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この歌は、それほどヒットしたとも思わなかったんだけれど、<うたまっぷ>で見つけることが出来た。作詞はパンダさんになっていた。「僕の胸でおやすみ」もパンダさんの作詞だけれど、改めて詞を読み返してみると、パンダさんというのは実にやさしさにあふれた穏やかな詞を書く人だなと思う。正やんの詞はヒット曲も多く、心に残るものがたくさんあるんだけれど、どちらかというと切なくなってしまうものが多い。ドラマチックで、若い頃はそんなものに憧れたけれど、この年になって味わうには、パンダさんの詞がいいなと感じるようになった。肩肘張って力むことなく、本当に穏やかに自分の周りの世界を受け入れる、そんな感じを受ける歌だ。ドラマチックでなく、ちっぽけな存在かもしれないけれど、それでも「けれど生きている」とつぶやくような、それがとてもいい感じがする。この歌は、どこか一カ所印象に残るフレーズがあるというよりも、全体の雰囲気がとても心地よいという感じがするので、引用箇所を選べないという感じだ。<うたまっぷ>で検索して見てもらいたいという歌だろうか。それでも次のフレーズを引用して、ちょっと哲学的な思いにふけってみようかな。 人生に始まりと 終りがあるなら 見とどけてみたい他人の人生の「始まり」と「終わり」は分かるけれど、自分の人生に関しては、この両方とも自分では分からないだろうな。始まったときにはまだ頭がそれを理解するほど発達していないし、終わるときには終わる直前にもう頭が働かなくなっている。この、「見とどけてみたい」人生は、他人の人生という人生一般なんだろうか、それとも自分の人生なんだろうか。自分の人生は、始めと終わりが分からないからいいと思える感じもする。それはゼロからのスタートじゃなくて、いろいろなものを受け継いでのスタートだから、最初は自分のものにするのに時間がかかるから、その間は自分でありながら自分でないという気分を、あとから知るために分からなくさせているんだろうか。終わりの時も、それはすべての終わりじゃなくて、誰かに引き継いでもらう何かを渡していくから、また自分でありながら自分じゃないという気分の中で終わっていくのかな。その受け継ぐものと、引き渡すものを見とどけてみたいという気分なんだろうか。僕は親父とお袋から何を受け継いで、子供たちに何を引き渡していくのか。もっと広い目で眺めれば、人類の歴史の中で、僕は先人の何を受け継いで、未来に何を引き渡していくのか。誰も受け取ってくれないと寂しいから、何か一つくらい受け取ってくれる相手を探したいものだ。
2003.02.28
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二十歳の頃の感動がよみがえってきそうなくらい、この物語に入り込めるのは、自分にまだ青臭いところが残っているんだろうか。それを喜んでいいのか、成長していないことを悲しんだ方がいいのか。どっちかというと喜んでしまいたい気分だ。表題の「少年園」というのは、大人のいいなりにならない子供を「矯正」するための教育施設だ。そこは、いいなりになる子供になるように矯正するところで、主体性を殺し、その子供本来の個性を殺し、それはその子自身を殺すことにも等しいようなところだ。牢獄にたとえられるところだけれど、この本では「精神の監獄」と呼んでいただろうか。僕には、どうも「普通」の学校がこの「矯正園」と本質的には同じものだというイメージがつきまとってしまう。それは程度が違うだけで、存在基盤は同じように見えてしまう。この物語の主要人物を考えると、革命家の象徴のようなジャック、保守派の権化のような父親のチボー氏、保守派のリベラルのジャックの兄アントワーヌ、革命派のリベラルのジャックの親友ダニエル、というような印象を僕は受けている。保守派のチボー氏にとっては、革命家そのもののようなジャックは、秩序を破壊する許し難い人間として、矯正しなければならない子供になる。そこでは、ほとんど自由を認めず、絶対的服従を求められる。精神の奴隷として過ごすことを強要される。革命家として生きるには、それくらいの弾圧を受ける覚悟をしなければならないのだろう。チボー氏は、それが間違っているとは全く考えない。自由に自分らしく生きて、少し行きすぎる失敗をすることを許さない。あくまでも、自分の秩序を守る方向が正しいと信じて疑わない。まず始めに真理ありきで、それに反するものはすべて間違いになるわけだ。これが保守の最たるものだろう。アントワーヌは、保守の特徴である秩序を守るということを守りながらも、時にはそれよりも大事なこともあるのではないかと考えることが出来るほどの精神の自由は持っている。そこがリベラルであると感じるところだろうか。しかし、その分だけチボー氏に比べると自信がないような弱さもある。ダニエルは、ジャックと同じ革命家の気分を持ってはいるものの、ジャックのように弾圧されることなく生きることが出来たので、過激ではなく穏やかな革命派という感じだ。その穏やかさにリベラルを感じる。そして、これもアントワーヌと同様の弱さがあるようにも感じる。ジャックほどの強さはないようだ。僕は、自分自身の存在としては、ダニエルの気分に近いだろうか。心の中ではジャックに憧れるんだけれど、幸か不幸か弾圧されることがなかったからだろうか。でも、弾圧されたら、そこでつぶされるか、それに耐えて筋金入りの革命家になるかは、紙一重の違いだ。少年園でのジャックの奴隷状態を思うと、子供たちを精神の監獄にだけは入れてはいけないと思う。ジャックも、そのままずっとそこに入っていたら、ジャックのような人間でもつぶされてしまっていただろう。今の子供たちは、日常的に精神の監獄に入って、その個性をつぶされてはいないだろうか。「子供に個性がなくなった」と感じる人が増えてきたら、それは、子供たちは普通に生活している状態が「精神の監獄」だということなのではないだろうか。秩序を破壊する子供たちは、もしかしたら筋金入りの革命家なのかもしれない。
2003.02.27
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今日はチューリップのライブをテレビで中継するということで、たぶんチューリップの歌を日記に書く人も多いことだろう。僕は、その時間は仕事をしているので、録画するのを忘れないようにしないと。この歌は、<うたまっぷ>でも検索出来るくらいだからかなり有名な歌だ。きっと知っている人が多いだろうな。でも改めて詞を読んでみると、こんなに悲しい詞だったのかなと驚いたりする。メロディーもリズムも明るくて、切ない気分が少しも感じられないからだ。終わった愛に、消えた恋人なんてイメージは、もっと切なさがあってもいいのに、この曲を聞いたときの爽やかさといったらどういうものなのかな。初めて聞いたときは、まだ子供だったような気がするから、切ない気分よりも、この爽やかな気分の方だけを覚えていたような気がする。本当は、銀の指輪を見るたびに悲しみがよみがえってきてもいいはずなのに、そんな気持ちにならない。どうして、あえてこういう曲を作ったのだろう。どこかで、財津和夫という人はあえてこういう作り方をしたというのを読んだ記憶もあるけれど。今日引用してイメージをふくらませたい詞は次のところだ。 君は 言ったね 指に 口づけして 二度と はずれない 不思議な 指環だと銀の指輪は、二人の愛の印だから、それは二度とはずれない不思議なものであれば、とてもステキなイメージになるだろう。愛の永遠をイメージ出来るこういうセリフが、使い古された何かのイメージではなく、新鮮さを感じるととてもいい感じがする。僕は指輪のたとえを他に知らないので、これはけっこう新鮮に感じるんだけれど、何かヒントになるようなものはあるんだろうか。こういうのを自分でも考えたことがあるんだけれど、花言葉の中にバラの花言葉を見つけたことがある。黄色いバラは終わってしまった恋心を表すらしい。フランク・シナトラだったか、プレイボーイとして名をはせた彼は、別れるときの気持ちを知らせるために、黄色いバラの花束を相手に贈ったそうだ。そして相手もそれを受け取って相手の気持ちを察したらしい。それを書いた文章のそばに、赤いバラの花言葉は、反対に「情熱的な恋」を表すと書いてあった。そうすると、どこかに枯れない赤いバラがあれば、永遠に続く情熱的な恋心を表す物として、何かちょっとしゃれた贈り物になるんじゃないかと思った。枯れない赤いバラがどこかにあったら、ちょっと贈ってみたらどうかと思うけれど、その前に相手を探さないとならないかな。これは赤じゃないといけないから、色を間違えないようにしないとね。チューリップの歌は、歌詞は切ないのに爽やかで明るいというのは他にもたくさんありそうだ。最初の大ヒット曲の「心の旅」もそんな感じもする。切なくないときに、切なさに浸らせてくれる歌もステキだけれど、本当に切ないときは、切ないのに爽やかなこういう歌がいいのかもしれないな。
2003.02.26
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あまり政治的なことを書かずに、自分の好きなフォークソングのことで楽しく語り合いたいと思って始めたこの楽天の日記だけれど、今日は歌を選ぶことが出来なかった。いろいろと探したけれど、どうも今日の気分にぴったりのものがなかった。そこで今日は、かつての哲学青年に戻ってこんなことを考えてみた。僕は、保守的な考え方を元にするよりも、リベラルな方が正しい判断が出来ると思っているけれど、それがちゃんと合理的に説明出来ることなのか考えてみた。テレビを見ていたら、今度のイラク問題に関して、国連での原口大使の演説が、英語の原文のニュアンスと日本語の翻訳のニュアンスが違うのを取り上げていた。英語では、全面的にアメリカを支持し、強い口調でイラクを非難しているニュアンスが出ているらしい。ところが日本語訳では、「懸念を示している」程度に薄めて表現しているらしいのだ。日本語訳では、査察の継続の有効性に「疑問が生じている」としているが、英語では「やってももはや無駄だ」というくらいのニュアンスだとテレビでは語っていた。このことに関して、国内での戦争反対の気運が高いのを配慮してのことだろうと、テレビでは言っていたが、その時に「日本は同盟国としてのアメリカを支持するのは当然なのだから、これは曖昧にするべきではなくて、はっきりとアメリカを支持していると言うべきだ」とも語っていたのが気になった。これは、保守的な人間であれば、そういうのが当然だとは思うけれど、テレビがはっきりとそういうようになったということに、体制側の宣伝が強くにじみ出てきたという警戒を感じた。保守にしろリベラルにしろ、それは考え方の一つであるから、それだけで間違いだということは出来ない。しかし、保守には、このテレビで見た考え方の展開のように、前提として必ず守らなければならないようなものが出てくる。アメリカは同盟国であるから、利害を一つにしているという前提は、保守である場合に、このこと自体に反する考え方をすることは大変難しい。同盟しているのだから、支持をするのが当然という前提で考えを展開しなければならないのだから、それ以上に重要な要素を持ったことがあっても、それには目をつぶることに結果的にはなる。無理矢理戦争を仕掛けることが、世界を混乱に招き、同盟による利益どころか、世界を恐ろしい混沌に巻き込むかもしれないという展開の方を考える余地がなくなってくる。ばくちをやる人間は、勝つことだけ考えて、負けることに備えて考えるということをしない。保守的な考え方を基本に持っていると、いつかこのようなギャンブルに負けるパターンに落ち込むんじゃないかという気がしてならない。いつまでも勝ち続けるギャンブルはない。リベラルは、常に負けることも前提に入れながら考えを進める。それは絶対的な権力を持たないからだ。権力を持たないから、よほどの条件がない限り勝てることはない。だから最悪を避けて最善の戦略をとらなければらない。今度のイラク問題は、その人間が保守を基礎にしているのか、リベラルを基礎にしているのか、はっきりと見分けるリトマス試験紙になってしまうだろう。たとえ何があろうとも、アメリカとの同盟が優先されるとしか考えられなければ、その人は基本的に保守の立場だろう。その同盟という前提さえも越えることがあると考えることの出来る人はリベラルと言えるだろう。この前の戦争で日本の軍隊は負けることを認めなかった。負けるときは玉砕しなければならなかった。ところが、毛沢東の軍隊は、相手の力が強いと、客観的に判断すれば、まず逃げることすなわち負けることを前提に入れて行動したらしい。日本の敗戦を決めたのは、アメリカによる原爆投下だったけれど、アメリカがいなくてもあのまま戦争が続いていても、おそらく日本は最後は負けていただろうと僕は思う。負けを前提にして考えることの出来る毛沢東のリベラルの方が、長い目で見ると正しい判断を下すと思うからだ。戦争になれば、アメリカはすぐに決着がつくと思っている。圧倒的な軍事力の強さからいって、イラクはひとたまりもなく破壊されるだろう。でも問題はその破壊が終わったあとだ。アメリカの思惑通りにことが展開すると考えるのは甘い考えだと思う。現代はもっと人間が賢くなっている。おそらくそこにつぎ込む金の多さに、彼らのギャンブルも本当は負けだということにその時に気づくようになってしまうだろう。リベラルは、もっとも悲観的な結果を予想し、それに備えてそれを回避することに力を注ぐ。だから、リベラルは基本的に悲観的楽観論者になるんじゃないかとも思える。保守的な人間も、賢い人間は、悲観的なよそうに備えて準備をするようになるだろう。そして、だんだんとリベラルに近づいてくることになるんじゃないかと思う。アメリカと日本の、保守的な人間が賢くなることを期待して、3月7日を待ちたいと思う。査察の報告が出るんじゃなかったかなと思う。
2003.02.25
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この歌は、フォークソングのスタンダードナンバーみたいなもので、我々の世代以上の人は必ず知っているんじゃないかという感じがする。<うたまっぷ>にもちゃんと歌詞が載っている。これは、五木寛之の作詞だけれど、子供の頃は五木寛之がどんな人かも知らなかった。あのころからすでに有名な人だったんだろうか。僕は少々若すぎて、この歌の雰囲気を十分味わうことが出来なかったけれど、あの時代は、若者が時代の先頭を歩いていたときだったと思う。だから、荒野というのも、ただ荒れた土地ということではなく、誰も踏み入れたことのない前人未踏の地だからまだ荒野であったところという感じがする。その未開拓の地に、そこを切り開く人間として若者が登場し、未来への希望と情熱を感じさせる歌という感じがする。幸せに背を向けて、故郷を捨てて出ていくけれど、それはより大きな幸せを求めるため、より広い故郷を作り出すために出発していく感じがする。そして、今日の引用箇所は、 みんなで行くんだ 苦しみを分けあってというところだ。みんなで行くことが出来て、それを信じることが出来れば、苦しみを分け合って、それに耐えることが出来るし、苦しみがやがては喜びに変わるときもくる。でも、現実にはそんな気分に浸れたのはごく短い期間だけだったようだ。僕が「青年」と呼ばれるようになる頃は、すでにかつての荒野をめざした「青年」たちは挫折の中にいたような気がする。僕には、挫折する前の喜びすらなかった。いつも一足遅れの革新派という感じだったな。今の若者たちはどうだろう。かつては、自分だけの狭い幸せにとどまるんじゃなくて、広い荒野をめざしてその中で成長していくことが若者の特権だったような気もする。今は、果たして狭い幸せというものがあるんだろうかと疑問に思うときもある。今の若者は、自分の周りにすぐそばに荒野があるものだから、わざわざそれをめざす必要もないんじゃないかという気もしてくる。この荒野は、決して物質的なものじゃなく、ほとんどは精神的なものだ。物質的な荒野は、若者を鍛えることも出来るけれど、精神的な荒野は、若者をつぶしてしまうかもしれない。若者たちに対して、彼らがめざしがいのある荒野を作ることの出来なかった、大人である我々の責任というものも考えないとならないじゃないだろうか。我々自身は、物質的な荒野はならしてしまったけれど、心の荒野はそのままにして来てしまったんじゃないだろうか。どうしたら、心を込めた人と人とのつながりがよみがえるんだろうか。
2003.02.24
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この歌は、アルバムを持っていたのに、それほど昔は印象に残っていなかった。若い頃は拓郎の歌の方が心に残っていたからだろうか。だが、この歌はフォークソングのオフ会をやると、僕と同い年のJUNさんがよく歌ってくれた。そのたびになかなかいい感じだなと思っていたものだ。それで、この歌から新しいテーマを設定して書くことにした。この歌は、<うたまっぷ>で検索出来るから、印象深く感じていた人が多かったんだろうな。能古島というところがどんなところなのか知りたかったのでインターネットで検索したが、博多の近くにある小さな島のようだということが分かった。逆に、この歌のイメージで、この島を頭に描くと、とてもロマンチックな小さな島のイメージもわいてくる。この詞はとてもわかりやすい。片想いの気持ちが素直に伝わってくる感じがする詞だ。まずは、 僕の声が君にとどいたら ステキなのにというセリフがよく分かる。まだ届けていない想いが届くのを夢見て、こんなふうに思った人はたくさんいるだろう。でも、この「ステキ」は、まだ届いていないから「ステキ」と感じることが出来るので、本当に届いてしまったら、それが返ってきても、返ってこなくてもどっちでもちょっと怖いものがある。それで、 僕の胸は君でいっぱいで こわれそうだという気持ちにもなる。もしかしたら、この片想いの時が、恋心としては一番大きなものを感じているのかもしれない。後で振り返ってみると、このときが一番幸せなのかもしれない。僕は独りの世界が好きだったから、この世界にふさわしいのはやっぱり片想いの方だった。想いが返ってこない間は、安心してその世界を設定して、未来を夢見ることが出来る。この未来というやつは、夢を描ける間は幸せだけ感じていればいいけれど、現実になりそうになると、それが夢だけじゃなくて不安がよぎってくる。現実というのはいつまでも同じ状態じゃなくて、いつかは変化していくものだから。今までたくさんの人が、夢がいつまでも続くという幻想を持ったことだろう。でも、夢が永遠なのは、やっぱり夢の中でだけなんだろう。だから、片想いというのは、なくしかけた夢を思い出させてくれる言葉なのかもしれない。夢をいつまでも続けるには、いつまでも片想いの心を持ち続けないといけないかもしれないな。そのためには、この歌の最後のセリフ 君が僕の中に居るかぎり 波の声で僕は眠れない 本当なんだという気持ちを持ち続けることが必要なのかもしれない。でも、これはいつも一緒にいると、なかなか持ち続けるのが難しい気持ちだね。こんな気持ちで寝不足になるのは、やっぱりあのころだけなのかな。
2003.02.23
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今日も歌ではなくて、雑感のようなものを書こう。ちょっと政治色の強い内容だ。かつて軍国主義時代の日本では、統制された情報しか得られなく、それを信じた大部分の人は、日本の戦争は侵略戦争ではなく、聖戦であって、アジアの解放のための正義の戦争だということを信じていた。何しろ他の情報が何もないのだから、そう信じさせられるのは無理もない。こんな時代に、どうしたら正しい判断が出来るのか、それは哲学青年だった頃からの僕の問題意識だった。三浦つとむという人は、たとえ一つ一つの事実は正しくても、それが狭い範囲のものでしかなければ結果的に間違った判断を下してしまうと教えてくれた。それを乗り越えるには、大きな観点で物事をとらえることだとも教えてくれた。しかし、この大きな観点というのは、具体的に考えるとなかなか難しくて、何が大きな観点なのかが分からなくなる。日本の戦争が間違っているというのは、その犠牲の大きさや、人間を大事にしない軍国主義というシステムから伺うことが出来るから、それがたぶん大きな観点から見るということだろうと思う。どこで戦争をしていたのかという、場所を考えるだけでも、それが侵略戦争であるという結論を出すことが出来るかもしれない。どうして、中国大陸までいって防衛をしなければならないのか、合理的に考えたら変だと思う。そんなことを思い出しながら、今度のイラクのことを考えてみた。イラクの情報に関しては、アメリカとそれを支持する日本政府の側の情報はいくらでもあふれているけれど、その反対の情報はほとんどない。まあ、軍国主義の時代じゃないから、皆無というわけじゃないけれど、大部分の人は、一方的な情報の中で判断しなければならないだろう。その情報の中でも、なおかつ正しく判断出来る大きな観点というのはなんだろうと考えてみた。それを考える鍵のようなものを、「週刊イラQ」というメールマガジンに見ることが出来た。そこでは、国連での各国の発言として次のようなものが引用されていた。 エジプト:大量破壊兵器の危険はイラクだけのものでない。 中東諸国すべてに同じ基準が適用されなければ信 頼性を欠く。 マレーシア:査察を継続すべきだ。査察を強化し3月14日 にもう一度外相レベルの会合を開催するというフ ランスの提案を支持する。武装解除への努力は、 明確な経済制裁解除の計画と一体である必要があ る。イラクが大量破壊兵器を禁止する大統領令を 出したことを歓迎する。他の平和を愛する国々と 同様に、マレーシアも、イラクに対する武力行使 に強く反対する。武力行使は、国際の平和と安定 を損なう。対イラク戦争は、イラク国民に破滅的 な結果をもたらす。実際の攻撃や急迫した事態が 起きていないのに予防的措置として武力を行使す るのは国際法違反だ。ここ数日間の大規模な反戦 デモは、国際社会がイラクへの軍事行動を望んで いないということを明確に示している。戦争に替 わる道はまだあり、武力行使は最後の手段として あり得るにすぎない、とマレーシアは信じてる。この両国の発言で、イラクだけに厳しい査察がされているのではないかという疑いがかかる。イラク以外の国は、これほど厳しい査察をされているのか。たとえばイスラエルは。イラクよりも世界を騒がせている今の北朝鮮はどうなんだろうか。イラクの危険を言い立てるマスコミは、他の国も同じ基準で厳しく見ているのだろうか。マレーシアは、今は戦争を起こすほどの事態ではないと伝えている。事実として、どんな緊迫したことがあるのか、あれだけ垂れ流される情報の中に、そんなものは一つもないんじゃないだろうか。これでは、疑いがあれば即撃ち殺してもかまわないのだという、恐ろしい警察のやり方を肯定するのと同じではないだろうか。民主主義の警察は、疑いにしっかりとした証拠があったり、現行犯で緊迫した事態だと認めない限り、攻撃したりしないんじゃないのか。戦争というのは、よほどの理由がない限り、その正当性なんか認められないものだ。今提出されている情報が、果たしてそのよほどの理由になっているのか。それが大きな観点から見るということなのだろうかとふと思った。
2003.02.22
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二十歳の頃夢中になった本にまた久しぶりに再開した。これは5分冊になっているんだけれど、なかなか1が図書館に返ってこなくて、ようやく返ってきてまた読むことが出来た。この物語の、情熱的な革命家の主人公ジャックに憧れた二十歳の時の想いが、今再読して同じようによみがえってきたのが嬉しかった。いいものはいくつになって読んでもやっぱりいいんだなと思う。この物語の冒頭で、主人公のジャックが親友と交わしていた秘密の交換日記のノートを、ある教師が無断で取り上げるところが出てくる。キリスト教の神父なのだが、思想的に問題があるということで、それを「指導」しなければならないという使命感に駆られて、善意から卑劣な行為に及ぶわけだ。親友の名前はダニエルというのだが、そのダニエルの母親は、教師からその取り上げたノートを見るように言われたとき、毅然として次のようなセリフを教師に告げる。 「みなさま、わたくしはぜったいに一行も拝見いたさないつもりでございます。あの子の秘密を、あの子の知らない間に、大勢の前で暴き、しかもあの子に言い開きの余地さえ与えないなんて!わたくしはあの子を、そうした取り扱いを受けるようには育てて参りませんでした。」これはものすごくまともな考え方だ。でも、教師には分からなかった。自分の善意が踏みにじられたように感じていた。この感覚は、教師の世界にいるとよく分かる。教師は、善意と使命感があまりにも強いので、自分が人の心を踏みにじっていてもそれに気づかないで、善意と使命感の方が勝ってしまうのだ。これはかなり気をつけていないと、職業としての教師が落ち込む罠だと思う。マルクスの言葉に「地獄への道は善意によって敷き詰められている」というのがあったけれど、その道は善意によって敷き詰められているだけに、それからはずれて別の道を歩くのがとても難しいのだ。善意などなければすぐにそんな道を捨てることも出来るのに。僕は教師の体罰にも絶対的に反対だ。暴力そのものに反対ということもあるけれど、善意による、教育という目的でふるう暴力は、単純な暴力よりも悪いと思っている。それは地獄へ通じる善意だと思うからだ。単純な暴力なら、相手を軽蔑することも出来るし、忘れることも出来る。それが善意あふれるものであった場合、暴力をふるわれた方が自分を悪く思わなければならないなんてのは、絶対に理不尽なことだと思う。昨日は、夜間中学の設置を求めるための人権救済の申し立てというのを日本弁護士会館で行った。夜間中学は全国に34校しかないので、せめて一つの県に一つは作って欲しい、それがないのは人権侵害だということを申し立てるというものだった。その記者会見と、その後の集まりで、僕の尊敬する先生に関してのエピソードを、夜間中学の卒業生が語ってくれた。その生徒が夜間中学に通っていた頃、仕事を求めるために職安に行き、そこで職業訓練所へはいることを相談したらしい。ところが、訓練所に入るには卒業資格が必要だということになって、夜間中学で勉強をしている途中のその人は入所の資格がないということをいわれた。普通の教員なら、規則でそうなっているのなら仕方がないと引き下がるんだけれど、この先生は違った。その人がいかに努力する人間であるか、今は出来ないことがたくさんあるけれど、訓練所で学ぶことが出来れば、必ずそれをやり遂げるだけの熱意と能力があることを、その場で熱弁をふるったということだ。その先生の姿が目に浮かぶようで、思わず目頭が熱くなるものを感じた。どうして、規則にとらわれず、教員としての常識を越えた行動がとれるのだろうと思う。その先生にその理由を聞けば、きっと一言簡単な答えが返ってくるだろうと思う。「それは生徒に育てられたからだ」と。その先生を見ていると、それが本当に心からそう思っていることがよく分かる。教師は、普通に普通の学校で育てば、「チボー家の人々」に描かれていたように、善意と使命感で子供を支配する教師に育つ。善意と使命感では解決出来ない個性を持った生徒が集まっている夜間中学で、生徒を支配することなく、互いに学び合う関係を持つ教師が育つというのは、教育というものを考え直すきっかけにしてもらえないだろうかとも思う。そういう想いを抱いて夜間中学のドキュメンタリー映画を作ろうとした監督がいる。そしてこの3月にそれが完成する予定だ。
2003.02.21
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今日もちょっとマイナーな曲になったかな。この歌は<うたまっぷ>では検索が出来ない。<シャングリラ>というアルバムに入っている曲で、拓郎自身が作詞をしている。拓郎の詞は、作詞家のようなうまさがないけれど、逆にうまさがないからその率直さが心に響くという感じがする。初めて拓郎を聞いたときから、進歩がないのかもしれないけれど、初々しさを失わないという方が正確な感じがする。若いときの拓郎は、直接的で率直な若者自身の想いを書いていたけれど、さすがにこれくらいの頃になると、もっと落ち着いた雰囲気で、率直ではあるけれど、青春をちょっと遠くから眺めるような余裕が感じられる。それが、僕の今の年にもちょうどよく響くような感じだ。何気ない日常の景色の描写の中で、一人の若者に青春の痛みを見て、こんな言葉をかける。 どこで自由を手にすればいい 何を求めて歩いていけばいい あなたの悲しみよ 雲をつらぬいて 銀河の彼方へ 突きさされ吉田拓郎のように自由に生きてきたように見える人間でも、こんなふうに感じるくらい、人生というものはままにならないものだ。でも、若いときはどこにあるか分からない、いやそれ自体では存在しない「自由一般」というものを求めたくなってしまう。だから哲学青年というものになるんだろうけれど。この青春の若い時代を過ぎると、具体的な日常生活の中に入り込んで、ここには「一般」で考えるものが何もなくなってしまう。すべては、具体的なそこに存在するものだ。そして、自分が求めていたと思ったものを一つずつ失っていく。「何を求めて」という想いが胸に迫ってきて、これが青春の痛みになるんだろう。銀河の彼方へ突きさされというのは、そういう今まで具体的な存在を基礎にしていなかった未熟な理想が崩れたときにこそ、そんなものを投げ捨てて大きな世界を自分のものにして、銀河の彼方へこそ自分の求めているものを見つけに行けというメッセージのようにも聞こえる。若いというだけで、何かが出来ると思ってはいけない。夢を追い続けることが、自分を燃やすことだというメッセージもいいものだ。若さには可能性はあるけれど、それはまだ現実性ではない。年の若さではなく、精神の若さを保つことが必要だ。それでも、人の心の弱さも知っているという言葉もあり、そこがホッとさせる一行だ。優しい人々に、孤独から解き放たれるようにと願う一行も共感してしまうところだ。優しい人は世の中にたくさんいるはずなのに、なぜか彼らは孤立してしまう。「あなたはひとりぼっちじゃない、僕も同じ気持ちです」となかなか伝えることが出来ないからだ。優しい人同士というのは、なかなか気持ちを伝えるのが難しい。でも、孤独から解き放たれるとき、優しい人が強くなれるような気もする。最後に、とても勇気づけられるセリフをもう一つ引用して締めくくりにしよう。 生命のある限り 自分を捨てるな 正直者よ 可愛い嘘をつけ優しい人、正直な人、その人たちはみんな賢くならなければならない。だまされて傷ついてばかりではいけない。理不尽に傷つけてくるような相手に対しては、だまして返り討ちにするくらいの賢さを身につけなければならない。正直者が馬鹿を見るのではなく、馬鹿のふりをして最後にだますというくらいの賢さを持たなければならないと思う。可愛い嘘は許される。悪意のない嘘をつくことにしよう。
2003.02.20
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今日の歌は、たぶんマイナーな歌なので、河島英五のファンでなければ知らないだろう。このじいさんは、定年間近の教師だ。その人を敬愛を込めて「先生」と呼んでいる河島英五の姿を想像出来る。ここで歌っているよぼよぼじいさんは、彼が高校2年の時の担任だったらしい。昔気質の頑固者で、偏屈で分からず屋で、およそ年寄りの欠点を何でも持っているような先生だったようだ。だからかなり反発もして、よぼよぼじいさんと馬鹿にもしたらしい。ところが、1年たってみたら、河島英五は、その先生が好きになったらしい。それは、きっと次のようなことがあったからだろう。河島英五はすでに高校生の頃からフォークシンガーとしての片鱗を見せていたと思うが、勉強もせずにギターと歌に明け暮れていた頃、誰もが「ほどほどにしろ」といっていたときに、こんな言葉をかけたようだ。 そんなに好きなら 学校をやめなさい その道にはいるがよいと 君にその情熱がないのなら 勉強に打ち込むがよいと僕は、こんなふうに言える教師が、「先生」と敬愛を込めて呼びかけられるようになるんだなと思う。頑固者は、考え方は固くないんだなと思う。こんな先生だから、河島英五は、 古いものの中に すばらしい古さが 古いものの中に すばらしい新しさがあることを 教えてくれた先生、先生 僕はあなたが好きでしたと言えるんだろうと思う。こんな関係を生徒との間に作ることが出来れば、もう教育のテクニックは必要ない。その先生と接しているだけで、生徒は自分から何かを学び取っていく。でも、教育の難しいところは、この影響力が誰にも同じようには与えられないということだ。まあそれだから面白いのかもしれないけれどね。河島英五は、この先生を好きになった。だからとてもすばらしい先生になったんだろう。でも、それほど好きになれなかったら、河島英五ほど影響は受けないかもしれない。河島英五は、この歌の中で、結局は学校をやめず、ギターも歌もほどほどで高校生活を過ごしたということを語っている。これだけ影響を受けた人がいても、決断をするのは難しかったわけだ。ある意味ではホッとする。人間はそんなにかっこよくは生きられないということに。そして、それでもなおこの先生の言葉は、河島英五の心に残り続けたことがすばらしいとも思う。僕は、頑固さと偏屈だけは持っていそうな感じがする。あまり押しが強くないところは欠点かもしれないけれど。好きなことに打ち込んだ方がいいというのは、この先生と同じ意見だ。だから、もしかしたらこんなふうにステキなよぼよぼじいさんになれる可能性があるかもしれない。そう思うとちょっと気持ちが明るくなる。誰か一人だけでもいいから、こんな歌を歌ってくれる生徒に巡り会えれば、それが教師としての幸せだと思う。「すべて」の生徒にこう思ってもらおうなんていう贅沢で大それた願いは持たない。それは、一人だけでもいれば特上の幸せなんだと思う。
2003.02.19
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この歌は、養護学校時代に子供たちが好きで、<今月の歌>というのに選んで朝のHRの時間に歌っていた。あのころ子供たちに人気があったのはチェッカーズと光ゲンジと長渕剛だったかな。この歌を最初聞いたときは、どうして「とんぼ」なんだろうかということが分からなかった。僕はほとんどテレビを見ていなかったから、長渕剛のドラマも見たことがなかったし、「とんぼ」に込められたイメージがどういうものであるかも知らなかった。今でも、それを書いたものを目にしたことがないので、<うたまっぷ>で見た歌詞から想像してみた。とんぼには羽根があるので、どこにでも自由に飛んでいくという感じがある。それと同時に、小さくて弱い生き物であるだけに、つかまえたと思っても、あまりに強くつかんでしまうと死んでしまうかもしれないし、慎重に近づきすぎると手の中から逃げてどこかへ飛んでいってしまうかもしれない。そんなイメージが浮かんできた。果たして、この歌はそんなイメージから「とんぼ」というタイトルを付けたんだろうか。この歌は、東京への憧れを語っているけれど、東京で生まれ育った僕は、この憧れの気持ちは自分の心には浮かんでこない。便利な町だから、毎日生活していることは嫌いじゃない。でも憧れは感じないな。僕が憧れるのは、やっぱり自分では持っていない自然の豊かさがある町の方だ。東京に憧れる気持ちというのは、ふるさとで傷ついてそこを逃げ出すように出てくる気持ちがあるからだろうか。次の歌詞にそんな気持ちを感じた。 ざらついたにがい砂を噛むと ねじふせられた正直さが 今ごろになってやけに 骨身にしみる主体性のある人間にとって、自分の正直さをねじ伏せられたと感じるとき、とても傷つくだろう。僕は、学校というところはそういうものだとずっと感じていた。自分が生徒だった頃もそうだったし、教員になって、今度はねじ伏せる側になったときもそう思った。僕は、どうしても正直さをねじ伏せることが出来なかった。だから、文部省的な意味で期待される教師の資質といったものは、僕の中にほんのわずかしかないだろう。文部省的な意味でのいい教師は、「指導力」がなければならない。僕は、たとえ最悪の結果が出ようとも、自分が望む道を歩むべきだと思ってしまう人間だ。正直さをねじ伏せて、それなりの道を用意してやるだけの「指導力」がない。今は夜間中学にいるから何とか教師として生きているけれど、文部省的な生き方を要求される場所にいたら、きっとダメ教師になっていたことだろう。正直さがねじ伏せられたときは、死んだふりをして、表面だけ屈服したように見せかければいいと思う。心の中まで奴隷になってはいけない。そしていつか、ねじ伏せられた正直さが力を持って生き返るのを待つんだ。そうしたら、どこかへ飛んだとんぼも舌を出して笑って戻ってくるんじゃないだろうか。最後は、そんな期待を抱かせるメッセージに聞こえてきた今日だった。
2003.02.18
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昨日のオフ会は、いつものメンバーではあったけれど、延々と5時間もカラオケボックスにいて、フォークソングを楽しんできた。普通カラオケというと、自分のストレスを発散するために行くことが多いけれど、我々は懐かしい想い出を共有するために行く。時間はいくらあっても多すぎるということはない。この歌は、僕の仲間のマットン(お気に入りに彼のページがリンクしてあって、ステキな歌声が聞ける)が歌ってくれたもので、時代からいえばフォークソングではないけれど、気に入ったものはフォークソングの香りを感じるということで、これもその範疇に入れておこう。80年代以降は新しい曲にあまり触れなかった僕だけれど、これはよく覚えているし、とりあえずCDも持っている。この歌はよく売れたので<うたまっぷ>でも検索出来る。改めて歌詞を見てみるとやっぱり気に入りそうな言葉がたくさんある。特に次のところかな。 どんなときも どんなときも 僕が僕らしくあるために “好きなモノは好き!”と 言えるきもち 抱きしめてたい僕が子供の頃に自分の主体性を失わずにすんだのは、心の中にこの歌詞のような気持ちを持ち続けていたからじゃないかと思う。何をするときも、そのことが好きかどうかがやるための基準になった。好きなことをしていると、他のことをやる時間がないので、かなり偏りのある子供に育ったけれど、努力をしているという意識なしに、端から見ているととても努力しているように見えたようで、特別な指導をされずに放っておかれたので助かった。昔は大人も忙しかったから、子供の隅々まで目を配っていられなかったから、いい時代に子供時代を過ごせたんだろうと思う。暇な大人に囲まれて育ったら、僕はきっといい子になることを期待されて、好きかどうかよりも「こうでなければならない」という期待の中で主体性をなくしていく人生を歩んだんじゃないだろうかと思う。今は「個性を伸ばす」なんてことを目標にしながら、「期待される人間像」を押しつけてくる。こういう教育の矛盾に気がついている人は多いと思うのに、美しい言葉にごまかされていたいのが人間なんだろうか。僕は、今の時代に子供だったら、きっと生きるのがつらく感じられただろうな。個性なんてのは意識的に伸ばすものじゃなくて、伸びてくるのをじゃましないようにしなきゃならないものだと思う。他人に伸ばしてもらったのが本当の個性になるんだろうか。個性を伸ばすのは、「好き」という気持ちなんだと思う。この歌は、青春時代の熱い心を、熱すぎる言葉ではなく、等身大の素直な言葉で歌っているのがいいと思う。あまりに熱すぎる言葉で語られてしまうと、それはどこか別の世界で生きているヒーローの物語のように感じられるけれど、この歌の感覚は、自分でもその世界で生きていけそうな普通の世界を感じさせてくれる。もう一つの「どんなときも」がそれを感じさせてくれる。 どんなときも どんなときも 迷い探し続ける日々が 答えになること 僕は知ってるから迷い探し続ける日々をまだ持ち続けられているなら、きっといくつになっても青春なんだろうなと思う。そう簡単に悟りを開くわけにはいかないから、まだ青春を楽しめそうだと思うと嬉しくなる。人間にとって迷ったり孤独だったりするのが普通だということに慣れてくると、そんな中にいるのもそれほど悪い気はしない。迷いや孤独と仲良しになれる。そうすると、一瞬でも迷いや孤独とちょっとさよならしていられると、ものすごく幸せに感じられる。迷いや孤独と仲が悪いと、いつ彼らに会うだろうと不安になって、彼らがいても見ないようになってしまう。そうするとかえって幸せになれないから人生というのは不思議なものだ。いろいろなことを連想させてくれる歌はやっぱりいいね。この歌はとても明るい気分にさせてくれる歌でもある。
2003.02.17
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この歌は、僕もリアルタイムのころは覚えていないので、一世代上の人たちのフォークソングかもしれない。中津川フォークジャンボリーのライブ盤を数年後に聞いて、その時に知った歌だった。あのころの青年たちが望んだことは、今でもやっぱり共感出来るんじゃないだろうかと感じてこの歌のことを書きたくなった。あのころの青年たちが望んだのは、「生きる苦しみ」ではなくて「生きる喜び」だった。若者は、決して苦労することをいやがっているのではなく、「実りある苦労」を求めているんだと思う。それは「生きる苦しみ」ではなく「生きる喜び」につながる苦労だ。そして次に望むのは、「社会のための私」ではなく「私たちのための社会」だ。自分をなくし、単に滅私奉公するだけの生き方ではなく、自分が本当に生きていると感じる、そういう社会のために生きることを望んでいる。社会が自分を生かしてくれるのなら、社会のために奉仕することも出来る。それは、関係のない他人に奉仕するんじゃなくて、自分自身のために奉仕していることでもあるからだ。私たちと関係なく愛国心を押しつけてくるのに耐えられないのだ。私たちのための社会なら、愛国心などというものは自然に育ってくる。次は、「与えられること」ではなく「奪い取ること」を望んでいる。これは、主体的に生きたいという望みの表れだ。その次は、「あなたを殺すこと」ではなく、「あなたと生きること」を望んでいる。多くの人は殺すことを望んでいない。生きて幸せになって欲しいと望んでいるはずだ。そして、「繰り返すこと」ではなく「絶えず変わってゆくこと」を望んでいる。人間はいつまでも賢く変化していく。同じところにとどまるのではなく、正しい方向へ進化していくことを望んでいる。最後に望むのは、「私であり続ける」ことだ。誰かにコントロールされるのではなく、私が望み、私が愛し、私が想いを寄せることが大事なことなんだと思う。そして繰り返される次のフレーズが僕に勇気を与えてくれるような感じがした。 今ある不幸せに とどまってはならない まだ見ぬ幸せに 今飛び立つのだ岡林信康というのは、「手紙」とか「山谷ブルース」「流れ者」など、思いっきり暗い歌を歌う人だったけれど、これはその暗さをくぐり抜けた力強い明るさを感じる歌だ。この歌はカラオケに入っているかな。
2003.02.16
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この歌が水越恵子の歌でもあるというのを知っているのは、かなりのファンじゃないのかなと思う。でも、作詞・作曲をした伊藤薫という人は、水越恵子の「ほほにキスして」を作った人で、初期の作品をかなり書いている。だから、僕は水越恵子でこの曲を知った方が早かった。調べたことはないんだけれど、オリジナルとしては水越恵子の方が早いんじゃないかな。でも<うたまっぷ>では谷村新司で掲載されていて、水越恵子ではない。こっちの方が有名になったんだね。でもすごくいい詞だ。遠く離れている恋人への深い熱い思いが語られている。それが若い頃のような情熱が先行する感じじゃなくて、とても穏やかで、それでいてしっかりと固い決意さえ伝わってくるような感じもする。 君だけいれば君さえいれば 生きる事さえ辛くないからこんな気持ちがよく分かるな。とにかくステキな言葉にあふれているだけに、<うたまっぷ>で探してもらえるといいね。最近はつながらないのでちょっといらいらするけれど。たくさん引用してしまいたいけれど、そこを押さえて、曲の雰囲気から連想することをちょっと書きつづってみよう。遠く離れている恋人を思う心というのは、ある意味では遠いだけにいっそう強いものになる。壁が高ければ高いほどエネルギーがなければ越えられないように、障害があればあるほど恋心は募ってくる。遠くに住む人を想って、心は空を飛んでいったり、風になったり、星になったり、想いは駆けめぐる。 つきなみだけどこの世に一人というのも、「この世に一人」という月並みな言葉を、月並みにしない響きがあるね。そして最後の締めくくりもしゃれているな。こんな言葉で締めくくっている。 Too far away 愛への道はfar away だけどかすかに光見えればそれでいい Too far away 君への道はfar away だから言葉をひとつくれればそれでいいこのひとつの言葉を、なんと想像するかでイメージが広がってくる。具体的に言わないでとどめるところがステキなテクニックだね。僕はどんな言葉を言ってもらいたいかな。月並みな言葉でも、やっぱり言って欲しい言葉もあるし、個性的な言葉でも嬉しいしね。まあ、実際にはどんな言葉でも、きっと心に響く「ひとつの言葉」になるんだろうな。明日はオフ会前に間に合えば日記を書きたいけれど、間に合わないときは、明日歌った曲の中から日記を書いたりするかもしれないな。お昼頃上野界隈に来そうな人は連絡をくださいね。
2003.02.15
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この前レンタル店でガロのベスト盤を借りた。ガロの復刻CDを手にするのはこれが初めてだった。ガロは、「学生街の喫茶店」が一番有名だと思うけれど、メロディーとしては僕は、「君の誕生日」と「一枚の楽譜」の方が好きだった。でも<うたまっぷ>を検索して歌詞を眺めていたら、歌詞としてはこれが一番気に入った。ガロの歌は山上路夫の作詞が多いようで、これもそうだ。さすがにうまい詞を作るものだと思う。詞は、詩と違ってあまりに深い意味を持っていると、独りよがりの難しいだけのものになっちゃうけれど、陳腐な決まり文句だけを配したものは平凡なつまらないものになる。誰でも使いそうな言葉で、わかりやすいんだけれど、その言葉を並べてみると、イメージの広がりの世界で新たな発見が出来たり、そこにうっとりと浸っていたくなるような感じがする詞が、メロディーをのせるものとしては最高なんだろうと思う。退屈さと紙一重のところで違いが出てくる。そんな印象を抱かせる詞だと思う。その紙一重を感じるのは、次のようなところだ。 ぼくらは一つの愛に 今結ばれているよ 変わらぬロマンの 花を咲かせよう 変わらぬこの愛 二人 誓い合おうとてもわかりやすい言葉で、誰かがこんなセリフを言っていても良さそうな言葉だ。これだけを単独で眺めていたら、陳腐な決まり文句のように感じてしまうかもしれない。でも、その前後から呼んでいくと、このセリフが本当なんだなあと感じて聞けるから、これがステキな歌詞になっているんだなと思う。だから詞の引用というのは難しいね。部分だけではそのイメージが伝わらないからね。イメージを楽しんでもらうには、ぜひ<うたまっぷ>で検索してもらおう。最近はなかなかつながらないので困るけれどね。「そんなことさえも覚えておこう」というところがあるんだけれど、そこに具体的に覚えておきたいことが書いてある。それは、なんでもない平凡な風景だけれど、二人で眺めた風景ということで、そんな平凡なことでさえも覚えておきたいという心が、引用した部分の気持ちが本当のものだということを感じさせてくれる前触れとでも行ったらいいのかな。若い頃には、ここまで読んでいくような頭がなかったのが残念だったな。今の頭と心で若い頃に戻れたら、きっとこの歌のような想いが訪れただろうにな。これから訪れてしまうとちょっと危ないけれどね。そういえば、日曜日のオフ会が近づいているけれど、日曜のお昼過ぎに、上野界隈でちょっと時間があるという人は、都合のつく時間だけでもフォークソング談義に参加してもらえると楽しいかなと思う。関心のある人は連絡があると嬉しいな。
2003.02.14
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僕は、吉田拓郎で決定的なフォークソングファンになったけれど、その前にフォークルの「帰ってきた酔っぱらい」を面白いと思い、高石友也の「受験生ブルース」を面白いと思っていた。でも、どちらかというとコミックソングふうの面白さを感じていたのかな。この「風」は、面白さではなく、心に残るものを感じていたので、フォークソングファンになる下地を作ってくれた歌かもしれない。この歌はとても売れた歌なので<うたまっぷ>で検索出来るし、知っている人も多いだろう。改めて詞を読むと、それがちょっと悲しくて切ない詞であることに驚く人が多いかもしれない。歌の全体の雰囲気としては、実に爽やかさを感じる歌だからだ。「人は誰も」という言葉に親しいものを感じるのかもしれないけれど、誰もが感じるのは、 人はだれも 人生につまずいて 人はだれも 夢破れ振りかえるということであり、 人は誰も 恋をした切なさに 人は誰も 耐え切れず振りかえるということだから、その誰もが感じることはなかなか悲しい事柄だ。でも、人生というのはそんなものだというのは、僕の年くらいになると実感として分かってくる。この寂しい、悲しい気持ちで、暖かい、自分を包み込んでくれるようなふるさとを求めて振り返ると、そこには何もなくて「ただ風が吹いているだけ」なのだから、いっそう寂しくなってきそうだ。でも、この歌はそんな寂しさよりも、なぜか爽やかな印象を残してくれる。何もない、ただ風が吹いているだけというイメージが、自分を慰めてくれるものが何もないということではなくて、過去には何も実体がないんだ、あるのは自分の中の想い出だけで、それは振り返る必要はない、何もないところを見ずに、前を向いて歩いていけといっているような気になるから爽やかさを感じるのかな。この爽やかさは、詞だけでは感じられない。それを感じさせてくれるメロディーと一緒になったときに、そんな感じがするような気がする。
2003.02.13
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今日は<うたまっぷ>にある曲を探してこれを選んでみた。陽水の詞は、意味だけを追うと分かりにくいものもあるんだけれど、これはとてもわかりやすいシンプルな詞だ。ジョン・レノンの「ラブ」も、<ラブ>をいろいろなものにたとえているけれど、これもいろんな単語で<愛>の連想が浮かんでくる。どんなイメージなのかちょっと思い浮かべてみよう。<空>のイメージは、ものすごく広く大きく包み込むというイメージだろうか。どんどんふくらんで限りなく大きくなっても、まだ大きくなることをやめそうにない、そんなイメージだ。<海>は広さよりも深さのイメージだろうか。そしてそれはとても静かで穏やかなイメージも感じさせる。深く穏やかに、それに海は生命をはぐくむ、生命の素みたいなイメージもある。そんなやさしいイメージが<海>だろうか。<鳥>のイメージは、空を自由に羽ばたくイメージだろうか。自由のイメージはいいね。逃げ出されたら困るけれど、そういう不安のイメージもあるかな。捕まえられないかもしれないという。<花>はやっぱり美しさのイメージだろうか。ちょっとはかなさもあるかもしれない。いつか散るかもしれないからね。散らない花があればいいのにと思う。<星>は夜空に輝く光のイメージだ。<風>は、突然訪れて、僕の心をさらっていくような、そんなイメージだろうか。追いかけて行くには、ちょっと実体がないので、とまどう感じもある。<僕>と<君>は、イメージを思い浮かべる必要のない直接的な言葉で、最後はやっぱりこの言葉に落ち着くんだろう。最後にちょっとだけ引用しよう。 君の笑顔が僕は好きだよ 僕はとっても愛しているよ 君のその手にそっとふれたい 僕は君だけ愛しているよ僕は、「暗い」人間であるはずなのに、なぜか笑顔が好きだ。笑顔のすてきな人はいいね。それでこの部分が心に残った。「君だけ」という言葉もいいね。ジョンの「ラブ」のように、いろいろなイメージが浮かんできていい気持ちになる歌だね。
2003.02.12
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小椋佳の歌は、タイトルだけでもいろいろな連想が浮かんでくる。この歌は、残念ながら<うたまっぷ>では検索出来ない。そこで、タイトルと一部の歌詞から連想をふくらませてもらおう。僕が、この歌で気に入っているフレーズは、 恋はするもの されるもの いえいえ 恋は、してしまうものというところだ。恋だけは、感情をコントロール出来ると思っている僕のような人間でさえも、やっぱり「してしまうもの」なんだなと思ってしまうところがある。「するもの」であれば自分に主体性があるから、間違ったり悩んだり悪いことは起こらないだろう。「されるもの」なら、相手まかせにして自分は気楽にしていることも出来る。でも、「してしまうもの」だと、想像力だけがふくらんできて、妄想と錯覚の中でもがくようにもなるものだ。僕の初恋は、古いフランス映画「シベールの日曜日」の中のひとりぼっちの少女<シベール>だった。未だに恋し続けているようなものだから、「してしまうもの」だという実感がわいてくるな。本当の生身の生きている少女に恋をしたのは中学校を卒業するあたりだっただろうか。病院の待合室にいた女の子に「恋してしまった」。名前も知らない女の子だったから、気分はシベールに恋したときと同じで、現実のその子に恋したんじゃなくて、きっと僕の空想の中に浮かんだその子に恋をしたんだろうと思うけれど、なぜ恋したのかは分からないのに、突然そんな気持ちが浮かんできた。もちろん、一言も話をすることなく、そのまま卒業してしまったけれど。その後は、しばらく数学に恋をしていたので女の子に恋をする暇はなかった。高校を卒業したときは、これでやっと数学だけに気持ちを捧げられると思って、寝ているときとご飯を食べているとき以外はずっと数学のことだけ考えているというような生活をしていた。それが、またある日突然恋に落ちる。恋に落ちる共通点はいくつかあるけれど、最初から失恋することを予定しているような恋をする傾向があった。勝手に恋をして勝手に失恋するような感じかな。僕がもし女だったら、中島みゆきが描くような心情がよく分かる女になっただろうな。「恋、してしまうもの」という感覚がよく分かるので、この歌はタイトルだけでも引き込まれてしまう歌だ。今はさすがに若い頃のような恋の落ち方はしなくなったけれど、すてきだなと思う心が浮かんでくるのを、ひとつの恋心だと思うようになると生活が楽しくなるというのを発見した。周りにすてきなものがひとつでもたくさんあると嬉しくなってくる。暗い心を照らす一条の光というのはそんなものかもしれない。すてきな歌に恋をし、すてきな詩に恋をし、すてきな映画に恋をする。数学に対する恋はだいぶ冷めてきてしまったけれど、学問や真理に対してはまだ恋を抱くことが出来そうかな。すてきな人に恋をするのは、ちょっとした危うさがあるけれど、何とかバランスをとって、その気持ちだけは持っていたら楽しいだろうな。恋は、してしまうものだと、その感覚が分かる人はこの歌をぜひ聞いて欲しいものだと思う。心の中の一番深いところに直接触れてくる存在が、恋心を起こしてしまう。だから自分ではコントロール出来ないんだ。
2003.02.11
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最近の日記で「暗い」という言葉がたくさん出てきて、気になった人もいるかもしれないけれど、これはちょっと皮肉を込めて連発したところもある。世間ではどうも暗いというのをマイナスイメージでとらえているようなところがあるから、そんなことはないという想いを伝えたいのと、自分は暗いんじゃないかと思って気持ちが沈んでいる人がいたらエールを送って応援したい気持ちがあったのでちょっとこだわって何度も書いてしまった。明るい人は、愛されて応援されるのは簡単だから、わざわざ僕が元気づける必要もないからね。僕は、どっちかというと誰も応援しないような人を応援したくなっちゃんだ。この歌も、明るいか暗いかをイメージすれば、暗い方に近くなりそうだな。心がうきうきするような歌じゃないからね。でも、かなり古い歌だと思うけれどこれはよく覚えている。<うたまっぷ>で歌詞も検索出来るから、きっと印象に残っている人も多いだろう。海の底というのは、非現実・非日常の世界というイメージが浮かんでくる。どこの誰かも知らないうちに想いだけが募ってくるんだから、どこかに一目惚れしちゃったんだろうと思うけれど、やさしい瞳が特に印象を残したんだ。言葉がなくても、瞳は何かを伝えてくれるのかもしれないね。「私たちの行方は誰も知らない」という歌詞は、ちょっと悲しい雰囲気も持っている。あまり祝福されない恋なのかなとも感じたりする。そこが、明るさよりも暗さを少し感じるところかな。穏やかなメロディーが、この悲しさを微妙に感じさせてくれる。人魚のような人という言葉もあるけれど、これはどんなイメージだろう。人魚といえば、アンデルセンの「人魚姫」も、小川未明の「赤いローソクと人魚」も、ともに悲しい物語だ。優しい心を持ちながらも、最後ははかなく消えてしまう。やがて消えてしまうかもしれない、悲しみの人というイメージだろうか。それとも、単純に可愛い人と受け取ればいいのかな。最後の歌詞だけ引用しよう。 私達が逢ったのは静かな海の底 緩やかに燃えてゆく私達の愛 (作詞 尾崎 きよみ)激しく燃える愛は、やがて燃え尽きて消えてしまいそうな感じがするけれど、「緩やか」な愛ならいつまでも燃え続けることが出来そうだ。緩やかではあるけれど、海の底で燃えるんだから、水の中でも消えたりはしないけっこう力強い愛なんだなと思う。今度の日曜日(16日)の午後に、上野界隈へ来られそうな人は、フォークソングが好きな人なら、ちょっとフォークソング談義でもしていきませんか。そんな気持ちになった人がいたら、メール機能でも使ってご一報ください。
2003.02.10
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今日は、歌ではなくて、自分の内面へと関心が向く人間が、外の世界である社会をどう認識するかといういうことで、かなり政治的な内容の日記を書きたくなった。完全に内向的で独りの世界に浸っていた数学少年だった頃、社会は僕にとって無縁の世界で存在しないと言ってもいいくらいだった。一人ではないと感じられたのは、三浦つとむや本多勝一に出会ってからだけれど、そんな人間が今の社会についてどう感じているか、イラクの問題を中心に書いておきたい。果たして一人ではないと思い込んでいるように、誰か共感してくれる人がいるものであるか。イラクの問題に関してはマスコミはほとんど信用出来ない。情報が、間違った判断をせざるを得ないように偏っている。まともなことを書いているのは、ほとんど週刊金曜日だけだと思える。週刊金曜日も偏っていないわけではない。でも、これは正しい判断が出来る偏りであって、そういう信頼出来る偏り方をする情報源を求めるべきだと思う。週刊金曜日が信頼の置ける情報をくれると思うのは、自分が感じているのと同じことを書いているからだ。少し引用しよう。「もしかしたらイラクに何らかの兵器はあるかもしれない。でもそれが見つかったときに攻撃するんじゃなくて、ABC(核・生物・化学)兵器のそれぞれの禁止条約にイラクを入らせ、条約に従って公正な形で査察体制を作るのが必要なんです。」 (「週刊金曜日」2月7日号、22ページ、高橋真樹)全くまともな意見で、僕もずっとそう思っている。隠しているという疑いだけで、なぜ戦争を起こしてイラクの国民を殺すことが出来るのか。たとえ証拠が出てきても、法によって裁くのが民主主義ではないのか。これは、ほとんど何の情報もなくても、正しく判断出来る人間だったら誰でもこう考えることに違いないと思っている。それなのに、マスコミにはこの種の批判が全く出てこない。この記事でこの発言をしているのは、メールマガジンの「週刊イラQ」を発行している川崎哲さんという人で、この発言が信用出来ると思ったので、僕はさっそくこのメールマガジンで、正しい情報をつかもうと思った。 http://www.egroups.co.jp/group/iraque/ にアクセスするとこのメールマガジンのことが分かる。三浦つとむさんは、どんなに限られた情報であっても、大きな観点からその事実を見直してみると本当のことが見えてくると言っていた。イラクが何か兵器を隠しているとしても、それがすぐに戦争に結びつくという発想が本当に正しいのか、その1点だけでも僕はアメリカやマスコミがいっていることが信じられない。三浦さんと並んで尊敬している板倉さんは、物事の判断に原則的なことをおいて見ることを教えてくれた。かつてのいわゆる「湾岸戦争」の時に、板倉さんは、「殺してはならない」という原則を持って見ることを教えてくれた。どんな理由があろうとも、それを大義名分にして「殺そうとする」側の主張は、原則にはずれていると思ってそこにある矛盾を見なければならない。「殺さなくても」解決の方法があるはずだ。「殺す側」の論理にだまされてはいけない。もう一つ、僕が思っていることと同じことを書いてくれた記事を引用して今日の日記の締めくくりにしよう。「ことはイラク一国の運命だけではない。世界全体の運命が剣が峰にあって、ひとつの超大国の政権の恣意に委ねられている。このような危ういことは、近現代の世界史ではなかったことだし、またあってはならないことだ。」 (「週刊金曜日」2月7日号、23ページ、梶村太一郎)
2003.02.09
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タイトルからして思いっきり暗そうな歌だけれど、<うたまっぷ>で森田童子を検索して、僕が持っている歌を探したら、これと「僕たちの失敗」と「ラスト・ワルツ」という歌があった。その中で一番暗そうな歌を今日は選んだ。「暗さ」ということを考えてみようかと思ったからだ。人間が暗いというイメージは普通はどんなイメージだろう。いつも悲観的な見方をするとか、悪いことや醜いことばかり考えているというイメージだろうか。僕は、明るいというイメージがあって、その反対を暗さと考えているようなところがある。僕の明るさのイメージは、心が外に向いているという感じだろうか。いわゆる外向的な人間といったらいいのかな。いつでも周りに気を配り、人を楽しませ、笑いを振りまいていく。僕の妹はそういう感じだった。その反対だから、暗さというのは、内向的で関心の大部分が自分の内側へ向いている人間というイメージがある。このイメージからいうと、数学少年だった頃の僕は思いっきり暗い人間だった。僕の関心のほとんどは、自分の内面世界である数学だけで、生きている人間社会に対しては全然関心を抱かなかった。数学に恋をしていたようなものだった。女の子に対する憧れも、古いフランス映画のシベールという女の子に、この世には存在していない、僕だけのイメージの世界の女の子にずっと長い間憧れていた。生身の本当に生きている女の子に恋をするまでは、ずっと独りだけの世界で少しも寂しいと思わないくらい、内面だけを向いて生きていた、本当に暗い人間だったな。でも、自分の内面に目を向けない人間はいないわけだから、程度の差はあっても、僕の定義からすると人間は誰でも暗いとも言える。その暗さを好きかどうかに違いはあるけれど。僕はその暗さの方が好きな人間なんだなと思う。外に目を向ける人間の方がいろいろとたくさんのことを知っていると思う。でも、外側というのは、やっぱり深く知るのは難しい。中まで深く切り込むことが出来ないんじゃないかと思う。深さを持っているのは、やっぱり内向的な人間で、僕は深ければ深いほど好きな人間なのかと思う。知っていること自体は少なくても、どこまでも深く知りたいと思う人間だ。暗い歌を聞きたくなるのも、自分の内面をどこまでも深く見つめていたいと思うときかもしれない。この歌も、「たとえば僕が死んだら」それを忘れてくれといいながら、泣いてくれといったり、名前を呼んでくれといったりしている。この矛盾した気持ちが、自分の中にもあるのを感じる。忘れて欲しいけれど、忘れて欲しくないという感じだろうか。「ノルウェイの森」の直子がいったように、「私を忘れないで」という思いは、暗い人間には必ずある想いのように感じる。そして、そういう人間は、いつまでも忘れないでいてくれる人間を探しているんだと思う。見つからないときは、仕方がないから独りで内面に入り込む。この歌で印象的なのは次のところだ。 たとえば マッチをすっては 悲しみをもやす この ぼくの 涙もろい 想いは 何だろう暗い人間は、この想いを抱き続けて生きているんだけれど、最近何となく「何だろう」の答えが見えてきたような気もする。この「何だろう」は、自分一人だけの想いではなく、多くの人の想いが感じられて自分にかぶさってきて、独りなのに一人ではないと感じられてくる、そういう想いのように感じられてきた。灰谷健次郎の世界は、ずっと前からこのことを教えてくれていたはずなのに、最近ようやくこんな感じに気がついた。独りなのに一人ではないという想いが、暗い人間を照らす一条の光のような感じがしてきた。そしてこの光は、不思議なことに、どんなに外向的な明るい人間もかなわないくらいの輝きを持っていると、なぜかそんな絶大な自信までも生まれてきてしまった。この光さえ見えてくれば、暗い人間は無理をして明るくなる必要はないんだなと思ってきた。
2003.02.08
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僕は、70年代の拓郎はよく聞いていたけれど、80年代は、テレビも見ないラジオも聞かない生活をしていたので、ある意味では惰性でレコードを聞き続けていた。だから70年代ほどの印象の強さはなかったんだけれど、最近この時代を再発見するような感じがする。この歌は拓郎の作詞なんだけれど、拓郎のラブソングはやっぱりいいなというのが最近の気分だ。拓郎の声もすてきだ。暮れのNHKのライブを見てからますますそう思った。この歌は、<情熱>というアルバムに収められていて、残念ながら<うたまっぷ>では見つからない。そこで、この歌を知らないであろう大部分の人に、何とかイメージが伝わるようにつづりたいものだ。歌い出しの歌詞は、恋に落ちた自分が、その感情にただ流されているだけで気持ちがいいという感じを伝えてくれる。過去を思い出すことなく、ただ現在に身をゆだねていればいい。自分が自分自身でいればいいという感情が気持ちいいのが、恋をしているときなのかという感じがして、そのあとの次のセリフが、今日引用したいフレーズだ。 このまま世界の終わりが来てもかまわない 君と一緒に死んでいけるなら すべてを許そう実際に死んでしまうのは悲しいけれど、相手を失う悲しみを味わうくらいなら、一緒に死んでいける方がいいかもしれない。世界の終わりが来るくらい怖いことがあっても、恋する相手といれば、それも立ち向かっていけるのかなという気分だ。このあとの歌詞も全部好きなんだけれど、引用は最小限にとどめておきたいから、雰囲気だけ伝えよう。2番では、恋する相手が自分の気持ちを落ち着けてくれることの幸せを語っている。相手の存在さえあれば、明日に何があろうとあまり動じない。相手の存在こそが一番大事なものだから、その存在を守るために自分のすべてをかけたいと思う。そんな気持ちが伝わってくる。3番では、締めくくりにふさわしい歌詞になっている。この締めくくりはちょっと引用させてもらおう。 君がいれば もう何もいらない この世で ただ一人の 心を許す人使っている言葉は、ありふれた誰でも言いたくなるような言葉だけれど、こうやって並べて言ってみると、なんとすてきな言葉になるんだろうと思う。やっぱり僕は拓郎の世代のファンなんだなと思う。拓郎の歌には、ほとんど暗さを感じない。歌詞が切なくても全然暗さを感じない。僕は女性の暗い面には惹かれるけれど、男には、拓郎のような素朴さと常に未来を向いている明るさを感じるのが好きなのかもしれないな。長渕剛が歌う切ない歌も、女の立場からの切なさを伝えるから好きなような気がするな。暗い人が好きというよりも、その人の暗い面の方に魅力を感じると言った方が正確な表現なのかもしれない。
2003.02.07
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僕は、昨日自分が本当は暗い人の方が好きだというのに気がついて、とても気分が楽になった。暗い歌を聞きたくなるのは、深層心理で暗さを願っているマゾヒストのところがあるんじゃないかと思っていたけれど、暗さを持っている人に惹かれるから暗い歌を聞きたくなってしまうんだな。その暗い歌の代表みたいな山崎ハコを今日は選んでみた。山崎ハコは、ファンだったらかなりマニアックな歌でも知っているけれど、ファンじゃないと全く知らないというかなり好みが別れる歌手だろうな。暗さを好きだという人じゃないとファンになれないかもしれない。この歌詞を改めて読んでみると、その暗さは悲しみの深さなんだなということが分かる。<うたまっぷ>にはないので、知らない人には申し訳ないけれど、「何度目かの」ということは、実はいつも「グッバイ」を言うような人生を繰り返しているというイメージなんだ。一言だけ引用しよう。「グッバイ」を言うのは、 最初は君に わが家に 母に ふるさとに「グッバイ」を言う。想いだけはとても強いものがあるのに、それが届かず、報われず、「捨てるものは何一つない」のに、「グッバイ」を言う。それは、きっといつまでも覚えていることになるだろう。「ノルウェイの森」で、直子が「いつまでも私を覚えていて」というセリフを言うけれど、山崎ハコは、いつまでも覚えている女だという印象を与えてくれる。「何度目かの」という言葉が、こんなことの繰り返しが、彼女の人生だという思いを与えて、寂しさや悲しさをいっそう引き立てる。最後の締めくくりの歌詞が、また悲しさの余韻を残してくれる。引用しておこう。 終わることのない別れなら いつもさりげなく グッバイ 何度目かのグッバイ別れに慣れてしまって、さりげなくそれが出来てしまうことが悲しさを深く伝えてくれるみたいだ。僕の好きな映画に「グッバイガール」というのがあるけれど、これも、最後にいつも「グッバイ」を言われてしまう女が主人公だった。でも、この映画は最後にグッバイを言わない男を登場させて、最高のハッピーエンドで締めくくっていた楽しい映画だった。最後に「グッバイ」を言わない男になること、「グッバイガール」に「グッバイ」を言わない男になることが、若い頃の僕の夢だったな。リチャード・ドレイファスが最高のあこがれだった。
2003.02.06
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今日の気分はこの歌だ。これは、ちょっと悲しい失恋の歌だから、僕もそんな気分なのかと思われてしまうかもしれないけれど、そうじゃなくて、歌詞のひとつのフレーズから生まれてくる連想と、もしかしたら独特かもしれない僕の解釈を誰かに聞いてもらいたくて、この歌を選んでみた。別に失恋の痛みを感じての気分じゃないんだ。これは<うたまっぷ>に歌詞があるというのも選んだひとつの理由かな。この歌は、冒頭で、「本当は明るい人が好きなのね」と歌っているけれど、よく考えてみたら僕は逆だということに気がついた。僕は「本当は暗い人が好き」なんだ。明るいだけの人は真理が見えない。僕は真理が好きなので、それが見える、それを教えてくれる暗い人が好きなんだ。本多勝一は、底辺から社会を見なければ、社会の真理は見えないと言った。陰を知らない人間は嘘を本当と思い込む。暗い人は、自分がつらい思いをしていることはもちろんだけれど、それ以上にこの世の真実が見えてしまうから本質が暗くなる。まだまだ人間は未熟で、暗いのが本当なんだと思う。冒頭のセリフに同意出来なくて印象的だったこの歌で、さらにぐっと胸に迫る歌詞が次のところかな。 夏が過ぎる頃 私はひとりね そんな時 あなたもさみしければいいのに 別れの予感を吹き消す様に 街角でかまわない 抱きしめてほしい相手が寂しいときに、自分も寂しければきっと真理が見える。そして、その真理の中ではきっと相手しか見えないだろうな。だから、人が大勢いる街角でも抱きしめることが出来そうだ。相手以外のすべてのものはもう見えなくなってしまっているだろうからね。これくらいの十分な暗さを持っていたら、僕はとても愛しく感じてしまうだろうな。暗い人間は愛されないんだと思っている人が多いかもしれないけれど、暗い人間は、愛されたときは誰よりも深く愛されるものなんだと思う。表面的に誰からも愛されることは出来ないけれど、ただ一人、その真理を見てくれるものからは誰よりも深く愛される。明るいだけの人間は、誰からも愛されるけれど、本当に深く愛されることは難しい。誰かがその暗さを見てくれないと。こんな歌を歌ってくれる人には、僕は Follow Me と言いたくなるだろうな。だから、この歌は僕にとっては悲しい失恋の歌じゃなくて、愛しい人の真理が伝わってくるような、そんな気分になってくる歌だ。16日のオフ会は、いつもの感じで行くと、午後1時くらいから5時か6時くらいまで延々とフォークソングで過ごすというパターンが多い。だから、時間があって、その時間帯に上野のあたりに出ているという人がいたら、ちょっとのぞいてみてくれるだけでもいいかもしれない。楽しい時間を過ごせればいいと思う。明るいだけのオフ会を期待されるとがっかりさせるかもしれないけれどね。
2003.02.05
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この歌は好きな歌なので、もう日記には登場していると思ったけれど、まだ書いていなかった。いつかは書きたい曲だと思ったから、それが今日になったという感じかな。とても有名な曲だから知っている人が多いと思うし、<うたまっぷ>にも歌詞が入っている。歌い出しは、君の心へ続く長い道のことが語られる。この「長い」というイメージは、僕には実感としてよく分かるな。僕も本当に長い道を少しずつ歩くのが得意だったからね。直情的にいっぺんに燃え上がっちゃうタイプじゃないから。その長い道で、途中で選択肢を間違えたり、道が見えなくなって引き返したことが何度あったことか。それでも、迎えに行くような「君」に巡り会えれば、自分の夢が叶わなくても違う形の幸せを手にすることが出来るだろうな。今日の引用箇所は次のところだ。 自分の大きな夢を おうことが 今までの僕の 仕事だったけど 君を幸せにする それこそが これからの 僕の生きるしるし僕の夢は数学者になることだった。あこがれはフランスの天才数学者エバリスト・ガロアだった。ガロアは、二十歳で決闘で死ぬんだけれど、その死を予感して友人に手紙を書き、その手紙に後にガロア理論と呼ばれる新しい数学を書き残していった。ガロアは、全く人に教えられることなく、一人で自分の数学を作り上げたというのもガロアに憧れたひとつの理由だった。入学試験の面接で、ある数学の証明問題を聞かれたときに、「明らかなことです」と一言ですませるような傲慢ささえ憧れたものだった。後に、大学で研究者として残ることと数学者になることは必ずしも同じことではないという苦い挫折を味わったときも、夢のかけらくらいは持っていた。ガロアも研究者という肩書きを持っていなかったけれど、ガロアこそが本物の数学者だと思っていたからね。でもその時に、幸せにしたいと思う「君」がいたら、僕の苦い挫折も違っていたかもしれないな。未だに現実離れした夢をいくつか持っているから、「大きな夢」を追い続けるのはやめていないかもしれないけれど、それは夢と引き替えにしたくなるような「君」に出会っていないからなんだろうか。でも、本当は引き替えにしてもいいくらいの「君」がいるから、夢に一歩近づいていくことが出来るんじゃないかとも思える。そういう「君」に出会ったら、きっと夢をなくすんじゃなくて、夢の方で現実に近づいてきてくれるんだろうな。この歌は、最後に二人がただの女と男になるという言葉で締めくくられている。ここの解釈は、僕はこんなふうに考えた。ただの女と男というのは、二人が何かの価値を持っていて、そこに引かれて結びついたのではなく、そういった価値あるもの、美しさとか強さとか聡明さ、その他あらゆるいいところを取り去ってもなお残る女と男という、二人の核心みたいなものを見せ合っても、なおこの歌で歌われている気持ちが失われていかない、そういう女と男になったと言っているように聞こえる。最初のきっかけは、相手の優れたところに目がいったんだろうけれど、やがては相手の存在そのもを愛しくなる気持ちが最後に込められているんじゃないかと感じた。そういう気持ちの良さを伝えてくれる歌だな。ところで、この前の日曜日に、ちょっと小さめのギターを手に入れたので、また久しぶりにカラオケオフ会でもやって、マニアックなフォークソングは、その小さなギターを持ち込んで、カラオケにない歌も楽しみたいなと思った。そこで、これまでの仲間に都合のつく日を打ち合わせたら、どうやら16日あたりが良さそうだということで、この日にちょっとフォークソングを楽しんで、そのあとちゃんこ鍋でもつつくオフ会を企画しようと思っている。東京の上野あたりが会場になるんだけれど、もし関心のある人がいれば、メール機能ででもお知らせください。はっきり決まったらお知らせを送ります。
2003.02.04
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朝の日記に「おやすみ」という歌はちょっとそぐわないかもしれないけれど、シンプルな歌詞とメロディーが、今日の気分に合いそうな感じがしたので、この歌を選んでみた。これは、松山千春のファーストアルバムに当たるんだと思うけれど<君のために作った歌>というアルバムに収められている。大ヒットした歌じゃないから<うたまっぷ>では探せない。でも、眠りに入る前にこの歌を「愛しい人」に聞いてもらったら、僕の気持ちが伝わって「愛しい人」もいい眠りに入れそうな感じがするな。シンプルな歌詞なので、全部をどこかで探せないというのが残念だ。「おやすみ」という呼びかけが何回か続いたあと、 そして明日も 僕のために 明るい笑顔を 見せてくださいという言葉で、まず最初の「おやすみ」を締めくくるんだけれど、「愛しい人」の笑顔さえあれば、それだけで幸せになれるという気持ちが、穏やかでとてもいい感じだ。メロディーもリズムもその穏やかさをいっそう引き立てているし。笑顔のチャーミングな人は、その笑顔を何度見ても飽きないからいいね。僕の好きな映画の「グッバイガール」のマーシャ・メイスンは、美人とは思わないんだけれど、本当に心の底からうれしいという気持ちが伝わってくるような笑顔だった。そんな笑顔を見せてくれたら、他の何もいらなくなってしまうだろうな。「おやすみ」の最後の締めくくりもすてきだね。こんな言葉で締めくくってくれたら、誰でもうっとりしそうだ。 おやすみ あなたに告げよう だってあなたは たった一人の かけがえのない 人だから「たった一人」という言葉がいつまでも耳に残りそうだ。かけがえのない人が何人もいたら困るけれど、運命はちょうどいい具合に配慮されているのか、自分にふさわしい人というのは、やっぱり一人しか見つからないものなんだよね。村上春樹の物語では、そのたった一人を失う悲しみが語られているけれど、でも、それでも出会ったことの幸せを感謝したくなるかもしれない。地球に生きているこれだけたくさんの人の中から、一人を探し当てるというのは、なかなか大変なことだからね。人生のどこで、そのたった一人に出会うかは分からないものね。
2003.02.03
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今日は河島英五の歌を聞きながら日記を書いている。残念ながらこの歌も<うたまっぷ>では検索出来ないので、まずはタイトルから連想出来ることをつづっていこう。心から心へ何かが伝わったと思ったとき、人間はとても幸せになると思う。でも、僕は唯物論者だから、心から心へそのまま何かが伝わるとは考えない。テレパシーなんて超能力は、あったとしても誰もが出来るわけじゃないからね。心から心へ何かが伝わるためには、その媒介となる物質がなければならない。それは大部分は言葉だろうな。話し言葉なら音声という空気の振動で、書き言葉なら文字という形のあるものだ。言葉がなくても、仕草や態度・表情なんかで伝わる心もある。何か物をプレゼントすることで気持ちを表す人もいる。この心を伝える様々の媒介物が、心をなかなか正しく伝えてくれないから困るときもある。誤解していた方がうれしいときもあったりするからね。どういうときに正しく伝わるんだろうということを今日は考えてみた。僕の好きな灰谷健次郎の「兎の目」では、何もしゃべらない、表情の変化もない鉄三という少年と、教師になったばかりのお嬢さん先生の小谷先生との心の通じ合いが美しく描かれている。最後の作文の場面では、その心が本当に伝わったことに、小谷先生のうれしい心が、僕にも伝わってきて何度読んでも涙が流れてくるようなところがある。小谷先生は、どうして鉄三の心を受け取ることが出来たのか。それは、限りなく鉄三に関心を持ち続け、鉄三のあらゆるところ、小谷先生に見えるあらゆるところを理解しようと望んだからだと思う。それだけの強い関心を持つことが出来たからこそ、鉄三の小さな表現の中に、鉄三の心を感じることが出来たんだろうと思う。そして、何も表現しなかった鉄三も、理解されているということを知って、小谷先生だけには心を伝える表現をするようになった。それがあの作文の場面だと僕は思った。心から心へ何かを伝えるというのは、これくらい強い想いがなければ出来ないことなんだなと思う。この歌では、 山よ河よ雲よ空よ 風よ雨よ波よ星たちよ 大いなる大地よ 遙かなる海よ 時を越えるものたちよと呼びかけ、これら永遠に存在するものたちに囲まれて生きていくことが、変わらない心を支えてくれているようなイメージを浮かばせてくれる。そして、次の言葉が、心から心へ何かを伝える強い想いを持ち続けるための助けになりそうな言葉に感じた。それは、 たった一度きりの ささやかな人生をという言葉だ。たった一度きりだから、強い想いを持たなければならない。心から心へ想いを伝えなければ、その一度きりの人生でのすべての幸せも失われてしまう。もし伝えることが出来れば、ささやかな人生であっても、最大の幸せを感じることが出来る。心から心へ伝えるために、何に心を託すか。それが人生でのもっとも楽しい問題かな。
2003.02.02
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今日はアルバム<ローリング30>の中から、松本隆作詞のこの歌を選んだ。残念ながら<うたまっぷ>には入っていない。まあ古い歌だから仕方がないかな。でも、これも全編すてきな言葉にあふれているので、事情が許すのならば全文引用したいところだけれど我慢しよう。この歌の主人公も不幸な女だ。どうも「ノルウェイの森」で自覚して以来、僕は不幸な女というものに目がいってしまう自分を感じる。心の裏が読みとれると強がりを言う女の姿に、心の裏を読まなければ傷ついてしまうその人生の悲しみが伝わってくる。人間は、正直に見たままを信じることが出来ればきっと幸せなんだろうけれど、裏切られ続けた人は人の心の裏を読まずにはいられないんだろう。男なんて、みんな「抱きたい」だけで近づいてくるんだと、男を信じることの出来ないマリアに、「ノルウェイの森」に出てくるワタナベ君のような男だっているんだよと信じさせてやりたいものだ。ちょっと長いかもしれないけれど、最後のところだけ引用させてもらおう。 気持ちのきれいな人ほど汚れる 裏町のマリア素顔が泣いてる 化粧は落として 僕の手でお泣き 裏町のマリア 想っているより 人には優しい心があるさ 裏町のマリア 信じてごらんよ 今夜は朝まで 僕の手でお泣き唯乃葉羽さんのところで、受難者という言葉を考えて書き込みをしたけれど、心の優しい人ほど受難者になる。きれいすぎて、ちょっとした汚れが目立ってしまうこともある。人は、大部分の人は優しい心を持っていると、それが実感として分かるようになったのは仮説実験授業を具体的に知ってからだ。仮説実験授業では、それぞれの個性をそのままで認め合うことが出来る。そうすると人は本当に優しい心を持っていると実感出来る。仮説実験授業を提唱した板倉聖宣さんは、「衣食足りれば人の笑顔」という言葉を使っている。心に余裕が出来ると、人は優しくせずにはいられなくなる。それが信じられるようになれば、もう人の心の裏を読む力を使わずにすむ。そして傷つかずに、幸せになることが出来ると思うんだけれどな。
2003.02.01
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