが出来ても、捨てられなくても、きっとどっちに転んでもいいことはあったんだろうと思う。その時に捨てることの出来る自分は、きっと捨てたことも気づかないで捨てていただろう。残ってしまった自分は、きっと何かいいことを運んでくれるために残っていたんだろうと考えよう。今の自分の中に、捨てたい自分がいるだろうか。もしかしたらいるかもしれないけれど、わざわざ捨てることもないかなというのが今の気分だ。捨てたいような自分がいても、たぶんそれで自分という人間がまとまりを持っているんだろう。光の自分がいれば、影の自分もいなければバランスがとれない。何もかもすべてそのままで認めてやると、この歌を本当の意味で「まにあうかもしれない」と心から思えるかもしれない。少なくとも、賢くなるのに遅すぎるということはないだろう。賢くなるための第一歩は、いつだって「まにあうかもしれない」という気持ちを持っていいんじゃないかと思う。無知だった自分は、知らないうちに、いつの間にか捨てていられたらいいのにと思う。
2003.03.01
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